艦これ海上戦記譚~明け空告げる、海をゆく~   作:PlusⅨ

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第十一話・海を行く者

 明るい太陽の下、白雪を旗艦とした第十一駆逐隊は一列に連なって航行していた。

 

 先頭は白雪、その後方2000ヤードに村雨、そしてそのまた後方2000ヤードに初霜の順である。

 

 先頭を航行する白雪は艦橋内の時計に目をやり訓練開始時間が迫っているのを確認して、サポートAIに指示を下した。

 

「これより以後、僚艦との通信は旗流信号を基準とする。旗流信号通信、用意」

 

『了解、旗流信号通信、用意よし』

 

 艦橋内に妖精が現れ、白雪に敬礼する。

 

 白雪は通信内容を指示。

 

「旗艦から各艦宛、単縦陣を成形せよ。追艦距離は500メートル、基準艦は本艦である」

 

 白雪から通信内容の指示を受け、妖精はウィングから艦橋背後のメインマスト下へ移動し、そこで信号旗を繋げていく。

 

 信号旗は国際信号旗とも呼ばれ、全世界共通で一つの旗が一つのアルファベット、数字に対応している。

 

 その他に国際海軍連合条約に加盟している海軍同士で独自に制定された軍事用語に対応した信号旗があり、これらを組み合わせてメインマストに掲げることによって船舶間の通信に使用していた。

 

 白雪のメインマストに一列に連なった信号旗が掲揚され風にたなびくと、後方の村雨、初霜は、信号の受信を示す【回答旗】と呼ばれる赤白の縞模様の旗をそれぞれのマストに掲げた。

 

 こうしてあえて無線を使用せず旗流信号で通信を行っているのも、訓練の一環である。

 

 無線は常に敵による傍受やジャミングの脅威に晒されている。特に深海棲艦の戦艦や重巡級が有する強力な電子戦能力に対抗するためには、このようなアナログ手段による戦術が最も確実であり、有効だった。

 

 しかし敵のジャミング下で使用できなくなるのは無線だけでは無かった。戦艦の最大出力によるジャミング下では、レーダー類さえも使用不可能になる可能性が高い。

 

 そのため、今、白雪に向かって距離を詰め始めた村雨と初霜は、水上レーダーではなく目視で互いの艦と艦の距離を測っていた。

 

 目視で距離を測る方法には二種類あった。

 

 一つは測距儀またはレンジファインダーとも呼ばれている光学式距離計を使用する方法だ。

 

 測距儀とは、左右に幅広い双眼鏡とも言うべきシロモノだった。

 

 左右に大きく離れた二個の対物レンズで取り込んだ画像を、距離計に連動して回転する鏡によって接眼レンズに送り、観測者は接眼レンズから覗いた左右の画像を重ね合わせて距離を測定する仕組みである。

 

 要は、測距儀で艦を観たときに、ファインダーにその姿が正常に映るように調整すれば、同時にその距離が算出できるという道具だ。ちなみに距離単位はメートル法を採用しているため、これを使用しての艦隊運動は普段使う海里ヤード法ではなく、メートル法を使用することになる。

 

 測距儀は原理的にも構造的にもシンプルであり、また電子制御も必要ないのでジャミングの影響を受けない。なによりレーダーが実用化される前の時代から使用され続けている観測機器であるので信頼性の面でも申し分なかった。

 

 だが、この測距儀を使用する際には、観測者は常にファインダーを覗きながら画像調整を行う必要があった。通常艦艇のように乗員が多数いる艦艇なら測距儀専従用に人員を割くことが可能だが、艦娘たちはたった一人である。そのため測距儀に専従できないのが欠点だった。

 

 特に今のように艦隊運動を行っている最中は、距離を測ると同時に周囲の状況にも気を配らなければならないので、測距儀だけを覗き続けるわけには行かないのだ。

 

 そのため、彼女たちは測距儀よりもさらに簡易な測定方法を使用していた。

 

