艦これ海上戦記譚~明け空告げる、海をゆく~   作:PlusⅨ

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第十話・潜む、悪意

 翌朝。

 

 叢雲と共に鎮守府長官室へ出勤した海尾は、先に待ち構えていた白雪、村雨、初霜の三人から、昨晩、寮で起きた落書き事件について報告を受けた。

 

「“殺人者”か」

 

 そう口にしながら、海尾は落書きされたドアの写真を執務机に置いた。

 

 この写真は初霜本人が撮影したものだ。傍らの叢雲も机に置かれた写真をのぞき込み、一瞬、怪訝な表情を見せた。

 

 どうやら、“杀人犯”と言う文字が認識できなかったらしい。だがすぐに彼女もその文字が何を意味するのかに気づいた。

 

「簡体字・・・」

 

 そう呟いて、意味ありげな視線を海尾に向ける。

 

 海尾は、分かっているという風に、叢雲に向かって頷いて見せた。

 

 簡体字は隣国で使用されている漢字だ。同じ漢字文化圏でも我が国では使用されていない。

 

(正門前の抗議集会のメンバーに、“隣国”の人間が何人か紛れ込んでいる様です)

 

 海尾は昨晩のバーテンダーからの報告を思い出すが、今、この段階で口外すべきことではないと判断し、それを部下たちには口にしなかった。

 

 しかし、こうも明白な悪意を向けられてしまったことに対しては、何らかのフォローが必要だ。特に、当事者である初霜はかなりのショックだろう。

 

 と、当初はそう思っていたが、状況を報告する初霜の様子は、一昨日の人命救助の様子を報告したときのように冷静で淡々としたものだった。

 

 むしろ同席していた白雪と村雨の方が動揺していたくらいだ。

 

 白雪は表面上は冷静さを保っていたものの、普段の彼女をよく知る海尾から見れば、必要以上に冷静に振る舞おうとしているのは明らかだった。人の悪意を目の当たりにしたショックを必死に隠そうとしているのだろう。

 

 一方で村雨はといえば、もう誰よりも憤慨していた。

 

「こんなことするなんて有り得なくない!? 許せないよ。初霜ちゃん、私、ちょっとあの人たちに文句言ってくるからね!」

 

 そう言って執務室から飛び出そうとするのを、初霜が慌てて引き止めた。

 

「お、落ち着いて、村雨。そこまでしなくていいから。っていうか、あの人たちって、誰の事を言ってるの!?」

 

「決まってるよ。正門前に集まってる人たちだよ」

 

「決まってない、決まってないから。証拠も何もないから!」

 

「そうよ、村雨ちゃん」と白雪も加勢する。「殴りこむのは、証拠がそろってからよ」

 

「それもそうですね」と村雨は納得。

 

「証拠があっても殴りこんじゃ駄目ですって!?」初霜も流石に慌てた。「司令と叢雲さんからも何とか言ってください!」

 

「これじゃ誰が当事者か分からないわね」と、叢雲はため息。

 

 海尾も、初霜も意外に感情を表に出すんだな、と変なところに感心しつつ、言った。

 

「白雪も村雨もいい加減にしないか。我々だって公僕だぞ。どんな理不尽な目に遭おうが国民相手に喧嘩してたまるか。戦うべき相手を間違えるんじゃない。こいつは警察の仕事だ。いいな」

 

 海尾の言葉に、白雪と村雨はしぶしぶといった様子で頷いた。

 

「で」と海尾。「初霜、肝心の警察へは通報したのか」

 

「いいえ、まだです。先ずは司令に報告してから通報しようと思います。その方が憲兵隊の方も動きやすいでしょうし」

 

「ふむ」

 

 憲兵隊--いわゆる軍専用の警察はこの鎮守府にも常駐しており、自治警察や海上保安隊といった他の治安維持機構とも連携を取っている。しかし、今回の件では憲兵隊以外に情報部も動くだろう。彼らが動きやすいように初動はこちらがイニシアチブを取ったほうが良い・・・

 

 と、ここまで初霜が考えているというのは穿ち過ぎだろう、と海尾は思った。

 

 彼女はただ、報告、連絡、相談を実施しただけだ。取り乱さず、冷静に、普段通りに。

 

 しかし、初霜のこの反応と態度は、まるで近所の悪ガキから他愛もない悪戯を仕掛けられた者のそれのように、海尾には感じられた。幼少の頃、近所でも有名な悪戯小僧だった弟の尻拭いに、親と一緒に頭を下げに行ったとき、相手はまさにこんな態度だった。

