「はぁ……」
その憂いは、とても暗くて重い。
なーんて、この吐息を文字で表現しようとすれば、きっとわたしはこう書くだろう。
意識せずとも勝手に口から零れて、どんよりと重さを持っているみたいにわたしを圧迫する。
「はぁ……」
また、一つ。
さっきから、休む暇なく次々と流れ出る。
一つ考えては、憂鬱に。
二つ考えては、沈鬱に。
「はぁ……」
周りのクラスメイト達は、わいわいがやがやと楽しそうだ。
こんな陰鬱な天気で学校も始まったばかりだと言うのに、よくもまぁ、そんな元気があるもんだ。
そんな、八つ当たりみたいな恨み言を心の内で呟く。
いや、この場合、他の人たちが元気があるんじゃなくて、ただ単に、今の私にそれがないだけなのかもしれなけど。
「はぁ……」
まったく、こんなに可愛い後輩がこんなにも探してるのに、一体どこをほっつき歩いているんですかねー?
騒がしいくらに元気な周囲を横目に、机に座って他人に見られないように、こっそりと、そう自分では思っているのだけど、これだけ重々しい空気を漂わせていれば周りの人はそうは思われないかもしれないが、兎も角、わたしはため息をついていた。
一向にあの人は、姿を見せる気配がない。
昨日の放課後は書記ちゃんに呼ばれた後、生徒会の作業が長引いちゃって探すことも出来ずに結局時間切れの最終下校時間に。
今朝は今朝で雨が降りしきる中、傘を差して駐輪場で待ち伏せてみたけどその欠片すら見つけられずに時間切れ。
「あぁーあ」
当ても無くふらふらと遊ばせていた視線を、窓の外へ移す。
そこから見える空は、昨日から雨足を弱めることなく大粒の滴を落とす曇天がどこまでも続いていた。
わたしの心情を空一杯にぶちまけて、塗りたぐったみたい。
なんて、空模様に自分の心象を重ねてみると、余計に気分が落ち込んだ。
これも全部、あの人のせいだ。
この氷雨になり損ねた冷たく激しい雨も、怒ったみたいに鳴る寒雷も、そのせいで靴下が濡れたのも、国語の小テストの点数が悪かったのも、あの人のせい。
わたしがこんなにも色々と思い悩んで、よくわからない感情に振り回されて、おまけに得意の作り笑いさえも綻んでしまっているのも、ぜんぶぜんぶあの人のせいだ。
「そろそろ、いいじゃないですかぁー……」
ねぇ、先輩。
拗ねた子供みたいな独り言。
なんとも言えないやるせなさというか、もどかしさというか、そんな理不尽な何かへの不満がわたしにそんなことをつい、口走らせる。
だけど、そんな文句はぷかぷかと浮かんで、誰にも拾われる事ないまま教室の喧騒に薄められて消えていく。
勿論、あの人にも届かないままに。
活気に満ちた騒がしい教室の中。
話し声、笑い声、手を叩く音、机や椅子が鳴らす音、紙のこすれる音、教団を歩く足音。
色々な音が混ざり合って、溶けあって、どれか一つの音なんてあってないようなものなのに、だと言うのに。
雨の音だけが、嫌に耳についた。
× × ×
「きりーつ。礼」
これで、HRも終わり。
張りつめた空気が一気に緩んで、教室内は活気に沸いた。
クラスメイトの面々は、「ありがとうございました」と、言うが早いが、通学鞄を引っ掴んで教室を出る人、友達の席に直行する人、机に突っ伏して一日の疲れを吐き出している人とか、それぞれ慌ただしく動き出した。
そんな賑やかな教室の中でわたしも例に漏れず、声を掛けてくる人達への挨拶を簡単に済ますと鞄を掴んでそそくさと教室を出た。
目的地は、昨日と同じあの空き教室。
「今日こそはっ!」
今日こそは、絶対。
一人で拳を握りしめて意気込みながら、ずんずんと勢いよく廊下を突き進んでいく。
気合十分、意気揚々。
そんなわたしは、今日わかったことがある。
えぇ、もう、わかった。
もー、わかった。
わかりました。
ここまでくれば、わたしだってわかるってもんだ。
そう、一人でぐずぐずと泣き言を言いながら拗ねて、その癖、本気の本気で探すことも無く、その内にひょっこり、偶然に、なんてものに期待をしているようじゃ会えないということに。
だって、そうだとしか思えない遭遇率の低さだもん。
以前なら意識しなくても見つけれたと言うのに、ここ最近はこっちが、それこそ、それなりの時間を掛けて探しているのにも関わらず、後ろ姿すら捉えることが出来ない始末。
現に、今日も昼休憩中に探し回ったのに影すら踏むことが出来ない始末。
「……ぬぅ」
そう決まった運命?
