白雪と村雨が南方警備艦隊へ着任した時間から、やや時は遡る。
初霜が目覚めた時、船窓の外はすでに明るくなっていた。しかし、そこから見える空は雲に覆われ、海は白波が立っていた。
左右にやや大きく揺れる船内を渡り、洗面所で洗顔を済ませた初霜は、上甲板へと出た。
フェリーの船首が波濤を砕き、舞い上がった波しぶきが甲板を洗っていた。そんな状態であるから、甲板上には初霜の他に人影はひとつもなかった。
初霜は波しぶきがかからない後部側へと移動し、そこで柔軟体操を始めた。ちなみに服装は昨日のシャワー以来、ジャージに着替えてある。
しかしシャワーを浴びたとは言え、昨日の空の旅と、お世辞にも寝心地が良いとは言えなかった二等船室で一晩を過ごした身体は思っていた以上に強張っており、初霜はいつもよりも入念に各部をほぐした。
それから、彼女は日課の屈伸運動を始めた。腕立て、腹筋、背筋、それぞれ二分以内に五十回。それを三セット繰り返す。
短時間だが身体が温まるには十分な運動を終えた後、初霜はもう一度柔軟体操を行いながら、何気なく海に目を向けた。
2000ヤードほど離れた海上に、小型の漁船が波に揉まれながらフェリーと並走しているのが見えた。
海上の波は2メートルを超えている。漁船は上下左右に大きく揺られながら、時折、波間に隠れて見えなくなった。
初霜はそれを見て、あることが気にかかった。
(・・・喫水が深過ぎる)
その漁船は本来なら見えていなければならない側面部が、ほぼ海面下にあった。それは即ち、搭載重量を大幅に超過している事を示していた。
それが多すぎた漁獲量によるものか、はたまた浸水などの事故によるものかは定かでは無いが、危険な状態であるのは確かだった。
危機感を覚えた初霜は、手すりにつかまり半身を乗り出して漁船に目を凝らした。
視力には自信がある。彼女は漁船の操舵室に一人の漁師の姿を見つけた。
漁船の大きさから見て、他に乗員は居ないだろう。漁師は大きく揺れる漁船を必死に操船しているようだった。
だが、その漁師は救命胴衣を身に付けていなかった。そんな状態で、もしこんな荒れた海に投げ出されたら・・・
初霜が最悪の予想をしたとき、その漁船がひときわ大きな波に乗り上げ、船首が高々と持ち上がった。
続いて急角度で波間に落ち込み、そしてそのまま見えなくなる。漁船が消えたその場所で、白波が激しくしぶく。
(まさか--!?)
そう思った初霜の視界に、船底を上にした漁船が現れた。
転覆である。
それを認めた瞬間、初霜は身を翻して船内へと戻った。そのまま通路を走り、関係者以外立ち入り禁止と書かれた船橋区画へと駆け込む。
船橋で操船を担当していた当直航海士が、突如現れた少女に驚愕の声を上げた。
「な、なんだ君は? ここは勝手に入っちゃ--」
「ごめんなさい! でも緊急事態なんです。付近で漁船が転覆したのを目撃しました!」
「なんだって!?」
「相対方位、左120度。距離、約2000の位置です!」
初霜の言葉を受け、航海士はすぐさまウィングに出て双眼鏡を向けた。
「確認した。さっきまで同航で走っていた漁船だ」
航海士は再び船橋内に戻り、船内電話で船長室を呼び出す。
「本船左後方で漁船が転覆しました。これより確認に向かいます」
船長から了解を取り付け、航海士は操舵席に着き自動操縦を解除。同時に船内アナウンス用のマイクを手に取り、漁船が転覆した事と、その確認のため大きく回頭する事を船内に告げた。
「ポート15!」
航海士は左舵15度を宣言。フェリーが左へと回頭を始める中、初霜はウィングに立ち、そこに取り付けられたジャイロコンパスで転覆漁船の方位を確認した。
「漁船の方位を送ります。真方位108度、距離、目算3000メートル」
「了解」と、航海士。「ミジシップ、ステアー108・・・ところで、君は商船学校の生徒か?」
「海軍所属の艦娘です。転任のため乗船していました」
「なるほど」
「双眼鏡をお借りします」
初霜はウィングに取り付けてある高倍率双眼鏡を転覆漁船へと向ける。拡大された視界に、漁船にしがみ付いている男の姿が見えた。
