一生一代の大恥をかいた、あの日。
私はありったけ叫ぶだけ叫んで、粗方の恥を一旦は吐き出し終えると、何事もなかったかのように平静を装って、彼が帰路に着くのを見送った。
その去り際。
彼が見せた表情は優しげな微笑み、ではあった。
が、その笑みはなんとも言えない生温かさがあった。
労りのような、同情のような、そんな生温かさ。
そんな彼の表情を見て、私はきっとどれだけ大人になろうとも、何度も何度もこの出来事を思い出しては悶絶することになるのだろうと思った。
彼の背中が見えなくなる頃。
小休憩なんてとっくに終わっていて、もう授業は始まっていた。
授業が始まっている時間に、あの教室に帰る。
それだけでも十分目立つのに、その時の私がそこへ合流すれば間違いなく静かなお祭りが開かれてしまっていただろう。
あの時の私には、そんな場所で平常心を保つ自信はなかった。
だから、少しでもほとぼりが覚めるまで、私は急病人になることにした。
仮病。
保健室で適当な理由をでっち上げて、独特な香りがするベットへと身を投げる。
すると、泣き疲れていたのか私の意識はすぐ泥のように落ちていった。
次に瞼が上がった時。
時計を見ればHRも終わっている時間で、どこからか部活の掛け声や楽しそうな会話の断片が聞こえていた。
仕方なかったとは言え、一時間丸々サボってしまったことに生徒会長としては少し罪悪感を覚える。
だけど、まぁ、過ぎてしまったことだと割り切った。
教室へ鞄を取りに行くと、ありがたいことに、と言うか時間が時間だから案の定なんだけど、そこにはもう誰も残ってはいなかった。
鞄を手に取ると、挟まれていたのか一枚の紙がひらりと床に落ちた。
それに軽く目を通して、足早に学校を出る。
結衣先輩がいるだろう奉仕部の部室へ謝りに行こうかと思ったけど、会えば顔から火をだしてしまいそうだったので、私は一人帰路についのだった。
まぁ、家に帰って携帯を開くと結衣先輩からの着信とメールが数件あって、流石に無視する訳にもいかずに折り返しの電話をすることで、結局は自室で悶えに悶えたのだけど。
それから土日の休みを挟んで、今日は月曜日。
授業が終わって、今は放課後。
私は今、何をしているかって言うと、教室に残るわけでも生徒会室にいるわけでもなく。
「一色さん、紅茶の御代りはどうかしら?」
特別棟の空き教室。
奉仕部の部室にお邪魔していた。
「はいっ。いただきます雪ノ下先輩」
そう返事をすると、雪ノ下先輩は緩やかに微笑んで、流れるような優雅な手つきで準備を始める。
「お菓子もまだまだあるから、いろはちゃんも遠慮せずに食べてね?」
「はーい!いただきますね結衣先輩っ!」
んふふ、なんだか至れり尽くせりだ。
先輩方にばっかりお世話になるのは心苦しいけれど、せっかくのご厚意だ、遠慮するほうが失礼に当たるよね。
じゃさっそく、結衣先輩が用意してくれているお菓子を一口。
うん、おいし。
とろける甘さが授業とそれ以外のことで疲弊した私に染み入る。
ふはー、やっぱ疲れた時は甘いものだなぁ。
「どうぞ」
カチャリとも音を立てず、私の前にシンプルなティーカップが置かれる。
ふわりと爽やかな香りが広がって、意識しなくても私の中へ溶け込んで凝り固まった琴線を緩める。
いただきます、と一言お礼を言ってから口をつけた。
ん、ストレートだ。
「お菓子があるからその方がいいかと思ったのだけれど、お砂糖いるかしら?」
「いえいえー。さすが雪ノ下先輩ばっちり合ってます」
「そう。ならよかった」
柔らかに微笑む雪ノ下先輩。
結衣先輩にも同じくストレートだろう紅茶を注ぎ足す。
「ありがとーゆきのん。いただきまーす」
「どういたしまして」
そして、お決まりの席にはまだ座らずに、再びティーセットがある場所にまで戻った。
「はぁー生き返りますー」
椅子の背もたれに体を預け、紅茶の香りがするため息を吐きながら天井を見上げて余韻に浸る。
こうしてると今日の疲れが消えていくなー。
