艦これ海上戦記譚~明け空告げる、海をゆく~   作:PlusⅨ

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第九話・同僚たち(1)

 その空には月明かりは無く、星も無い。海と空の境目さえ区別がつかないほど黒く塗りつぶされた闇夜。

 

--吹雪さん、古鷹さん、どこですか!?

 

 空襲警報。レーダーが迫り来る敵機の群れを感知する。対空ミサイル発射。その黒い空間を引き裂いて、炎が眩い光の筋を描いて、闇の彼方へと吸い込まれていく。

 

 レーダー画像が乱れる。深海棲艦によるジャミングだ。激しい電波妨害により敵の姿を見失う。

 

--吹雪さん、古鷹さん、返事をして下さい!

 

 その声もジャミングにかき消される。ミサイル誘導が封じられ、敵機が接近する。

 

 再び警報。敵機至近距離。すぐさま回避運動を行うと同時に、機銃による自動迎撃を発動。弾幕が闇夜に拡がる。

 

 周囲に水柱が立ち、轟音と衝撃に船体が揺さぶられる。被害探知開始。損傷なし。安堵のため息が漏れる。

 

 その瞬間、横手で眩い光が輝く。

 

 視線を向けると、闇の中、炎と共に自分と同じシルエットの船体が浮かび上がっている。

 

--叢雲!?

 

 被弾した友人に攻撃が集中する。

 

 援護に駆けつけようとしたが、自分もまた包囲されていた。頭上を姿の見えない敵機が飛び回る。

 

 回避運動。かろうじて爆撃をかわすも、燃え上がる叢雲の船体からは遠ざかってしまう。

 

 回避した先に白い光点が瞬いていた。別の僚艦からの発光信号。

 

--フルタカ、カクホ

 

 よかった。そう胸を撫で下ろしたのも束の間、続く発光信号に思わず声を上げる。

 

--ソウサクチュウシ。タダチニ、テッタイセヨ。

 

 捜索中止、直ちに撤退せよ。

 

 そんな、まだ仲間を見つけていないのに。お願い、待って、もう少しだけ。お願いだから。闇夜に手を伸ばす。しかし、届かない。

 

--吹雪さん、吹雪さん!!

 

 目が覚める。

 

 白雪は夢と同じように手を伸ばしていた。

 

「・・・・・・」

 

 ぼんやりとした瞳が、天井と、そこに向かって伸ばしていた自分の手を眺めていた。

 

 数秒、そうしていた後、白雪は腕の力を抜いた。伸ばしていた腕が重力にしたがってベッドシーツに落ちる。

 

「・・・嫌な夢」

 

 ポツリと呟き、寝返りを打って枕元の携帯端末を手に取った。

 

 ディスプレイに映る時刻表示は午前四時二十九分。その表示が四時半を示すと同時に、目覚まし用のアラームがけたたましく鳴り響いた。

 

 白雪はアラームを切り、まだ夜明け前の薄暗い部屋でベットから立ち上がった。

 

 立ち上がりつつ、もう一度、携帯端末に目を落とす。そこにメールが一件届いていた。時刻は昨日の就寝直後だった。

 

 差出人は【吹雪ちゃん】

 

--こんばんは。遅くにメール、すいません。もう寝ちゃいましたかね。白雪さん、今日から新任地ですね。南の島なんて素敵。ビーチとかもあるんですか? 水着姿の白雪さんも見てみたいので、画像お願いしますね(なんちゃって)。頑張って下さい、応援してます!