 

 もっとも、弟がしでかしたことは、赤ペンキで脅迫めいた文言を落書きするなんてものではなく、せいぜい近所の女の子相手に捕まえたカエルや蛇の抜け殻を投げつけたり、スカートをめくったりといった程度だ。しょうもない子供の悪戯。

 

 しかし思い返してみれば、弟がやらかしたことは大方、女の子がらみだ。子供の頃なら可愛い悪戯で済むが、大人になればセクハラだ。まあ幸いにして弟はそのあたりは真っ当に育ったが、異性への興味はそのまま女好きへと昇華したようで、会うたびにガールフレンドが代わっていた有様だった。

 

 少しは落ち着いたらどうだ。と、兄として苦言を呈したこともあったが「兄貴にだけは言われたくない」と反抗された。なんだ、まるで俺が弟と同じ女好きみたいな言い方じゃないか。まったく心外だ。

 

 いやいや、そんな弟の女癖の悪さを気にしている場合ではなかった。と、海尾は意識を現実に引き戻す。

 

「とりあえず」初霜は言った。「落書きについては現場保存の観点から、そのままにしてあります。管理人さんにも手を出さないように依頼しました。ただ、そのままだと目立ってしまうので、段ボール紙で衝立を作って目隠しをしていますが」

 

「そうか」

 

 頷きながら、海尾は感心と同時に呆れもした。なんともまあ、手慣れたものだ。まるで、こんな目に遭ったのは一度や二度じゃないといった感じだった。

 

 きっと、そうなのだろう。と海尾は思い至った。

 

 二年前の事件で世論が沸騰していた当時の様子を考えれば、汚名を被った初霜の周囲でどんなことが起きていたか、それは想像に難くなかった。

 

 それを踏まえて、初霜がここに赴任することによって近いうちにこのような事件が起きるであろうことは海尾も、上層部も予想していたし、情報部も既に怪しい人物への調査を始めている。

 

 しかし、現実はこちらの予想を超えて早々に動き出した。相手の行動が予想を超えてきたなら、もうわずかの油断もできない。

 

「初霜。憲兵隊と警察へは私から通報しておく。君は予定通り出港に向けて業務を遂行せよ。ただ、今夜については悪いが外出は控えてくれ。寮に帰宅するときも、誰かと一緒に、必ず二人以上で行動するように」

 

「了解しました」

 

「叢雲、白雪、村雨。初霜の事を頼むぞ」

 

 海尾のその言葉に、三人も頷いた。

 

 特に村雨は勢い込んで、

 

「初霜ちゃん! 私が守ってあげるからね! 村雨、がんばっちゃうからね!!」

 

「あ、うん、頼りにしてるね」

 

 手をしっかりと握られた上に目の前まで迫られて、初霜は若干、引き気味になりながら頷いた。

 

「はいはい」

 

 と叢雲が半ばあきれながら村雨の肩を叩いて言った。

 

「張り切るのは良いけれど、やり過ぎて無用のトラブルを起こさないようにね。こういう悪意を向けられてしまったのは残念だけど、司令も仰ったように、私たちの任務は落書き犯を捕まえることじゃなくて、海の安全を守ることよ。それを忘れないようにね」

 

「は~い、分かってます」

 

 村雨は向き直って、敬礼。

 

 落書き事件の話題についてはそれで終わり、全員がそろっていることもあって、定刻には早いがそのまま朝の定例オペレーションブリーフィングへと移行する。

 

 その朝オペも終わり、初霜たちが部屋を退出しようとする。

 

 その時、海尾はひとつ思い立ったことがあり、初霜を呼び止めた。

 

「何でしょう?」

 

「ひとつ言っておきたいことがあってな。・・・今回のことは、君一人の問題じゃない。我々南方警備艦隊の、いや、海軍全体の問題でもある。君一人で背負い込む必要は無いんだ」

 

「はい、分かっています。何かありましたら、すぐに報告します」

 

 淡々と頷く初霜に、海尾はもどかしさを感じた。違う、言いたいことは、そうじゃない。

 

「ああ、その、なんだ。私が・・・俺が言いたいのは、みんな、お前の味方だってことだよ。まだ烏合の衆もいいところだが、裏切ったり、見捨てたりはしない。だから・・・信じて欲しい」

 

 その言葉に、初霜は一瞬きょとんとした表情を見せた。

 

 しかしそれは、すぐに柔らかなほほ笑みに変わった。

 