穏やかな心持で今日のことをふと、思い返す。
朝一、友人に先日のことを謝って、誤解を解くのに一苦労だった。
周囲からの好奇の視線を浴び続けるのは、二苦労。
昼休みには書記ちゃんが慌てて事情を聞きに来たので説明してあげて、三苦労だ。
ほんと、今日一日ずっと苦労ばかりしていた気がする。
そのお蔭で授業の内容はさっぱり。
頭に全然入ってないや。
まぁ、ほとんどは二苦労の所為なんだけどもね。
奉仕部にお邪魔することなく帰っていたら、きっと私は家で枕に顔を埋めて、コツを掴み始めた叫び声を上げていただろう。
お腹から出して、喉を抜けて、口で前へ押し出すのが大切なんだよね。
叫び声講座、開講未定。
だけど、ここへ来た理由はそのストレス解消ってわけではなくって、いや、それもあるっちゃあるのだけど、それは副産物であって、主産物ではない。
じゃあ、主産物は何か。
それは、奉仕部。
今はティータイムでまったりしているけど、ここは本来、迷える子羊たちの悩みを解決する、そんな部。
そう、今日は珍しく依頼に来たのだ。
依頼。
今回の件についてだ。
私と先輩が引き離されそうになった原因。
私達の噂。
それは、明らかに浸透スピードが速くて、さらに範囲が広範囲だ。
二年生は当然のことで一年生も。
更には自由登校の三年生にまで少数だけど広がっているらしい。
そう、ふらりと生徒会室に訪れた前生徒会長から教えて貰った。
その広がりは、やっぱり余りにも不自然。
人が人為的に作る噂に自然も不自然も有りはしないだろうけど。
でも、自由登校の三年生なんて普通知りようがないはず。
なら、この噂を誰かが、そして意図的に流行らせているんじゃないか、そう私は睨んだ。
が、睨んだはものの。
一人で色々と解決策を考えてはみたけれど、事態が好転しそうな案はさっぱり浮かぶことはなかった。
このままではダメだ。
一人でどうこう出来る問題ではない、と早々に判断した私は、本当は巻き込みたくはなかったのだけど、こういった時に全幅の信頼が置ける先輩方の力を借りることにしたのだ。
「はい、どうぞ比企谷くん」
ちらりと天井から彼に視線を移す。
また、音も立てずに雪ノ下先輩が机を撫でるみたいに紅茶を出していた。
彼は片手で持っている文庫本に落としていた目を雪ノ下先輩に向けた。
「……ん、すまん」
「謝るくらいならば、お礼が欲しいのだけれど」
「……ありがとよ」
「いいえ。どういたしまして」
たったそれだけ。
たったそれだけなのに、二人の間に通じ合うもの、絆っていったらいいんだろうか、それを感じた。
むー。
なんだか、嫉妬しちゃうなぁー。
なんて、そんな二人の姿を見ていると醜い感情に小さく火が灯る。
だけど。
それは全然、嫌な気分じゃない。
それどころか、私の口角は上を向いて、世界は弓なりに細くなる。
別に、略奪されるのが好きとかじゃない。
断じて違う。
ただ、彼らが平穏な日常を過ごしている、それだけで、私の醜い感情は霧になる。
だって、大好きな先輩達なんだもん。
この三人の関係が羨ましくて、それに嫉妬するなんてことがあったとしても、赤黒い思いは欠片も生まれてこない。
その嫉妬は、身体を焼き切ってしまいそうなそれとは全然違うんだ。
なんでかこっちが嬉しくなって、それに楽しくなる。
ゆらゆらと波をうつみたいな、そんな優しい嫉妬。
「ん、美味い」
「そう」
単語だけの短い会話。
二人の間には、会話よりも彼にだけ添えられているスプーンが歌っているみたいに鳴らす、綺麗な音がたくさん浮かんでいた。
「さて、一色さん。依頼ということだけれど、その依頼内容を聞かせて貰ってもいいかしら?」
全員に紅茶をだし終えた雪ノ下先輩は、ようやく定位置の椅子に座る、
そうでした、そうでした。
二人のやり取りを見てて、話すタイミングを見失ってた。
「あ、はい。えーっと……」
さて、どこから話せばいいんだろう。
依頼するのだし、その経緯とかも話すべきなのかな?
