各武器の点検整備、燃料、真水、弾薬、糧食その他の補給物品の搭載。さらに船体を細かくチェックし、サビなどが生じている部分はメンテ妖精に指示してペンキ塗装を行う。これらの作業で数時間はあっという間に経っていった。
なんとか業務時間内に整備を終わらせた初霜たちは、それを海尾と叢雲に報告する。
「準備ご苦労だった。この後は君たちの歓迎会だ。店を予約してあるから現地で会おう」
「まだ仕事をなされるんですか?」
白雪の質問に、海尾は苦笑した。
「あと少しだけな。今日中に決済しなくちゃならん仕事がいくつか残っているから、それが終わったらすぐに向かうよ。叢雲、白雪たちに店の場所を教えてやってくれ」
「ええ」
叢雲は頷き、白雪に店の場所を示したメモ書きの地図を渡す。
「ありがとう。じゃあ、先に行って待ってますね」
「白雪」と海尾が呼び止める。「寮の前にタクシーを呼んである。それを使ってくれ。おもての抗議集会は解散したが、まだ主要メンバーが近くを歩いている可能性があるからな。君たちもここの地理に慣れていないし、トラブルを避けるためだ」
「了解しました。お気遣いありがとうございます」
三人は長官室を退出し、正門へ向かう。
守衛が「お疲れ様でした」と敬礼。
「あ〜、エッチな守衛さんだ」
「やあ、お寝坊さん。明日もお迎えに行きましょうか」
「寝坊したんじゃありませーん。ちょっと戸惑っただけだもーん」
「はいはい」
手を振りながら見送る守衛に、村雨も手を振り返しながら正門を出た。
「仲がいいわね」と白雪。
「エッチなのは嫌いです」つーん、と村雨。「あ、ところで白雪さん、初霜ちゃん、プロレスって興味ある? 今度来るらしいんだけど、よかったら一緒に観に行かない?」
「えーっと」初霜は苦笑。「考えておくね」
三人が寮に着くと、ちょうどタクシーがやって来たところだった。少し待ってもらうように頼むと、年老いた運転手はニコニコと笑って了承してくれた。
それぞれ部屋に戻り、私服に着替える。一番早く表に出てきたのは初霜だった。
続いて白雪、遅れて村雨が姿を見せ、三人でタクシーに乗り込んだ。白雪と村雨が後部座席で、初霜が助手席に着く。
「新しい艦娘さんたちだね。この島へようこそ。これから歓迎会かな?」
「ええ」と初霜が頷く。
「艦娘さんたちがまた揃ってくれて嬉しいよ。あんたたち、名前は?」
「初霜です」
「白雪です」
「村雨だよ~」
「はは、みんな涼しくて気持ちよさそうな名前だね。ここは南国だから暑さにやられないようにねえ」
別に暑さへの耐性と艦名は関係ないのだが、それでも運転手の気遣いが嬉しく、三人は大人しく「はい」と頷いた。タクシーは十分ほど走り、目的地へと到着する。
そこは海側に面したカフェだった。西側を向いた水平線はちょうど日暮れどきだったが、残念ながら曇り空に夕陽は隠されて、西の水平線かわずかにオレンジ色に染まっているのが見えるだけだった。
「きっと、晴れていたなら綺麗な夕陽を望めたんでしょうね」
そう呟く白雪に続いて、店に入る。
店内はこじんまりとしていたが、海側一面がガラス張りになっていて解放感があった。バーカウンターから店主が現れ、三人を窓際の席に案内する。
二十分ほど遅れて、海尾と叢雲もやって来た。
「意外と早かったんですね」
「一番の難題だった予算問題がある程度解決したからな。滞っていた仕事も動き出して、もう徹夜をしなくて済みそうだよ」
「よかったですね。ところでこのお店、ずいぶんお洒落な雰囲気ですけど誰が探したんですか? 叢雲?」
「ん~」と叢雲。「そうだけど、そうじゃないというか。前の艦隊の艦娘たちのお気に入りだったらしいのよね、ここ。だから私も何度か通ってるんだけど、歓迎会もここでしようって発案したのは司令よ」
