宮古島から南へ100海里。
例の漁船がその海域に到着したのは、すでに夜も遅い時間だった。
ここに来させた張本人である“彼”は、漁船を停止させ、それきり波間に漂わせた。
漁師が、
「ここに何がある?」
と聞くと、彼は、
「何もない。ここで待つだけだ」
そう答えて、あとは何を聞かれても答えようとはしなかった。
その日は月のない夜だった。
満天に拡がる星空の下、波も穏やかとは言え、20トンにも満たない漁船はそれなりに揺れる。
船に不慣れな人間にとって、この揺れは地獄そのものだった。
世話役の男は既に何度目になるかもわからぬ嘔吐感に襲われ、這うようにして顔を船べりから外に突き出した。
時刻は既に真夜中に近い。漁船の航海灯がわずかに辺りを照らし、船べりからのぞき込んだ海面に世話役自身の黒い影が映り込んでいた。
そこにわずかな胃液が滴り落ちていく。もう胃袋の中身は全て吐き切ってしまっていた。むかむかする胸を押さえながら船べりにもたれかかる世話役の前に、漁師が水の入ったペットボトルを差し出した。
「飲め」
「・・・無理だよ」
世話役は力なく項垂れた。喉や胃が、何かを飲み下すために存在しているとは信じられない気分だった。
「バカめ。吐くものが無いからいつまでも気分が悪いんだ。いいから飲め。飲んで吐き続けろ」
漁師にペットボトルを押し付けられ、世話役はひと口だけ水を口に含んだ。胸部にひろがる不快感をこらえながら、口の中の水を無理やり飲み込む。
二口、三口と続けて飲んだところで喉がしまり、続いて強い圧力がみぞおちから胸部にかけて逆流して、世話役は再び海に向かって飲んだ水を全て吐きだした。
「はぁ・・・はぁ・・・」
「どうだ」
「少し・・・楽になった気がする。本当に少しだけど」
「落ち着いてきたなら、食え」
漁師はそう言って、紙皿に山盛りにされた刺身を差し出した。この海域に着いてから漁師が釣った魚だった。
世話役はしばしその刺身をうろんな目つきで眺めていたが、やがて力ない手つきで割り箸を取り、数切れを口に運んだ。
漁師は、世話役が食べ始めたのを認めると、もう一人の乗客である“彼”に目を向けた。
「あんたも何も食べてないだろう。食え」
漁師は彼に向かって別の皿を差し出したが、彼は無言で首を横に振った。
世話役が言った。
「無駄だよ。彼は野菜しか食べない」
「ベジなんとか、って奴か。気取った男だな」
「気取っている訳じゃないよ。ちゃんと理由がある。・・・深海棲艦に家族を喰い殺されたんだ。以来、肉類が嫌いになったらしい。肉を食べる者は深海棲艦に見えるとか」
「そいつは、魚でもか」
「海のものはなおさら嫌いだそうだ」
「そうか・・・しかし家族を喰われた、か。それはもしかして、あれか。人喰い雷巡って事件のことだな」
「そうだよ」
「だったら、なんでこいつは艦娘を恨んでいるんだ? 関係ないだろう」
「見殺しにしたんだよ。その艦娘、初霜が、目の前で人が喰い殺されているのにも関わらず、たった数人だけを船に乗せて、逃げ帰ったんだ」
「・・・」
「しかも助けた数人というのが、密航船の船員たちだけだったんだ。犯罪者だよ。艦娘が臆病だったせいで犯罪者だけが生き延び、大勢の善良な市民が見ごろしにされたんだ。まったく、ひどい話だと思わないか。これはもう人災だよ。いや、犯罪だ。あの艦娘は法的責任を負うべきだったんだ」
世話役はさっきまで船酔いに苦しんでいたのが噓のように、批判を始めた。
「艦娘は起訴されるべきだった。あの当時の世論も盛り上がっていたし、この国に遺族が居たなら--彼が二年前に居てくれたなら、間違いなく起訴できたんだ。まあ勝ち目は薄いけれど、反対運動はもっと活発になっていたはずだよ。戦争反対!」
こぶしを握り締めて力説する世話役に、漁師は顔をしかめた。
「戦争だ? 何を言っているんだ、お前は」
「もちろん戦争と平和についてだよ。この国は無意味な戦争をずっと続けていると思わないか? この三十年、深海棲艦は沈めても沈めても出現し続けて、消える気配が一向に無い。しかも三十年も戦っているのに、深海棲艦のことはほとんど分かっていない。何故、襲ってくる? 何が目的だ? 誰が命令を下している? 何で人間そっくりなんだ? どんな生態なんだ? そもそもあれは生き物なのか?」