んー。
「……あっ」
あーでもないこーでもないと逡巡していると、文庫本に再び目を落した彼が目についた。
む、むむむ。
話し難いな、これ。
あまり考えていなかったけど、この噂の原因を突き止めたいってさ、遠まわしに彼との邪魔をした奴を許せないってことにならない?
友人知人との間に亀裂をいれられそうになったのなら、怒るのも当然のことだとは思うけど。
だけど、その相手が異性となれば話が少し変わってくるような。
私と彼との間を邪魔しやがって、みたいな。
だからかな?
自分から事の顛末を話すのが、なんとなく気恥ずかしい。
何よりも、そのお相手がすぐそこにいるってのが余計にそう思わせる。
そこの彼に、私は貴方との間を邪魔した人に怒ってますって正直に白状しているみたいな。
なんだか、すごい必死というか執着というか、そんな感じがする。
まぁ実際、必死になっていたからその通りではあるんだけど。
うら若き乙女としては、そんなところに恥じらいを持ってしまうのであって。
「あーっと、えーっと……」
なんて、口ごもってしまう。
「……あっ。あー、そうだ、いろはちゃん!その依頼より先にさ、あの噂をやめさせよーよ」
私が言いずらそうにあーだこーだと言葉を濁していたのを見てか、結衣先輩がそう切り出した。
結衣先輩はこちらに顔を向けて、数瞬優しく微笑んでから、にぱっとはにかむ。
あーもうっ!
結衣先輩さすが過ぎですっ!
よっ気遣い達人!
うら若き乙女のプライドを気遣ってくれたお礼を、彼がいるここでは言葉には出せないので視線で返す。
「あの噂?」
はて、と小首をちょこんと傾ける雪ノ下先輩。
学校に広く流布する私達の噂だけど、どうやら雪ノ下先輩には届いていないみたい。
「ゆきのんは知らない?いろはちゃんがね、えーっと……付き合っている人がいるーって噂なんだけど」
「初耳ね。そうなの一色さん?」
雪ノ下先輩は眉をピクリと動かした。
雪ノ下先輩、美人だからこういった経験があるんだろうなぁ。
私なんかよりも、そういった噂でたくさん嫌な思いをしてきたのかもしれない。
「いえいえー。いないんですけど、誤解されちゃってるみたいでして」
「……なるほどね」
「ねぇ、ゆきのん。いろはちゃんの噂止められないかな?」
「出来るのならば、そうしてあげたいのだけれど……」
難しいでしょうね、と眉を顰めたままそう言った。
そう、ですよねぇ。
いくら先輩方の力を借りても、それでもたったの四人。
友人に協力を仰いだとしても、この学校にいる人間全ての言語統制は出来ないだろう。
でもだからって、なすがまま、されるがままは嫌なんだよね。
広がることは防げなくても、せめて元凶となった人間を炙りだして、そんでもって一矢報いれたらいいなって思うんだけど。
でも、手掛りはゼロで影すらも踏めない状況。
私を良く思っていない人なんて自慢にならないけど、たくさんいるのだから見当も付かない。
あ、でも、彼なら実は何か知っていたりするんじゃないかなーって思ってみたり。
「俺は忍者かよ」
「え、でも影の薄さ的には天職かと」
文庫本を開いたまま机に置いて、ティーカップに口をつけていた彼。
じとーっとした目で私を一瞥してから、はっとした表情で自分に視線を戻して「す、透けてないよね」なんて言っている。
透けてるわけないじゃないですか、天然なのかな?
「ヒッキー何か知ってるの?」
「あのなぁ由比ヶ浜。俺みたいなボッチが噂なんて身内ネタの輪に入れるわけないだろ。ソースは雪ノ下」
「除け谷くん。貴方と私を一緒にしないでくれるかしら?私はただ無駄な情報を記憶しておきたくないだけよ」
「…………」
会話が宙に浮いた。
彼と結衣先輩と、そして私との間に一種のむず痒さみたいなものが漂う。
「……ぇ、っとぉー」
アイコンタクト。
結衣先輩が愛想笑いに失敗した苦笑いをそのお顔に張り付けたまま、私に視線を向ける。
ちょ、結衣先輩、私がツッコむんですか!?