 それが彼女たちが手に持つ双眼鏡についているレティクルと呼ばれる距離測定用の目盛である。ファインダーにL字型に描かれたミルと呼ばれる単位の角度目盛と目標の大きさを比較することにより概略の距離を算出することができる。

 

 もちろん算出は観測者自身が行わなければならないが、計算式は目標物までの距離(メートル)=目標物の大きさ×1000÷測定したミル角であり、この計算式と目標の(すなわち僚艦の)全高を記憶していれば暗算はさほど難しいものではない。

 

 もっともこの方法が使用できるのは手持ちの双眼鏡で目標がはっきり視認できる距離(約10キロメートル前後)だが、ステルス能力、電子戦能力をもつ深海棲艦との戦いにおいてレーダー類に頼り切ることは危険であり、また敵の攻撃により船体の機器が損傷する可能性がある中で、それでも戦い抜くには艦娘個人の練度向上が必要不可欠だった。

 

 白雪はウィングに出て背後に目を向けた。

 

 村雨と初霜の船体がほぼ重なりながら接近してきている。白雪が双眼鏡を向け、それぞれの距離を測ると、村雨が約500メートル後方、初霜は1000メートル後方に既に占位していた。白雪はサポートAIにレーダー測距を行わせて自分の距離計算が間違っていないことを確認する。

 

 それとほぼ間をおかずして、村雨がマストに【占位完了】を示す白地に赤く縁どられた三角形の旗を掲揚する。すぐに初霜も同じ信号旗を掲揚した。

 

 サポートAIから報告。

 

『旗流信号にて村雨、初霜から本艦宛、占位完了』

 

「了解。旗艦より各艦宛、戦術運動開始」

 

『了解、戦術運動開始。信号旗掲揚・・・各艦の了解を確認』

 

「旗艦より各艦宛、指令発動法、陣形番号2番を成形せよ、基準艦針路180度、速力12ノット。本艦基準艦。以上」

 

『了解。F2 Gcop180 S12 G S 掲揚完了・・・各艦の了解を確認』

 

「発動用意・・・発動」

 

 白雪の指示にマストから信号旗が一斉に降ろされる。村雨と初霜がそれを確認し、後方の二艦はほぼ同時に針路を変えた。

 

 陣形番号2番は旗艦を左端に据えた単横陣のことである。

 

 白雪を基準として右へ村雨、初霜の順に並んで航行する。縦一列から横一列へ変わるだけの単純な艦隊運動だが、その操艦は決して単純とは言い難い。

 

 先頭を一定針路、一定速力で航行する白雪へ追いつくための縦方向のベクトルに、その右側500メートルに位置するための横方向のベクトルを加えて艦の進路を決定し、さらに自身の推進力と空気及び水流抵抗による増減速惰力を考慮して変針減速のタイミングを割り出したうえで、そのタイミングの際に基準艦が相対的に自分の艦橋から何度の方向に見えるかまでを算出する必要がある。

 

 本来ならこれらの計算はサポートAIがレーダーやGPSを駆使して瞬時にして正確に行い、針路、速力、増減速のタイミングを算出してくれるのだが、今、村雨と初霜はこれを手計算で行っていた。

 

 理由はもちろん、先に述べた通りだ。無線やレーダー、GPSを封じられた程度で艦隊運動さえ出来ないようでは戦場に立つ資格さえない。

 

 後方の二艦、村雨と初霜はそれぞれの艦橋で、運動盤と呼ばれるベクトル計算用の図面に鉛筆と定規を使って線を描いて算出した針路速力に従って操艦を行っていた。

 

 二番艦である村雨の速力は18ノット、針路は200度。三番艦の初霜は同じく速力18ノットで針路は198度。占位に必要な移動距離は位置関係上、三番艦の初霜が最も長い。

 

 初霜は針路速力を定めると、運動盤を手にウィングへと出て、相対的に左前方に見えるようになった白雪の船体を、ウィングに設置してあるジャイロコンパス越しに観て、方位を計測した。

 