「そんなこと知るか」
「そうだよ、誰も知らない。何もわからないまま三十年も経ってしまって、今じゃみんなすっかり無関心だ。そんな状態で、これからもずっと戦い続けるなんて馬鹿げているよ。なのに戦争を続けているのは、これはもう世の中がそういう仕組みになってしまったからなんだ。いいかい、よく聞いてくれ。僕が思うに世の中がこうなってしまった原因は--」
熱弁を振るう世話役に、漁師はだんだん嫌気が差してきた。
漁師は単に、彼が肉や魚を食べない理由を知りたかっただけだ。艦娘の法的責任や、深海棲艦の正体などは別にどうでもよかった。
しかし世話役は漁師のそんな様子に気づくことなく、持論を展開し始めた。
「世の中を戦争依存体質にしてしまったのは、軍部の陰謀だよ。そしてその裏には軍事産業で利益を稼ぐ企業がいる。彼らこそ戦争屋さ。戦争で経済を回しているんだ。通商航路を深海棲艦から守るために戦っているなんて出鱈目もいいところさ。通商航路なんてもの、本当なら守る必要なんて無いんだ。だって三十年前に深海棲艦が出現したばかりの頃は、大陸との通商しか残らなかったけれど、それでも十分だったんだよ。確かに隣国からは色々と見返りを要求されたけどさ、国民のことを思えばそれくらい安いものじゃないか。それなのに国の面子なんて安いプライドと偏狭なナショナリズムに煽られて、隣国との関係を悪化させて、あげくバカみたいに長大な海上通商航路に拘るなんて、不合理過ぎると思わないか、なあ?」
馴れ馴れしく同意を求められ、漁師はさらに嫌気が増した。
「知った事か」
とすげなく答えて言外に拒絶の意を示したが、世話役には伝わらなかったようだ。
「その態度が戦争を長引かせるんだ」と世話役は上から見下すような態度で言った。「そもそも君たち漁民だって被害者じゃないか。海軍が通商航路防衛を優先して、漁民保護を後回しにしているのを知らないのか。もし大陸との通商航路だけを防衛するのなら、今みたいな大艦隊は必要ない。戦線を縮小して、余った戦力でもっと手厚い漁民保護が可能になるんだぞ。だから、君たちももっと僕たちと共に声を上げるべき--」
漁師は我慢の限界に達した。
「やかましいぞ、お前」
漁師は世話役の胸ぐらを掴み、そのまま引き立たせた。
「うわっ、な、何をするんだ!?」
「ごちゃごちゃとやかましいと言ったんだ。お前の主義主張なんてどうでもいいんだよ」
「どうでもよくはないだろう。深海棲艦の脅威に晒されているのは、君たちだ」
「脅威だ? 笑わせるな」
漁師は嘲笑し、世話役を船べりへと引き倒した。漁師に掴まれたまま、世話役の上半身が船の外へと突き出される。
「うわぁ!?」
不安定な姿勢で海面すれすれまで顔面を押し下げられ、世話役は悲鳴を上げた。漁船が揺れ、海水のしぶきが顔にかかる。
「怖いか。え? 怖いだろう。俺が手を離せば、お前は海に頭から落ちるんだ。今の時期の海は冷たいぞ。何分持つかな」
「やめろ、やめてくれ!?」
「ほら、目の前の海をよく見ろ。何が見える」
世話役の視界にあったのは、闇だった。真っ暗だ。底の知れない暗闇が眼前に迫っていた。
ついさっきも船べりからのぞき込んで何度も嘔吐していたのに、今、こうして落ちそうになりながら見た海は全くの別物だった。
海面までは1メートルほどの高さもないのに、世話役はまるで高層ビルの屋上から身を乗り出しているような恐怖感に襲われていた。
目の前の海はそれほど暗く、底が知れず、飲み込まれそうだった。
「そいつはただの海水だ」と漁師が言った。「だがここで落ちりゃ、それだけでお前は死ぬ。それはお前が泳げないからだとか、そういう理由からじゃない。俺だって落ちれば死ぬだろう。服は水を吸って重くなり身体にまとわりついて自由を奪う。さらに冷たい水が熱と体力を奪い、浮かんでいる事さえ難しくなる。そして何も見えない闇、日が昇ったとしても果ての無い水平線が、精神をぶっ壊す。船から落ちるっていうのは、そんな環境に放り出されるってことだ」
漁師は世話役を引き揚げ、解放した。世話役は荒く息を吐きながら、再び座り込んだ。
