其れから、何の変化もない日が数日と、過ぎて往った。
安静を言い付けられて暫く、私の抱える痛みも峠を越え、無事に復帰出来そうであった。
復帰出来そう、というのは、単に一番上の弟が「未だ駄目だよ」と頑なだからだ。
「…………ふぁ」
だからこうして暇を潰している。不意に出てくる欠伸を噛み殺しながら本の
勿論、汚れが付かないようによく配慮している積りだ。
此処まで回復が速いのも
幸いなことに、殆どの痛みを取り去ってしまっていた。
心配そうにして必要以上に取り付いてくる子供たちも減ってきているのがその証左である。
今は日も昇りきって暖かい時間だから、外で遊んでいるのが殆どだ。
あとは室内で遊ぶ子供が
……此の光景に、今更ながらに思うことだが、私たちは十分恵まれているのだろう。
他の孤児院のことなどは知る由も無いが、高価である筈の本にこうして触れている時点で──そのおよそ半分が院長の【異能】によるものだとしても──そう考えなければならなかったのかもしれない。
或いは、今までそれに気付かずに「そういうものなのだ」と思っていた程私は無知であったのだ、と云う
抑も大戦が終止符を打たれたのもここ一、二年の最近のことで、敗戦国の民たる私たちが貧困に喘ぐのは必然だったのである。
各地に在る筈の孤児院へ物資や金銭を融通する機関も、果して正常に機能しているか怪しい状況で……それでも『私たちが生活する上で最低限の環境』が在ったのは偶然ではなかったのだろう。
妹が袖を引っ張るのに本から顔を上げれば、甘えた様子で、私とは別の本を持って広げて見せていた。
「朧姉ー」と、どこか舌足らずで、鼻にかかるような声で私を呼ぶ。
「どうかしたの?」と──何の用か判っていながら、私はそう尋ねた。
「此の字、判らないのー」
「うん、どれ……」
私も昔は此んな風にして文字を学んでいったな、と思い乍らそれを覗き込んだ。
ぴたりとくっついている身体の、触れ合っているところが温かかった。頭を撫でてあげながらその文字の読み方を教えてあげた。
「また判らなかったら聞くのよ?」
「はぁい」
そう返事をしてから、また本に向き直っているのを少しの間、眺めることにする。
この妹は、中でも特に熱心に文字を学びたがる。
皆
かくいう私もその口ではあったのだが……それを気にしない程豪胆では無かった、只それだけの話だ。
注意さえしていれば何も問題は無いものなのに。
勿論、私が幼い時にもこうして兄や姉に文字の読み書きを教えてもらっていた。
私が、私よりも下の弟妹たちにしてあげられるのは之くらいしか無いのである。
──先ず自分の名前を覚える。字が解らなくともそれが書けねば話に成らない。
覚えて
判らない……
文章をなぞりながら、そんな何でもないことを思う。
同時に、何時も通りの緩やかな時間が断ち切られたのも此の時であった。
「朧、居るか」
「…………院長? 何か有りましたか?」
白一色の装いの男が音も無く姿を現したのに妹が飛び上がって私の背に隠れた。
私が背中を気にしながら、間を空けて問えば、院長は或るものを其処から放ってきた。
細長い茶封筒。それが私の目の前に、紙特有の軽い音を立て乍ら落ちた。
「
「え…………兄さんが?」
それは、兄からのものであった。
よく見れば、宛名に書かれたやや癖のある字は私を示していた。
私は開いていた
封筒を、躊躇いつつも取り上げた。
『──ところが、偶然というものは続きだしたら切りのないもので、…………』
書巻には、そんな文章が書かれていた。
**
何時もの風景のように見えながら、その実この日は何時もと違っていた。
図書館と云うべきか、或いは孤児院と云うべきか……やや古びた建物の前の、開けた場所では幼い子供たちが遊んでいる。
そして、それを眺めることの出来る位置に備え付けてある
やや不揃いに切られた栗色の猫っ毛に黒みがかった
