降谷一華。それが、わたしに与えられた名前。
記号のようなあの名前も嫌いではなかったけれど、わたしは今の名が好きだった。
「帰ろうか。一華」
「……うん」
あとの処理は頼むよ、と風見に言い残し、兄さんはわたしの手を引いて歩く。
警察、機動隊、探偵に、野次馬……人で溢れたタワービルの周りを、無数のパトカーが囲んでいる。たった今、大規模な爆弾事件が収束したばかりだった。
さて、これが『ただの連続爆弾事件』でなく『日本の危機となりうる大規模な爆弾テロ』であったことを知る人間はごく一部。公安の人間と、江戸川少年含む数人の探偵。……ああ、かつて世紀の奇術師として名を馳せたとある怪盗も、真実を掴んでいたようだけれど。
「明日から、またしばらく帰れないだろうな」
「わたし、明日テストなんだけど」
「……そうだった。どうする? 疲れているなら、休むか?」
「んにゃ、行くよ。たぶん、寝るけどね」
「なら、朝はいつも通りだな」
ん、と一応の返事を返して、わたしはもう一度現場となったビルを振り返った。ほとんど全壊したビルから上がる黒煙が夜の闇に溶けていく。
「お気に入りのデパートだったんだけどな。ここ」
「来月、椚ヶ丘に新しい商業施設がオープンするらしい。俺の休みが取れたら、そこへ行こう」
***
全てが終わったと思った。
終焉を迎えたあの日、これでやっと死ねると歓喜したわたしは、なぜか、まだ、生きている。
「むぐ……わたしはこれを食べるために昨日も生き延びたわけだ。――うん、きっとそうだ!」
「そこまで美味そうに食べてくれると作り手としては甲斐があるけど……ほら、早く支度して。俺が遅刻する」
口いっぱいに放り込んだハムサンドを味わう暇さえ与えられず、わたしは慌てて残りのサンドイッチを鞄に詰め込んでリビングを出た。自室で制服に着替え、ベッドの上に放り出されていたスマホを手に取ると彼の待つ玄関へと走る。
「さて兄さん、いざ地獄へ!」
「笑い事じゃないよ」
「……ほんとにな」
事件の後処理というのは案外事件そのものより大変なのである。特に今回のようなFBIをも巻き込んだ大事件の場合、大変どころでは済まないだろう。あの苦労を思えばしばらく公安庁には近づきたくない。
とはいえ。こちらはこちらで地獄が待っている。テスト期間中(正確には1週間前から不穏な空気が流れ出すのだが)の教室は普段にもまして張り詰めた空気と異常な殺気に満ちているのだから。
「着いたぞ」
「ありがとー。そしておやすみー」
「寝るのは決定事項か。羨ましい」
もちろん、と。車を降りてにこやかに手を振りながら見送る。あれ、なんか最後本音が聞こえた。
***
重い瞼を開けば目の前で鮮やかな水色が揺れていた。
「あ、起きた?」
「……見れば分かるだろうおまえの目は節穴か」
「はは……相変わらずだね、一華さん」
というか、久し振り。そう言って苦笑する彼――潮田渚は、どこか浮かない顔をしていた。大方テストでミスでもしたのだろう。
校舎裏の中庭で惰眠を貪っていたわたしは、徐に上半身を起こして彼に向き直る。……何故こいつがここにいる?
「ここにいていいのか?」
確かE組生徒の本校舎立ち入りは禁止されていたはずだと問いかけるわたしに、渚は当然のように答えた。
「E組もテストと集会は本校舎で受けなくちゃいけないからね」
「……ああ。そういえばテストだったな、今日」
二時間目の英語までは覚えている。終始爆睡していて問題すら見ていないけれど。ただ、その先は流石のわたしも教室の空気に耐えられず早々に退散してきたのだ。それを察してか驚いた顔をする渚をよそに、これからの予定を遅めの昼食タイムに決めた。
「え、じゃあもしかして――って、何してるの?」
「お昼ゴハン。……寝すぎてお腹空いた」
「もう夕方だけどね」
枕代わりにしていた鞄から弁当代わりのタッパーを取り出すわたしを、半ば呆れたように見ている渚。彼はぱくりと齧りつくわたしとタッパーのサンドイッチを眺めて、美味しそうだねと笑った。
「……あげないぞ」
「取らないよ!?」
ジト目で睨みつけると面白いように焦ってくれるから、からかい甲斐がある。くすくすと笑いながらひとつを差し出して訂正した。
「冗談だ。特別にくれてやる。兄さんの料理は美味しいぞ」
「! いや、でも……じゃあ、お言葉に甘えて貰おうかな。ありがとう」
隣に座っていただきますと美味しそうに食べ始める渚は実は狙っていたんじゃないのかと思う。
どうだ美味いだろうと自慢すると、凄く美味しいよと頷きながらも「なんで一華さんが自慢してるの」と冷静に突っ込まれた。細かい男は嫌われると習わなかったのか、渚。
「いいお兄さんだね」
「……うん」
彼とわたしの関係を渚が知る由もないのだが、今はそれでいいかと頷いておいた。
何だかんだでわたしに甘い兄さんが、実はちょっとだけ本物の家族みたいだと思ったなんて絶対に言わない。家族なんて、わたしは知らない。
「今日、母親は?」
「今日夜勤だから、朝にしか帰って来ないかな」
「そうか。なら、今日のテスト見てやってもいい」
「え」
「いつにもまして覇気がない。どうせ今日の試験も自信なんかないんだろう。おまえ馬鹿だし」
今回試験範囲を教えてやれなかったお詫びだと口実を作って、わたしは渚との勉強会を取り付けた。今さら終わった試験の勉強をしたところで意味はないだろうに、こいつはいつも復習は大事だと言って大真面目にやっている。まあ、それで自信がつくのなら付き合ってやるのも悪くないし、暇つぶしの相手には丁度よかった。
いつもの場所で待っているとだけ告げると渚はそれに頷いた。
***
その日の夜、試験範囲が大幅に変わっていたらしいことを知った。すぐさま浅野学秀にメールを送ったところ、2日前に急に変更になり、本校舎は直前の詰め込み授業に暮れていたらしい。聞くところによればあの理事長が自ら教鞭を執ったとか。だからどうしたと返信をしたらそれ以上の返事はなかった。
「学秀ちゃんって冷たいよな」
「学秀ちゃんって呼んでるの!?」
滅茶苦茶嫌そうな顔をされたけど。そう呟くわたしが意外だったのか、彼と仲が良いのかと聞いてきた。
「まさか。わたしにトップを奪われるってんでビビってるんだろ。アレは中々面白いぞ。……しかしあのタイプは後が面倒だからあんまり関わりたくはない」
「って言いながらしょっちゅうメールしてるよね」
「まあ、今のところ実害はないからな。しかも何だあれは。一体全体どんな訓練をすればあんな完璧超人が生まれるんだ?」
「それ一華さんが言う!?」
参考書やノートが散乱するテーブルを挟んで、わたし達はそんな他愛のない話をしていた。時折、店の奥でにやにやと笑っている輩がいるのはあとで文句でも言いに行こうか。……と考えていたところに当人がにこやかな笑みを湛えてやってきた。手には頼んだ覚えのないグラスが二つ。
「お前らほんと仲いいな。ほらよ、サービスだ。喜べ」
「なにー? カップルみたい?」
「っつーよりは、姉妹じゃねえか?」
「せめて姉弟って言ってくださいよ!」
渚もすっかりこの店の常連である。楽しそうで何より。