「脅威は、海そのものだ」と漁師は言った。「深海棲艦なんてものは、脅威のほんの一部でしかない。あれよりはるかに小さい1メートル程度のサメだって簡単に人を喰い殺す。ダツっていう漁火に向かって海から槍みたいに突っ込んでくる魚がいるが、こいつに刺し殺された奴もいる。今夜みたいに穏やかな日に、いきなり突風が吹いて船がひっくり返されることだってある。漁師にとっちゃ、そんなことは日常茶飯事だ」
漁師の言葉を、世話役は青ざめたまま黙って聞いていた。あの彼も、無表情のまま視線を漁師に向けていた。
「俺たちはそんな海で生きてきたんだ。海軍なんか最初からアテにしてねえよ。コイツを見な」
漁師は操舵室の脇から延びるアンテナを指さした。
「コイツは救難信号の発信機だ。外洋に出る船ならみんな搭載している。法律でそう決まっているんだ。命の危険がある時にスイッチを入れろってな」
だがな、と漁師はにやりと笑った。
「コイツのスイッチを入れたところで、誰も助けには来ない。なぜなら深海棲艦もこの救難信号を受信できるから、逆に奴らを呼び寄せる羽目になるからだ。助けに来ないのも当たり前だ。誰が自ら望んで深海棲艦が待ち受ける場所に行くというんだ。救難信号なんて笑わせる。こいつの本当の目的は囮装置さ。けどな、そうと分かっていても、俺たちは深海棲艦に襲われたとき、こいつのスイッチを入れるんだ。何故だか分かるか?」
「それは、やっぱり誰かが助けに来てくれるかもしれないからだろ?」
「バカめ、違う。助けに来させないためだ。こいつのスイッチを入れる時は、死ぬと決まった時だ。囮となって深海棲艦を引き寄せて、他の漁船が逃げる時間を稼ぐためだ。それが俺たちのやり方で、その覚悟がある者だけが海に出ることを許される。いや、海に出た以上、誰であれその覚悟を強いられるんだ。つまり俺だけじゃない。お前も、そしてお前もだ」
漁師は、世話役と、そして彼を交互に指差した。世話役の顔がさらに青ざめ引きつる一方で、彼は無表情のままだった。
言葉が通じていないからだ。漁師もそれは理解していたので、彼の態度は無視して、世話役に向かって言葉を続けた。
「お前、この戦争は無意味だと言ったな。俺はそうは思わない。別に海軍に肩入れするつもりは無いが、人間はこの海で戦う必要があると俺は思っている。深海棲艦と戦い続けなきゃ駄目なんだ。戦うことをやめてしまえば、俺たちは海を失う」
「で、でも、それなら漁場を守るだけでも十分じゃないのか?」
「漁場ってのがどれだけ広いか知っているのか。全てだ。この海全てが漁場だ。お前が毎日食っている魚だって、地球の反対側で獲れたものだぞ。陸地はバラバラに別たれているが、海はたった一つだ。どこか一部を手に入れて終わりという訳にはいかない。全てを手に入れるまで終わることのできない戦いだ」
「そんなの無茶だ。できっこない」
「だが、負けたら終わりなんだよ。だから戦い続ける。俺たちは命を懸けて漁を続ける。それが俺たち漁師の戦い方なんだ」
「・・・・・・」
語り終えた漁師に、世話役は返す言葉もないまま押し黙った。
いや、本当は反論しようと思えばいくらでも言葉を返せたのだが、それらは全て理屈であり、漁師はそれを決して受け入れはしないと分かっていた。
結局のところ、漁師の世話役に対する反発は理屈ではなく感情の問題なのだ。
そんな理屈の通じない人間をむやみに説き伏せようとしても、どうせまた怒らせてるだけだし、今度こそ海に突き落とされかねない。
そんなのは御免だ、と引き下がった世話役の態度に、漁師も満足したのかその場に腰を下ろした。
しばし船上に静寂が流れた。
だが、不意に、彼が声を発した。
「哎」
エイ、というような発音と共に彼の視線が漁師に向けられていたことで、それで漁師は、彼が自分に向けて呼び掛けたのだと理解した。
「なんだ?」
漁師の返事に、彼が隣国の言葉で何かを言った。世話役がそれを通訳する。
「あなたが怒っていた理由を知りたいそうだ」
「そんなの今更だ。お前が説明してやればいいじゃないか」
「う、うん。・・・わかった」
「おう、ちょっと待て。先に何て伝えるのか俺に説明しろ。勝手なことを言って俺を悪者にするなよ」
「わかってるよ。つまりあなたは、僕が理屈でものを言うのが気に入らなかったんだ。僕は海を何も知らないから」