 

 素直で遠慮の無い文面に、思わず表情が緩む。

 

 すぐに返信してやりたいけれど、せっかくだからこの島の景色の一つでも写真に撮って添付しようと思い立ち、その場に携帯端末を置いた。なお、水着については黙殺することに決定している。

 

 シャワーを浴びた後、ジャージ姿で身分証カードや財布、携帯端末などを詰めたリュックを背負い、部屋を出る。

 

 夜明け前で東の水平線が白みかけている空の下、寮の前で軽やかに箒をかけている一人の中年女性がいた。

 

「大家さん、おはようございます」

 

「あら、おはよう。白雪さん、でしたね。もしかしてジョギング?」 

 

「ええ、日課なんです」

 

「今度の艦娘さんたちは皆ストイックなのね。さっき、別の娘も走っていったわよ。確か初霜さんだったかしら」

 

「へえ、そうなんですか」

 

「早起きはいいことよね。前の娘たちは夜戦だなんだとか騒ぎすぎて、朝はよく寝坊していたわ。でも、あの騒がしさは嫌いじゃなかったわぁ。居なくなっちゃうと寂しいものね。せっかくだから今度、お手紙書いてみようかしら。ねえ、白雪さん。よかったら前の娘たちの新任地を教えてくれないかしら」

 

「え、ええ、まあ」

 

 別に極秘事項にかかわる特別な部署に配属になった艦娘はいないはず。と思い返しつつ、大家がまだまだ喋りだしそうな気配を敏感に察した白雪は、

 

「それじゃ、後でお知らせしますね」

 

 と半ば強引に話を切り上げ、走り出した。

 

「いってらっしゃ~い」

 

 と後ろで手を振る大家に、白雪も軽く振り返って手を振った。

 

 逃げだすような形にはなったが、実は、ああいうタイプは別に苦手ではない。今朝は単に時間が無かっただけだ。

 

 今度もっと余裕があるときに、ゆっくりと話そうと白雪は思いながら朝の道を走る。

 

 この島に着いて初めての朝ということもあって、まだ周囲の地理をよく知らない。下手に走り回って道に迷い、仕事に遅れるわけにもいかないので、今朝のところは鎮守府の敷地内を走ることにした。

 

 門の閉まった正門の前で、眠そうな守衛に身分証カードを示し、通用口を開けてもらう。そのとき、守衛はこう言った。

 

「今日みたいに早めに来ると良いですよ。朝の七時くらいから人が集まりだしますから」

 

 そう言って、正門前の横断幕を指さす。

 

「通勤妨害でも受けるのかしら?」

 

「そんな真似する人間はいませんよ。ただ主催者を除けば、お互い多少は気まずいものがありますね。プロレスに例えるならヒールレスラーのプライベートを見てしまったような気まずさというか。・・・プロレス、見ます?」

 

「ごめんなさい。あまり興味はないの」

 

「今度この島でも興業をしますので見に来ませんか。島人プロレスっていう地方団体なんですけどね。僕の知り合いもレスラーやってるんですよ。モヒカン・ザ・ヒャッハーってリングネームでしてね。デビューするときに前の軽空母さんに名付けてもらったんですよ」

 

 酷いネーミングセンスだ、と白雪は呆れた。まるで酒に酔った勢いで付けたようなリングネームだ。

 

「まあそのうちに機会がありましたら」

 

 そう言って、さっさと正門から遠ざかる。

 

 なんというか、ここの人たちは対人関係の距離感が妙に近い気がするわ。と、白雪は思う。こういうのは嫌いではないが、しかし、まだこの島にも職場にも慣れていないせいか、少し戸惑う。

 

 しかし前の艦隊は島民となかなか良い関係を築いていたようだ。少なくとも夜中に騒いでも文句が出ず、プロレスラーの名付け親になる程度には。そして多分、名付けた場所は酒場だ。一緒に飲んでいたに違いない。

 

 そんなことをつらつらと考えながら、鎮守府内の道を走る。

 

 鎮守府の敷地内のあちらこちらには、修理用の資材が山積みにされ、ところどころで重機が道をふさぐように停車していた。空襲によってできた穴をとりあえず砂利で埋めたものの、まだ未舗装のままという部分もところどころあった。

 

 庁舎側から裏手へ回り、補給処倉庫群をまわり、海側の修理ドックへ走る。地面を掘り下げて造成された修理用の乾ドックには、叢雲の船体が入渠していた。

 