 白雪は針路180度、速力12ノットのまま航行しているので、針路198度、速力18ノットの初霜とは遠ざかりつつ追い抜く関係にある。初霜は相対的に後方へと下がっていく白雪の位置をジャイロコンパスで計測し続けた。

 

 白雪の位置が初霜の左前方から左正横近くに下がりつつあった頃、先行する村雨が取舵をとり針路を180度に戻したのが見えた。村雨が先に白雪の右正横500メートルの位置に到着したのだ。

 

 村雨のマストに占位完了の信号旗が掲揚される。それを横目に、初霜は白雪の位置の計測を続ける。

 

 減速ポイントまで残り10度・・・8度・・・5度・・・3度・・・

 

 ・・・0度、今。

 

「両舷前進原速」

 

 初霜は速力12ノットを宣言。船体の速力が落ちる。

 

 続いて変針ポイントまで残り3度・・・2度・・・0度、今。

 

「取舵、180度宜候」

 

 船体が左回頭。針路180度。計算通りに行けば白雪の右1000メートルの位置に占位完了しているはずだ。

 

 初霜から見ると白雪との間に村雨が位置しているので、その船体に隠されて白雪の姿が見えないが、すぐに村雨が少しだけ速力を落とし、船体の半分程度だけ相対的に後方へ下がってくれた。それで初霜からも白雪の姿が視認できるようになった。

 

 初霜は双眼鏡を使って測距を行ない、白雪との距離が1000メートルであることを確認し、マストに占位完了の信号旗を掲げた。

 

 初霜は一度、自分のマストに目を移し、ちゃんと信号旗が掲揚されていることを確認してから、もう一度双眼鏡で白雪を観た。

 

 白雪もまたウィングに出てこちらを双眼鏡で覗いていた。

 

 この訓練では白雪が指導官も務めているので、彼女の船体のみレーダー等のセンサー類の使用を許可されていた。しかし白雪自身はその情報を遮断し、各艦の距離の判定はサポートAIに任せていた。

 

 白雪は、おそらくサポートAIから各艦の位置が適切であるとの報告を受けたのだろう、ひとつ頷くと、新たな陣形の成形指示をマストに掲げさせた。

 

 TS90 G H

 

 初霜はそれを読み解く。

 

 各艦は右90度に面舵変針せよ。初霜は基準艦となれ。

 

「ゴルフ掲揚、面舵」

 

 初霜は基準艦を示す【G(ゴルフ)】信号旗をマストに掲揚すると同時に、船体を右回頭させる。

 

 白雪と村雨も同じく右回頭。三艦は単横陣から、初霜、村雨、白雪の順の単縦陣に変形する。

 

初霜は後部カメラを白雪に向ける。相変わらず間には村雨が居るが、彼女もちゃんと心得ていて、わずかに右へ移動して初霜の視界を開けてくれている。

 

 白雪のマストに信号旗掲揚。

 

 F1 S H M G S

 

白雪、初霜、村雨の順で陣形番号1番(単縦陣)を成形せよ。白雪は基準艦となれ。

 

 今度は順序変更だ。初霜は白雪の背後に回り込むべく取舵回頭を行い、Uターンの態勢をとる。相対的に反航態勢となった村雨、白雪とすぐにすれ違った。

 

 白雪の正横を過ぎる前に初霜は再度、取舵回頭、同時に速力を上げて白雪の後方に着く。

 

 これも単純な艦隊運動だが、回頭のタイミング、舵の角度、速力の調整の三つを同時に、そして適切に行って初めて回り込むことができるのだ。

 

 今回、初霜はうまくいったが、続いて回り込んできた村雨は、この三つのどれかをわずかに狂わせたらしい。初霜の後方に着く際に旋回径が大きくなり、一度右側に飛び出してしまった。

 

 村雨はすぐに針路を再調整して初霜の後方へと着く。少し手間取ったものの、陣形成形に許容される制限時間内には十分収まっているので、失敗と言うほどのミスではなかった。

 