いやいや、でも、うーん。
運命の悪戯ってやつなのかなぁ。
運命だとか、巡り合せだとか、そう言った類は普段あまり信じていないけど、ここまで突然に変化すると、ついついそんな考えが頭をよぎったりする。
まぁ、これはわたしだけに限った話じゃなくて、人間の性だと思うけども。
誰だって理不尽なことが起これば、その原因を何かに押し付けたくなるものだろう。
ともあれ、運命や宿命やらと言うより、そんな偶然の積み重ねがわたしの邪魔をしているのなら、このまま黙っていては状況は悪くなるばかりだろう。
弱り目に祟り目、踏んだり蹴ったり、泣きっ面に蜂なんて言葉があるくらいだし。
では、ならば。
その状況を打破するには、受動的でいるんじゃなく、能動的に行動あるのみだ。
祟りを跳ね除けて、踏んだり蹴る奴を陥れて、蜂には殺虫剤だ。
このままで道が交わらないのならば、道の方向を無理やりにひん曲げてやって交わらせる。
なんてことない。
ニ十分探してダメなら、四十分探せばいい。
それでも見つからないなら、一日探せばいい。
一日探してダメなら、見つかるまで探せばいい。
簡単なことなんだ。
何よりこのまま、うだうだと何もせず悩むなんて、そんなのわたしじゃない。
欲しいものは掴み取る、それに向かって突っ走る。
そうやって今までも突き進んできたはずだ。
「待ってろぉ、待ってろよぉ……」
もう、逃さないからなぁー!
決意新たなわたしは、行きかう人達からの声をやんわりと受け流しながら、もう歩みを止めることはない。
残念ながら今のわたしはそんなものじゃ止まらないし、止まるつもりもない。
勇猛な戦国武将が戦場を駆ける気分ってこんなものなのかもしれない。
いつもなら、もう少ししつこく会話を繋げようとする男の子達も心なしか腰が引けている。
可愛い女の子にする態度ではないと思うし、自分自身では最低限の愛想はしているつもりなんだけど、どうやら周囲はそうは見えてないみたい。
ふむ、あまり雑に扱い過ぎて面倒なことになると後で困る。
なので。
「ごめんねー。生徒会の事があってぇー」
と、言う事にしておこう。
ありもしない嘘を、申し訳なさそうな表情を作ってばら撒く。
生徒会の仕事で忙しそうにしているのか、とでも勘違いして頂いておこう。
足早に歩を進めていたので教室はもう遠い彼方に過ぎ去っていて、あの階段を上がって廊下を少し歩けば目的地のあの空き教室だ。
よし、もう少し、もう少し。
逸る心を抑えずに、昂ぶる気持ちをそのままに、更に歩調を早めた。
少しでも早く着くように、少しでも早く、と。
そう、だからだろう。
気づけなかった。
「あいたっ!」
廊下の角から出てきた人影に。
思いっきり、真正面からぶつかった。
「おっと、ごめんごめん」
「ううん、こっちこそごめんなさい。ではではー」
転んだりだとかは無かったんだけど、ぶつかった時に相手の胸板で打ち付けた鼻頭が少し痛かった。
乙女の顔になんてことするんだ。
なんて、速足で歩いているだけならまだしも、その上、前方不注意までしでかしている張本人が相手方を責める訳にもいかない。
つんっとした痛みに少し涙目になったまま、最低限の謝罪と共にぺこりと頭を下げて、その場を離れる。
ろくに顔も見なかったが、まあいいだろう。
折角ここまでいいラップタイムで来ているのに、こんなところで時間を無駄にしている場合じゃないんだ。
「あれ?いろはじゃん?」
「っ!」
ぴしり。
声を掛けられた瞬間、そんな乾いた音がわたしの中で反芻した。
再び動き出そうとしていた歩みは、突然に前へ進む力を失う。
「どしたの?そんなに急いで?」
そうだ、わたしは急いでいるんだ。
なのに、足はまったく動く気がしない。
何かがぱきぱきと音を立てて、わたしを覆い尽くしていく。
早く、あの教室に行きたいのに。
もう少しで、会えるかもしれないのに。
でも、この場を離れる為の足は、まるで言う事を聞いてくれない。
「ん?あれ?少し顔色悪いじゃん、いろは調子悪い?」
自身でも分かる位、冷え冷えとした感覚がわたしの体を這い回る。
背中に添えられた誰かの手が、ゆっくりと誘導するようにわたしを押した気がした。
そんな、曖昧にしか感覚が伝わらない。
違う、そっちじゃない。
わたしが行きたいのは、そっちじゃない。
なのに、今まで床に張り付いて離れなかった足が誘導されるがままに、その方向へとゆっくりと動き出す。
なんで?