 前回の出撃で単艦で空母と戦ったというその姿はまさに満身創痍だった。

 

 なにしろ搭載武器のほとんどを吹き飛ばされたというのだから凄まじい。まだ修理が済んでいないその痛々しい姿に、白雪は今朝見た夢を思い出した。

 

 “あの時”も叢雲はひどい損傷を受けていたが、そんなボロボロの状態でも彼女自身は涼しい顔で母港まで帰ってきた。今回も同じように帰ってきたらしいとの噂は白雪も聞いていて、そういうところも昔と変わらないと彼女は思った。

 

 白雪はそのまま入渠ドック脇を走り過ぎ、岸壁へと向かう。

 

 海から吹く風は若干冷たく、港内の波は昨日ほどでは無いにしろ、まだ少し高かった。何気なく海に目を向けた白雪は、そこに珍しい光景を見つけて、思わず足を止めた。

 

 海の上を、人が走っていた。

 

 もちろん艦娘だ。防波堤に囲まれた港内を、こちらに背を向けて走っている。後姿であったが、昨日は見た覚えのない艦娘だった。

 

 そうか、あれが初霜か。と白雪は気づいた。

 

 初霜は十数センチメートルほどの波が不規則にうねる海面を、まるで陸上と同じような速さで疾走していた。

 

 短距離ランナーのように数十メートルにわたって全力疾走すると、歩調を緩め、大きく深呼吸しながらゆっくりと慎重な歩みで引き返してくる。その際、初霜は視線を下に向け足元を確かめながら歩いていたので、岸壁に立つ白雪の存在には気づいていないようだった。

 

 初霜はある程度まで引き返したところで、再び短距離全力疾走を繰り返す。

 

 白雪は最初、声を掛けようか迷っていたが、やめることにした。その代り、しばらくその場所で、一心不乱に走り続ける初霜の様子を眺めていた。

 

 初霜の走り方は慣れたもので、これが今朝思いついて始めたことではなく、繰り返し何度も走りこんで身体に染み込ませた訓練された動きだということが見て取れた。

 

 しかし本来、艦娘に“海上を走る”というスキルは存在しなかった。

 

 少なくとも長年にわたり練習艦隊で新人たちに運航術から戦技まで教えてきた白雪でさえ、海上を自分の足で全力疾走したことはなかったし、できるとも思わなかった。

 

 それが必要とさえ思ったことはなかった。

 

 それはそうだろう。人間の走力程度では戦闘の役には立たないし、もし役に立つとすれば沈む船から脱出し巻き込まれないように遠ざかる時くらいだが、それをやるくらいなら脱出用の艦載艇に乗ったほうが早い。実際、離艦訓練ではいかにして救命筏や艦載艇を早く確実に準備するかに重点が置かれている。

 

 つまり、初霜が今やっている自主訓練は艦娘として邪道なのだ。しかし純粋に身体を鍛えるという意味では有効ではある。陸上でも代替え可能ではあるが。

 

 だが初霜は、単純に身体を鍛えるためにこんな事をしているのでは無いのだろう、と白雪は察した。

 

 昨日の救助活動は、日ごろから海上を走り慣れた初霜でなければ不可能だったはずだ。

 

 白雪はそんなことを思いながら数分の間、初霜の様子を眺め続けた後、再び走り出した。

 

 岸壁から遠ざかり、再び鎮守府庁舎の前まで辿り着く。白雪は庁舎の二階中央部分の部屋に明かりが灯っていることに気が付き、足を緩めた。

 

 そこは鎮守府長官室、つまり海尾の仕事部屋だった。

 

 こんな朝早くから、もう仕事の準備をしているのだろうか。と白雪は不思議に思い、すぐに違うと思い至った。

 

 もう、ではなく、まだ仕事をしているのだ。多分徹夜だったのだろう。

 

 白雪は庁舎脇の通用口から、建物内へと入った。

 