 初霜だってこの程度のミスはよくあった。今回はうまくいっただけだ。しかしより正確に、そしてより早く陣形が成形できるならば、それに越したことは無い。

 

 そのために訓練を繰り返し、練度を高めるのだ。

 

 三艦はその後も、二時間にわたり戦術運動訓練を続けたのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 訓練終了後、三艦は再び単縦陣を成形し、哨戒を兼ねながら次の訓練海域へと向かっていた。

 

 時刻はちょうど昼時、昼食の時間である。

 

 今、三艦は白雪、初霜、村雨の順に並んでいた。

 

 先頭の白雪は哨戒配備で自ら操艦しながら航行していたが、初霜と村雨は通常航海配備で白雪を自動追尾しながら食事と休息を行っていた。

 

 この配備というのは、艦娘の船体操作方法の区分である。

 

 艦娘たちの船体操作は基本的に脳波コントロールとサポートAIへの音声指示によって行われているが、この二つの割合は戦闘時、哨戒時、通常航行時それぞれの状況によって違いがあった。

 

 戦闘配置レベルでは脳波コントロールの割合が最も大きくなり、この状態において艦娘は船体の動きやセンサー類の情報を、自分の身体の動きや皮膚感覚に近い形で受け取れるようになる。

 

 その身体感覚には個人差があるが、例えば初霜が戦闘配置において船体とのリンクレベルを最大まで引き上げた場合、次のようになる。

 

 先ずレーダーや各種センサーによる探知情報は主に後頭部付近から頭上にかけた部分で(気配的な意味で)感知できるようになる。無論、正確な位置などの諸元はサポートAIが音声で報告してくれる。

 

 主砲である12.7センチ連装砲は右手の動きとリンクし、左手には機銃が対応、

 

 腰の左右あたりにはSSSM発射管、そして両足には船底及び推進機の感覚がそれぞれ生じていた。

 

 このように戦闘配備にある場合、初霜は船体とそこに搭載されている武器を己の身体同様に動かすことができた。

 

 つまりこの状態の艦娘は、船体と感覚的にほぼ一体化していると言ってもよかった。

 

 これにより船体操作におけるリアクションタイムが通常艦艇とは比べ物にならないほど早くなるという長所があるのだが、

 

 同時に船体操作への脳波入力情報が非常にシビアになってしまうため、操作以外の余計な思念が混じってしまうとエラーが生じてしまうという短所もあった。

 

 すなわち戦闘配備時の艦娘には高い集中力が求められるのだが、心身への負担も当然大きく、継戦能力という面では通常艦艇に劣ってしまっていた。

 

 そのため、特に差し迫った脅威が無い場合は哨戒配備レベルのリンクを使用していた。

 

 この哨戒配備レベルのリンクでは、レーダー・センサー類の情報及び武器の動きは感覚的に受信できるが、操作についてはサポートAIにほぼ委任しており、艦娘への負担は低下する。

 

 そのかわり船体や武器の操作においては音声指示が必須となり、リアクションタイムも低下しているのだが、それでも通常艦艇と同程度である。

 

 そして一番リンクレベルの低い通常航海配備になると、ほぼすべてがサポートAI任せになる。

 

 と言ってもレーダー・センサー類の探知情報は無意識下で受信しているため、艦娘が仮眠中であっても外界の動静は把握できる。

 

 そのため単艦行動中であっても昼夜問わず航行することは可能なのだが、さすがに就寝中は安全のために速力を落として航行することが多かった。

 

 しかし今のように複数の艦で陣形を組んで航行している場合、一艦が哨戒配備で航行し、残る他艦は通常航海配備でそれを自動追跡することによって、艦娘の負担と航行の制約の両方を少なくすることが可能だった。

 

 今、先頭の白雪が哨戒配備で航行しているが、間もなく順番を入れ替え、次は初霜が先頭に立って哨戒配備に着くことになっていた。

 

 しかし、その交代時刻まではまだ三十分ほど余裕がある。

 

