訂正、150,000字だわ。桁違いだわだわ。
第一話・守と叢雲
起きなさい。
遠くから誰かにそう呼びかけられた気がして、私は閉じていた瞼を開いた。
焦点の合わない視界に光が飛び込み、徐々にそれが空の青さだと気付く。しかし澄み渡った青空かといえば、そうではない。
青よりも白が多い。
小さな塊上の雲片が群れをなして空一面を覆い尽くし、青と白のまだら模様を作っている。
これは高積雲だ。雲の高度は6000フィート。約2000メートルといったところか。雲は空の大半にかかっていて、全体を8とするなら、その範囲は5くらいだろう。曇りではなく晴れだ。表記はAc。
と、こんな風に海上気象の分析をしてしまうのは船乗りとしての一種の職業病だろう。そんな考えが浮かんだとき、ようやく私は、自分が仰向けに倒れているのだと自覚した。
何故、私は倒れているのだ?
そんな疑問を抱えたまま空を見上げ続ける私の視界に、ふと、影が差した。
「お目覚めね」
一人の女性が私の傍に膝をつき、顔を覗き込んでいた。
長い灰色の髪に、吊り目がちな大きな瞳、細い顎。歳は若い。十代の半ばか後半くらいだ。女性というより少女だろう。美少女だ。
しかし可愛いという風ではない。冷たい美しさだ。気安い性格ではなさそうだな。
と、私は自分でも奇妙なくらい冷静に彼女の人間性を観察しながら、身体を起こした。
全身の関節が油の切れた機械のように軋みをあげ、鈍い痛みが拡がった。おそらく長時間、身体を動かさなかった事により筋肉が固まっていたのだろう。それか、何らかの極度の緊張により全身が強張っていたかだ。もしくは両方という可能性もある。
そろそろと立ち上がりながら身体のあちこちを手で探ってみて、関節の軋み以外に大きな外傷が無い事を確認する。
同時に、この場所が砂浜であった事にも気が付いた。全身が砂まみれだ。
穏やかな波打ち際を背景にして、少女もまた膝の砂を払いながら立ち上がった。彼女の身長は私の胸元くらいだ。彼女の瞳が私を見上げる。
「起き上がったりして大丈夫なの?」
「起きなさい、と君に言われた気がしたが?」
言い返しながら、これが自分の声なのかと疑問を感じた。何か、違う発声装置を使って喋っているような気がして喉を探ってみたが、首筋には何も着けてなかった。
彼女が私を見上げながら、訝しむ様に眉を寄せて言った。
「確かに言ったけど、立ち上がれという意味で言ったんじゃ無いわよ。意識があるかどうか確認したかっただけ。だいたい、あんた、足元が覚束ないわよ。今にも倒れそう」
「そうだな、確かに気分が悪くなってきた」
「座ってなさい。取り敢えず救急車を呼んでみるわ。もっとも、ここの通信網が生きていればの話だけど」
再び座り込んだ私の横で、彼女は立ったまま通信機らしき二つの機械を取り出した。彼女の手の平よりも少しだけ大きめの長細いその機械は初めて目にする物だったが、私には何故だかそれが通信機なのだと理解できた。
彼女はそれを頭の両脇、耳よりも高い位置に掲げて、手を離した。二つの機械はそのまま、見えない力で固定されたかのようにピンと縦向きになって浮いた。
まるで兎の耳のようだ、と私は思う。
彼女は通信機に手を触れないまま、その機械の耳をピクピクと動かして角度を調整していたが、やがて諦めたように溜息をついて通信機を再び手に取った。
「駄目ね、やっぱり繋がらないわ。ここの鎮守府は通信機能を完全に喪失している。空襲でかなりの被害を受けたようね」
「空襲?」
彼女の口から出た非日常的な言葉に、私は周囲を見渡した。
海とは反対側、陸地側にはコンクリートの堤防があり、その向こう側の景色は見えない。しかし広い空に向かって黒い煙が幾筋も立ち昇っているのが見えた。
「火事か。あそこが被害にあったのか?」
しかし、いったい誰に?
