紙が鳴っている。
改めてじっくりとその音に耳を傾けてみると、私はそんな風に感じた。
小鳥の囀りや川のせせらぎ、火がはぜた時の音、
そんな音達とどこか似ていた。
よくわからないけど、でもなんでか心地いい音。
ここにはそれだけが、誰にも急かされることなく気ままに響いていた。
空気と一緒に揺らされるがまま、その音に身を任せる。
子守唄みたいだ。
授業終わりで疲れているってのもあるけど、それ以上にこの心地いい音が私を微睡みの世界へと連れて行こうとしていた。
首がこくんこくんと勝手に動いて、意識が明滅するように途切れ途切れになる。
少しの間そうしていると、いや、実は結構な時間が経ってしまっていたのかもしれない。
おぼろげな意識の中で、さっきまで聞こえていた不思議な音が聞こえないなーって思っていると、
「……おい、寝るなら帰るぞ」
その代わりに呆れ気味の低い声が私を揺らした。
「んぇ?」
久しぶりにこの場で聞こえた掠れた紙の声以外のもの。
意識がふわふわと離れてしまっている私は、それを理解するのにも時間がかかった。
寝るぅ?
誰がー?
私は……んぁー寝てるぅ?
帰る、カエル?
おたまじゃくしがカエル。
カエルぅぴょこっと、ぴょぴょぽこ、ヒキガエルー。
んぁ?
ヒキガエル?
ひき……比企谷?
せんぱいがどうしたのぉ……って!
「―――はっ!?」
一気に覚醒した意識は、跳ねるみたいに背筋を伸ばすよう命令を出してくる。
ぴーんと固まって動かない身体の代わりに、きょろきょろと瞳だけが辺りを見渡して現状を確認しようとしていた。
周りには見慣れた配置の机と椅子があって、部屋の端には「卒業生用」とマジックで書かれた段ボールが積まれている。
視線をゆっくりと目の前の机に落とすと、そこには未だ汚れを知らない純白の式辞用紙。
……あっ、全然書けてないや。
「考えてんのかと思ったら寝てたのか。通りで動かないわけだ」
呆れ気味の声色と、じとーっと責めるような視線で私を見ている彼。
「ね、寝てませんけど!?」
反射的にそう言い返した。
……いや、これ寝てましたって言ってるようなもんだよね。
「こんだけ今起きましたよ、って動きしてんだから流石に言い逃れ出来んだろ」
うっ確かに。
仰る通りです。
「そ、そんなことないですよー?ぜーんぜん。全然寝てません。ええ、そうですとも。私は寝てません」
「…………」
「いやいや、ホントですから!」
そんな半眼でいかにも疑っていますって顔しても、私は自分を曲げませんよ!
……事実は曲げるけどね。
「……まぁいいか。なんにも思い浮かばないなら今日は止めとけ」
小さく頬を引き攣らせた後、彼はそう言って、ぱたんとさっきまで読んでいた文庫本を閉じた。
すぐ横に置いている鞄に仕舞う。
そして、一度身体を伸ばしてから「帰るか?」って私に聞いた。
とは言え、彼の中ではすでにそのつもりのようで、私の返答を聞く前に席を立つ。
「ちょ!ちょっと待って下さいよぉ!と、とりあえず座って!座って座ってぇーくださっい!」
慌てて彼の手をむんずと摑まえて、もう一度、無理やり座らせた。
ふぅ、危ない危ない。
私一人じゃ厳しそうだからってアドバイザーとして彼に来てもらっているんだ。
ここで帰られたら間違いなく今日も書けず終いになっちゃう。
そりゃ今日はやーめたって出来るならそうしたいけどさ。
でも、ほんとそろそろ書き上げないと卒業式まで時間が無い。
だとえ書き上げまでいかなくても、せめて下書きまでは終わらせたい。
「……さっきまで寝てたやつがなに言ってんだ」
そんな私の事情を説明すると、彼はとても痛い所を突いてきた。
い、いやいやいや。
寝てないし?
私、全然寝てないよ?