 初霜は交代時刻までの間に昼食を済ますべく、艦橋に簡易テーブルを設置して、そこでレトルトパックの簡易食を食べていた。

 

 船体内部には食堂もあり、そこで自炊も可能だったが、今は訓練の合間ということもあって、初霜は艦橋での食事を選んだ。

 

 だから別に料理が作れないとか、そういうわけではない。カレーライスぐらいは美味しく作れると自負している。

 

 もっとも、艦娘たちの中では、カレーを作れない者の方が少ないのだが。

 

 なぜなら基礎教育期間での必修科目に入っているからだ。海軍のカレーに対するこだわりは並外れていて、偏愛的でさえある。

 

 なにせ海軍カレーフェスタなんていうイベントも毎年開催されており、腕に覚えのある艦娘が自慢のカレーを持ち寄って火花を散らし合っているくらいであった。

 

 しかしカレーは一度に大量に作ってこそ真価を発揮する料理なので、一人で艦上に居る時に勢い込んで作ろうものなら数日間、朝昼晩すべてカレー尽くしになりかねない。

 

 それでもいいという艦娘も居るが、初霜としてはそこまでカレーに執着していないので、航行中は基本的にカレーも含めてレトルトで済ましていた。

 

 そんな風に食事中の初霜であるが、その目の前、簡易テーブルの上にはレトルト食品の他に、二体のマスコットアイコンドールが立っていた。

 

 これは艦娘の外見を模した三等身のディフォルメ人形である。

 

 しかし人形と言っても実際は立体映像だ。初霜の前には白雪と村雨を模したドールがあり、白雪は操舵輪を握っており、そして村雨は手に皿とお箸を持っていた。

 

 これは各艦の艦娘の現状を示すアイコンだった。ちなみに初霜と同じように、白雪と村雨の前にも、初霜のアイコンドールが皿を抱えて表示されている。

 

 艦同士は指向性通信波を使用した直接通信が可能であり、艦隊が陣形を組んで行動する際のコミュニケーションツールとして使われていた。

 

 艦隊航行中とはいえ艦娘自体は巨大な船体に独りきりであるし、僚艦の姿も無機質な船体しか見えないような環境では、いくら直接通信で音声会話が可能とは言え、それのみでは味気ないものがあった。

 

 このドールは、その航行中の孤独を癒すためのちょっとした工夫であった。

 

 初霜は食事を終えると、自分のドール表示を“食事中”から“通常立ち絵”に切り替えて、白雪のドールに向かって声をかけた。

 

「白雪さん、食事終わりました。交代します」

 

『はい、了解しました。じゃあ現状の申し継ぎを行ないます』

 

 初霜は、白雪から現在の針路、速力、次のコースへの変針予定時刻、周囲に存在する他の船舶等の情報を受け取った。

 

『では、初霜ちゃん。哨戒当直を交代します。速力12ノット、針路130度』

 

「はい。交代しました、初霜。速力12ノット、針路130度」

 

 初霜が哨戒艦の引継ぎを宣言すると、前方を航行していた白雪が取舵を取って左回頭を始め、そのまま列の最後へと回り込んでいく。

 

 順序変更が終わると、白雪のドールがすぐに食事中に切り替わった。

 

『いただきます』

 

『おぉ、白雪さん、もしかしてカレーですかぁ?』

 

『いいえ、ハヤシライスよ』

 

 初霜は二人の会話を聞き流しながらウィングに出て、風をその身に浴びた。

 

 南方の海上とは言え、春先の海風は身を切るような冷気を伴っていた。その冷たさが、訓練の疲労と食事後の影響でかすかに訪れていた眠気を払っていく。

 

 空はよく晴れ渡り、中天に上った太陽が白く輝いている。日差しが降り注ぐ海面は近くから遠くに離れるにしたがって緑がかった明るい青から徐々に濃紺へと変化していき、水平線で空の明るい青と接していった。

 

 船体前方に目を向けると、艦首が海面を割り、押しのけられた海水が真っ白に泡立ちながら船体に沿って後方へと流れ去っていく。

 