いや、そもそもここは何処だ?
「深海棲艦の空母艦載機による爆撃みたいね」
「深海・・・?」
おうむ返しに口にした私に彼女は頷きながら、答えた。
「この島の主な施設はほぼ被害を受けたみたいね。あっちは鎮守府の方向よ。この分じゃ壊滅しているかも知れない。早めに着任してたら巻き込まれていたところだけど、運がいいのか悪いのか、微妙なところね」
「鎮守府・・・着任・・・君は海軍なのか?」
「ええ、そうよ。転属のためにこの島に来たばっかり。フェリーから荷物を下ろしている最中に空襲を受けて、私物も制服も海の底だけどね」
「君のような若い子が軍人とはな」
「若い?」と彼女はおかしそうにクスクスと笑った。
「君の所属と階級、氏名は?」
「前所属は第十二駆逐隊。ここでは十一駆の予定だけど、生き残っているのかしら。階級は無いわ」
「階級が無い? 事務官か。いや、それでも等級はあるな」
「戦闘要員よ。はい、これ私の身分証」
彼女がポケットから一枚のカードを取り出した。
【一等駆逐吹雪型5番艦・叢雲】
「むらくも?」
「そうよ、見ての通り、艦娘」
かんむす、と彼女は言った。未知の言葉だ。しかし、私はその意味を訊く気にはならなかった。
上手くは言えないが、私はそれを既に知っている気がしたのだ。さっき彼女が使用した兎耳の通信機のように、実際に彼女が“そうなった”ときを目にすれば全てを理解できる気がした。今はただ、思い出せないだけだ。
そう、思い出せないのだ。私は重大な事実に気が付いた。
「で、あんたは誰?」
彼女からの質問に、私は愕然とする。
私は誰だ。それがわからないのだ。記憶喪失だった。
そう彼女、叢雲に伝えると、彼女はまた眉をひそめて溜息をついた。
「空襲で吹っ飛ばされたショックね。身体は無事だけど記憶が飛ばされちゃったわけか」
「君と知り合いじゃないのか? いや、君の反応を見るに初対面だな」
「そうよ。鎮守府に向かう途中で倒れているあんたを見つけたの。堤防の向こう側は空襲で穴だらけで、砂浜を歩いた方が早かったから」
「君に介抱されたのは偶然だった訳か。神に感謝だな」
「別に、声を掛けただけよ。それより神に感謝って、あんたキリスト教徒なの?」
「どうかな、思い出せない。唯一神なのか、それとも八百万の神か、自覚なしに呟いていた」
「手がかりにならないわね。まあ、あんたの信仰心よりもっと手っ取り早くて確実な手がかりがあるけど」
「なんだ、それは」
「自覚無いの? あんた自分がどんな格好してるか改めて見てみなさい」
言われて、もう一度自分の服に目を落とす。
黒い服だ。足元は革靴、下半身は黒のスラックス、上半身は白ワイシャツに黒ネクタイに、金ボタンがついた黒いダブルの上着を着ている。
その金ボタンには鎖の絡んだ錨が刻まれていた。
「軍服・・・冬制服か。私は軍人だな。海軍所属だ」
ちなみに帽子は無かった。空襲で紛失したのかも知れない。髪の毛を手で撫で付けると、短く刈り揃えられていることが分かった。
軍服なら名札があるはずだが、右胸に着けているはずのネームプレートも紛失していた。
ならば身分証だ。叢雲のようにカード型の身分証を持っていないかポケットを探ったが、残念ながら見つからなかった。
しかしその過程で自分の階級に気づいた。
冬制服の階級章は両袖についている。そこには金色の太い線が四本ならんで巻かれていた。
「一等海佐だ。驚いたな、そんな高い階級だったのか」
「違和感あるみたいね。一佐といえば大佐相当だったかしら。確かに、あんたは大佐と言うにはまだ若く見えるわ」
「実感としてはせいぜい三佐、少佐程度だ。二階級特進でもしたのか。縁起でもないな」