院によく見られる交織りの服を身に纏い、吹き付ける風に靡く髪を押さえ乍ら本を開いている。
少女は──朧は、人を待っていた。
一番歳が近くて、よく朧の面倒も見てくれた兄、白木から数日前に届いた手紙が発端であった。
生き生きとした表情で「行ってくる」と云い院を出て行ったのを、朧はよく覚えている。
上京してから生活を安定させる迄は帰って来ないと宣言し、院の子供たちの中で実質一番の年長者に成ってから、僅か一年も経っていない。
そんな兄からの手紙には、丁寧にも──やって来る日にちが指定されていた。
「それだけなら未だ善かったのに、どうしたら上司を
単純に仕事が上手くいっていて、一人きりで偶には帰って来ようとしていたと云うならば、此んな風に待つことなんてしなかっただろう。
問題は、変な方向に状況が進んでいる場合だ。
「若しかしたら上司が付いてくる可能性があるかもしれない」とは何なのか。
都市からやや離れた場所に在る此の場所でずっと暮らし、世事に疎く成っているような彼女にも理解出来る。
……まあ、あくまでも可能性である。
兄自身が冗談好きな性格なので、そんな可能性は無いことを期待している。
然し、若しもそれが本当ならば──何か、自分の理解の及ばぬ何かが起きているような、そんな感じにも思えるのだった。
それは、些細なことが切っ掛けで判明した、【異能】なるもののことについても同様であった。
寧ろ其処から変化が起き始めたと云っても過言では無いだろう。
朧とて、何もせずに居た訳ではないのだ。
院長に云われてから後に、自分の持つ『それ』について考えてみることはした。
然し『只、自分の中に在るらしい其れをどうすれば善いのか自然と判る』なんてことは無く、かといって『明確に【異能】と断ずるだけの超常たる何かが目の前に現れる』のでも無かった。
院長の云うには、『異能に干渉されるような違和感』が有ったらしい。
然し後に尋ねたところ、「違和感は在ったが特に変化が無い」と期待は一刀両断され、その力は変わらず判然としなかった。
自分で考えろ、と云われた手前、真逆「未だ判らないので手伝って欲しい」とも云い出せずに今に至っている。
自分のことなのだから、自分が一番判っているだろう──その筈なのだ。
胸の中に渦巻くような、何とも云えぬ
「…………異能、ねぇ」
栞代わりにした茶封筒を本に挟み込んで、朧は普段よりも心なしか忙しなく思える仕草で辺りを眺めた。
表情は余り変化が無いにせよ、親しい者が見れば「悩んでます」と云わんばかりの表情だった。
本も只、手に付ける様な、落ち着くための何かを必要とした時に手元に在ったから持ってきた、それだけの理由である。
残念なことに全く気を紛らしてはくれなかったのだが。
「解らないな……」
「姉さん…………何悩んでるの?」
彼女がそうして居れば、何か用事のあるらしい弟が何だか神妙な顔つきでやって来たことに気付いて、本を閉じた。
「いや、何もないよ。
「遠くから兄さんっぽい人が見えたのは善いンだけどさ……何か、知らない人が一緒に居るのが見える」
朧はうわぁ、と思わず声に出してそう云った。
実は可能性なんかじゃなくて、確定事項だったんじゃあなかろうか。
「あああ、
「はぁッ!?」
「そういうのは早くに云っておく可きだと思う」という苦言に朧は微かに苦笑して、謝った。
「だって、真逆此んな場所に来るなんて思わないじゃない? 白木兄さんなら冗談でそんなこと云いそうだもの」
「確かに」
弟に連れられてその様子が見える位置に赴けば、本当に二人、歩いてやって来るのが遠くから見えた。
目を眇めてよくよく観察すると、大荷物でありながら此方に手を振っているのが見えて、彼女は弟と顔を見合わせてから仕方なしに手を振り返したのだった。
石竜は蜥蜴の別読み。
サブタイトルで若干期待した方、すまない(´・ω・`)
記念すべき原作キャラの一人目である彼が出てくるのは次の話なんだ……
感想、評価等お待ちしてます。