 数匹の飛魚が海面から飛び出して、初霜から逃げるように左右へと滑空していった。おそらく飛魚の群れに船体が差し掛かったのだろう。飛魚は次々と飛び出し、海面を這うように低空飛行していく。

 

 と、そこへ一羽の海鳥が急降下し、低空飛行していた飛魚をさらっていった。うまく獲物を捕らえた海鳥は、初霜の船体の艦首に降り立つと、そこで活きのいい飛魚を苦労しながら呑み込んでいく。

 

 飛魚を狙う海鳥はこの一羽だけではなく、まだ他にもいて、いつの間にか海鳥が群れとなって初霜の周囲を飛び回っていた。

 

 海を行く船と並走しているのは海鳥の群れだけではなかった。初霜は船体越しに海中から接近してくる気配を感じて、視線を海面に向けた。

 

 日差しを浴びて輝く波の合間に、濃い灰色の影を見つけた。それは船体を追い越したかと思うと、さっと海面を割り、宙に踊った。

 

 イルカだ。

 

 なめらかな流線型の身体の背中は黒に近い灰色だが、しかし腹は明るいグリーンにきらめいている。イルカはしぶきを上げることもなく再び海中へと滑り込んでいく。

 

 最初のイルカに続いて、二頭、三頭と、イルカは次々とやってきた。

 

 気配だけでも数十頭は感じられる。かなり大きな群れのようで、初霜の周りだけではなく、後方の村雨、白雪の周りにも姿を現したらしい。

 

『あら?』

 

『おぉ~、イルカさんだぁ!』

 

 と、二人の声が初霜の艦橋にも響いていた。

 

 海面をいくつもの背びれが浮き沈みしながら波を切り、時折、軽々とカーブを切って艦首の下をくぐっていく。彼らにとって水の抵抗など存在しないかのようだ。

 

 イルカの群れは数分の間、初霜たちと並走した後、やがて遠くへと離れていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 午後、対空戦闘訓練。

 

 ただし目標はレーダー画面上にのみ表示される疑似目標であり、各艦も実際に発砲は行わない。三艦は輪形陣を組み--三艦しかいないので正確には三角形だが--次々と襲い来る疑似目標を落とし続けた。

 

 その後は通信訓練。午前の戦術運動でも使用した旗流信号を、さらに長文化、複雑化したもの各艦持ち回りで掲げ合い、それぞれで解き合った。

 

 ちなみにこれは艦娘自身の知識技量の向上を図るだけではなく、実際の海上で、実際に陣形を組んだ状態で旗流信号がどう見えるかのテストも兼ねている。

 

 単縦陣、複縦陣、輪形陣。対艦距離500ヤード、1000ヤード、1海里、2海里でどう見えるか。

 

 吹雪型である白雪のマストと、初春型である初霜、白露型である村雨それぞれのマストで旗流信号の見え方は、どう変わるのか。

 

 新艦隊で挑む最初の航海では、検討すべき事項が山ほどあった。

 

 午後の訓練終了後、第十一駆逐隊は再び単縦陣で航行を開始する。

 

 今は初霜が先頭で哨戒を務めていた。艦橋内のアイコンドールで二人の様子を確認すると、村雨が皿を片手に食事中、白雪はバスタブに浸かって入浴中のようだった。

 

 時刻は夕刻、日暮れ時。

 

 駆逐隊は西へ針路を取っていた。進行方向である西の空に太陽が傾き、白色だった光が徐々に赤みを帯び始める。

 

 空に浮かぶ千切れ雲が下側から陽を受け、その部分が燃えるように赤くなり、その光が雲を透けて残る部分を紫色に染めていた。

 

 太陽が水平線に近づくにつれその光量は徐々に弱まっていき、艦橋の偏光処理された窓ガラス越しなら直視できるようになってきた。

 

 オレンジから赤へと色を変えながら肥大化していくように見える夕陽と、それに従い同じ色に染まっていく空と雲と海。

 