ずーっと考えてた。
もう、そりゃかなり集中して、瞑目までしてふかーくふかく考えてたんだから。
「ほぉ。じゃあその考えていた送辞のさわり部分だけでいいから言ってみろ」
「えっ……え?うそっ!えっ!?」
「どこで、なににそんな驚いてんだよ……。もう考えてませんでした丸出しじゃねぇか」
呆れ気味だった彼はもう完璧に呆れきっていて、さっきよりも冷ややかな眼差しを私に向ける。
ぐ、ぐぬぬ。
勢いで誤魔化す作戦は失敗か。
とりあえずこの場を凌がないとアドバイザーを逃しちゃう。
んーさわりの部分って、えっと、どんなのがあったっけ?
あーっと、えーっとたしか……。
「た、高い所から大変僭越ではございますがぁー、乾杯の音頭をばぁー……とか?」
「やめて、PTAが怒鳴り込んできちゃうから」
私の小粋なジョークに毒気を抜かれたのか、彼は「はぁ。もうわかったわかった」とため息交じりにそう言って、手元に置いてあったメモ用紙にさらさらと何かを書き始める。
どうやら、困窮している私を見かねて手助けをしてくれるようだ。
これは小粋なジョークのおかげだね!
……呆れが行き過ぎて、憐れまれてるわけじゃないよ、たぶん。
「ほれ、とりあえずさわりはこんな感じで書いとけ」
「なんですこれ?……ふわぁ」
ぽいっと投げ渡されたそのメモ用紙に目を通すと、そこには彼が考えたとは思えない程の綺麗な文章が書いてあった。
時節の挨拶は、いつもより厳しい冬の寒さとそれを越えて春の兆しが見えてきた最近を見事に表していた。
その後もありきたりな文章とならないよう工夫がされながらも、話の流れに美しさが感じられる。
……なんだろう、この腑に落ちない感じ。
いや、こんな文章をすらすらと書けるのは凄いと思うし、尊敬もする。
流石、国語は得意だって自称するだけはあるなって思う。
ただ、その、ね?
書いてる文章があんまりにも綺麗過ぎてさ、いつもの彼からは想像がつかなくってね?
すんごい違和感と言いますか、ギャップと言いますか、そんな感じでして。
つまり、私的にはこんな文章書けるのがかなーり意外なんですけど。
「まぁな。時候の挨拶とかそういう文章を書くのも見せるのも、そんな機会なかったしな。本邦初公開ってやつだ」
「にしては、出来が良すぎるような気がするんですけど」
「定型文の知識はあったからな。そうなりゃ、あとは組み合わせの問題だろ」
「ほへー。すごいですねぇー」
私がそうやって素直に感心している間にも、彼はシャーペンを一切止めることなくするすると滑らせていく。
いつもの気だるげな表情は鳴りを潜めていて、どこか引き締まった顔つきや雰囲気に私の胸の奥がきゅっと締まるのを感じるた。
う、うぅ……。
なんだか悔しいけど、カッコいい。
いつもの彼も……ま、まぁ悪くないけどさ。
あ、あれはあれでいいんだけどね。
今の彼は、その、あれだよ……いい、なかなかにいい。
じっとその姿を見つめるのが、なんだか恥ずかしくなって視線を逸らす、
けど、気になってちらちらと見てしまう。
ぐ、ぐぬぬ。
カッコいいじゃないですか、せんぱい。
そんな胸の高鳴りを感じている私を、彼は気にする素振りも見せずに「こういうの雪ノ下の役目だよな」とか、「今日に限って雪ノ下も由比ヶ浜も用事とか。あれ?もしかして俺、面倒事押し付けられた?」とか、小さくぼやきながらも書き続ける。
「……くふぅ!」
あぁ、もうもうもうっ!
なんでぼやいてる姿もカッコいいとか思っちゃうのぉ!?
ただの言いがかりなのに、それをカッコいいとかおかしいでしょ私!
なんでそんなことで世紀の大発見みたいな表情出来るの!
んで、なんでそれにキュンキュンきてるの私ぃ!