「あら、珍しい。海尾さんって居酒屋派ですよね?」
「まあな」と海尾。「だが男所帯ならともかく、君たちはこっちの方がいいと思ってな。それに・・・」
「それに?」
「居酒屋だと、居合わせた住民からオトーリをまわされかねなくてな・・・」
「オトーリ・・」深刻な表情で漏らした海尾に、白雪も顔を引きつらせた。「それは確かに。命に関わりかねませんものね」
「未成年もいるしね」と、叢雲も、初霜と村雨に目を向けながら頷く。
「あ、あの」と村雨。「オトーリってなんですか?」
「この島伝統の飲み方だ。一人が【親】となって、他の【子】たちへ酒を注いで回るんだ。【子】は注がれた酒を必ず飲み干し、【親】に返杯しなくてはならない」
「それは特に珍しくないのでは?」と、これは初霜の疑問。
「甘い。この【親】ってのが持ち回りなんだ。宴会に参加した全員が【親】を務め終わるまで延々と酒が回ってくる。・・・先日、市長や町長も含めた懇親会に招待されてな。最初は十人ちょっとだった参加者が、知り合いが知り合いを呼んでどんどん集まって、しまいには通りすがりの人まで宴会に飛び入り参加してくる始末だ。・・・百人近くでオトーリとか、死ねるぞ?」
そのときのことを思い出したのだろう。青ざめた海尾に、叢雲も深刻な表情で、
「ここの住民は命がけでお酒を飲むからね。あんたたちも気をつけなさい」
「わ、私たちはまだ未成年ですから。ねえ初霜ちゃん」
「え、ええ」
実は北方では結構たしなんでいた、とは言わない方が身の為だろう。と初霜は判断した。北の酒場でしんみり飲むのとは次元が違いそうだ。
叢雲がメニュー表を取り上げ、言った。
「料理はコースで出てくるから、みんな飲み物を選んで。二時間飲み放題よ」
「とりあえずオリオンビール」
「私はカクテルにしようかしら?」
「はいは~い、私、ノンアルの黒糖梅酒をおねがいしま~す」
「えっと、さんぴん茶で」
ドリンクが運ばれ、それぞれに配られたところで、乾杯。
運ばれてきた料理は島特産の豚肉やシーフードを使った洋風料理だった。運ばれてきて料理を、初霜が率先して小皿に取り分ける。
「どうぞ、司令」
「ありがとう。・・・ふむん、うまいな。ビールもいいが、泡盛にも合いそうだ」
「泡盛は懲りた。って、あのオトーリの後に言ってなかった?」言いながら叢雲も箸をつける。「でも飲み方にさえ慣れたら、酒も料理も美味しいし、景色もいいし、暮らすには悪くないわ。--ふふっ、美味しい」
「悪くないって台詞」と、白雪。「それ、叢雲にとっては最高の褒め言葉よね」
「そうかしら?」
「そうよ。あなた、褒めるってことを滅多にしないから。・・・だから、二人とも」と、初霜と村雨に目を向ける。「彼女から“悪くないわ”って言葉を引き出せたら誇っていいわよ。ずっと第一線で戦ってきた古強者から認められたってことだからね」
へえ、と興味深げに後輩二人から見つめられ、叢雲は困ったように手を振った。
「古強者って、やめてよ。まるで年増と言われているみたいだわ」
「あら、ベテランは褒め言葉にはならない? 駆逐艦一隻で敵機動部隊を殲滅した歴戦の武勲艦と、あっちこっちで評判よ」
「あ~、それ私も聞きましたぁ」はいはーい、と村雨。「艦載機の猛攻をかいくぐって、ヲ級にゼロ距離から魚雷をぶち込んだんですよね!」
「なんか、話が大袈裟になってない?」
「えっと」おずおずと初霜。「私は、民間船の盾になって攻撃を受け切った挙句、火だるまになりながら敵艦に突っ込んで行ったと聞きました」
「あんたら、そんな状態で私が生還できると思ってんの!?」まったく、と、叢雲はため息。「機動部隊と言っても、ヲ級一隻にイ級三隻だけだし、航空支援もあったからSSSM攻撃で事足りたわ。艦載機の練度も低かったしね」
「では、ヲ級への雷撃戦は?」と、初霜。