 夕陽の下端が水平線に接し、それはみるみるうちにその向こう側へと沈んでいく。

 

 太陽は最後に水平線上に横たえるような光を残して、その向こうに没した。

 

 それを見届け、初霜はサポートAIに指示を下す。

 

「灯火管制、航海諸灯そのまま」

 

 この指示に艦首、メインマスト、艦尾それぞれに装備された白灯と、右ウィング外側の青灯、左ウィング外側の赤灯が点灯し、それ以外の灯火は全て消灯される。

 

 艦内も同じだ。常夜灯の赤い灯りを残して全ての照明が落とされる。艦橋内の各計器類、多目的モニターの表示も赤を基調としたものに切り替わり、その光量も周囲の明るさに合わせ徐々に落とされていった。

 

 艦首方向の西の空にはまだ太陽の光が残っていたが、後方の東の空はもう薄暗くなっている。

 

 初霜はウィングに出ると首から下げていた双眼鏡を持ち上げ、東の空から西の空へ向かって水平線をじっくりと探った。ついで双眼鏡を外し、肉眼で海と空をぐるりと見渡す。

 

 日の出と、そして今のような日没の直後は、空中哨戒機にとって最も有利な時間帯だ。

 

 艦船が長く尾を引く白い航跡は、薄明りでもはっきりと目立ってしまうのに比べ、哨戒機は空の小さな一点に過ぎず、容易く闇に紛れてしまう。

 

 それに加え深海棲艦は飛翔体までもそれなりのステルス性を有している。こちらのレーダーやセンサー類も高性能になり、探知能力も上がってきてはいるが、それでも念を入れて目視見張りを行うことは決して無駄ではなかった。

 

 初霜はそうやってしばらく目視見張りを続けた。今のところ深海棲艦に夜間飛行の能力は無いと判明していた。だから、暗くなってしまえば敵の哨戒機はもう飛んでこない。今のところは、だが。

 

 将来的にはどうなるかわからない。深海棲艦も次々と新型が発見されている世の中だった。

 

 初霜はあたりが完全に暗くなったのを確認してから艦橋内へと戻った。

 

 ドールで二人の様子を確認すると、白雪はまだ入浴だった。

 

 村雨はと言えば食事を終えたらしい。今は三等身のドールが小さな歯ブラシを持って歯をシャカシャカと磨いていた。コミカルであり愛らしくもある姿だが、同時に、

 

(こんなアイコン表示があったかしら?)

 

 と初霜は首を傾げた。もっとも、あったとしても歯を磨くたびにわざわざアイコン表示を切り替えようとは思わなかったが。

 

 その村雨ドールが歯磨きを止め、初霜に向かって笑顔で手を振りだす。

 

『初霜ちゃん、お待たせ~。哨戒当直を交代するよ~』

 

「ありがとう、村雨。ところで、今、ドールが手を振ってるけど、そんなアイコンあったの? あと歯磨きとか」

 

『お、気づいてくれた? 可愛いでしょ、コレ、自作なんだよ』

 

「え、そんなことが出来るの? --あ、とても可愛いわよ」

 

『へっへ~、ありがと。この前、アイコンドールソフトのアップデートが交付されたでしょ。その時にカスタム機能が追加されたんだよ』

 

「へー」

 

 そういえば北方警備艦隊からの異動直前に更新データが郵送で届けられていたわね、と初霜は思い出した。職務上、特に重要度が高くなかったので、転勤と重なっていたこともあって更新を後回しにしていた。

 

 初霜は、村雨と交代し最後尾へ回った後、ソフトウェアの更新に取り掛かることにした。

 

 金庫のような保管庫から、更新データが入ったスティック型の可搬記録媒体を取り出し、端末に接続する。

 

 アップデートはすぐに完了した。

 

 マスコットアイコンドールの設定画面を多目的モニターに表示すると、確かに【カスタム】という項目が追加されていた。試しに開いてみると、就寝、入浴、食事、操舵、デスクワーク等の基本形の他に、ポーズ、表情、小道具の追加まで細やかに設定できるようになっていた。