こ、これが惚れた弱みってやつか……っ!
「ま、まさか、俺はいつの間にか巻き込まれていて、そしていつの間にか裏切られていたのか……?」
どんなネガティブ発想をすればそうなるのかわかんないけど、彼は急にはっとした表情で言う。
「―――っ」
まただ。
また、私の胸の奥がきゅっと締め付けられた。
でも。
さっきまでの高鳴りとはまったく違う。
どうしようもない昂ぶりや、切ない息苦しさとは違っていた。
底冷えするような焦燥感と、彼の一言が私を締め上げたんだ。
裏切り。
その言葉が。
「……せんぱい。あの、一つ聞いてもいい、ですか?」
恐る恐ると聞く私に、彼は動かし続けていた手を止めた。
すこし雰囲気が変わった私を変に思ったのか、「あん?」と訝しげに返事をする。
「たとえ。たとえば、ですよ?もしものお話ですよ?」
私には全然関係ないんのだと強調したくて、そうやって何度も念を押した。
まぁ、逆に怪しくなっちゃっているかもだけど。
でも彼は特に何も言わず、無言で私に先を促した。
「えっと―――」
話始めようとして、どうやって説明しよう?って思った。
たとえばって言ってても、私達の名前を出すのは気が引ける。
私が二人に秘密にしていたことがあって、それを話したいってことだけなら、別に彼に知られても問題は何もないんだけど。
でも説明をする中で、もしかしたら彼が二人の恋心に気が付いてしまうかもしれない。
彼女達が何故か今まで隠し通してきたそれを、私がたった少しでも彼に漏らしてしまうのはダメだと思った。
それには、きっと相応の理由があるはずだから。
じゃあ、どうしよう?
私達じゃない他の人で、んでもって説明しやすい身近な人でたとえれたらいいんだけど。
うーん。
あ、いい人いた。
そう思い至って「たとえば、ですよ?」ってもう一回だけ念を押して、
「葉山先輩に好きな人がいて、それを戸塚先輩は知っていたとします」
彼の身近……あー葉山先輩はそうではないかもだけど、その二人にたとえて話始めてみる。
「……ふむ」
「葉山先輩と意中の人との関係は付かず離れずで、そんな状態が、まぁ一年くらい続いています。戸塚先輩もその様子を近くで見ていました」
「ほうほう」
「そんなある日のことです。えっと、その戸塚先輩が葉山先輩と同じ人を好きになってしまったのです。……葉山先輩がその人のことを好きだと知っていたのにもかかわらず」
ここから、「せんぱいはこの場合の戸塚先輩をどう思いますか」って続けて聞こうと思ったら、
「俺は許さない」
言い終わる前、半分くらいのところで彼は私の言葉をそうやって遮った。
「そんなのは絶対に許さない」
反論の余地も残さない強い否定。
たとえ話の戸塚先輩を、現実での私の立場を、彼は歩み寄りの欠片もなく切り捨てた。
……ダメだ。
ここで感情を顔に出しちゃダメ。
そんなことしたら、目聡い彼にばれちゃうから。
浮き出てきそうな感情を、自分の中に必死で押し留める。
震えそうになる身体を固めて、その波をやり過ごす。
そうでもしないとその波に飲まれてしまって、涙が頬を伝ってしまいそうだった。
だって、彼は否定したんだ。
それがたとえ話の中でも、はっきりと私を拒絶した。
考えるに値しないと撥ね付けたんだ。
そう思ったら目頭が急に熱くなってくる。
ダメだって。
ばれちゃうよ。
そうわかっていても、感情動きは私の言うことを聞いてくれなくて―――
「戸塚に好きな人なんぞ、俺は認めんし許さん。絶対にだ」
「…………えっ?」
ちょ……えっ?
ちょっと待って、ちょっと待って。
戸塚先輩に好きな人は認めない?
あれ、あれれ?
なんだか食い違ってない、これ。
彼が許さないのはそのことで、私みたいな立場の人を許さないってことじゃない?
ん、んん?
