ぱちり、と目を開けると、消毒薬の匂いが鼻をついた。少年は少し身動ぎして、腹のあたりに温かな重みを感じ頭を起こす。
外は既に昏くなりはじめ、重さの正体である女はその頭を彼の身体に預けている。意識しなければ気づかない程微かに、女の好んで使っている香の匂いが漂っている。
肩に手を添えて揺すると、浅い眠りからふと目を覚まし、ぼうとした瞳は焦点を結ぶのに少々の時間を要した。
「ああ、起きたのね」
ぼんやりと宙を見ていた漸く後に、疼木はのったりと身体を起こして、「痛むところは無いかしら」と尋ねた。
「貴方、気絶したまま運ばれたでしょう。余程のへまをしたのね?」
「……依頼人にやりもしていない殺しの濡れ衣を着せられたから」
擦る手首には縄の痕が痣のように残っている。けれど怪我らしい怪我といえば精々そのくらいだ。
「鎖を使ったの?」
「うん」
「……あの男もたまには役に立つらしいことに腹が立つわ」
後で迎えに来るそうよ、と云った女は、ふと見つけた、少年の手首の痛々しい痣を指でそっとなぞる。
擽ったくて、どこか居たたまれないような気持ちになりながら、じりと織田作は身動ぎした。
「……
「…………この程度で済んで善かったわ」
貴方に何かあると、あの子はきっと悲しむでしょうから。
その詞を聞いて、少年は女の顔を窺った。あの子、と鸚鵡返しにする。
自分を大切にするような奇特な誰かが、『告死』の男以外に居ただろうか。
「未だ先の話だもの、云われても解らないでしょうね────ねぇ、私の依頼を聞いてくれないかしら」
「!」
唐突に話題が変わった。彼女がひっそりと心を向ける誰か、それは何れ少年も識ることになると彼女自身が確信しているのに、己の口からは語りたくないというささやかな我が儘を薄っすらと感じさせるから、少年がその先を問うのはどこか躊躇われた。
織田作が依頼という単語に反射的に背中を伸ばし、そんな様子に苦笑して「大したことじゃないのだけれど」と囁く疼木は、情婦の艶のあるものではない、何かを純粋に案じる女の顔を見せる。
──将来貴方に、手放したくない人が出来たのなら、どうかその人を置いていかないであげてほしいの。
戸惑うのは仕方ないことだった。
「……それは依頼というよりは、願い事だ」
それも彼女には何の利益もないような。
戸惑ってそう呟いた少年に、女はそうね、とあっさり頷いた。
疼木は、直接『告死』の男から話を聞いた訳ではないけれども、それでも雰囲気で察せられるものはある。
『
『告死』は少女に近づき、
特に『告死』の方に何か含むところがあることまで、女は承知しているけれど、きっと悪い様にはならないのだろう。少年少女は、彼らが大事に抱え込んでいる宝だ。
もちろん自分も大事に思っていることに変わりはないけれど、疼木は、己の妹と、自分に気づかない弟に、けれどもそれに声をあげるでもなく甘んじて受け入れた。
女は弱者だ。人を無条件で受け入れ守ってやることは、彼女が嘗てに託された、今は亡き情婦の娘だけである。何人も懐へ入れてやれる度量も才覚も、何もがない。
黙って前に出ただけでも気づかれない。
情婦として女を磨いた所為なのが表れているのだろうし、まして幼い頃にしか触れあわなかった妹であればなおさらそうだ。
だから、せめて。自分が既に忘れられているとしても────彼らが辿る途を、それがどのような結末であれ、自分が既に路傍の人の一人として見詰めることを……どうか、許してほしい。
戸惑いつつも、かといって拒否するような理由もなく頷いた少年に、女は顔を綻ばせる。
疼木は少年の名前を呼んだことはない。最後の一線を越えることがないような距離を保っている。そんな彼女が、心の裡の誰かを想って微笑んでいる。情婦であるとは思えない程の無垢な笑みは、幼気な子供のそれによく似ていた。
彼女の云う『あの子』が誰か察しがついている。少年の脳裏に浮かぶのは一人だけだったから。
織田作が朧という少女を特別と思うまでには、重ねた時間の回数が少なすぎる。
それでも、街中で溢れているような、道端で通り過ぎる他人を気にとめないようなありふれたものにしては何処かずれている。それは違和感として、少年の心を引っ掻いた。
人の心の機微に疎い彼が、結局その