 

「ふうん」

 

 興味を惹かれたので、さっそくカスタムに取り掛かることにする。とりあえず待機状態のドール表示からだ。無表情に突っ立っているだけの面白みのない表示が目の前に現れる。

 

「えっと、表情から行こうかしら。どれがいいかな・・・」

 

 笑顔? いや、何でもないときにニヤニヤ笑っているのもバカみたいだ。

 

 かといって無表情のままというのも味気ない。初霜は試しに喜怒哀楽の表情をドールに次々と表示させてみて、しばらくしてようやく、目じりが少々上がったきりりとした表情に決めた。

 

 これなら待機中でも真面目に職務を遂行しているように見える・・・はずだ。

 

「次はポーズね。へえ、小道具に艤装もあるのね」

 

 戦闘配置時に身体感覚に加わる、両腕の主砲や機銃、腰のSSSM発射管、足元の機関や舵が、イメージそのままに再現されていた。

 

「へえ、戦闘配置の時の私って、視覚化するとこんな感じになるんだ。・・・これは面白いわ」

 

 艤装をドールに表示させ、色々とポーズを取らせてみる。それはまるで幼いころの人形遊びのようで、初霜は童心に帰った気がした。

 

 が、両手に銃器じみた艤装を装備しているせいか、それとも初霜の地の性格か、そのポーズはどれも勇ましいものになってしまっていた。

 

 両手を大きく開いて主砲を左右に向けた左右撃ちの構え。両手を胸の前で交差させたクロス撃ちの構え。今度は前後撃ち。

 

「昔、若葉と一緒に観た映画を思い出すわね」

 

 スタイリッシュアクション映画じみたポーズを次々と取らせている内に、初霜は我知らず笑顔になっていた。

 

 両腕をやや開きつつ主砲を前方に構え、同時に両腰のSSSM発射管も前に向ける。全砲門一斉射の構え。

 

「うん、これがいいわ!」

 

『うんうん、確かにいいわね、初霜ちゃん』

 

『おぉ~、かぁっくいい~』

 

「・・・へ?」

 

 気づけば、白雪ドールと村雨ドールがニコニコと笑いながら小さな手でパチパチと拍手をしていた。ちなみに白雪はまだ入浴中のままだ。

 

「え、ふたりとも、なんで?」

 

 初霜がドールをいじっていたことを知っているのか。と思ったとき、自分のドール表示が、他の二人に対しても表示されたままだったことに気が付いた。

 

「あの、二人とも、もしかして・・・ずっと見てました?」

 

 白雪と村雨のドールが、そろってコクンと頷く。

 

 へぇ、ボディランゲージもできるんだぁ。と冷静なフリをして思ってみたが、すでにその顔は真っ赤に染まっていた。

 

『初霜ちゃん』と白雪。『艤装だけじゃなく制服やアクセサリーなんかもカスタムできるみたいだから、今度、可愛いのを作ってあげるわね』

 

『あ、じゃあじゃあ私は女子力アップしちゃうポージングを教えちゃおーっと』

 

「・・・お気遣い感謝します」

 

 直接言及されていないが要するに女の子らしくないと言われ--ついでにカッコいいという微妙な評価というか気遣いを貰ったこともあって--複雑な気分で、初霜はドールに苦笑の表情を浮かべさせたのだった。

 

 

 

 




次回予告

 第十一駆逐隊を送り出した海尾は、司令部で叢雲と二人きりの夜を過ごしていた。

 一見して穏やかな夜に、しかし、彼の前世が不吉な未来を予言する。

 非科学、非合理、非常識、そんな言葉では切り捨てられぬ不安を裏付けるかのように、夜の静寂を破って電話のベルが鳴り響く。

 次回「第十二話・夜更けの電話」

「あんた、せっかくの二人きりの時間なのに、もしかして他のことを考えて上の空だったわけ?」

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