「保健室、いこっか」
わたしを覆い隠して張り付いた仮面が、勝手に体を動かして、意志を奪い取る。
それに応じて体の感覚は沈むように鈍くなる。
「ほら」
一歩、足が動いた。
放課後の喧騒が、どこか遠くへ離れて行く。
「先生、この時間いないかもなぁ」
また、一歩。
視線は上げることが出来ずに伏せられて、その鮮やかさは薄れていく。
「まぁ、任せといてよ」
触れられている背中から徐々に血の気が引いていく。
自分の指が、冷たい。
少しずつ。
わたしがわたしじゃなくなって、凍っていく。
「ねっ?いろは?」
「……ぃ」
「……早く行こっか」
背中を押す力が、少し強まった。
全ての感覚が曖昧になっていたわたしはそれだけで、いや、わたしを奪った仮面への無意識の抵抗だったのかもしれない。
足が縺れて、ふらりとぐらついた。
「おぅっ!?」
とん。
そうやって、また、誰かの胸板にぶつかった。
でも、今度は痛くはなかった気がした。
それは、胸板が固いとか柔らかいなんて話ではなくって。
ただ、なんとなくだけどそう思った。
「す、すいません」
音を失っていた世界に、誰かの声が聞こえた。
おどおどとしていて、控えめな声色。
でも、それが何故だかじんわりと染みて、その声に引き寄せられるようにして学校の喧騒が帰ってくる。
「いやっ、あの。これは、事故ですよね?そうに違いないですよね?」
褪せた世界に、淡く色が灯った。
薄暗くて、色が薄く伸ばされた世界は引き潮のように遠ざかって、眼前に目一杯広がる制服には、小さな汚れや、皺や、色が鮮やかに描かれた。
「だ、だから、その通報だけは勘弁して下さるとぉ……んぁ?」
ぴしり。
怖いくらいに固く、冷たく、わたしを覆い隠していた何かから音が聞こえる。
さっきと同じ乾いた音。
なのに全然、違った。
それは、きっと。
「なんだ」
伏せていた顔が、風に吹かれた木の葉みたいに軽やかに舞い上がる。
瞳に映るのは。
「お前か、一色」
昨日も、今日も、朝も、昼も、放課後も。
色々探して、探し回って、探し求めて、それでも見つからなかった、わたしの探し人。
わたしの何かに小さな火が灯る。
感覚も無くなっていた指先に、小さな温もりがほんのりと宿った。
温かい。
ただただそう思った。
触れている場所から微かに感じる体温が急速に固まった何かを溶かしていく。
「……せん、ぱい」
「なんだよ?」
「せんぱい」
「だから、なんだっての」
「せんぱい、せんぱい」
「一色さん?なに?壊れかけのレディオなの?」
「せんぱい!!!!」
「はひゃい!?すいません!?」
取り返したばかりの体と意識で思いっきり、持ちうる限りの力と速さで彼の手首を引っ掴んだ。
彼の事も、わたしの事も、周囲の事も、何も考えず、考える間も空けずに掴んだ。
右手で捕まえて、左手で抱き込むように引き寄せた。
ただ、一心不乱に。
この温もりがまたわたしから離れて行かないように、逃げてしまわないように。
「そ、そんなに怒らなくてもぉいいじゃないですかぁー。てへ、なんちゃ、んぉっ!?」
捕まえたままの彼を思いっきり引っ張って、引き摺る。
わたしに話しかけていた人が誰なのかとか、周囲の視線だとか。
そんなもの達なんか、もうどうでも良くって、全部ほっておいた。
そんな事、わたしにとってはどうでも良かった。
そんなもの、どうだっていい。
今は、私は。