「死んで、黄泉帰った? あんた幽霊かしら」
「記憶喪失の身では冗談に聞こえないな。不気味だ」
「大丈夫、足はあるわ。ゾンビにも足があるけど」
「真面目な顔をして言わないでくれ。本気に取ってしまう。そんな精神状態だ」
「幽霊でもゾンビでも構いやしないわよ。あんたが軍人で将校なら、任務遂行に必要な判断力と、命令を下す言葉が発せられればそれでいい。違う?」
「・・・現実的かつ合理的、そして冷静な判断だ。自分が人間じゃないと言われてるようだが、少なくとも最低限の精神安定になるな」
「意外とあっさり受け入れたわね。あんた、多分そんな風に訓練を受けてきたのよ」
「なるほど、そんな気がする」
私は腕組みをして、空を見上げた。頭上の高積雲を見上げながら、そういえばこの雲の別名は叢雲だったと思い出す。
彼女と同じ名前だ。むらくも。
目を戻すと、彼女と目が合った。私は、じっと叢雲を見つめた。
「な、なによ?」
「いや、やはり初対面という気がしなくてな。昔、どこかで会っていないか?」
「記憶に無いわ。もしかすると、あんたが私の資料や経歴を書類で見て、それで一方的に知っている可能性もあるけど」
「艦娘の運用法の講習とかでか。ありえそうな話だな」
言いながら、艦娘とは運用されるべき兵器なのだろうか、と疑問が浮かんだ。だが、その時、私は別のものを見つけ、注意をそちらに惹きつけられた。
10メートルほど離れた場所に、砂で半分埋もれるようにして黒の書類カバンが落ちていた。
叢雲もそれに気付き、座り込んだままの私に代わって拾ってきてくれた。
「軍用の書類カバンね。あんたのかしら」
「多分そうだ。鍵はかかっていない・・・ような気がする。開けてみてくれ」
「閲覧不可の重要機密書類だったら、あんたに責任とってもらうわよ」
「責任が取れる立場であればいいんだがな」
「大佐でしょ、あんた」
「実感が無い。上着だけ別人の物を借りたのかも知れん」
「やめてよ、もう」
叢雲は口ではそう言いつつも、さほど躊躇わずにカバンを開け、中からA4判の茶封筒と、一枚のカードを取り出した。
「あら、これ身分証だわ。写真もついてる」
叢雲はそう言って、カードと私を見比べた。
「うん、あんただわ。階級は大佐で間違いない。良かったわね。それで、名前は・・・海尾 守」
ぷ、と彼女は吹き出した。
「うみお まもる・・・くく、何これ、本名なの?」
「笑うな。気分悪いぞ」
「ごめんごめん。でも、気分悪くしたってことは、自覚あるのね」
叢雲の言葉に、私は頷いた。守という名前に引き上げられるように、次々と記憶が浮かび上がってきた。
「そうだ、私の名だ。子供の頃、それで散々からかわれたのを思い出した。なんでこんな名前を付けたんだと親に文句を言ったこともある。問答無用で張り倒されたがな」
「立派な名前よ。思わず笑ってしまったけど、改めて考えてみれば、これほど期待を背負った名前は無いわ」
「名前負けするのが嫌で海軍に入隊したんだ。他人ではなく、自分の名前に負けるのが嫌だった」
「そして大佐にまで昇進した。立派よ、あんた。ご両親も鼻が高いでしょうね」
「そうだと思う。入隊する前に死んだけどな。海で遭難したんだ」
「・・・ごめんなさい」
「いや、気にしなくて良い。むしろ思い出させてくれて感謝している」
「そう。・・・こっちの書類は、あんたが調べた方が良さそうね」
叢雲から身分証と茶封筒を受け取り、先ずは身分証を確認した。
海尾 守。確かに大佐だ。年齢は三十半ば。写真は撮影者の腕が悪いのか、あまり男前には見えなかった。しかし、これが私らしい。鏡が無いので自分の顔を見ることはできないが、叢雲もそう言ったのだから、可能性は高い。