その事を告げようと振り返ると、ちょうど船長が、他の船員たちと共に船橋へと上がってきたところだった。
「この娘は?」
初霜の存在を訝しむ船長に、操舵席の航海士が手短に事情を説明した。
「第一発見者でしたか。ご協力感謝します」
「駆逐艦・初霜です。転覆漁船に男性がしがみ付いているのを視認しました。このまま近くまで寄せるのですか?」
「波が高いので下手に近づくと衝突の恐れがあります。50メートルまで接近したところで停止し、救助艇を降ろします」
船長の的確な判断に、初霜は胸を撫で下ろした。ならば、もうこれ以上は初霜の出る幕ではない。
後は邪魔にならないよう、船橋から立ち去ろうとしたとき、不意に、視界の隅で漁船に高い白波が立ったのが見えた。
漁船に大きな波がぶつかったのだ。
初霜は再び双眼鏡を漁船に向けたが、しがみ付いていたはずの漁師の姿は消え去っていた。
「要救助者が流されたようです!」
「本当かっ!?」
船長を始め、船橋に集まった船員たちが一斉に双眼鏡を構え、海面の捜索を開始した。
初霜も双眼鏡を左右に振って漁師の姿を探す。
「見つけました!」
漁船から数十メートル離れたところでもがいている漁師の姿があった。
「船長、救助艇の準備はどれくらいかかりますか!?」
「急いでも後五、六分はかかる!」
となれば船員の元まで辿り着くには、それ以上の時間を要するという事だ。救命胴衣を着けていない人間が、すがるもの無しで果たしてどれだけ持ち堪えられるものか。
「船長、針路このままでお願いします」
「何をするつもりだ?」
船長の問いに、初霜は近くに設置されていた救命浮環を取り外しながら答えた。
「私が、助けます」
「この荒れた海を泳ぐつもりか!?」
「大丈夫です、艦娘は沈みません。私が要救助者を確保しますので、その間に救助艇の準備をお願いします」
そう言いながら、初霜は救命浮環から伸びるロープを手早く腰に結びつけ、そしてウィングから身を乗り出した。
フェリーと漁師の距離は300メートルほどまで近づいていた。フェリーが後進をかけ、速度を落とし始める。
「おい、待て!」
船長が止める間もなく、初霜はウィングから海面へと飛び込んだ。
船橋ウィングから海面までは20メートル以上の落差があった。初霜は両足を揃えた姿勢で、高い水柱を上げて水中へと没した。
ウィングから見下ろした船長には、海面に浮かぶ救命浮環のみが見えていたが、すぐに初霜の姿も現れた。
彼女は飛び込んだ勢いをそのまま反動にしたかのように海中から飛び出し、そして波打つ海面に降り立った。
海面に直立したその姿に、フェリーで見守る船長や船員、そして他の乗客たちからも、どよめきが沸き起こる。
初霜は腰のロープを手繰り寄せて救命浮環を肩にかけ直すと、溺れている漁師の方向へ海面上を走り出した。
しかしそこは漁船を転覆させるほどの高い波がうねる荒れた海である。自分の身の丈よりも大きく、そして不規則に揺れる足場を二本の足で立って移動するなど、およそ人間には不可能といってよかった。
だが、初霜はそれをやって見せた。
彼女は、高々と盛り上がった波の頂点から水上スキーのように滑り降りると、その勢いに乗せて次の波を駆け上がる。
そして再び波の頂点に立ったところで漁師の位置と次の波のタイミングを瞬時に見極め、そこへ向かって滑り降りる。
いくら艦娘が海上に立てるとは言え、類い稀なバランス感覚と、冷静かつ素早い判断力、そして大胆な行動力があってこそ初めて可能な行為だった。
初霜は陸上を走るのとほぼ同じ速度で、荒れた海を疾走する。
だが、漁師まで残り10メートルを切ったはずの場所で、初霜は相手の姿を見失ったことに気付いた。
足を止め、波が彼女の身体を高く持ち上げたときを見計らって、周囲を見渡す。
しかし、見つからない。
フェリーへ振り返ると、ウィングから船長が拡声器を使って呼びかけてきた。
「要救助者は君のすぐ近くで沈んだようだ! だが、まだ時間はそんなに経っていない!」
「了解です!」
初霜は手を挙げて了解の意を示し、改めて周囲を見渡した。
沈んで間もないというなら、もう一度くらいは浮いてくる可能性が高い。その瞬間を見逃さないよう、彼女は意識を研ぎ澄ませた。