「雨天下で視界が悪い中、近距離にいきなり出現されたから止む無くよ。12.7センチ連装砲じゃ歯が立たないし、破れかぶれの雷撃戦がたまたま上手くいったってだけ」
「とは言うものの、並の技量で出来る真似じゃないがな」と、海尾が口を挟んだ。「彼我距離7000からの反航戦でヲ級の砲撃をほぼ避け切った上、500以下の至近距離ですれ違いざまに短魚雷を発射。かつての水雷戦法・逆落としの見本のような操艦術だった」
手振りを交えて語る海尾に、村雨が感嘆の声を上げた。
「おぉ~。叢雲さん、流石です。逆落とし戦法、私にもご教授お願いします!」
「あのね。あんなのは戦技教本にも載っていない邪道なのよ。それをするくらいなら確実な索敵手段の研究と操艦の基礎をみっちり訓練することね」
叢雲のもっともな指摘に、初霜もふむふむと頷きながら空いた小皿にサラダを取り分け、次の料理を持ってきた店員に海尾用にビールの追加を注文した。
村雨が「でも」と疑問を口にする。
「深海凄艦が至近距離に出現することは充分に有り得ますよね? 小口径の主砲しか持たない私たち駆逐艦にとって、雷撃戦は唯一の対抗策じゃないですかぁ?」
「敵の撃破を最優先とするなら、その通りだ」と、海尾。「しかし護衛を最優先とするなら、話は別だ。あの時は回頭方向上に敵を発見し、かつ護衛対象に対し攻撃を受けていたために、敵の目を引き付けるべく突撃に移ったが・・・後から考えるに、最適解はやはり退避、撤退だったと思う。魚雷による牽制効果は充分に認められたし、撃破にこだわる必要は無かった。私の判断ミスだな」
海尾はため息をひとつこぼし、そして叢雲に向き直った。
「叢雲」
「ん? 何?」
「上司の判断ミスをよくカバーしてくれた。ありがとう、お前が居てくれて良かったよ」
「あら、そう。どういたしまして」
叢雲は、海尾の改まった態度と言葉を受け流しながらカクテルグラスを傾けた。
そんな叢雲の様子を見て、白雪がくすくすと笑う。
「叢雲、照れているわね。顔が赤くなってるわよ」
「う、うるさいわね。お酒に酔ったのよ」
「嘘つけ。お前、顔に出ないだろ」と海尾も笑う。
その言葉に、白雪が首を傾げた。
「あら、もう二人で飲みに行かれたんですか?」
「まあな」
「初出撃からの生還祝いよ」
「ふうん・・・相変わらずなんですね、海尾さん」
「相変わらずって、どういう意味だ」
「練習艦隊時代から手が早いお人でしたから」
「おい」
海尾は抗議の声をあげた。
が、それは否定というには力なく、むしろ余計なことを言うなというニュアンスに近かった。
そのニュアンスを敏感に感じ取ったのだろう、叢雲が明らかに険しい目を海尾に向けた。
「あんた・・・練艦時代、“誰”に手を出したって?」
「・・・おい」
と力なく海尾。今度は明らかに余計なことを聞くなというニュアンスだった。初霜と村雨という新たな部下を前にして、上司と先輩たちの関係を勘ぐられたくは無かった・・・
・・・のだが、あいにくこの新たな部下二人は、海尾と白雪がそういう関係であったことを既に勘づいていた。
そして、それを勘づかせた当人である白雪は、
「海尾さんから、よく食事に誘われたわね」
「し、白雪!?」
「へえ・・・で?」
「で? って、そうね。・・・ご馳走になったわよ」
「へえ、そう。ご馳走に、ねえ」
叢雲はそうつぶやきながらグラスを傾ける。しかし無言の威圧とも言うべきものが、海尾に向かってヒシヒシと発せられていた。
これは、アレだ。と、初霜と村雨はお互いに目配せして事情を察した。新たな上司と先輩たちの関係は、なかなか面倒臭そうだぞ、と。
初霜は職場の人間関係をゴシップとして楽しむ趣味は無かったが、自分には関係ないと無視する程、孤高を好む性質でもなかった。