確信が持てないのは、声と同じく違和感が拭えないからだ。もっとも、海尾 守としての記憶は確かにあり、その記憶に残る鏡の中の自分の面影を、身分証の写真に見出すことができた。
身分証を懐のポケットに仕舞い、続いて茶封筒の表書きを見る。
個人情報という文字が赤インクの判で押されている。宛先は南方警備艦隊司令部総務担当者宛。送り主は海軍総隊艦隊司令部人事課。
どうやら人事書類の様だ。私は糊付けされていた上端を手で破き、中の書類を取り出した。
辞令だった。
【艦隊人事第48号 人事発令通知 次ノ者へ南方警備艦隊司令へノ着任ヲ命ズル 海軍大佐 海尾 守】
口に出して読み上げると、叢雲が「あら」と声を上げた。
「どうした?」
「あんた、私の上官らしいわ」
そう言って、叢雲は直立不動の姿勢を取る。
「特型駆逐艦・叢雲、本日付で南方警備艦隊第十一駆逐隊所属を命ぜられ、只今着任しました。宜しくお願いします」
申告し、敬礼。帽子が無いので会釈に似た十度の敬礼だ。
私も立ち上がり、同じく十度の敬礼で答礼する。
「よろしく頼む。といっても私はまだ着任していないがな」
「そうね、取り敢えず鎮守府に行かなきゃ始まらないわ」
「お互い砂まみれ埃まみれ格好で着任の挨拶か」
「どうせ向こうも似た様なものよ。行きましょう」
叢雲に促され、私は黒煙が立つ方向へ向かって、堤防を越えた。
堤防を越えた先は田畑が拡がる平野であり、一キロほど先に赤レンガの建物が見える。どうやらあそこが鎮守府の様だ。黒煙もそこから上がっていた。
鎮守府へと続く道は空襲の目標とされたのか、爆撃により幾つもの大穴が空き、寸断されていた。私たちは田畑の畦道を使って迂回を繰り返しながら、鎮守府へと向かった。
鎮守府に近づくにつれ、その被害状況もハッキリと見えてきた。一言で言えば、ひどい有様だった。
私たちの位置は鎮守府の裏手にあたり、そこから見える限り庁舎らしき建物、倉庫らしき建物は全て被害を受けている様だった。原型を留めている建物でも何処かしらに大きな穴が開き、窓ガラスも一枚残らず砕け散っている。跡形も無く崩れた建物も少なくないだろう。
せめてもの救いは火災が既に鎮火しているということだった。現状これ以上の被害が拡大することはない様で、敷地内では瓦礫の撤去作業が行われていた。
近くまで辿り着いた私たちは、隊門を探してフェンス沿いを歩いた。しかしフェンスもあちらこちらで倒壊し、その意味をほとんど失っていた。
「隊門まで遠そうね。ここから入っちゃう?」
「それはあまり、よろしくないな」
しばらく歩くと、また海が見えた。どうやら鎮守府の敷地は海に面している様だ。海軍の施設なのだから当然かもしれないが。
隊門も海の近くにあった。立直中の守衛は、少女を同伴した、帽子もかぶらず砂まみれの制服姿の私を見て訝しんだが、身分証を見せるとすぐに態度を改め、敬礼した。
「空襲に巻き込まれたのですか。ご無事でなによりでした。今から警備艦隊関係者に連絡を行いますので、しばらくここの詰所でお待ち下さい」
守衛に促され門の脇にある小さな建物に入ると、入れ替わりに別の守衛が自転車に乗って敷地内へと走って行った。
「いま伝令を出しました」と守衛。「この詰所も機銃掃射を受けて、通信機器を破壊されまして、鎮守府内でも人力で情報をやり取りしている有様です」
「壊滅状態だな」
私が詰所の壁に穿たれた大量の弾痕を眺めながらそう呟くと、守衛はさほど悲壮感を見せずに、そこまでひどくないです、と言った。
「地下の中枢施設はほぼ無傷ですよ。隊内の通信回線自体も生きてます。地上施設の端末はほとんど壊れましたがね」