**
小さな明かりとりの窓に、手元を見るための灯り。やや薄暗いが、それでも最低限の採光は成されている部屋が男の充てられた場所だ。
部屋の中は、武器で溢れている。
未使用の弾丸から始まり、様々な型の拳銃、ぎりぎり片手で持ち上がるくらいの
大小様々な武器。これを末端まで気軽に支給出来て、なおかつ予備まで準備出来るというのは、誰から見ても脅威だろう。
ポートマフィアが拡大する一因を担っているという自覚はあるし、そんな自分の所属について争うのなら無尽蔵にものを生み出せる男の居るところこそが有利になるに違いない。けれど、人も物も損耗してまで己を手に入れようとする今の抗争はなんとも不毛である。後者はともかく、前者は……人が骸となってまで乞われるなんていうことにまざまざと人間の業を感じた。
それが男自身の罪であることに、今更青臭く思い悩んだりはしないけれど、それでも、鈍くなった心に僅かに思うことはある。
──物の複製を可能にする異能持ち。
『
不要は排する
規定される社会に適応出来ない人、そうならざるを得ない環境で育ってきた子供。そんな者たちが多く居る。
こつこつこつと靴音が冷たい廊下に反響する。
武力を収めるという意味で厳重に隠された場所の其処は、ある一定の権限を持った者か、ポートマフィアに絶対の忠誠を誓う者しか潜ることの出来ない場所である。
最下級構成員など以ての外で、その程度に対処出来ない男ではなかったけれど、何処で情報が漏れるのかなんてわからないのだから、その厳重さに苦言を呈することはない。
扉の外の廊下は歩けば足音が響くような材質で、近づいてくる人の人数くらいは把握出来るようになっている。
足音の重さも歩く速度もばらばらに扉の前で立ち止まったらしい人へ、男は素っ気なく「入れ」と促した。
入ってきたのは三人。そちらをちらりと見遣って、僅かに眉を持ち上げた。造り出された武器を何時も持っていく運び屋の若者、広津、そして、男の嘗ての養い子。
白木は気まずそうにそっと視線を逸らして脇に寄る。思っていたよりも殊勝な態度に広津は意外そうな顔をしてから、遠慮なく部屋に入りひらひらと手を振った。
部下は単に付き添いであった。この養い親であった男に対して憎悪に近いものを抱えている白木は何時も、頑なとして接触を拒んでいるのだが、この日はどういう訳か着いてきたのである。
広津が強要したでもなく、そのくせどうにも不服そうな表情ではあるけれど。
「御前か、広津」
目付きの悪い眼光が、そのまま白木には目もくれずにいる。広津はこっそり肩を竦めて、手近な椅子に腰かけた。
「次が最後だろう。自由に出歩くのを多少でも制限されるのは痛いな」
「そうか」
妥当だろうよ、と男は温度を感じない声で淡々と答えた。
運び屋の、青年になりかけているだろうくらいの歳である少年が、荷車に大抵の物を積み、出入り口のあたりで一礼をした。
「あの子供は?」
「両親の時から運び屋として勤めていると聞いた。忠誠心においてなら疑いようはないだろうよ──そうすることでしか生きていくことが出来ない人間のそれだ。面識は無いのか? 御前とて長いだろう」
「生憎、関わりあいの薄い者を記憶に留めておくような優しさは無いものでな」
広津が壁際の白木に「珈琲を」と声を掛けると、色々と持て余していたのだろう青年は少しほっとしたような息を吐いて、小さく据えられている棚の方へと歩いていった。
話の内容の詳細を聞き取れないような距離にあることを何気無く確認して、広津は「何の意地を張り合っているのだ」とため息をついた。
「……何の話だ」
「御前と白木の話以外に何があると云うのかね? あれは妹をいっとう大事にしているだろう。御前を巡る抗争の手が朧に伸びることを危惧しているのに云い出せない、そんなところか」
「心配は不要だろう」
「何故そう云いきれる?」
「あれには『告死』の加護がある」
「──────、」
「云ってやれば善かろうに」と云っているのに「必要無かろう」とにべもなく返すものだから、この男は人の機微を慮ることがすっぽり抜けているのだったと内心で頭を抱えた。
その上に頑固である。朋輩、或いは友として広津はこの男を好ましく思ってはいるが、この性分だけはいただけない。その上、この男に一応は育てられた身である白木なぞ、所詮子供は大人を見て育つのだから、これまた独り善がりで頑固極まりない。正直、自分を間において会話されているようで広津は頭が痛かった。
