分かたぬ衣と往く先は   作:白縫綾

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 身辺整理を開始している。
 虫の知らせ、死へ対する直感というのは自分が思っていた以上に優秀であったらしい。けれども、ひしひしと感じ、侵食するように心の内を占めていったからか、そこまで意外とは思っていなかった。
 細々とした日用品は質へ入れるように手配済みだし、他にすることもなかったので、自分が残していく人それぞれへ向けて、手紙をしたためておくことにした。

 上司、少しばかり仲の良い黒服の古参、院に残してきた弟や妹。癪ではあるが一応養い親であるあの男にも。
 そして、何にも替え難いと思っている、一際よく可愛がっていたと断言してもよい妹。安穏とした暮らしの大半を共にしてきた、とりわけ眩しく見える、男にとっての神様だ。

 数少ない家具もひとまとめにして、未だにどっしりと鎮座しているのは簡素な寝台のみ。机も出したままにしておけば善かっただろうかと今更のように後悔したけれど、直ぐに気を取り直して床に便箋を広げた。





 ……遺書めいたものというのは、果して何を記したらよいのだろう。

 文面について思考を巡らせながら、ごろりと転がって天井を見上げる形になる。夕暮れ色の真っ赤な色彩が窓から部屋中を染め上げていた。
 ことりと首を傾けると、眩しさが目を焼く。もう少しすれば、星明かり煌めく天蓋を見ることが出来るだろう──赤は焔の色にも、血の色にも似ていた。
 未だに残っている火傷の痕をそっと擦るが、けれども白木はその色が嫌いではない。何故なら火の色は、命を燃やす色だった。
 孤児院に於ける『教育』は、其処に居るならば程度の差はあれ誰しもが一度は通る道だ。それは規則から外れる恐怖を植え付け、団結するようになる。不思議なことに、白木の居た其処では他者を蹴落とすような出来事は発生しなかった。誰しもが発揮することは出来ない筈の、無垢な慈愛の精神を持つことがどれだけ尊いのか、その価値を、白木はこの横浜へ来てから初めて識った。


 目を閉じる。
 静かに己の最期を夢想する。
 銃弾に貫かれるのか、或いは刃物で斬られるのか。どのように自分が終る(死ぬ)のかを、それを予言した男は教えてはくれなかった。
 それ程までに惨いことであるのか、それとも単に云う必要性を感じなかったのか。けれど、いずれにしても看取ってくれる誰かが居ることを保証されているのは、それが況してや最愛の妹ならば、これ以上に(しあわ)せなことはない。……同時に、死に際に彼女を泣かせてしまうのだろうけれど。
 矛盾した心情でぐちゃぐちゃにかき混ぜられた内心を抑え、深く溜め息をつく。


 ──ああ、けれども、もうすぐ、やっと。
 自分は終われるのだ。





第三七話 Gone (後書き:黒の時代IF√)

 ──真っ暗闇に閉ざされている。

 

 殺人を生業とする少年は、自身が縛られ拘束されていることにあまり動揺を見せないまま、ただ自身の状況を把握するように努めていた。

 それでも状況が良くないことは明白だ。息遣いは籠って聞こえるし、視界は頗る悪い。なんなら手まで椅子にくくりつけられる形で拘束されている。けれども、服の隅々まで確認しないところに対応の甘さを感じられた。まぁ、人にばれるような仕込み具の仕舞い方はしないのだけれど。

 

 人の気配は感じられない。

 厚手の黒布を被せられ、隙間から微かに差し込む光もなく、窓の外の陽光も部屋の照明も感じられない。

 手足は鉄線を含んだ縒り紐で椅子に縛られているが、どうにか指は動かせる。どちらにせよ、ここまで対処されるのは、予め(・・)それを予期していたかのような(・・・・・・・・・・・・・・)周到さだ。

 

 恐らく、否間違いなく、嵌められたのだろう。

 このまま軍警に引き渡されれば、自分を嵌めた依頼主の筈の男は、己が処断したにも関わらず、誰からの報復も恐れずに上手くいったとほくそ笑む、そんな様子がありありと目に浮かぶ。ひょっとしたら、腕利きの職業暗殺者を捕らえた、そのことも含めて寧ろ称賛を受けるのかもしれない。

 

 …………それは少し、面白くなかった。

 頭は至って冷静だ。その頭で考えて、少年は自分が軽く見られているのだと断じ、被せられている布袋の下で目を眇めた。

 