「外部との連絡は?」
「一般回線は幾つか残っていますが、無線通信用のアンテナが損傷した様です」
「やっぱりひどいじゃないか」
四、五分ほど経ったところで伝令が戻ってきた。
「大佐、警備艦隊司令部は現在、空襲の被害のため迎えを出せないとの事です。申し訳ございませんが司令部までご足労願います」
「わかった。場所を教えてくれ」
「ここから海沿いの道を進んだ先に岸壁があります。その中ほどあたりの掩体壕が地下司令部への入り口となっており、司令部要員がそこで待っているそうです」
私は守衛に礼を言い、叢雲とともに敷地内を歩き出す。
教えられた道を進んでいく途中、叢雲がある疑問を口にした。
「空襲直後とはいえ、新司令を迎えに来れないってどういう事かしらね」
「被害がそれだけひどいのだろう」
「さっきの守衛は、そこまでひどくないと言っていたわよ。それに空襲直後だからこそ、こういうところはしっかりすべきなのよ。でなければ指揮が乱れるわ」
そう言いながら、叢雲は私に睨む様な視線を向けてきた。指揮官としてしっかりしろとでも言いたげな視線だった。
どうやら私は厳しい部下を持ったようである。私は内心の自信の無さを表情に出さないように心がけながら岸壁沿いを歩いた。
海沿いに長く伸びる岸壁には、係留されている艦艇は一隻も無く、がらんとしていた。その岸壁の真ん中近くに、カマボコ型をしたコンクリート製の構造物があった。
おそらくこれが守衛の言っていた掩体壕だろう。その地下司令部への入り口と思われる鉄製の扉の前に、一人の背の低い少女が立っていた。
「あれが司令部の者かな」
「そうみたいだけど・・・でも、あの子、どこかおかしくないかしら」
「うん?」
近くまで来ると、叢雲の言ったことがよくわかった。
扉の前で待っていたのは、白地に緑の線が入ったセーラー服を着て、胸元に白い猫を抱えた、三頭身の娘だった。
いや、娘どころか人間ですらない。これは少女をディフォルメして描かれたイラストだった。胸元の猫などディフォルメしすぎて、両手で抱いているというより、ぶら下げているか吊るしているかの様な感じだ。
そんな三頭身猫吊るし少女のイラストが、立て看板状態で扉の前に立っていた。
「なんだこれ」
「広報用の展示パネルかしら。ほら、よく観光地とかにある写真撮影用のアレ」
「顔の部分に穴が空いているアレか」
そう言えばアレはなんという名前なんだろうか。そんなどうでもいい疑問が頭をよぎる。
「顔に穴がないから顔はめパネルじゃなさそうだけど」
「アレそんな名前だったのか」
「さあ? ていうか何でこんな物があるのよ。私たちへの悪ふざけ?」
「空襲直後に悪ふざけか。そんなことができるなら、指揮の乱れというより、かなり図太い神経をした連中かもしれないな」
「独立愚連隊みたいなところかしら。うわ、冗談じゃないわ」
叢雲がウンザリした顔をしながら、扉の前から猫吊るし娘の看板をどかそうとして、手をかけた。
しかし、
「あら?」
叢雲の手は、その看板をすり抜けた。
「何これ、全く手ごたえがないわ。まるで立体映像みたい」
叢雲の言葉通り、看板は彼女の手が触れたところだけ細かくノイズが走り、半透明になっていた。
『おっしゃる通り、これは立体映像です』
「「ッ!?」」
突然かけられた声に、私と叢雲は周囲を見渡した。
しかし、他に誰もいない。
「誰だ、どこにいる?」
『驚かせて申し訳ございません。ですが、私はすでに、あなた方の目の前に姿を見せております』
その言葉に、私たちは目を戻す。目の前にあるといえば、この猫吊るし娘の立体映像の看板だけだ。
その猫吊るしの口元がパクパクと動いた。