 まだ早朝ということもあって庁舎内に人気は無く、静寂に満ちていた。

 

 しかし大階段のある中央ロビーまでやってきたとき、吹き抜けの階上から扉の開閉音が聞こえてきて、続いて一人の女性が階段を降りてきた。

 

 叢雲だった。

 

 彼女は疲弊した顔で階段を一歩一歩踏みしめるようにして降りてくる。

 

 白雪は、叢雲に「おはよう」と言いかけて、その言葉を飲み込んだ。そして、少し考えて、こう言った。

 

「お疲れ」

 

「ん? あぁ、白雪。・・・うん、疲れちゃったわ」

 

 叢雲は階段を降り切ると、そのままロビーの隅にあるソファに崩れ落ちた。

 

「もしかして、残業で徹夜?」

 

「もしかしなくとも徹夜。まあちょっとは仮眠をとったけどね。鎮守府の再建と艦隊の再編を同時作業で進めるなんて無茶もいいところよ」

 

「いくら仁淀の支援があるっていっても、海尾さんとあなたの二人だけじゃ確かに厳しいわよね。私もできる限りのことはするわ」

 

「心配しなくても、ちゃんと仕事を割り振っておいたわよ。今日からこき使うから覚悟しておきなさい」

 

「・・・聞かなきゃよかったわ」

 

「それにしても早いわね。ジョギングでもしてた?」

 

「日課よ。それに夢見も悪かったし、少し気分転換もしたくて」

 

「夢?」

 

「サボ島沖」

 

 白雪の短く簡潔な回答に、叢雲は疲れた顔をさらに曇らせた。

 

「嫌な事を思い出させてくれるわね」

 

「私も吹っ切ったつもりでいたんだけどね。やっぱり久しぶりの前線配置を意識しちゃったのかしら」

 

 白雪も軽くため息をつき、そういえば、と続けた。

 

「ねえ叢雲、メール確認した?」

 

「いいえ。なんかあったの?」

 

「昨日の夜に吹雪ちゃんからメールがあったの。あの娘のことだから、多分あなたにも送っているんじゃないかしら」

 

 白雪の指摘に、叢雲も服のポケットから携帯端末を取り出し確認する。

 

「確かに来てるわね。“私の可愛い先輩の白雪ちゃんがお世話になるので、どうぞよろしくお願いします”だってさ」

 

「・・・本当にそう書いてあるの?」

 

「はいこれ」

 

 差し出された携帯端末には確かにそう書かれていた。追伸で白雪の水着姿を撮影するよう依頼までしている。この後輩は先輩を何だと思っているのだろうか。

 

 呆れる白雪をよそに、叢雲がにやにやと笑いながら携帯端末を仕舞う。

 

「可愛い後輩ね。流石、あんたが育てただけあるわ」

 

「もっと上下関係を厳しく躾けておくべきだったわ」

 

「あんたには似合わないわ。それに、艦娘には無意味よ。大丈夫、あの娘は優秀よ。真面目で、努力家。・・・ネームシップである“吹雪”の名を受け継いだプレッシャーも相当あるでしょうに。私たちに甘えるくらい、大目に見てあげたっていいわ」

 

「・・・叢雲って、一見厳しいように見えて、意外と人に甘いわよね」

 

「意外って失礼ね。私はいつも優しいわよ」

 

「それもそうね。あの人と徹夜してまで付き合ってあげているもの」

 

 白雪はそう言って、階上に目を向けながらほほ笑んだ。

 

 そんな白雪を、叢雲はソファに座り込んだまま、胡乱な目つきで見上げた。

 

 白雪がその視線に気づく。

 

「叢雲、どうかした?」

 

「別に・・・ただ変な誤解される前に言っておくけど、仕事していただけだからね」

 

「分かってるわよ。そんな色気のかけらもない疲れ切った顔してるんだもの。情事のあとにはとても見えないわ」

 