波に身体が持ち上げられ、視界が広くなる。
居ない。
波が足元を通り過ぎ、初霜は波の谷間に滑り落ちる。再び波が迫り、身体が持ち上がった。
それでも、居ない。初霜は滑り落ちる。
と、そのとき、彼女は左足首に強い圧迫感を覚えた。
手だ。
水中から突き出された人間の手が、初霜の左足首を強く掴んでいた。
そのまま初霜は海中に足を引かれ、転倒してしまう。
うつ伏せになって倒れた初霜の腰に、すぐに海中から、もう片腕が伸びてまわされた。
それは溺れた漁師だった。
溺れる者は藁をも縋ると言うことわざそのままに、漁師はすぐ近くに居た初霜に反射的にしがみついたのだ。それはパニック状態に陥った人間の本能的な行動だった。
初霜は大の男から限界を超えた力で、正面から組み付かれてしまっていた。それにより初霜自身も、艦娘としての浮力の限界を超え、海中へと沈みだす。
しかし初霜が肩にかけていた救命浮環のおかげで、なんとか上体だけは海面に残っていた。
だがそれも、しがみついた漁師が初霜の身体を支えに海面へと這い上がろうとし始めたことにより、彼女は逆に海中へと押し込まれてしまう。
パニック状態にある漁師は、自分が抱え押し下げているのが人間だとさえ気付いていなかった。
初霜の小柄な身体は漁師に海中へ押さえ込まれ、肺から乏しい空気が漏れ出していく。代わりに海水が喉に流れ込んできた。
初霜は必死にもがいた。上体をよじり、両足で水中を蹴り続ける。
海水を飲み込みかける寸前、一瞬だけだが海面に顔を出すことに成功した。
咄嗟に口の中の海水を吐き出す。クリアになった口から空っぽの肺に大量の空気を取り入れながら、初霜は肩にかけていた救命浮環を手放し、同時に身体を大きくひねった。
初霜が身体をひねったことにより、しがみ付いていた漁師ごと再び海中へと没していく。
初霜の突然の潜行により海面から遠ざけられた漁師は、反射的に初霜を放し、自ら海面へ向かってもがき出した。
これにより自由を取り戻した初霜の身体に艦娘特有の浮力が戻りかけたが、彼女は海中を泳ぐことによってその浮力を抑え、潜行したまま、溺れもがく漁師の背後に回り込んだ。
そして漁師の両脇から腕を回し、相手の上体を拘束する。
初霜は漁師を背後から羽交い締めにした格好で、海面へと浮かび上がった。
海上に顔を出した漁師は、激しく咳き込んで水を吐き、そして数度、大きく息を吐くと、気を失ったのかグッタリとなって動かなくなった。
初霜は漁師を抱えたそのままの状態でしばらく波間を漂い続け、そして数分後、ようやく救助艇に引き上げられた。
「大丈夫ですか」
と問う船員に、初霜は頷いた。
「気絶しているだけです。呼吸も脈もしっかりしています」
「いえ、私はあなたの心配をしたんです」
少し呆れたようにそう言われ、初霜は虚をつかれた表情になった。
「あ、ああ。私なら全然平気です。大丈夫ですよ、大丈夫・・・」
初霜はそう言いながら、救助艇の隅に腰を下ろした。
しかし彼女の左足首や、身体のあちらこちらには、漁師にしがみつかれた際の痕が濃い痣となって幾つも残されていた--
フェリー入港後、初霜は港湾事務所内に設置された海上保安隊事務所へ案内され、そこで事故状況の聴取を求められた。一応、協力の申し出であったが、断るわけにも行かなかった。
その旨を電話で鎮守府に連絡すると、終わり次第、秘書艦を迎えによこすとの返答だった。だが、事情聴取を終えた頃には、既に日も暮れ、夜になっていた。
初霜が港湾事務所から出ると、そこに一台のタクシーを従えた若い女性が待っていた。
「あなたが初霜ね。私は南方警備艦隊秘書艦の駆逐艦・叢雲よ。よろしく」
「初春型四番艦・初霜です。遅れた上に、わざわざお迎えいただいて申し訳ございませんでした」
「ま、おおまかな事情はこっちも把握しているわ。とりあえずタクシーに乗りなさい」
「はい」
叢雲に促されタクシーに乗り込みながら、初霜はさりげなく彼女の制服についている精勤章を確認した。
精勤章は、艦娘としての勤務年数を示す表章である。階級が無い上に身体が成長も老化もしない艦娘たちにとっては、相手の公的立場を測る数少ない物差しだった。