ここは雪ノ下先輩を例に上げた先輩がツッコむべきでしょ!
流れ弾を発射元に送り返すべく、すぐさま彼に視線を移すと、
「…………」
胸を押さえて、苦々しい表情をしていた。
なにしてるんですかねぇ、この人は……。
その表情は、伝言板みたいになっていて「何故、俺の心が痛いんだ」と心のままを書き留めている。
実際にはそんな文字書かれてはないんだけど、でも、分かりやす過ぎるくらいにそんな表情をしてる。
自爆かな?
そうだね、うん、自爆だね。
……もう、どちらにも触れないでおきましょう。
「んん。話が逸れてしまったけれど、噂の元凶、それを見つけることも難しいでしょうね」
こほん、と雪ノ下先輩が咳払いをして仕切り直す。
「うーん。そーだよね……」
「ですよねぇ……」
「まぁ、時間を掛ければ出来ないことではないのだけれど」
雪ノ下先輩の言う通り、多くの時間を掛ければ出来ないことはない。
だって、一人一人に聞き込みをして噂を辿って行けば、いずれその川元に辿り着くのだから。
だから、出来ないことはい。
だけど、それにはとてつもない時間がかかってしまうし、何より。
辿って行った先が、本当の元凶なのかもわからない。
噂は人を介すればするほどに尾びれが付いて、そして、それはいつしか新たな噂を生み出していく。
発生源は、そんな有象無象の霧の中へと消えてしまう。
次々と生まれる派生に、始まりの原本が一体どこなのかわからなくなる。
無駄な徒労に終わる可能性が高いその策には、難色を示す雪ノ下先輩同様に私もあんまり乗る気にはなれない。
見れば、結衣先輩も表情が翳っている。
私と同じことを考えているのかも。
万事休す。
なのかもしれない。
このまま、自然と噂が廃れていくのを見守るしかないのかもしれない。
そんな諦めムードが私達の間で漂い始めた中。
文庫本に目を落したままの彼だけは、そう思っていなかったようで、
「『虎を談ずれば虎至り、人を談ずれば人至る』、そういうこともあるだろ」
そう、口を挟んだ。
「んー?虎?人?ヒッキーなに言ってんの?」
首を傾ける結衣先輩。
一つ上の先輩ながらも、その幼さを感じる仕草、と言うか何もわかってなさそうなそのお顔がとても可愛らしい。
「噂をしているとその本人が現れることがある、そういう意味の諺よ」
「ほへー。そんな諺もあるんですねぇ」
「同じ意味なら、『噂をすれば影がさす』この方がよく聞くわね」
雪ノ下先輩の補足に感心する私と、更に首の角度が深くなる結衣先輩。
……あぁ、分からないんですね。
そんな出来の悪い生徒みたいな結衣先輩に、雪ノ下先輩は優しく微笑む。
「何も行動せず、発信元に辿り着けるとは思わないけれど。そうね、比企谷くんの言うことにも一理あるわ」
地道に情報収集をしていれば、もしかすると尻尾を掴めるかもしれない。
諦めてしまっては、可能性は生まれないのだから。
そう言って、雪ノ下先輩は彼の言葉足らずを補完する。
「情報収集ですか……」
「そう、情報収集。由比ヶ浜さん、一色さんの噂を誰から聞いたのか、それを聞き込みをして辿って貰えないかしら?」
「うんっ!まっかせてゆきのん!」
「では、お願いね。頼りにしているわ由比ヶ浜さん。比企谷くんも―――あぁ、そうよね。無理言ってごめんなさい」
「まだ何も言ってないよね?無理とも言ってないのに決めつけたよね?」
「まぁ、比企谷くんは出来る限りで構わないわ。実質、戦力として数えられるのは由比ヶ浜さん一人だけね」
「ゆ、雪ノ下が己の状況を認めただと……っ!?」
目を瞠り、慄く彼を放置して、作戦は雪ノ下先輩の指示でとんとん拍子に決まっていく。
あれれー?