「情事って、あんた」叢雲は言いかけ、欠伸をした。「ふぁ・・・ああ、もう駄目。眠い。やっぱり仮眠をとることにするわ。そこの仮眠室にいるから、悪いけどブリーフィングに遅れそうだったら起こしてくれる?」

 

「ええ、任せて」

 

「ん、ありがとう」

 

 叢雲はソファから立ち上がると、ふらふらとした足取りで仮眠室と書かれた部屋へと移動していった。

 

 白雪はそれを見送ると、中央ロビーの大階段から二階へと移動した。

 

 大階段を登り切ったすぐ目の前に、木製の扉がある。白雪は、鎮守府長官室と書かれたその部屋の扉に耳を当て、中の気配を探った。

 

 微かに、規則正しい寝息が聞こえる。

 

 白雪は扉を、音をたてないように静かに開けた。

 

 広い部屋に応接用ソファと、その向こうに木製の執務机。そこの執務机に突っ伏すようにして海尾が眠っていた。

 

 その手には電子ペンが握られ、卓上ディスプレイには書きかけの書類がまだ表示されていた。どうやら仕事の途中で力尽きたとみられる。

 

(叢雲ったら、彼をこんな状態で放置したのかしら)

 

 白雪は旧友の薄情ぶりに憤慨しそうになったが、部屋の様子を見渡して、すぐにそれが思い違いであると知った。

 

 部屋の真ん中のソファには毛布がめくりあげた状態で引っかかっていた。

 

 そこに手を触れると、まだ少しぬくもりが残っている。そして卓上ディスプレイがまだ省エネモードになっていないことから見るに、海尾が力尽きてからさほど時間は経っていないだろう。

 

 おそらく叢雲は、海尾がソファで横になったのを見届けてから部屋を出てきたに違いなかった。しかし海尾はすぐに起きて仕事に戻ってしまったのだろう。白雪は二人の性格を鑑みてそう推理し、やれやれとため息をついた。

 

 白雪は部屋の隅にポットと茶筒を見つけ、それでお茶を淹れ始めた。

 

 緑茶とほうじ茶、紅茶はダージリンとオレンジペコがあったが、白雪は迷わずダージリンを選んだ。

 

 紅茶をカップに注ぎ、ミルクも砂糖も添えずに執務机に向かう。

 

「海尾さん、起きてください。海尾さん」

 

「うん・・・」

 

 海尾が身じろぎして机から上体を起こす。彼はすぐに腕時計を見た。

 

「しまった、五分以上寝てしまった・・・白雪か?」

 

「そうですよ。はい、どうぞ」

 

 と、紅茶を差し出す。

 

「お、ありがとう。・・・なんだかいつもより美味いな。もしかして自前の茶葉なのか」

 

「備え付けの茶葉です。きっと淹れ方が違うんですよ。お湯の温度や、注ぎ方。カップの温度も重要ですね。以前お教えしましたけど、忘れました?」

 

「教わった通りにやっているよ。これでも結構こだわって、それなりに上手くなったと自負していたんだ。だがやはり師はレベルが違うな」

 

 海尾は美味そうに紅茶を飲みほした。

 

「海尾さん、少しは休んでください。秘書艦を先に休ませて上司だけ仕事をするものじゃありませんよ」

 

「叢雲は有能だ。だが俺が休めと言わない限り仕事を続けようとする。甘えるわけにはいかないだろう」

 

「司令であるあなたに休めと命令できる人は、ここには居ないんですよ。私も含めて部下も増えましたし、今日から頼って下さいね」

 

「ああ。叢雲も言っていたよ。白雪は頼りになるってな」

 

「あなたは?」

 

「無論、同じ気持ちだ」

 

 海尾の答えに、白雪は満足そうにうなずいた。

 

「ところで」と海尾。「ジャージ姿ということは日課のジョギングか。街はどうだった?」

 

「まだ来たばかりで土地勘が無いですから、今朝は鎮守府内を走っていました。・・・初霜さんも走っていましたよ」

 