ただ十代の少女にしては高すぎる職業意識と、プライベートでの異性間交遊の経験の少なさから、初霜は自然と、海尾に対して警戒するような視線を向けてしまっていた。
一方で村雨はと言えば、対照的に目を輝かせて海尾たちを眺めている。
そして部下たちから様々な意を含んだ視線を受けた海尾は、頭を抱えながらテーブルに突っ伏していた。
白雪はそんな海尾を眺めて、ふふ、と笑う。
そうやって一瞬、誰も声を発しなかった時に、ふと、
『続いてのニュースです。本日、沖縄本島と宮吉島間の海域で操業していた漁船が転覆。乗っていた船員が海へ投げ出されました』
そんな音声が店内に流れてきた。店内テレビのニュース番組だった。
『本日午前七時ごろ、沖縄本島と宮吉島間の海域で操業していた漁船が転覆。乗っていた船員一名が海へ投げ出されました。海へ投げ出された船員は、付近を航行中のフェリーによって無事、救助されたということです。海上保安隊によりますと、事故当時、現場の海域には2メートルを超える波が立っており、漁船はこの波にあおられて転覆したものと思われます。続きまして天気予報のコーナーです--』
「ニュースで報道されませんでしたね」
白雪がふとそう呟き、皆の注目を集めた。彼女はその視線に気づき、「初霜ちゃんが救助に関わったことです」と説明した。
それで、今度は初霜に注目が集まる。
「あ、え、えっと・・・」
これまで傍観者的な立ち位置に居た初霜は、突然話題の中心にされて戸惑いつつも、手元のさんぴん茶を一口飲んで内心の動揺を抑えた。
そして、
「すみませんでした」
「えぇ~、なんで初霜ちゃんが謝ってんの?」
隣で首を傾げた村雨に、
「だって、独断で危険行為を行ったから」
「でも人助けしたんだよ。むしろ誇っていいと思うんだけどなぁ」
「えっと・・・」
初霜は困ったように苦笑した。
そんな初霜を見かねたのか、叢雲がため息まじりに口を挟んだ。
「そこの男がね、クギを刺したのよ。俺の見えないところで勝手に沈むな。ってね」
叢雲から指を指され、海尾が「ん?」と顔を上げて眉を寄せた。どうも自分の発言と若干ニュアンスが違う気がする。
叢雲が笑顔で言った。
「つまり“沈む時は俺も一緒だ”。そういう意味よね」
「おい」
曲解するな。と言いかけたが、止めた。
部下と運命を共にするという格好の良い誤解なら解かずとも良い。何気に命懸けだが、部下が最前線で命を張るのだから当然だろう。部下ウケも良くなるというものだ。
案の定、村雨が、「おぉ~」と間延びした感嘆の声をあげた。
「司令さん、カッコイイこと言いますね~。・・・で、運命を共にする旗艦はどっちになるんでしょうねぇ」
部下ウケとは何であったか。単に火種を手渡しただけだった。いや、爆弾か。
そして村雨はニヤニヤと笑いながら喜んで爆弾を投下し、目標となった叢雲と白雪は、互いに無表情になって、目を合わせた。
「そうねえ」先に口を開いたのは、白雪だった。「意外と、あなたかもよ?」
そう言って、村雨に目を移す。
「あらぁ、そうですかぁ~。村雨が選ばれちゃいますかぁ・・・」
「この人、手が早いから座乗艦の時は注意してね」
「おいっ!?」
それこそとんでもない誤解だ。と海尾は言い訳しようと思ったが、言い訳をしようと思っている時点で既に手遅れであることにも気づかず、そうやって言葉を選んでいるうちに、隣の叢雲が、ポツリと、
「ええ、確かに早かったわね」
一瞬、その場に沈黙が降りた。
「あ~・・・過去形、ですかぁ」
乾いた笑みを浮かべる村雨に、海尾はもう居た堪れなくなり、
「トイレ行ってくる」
そう言って敵前逃亡した海尾と入れ替わりに、店員がドリンクの注文を取りに来る。
叢雲はメニューを掲げ、
「・・・この泡盛の古酒をちょうだい」