 後ろ手に縛られている手首が擦れるのも構わず、曲げた指先に目当てのものが落ちてくるように身動ぎする。服の下に隠すようにしてある細い鎖は、けれども緩く巻いているからか、ごそごそと体を揺すれば、するりとその一部が指先にうまく引っ掛かった。

 取り落とさないよう注意しながら、掛けた指を力を込めて引っ張る。作り自体は脆い材質であるのか、既にみしみしと音を立て始めている。

 

 ただの保険だ。だけれども、伝わるものはある。

 

 生にも死にも大して頓着などしない少年ではあったが、不思議とその時、少なくとも此処では死ねないという気持ちに襲われて、ひっそりと首を傾げた。

 

(……翠の、)

 

 あの色合いを今見ることが出来ないのは、少し残念に感じた。

 

 

 ────ぱきん。

 

 

 同時に、少年から離れた拠点の一室にて寛いでいた男が弾かれたように顔を上げて、一人きりの室内をぐるりと見渡した。

 

 ゆるゆると顎を擦って、何処かで千切れ 、鳴らされた鎖の場所を探る。

 それが破壊されるか千切れるかすることはすなわち、元の持ち主たる死魔及び『告死』の男が感じている感覚的な繋がりが切れることでもある。誰か(子供)が助けを求めているのだ。

 

 ──捕捉(みつけた)

 

 ざっと脳内に地図を思い浮かべ、その場所に何があるのかを確認したところで漸く不可解な表情になり、それから眉を動かす。空気の揺らぎに小さくおや、と呟いた。

 

「珍しいこともあるものだね。お前が自ら出てきたことも含めて」

「────」

 

 男の異能が声無き声を発した。死神の如き姿形。

 人が内包するものとしては、あってはならないもの。その包帯塗れの体躯、頬の辺りに、そっと指を滑らせた。

 

 

「──?」

「うん、解っている。様子は見に行く心算だよ……まぁ、単に保険だとも思うけれどね。手練れのあの子が──作坊が、助けを求めるなんていう、そのことこそが信じられないだろう」

「────」

「けれど保護者としての務めは果すさ。早急に向かおうか…………はてさて、余程の大物が出てきたか、単に嵌められてしまったのか、どちらだろうね」

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 その頃の福沢は、横浜の中ではおそろしく腕の立つ用心棒として噂されていた。

 

 刀を持たせれば百名の悪漢を斬り伏せ、槍を持たせれば一個軍勢と渡り合う。居合、柔を修め武芸百般、休日には書物と囲碁盤を供とし教養も高く、仕事ぶりは冷静沈着。狼のような男だった。実際は密かに敬する人も居るし、引け目を感じる者だって居る。そんな普通の営みをするくせ、少しだけ目立った才能のある個人であるからか、あまり人と群れることを好まないのも相まって、誰にも心を許さないのが欠点などと云われたりもしている。微妙に正解を云い当てているので放置された噂を、大して気に留めることもなく、福沢は孤高の無頼人、まつろわぬ銀の狼として日々の務めである用心棒として誰かの傍らに佇んでいた。

 

 

 その日は何時もとは少し異なる動きをしていた。

 福沢にとって依頼人が暗殺されたというのは、傍に自分が居ない時で全く過失は無いのだといっても、それが単なる契約警護ではなく専属の警護官として常駐していたのなら避けられた悲劇であった。

 嘗てのことを彷彿とさせるので組織に属することをあまり好まない福沢だが、それでもそれは晴天の霹靂であり、自己嫌悪させるのには十分な事件だった。寧ろそれを思わせるのに人一人の命は重すぎたとさえ思っている。

 

 それなりに敏腕であったらしい、あの女社長の生きて動く姿を見ることは出来ないことに、その戒めが己の群れを厭う性を越えられるのか僅かな不安を抱えつつも、福沢は潮が引くように避けられる人波の中を態々掻き分ける労力を使わずに当該する建物へ辿り着いた。

 外から上階を見上げる。海に近いからか強風は微かに塩の味がするように思われた。港に程近い、赤茶けた煉瓦造の建物は古びたものであるが、堅牢そうでもありそんな風ごときでは小揺るぎもしないだろう。

 

 アスファルトの路面に隠しきれない血痕を見た。

 福沢は瞑目するようにして、その実こっそりとそれから視線を逸らした。感情を殺し落下現場を通り過ぎ、「株式会社S・K商事」と書かれた看板を確認した。数度の警護で見馴れた筈のそれを幾分か長くじいと見詰めて、確かに此処の会社である、と漸く認めなければならないことに溜め息を吐き出した。