「はい、ありがとうございます」

 

 今度は通じたかな。と、その笑顔を見て海尾は思う。少なくとも、彼女の素に近い表情を見せてくれたと思った。

 

 初霜たちが退出した後、叢雲と二人残された執務室で、海尾はぽつりと呟いた。

 

「初霜、あんなに可愛く笑えるんだな」

 

「あの子にまで手を出す気?」

 

「そんなつもりで言ったんじゃない」

 

 単に、素直に、感じたままを口に出しただけなのに酷い誤解だ。

 

 その誤解を解こうと叢雲に目を向けると、彼女は拗ねたようにツンとして目をそらした。

 

 だけど、それもまた可愛いと思い、海尾は苦笑した。

 

 

 

 

 島の夜は長い。

 

 夜も更けたころ、居酒屋には仕事を終えた島の住民たちで溢れ、そこかしこで泡盛を酌み交わしてオトーリが回されていた。

 

 あるテーブルで一人の男が泡盛で満たされたコップを手にして立ち上がり、朗々と口上を述べていた。日に焼けてたくましい身体つきの、おそらく漁師だ。

 

 今日は大漁だったのだろう。漁師は非常に機嫌よく長口舌を打ち、ときおり身振り手振りを交えたために手元のコップから中身が半分近く零れ落ちていたが、周りの者たちも機嫌と酔いが好い加減と見えて文句も言わず相槌を打っていた。

 

 やがて漁師は口上を述べ終え、コップを口につけようとしたところ、それを隣の仲間が止め、半分からさらに減っていたコップに新たに泡盛を注ぎなおした。

 

 漁師は同じテーブルの聴衆に丁寧に礼を述べ、ぎりぎりにまで注がれたコップの淵に口をつけ僅かばかり啜ると、グイッと天を仰いで一息に中身を飲み干した。

 

「オトーリまわします!」

 

 漁師が空のコップに自ら泡盛を注ぎなおし、隣の仲間に差し出す。仲間はそれを恭しく受け取り、漁師に負けぬ勢いで飲み干した。

 

 そうやって泡盛が回し飲みされていく。そんな光景が店のいたるところで繰り広げられていた。

 

 そんな店内で、“彼”は、店の喧騒に背を向けるようにしてカウンターの一番隅に腰かけていた。

 

 彼の前にあるのは皿に山盛りされたサラダだった。酒は無い。

 

 彼の視線は手元の皿に注がれていたが、その目は料理を見ていなかった。かといって周囲に注意を払っているわけでもない。

 

 その目は己の内面を見ていた。機械的にサラダに箸をつけながら、彼は感情が抜け落ちたかのような顔で、沈黙思考に耽っていた。

 

 店の扉がガラガラとやかましい音を立てながら開かれ、新たな二人の客が来店した。

 

 一人が店を見渡し、カウンターの数席が開いているのを見つけ、もう一人の腕を引っ張る。もう一人は力なく項垂れながら、相方に腕を引かれるままに、“彼”の座るカウンター席の三つ隣に腰を下ろした。

 

 男が店員に酒と料理を注文し、そして項垂れた男の背中を励ますように叩く。項垂れた男は相方の励ましにもかかわらず、低い声で愚痴を垂れ流し始めた。

 

 それを耳にしながら、彼は黙々と野菜の切れ端を口に運び続けた。やがて皿のサラダが無くなり、彼はカウンター越しに軽く手を挙げて店員を呼んだ。

 

 三つ隣の席では愚痴をこぼす男と、慰める男。

 

 他のテーブル席ではオトーリが一周し、別の者がコップを手に立ち上がり口上を述べている。口上は途中から奇妙な節回しをともなって唄になり、周囲から手拍子が上がる。

 

 彼の前へカウンター越しに近づいてきた店員は、肉と野菜炒めを盛った皿を手にしていた。妬けた肉の匂いが彼の鼻を刺激する。

 

 彼は、サラダの追加を注文し、他に追加注文があるかと問いかける店員に対し、顔を背け手を振って追い払った。店員は特に気にした素振りも見せずに彼の前を離れ、三つ隣の男たちの元に肉と野菜炒めを運んだ。

 

 背後で下手な唄が終わり盛大な拍手が沸き起こった。ちょうどそれと同じタイミングで店の扉が開き、新たな男が入ってきた。

 

 男は店内の拍手に少し面喰ったものの、すぐにそれが自分とは関係の無いものだと気づいて落ち着きを取り戻し、店内をゆっくりと見渡した。

 