「こちらは飲み放題メニューに入っておりませんので、追加料金が発生しますがよろしいでしょうか?」
「構わないわ。ボトルで入れておいて。名前は海尾で。・・・あんたたちも好きなの頼みなさい。いくらでも追加して良いわよ」
「あ、じゃあじゃあ、私はこのマンゴーパフェ大盛りで。初霜ちゃんは?」
「私は・・その、遠慮します」
「せっかくだもの。海尾さんの好意に甘えましょう」と白雪。
海尾本人から好意の根拠を示されてないなぁ、と初霜が思っている間に、村雨と同じ大盛りパフェを勝手に注文されていたのだった。
海尾は個室にこもって、便器に腰かけていた。
人間、トイレの個室ですることといえば、用を足すか、新聞もしくは本を読むか、思索に耽るかのいずれかしかない。海尾は既にビールを二三杯飲んでいたため多少の尿意はあったが、それ以外に便意は無く、また新聞紙も本も無かったので、仕方ないので思索に耽ることにした。
テーマは「人は何故、本屋へ行くとトイレに行きたくなるか」だった。
一説によれば印刷インクに含まれる成分が便意を刺激するらしいが、海尾はそれを信じていなかった。彼自身の経験から導き出した推測は、大量の本を前にして、身体が戦闘態勢に入るからだというものだった。これだけ大量の本を長時間にわたり読まなければならないという気構えが、体内から不要物を除去しようという働きに繋がるのだ。そう、つまり人がトイレに新聞や本を持ち込み読書に耽るのは、その行為の最も合理的にして進化的な帰結なのである。
と、社会にとっても自分の人生にとってもまるで役に立たなさそうな結論を導き出したところで腕時計を見ると、個室にこもってからやっと十分ほど過ぎたところだった。
まあこれくらい時間が潰せたらもういいだろう。と、したくもないトイレを済ませた後、じっくりと念入りに手を洗い、ついでに顔まで洗ってから店内に戻った。
海尾は元のテーブルが女性陣だけで盛り上がっているのを見て取ると、空気を読んでバーカウンターの片隅に腰掛けた。
「ビールを」
そう注文すると、バーテンダーが苦笑しながらグラスを出してくれた。
「なかなか気苦労が多そうですね」
「女性ばかり部下に持つということが、こんなにも大変だとは思わなかった。前の司令はどんな感じだった?」
「海原さんですか。あの人もよくここで愚痴をこぼしていましたよ」
「そうか」海尾は安心したように笑った。「そういえば海原大佐からの申し継ぎにあったよ。ここのバーテンダーは信用できるから、色々と相談に乗ってもらうと良い、ってね」
「おや、そんなに信頼されていましたか。嬉しいですね」
「君から見て、私は信用できるかい?」
「司令に任じられる方の素性を疑うような真似はしませんよ。それは別の部署の仕事です。--ビールのお代わりは?」
「頂くよ」
バーテンダーが新しいグラスと共に、一枚の折り畳まれた紙片を差し出した。
海尾はグラスに口をつけながら、紙片を開き、そこに書かれたメモに目を走らせる。
「パスワードか」
「これで司令専用端末から情報本部内偵科のデータベースへアクセスできます。この島絡みの情報の詳細を知りたい際にご利用ください。なおパスワードは不定期に変更されるので、その都度ここでお渡しします」
「了解した」
海尾は紙片を懐にしまう。
「それともう一つ、取り急ぎ報告したいことがあります。・・・正門前の抗議集会のメンバーに、“隣国”の人間が何人か紛れ込んでいる様です」
「ふうん」
声を潜めたバーテンダーに、海尾は軽く頷いた。
基地反対運動に外国籍の人間が関わっている。という事実自体は予想の範囲内だった。そして、その人間が外国の政府--とりわけ隣国の政府と繋がっていたとしても驚くべき事ではない。