この温もりだけを、これだけを掴んで、捕まえて、消えてしまわないように。
誰もいない所へ。
行かないと。
邪魔されない所へ。
逃げないと。
「ち、ちょ、一色さん!?」
だから、わたしの隣から聞こえる慌てた彼の声は、少しだけ放置しててもいいよね。
× × ×
暫く歩いて、わたしはある教室の前でその足を止めた。
ポケットへ手を突っ込んで、鍵を探す。
上着のポケットは、ない。
えぇい、もどかしい。
スカートのポケット、あった。
チャリと軽やかな音を鳴らして手に触れたそれを、荒々しく引き抜いて扉のカギ穴に差し差し込む。
がらっ!だんっ!ばんっ!がちゃ!
荒々しい音の四拍子。
労りの欠片も無く、勢いよく室内へ入って、すぐに鍵を閉めた。
誰もこの部屋に入ってこれないように。
でも、これだけでは、ダメだ。
「つ、疲れた。歩くの早過ぎるだろ、競歩でもすんの……っとぉ!?」
隣で一息ついていた彼を再び引っ張り、教室の隅に置かれたパイプ椅子を持つ。
ごんっ!かたがたっ!
「……よし」
「な、な、なに?拷問?拷問がはじまんの?」
パイプ椅子を扉のつっかえ棒要領で固定する。
これで、鍵が開けられても大丈夫。
「な、なにされんの俺……っおぅ!?」
「…………」
がたんっ!がちゃ!がたん!
扉から一番遠い、窓に一番近い席を窓に向けて彼を問答無用で座らせる。
机や他の椅子に当たるのも気にせず、強引に片手で近くの椅子を引き寄せて、わたしもそのすぐ隣に腰を下ろした。
ずずず。
腰を下ろした所で、彼がわたしから椅子を引きながら遠ざかろうとした。
そうはさせまいと、掴んでいる手に力を込めてそれを阻止して、彼を睨む。
「そこから、動かないで、ください」
「は、はい?」
ずずず。
彼がほんの少し引き下がった分以上に、自分の椅子を近くに寄せる。
とぼけた振りをした彼はまた、ずるずるとわたしから距離を取ろうとする。
「せ、ん、ぱ、い」
自分でも驚くくらいに低い声が滲み出る。
往生際の悪い彼の悪だくみをもちろん阻止して、ぐいっともっとこっちに引き寄せた。
「先輩。動かないで、って言いましたよね?」
彼がびくびくとしながら、「は、はい」と返事をした。
それに、じろりと牽制の視線を向けて、彼の腕をもう一度強く、強く懐に引き込んでからゆっくりと瞳を閉じた。
× × ×
どれだけの時間が経っただろう。
そう、目を閉じて彼の腕を抱き寄せたまま、ふと思った。
短くはない、それなりの時間が経っているというのは、体感的になんとなしには分かる。
当初は突然の出来事に困惑していた隣の彼が落ち着きを取り戻していて、居心地悪そうに身じろぎすることが無くなる程度には時間が経ってはいる。
時間が気になるなら壁に掛けられた時計を見れば一目瞭然なんだけど。
けれども。
どうにも、そうする気にはなれなかった。
だって、それはこの空間の終わりを予期してしまうかもしれないから。
やっとたどり着いた、このひとときが下校時間なんてもので終わるのが嫌だから。
「…………」
「…………」
あれから、わたしも、そして彼も口を開くことは無かった。
無言。
外から聞こえる部活の声を除けば、この教室に言葉は失われている。
とは言え、わたしの場合は口を開く余裕が無かった、って言うべきかもしれない。
そうする事すらもせずに、真剣に、一心に、懸命に。