私も戦力外?
た、確かに、そこまで信用に足る交友関係は広くは……ないかもだけど。
でも、ぼっちを自称している彼よりは十分に役立つと思うんだけどなぁ。
「いえ、一色さんはあまり動かない方がいいわ。目立ってしまって噂が更に過熱していまう可能性があるから」
何よりそうなれば、と続けて。
「そうね、さっきの言葉にひも付けて言えば、『虎の口へ手を入れる』かしら」
雪ノ下先輩はあまり歓迎出来ない、その事態を苦々しく言った。
虎に至り。
そして、その虎の口に手を入れる。
虎は元凶、口は噂。
本来は私が虎の立場なのだろうけど、だけど、事の次第では逆になる可能性もある。
追いつめているはずが、いつの間にか自分が追いつめられている。
私が動くことで、無作為に好奇心の火の粉が散るかもしれない。
それを、雪ノ下先輩は危惧しているのだろう。
「……わかりました。先輩方ばかりに押し付けてしまって心苦しいですが、大人しくしておきます」
私の返事に三人は軽く頷く。
ここで私が無理に動いたとしても、それで先輩方の仕事が減ることはないだろう。
何も出来ないのはもどかしいけど、下手に事態を悪化させて先輩方の仕事を増やすほうが迷惑になる。
ならば大人しくして何もしないことが、今回の私の役目だ。
「では明日から早速行動を開始しましょう。一色さん、それでいいかしら?」
「はいっ。お手数お掛けしますけど、よろしく願いしますー」
「よーし!安心していろはちゃん!あたし頑張っちゃうから!」
「ゆ、結衣先輩……っ!」
彼女達には部活動の依頼であるにしても、手間でしかない私の頼みごと。
なのに、えへへーとはにかみながら笑い掛けてくれる結衣先輩に少し感動する。
いい人過ぎませんか結衣先輩!
結衣先輩の手をひしと取って、感動のままに上下させていた私に微笑みながら雪ノ下先輩は「では、今日はここまでにしましょう」と立ち上がる。
時間を見れば最終下校時間まではいかないけど、いい頃合いではあった。
「ねーねーゆきのん!まだちょっと明るいし帰りにどっか寄って行かない?」
「どこかって曖昧な言い方が気になるけれど、えぇ別に構わないわ」
「やった!いろはちゃんもどうかな?」
結衣先輩は、私にキラキラと輝く瞳を湛えながら詰め寄ってくる。
なんだか、散歩前のワンちゃんみたいで可愛らしい。
そんな可愛らしい結衣先輩の熱線を受けながら、ふむ、とこれからの予定があったか考えてみる。
これからの用事。
帰り道に買って帰らなければいけない物は、無し。
家に帰ってからしなくてはいけないことも、無し。
強いて挙げるのならば、悶絶しながら一人反省会ぐらいかな。
なら、帰るのが遅くなってもいいだろう。
「もち喜んでご一緒しますよー」
「おぉー!じゃあさ、ヒッキーもいこ―――ってなんでもう帰ろうとしてるしっ!」
さっきからどうも静かだと思っていたら、って彼が騒がしかったことなんてないのだけど。
その彼は既に文庫本を鞄に仕舞い、教室の取っ手に手を掛けていた。
「あー、すまんが俺は用事があるからパスで」
「だうとだうとー!ヒッキーに用事なんてゼッタイ嘘だしっ!」
「え、それ酷くない?」
普通の人ならば酷くはあるかもだけど、確かに私も怪しいと思う。
だって、言葉を濁して如何にもその場を切り抜けようとしているのがバレバレだし。
結衣先輩もそう思ったのか、椅子から急いで立ち上がって追及の手を伸ばす。
でも、結衣先輩。
やっぱりゼッタイは言い過ぎだと思うし、彼にだってもしかしたら本当に用事があるかもしれない。
なので、適切に言い換えましょう。
「ほぼ嘘だと思いますけど、どんな用事があるんですかー?ね、せーんぱい?」
「あーえーっと」
彼は言葉を濁してから、
「と、と……戸塚と、な」
ふいっと顔を逸らした。
「…………」
な、なななななんですか。
なんなのですか、そのいじらしい言い方は。
そして、その気恥ずかしそうに伏せた表情はなに!?