『はじめまして。私は、南方警備艦隊司令部の業務担当AI、UN=Aと申します。どうぞ宜しくお願いします』
私は自己紹介する猫吊るしから目を逸らし、隣にいる叢雲をみた。同じように、彼女も私の方を見ていた。
「なあ、AIなんて聞いたことあるか」
「各鎮守府で順次導入され始めているとは噂で聞いたことあったわ。どこも人手不足が深刻だから自動化できる業務は全部そうしようってね。・・・でも、立体映像を伴って会話までできるなんてのは初耳だったけど」
「そうなのか」
正直、私としてはAIが導入されているだけでも驚きなのだが、世の中は意外と発展しているものらしい。
いや、実はこれも、私の一時的な記憶の喪失による感覚なのだろうか。名前や過去を思い出したものの、大佐の階級と一緒で、まだ少し違和感を覚えている。
そんな私の戸惑いを余所に、猫吊るしが続けた。
『この立体映像は業務を円滑に進めるための対人インターフェイスだとお考え下さい』
「という事は、本体は別にあるんだな」
『この鎮守府の地下最深部にあるスーパーコンピュータをメインサーバーとして使用しております。鎮守府及び警備艦隊司令部の業務処理等も、ほぼ全てこのサーバーで処理しておりますので、今回の空襲でスパコンに被害が無かったのは幸いでした。もっとも、空襲による過負荷で、対人インターフェイスをはじめとする幾つかの箇所がエラーを起こしてしまいましたが』
「じゃあ」と、叢雲。「あんたのこのふざけた立体映像も、対人インターフェイスのエラーによるものってわけ?」
『左様です。正常な状態でしたら、叢雲さんの様な可憐なお姿を披露できるのですが、今は過負荷による処理能力の低下のため、ディフォルメキャラクターの一枚絵をこの場所で表示するのがやっとという状態です。そういう訳で隊門までお迎えに行けず、失礼致しました』
「そういうことなら、わかった、しょうがない」
『ありがとうございます。それでは、これより司令部へご案内いたします』
猫吊るしはそう言って、その一枚絵をくるりと反対に向け、裏側に描かれた背中を見せた。その眼の前で、鉄製の扉が重い音を立てて開いていく。その先に、地下へと降りる階段が続いていた。
滑るように動き出した猫吊るしの後を追って、私と叢雲は、階段を降りた。
地下施設はほぼ無事というのは確かな様で、地下の通路には照明が灯り、空調も正常に機能していた。通路の両脇には幾つかの鉄製の扉があり、それぞれには指揮所、通信所、気象室、さらには艦娘待機室などの表記がある。その扉の列の一つだけ、木製の扉があった。
『こちらが司令執務室になります』
「案内ご苦労」
私は木製扉の前に立ち、ノックしようとした。しかし私が叩くより先に、その扉がひとりでに開く。
目の前に現れた執務室は、無人だった。そもそも照明さえ落とされていた。
わずかな間をおいて、部屋に照明が灯される。中はそれなりに広い部屋だ。部屋の中央には応接用のソファがテーブルを挟んで向かい合わせに置かれ、その奥に執務用のデスクがある。
入り口から向かって右側には秘書用のデスクが司令のデスクと斜向かいになる様に設置されていた。向かって左側には巨大な書類棚が壁一面を占拠していた。
私と叢雲が入室すると、背後で扉が閉じられた。どうやら自動ドアだったらしい。私は猫吊るしに問いかけた。
「前任の司令は?」
『現在は不在にしております。その辺りの事情も含めてご報告しますので、どうぞ席におつきください。もっとも私はこんなナリですので、何のおもてなしもできませんが』
猫吊るしに促され、私は応接ソファに腰を下ろす。叢雲は座らずに、猫吊るしにお茶のありかを訊いた。
「秘書艦もいないみたいだし、仕方ないから私がお茶を淹れるわ」