ただただ、先日からの凍えるような、凍るような、凍てるような、そんな寒々しさをこの優しい温もりで溶かして、緩んでいく糸を感じ取っていた。
目を閉じて、手を掴み、耳を傾けて。
彼の方は、こんな状態のわたしに付き合ってくれているのかもしれない。
うん、付き合ってくれている。
確信。
まあ、そうは言っても確固たる言葉があったわけでは無い。
けど、身じろぎが無くなった時に聞こえた呆れ笑いのような、忍び笑いのような、優しくて小さなため息は、そう、わたしに思わせた。
「おぉー」
なんて、長らく沈黙に守られたこの部屋に感嘆したような声が生まれた。
その声に釣られて、ふと、無意識にわたしは閉じられた目を開けてしまった。
あっ、と。
そう思って、すぐにまた閉じようと思ったのだけど出来なかった。
だって、長く閉じていたせいで不明瞭でぼやけていたけど、わたしの視界には蛍光灯の真っ白な光でなくて、温かみがある暖色の光が宿ったから。
目を奪われて、閉じることは出来なかったんだ。
「……ぁ」
あぁ、止んだんだ、雨。
あんなに、強く降ってたのに、もう。
窓から見える光景には、今までの大雨なんか無かったことみたいに、西の空には雲の合間からオレンジ色の橋が架かっていた。
優しい煌めきが、真っ白でキャンパスみたいな部屋の壁を色鮮やかに染めている。
生まれて今までに何度も見てきた夕日の光。
それをたった数日、一週間にも満たない短い間見ていないだけなのに、その光景はわたしに、この時間の終わりを予期するよりも強く、綺麗だと思わせた。
「はぁ……」
そんな風にわたしが久しぶりの夕日に見入っていると、隣から嘆息が聞こえた。
まったく、ムードもへったくれもない人。
「なんですか先輩、こんなにも可愛い後輩と居るのにため息なんて」
「あれこれ悩んで損した。……そんな、気分だ」
「はへ?先輩が悩んで?」
再び、深くため息をついて、ちらりと彼はこちらを向いたと思うと、すぐに視線を遠くの景色に移した。
「自分で可愛いなんて、よく言うよなぁ」
露骨な話題変更。
彼は、わたしの疑問に答えることもないまま、これで終わりだとばかりに、通り過ぎた言葉を捕まえて話題を変えた。
含みのある言い方だったし、そこには、きっとわたしの知らない何かがあるのだろうし、とても気にはなるけど、だけど、それを追及する気にはならなかった。
世の中がすべからず幸せで溢れているわけではないように、深入りして出てくるものの全てが、幸せなものではないだろうし、だがら今は、この時間をそんな曖昧なもので不用意に壊したくは無かった。
今日は、わたしに黙って付き添ってくれた、そのお礼ってことで見逃しておこう。
「……そりゃ、可愛いですもん」
「……はっ」
「あぁー!今!鼻で笑いましたね先輩!?」
「笑ったんじゃない、失笑したんだ。捉え方を間違えると食い違いが生じるぞ」
「ほぼ、同じなんですけど!?」
「あのな、一色。同じ物なんて、この世界にはないんだよ」
「なに、良い事言ったぜ、みたいな顔してるんですか!」
ゆっくりと、雲の間から夕日が沈みながらも、少しずつ顔を出し始めた。
まったく、随分と遅い出勤だ。
そんな、大遅刻をかました夕日に、柔らかく照らされた景色を二人並んで眺める。
「んふふー」
たったそれだけなのに、わたしの顔はどうしょうもなく緩んでいるみたい。
鏡を見なくたって、他の人には子供っぽくて、ちょっと見せられない顔になっているのがよく分かる。