叢雲のそれは十年を超えていた。
「ねえ」と叢雲が運転手に行き先を告げる前に、声をかけてきた。
「体調はどう? 病院に寄る必要はあるかしら?」
「いえ、大丈夫です。事情聴取を受ける前に保安隊が医師を呼んで、診察してくれました。異常なしとのことです」
身体の痣以外は、とは言わなかった。初霜にとっては他人に知らせる必要の無い情報だ。
「そう。なら良かった」
叢雲は運転手に鎮守府へ向かうように告げた。
動き出したタクシーの車内で、初霜は叢雲から、艦隊の現状の説明を受けた。建物のほとんどが空襲で被害を受けている事、修復が遅れている事、艦隊はまだ叢雲と白雪と村雨しかいない事、叢雲自身は前回の出撃で船体が損傷し、現在入渠中である事、等々・・・
それが一通り終わる頃、タクシーは鎮守府へ到着した。
叢雲からの説明どおり空襲で半壊した庁舎の長官執務室で、初霜は警備艦隊司令である海尾に着任報告を行った。
「遅れて申し訳ございませんでした」
「無事に着いて良かった」と海尾。「人命救助の一件は保安隊からも聞いている。しかし改めて、君自身から報告を聞きたい。疲れているとは思うが、いいな?」
「了解しました」
「仁淀、記録を」
すると、海尾の傍で電子ノイズが走り、仁淀がその姿をゆっくりと現した。
いつもなら一瞬で姿を出現する彼女だが、それだと初対面の人間へ誤解と戸惑いを与えかねないので(白雪と村雨は説明を受けるまで仁淀を人間と疑わなかった)、一目で立体映像と納得できるように演出するよう、海尾と叢雲から指示されていたのだ。
仁淀は全身を映し出し終えると、最後に、まるでついでと言わんばかりにブラウン管テレビの電源を入れた時のように画像を上下左右に歪ませて見せた。
「司令、準備が整いました」
「わかった」
妙なところにこだわる奴だな、と海尾は内心苦笑しながら、初霜に報告を始めるよう促した。
初霜は保安隊で受けた事情聴取とほぼ同じ内容をそのまま報告した。それに対し海尾は幾つか質問を繰り返し、それを仁淀が同時進行で文章化し、立体映像で表示する。
「状況はわかった。ご苦労だった」
海尾はそう言って、それから少し口ごもり、咳払いをひとつ行って、続けた。
「君の行為に対して、個人的には手放しで褒めたいところなんだが、そうもいかなくてな。君は任務以外で自分の身を危険に晒した。それは自覚しているな」
「はい」
「説明できるか?」
「はい。私が沈めば、それは駆逐艦一隻の損失と同義です」
初霜はたじろぐことなく答えた。彼女はそれをよく理解していた。理解した上で、それでも行動した。しかし、初霜は自らの行動を正当化するつもりは無かった。
一般に言う命の価値と、軍人の、とりわけ艦娘の価値は同一では無い。艦娘の命には倫理的道徳的な価値の他に、国防上の戦術的、戦略的価値が伴う。自分一人の覚悟で懸けられる命では無かった。
それを、懸けた。開き直りではないが、処罰は覚悟していた。
初霜の躊躇いのない、揺らぐ事もない返答と態度に、海尾も、彼女のその覚悟を見て取った。彼は無表情にため息をつき、言った。
「結果オーライでプラスマイナスゼロだ。処分はしない」
その言葉に、初霜はわずかに眉を動かす。
海尾の言葉が意外だった訳ではない。むしろ今までの司令と同じ反応と言っていい。そして、こうなるだろうとは心のどこかで予想はしていた。
増長してしまいそうだ。と初霜は思った。自分の行為を後悔はしないが、正当化してもいけない。その理性が、いずれ麻痺してしまいそうな気がしていた。
そんな複雑な初霜の心は、さすがに海尾には伝わるはずもなかった。しかし、彼は続けてこう言った。
「改めて言うが、個人的には君の行為を賞賛したい。だが、これでもし君が沈んだなら、私はその責任を負いきれない。沈むなら私の責任の下、私の命令で、私の目の前で沈んでくれ」
この言葉は、さすがに意外だった。これはつまり、部下を死地に追いやる命令を下すことも辞さないという宣言でもある。なかなかはっきりと物を言う上司だと初霜は思った。
だが、理解はできる。むしろこれを感情的にならずに正面から淡々と告げたこの司令は侮れない人物だと感じた。もっとも、初霜は他人を侮ったり見下したりするような性格では無かった。