『助かります。書類棚の左端の戸棚にお客様用のお茶セットが入っています』
「これね。茶葉がいくつかあるけど?」
『お客様用は緑茶とほうじ茶、それと紅茶です。紅茶はダージリンとアールグレイを使って頂いて結構ですが、オレンジペコは前任者の私物ですのでご遠慮下さい。秘書艦からもらったFTGFOPだそうです』
「えふてぃ・・・なにそれ?」
『フィナーティピーゴールデンフラワリーオレンジペコの略です。紅茶の最高級グレードで、100グラムあたり二万するとか』
「うそ、とんでもない値段ね。しかも秘書艦から貰ったとか、貢がせているみたいじゃない」
『貢がせているというか、夫婦でしたからね、あの二人は。いつもバーニングラブとか言っていて、賑やかでした』
「風紀的にどうなのよ、それ。私はあまり好ましいとは思えないわ」
険しい表情になった叢雲に、私は横から口を挟んだ。
「前任には前任の考えがあったんだろう。気にするな」
「あんたはその前任から艦隊を引き継ぐのよ。私生活上の問題を残されたら面倒だわ」
「本人のいないところで、しかも見も知らない他人様の事情に口を挟む事じゃない。何も知らずに批判しても、それは陰口と変わらん」
私の言葉に、猫吊るしが『ありがとうございます』と礼を言った。
「その礼は、どういう意味だ?」
『公平な判断をして下さった事への感謝です。私は前任者を主観的には評価しておりました。客観的には叢雲さんの言う通り、職務に私情を持ち込んでいたことは確かです。それゆえ批判も多く受けました。艦隊の内実も知らずに、ほとんど誹謗中傷に近い言葉を投げつけられた事もあります。しかしデメリットはありましたが、メリットも大きかった思います』
「私はその辺りを何も知らんだけだ。批判も何も無い。余計な話は抜きにして状況を教えてくれ」
『失礼致しました。では、ご報告します』
「ああ。・・・おっと、その前に、すまんが待ってくれ。叢雲、私の分はダージリンで頼む」
「はあ!? もっと早く言いなさいよ。もう、ほうじ茶を淹れちゃったわよ」
「好みを訊く前に淹れるやつがあるか。秘書失格だぞ」
「あんたの秘書艦を拝命した覚えはないから勘違いしないで。ダージリンが飲みたかったら自分で淹れなさい」
目の前に湯呑みが乱暴に置かれ、ほうじ茶が注がれた。
「ありがとう」
私は少し釈然としない気分で礼を言ったが、彼女は「ふん」とそっぽを向きながら、私の隣に腰を下ろした。
『・・・報告しても宜しいでしょうか?』
「すまなかった。頼む」
『先ず前任者の不在についてですが、これは今朝の空襲に関係しています。昨日の1230、本島近海域の通商航路上おいて深海棲艦の大艦隊が突如として出現しました』
猫吊るしの報告に私は頷く。
自分の名と共に戻ってきた記憶と知識によれば、この南方警備艦隊はその名の通り、この南方の海域警備を主任務とする艦隊であった。そしてこの付近には、毎日数十隻にのぼる民間商船が航行する通商航路があった。
『事態を重く見た海軍総隊から、直ちに、我が南方警備艦隊に対し緊急出港が命じられました。これを受けて同日1330、前任司令は在籍艦娘全てをもって出港、現場海域へと急行しました』
「それはつまり全戦力ということか。鎮守府の防衛戦力さえ残さなかったのか?」
『敵の戦力は判明しているだけでも戦艦3、空母4、重巡4、駆逐12、更に潜水艦情報もありました。それに対し我が警備艦隊の戦力は戦艦1、軽空母2、軽巡2、駆逐8。その戦力差は圧倒的不利ながら、それでも他警備艦隊からの増援到着まで持ちこたえる必要がありました』