「これで、いいのかもな」
彼は、淡く彩られた景色から目を逸らさないまま、わたしに問うみたいに、でも、自分に向けた独り言みたいに、そう呟いた。
「さっきからよく分かんないですけど、それでいいんですよ」
「適当に言いやがって……」
「テキトーですともー。だって、為せば成る、為さねば成らぬ、わたしの願いは天に届く、人の上に立つわたし、ケセラセラってことですよー」
「お前は蟻や石に刺さる矢だったのかよ」
国語の小テストに出た蟻の願いも天に届く、石の上に立つ矢の二つのことわざを捩ったことが直ぐにバレた。
ぬぅ、流石、国語トップクラスだ、この辺りの察しはいい。
「やだなー先輩。冗談ですよ冗談」
「知っとるわ」
「まぁ、中二つは捩ったままでも通じますけどねー」
「清々しいまでの自信過剰。先輩として戒めなければ……いや、お前ならありえそうだけど」
「止められても跳ね飛ばして行っちゃいます」
「ひき逃げ、ダメ、ゼッタイ」
楽しい。
すごく楽しい。
この人との会話が楽しい。
わたしの事を良くも知らない癖に、知ったように話しかけてくる人達とは違う。
気兼ねなく、気持ちよく、言葉がするすると滑るように口を出る。
くつくつと零れる笑いは、自然に湧き出ては一向に尽きる気配がない。
「…………ほんと、人生楽しそうだな」
「はいっ、御陰様で!」
「皮肉も肯定するって無敵だな、おい。まぁ、いいか。ほれ」
苦笑みたいに薄く笑ったかと思うと、彼は顎と目線で扉の方を指した。
「ぇ?」
なんてことない、さして深い意味のがある仕草ではない。
だけど、それはわたしの心音を、一際大きく跳ねさせた。
ぎゅっと彼の腕に回した腕に力が篭もる。
いや、別に、その仕草にときめいただとか、夕日に照らされた表情に目を奪われただとか、そんな甘酸っぱいワンシーンみたいなものが要因じゃない。
まぁ確かに、流し目みたいになって妙な色気があったし、夕日に染められた表情は、普段はその影すら見えない凛々しさが垣間見れて、少し格好いいなんて思ったりもしなかったり。
だから、まったく、欠片も、ときめいていないかと言ったら、そんなことも無いと言うか、やぶさかでもないというか、そんな感じかもしれないけれど。
とにかく、わたしの心音を大きくしたその主たる理由は、さっき言ったようなものではない。
それは、わたしが時計を敢えて視界に入れないようにしていた理由と同じ。
「なんですかって、はっ!まさか、扉の向こうに人の気配がないか調べて来いってことですか!?それで、誰もいなかったらぐへへってゲスな笑みを浮かべながら襲い掛かる気なんですねそうなんですね流石にこの流れでもまだ無理ですごめんなさい!」
「なんで、口も開いてないのにフラれないといけないんですかね?」
まぁいいか調子も戻ってきたみたいだし、と続ける。
「ほれ、時計見てみろ。そろそろ暗くなってくる頃だろ。だから、帰―――」
「いっ、嫌です!」
彼が言い終わる前に、その言葉を耳に入れないように遮った。
「えぇ、被せ気味に……。でも、お前も一応女の子なんだ、暗くなる前に帰った方がいいだろ?」
「一応ではなく女の子です!……でも」
「でも?……家で、なんかあったのか?」
「あ、いえ。あの、そう言うことでは無くてですね」
つい、そう言い淀んだ。
会えなくなるのが嫌だ、なんて言えるかっ!