「そうか。・・・うん? 白雪、初霜はまだ紹介していないはずだが」

 

「岸壁沿いを走っていた時に、港内の海上で走りこんでいたのを見ました。艦娘とはいえ、波打つ海面を走れるなんて初霜さんぐらいでしょう」

 

 白雪の言葉に、海尾は「そうか」と天井を見上げため息をついた。

 

「どうかしましたか?」

 

「初霜のことさ。昨日、救助の様子について保安隊からの連絡と、そして彼女からも直接話を聞いたが、なんというか彼女はかなり特殊だな。どこか、まともではない」

 

「それはどういう意味でしょうか」

 

「対人コミュニケーション能力は問題ない。礼儀正しいし、報告も簡潔明瞭で要点を抑え、状況判断能力も優れている。あの北方で練度抜群と評されただけある」

 

「非常に優秀な人材なんですね。だからこそ、あの荒れた海でも冷静に対処し、溺者を救助することができた」

 

「それだよ。冷静すぎるんだ。彼女はあの突発的な危機に際して、何の躊躇いもなく海に飛び込んだ。それも一時の感情的な行為ではなく、計算尽くで、合理的判断に基づいた行為だった。・・・自分の命の危険を度外視していることを除けばな」

 

「・・・・・・」

 

「海の上に直立できる艦娘を溺者の浮き輪替わりにする。最善の判断だとは俺も思う。だが、俺が現場にいたなら二次災害の危険を考えずには居られない。躊躇なく送り込むことは、できない」

 

「・・・私が見た限り、初霜さんは常にそういった危険に備えているように見えました。どんな状況下でも人を救う。きっとそのために、ああして毎日、海を駆けているのでしょうね」

 

「過去の事件ゆえに、か。だが初霜のあの行為は・・・まるで強迫観念のようだ」

 

「彼女の気持ち、理解できないことはないんです。誰だって親しい人を目の前で失えば・・・見捨ててしまえば、忘れることなんてできませんから」

 

 そう言った白雪を、海尾は見つめた。

 

 普段人前では決して表に出すことのない陰りの色が、彼女の目に浮かんでいた。

 

「サボ島沖か」

 

「あの子は、私と似ています。助けたかったのに、助けられなかった。それをずっと引きずっている。でも、あの子は北方で戦い続けた。そして今もここに居る。ずっと後方に下がっていた私とは違いますね」

 

 そう言って少し自虐的に彼女は笑う。

 

「・・・白雪」

 

「そういえば明後日には訓練出港でしたね。よろしければ資料を見せてもらえますか。訓練計画を確認したいので」

 

「・・・わかった」

 

 海尾は彼女に言いかけた言葉を飲み込み、代わりに机の脇に置いてある紙面印刷済みの航海計画を収めたファイルを手渡した。

 

「朝のオペで渡すつもりだったんだが、そのまま持っていてくれ。叢雲の船体修理が完了していないから、今回は君が旗艦だ。午後のオペで細部の調整をしよう」

 

「了解しました。それと海尾さんも朝オペまで休んでください。村雨さんや初霜さんみたいな新しい子たちに、そんな疲れた顔を見せるのもどうかと思いますしね」

 

「そうしたいが、今夜は残業するわけにもいかないからもう少しだけ頑張るよ。君たちの歓迎会を予定しているんだ」

 

「そうだったんですか。ふふ、ありがとうございます。じゃあ、私もお手伝いしいますね」

 

「悪いな、助かる」

 

「あ、そうだ。先にお茶のお代わりを淹れますね」

 

 空になっていた海尾のカップを手に、白雪はポットへ向かう。その後姿を眺めながら、海尾は昔を思い出していた。

 

 練艦隊時代もこうしてよく二人で仕事をしていた。

 

 懐かしい気分と同時に、あの頃よりも増えた業務量を目前にして、海尾は苦笑した。

 

 

 

 


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