本来なら増援を待って戦力を増強してから敵に当たりたいところだが、敵艦隊に通商航路を抑えられてしまった以上、民間商船への被害が出る前に一刻も早く駆け付け、敵の目を引き付ける必要があったということだ。
「ほとんど捨て駒だな・・・」
『敵の撃破ではなく、時間稼ぎと味方の生存を目的とするなら勝算はある。前任司令はそう言っておりました。全艦娘出撃はその為の苦肉の策です』
「それで、作戦は上手くいったのか?」
『戦術的には敗北ですが、戦略的には勝利したと言って良いでしょう。我が艦隊は出港後の同日1746、軽空母から発進した哨戒機により敵艦隊を捕捉。艦載機による先制攻撃、そして日没後は夜戦に持ち込み、敵艦隊を攻撃。敵艦隊の注意を我が警備艦隊に引き付けることに成功しました』
しかし、と猫吊るしは続けた。
『敵艦隊の戦力はほとんどそのまま残っていました。我が艦隊は敵艦隊を引き付けつつ通商航路上から遠ざかり、味方艦隊との合流海域を目指しましたが、この時点でかなりの被害が出た模様です』
「全滅か?」
『轟沈は出しませんでしたが、ほぼ全艦娘が中破ないし大破したそうです。日付が変わって本日0600、我が艦隊は味方艦隊との合流に成功。敵艦隊を敗走させました。しかしその報の直後の0810、本島の目の前に敵空母が単体で出現、艦載機による奇襲爆撃を受け、地上施設に被害を被りました』
「敵が一矢報いたか、それとも敵の主力に見せかけた囮だったのか。厄介なことだな」
『この空襲により当鎮守府は通信機能だけでは無く、艦娘の入港及び修理補給機能も一時的に喪失しました。その為、警備艦隊は他の鎮守府へ緊急入港したものと思われます。また、こちらは一般回線を使って通達されたのですが、現状を鑑みて前任司令はそのまま新任地へ着任。後任者は到着次第、速やかに司令へと着任せよとの命令がありました』
「おい」なんてこった、と私は頭を抱えた。「前任者どころか指揮する艦隊さえいない司令か」
前任司令の勇猛振りは尊敬に値するが、全艦損傷状態ならば当分ここに艦隊は戻って来れないだろう。
しかも、
『それだけではありません』
「まだ何かあるのか?」
『空襲で鎮守府長官が負傷され、後方へと緊急搬送されました』
「気の毒に。それで?」
『艦隊司令の他、代行として鎮守府長官も兼ねて頂く事になります』
「おいおい」
鎮守府長官は、この陸上施設及び港湾施設を管理する、いわば後方支援の長だ。指揮系統上は海軍総隊後方支援部に所属する各地方総監部の下にあり、同じ海軍総隊でも、艦艇運用を一手に引き受ける艦隊司令部の隷下となる警備艦隊とは別系統である。
つまり、警備艦隊は鎮守府から施設を間借りしている形と言っていい。
「鎮守府副長官は? 指揮継承権はそちらにあるはずだ」
『副長官は置かれていません。AI、つまり私の導入により、副長業務などは全て私が代行しておりました』
それでいいのか? と疑問を口にするよりも早く、猫吊るしから、
『緊急処置ということで、海軍総隊から内辞が既に下りています。軍用通信が復旧後、正式な辞令を送るそうです』
そう言われてしまえば、諦めるより他はない。
「わかった、通信が復旧したら教えてくれ。艦隊司令部に着任の報告もしなきゃならん。それと、艦隊の現在判明している被害状況と、鎮守府の被害状況及び復旧見込みの情報を紙面で欲しい。可能か?」
『了解しました。申し訳有りませんが負荷がかかりますので対人インターフェイスを一旦、切断させて頂きます。音声でのやり取りは可能ですので、いつでもお声をお掛け下さい。では、失礼します』
そう言って猫吊るしは消えた。AIそのものはこちらを認識しているのだろうが、気分的には叢雲と二人きりになった感じだった。