この胸の内を、ありのまま言葉に変えて彼に伝えるのは、どうにも照れや恥ずかしさが邪魔をする。
何より、彼に何故とその理由を聞かれても、答えられる程の明確な答えを、解を、わたしはまだ持っていない。
だから、優しい心遣いへの返答、いや、返す答えが見当たらないのだから、言い訳になるのだろうそれは口と頭でごちゃ混ぜになって、はっきりした言葉を出すことが出来ずにお茶を濁すしかなかった。
「んじゃ、送ってやるから、な?だから、ほれ行くぞ」
「送ってくれるんですかっ……で、でも」
でも、それって、家に着いたら、また。
そう、口に出せないものを胸中で問いかける。
そうだ、だめだめ。
送るなんて、餌でわたしを釣ろうたってそうはいきませんよ。
わたしの反応に、随分渋るな、と首を捻る彼。
「なんか今日、話すことがあったなら、また明日にでも聞いてやるから。」
「あ、明日?……明日も?」
彼が言った、一言。
彼にとっては何気ないことだったのかもしれないけど、いや、そうだったと思う。
だげど、ことわたしに限っては、明日も、そう明日と言う次回が確約され、また会えなくなったとしても彼の方からわたしを訪ねてきてくれるかもしれない、そんなとても重要な言葉だった。
「そーそー、明日もだ」
「や、約束!約束ですよ!?」
軽薄な物言いな彼に、右手の小指をつき出して迫った。
ここが押し時。
人付き合いが面倒だと公言する彼にここを曖昧にして引けば、きっとわたしが望む次は、実現すること無いままに消えてなくなるか、はぐらかされるに決まっている。
そうはさせない為の約束。
彼は気だるげでぼっちで軽薄そうに見えはするが、その実、妙に義理堅い所がある。
だから、進んで人との約束を破らない、と思う。
ならば口上の何の制約も規制も強制力もない、優しく柔らかい口約束で彼を拘束する。
そうすれば、会えなくなるなんてことは。
「あぁー、まぁ約束だ」
「約束破ったら、針千本で体の至る所を串刺しにしますからねっ!?」
「やだ、この子ったら猟奇的」
「どうなんですか先輩!?」
のらりくらりと返答する様は、この約束を特に重要だと捉えていなさそう。
このまま有耶無耶にされてしまいそうで、そうはさせまいとずいっと、彼に一層近づいた。
「わかった、わかった。破ったら千本でも万本でもいいから」
そして、彼ははっきりと「約束だ」と言った。
言った。
間違いなく言ったよね。
うん、言った。冗談とかではなくちゃんと言った。
…………。
よしっ!よーっし!
確約勝ち取った!
安堵のため息が口についた。
「あ、いえ、先輩、一億本です」
「素知らぬ顔で増やし過ぎだろ……。そもそも、そんなに針用意できるの?業者なの?」
「そんな些細な事どうでもいいじゃないですかー」
何万本もの誤差を些細な事って恐れ入るわ、と彼は言う。
突き出した小指は触れ合うことはなかったけれど、それでも心で触れ合った。
それに、彼の口から約束と言う、不確かで、不確実ながらも実のある言質はとった。
「……まぁ、そこまで言うなら、仕方なく、渋々ですが帰ってあげましょう」
「あ、はい。では、お願いします。……ってなんで俺が頼んでるみたいになってんだよ」
彼は珍しいノリツッコミでこちらに顔を向けだ。
で、そこで気が付いた。
んのぉ!?か、顔近い!
すぐ目の前には彼の気だるそうな瞳があって、揺れる前髪があって、意外と整っている輪郭があった。
それもそうだ。
彼の腕を抱え込んでお互いの距離はゼロなんだから、彼がこちらへ顔を向ければ必然的に、勝手にお互いの顔は至近距離でかち合う訳で。
「ちょ、ちょちょちょ!?」
「ん?壊れかけレディオ流行ってんの?それより、ほれ、帰るから手、離してくれ」
「…………」
沈黙。
彼はなんてことない顔して、面倒な用事を済ますみたいな気怠さで、わたしの手に捕まった腕とわたしを交互に見やる。
なんですかね、その反応。
ひじょーに納得いかないんですけど。
わたしがこんなにも慌ててるってのに。
なんで、そんな平然としているんですかね。
むぅ。
乙女としてのプライド的なものが、わたしにこのままで済ますべからずと訴えかけてくる。
おーけー、わかってる、わかってる。
わたしとて勿論、これだけ近づいているのにこちらだけがってのは腑に落ちないし、納得いかない。
て、事で見返す為に、この状況を利用させていただく。
「ささ、帰りましょー!」
彼の言葉を聞かなかったことにして、掴んだままの腕をそのままに立ち上がる。
長時間同じ状態、環境が続いて一時的に慣れてしまっているから、顔が近くても慌てないのだろう。
そう、そのはず、いや間違いない。
わたしに魅力が無い訳でも、女の子として見られて無い訳ではないんだ、たぶん。
いやいや、違う、違う、断じて違う。
では、このままの状態でも環境を変えてやれば慌てるはず、いや、慌てふためく。
「……え?ちょ、ちょっと待て一色。ちょっと、待って。ほんと待って?」
よしっ!ちゃんと慌ててるっ!