かといって、隣国政府までもが“深海凄艦からの空襲にこの島を巻き込まないため”に基地撤収を求める筈も無い。彼らはもっとシンプルな理由で動いている。つまり、自分の軍事力を行使せずに、我が国の軍事基地を退けたいのだ。
しかし深海凄艦などという“人類共通の敵”が出現している現状で、もしも本当に海軍基地が撤退してしまったら、誰がこの海を守るというのか。その隣国政府が代わりに戦ってくれるというのだろうか。
深海凄艦が出現する三十年より前ならば、彼らは意気揚々とそうしただろう。しかし伝統的な大陸国家である隣国は、三十年前の深海凄艦との戦いに敗北し、その海軍はほぼ壊滅状態になっていた。今でもその戦力は、自国の沿岸部をやっと維持できる程度の細々としたものでしか無い。
しかし隣国は大陸国家であるという地の利を活かし、海上通商航路を失った後も、陸上輸送ルートを駆使して世界各国と繋がっていた。
翻って海洋国家である我が国は、海上通商航路を失った事により国家存亡の危機に瀕し、そのため地理的に近くて通商航路を防衛し易かった隣国に、世界各国との通商ルート全てを頼らざるを得なかった。
いわば、自国の生命線を隣国に全て握らせてしまったのだ。
これが信頼のおける友好国同士であるならば何の問題もなかっただろう。
だが、あいにくと隣国との関係はそれとは程遠く、それどころか深海凄艦が出現しなければ、いつか必ず軍事衝突を起こしただろうと言われる程の緊張状態にあった。
それが深海凄艦の出現によって、我が国が一方的に隣国へ依存せざるを得ない状態に追い込まれたのだ。隣国も制海権を失ったとはいえ、それ以上の対価を得たのは間違い無い。
事実、それから数年間、隣国は通商ルートの維持を交渉材料に、ありとあらゆる無理難題を我が国に要求してきた。
我が国は初めこそ仕方ないとそれを受け入れていたものの、エスカレートする一方の隣国の態度に疲弊し、政府も国民もついに我慢の限界に達してしまった。
隣国と戦争して大陸を支配するか、それとも深海凄艦をこの広い海から駆逐するか。
そこまで追い詰められた我が国は、結果として深海凄艦を相手に戦うことを決めたのだが、その理由は海洋国家としての海戦への経験と自信、そして深海棲艦相手ならば国際社会への名分が立つというものでしかなかった。
それはつまり、もしも仮に海戦に不慣れで、かつ隣国と地続きだったなら、その相手は隣国の人間だったかもしれないということだ。
深海棲艦を“人類共通の敵”と呼んで戦ってはいるが、その実、我が国にとっては“隣国と戦うよりもリスクの少ない相手”でしかなく、隣国にとってはむしろ“海洋国家を締め上げ、代わりに自国の影響力を増してくれた有り難い存在”なのだ。
そしてこのような状況は我が国と隣国に限った話ではなく、世界各地でも同様の状況が起きていた。いわば海洋諸国家と大陸国家の勢力争いだ。表向きは大陸国家も深海棲艦の駆除に支援や協力を出してはいるが、その一方ではこうして裏から足の引っ張り合いをしている。
皮肉なものだ。結局、人間同士で戦争していた時代と何も変わってはいないのだ。そんなことを思いつつグラスを傾けた海尾だったが、同時に、バーテンダーは自分に、こんな今更な感慨を抱かせるためにこの話題を振ったわけではないだろうとも思い至った。
海尾はグラスを置いて、バーテンダーに問い直した。
「・・・それで、“誰”が紛れ込んでいるんだ?」
「二年前の“人喰い雷巡事件”の被害者遺族です」
バーテンダーは声を潜め、横目で艦娘たちの方向を見た。
海尾も、思わず初霜の方へ振り向いてしまいそうになる衝動をグッと堪えた。
「・・・それは、彼女の着任を知っての行動なのか?」
「その可能性は高いでしょう。人事決定直後からこの島に来ています。主催者側の活動家たちと直接的な繋がりはありませんが、裏で糸を引いている連中が手配したものと思われます」