 新たな男はカウンターの一番隅に座る彼の背中を見つけ、その隣へと腰を下ろした。

 

「やってくれたな」

 

 彼の世話役を務めるその男は、座るなり声を潜め、そう言った。

 

 彼は世話役に目を向けることなく、うつむき気味に、

 

「何の話だ」

 

 と、返す。

 

「とぼけないでくれ、落書きの件だ。艦娘の寮にあんな目立つ落書きをして、ただで済むと思って--」

 

 世話役は険を含んだ声で彼を問い詰めようとしたが、店員が注文を取りに来たことに気が付いて口をつぐんだ。

 

 世話役は店員に注文を告げ、去ると同時に、彼に向き直った。

 

「とにかく、厄介なことをしてくれたよ」

 

「たかが、落書きだ」

 

「器物損壊罪だ。それにあの文面じゃ脅迫容疑も加わるかもしれない。あんた、人殺しって書いたそうじゃないか」

 

「殺人犯だ」

 

「そんな細かい違いなんかどうでもいいだろう。それよりも問題なのは字体だ。簡体字はこの国では使用されていないんだ。あんたが書いたんだってすぐにバレてしまう。この島では、よそ者はすぐに見分けがついてしまうんだ」

 

「よそ者か。それならお前たちだってそうだろう。バレて、だからどうだというんだ。警察や憲兵なんてそこら中に潜んでいる。俺の正体もとっくにバレているはずだ。捕まえようと思えばいつだってやれた」

 

「あんた、捕まりたいのか」

 

「いいや、だが連中も捕まえる気はないだろう。今、俺を捕まえてもたかが落書き犯、一文の得にもなりはしないからな。外交交渉で政府をゆすれるくらいの事件を引き起こすまで泳がせてくれるさ」

 

「バカな。おい、今の言葉は本気じゃないよな。僕たちは事件を起こして欲しくてあんたを呼んだ訳じゃない。国際問題なんて真っ平だ。あんたは単に、基地の前で、深海棲艦と戦い続ける無意味さを被害者の立場で訴えてくれればそれで良いんだ」

 

「・・・」

 

 彼は答えない。

 

 そこへ店員が注文した料理と酒を運んできた。世話役の前には泡盛のコップと、焼き鳥。彼の前には、サラダの盛り合わせ。

 

 彼が黙々とサラダを食べ始めたのを見て、世話役が言った。

 

「あんた、いつも野菜ばかりだな。ベジタリアンとかいうやつなのか」

 

「いいや」

 

「じゃあ、なぜ? 金が無いのか。いや、そんなはずは無いよな。あんたには大金を支払っているんだ。それともこの島の料理が口に合わないか。この焼き鳥は悪くないと思うよ。食べないか?」

 

 世話役が焼き鳥の串を差し出す。しかし彼は顔を背けた。

 

「いらん」

 

「鶏肉は嫌いなのか」

 

「肉を食う奴が、嫌いだ。俺の家族を喰った化け物と同じに見える」

 

 彼の言葉に、世話役は一瞬呆け、そして当惑しながら焼き鳥を皿に戻し、それを彼とは反対側の方向へ押しやった。

 

「す、すまなかった」

 

「謝る必要は無い。他人の気持ちなど俺にはどうでもいい。それよりも、だ」

 

 そう言って、彼は初めて世話役に目を向けた。

 

「早ければ明日、そうでなくとも近いうちに艦娘どもが出港するぞ。分かっているのか」

 

「そうなのか。いや、分かるはずがないだろう? 軍艦の行動予定は基本的には秘密だ。例の艦娘がここに異動になるという情報を掴むのだって苦労したんだ。・・・どこでその情報を知ったんだ? スポンサーからなのか?」

 

「いや」彼は冷笑じみた表情で否定した。「スポンサーに頼るまでもない。少し観察していればすぐに分かることだ」

 

「基地の中を見ていたのか?」

 

「ああ、見ていた。よく見えるポイントがあるんだ。高倍率の望遠鏡があれば、何をやっているかなんて手に取るようにわかる。・・・昨日、チューシャンの奴が港に姿を現し、食糧らしきものを積み込んでいた。今日も別の艦娘どもが同じように食料を積み込んでいる。艦娘どもは普通の船と違って普段は船内に誰もいないからな、本来なら食料を積む必要が無い」

 

「なのに積んでいたということは、つまり出港する可能性があるということか」

 