 

 

 

 

 

「やあご足労頂いて済みません。少々お待ち下さい、すぐに済みますので」

 

 

 おおよそ殺人現場には似つかわしくないような風景の中で、殺された女社長の秘書を務めている男が書類の山と格闘していた。

 広い筈の社長室には所狭しと書面が並び、机にも床にもびっしりと、ほぼ隙間ない一面に広がっているのはいっそ異様に映る。

 

 

「──何をしている?」

「書類をね、整理しているんです。此処にある書類は私しか把握していませんから」

 

 

 かなり不親切な説明に、少し困惑の表情を表に出した福沢は、けれども所詮は部外者であり、その主君たる女社長が殺害したその日に書類業務を行うこの男が果して不敬なのか勤労なのかを判断しかねていたが、顔色が悪い以上そこには悔やみがあるのだろうし──……一面の書類という衝撃(インパクト)で忘れかけてはいたが、今は凶事の直後である。直ぐに頭を下げて、悔やみの詞を述べた。

 

 秘書は暗い顔をいっそう暗くさせて「職業的暗殺者です」と語った。

 

「全く会社には痛恨の極みです。個人的にも、社長は前職にあった私を引き抜いて下さりここまで育てて頂いた師であり主君のようなものでしたから。凶行の真相を暴き、正義を白日のもとにさらすことが何よりの餞と考えています」

 

 そして隣の部屋を示し、既に殺し屋が捕らえられていると説明され、そのことに福沢は驚いた。

 

「未だ隣室に居るのか?」

「諦めたらしく、大変大人しいですよ。眠っているのかと勘違いする程です」

 

 

 有り得ない、とまでは云わないが──実物を目にするまでは、福沢はその秘書が云うことが本当なのかと疑いかけた。そう思わせるくらいには、横浜の殺し屋というのは他の都市のそれとは危険度の桁が異なる。

 

 ──魔都、横浜。そう称される位には、犯罪者の楽園なのである。

 福沢の脳裏に、先日伺った家の家主とその義娘の少女が思い浮かんで、振り払うようにこっそり頭を振った。

 戦時中とは比較にならないほどの無法地帯。大戦終結により連合軍系列の各国軍閥が流入、治外法権を振りかざし、自治区を蚕食するように築き上げ、闇組織は群雄割拠し、海外非合法資本や犯罪者、殺人者の坩堝である。

 そういった中でも一際危険で、警戒すべき異能者の存在を福沢は危惧していた。

 

 ただの暗殺者ならいい。

 しかし、超常の力を当たり前のように振るう者どもであるのなら、捕らえたという程度で油断したら此方の首が獲られかねない。そしてそれを近くに置いたまま今まで作業を続けていたこの秘書の男すらも、危険に晒されていたということだ。

 市民よりその超常へ触れてきたことが多い職種に就いているからこそ、その危険性を重々承知していた。

 

 福沢は隣室に捕らえられている暗殺者を見ることの了解をとる。己の武芸の腕を無駄に駆使し、並べられた書類をそよともそよがせないままに扉の前へ降り立ち、書類整理を続ける男を尻目に扉を開けて、その中へするりと滑り込んだ。

 

 

 

 

 

 殺し屋は座っていた。

 想像していたよりも小柄であった。肩幅も小さい。後ろ手にされた両手足を椅子に縛り付けられており、頭には黒い厚手の布袋を被せられているため容貌を確認することは叶わない。

 思ったよりも厳重に確保が成されていて、福沢は虚を衝かれたように思った。確かにこの格好では、抵抗しようとも脱出はおろか自分の鼻を掻くことさえ出来ないだろう。手足を縛るのは鉄線を含んだ縒り紐であり、どんな怪力の猛者でも引きちぎることはない────況してやこのように小柄な暗殺者では。

 

 

 けれども、この少年は手練れである。少し観察しても、明らかな異能者たる外見的特徴は見られなかったが、殺し屋の商売道具は部屋の隅にあり、いわば丸腰。

 備え付けの万年筆で斬撃の真似事をすれば、派手な音と共に自ら椅子ごと跳び、倒れ転がった。

 殺気を読んでいた。無数の修羅場を潜った、並を越えた殺し屋である。 異能と陰謀蠢く大戦後の横浜で、一握りの人間しか雇うことが叶わない、凄腕の職業殺人者。

 だからこそ──疑問であった。

 見敵必殺の暗殺者が女社長を窓から素手で突き落とし、逃走中に警備員に取り押さえられる──……そんな拙い犯行ならば、この少年は社会で生き抜くことは出来なかっただろうに。