「接触してくると思うか?」
「近いうちに何らかの行動を起こすでしょうね。顔写真や素性については例のデータベースにアップしてあります」
「わかった。帰ったら確認しておく--」
「ちょっと、あんた!」
明らかに酔っているとわかる声音で呼びかけられ、海尾は今度こそ艦娘たちの方へ振り向いた。
叢雲が目元をアルコールで赤く染めながら、手招きをしていた。
「いつまでそんなところで飲んでいるのよ。こっちに来なさいよ。親睦会なのよ。この機会に部下の事をもっとよく知りなさい」
「あら、私はもう海尾さんの事ならよく知っているわよ」
と、白雪がのたまう。こっちもだいぶ酔っているようだ。
叢雲がキッと白雪を睨み付けた。
「あんたのことは聞いてない。私は村雨や初霜のことを言ってるの!」
「そう、じゃあ叢雲はもう海尾さんの事を知っているのね。・・・色々と」
「そ、そりゃ--」言い返そうとした叢雲の顔が、さらに赤くなった。「い、色々って何よ。どういう意味よっ!?」
「ん~・・・彼の寝顔とか、かしら」
「ね、寝顔っ!? ・・・し、知ってるわよ。て、徹夜仕事とか二人でよくやってるし」
「でもぉ」と村雨が首をひねる。「徹夜って基本的にずっと起きていますよねぇ?」
やめろ、いらん事を訊くな。と海尾は願う。しかしそんな声なき願いも虚しく、叢雲が酒と羞恥心で真っ赤になりながら反論した。
「て、徹夜で寝落ちぐらいするわよ!」
「それで起こさずに眺めていたわけね」と、白雪。
「だって、疲れているのに起こしたら可哀想じゃない」
「眺めていたってのは否定しないんですね」と村雨。すっかり煽る側にまわっている。
そして叢雲といえば、もうそれを受け流せるほどの余裕も無さそうだった。
「いいじゃない、秘書艦なんだし、寝顔くらい眺めていたっていいじゃないのよぉ!」もはや支離滅裂である。「だいたい白雪、あんたこそなんでアイツの寝顔を見てるのよ!?」
「え? だって今朝、見せてくれたわよ」
「え? ・・・え!?」
「目覚めの紅茶を二人でいただいたわ」
「なっ!?」
確かに事実その通りだが、白雪の言動はあまりに意味深長にすぎて誤解を招きかねなかった。そして叢雲は残念ながら、酒と羞恥心と興奮がない混ぜになって、もうまともな判断力を失っていた。
「こ、この浮気者ぉっ!」
叢雲は席を蹴立てて立ち上がると、バーカウンターで頭を抱えていた海尾の元へ駆け寄った。
「この浮気者、もう白雪にまで手を出して! この浮気者ぉ!」
涙声混じりに叫びながら、海尾の背中をぽかぽかと殴る。しかし海尾にとっては幸い、叢雲にとっては哀しいかな酔いのせいでほとんど力が入っていなかった。
叢雲はしばらく力なく背中を叩いていたが、やがて背中に縋り付いて顔をうずめた。
「ばかぁ・・・ばかぁ・・・」
ぐすぐすという鼻声と鼻水と涙がシャツに染み込んでいくのを背中に感じながら、海尾はやれやれとため息をついた。
今朝まで一緒にいたのは誰でもない、お前だろう。と、彼女のその頭を小突いてやりたかったが、ここまで酔っているなら誤解を解こうとしても無駄だろうし、それにどうせ明日には忘れているということを海尾は既に知っていた。
海尾がテーブルへ目を向けると、初霜と村雨はさすがに狼狽えていたが、けしかけた白雪はといえば、幼子を見守るかのような笑みでグラスを傾けている。
「やりすぎだぞ、白雪」
「ごめんなさい。叢雲って相変わらずからかい甲斐があるから、つい調子に乗りました。もうしませんから、今夜だけは大目に見てくださいね」
「・・・まったく」
海尾はため息をつきながら背中に縋り付いていた叢雲に腕を回し、隣の席へと着かせた。叢雲は大人しく、しかしふらつきながらカウンターに突っ伏し、やがて規則正しい深い寝息を立て始めた。