「そうだ。それに前の艦隊が深海の化け物どもにやられて以来、この島の周りは戦力の空白地帯らしいじゃないか。俺が司令なら、せめて哨戒ぐらいはすぐに行う」

 

「まあ確かに、そう言われればそうだけど、けれど艦娘が出港して、だから何だと言うんだ?」

 

 世話役は疑問を口にした。艦娘は出港する。しかし基地は島にある。なら、別に抗議活動に何の変化も影響もないではないか。

 

 そう思っていたのだが、世話役に向けられていた彼の表情が、単なる無表情から明かな軽蔑に変わったのを見て、たじろいだ。

 

 彼は言った。

 

「海上デモをしろ」

 

「は? 何を言っているんだ。そんな必要はどこにもないだろう?」

 

「お前こそ何を言っている。艦娘どもの居ない基地を攻撃して何の意味がある。海上デモだ。チューシャンの出港を妨害しろ」

 

「バカな、攻撃だって? 違う、我々は島の平和を守るために危険な軍事基地と軍事行動の撤回を--」

 

「黙れ。そんな戯言など聞き飽きた」

 

「戯言じゃない。本気だ。深海棲艦と先の見えない戦いを続けるより、あんたの国と国交と通商を回復した方がよほど有益で、安全で、そして平和な解決策だ」

 

「そうか。下らん。お前たちの理想などどうでもいい。俺にとって深海棲艦は敵だ。艦娘もな。俺はチューシャンに復讐するためにここへ来た」

 

「ふ、復讐・・!?」

 

 彼は、静かな低い声で、しかしはっきりとそう告げた。

 

 世話役はその異様な迫力と、そしてその言葉に込められた狂気に絶句した。

 

 そう、狂気だ。彼は、狂っている。

 

 言葉を失い青ざめた世話役の二つ隣の席で、男がさめざめと泣いていた。ずっと項垂れながら愚痴をこぼしていた男だった。慰めていた相方は匙を投げたように酒を飲んでいる。

 

 彼は一瞬だけそちらに目をやり、しかしすぐに世話役に戻して言った。

 

「海上デモをしろ」

 

「む、無理だ」世話役は必死に声を振り絞った。「船が集まらない。明日から天気が回復して海面も落ち着くらしいから、漁船がみんな漁に出てしまうんだ」

 

「本当か」

 

「本当なんだ、信じてくれ。これまでも海上デモ自体は計画していたんだ。しかし漁ができないときじゃないと、船が集まらない」

 

 言い訳をする世話役を、彼はじっと睨んでいた。

 

 が、不意に、また例の泣いている男へと目を移した。

 

「さっきから泣いているあの男・・・見たところ漁師のようだな」

 

「え、あ、ああ」

 

「なぜ、泣いている。事情を教えろ」

 

 彼の有無を言わせぬ口調に、世話役は戸惑いながらも従った。彼から目をそらし、二つ隣の男たちに声をかける。

 

 世話役は慰めていた男の方からある程度の事情を教わり、彼に告げた。

 

「ど、どうやらあの泣いている男は、先日の漁で漁船を転覆させてしまったそうだ。船自体は無事だが、獲った魚は全部失ったし、漁具も駄目になったそうだ。明日からせっかくの好天で稼ぎ時なのに漁に出られず、それで嘆いているらしい」

 

「そうか」

 

 彼は少し黙ったまま、泣いている男を見ていた。世話役や、慰めていた男が不審そうに彼を見つめる。

 

 彼は、言った。

 

「俺が、補償してやろう」

 

「は?」

 

 彼は、にやりと笑いながら、言った。

 

「あの男に通訳しろ。俺が損害分の金を出す。その代り、船を出せ、とな」

 

「あ、あんた、まさか」

 

「早くしろ。明日中には出発する。これは命令だ」

 

「わ、私はあんたの部下じゃない」

 

「だがスポンサーから金をもらっている犬だ。お前はスポンサーから俺の手助けをするように命じられている。そして俺はスポンサーから好きにしていいと言われている。ならば俺のすることに口を出すな。黙って従え」

 

「・・・」

 

 世話役は迷った。彼に従えば、間違いなく大事になる。

 

 こいつは狂っている。

 

 その狂気が、世話役の目の前に迫っていた。断れば、身の危険があるかもしれない。

 

 しかし従えば・・・

 

 世話役はつばを飲み込み、言った。

 

「わ、わかった」

 

 そして世話役は男たちへと向き直った。

 

 しばらくして、喧騒する店内から、男の泣き声が止んだ。

 

 

 

 


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