 

 難しい顔でその不自然さに考え込んだ福沢は、床に倒れ込んだ少年の躰の下で、きらりと細い鎖が光ったことに気づけなかった。

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 目当ての少年とは違う学生服の子供が窓際によるのを見て、そこから突入するのを窺っていた男は「運が善いじゃないか」と微笑んだ。

 強風が、向かいの建物に立っている男の処にまで声を運んでくる。自分が開けるまでもなく、内側か、開いたくれたのなら侵入も楽というものだ。

 

 

「……これは確かに、お祭りだなあ」

 

 書類だろう紙が、窓からの旋風によって鳥のようにばさばさと飛び立っていく。

 巻き上げられた一枚を無造作に掴んで、男──『告死』は、「株式会社S・K商事、ね」と呟いた。

 銀髪が窓から見える位置に覗いた。「おや」と云って、独り言を背後の異能生命体へと投げ掛けた。

 

「銀狼じゃないか」

「────!」

「作坊に不利な条件があったら逃げられないな……転落死なんてあの子の異能を活かせないような殺害方法を実行するとは思えないし、嵌められたかな」

 

 地面には血の跡が未だ残っている。

 報復だね、と男は口元を緩め、 「裏切り者への報復。出番はもう少し先かな」と云いながら 目元を隠すようにフードを深くかぶり直した。

 

 

 

 

 

 **

 

 

 

 

 

 報復の意思に従い秘書が銃弾に撃ち抜かれ、目の前で人を殺された福沢が頭の布袋を力任せに剥ぎ取った。

 若い。

 赤みがかった短髪。鳶色の瞳は空虚で無感情。

 赤髪の少年暗殺者を、情報だけなら福沢は識っている。二挺拳銃を使い、おそろしく無感情で、対象を冷酷にただ殺す。拳銃の腕前は超人級で、どんな体勢から撃っても絶対に外さない。

 まるで未来を見ているかのような神懸かった先読みの力を持つ悪夢のような存在。

 福沢は襟を掴み腕で相手の首を絞めた。意識ある状態で置いておくのは危険だと判断したのだ。

 

 福沢の失敗は、その殺し屋の持つ技量だけでない、交友関係まで把握していなかったことであろう。

 

 

 少年は感情のない目で福沢を見返していて、気を失う直前にふと唇を歪めた。それは笑みの形であり…………

 

 

「────っ!!」

 

 

 別の殺意が背中を這い上がり、福沢は一気に飛び退いた。隣の社長室の窓は何時の間にか再び開けられていて、その傍に転がっている気絶したもう一人の、面接に来たという少年の脈を慌てて確認した。

 生きている。

 ほっとしたのもつかの間、先程福沢が首を絞めた暗殺者の手足の紐を切り離している男の背に「何者だ」と詞を投げ掛けた。

 それで食っていける程には己の腕に自信のあった福沢は、その埒外の存在に問い掛けながら、そんな人間は片手で数える程しかいないことを理解していた。

 

 背中越しに振り返った男が、そこから見える口元だけで微笑んだ。

 

 

「銀狼、かな。君の仕事の邪魔をするのは今まで無かったからはじめまして、だね」

 

 

 存外柔らかな声、薄い存在感とそれを塗り潰すような凄惨な殺気。そのちぐはぐさがいっそ恐ろしい。

 何故、と呟いた。

 自らこの幼い暗殺者を回収しにやって来たのだろう。その男の背中を守るように、その異能生命体が福沢に大鎌の切っ先で牽制している。

 

 呟きに応えるように、気絶してくったりした小柄な体躯の様子を確認しながら、その男──『告死』は「この子は僕の庇護下に居る子供でね」と云った。

 

 ────『告死』の男。

 仕事の達成率は十割。強力な異能者。

 凡ゆる総てを殺し尽くす生命体を操り、夜にしばしば現れ、誰かの命を刈り取っていくその姿は正に死神の如し。

 

 そんな存在が、態々この小さな暗殺者一人の為だけに、白日のもとにその姿を晒していた。

 

 