か、神様?
助けて下さい、由々しき事態なのです!
この人私の好きな人なんです!
つい先日、気づいたばっかりなんです!
初めて恋らしい恋を教えてくれて、初々しい恋心を抱いている相手なんです!
そんな想い人が道を間違えそうな子羊、どころか喜んで道を外れていきそうなジャッカルに!
あぁ神様、どうかこのジャッカルを正しき道に戻してくださいお願いします!
い、嫌ですよ。
初恋の相手が男の子に夢中なんて、そんな仕打ち!
……はっ!
いやいや、待て待ていろは。
焦って暴走して、大きな大きな失態を犯してしまったことを思い出すんだ。
こういう時こそ、冷静になって考えるんだ。
びーくーる、くーるにいくのだ。
そうだ。
大元の前提が違うのかもしれないよ。
彼が道を間違えているのではなく。
逆転の発想。
もしかして、男の子に夢中になる、そんな人を好きになる私の方が間違えてるのでは?
もしくは、男同士の絡み合いも許せる、そんな大きな度量が恋する乙女には必要なのでは?
…………。
いやいや、大丈夫大丈夫。
私は、この人が好きだから。
そう、好き。
うん、ちょっとだけ、ほんの少しだけ可愛い男の子が好きなだけで、他は普通のいい人だから。
大丈夫よ、私。
そんな普通の人なら好きになっても何も可笑しいことはないし、間違ってはいないからね。
よ、よーし持ち直した。
「ま、まぁそういうことだ。すまんな」
「むー。もーヒッキー彩ちゃん好き過ぎ!」
「駄目よ由比ヶ浜さん。それでは戸塚くんが可哀そうだわ」
「意味が伝わる程度にぼかして罵倒するのやめてくれませんかね」
「あら、何を考えているのかは知らないけれど、それは間違いなく被害妄想よ」
「ねーゆきのん、なんで彩ちゃんが可哀そうなの?」
「おい、雪ノ下。お前が難しい言い回しするから由比ヶ浜、意味どころか頭がぼやけちゃったじゃねぇか」
「なっ!?ち、ちがうし!意味なんかわかってるし、頭だって透けてるもん!」
「深海魚の一種かな?」
混乱している私を置いて、次から次へと小言が躍る。
内容だけ聞けばなんてことない、意外と酷いことも言ってる中身の無いただの暇つぶしのようだけど。
けど。
その三人の表情と、その雰囲気はまるで子供みたいに明るく無邪気だった。
信頼しているからこその、掛け合いで。
相手を理解しているからこそ出来る力加減で。
叩き合っているのではなくて、つつき合ってちょっかいを出して、じゃれている。
あーあ、置いてけぼりにされちゃった。
ほんと、嫉妬しちゃうなー。
「んふふー」
だから、私はつい、また口角が上がっていくのを抑えられない。
「なんだその顔?」
「いろはちゃん?」
「どうかしたのかしら?」
三人の先輩がこちらを不思議そうに見る。
お三方。
台詞が一つになっているのに気づいていますかー?
「いーえっ!なんでもありませんよー」
また笑みが深くなるのを感じながら曖昧に返すと、三人は視線を交互に巡らせてから小首を傾げた。
その姿もまた、同じなのに気づいてなさそうだ。
仲良いよねぇ、この人達。
そう言っても結衣先輩以外は、認めようとはしないけど。
「まぁ、いいか」
そんな仲良し三人組の一人。
彼は頭の上に浮かんだ疑問符を、他の二人よりも早く引っ込めた。
そして、これ以上の追及を逃れるように「んじゃな」と背中越しに別れの言葉を告げると、手を掛けたままにしていた扉を開けて教室を後にする。
そそくさと、逃げるみたいに。
すたこらさっさと、急ぐみたいに。
華麗な足つきで、滑るようにして去って行った。
あぁぁぁぁ。
初恋が男の娘に奪われてしまうぅぅぅ!