「ん、まあ、そうだな。そういうことだ」
「じゃあ、そう伝えるよ」
まったく、と世話役は内心でため息を吐く。やたら長々と説教をされたが、要約するとこの程度のことなのだ。
だったら初めからはっきりとそう言えばいいじゃないか。と世話役は徒労感を覚えながら今の言葉を彼に伝えた。
それを聞いた彼は、無表情のまま続けて、こう質問した。
「そこのアンテナは何だ?」
「救難信号の発信機だそうだ。でもこれを使うのは囮になる時らしい」
「そうか、囮か」
このとき初めて、彼は表情を変え、冷笑を浮かべた。
彼と世話役のやりとりに、漁師が声を上げた。
「おいおい、変なことを言ってないだろうな」
「救難信号の発信機について訊かれただけだよ。囮として使うと説明した」
そこに彼が口を開く。
「囮になった者の、残された家族はどうなる?」
それは彼から漁師への問いかけだった。
世話役がそれを通訳し、漁師は答えた。
「残された家族は村で面倒を見る。漁業組合でそう決まっているんだ。俺も親父が海で死んで、漁師として一人前になるまで村が支えてくれた」
通訳されたその言葉に、彼は冷笑をうかべたまま、
「なら安心だな」
と頷いた。
「安心なものか」漁師は言った。「家族を残して逝くのは怖い。親の居ない寂しさ、心細さ、将来の不安は、俺自身が一番よくわかっている。だからこそ嫁や子供たちにはそんな思いはさせたくない。俺は、海に出る時は必ず生きて帰ると決めている」
「だが、お前は囮になると言ったぞ」
「生きて帰りたいのは皆同じだ。誰だって帰りを待つ家族がいる。だから、いざその時になったとき、誰かが囮になって他が助かるなら、それが俺だったとしたら、やるしかないだろう」
「理解できんな。所詮、他人の家族だろう」
「他人じゃない。皆同じ、海に生きる家族だ」
「同じ一族という意味か。それなら理解できる」彼は頷く。「では、一族を皆殺しにされたなら、残されたお前はどう生きる?」
通訳されたその言葉に、漁師は黙って考え込んだ。
これはきっと、この彼自身の境遇なのだと漁師は悟っていた。そして漁師の答えはもちろん決まっていた。
復讐だ。
相手が深海棲艦だろうが、海そのものだろうが、自分が死ぬまで足掻き、抵抗することを選ぶだろう。
この海に比べたら小さな存在だと理解していても、それでも自分や、家族や、人間が、無意味で無価値な存在では無いのだと思い知らせてやりたかった。
・・・もしかしたら、この男もそうなのだろうか。と、漁師は彼を見返しながら思った。
漁師は言った。
「俺は、お前の復讐に付き合って死ぬつもりは無い。金は受け取ったが、家族に渡すまで死ねる訳がない。それにあれは前金の一部だ。生きて帰って後金も払ってもらうぜ」
「わかっている。しかしそれは今ここで払おう」
彼は例の袋から、また新たな札束を取り出し、漁師の前に置いた。
「どういうつもりだ?」
「深い意味は無い。どのみちここで払うつもりだった。お前たちをこれ以上、巻き込むつもりはない。夜明け近くになったら、俺はここで海に入る。お前たちは港へ帰るがいい」
彼の言葉に、世話役が目をむいた。通訳された漁師も、思わず声を上げた。
「何をするつもりなんだ、お前は!?」
「復讐」
「艦娘に対してか? それは敵が違うだろ。お前の本当の敵は深海棲艦であるべきだ」
「そうだ」彼は頷く。「艦娘を殺すつもりはない。しかし屈辱は味わわせる。俺は、妻や子供たちと同じ船に乗れなかった。違う密航船に乗せられたが、機関トラブルで出港できず、俺は何もできないまま家族を喰い殺された。この無力感を初霜にも味わわせてやる」
彼は言いながら、袋から新たなものを取り出した。袋の大きさから、金以外に入っていたものはそれで最後のようだった。
それは一見すると金属製のトランクケースだった。相当の重量があるのだろう、床に置くと舟板がミシリと軋んだ。
彼は言った。
「初霜の目の前で、俺は命を懸けて深海棲艦を倒す。これはそのための武器だ」
「そ、それって、まさか!?」
世話役が驚愕の声を上げ、トランクケースから後ずさる。
その様子に、漁師が訊く。
「おい、これが何か、知っているのか?」