「市警に引き渡すなんてことをされるのは困るんだよね」

「…………」

「君が見逃してくれたら、此方も見逃してあげようと思っているんだけど、どうかな」

 

 

 暗に何時でも殺せるのだからと、そう云っていた。

 

 男は長外套をとる。隠していた顔まで露にしたそれで少年暗殺者を包み抱き上げ、「どうするのかな」と首を傾げた。

 さらり、と雪のような髪が揺れる。

 

 福沢は奥歯を噛み締めた。

 ぎしり、と音が口の中に響いた。

 

 

 

 

 




※微原作改変でした。
織田作を市警になんて引き渡すわけないでしょ!!!ということでついでに乱歩少年も気絶して頂きました。社長は強制的に乱歩さんのお守りですね(にこ)因みにこの時点で未だ二人は自己紹介してません。告死さんは織田作引っさげて悠々と窓から脱出していきました。

なお、織田作を嵌めやがった真犯人秘書さんの出番は出来るだけ削ってます!!!!!(怒)
大分抜かした秘書さんの台詞諸々は原作の方をご覧くださいね。


※※評価感想お待ちしております~(´-`)






以下おまけ。↓




【IF 黒の時代、後:海の日なので(本編じゃないです)】



「暫く、お休みを頂きたいと思います」と入室してから直ぐにそう云った女のお辞儀する姿を、森は少しの間眺めていた。

「顔を上げなさい、朧君」
柔らかく云ってから再び書類に目を落とし、彼女がその顔を上げるのを待つ。それが見るに堪えないものであることは、彼女が一番承知していることである筈だ。

「……今朝、鏡は見てきたかい?」
「隠しようもないので、これで善いんです」

泣き腫らした目元は何度も擦ったのか赤く、唇は噛み締めたのだろう、薄く血が滲んでいた。女は薄っすらと──しかし引き攣ったかのような笑みで「善いんです」と繰り返したのはひどく痛々しく、けれども何処か美しかった。

「織田君は、君の────だったね」
「はい。……首領、どうか許していただけませんか」
眼は爛々と輝いて、黒混じりの翠が自分を見据えている。森は「もっと仄暗い目をするかと思っていたよ」と溜め息を吐いた。
まるで云うことを聞かない生徒を見る教師のようでもあったけれど、その中に優しさと冷酷さと、温かさ、憐憫が多分に含まれていることを理解していたから、朧はそれを黙って受け取った。
彼の、幼女を模した異能生命体が、この時ばかりは心配するようにして静かに女に寄り添った。



──私は。

朧はふっと目を伏せて、エリスの艶めいた髪をそっと撫ぜながら、小さく呟くように語る。

「私は──……仮令(たとえ)大切なひとを失ったとしても、それが『彼』でないのならば。彼さえ居てくれたのならば、生きているのであれば、どんなに過酷な環境であったとしても耐えれていたと思います。それで構わないと、そう思っていました」
まぁ、何故かこうして居る訳ですが。
「彼は逝ってしまった。彼は、私の人生において標ではなかったけれど、掲げる灯火ではありました」

前へと進めないことを、けれども停滞するのは、彼の否定するところとなるだろう。

訥々と語られる、独白めいた台詞に、それを聞いていた森が声をたてずに笑った。──……その眼は彼女ではなく、大人しく髪を弄られるままに任せているエリスに注がれてはいたけれど。それを非難出来よう筈がない。


何時の間にか手を止めて、片肘ついて穏やかに微笑む首領は、「君のそれは、本当に判りにくい偏愛だねえ」と云った。
──ああだが、けれども、きっとうつくしい愛だ。
囁くような詞に、朧はふるりと背を震わせた。
それを察し、何を云うでもなく認めてくれる人は他にも居るのだろうけれど、他でもない首領が、朧にとってその一人目であることが、ひどく感動的なことのように思われた。

「依存、とは仰らないんですね?」
「真逆。──そんな、生温いものじゃあないだろうに」

くつりと、喉を震わせた男を前に首肯して、朧は幼女のさらさらした金の髪を手慰みのように編み込んだ。金糸の、手触りの良い、完全品の人形。


「但し、遠くへ往く時は太宰君を連れていくといい」
「……承知致しました。御心遣い、感謝します」

「エリスちゃんのそれが終わったら退出しても構わないよ」という詞通りに、何時もよりは幾分か大人しい幼子と少しの間戯れる。
その後、頃合いかと立ち去ろうとした朧の後ろ姿を引き留めたのは、他でもない森だった。

「朧君」
「何でしょう」
「君は私を恨んでいるかい?」


「……真逆」と女は云って、振り返ることなく扉を閉めた。





そこから始まるかの人の弔いの話。海です。海に散骨する朧ちゃんが思い浮かんだので。
勢いで書いてしまいましたけど、依存以上の愛って何だ……?