「……ゆきのん」
「……そうね」
「…………?」
小さな隙間。
数瞬の空白。
なんだろう、今の変な間?
ちらりと、様子を窺う。
でも、特に変わったことはなさそうだ。
彼が付いてきてくれなかったのが嫌だったのかな?
いや、でも彼の付き合いが悪いのは今更のことだし、さして気になることでもないはず。
んー私の思い違い?
盗み見るみたいに二人の表情に目を注ぐ。
二人はちらりと目を合わせると、淡い微笑みを浮かべた。
さっきの瞬きの間、変だと感じた間。
その真意が掴めなくて、わだかまりが残っている私とは正反対だ。
んー。
もしかすると、あの鉄壁の彼ですらデレさせてしまう、そんな戸塚先輩の可愛すぎる容姿に危機感を覚えたのかもしれない。
二人とも疑いようがないくらいに可愛いし綺麗だけど、彼を戸塚先輩ほど骨抜きに出来ているかといえばそうではない。
だから私と同じく、このままでは他の女どころか、他の男の娘に彼を取られてしまうと思ったのかもしれない。
傍から見れば、二人とも彼に好意があるのはバレバレなのに、隠そうとして滅多にアピールしに行かないからなぁ。
動かないのか、動けないのかわからないけど。
それで、余計に危機感を募らせているのかも。
ふーむ。
なら、ちょうどいいや。
結衣先輩による気まぐれ寄り道の中で議題として取り上げさせていただこう。
最優先議案、ラスボス戸塚先輩の倒し方。
「おーい、いろはちゃん?いこー?」
「あっ、はい!」
少し呆けていたところを、結衣先輩に手を引かれて立ち上がった。
「さぁ行きましょう。扉は、開いているわ」
彼が開けて、開けられたままの教室の扉。
なんで雪ノ下先輩が、わざわざその扉について触れたのか、それもいまいちピンとこなかったけれど。
まぁ、そんなこともあるだろう、なんて軽い気持ちで堂々巡りの脳内会議に幕を下ろした。
さて。
今日は、先日の大失態を忘れるぐらいに、このお二方と遊び尽くすとしよう。
「ふふふー。先輩方、今日は簡単には帰しませんよー!」
「おぉー!いろはちゃんがノリノリだ!あたしも負けないからっ」
「……明日も学校なのだから、ほどほどでお願いしたいのだけど。聞いて―――は、なさそうね」
私達は三人揃って、開けられたままの扉を通る。
教室から外へ。
廊下の中へ。
暖房が効いた教室から出ると、真冬の廊下は寒かった。
だけど。
もう、前みたいに冷たくはない。
第七話 虎穴に入り辿る先 上
お疲れ様でした。
粗雑な文章にもかかわらず、ここまでお読みいただきましてありがとうございます。
ようやく夏の暑さも朝夕だけは一段落してきた今日この頃。
日が暮れるのが早くなってきて、秋の長夜とまではいきませんが、読書をするのによい季節になってきましたね。
皆様は如何お過ごしでしょうか?
自分の方は、……ま、まぁまぁです。
ちょっと調子に乗って、銀の匙をまとめ買いしたりしてたりして。
えっ?
それが無かったらもっと早く投稿出来たんじゃないか、ですか?
へへっ、ごもっともでごぜぇやす。
さて、今回の第七話『上』。
久しぶりに日常パートを書いたのですが、とても難しかったです。
経験豊富な方なら、なんてことなく書けるのかもしれませんが、経験不足が深刻な自分には難易度がとても高かったです。
今話の自信のなさはなかなかのレベルです。
やっぱり、ミステリー小説でいうところの『物語を転がすなら死体を転がせ』みたいなもので、勢いがある場面の方が書きやすいものですね。
今現在、次話が『中』なのか『下』なのか、それはまだ未定でございます。
収まれば『下』だけで済むのですけど……。
今話と同じくらいの期間で投稿出来ればと思ってますので、もしかしたら『中』になるかもしれません。
長々と書き綴りましたが、引き続きお待ち頂けるのならご恐悦でございます。
それでは、皆様。
また次話でお会い出来ることを、心待ちにしております。