「そろそろ、お開きにするか?」
「ええ」
白雪も同意し、初霜と村雨を促して立ち上がる。
「海尾さん。叢雲のこと、よろしくお願いしますね」
「酔い潰した挙句に押し付ける気か」
「仲直りするなら早いほうがいいと思いますよ?」
「余計なお世話だ」
「大事にしてあげてくださいね」
「当たり前だ」
思わず即答してしまった。すぐに自分の発言が恥ずかしくなり、海尾は片手で顔を隠した。
そんな海尾の様子に、白雪は、ふふ、と笑みをこぼした。
「今更ですけど、少し妬けちゃいますね」
そう言い残して、白雪は店を出て行った。
初霜と村雨はその雰囲気に口を挟めず、とりあえず海尾に「お先に失礼します」と小声で声をかけて、白雪を追って店を出た。
先に出ていた白雪に追いつくと、彼女は二人に向き直って、
「ごめんね」と頭を下げた。「ちょっと調子に乗りすぎちゃったわ。あなた達にもいらない気を遣わせちゃったわね」
「いえいえ、全然そんなことないですよぉ」と、村雨。
確かにその通りだわ。と初霜も頷いた。この同期は気を遣うどころか、心の底から今夜の状況を楽しんでいたに違いない。
「でも」と村雨。「実際のところ、白雪さん的にはこれで良かったんですか?」
「彼との関係はもう昔の話よ。それに彼、手は早いけれど二股をかけるような不誠実な男じゃないわ。信頼できる人よ。上司としても、一人の男性としても、ね。・・・さぁ、帰りましょう」
「はい」と初霜。
「二次会・・・は、ダメですか?」と、名残惜しそうな村雨。
白雪は首を横に振った。
「ダメよ。明日も仕事だし、それにあなた達は未成年でしょう。こんな時間からどこへ行くつもりかしら?」
白雪の正論に、村雨も「はぁ~い」と大人しく引き下がった。
三人はタクシーで寮へと戻る。帰りの運賃は白雪が奢ってくれた。
「申し訳ありません」
と頭をさげた初霜に、白雪は笑って、
「先輩だもの、気にしないで」
そう言って車内で支払いを済ませている間、初霜と村雨は先に降車して外で待っていた。
と、不意に、初霜は奇妙な感覚に襲われた。
「・・・っ!?」
鋭く刺すような気配に、背中に悪寒が走る。ゾッと全身に鳥肌が立った。
(誰かに見られている?)
それもただの視線ではない。強い感情・・・負の感情のこもった視線だ。初霜は周囲を見渡した。
「ん? 初霜ちゃん、どうかした?」
「あ、ううん、何でもないわ」
気のせいだったのだろうか。周囲に人影はなく、感じていた視線も既に消え去っていた。
白雪がタクシーから降り立つ。
「じゃあ二人とも、また明日ね。村雨ちゃんは遅刻しないようにね」
「しませんよぉ」
「ふふ・・・でも、人が集まる前に早めに出勤しておくに越したことはないわ。特に、初霜ちゃんはね」
「はい」
初霜は素直に頷く。自分の特殊な立場と世間の評判は、自覚していた。
「そう、じゃあ、おやすみなさい」
「は~い、おやすみなさ~い」
「お疲れ様でした」
三人はその場で別れ、それぞれの部屋へ向かおうとした。
だが、しかし、
「--え?」
寮の建物に向き直ったとき、そこで目にした異様な光景に、三人の足が止まった。
二階建てのアパートメントタイプの建物の、その一階部分にある初霜の部屋。
その玄関のドアが、真っ赤に染まっていた。
いや、それは文字だった。赤いペンキで書きなぐられた、文字。
【杀人犯】
ドア一面に大きく書きなぐられたその文字から、まだ生乾きのペンキが血のように滴り落ちていた----
次回予告
ひとごろし。
そう叫ぶ声なき声が、初霜の後を追いかける。
南方警備艦隊の一員として出港した初霜たちが遭遇するのは、深海棲艦か、それとも過去の怨念か。
次回「第十話・潜む、悪意」
「俺にとって深海棲艦は敵だ。艦娘もな。俺はチューシャンに復讐するためにここへ来た」