あれ、いや、これ。
全然、私の話理解してくれてないじゃん!?
「いやいやいや!せんぱい!そういう話じゃなくって、その立場の人をどう思いますかってことを聞きたいんです!」
私の真意が伝わっていないことを、机をばんばんと叩きながら抗議する。
さっきまで溢れそうだった熱い何かは、もう目の奥まで引っ込んでじゃっていた。
「そんなもんは知らん」
彼は考えることもせずにそう言った。
まるで、まったく興味がないっていうか、お門違いもいいところだと言わんばかりに呆れた表情までしていた。
「この場合、第三者の意見なんざ聞く必要なんかないだろ。当事者同士の問題であって、どう思っているのかを決めるのは相手次第だ」
「そ、そうですけど……」
「知りたいなら相手に聞け」
彼はきっぱりとそう言って、それから「俺がこのたとえ話で言ってやれることは、それだけだな」とばっさりと話を終わらせてしまった。
もう言うことはないぞって示しているみたいに、止めていた手を再び動かし始める。
むー頼れって言ったんだから、少しぐらいは真摯に私の話を聞いてくれたっていいじゃないですかー。
なんて文句を言いたくもなるけど、なってるんだけど、でも我慢しておく。
こっちも隠しておきたいことがある以上、ここから先は藪蛇になりそうだし。
なにより、もう一度真剣な話を出来る空気じゃなくなっていた。
まったく、もう!
どれだけ戸塚先輩のことが好きなの、この人は!
その不満を視線に乗せて、じとーって睨みつけてみる。
だけど、そんな私の不服を彼はどこ吹く風でいなしてしまう。
すらすらと進む筆は鈍らない。
「むー。……はぁ。せんぱい、ここ、こんな感じでいいと思いますか?」
このまま続けても一人相撲になりそうだし、諦めよう。
彼が書いてくれた文章に私らしいアレンジを少し加えたものを見て貰う。
「あー、ん。まぁ悪くないな」
元がよかったからか、すんなりとおっけーを貰えた。
……そこまで厳しくチェックしてないだけかもだけど。
ともかくせんぱいの助力を得て、今まで白紙だった式辞用紙にようやく文字を書くことが出来そうだ。
下書き用の鉛筆を手に取る。
鉛筆だから間違えても消せるけど、この白い式辞用紙を無駄に汚したくなくて、気を引き締める為に姿勢を正した。
よしっ、しゅーちゅう集中。
そうやって暗示をかけてみる。
だけど。
私の意識のほとんどは、彼の言葉で埋め尽くされていた。
決めるのは相手次第。
その言葉はたとえ話でぼかしていても、その奥に潜む私の状況を的確に捉えていた。
まぁ簡単にとは言え、実際の私とほぼ同じ流れの話をしたんだから、それについての言葉は私にも当てはまって当然だとは思うけどさ。
でも。
知りたいなら相手に聞け。
その言葉はたとえ話の戸塚先輩にではなくって、まるで私に言っているみたいだった。
……たぶん気のせい、だよね。
「……はぁ」
知りたいなら相手に聞く。
そのくらい、私だってわかってるんだ。
何時かは、話さなくっちゃいけないことくらい。
私をどう思うかを聞かなくてはいけないことくらい。
「ため息を吐いても解決しないぞ」
せんぱい。
それはこの送辞のことですか?
それとも、私のことですか?
「はぁーい」
心の声に蓋をして、ため息交じりの返事する。
気を取り直して、鉛筆を滑らせた。
真っ白な場所に黒い文字が描かれる。
重い。
式辞用紙のあっちやこっちに引っかかって、動きが鈍る私の手を見てそんなこと思った。
……やっぱり下書きが終わるのは時間がかかりそう。
第十話 罪の告白流れゆく 中
お疲れ様でした。
未熟な文章にもかかわらず、ここまでお読みいただきましてありがとうございます。
…………。
つ、次ぃ……っ!
年末まで、残り八日。
も、もうすぐそこまで迫ってますね……。
こほん。
それでは、皆様。
また近いうちにお会いできることを、心待ちにしております。