「こ、これは僕が昔務めていた研究所で使用されていた保管容器だよ」
「へえ。お前、学者だったのか。道理で理屈ばっかり言う訳だ。で、何の研究をしていたんだ?」
「放射線だ」
「は? 放射線って、あれか、身体にヤバい奴か?」
「そうだよ。そして放射性物質を保管する容器として、これと同じものを使っていたんだ!」
「じゃ、じゃあまさか、そいつの中身は・・・」
二人の狼狽した様子に、彼は落ち着き払った態度で頷いた。
「スポンサーが金と一緒に用意してくれたものだ。中身はウチの国のことだ、管理の杜撰な原発はそこら中にあるから用意するのに苦労はしないだろう。だがケースについては半信半疑だった。・・・が、どうやらこの国でも使われているものらしいな。なら放射能が漏れる心配もないだろう」
「た、確かにそうだけど」と、世話役。「でも、その大きさで、その重さなら、中身は尋常な量じゃない。放射性物質の種類によっては致死量レベルの放射線を浴びる危険だってある!」
「スポンサーが言うには、即死する程じゃないらしい。だがこいつを深海棲艦の体内で開放してやれば、100メートルサイズの生物でも内部被ばくを起こし死に至る。もし深海棲艦が生物じゃなくとも、電子回路は間違いなく破壊される」
「だからといって、ここで開けるなよ。間違っても開けないでくれよ。お願いだから」
「開けるのは深海棲艦の腹の中だ。俺はこいつを持って、初霜の目の前で深海棲艦の腹の中へと飛び込むのだ。・・・初霜は俺を助けられず、深海棲艦も俺に倒されることによって軍人としての面子を失うだろう。この国の海軍もだ。それがスポンサーの狙いだが、正直、俺にはどうでもいい。たまたまスポンサーと俺の思惑が一致しただけだ。これは、俺の復讐だ」
「・・・・・」
「・・・・・・」
彼の言葉の後、船上にはしばし沈黙が流れた。
世話役は彼の狂気を恐れた戸惑いの沈黙だったが、漁師は彼を狂っているとは思わなかった。
漁師は、彼の半生を知らない。しかし彼の絶望と、それに対して命を懸けて抗う意地は理解できた。
かといって一緒になって深海棲艦と戦うつもりは無いが、しかしせめて、何か手伝ってやりたいという気持ちが湧き上がってきたのを、漁師は自覚していた。
しばらくの沈黙の後、彼がまた口を開いた。
「その囮装置、取り外せるのか」
世話役から通訳され、漁師は頷いた。
「取り外しても使える。防水使用で、浮きもついているから海中でも使える」
漁師は答え、そして少し考えてから、こう付け加えた。
「艦娘が・・・初霜が近くにいるなら、救難信号を捉えて、きっと来るだろう。あの艦娘はそういう性格のような気がする」
「お前は、初霜と知り合いなのか」
「俺が転覆して海に投げ出されたとき、あの娘は自分の身ひとつで海に飛び込んで助けてくれた」
「恩人か。だが、俺は初霜に屈辱を与える」
「わかっている。それに手を貸している負い目は感じている。それでも、お前はあの娘と逢えば良いと思った。そうすれば、お前も少しは救われるような気がするんだ」
「初霜が泣いて許しを乞うても、俺は許す気はない」
「そういう意味じゃない。そうじゃなくて、その、あれだ。・・・畜生、うまく言えねえな」
漁師は悪態をつきながら立ち上がり、操舵席から救難信号発信機を取り外し始めた。
装置は十数センチメートル四方の箱であり、電源内臓式、アンテナがそこから直接伸びている。脇には短い策が伸び、そこに浮きがついていた。
「操作方法は横のカバーを開いてスイッチを押すだけだ。・・・それと救命胴衣だ。こいつも持っていけ」
漁師は装置を、漁船に備え付けてあるオレンジ色の救命胴衣と一緒に手渡した。
「謝謝(ありがとう)」
「礼はいい。もらった金の分のことをしているだけだ」
強張った表情でそう言った漁師に、彼は無表情のまま頷いた。
そして、時間は、夜明けに向けて刻々と進んでいった・・・
次回予告
人喰い雷巡
被害者
復讐
二年前のあの日に起きた悪夢が、今、再びこの暗闇の向こうに蘇り、初霜を待ち受ける。
あの日以来、常に彼女を苛んできた罪悪感。
(私は、復讐される・・・。私は、罪を償える・・・)
暗い欲望が、彼女の心を曇らせる。
次回「第十四話・霧中の敵」
「初霜、あいつを救ってやってくれ!」