しかし実戦経験を積んだ艦娘の常として、階級や役職だけでは従わせることのできない矜持を、彼女もまた持ち合わせていた。それを踏まえた上で、この司令の態度に好感とは言わないまでも、認めるべき部分があったのだ。
「はい」と、初霜はハッキリと答えた。
「よろしい。では今日はもう遅い。他の者たちへの紹介は明日にしよう。明朝0815から地下司令部でオペレーションブリーフィングを行う。叢雲、地下司令部の場所を教えた後、寮まで送ってやってくれ」
「了解」と叢雲。「じゃあ案内するわ。行きましょう」
「はい。司令、失礼します」初霜は敬礼。
叢雲から司令部を案内され、そのまま鎮守府の正門を出た。
寮は鎮守府敷地のすぐ隣だった。そこへ行く途中、人気の無い正門近くに大量に掲げられた横断幕やのぼりが目に入る。
「これは?」
「あら、北方じゃ見なかったの? ここじゃ珍しくもないわ」
「住民との関係があまり良くないんでしょうか?」
「どうかしらね。ここで毎朝デモをやっているけど、その時に集まっていた群衆が、午後には何食わぬ顔でウチの鎮守府の修理工事をしていたりするわ」
「矛盾してませんか?」
「どっちも日当が良いらしいから・・・深海凄艦のせいで中々漁にも出られないし、観光客だって減ったわ。おまけにインフレ。島民にとっては主義主張よりも目の前の生活を守ることが最優先なのよ。だったら、どこも矛盾してないわ」
淡々と語る叢雲に、初霜は「それもそうですね」と簡単に相槌をうった。
どちらが正しいとか、正しくないとか、関係ない。優先して守るべきは彼らの生活であり、そのための手段が、艦娘の立場と島民とで違うだけだ。
目的が果たされるなら、初霜はそのことに異を唱えるつもりはさらさら無かった。たとえこの横断幕やのぼりが、自分たち艦娘が戦って安全を確保している海上交通路を使って運び込まれたものだとしても、だ。
叢雲は横断幕に目もくれず先へ行く。初霜はその後を追いながら、彼女もまた似たような考えなのだと理解した。
他人の評価や非難など気にも留めない。自分のすべきことを、する。叢雲の背中にはそんな態度が見て取れた。きっと、頼りになる先輩だ。初霜はそう思った。
案内された寮は、二階建てのアパートメントだった。もう夜も遅く、どの部屋もカーテンが引かれ、明かりはついていなかった。
「部屋の鍵よ」と、叢雲から鍵を渡される。「荷物は部屋の中に運び込んであるわ。家電製品は一通り揃っているし、ベッドも整えてあるわ」
「何から何まで、ありがとうございます」
「お礼なら管理している近所のおばちゃんに言うべきね。毎日ここの前を履き掃除してくれているから、すぐに会えるわ。じゃあ、また明日」
「はい、おやすみなさい」
初霜は部屋の扉に向かい、ふと気になって、後ろを振り返った。すると、鎮守府へ向かって戻ろうとする叢雲の後ろ姿が見えた。
「あれ、叢雲さんはここの寮じゃないんですか?」
「残業よ」叢雲は軽く振り返って手を振った。「気にしないで、あなたはさっさと眠りなさい。二日連続で遅刻なんて不名誉な記録を作りたくないでしょう。おやすみ」
「あ、はい。・・・おやすみなさい」
去っていく叢雲を見送った後、初霜は部屋に入った。
ワンルームの部屋は、ベッドと、先に運び込まれていた私物のダンボール箱でほとんどの空間が占められていた。
ダンボール箱から着替えとタオルを取り出し、シャワーを浴び終えベッドに横たわる。すると昨日と同じく、すぐに睡魔がやってきた。ただ昨日と違い柔らかいベッドの新しいシーツの上は快適だった。
意識が薄れる間際、ズキリ、と左足に鈍痛が走った。溺れた漁師に掴まれ、痣になっていた場所だった。
そのまま意識を手放した初霜は、その夜、自らが溺れ、沈みゆく夢を見た・・・
次回予告
かつて、夜の闇に仲間を見失った。その過去を胸に秘め、白雪は再び戦場へと舞い戻る。
そんな彼女を待っていたのは、南国の大らかな気風と、穏やかな朝だった。
次回「第九話・同僚たち」
「誰だって親しい人を目の前で失えば・・・見捨ててしまえば、忘れることなんてできませんから」