思惑通りに慌てふためいているその姿にわたしの頬がほころぶ。
珍しくあわあわと焦りながらも、抵抗する彼をずるずると引きずりながら、教室の扉を開けた。
「て、手は?一色?」
「もちこのままに決まってるじゃないですかー。もー男なら潔く観念せんかーですよー」
「ま、待て。話せば分かり合えるはずだ。我々にはその為に言葉がある」
「日本語忘れちゃいましたー。てへっ、わたしったらうっかりさん」
「流暢にしゃべってんじゃねぇか!」
むふー、これだけ慌てさせればわたしとしても満足いく結果。
これだけの美少女に触れているんだから、彼と言えど意識しちゃうのも仕方ない。
うんうん、美少女として意識されているから仕方ない。
初めから素直にあわあわしてればいいものを、やせ我慢するからこうなるんです。
やいやいとじゃれつき、もとい彼からの抵抗をあしらいながら校舎を出て、駐輪場で彼の自転車を回収して、雨でぬかるんだグランドへ。
勿論、その間もずっと掴んだ腕はそのままだ。
周りの人たちから視線を感じる気がしないでもないけど、その程度。
今のわたしにとっては、取るに足らないことで、些事。
むしろ、いつもは鬱陶しくも思う視線に、優越感のようなものがある。
なぜそんな風に感じるのかはぼやけてはっきりはしないけど。
だけど、誇らしいような、自慢するときのような、自尊心をくすぐられる感覚に頬がまた緩む。
彼の方は、少し周囲を窺い見た後、足を速めようとした。
が、わたしががっちりと腕を掴んで、わざとゆっくり歩いているのでそうは出来ないのだけど。
周りの人に見られて恥ずかしがるなんて、先輩可愛いとこあるじゃないですか。
にやにや、によによ。
頬を緩めっぱなしで、ぬかるんだグラウンドを水たまりをひょいひょいと避けながら歩く。
至る所に点々と出来た水たまり。
それは雨が降った後の名残であり、跡。
今ではなくて、それは過去の出来事。
「わたしってケーキ食べないと帰り道思い出せないんですよねー。でも、ちゃんと家まで送ってくれるんですよねー?せーんぱいっ?」
「どんだけ都合のいい記憶能力してんだよ。ってか、優しい先輩に対してなんたる無礼」
「さーさー。れっつあんどごーですよー!まぐなむとるねーどで行きますよー」
「ばっかお前、お兄さんの方がカッコいいだろ」
水面は今、地面に落ちた鏡になって空を映している。
さっきまで逆さまに映る世界は空一杯の曇天を映していた。
今だってまだたくさんの雲が残っていて、晴天ってわけではないけど。
けれど、だけど。
その中でも、夕日はきらきらと輝いている。
第五話 水面に見える雨の跡
お疲れ様でした。
至らぬところが多いながらも、ここまで読んで頂きましてありがとうごうざいます。
今話は前話から半年後、なんてことはなく投稿出来てほっとしております。
ですが、それでもひと月以上と長い間お待たせしてしまい、申し訳ありません。
自分はかなりの遅筆の部類だと思いますが、巷では五千文字ほどを数日で投稿される作者さんもいらっしゃるとお聞きしました。
魔法、魔法ですよ。
一万文字程度をひと月以上掛けてじゃないと書けない私からすると、そう感じずにはいられません。
羨ましい限りです。
さて前話の後書きでは、暗い話が続きますと言っていましたが今話でそれも一段落となりました。
何故、急に方針が変わったかと言いますと、だらだらと引き伸ばす、無駄話の連続はよくない事だとご指摘頂きましたので、ずばっと添削しながら書いた結果です。
ご指摘を反映出来ているかは自分では判断しかねるのですが、上手くいっていると嬉しいです。
次回の投稿もあまりにも遅くならないよう努力いたします。
なので、もしお楽しみにして頂けますと光栄です。
それでは皆様、また次話でお待ちしております。