このif√は原作と同様の運びであり、本作でいうところのBADENDに相当します。

⇒この後の流れ
・太宰のコート選びに朧が付き添う(砂色のあれ)
・安吾さん、平手打ちされるの巻(太宰は満面の笑みによる腹パン。愛はある……はず)
・あのコートなら、もう焼いてしまったから。
・海(横浜)にて散骨。曲りなりにも彼が生きた場所であったので。
・……いってきますと云ったのなら、只今を云うために帰ってきてほしかった。


※以下ちょっとだけネタバレあります。注意!!









「……君も来るかい?」
「私がポートマフィアを抜けると思っているの、太宰くん」
「織田作が云っていたよ。安吾だって。……君は陽の光が似合う人だと」
「…………」
「私は潜る。彼が云ったんだ。どちらも同じなら佳い人間になれと。その方が、幾分かは素敵だともね」

ふふ、と女は笑った。「作之助さんらしい」とだけ呟いて、涙は溢さず、もしかすると疾うに涸れ果たのかもしれない。空虚に響く声が耳に痛くて、正直なところ太宰は己の耳を押さえて彼女の声の悉くを遮断したかった。

「首領にも許可されたのだろう、遠くへ往く時は私を連れていけと。ならば私が遠くへ往くのに君が居るのは、何ら不思議じゃない筈だ」
「……。けれど私に彼は────」

『いってくる』その声が、耳の奥で木霊している。

「あの人は。作之助さんは、いってくると、そう云ったのよ。彼の生きた場所、彼の居た場所。彼が帰る筈だった場所が仮令どんなに闇の中にあっても、私だけが楽に成るために其処を棄てるなんて、出来る訳がないじゃない」
「……朧。彼はそんなこと望んじゃあいないよ」
「それはあの人が云うことであって貴方が口にすることじゃないわ」

彼がいってくると云って、いってらっしゃいと声を掛けた。
せめて待っていてもいいかと尋ねて、ついて来るな、と答えをはぐらかされた。
物云わぬ骨は──……只今など、云える筈もない。

「私は君のそういうところ、嫌いでは無かったよ」
「嘘ね。……何より、首領は私が出ていくことを想定し、許しこそすれ、本当に私が此処を抜けるなんて思ってはいないでしょう。このポートマフィアに収容される封印済の敵異能者がどれだけ居ると思っているの?」


太宰の微笑みがあまりにもその首領に似た、出来の悪い子を見るようで、それを云ったら多分怒るのだろうな、と朧は思った。
心にぽっかりと穴が空いていて、今まで様々なことになあなあ(・・・・)で折り合いをつけてきた女だったけれど、今回ばかりは、その穴を埋められるような何かを一つも思い付けないのだ。


……これはおそらく、初恋ではない。
けれども、最後の恋だった。
時間が経つ程にきっと思いは募るのだ。最初に忘れてしまうだろうあの甘い低音の声から失って、やがてその顔すら朧気になってしまっても、その喪われた存在にこそ朧は恋をしていた。
この先誰にも、この心を明け渡しはしないのだ。向ける気持ちの深いところを、総て彼が拐って去ってしまった。

非道い人だ、と思う。ポートマフィアは彼の死を礎にして、だけれどそうして利用されても、子供たちの仇討という本懐を遂げた男は満足したのだろうから。

「彼は私の楔になった癖に勝手に死んだ。彼が私を陽の下へ置きたかったとしても、彼が居ないのなら意味がない。楔を失った私がそれでも生きるのなら、それはこの裏社会で藻掻く子供たちのために他ならないわ」
「……君は、それで救われるのか」
「同じ事を、別の人にも云われたわ」

くすりと笑い声だけ洩らして、それが当たり前であるかのように「それが駄目ならもう冥府にしか道はないでしょうね」と嘯いた。


あの人への罰だと女は云う。そして、男を止められなかった、(しがらみ)に成りきれない己の起こした罪禍でもある、と。

「さしずめ、墓守とでもいったところかな」

左手の指に嵌めた指環をそっと撫でて、女は歪に微笑んだ。







※あくまでひとつの可能性として。






  
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