しかも、広津も濃密な死のやり取りですっかり抜けていたけれど、彼らに較べれば癖のない少女……朧だってごく普通の見てくれで何時の間にか
空いている作業机にことりと珈琲のはいったカップが置かれ、男はぐいとそれを飲み干す──広津がちらりと白木の方を見ると、用意したものが直ぐ様なくなったことに微妙な表情であった──傍らで、砂糖のみを投入し一口飲んだ。
「ふむ。……及第点」
「こういうのは喫茶店で頼んで売り上げに貢献するものだと思ってるんすよ」
「それもそうだ」
ふ、と微かに笑い声を洩らす。
こんな休憩をする余裕だってあるのだから、ポートマフィアがどれだけ優位な立ち位置にあるのか自ずと理解出来てしまうというものだ。
この男──『
「此方に余力は未だ有るが、彼方の殆どは既に金も人も無かろうよ。──悪足掻きとでも云うべきか、弱味を握ろうと必死になっているようだがね」
「あれは大人しく捕まってやるほど大人しくはない」
「…………」
「白木、云いたいことがあるなら云ったらどうだね」
視線を向けられて、少々狼狽えたようになる青年は、それでもそれ以上の感情の起伏が起こることはなく、ゆるゆると首を振った。
──若し俺が死んだとして、ことの発端である養い親であった男がその責を取ってくれるのかといえば、当然のように否であるのだろうから。
白木は男を憎く思ってはいるが、けれども恨んではいない。曲りなりにも育てられた相手に対して思うところが無いとは云わないが、口汚く罵るようなことでもない。
死がひたひたと押し寄せるこの感触を目の前の壮年二人が感じていないのなら、詰まりは
何も口にして、心配されたいとも思っていない。胸に秘めたことは、一部を除き既に遺書のようなものへ
白木という男は、その朗らかさとは裏腹に、尋問──特に拷問じみたそれを得意としている。
孤児院という環境下ゆえか、何が効率的に痛みを与えられるのか、飴と鞭をちらつかせ、要領よく緩急をつける。口を割らせやすくする、そのために心身共に痛めつけて、情報を渡すことを救いと思わせる。
白木は、影響を受けやすい性質であった。
幼い頃からあった大人への憎悪は、それを思わせた院長にもあれど恨むことはなく、そのくせ守りたいものが遠くへあることで、引き出される筈のない他者へ残虐性を剥き出しにする。
なけなしになった良心が悲鳴をあげる。無視を決め込んで、ひどく矛盾した心は憎悪を肯定する。
「────それで? 運のツキって奴っすよね。寧ろ今までが幸せ過ぎたから、人を喰い物にして、その巡る因果に何の覚悟も懐かないから、何も識らない
「……待ってくれ!! 妻と娘、あの子たちだけは見逃してくれ、頼む、この通り──ぐぎ、あ゛あ゛あぁぁぁっ!」
「全く、本当に反吐が出る、俺も含めて。──ええ、でも、そうっすね。俺はこれでも優しい方なので、情報を吐いてくれたら、生きて家族に逢わせてあげる」
悪魔のような微笑みは、彼と多少の交流がある『告死』のそれに、よく似ていた。
「これが全てだ!知っていることは話しただろう、だからもう……!!」
「……煩いなぁ」
がつ、と骨と何かがぶつかる音。
人の呻き声、蹴り上げた足を下ろして、苦しそうに
「あれ、嘘だよ」あっけらかんと、そう口にしたことを、虜囚の男は数秒理解できなかったらしい。
詞を何回も反芻して、それからじわじわと絶望の色に染まっていく。白木はするりと銃口を突きつけて、躊躇いなく引き金を引いた。
もう数秒経っていたら、きっと呪いあれとの怨嗟の声が響いていたのだろう。
どさり、と人が一人倒れる音。
骸がひとつ転がった。
「酷い男だ」
「……あれ、広津さん何時から?」
「ほんの数分だが」
気まずそうに頭を掻いた青年は、直ぐに元の快活さを取り戻してしまうのだろう。
「俺はね、広津さん」
ちょっと取捨選択が上手いだけですよ。
そう云って、微笑んだ。
※
胸に秘めて、どこにも認めずに葬ろうとしているもの=家族愛が何時しか変化した、朧への恋情
※※
もう一つ連載『安吾さんの白い猫』を始めたので、そちらも是非どうぞ。
此方のよりも軽いスナック感覚の作品。
織田作には及びませんが、安吾さんへの愛が溢れたので……(目逸らし)