艦これ海上戦記譚~明け空告げる、海をゆく~   作:PlusⅨ

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第十四話・霧中の敵

 夜明けまであと二時間程度にまで迫った頃、漁師たちが漂泊する海域の周辺に、無数の漁火が見え始めた。

 

 どうやら魚群を追って漁船も集団で移動しているらしい。その数はかなり多いらしく、水平線の向こう側が、大量の集魚灯の光によって青白く染まっていた。

 

「あの光」と世話役が言った。「あんなに煌々と照らして、深海棲艦を呼び寄せないのかな?」

 

 その問いに、漁師が答えた。

 

「来るときは来るし、来ないときは来ない。アイツらにとって光はあまり関係がないらしい」

 

「へえ、そうなんだ」

 

「来た」

 

 不意に呟いたのは、彼だった。

 

 世話役はてっきり深海棲艦が来たのかと勘違いして肩を震わせた。

 

 彼はそんな世話役を無表情に眺めながら、持っていた携帯端末を示して見せた。

 

 そのディスプレイ上にはメール画面が開かれ、そこに隣国の言葉で文章が書かれている。

 

「初霜が来たという情報が入った。あの漁船の群れの向こう側に居るらしい」

 

「どうしてそんなことが分かったんだ?」

 

「あの漁船群の中にウチの国の漁船も紛れ込んでいる。それが航行中の軍艦三隻を発見した。接近して形も確認したそうだ。初春型というのか、とにかく初霜に間違いないらしい」

 

 彼は立ち上がり、海から引き揚げた袋とは別の、自分で持ち込んだ手荷物の中からウエットスーツを取り出した。

 

 船上で着替え始めた彼に、漁師が問う。

 

「もう行くのか。夜明けにはまだ早いぞ」

 

「世話になった」彼が、世話役を介して言った。「俺は海に入ってから三十分後に救難信号のスイッチを入れる。確かこの船は10ノット程度しか出ないのだったな。三十分なら5海里程度か。まあ、それぐらい離れれば巻き込まれることはないだろう」

 

 彼はウエットスーツに着替え終えると、その上に漁師からもらった救命胴衣を着け、ケースを手に取った。

 

 ケースにも浮きが付いており、彼はどこからか手錠を取り出すと、それをケースの取っ手と、それを握る自分の手の手首にかけて繋ぎ留めた。そして空いた手で救難信号発信機を小脇に抱え、船べりに足をかけた。

 

 そんな彼に、漁師が「なあ」と声をかける。

 

「サイチェン・・・別れの言葉はこれで合ってたか?」

 

 世話役は頷いたが、彼は首を横に振った。

 

「再見(サイチェン)は読んで字の如く“再び相見える”という意味だ。別れの言葉ならこの国の言葉の方が相応しい」

 

 さよなら。

 

 彼はそう言い残して、海へと飛び込んだ。

 

 

 

 

 

 

 第十一駆逐隊は、初霜を先頭に単縦陣を組み、漁船群を左方向に見ながら航行していた。

 

 レーダー上、5海里(10000ヤード)程の距離にざっと百数十隻にも及ぶ漁船が集まり、漁を行っていた。

 

 航行中の大型船にとって漁船は気の抜けない相手だった。

 

 定められた航路を航行する民間大型船とは違い、漁船は海中の獲物を求めて移動するので、行動が読みづらいのだ。

 

 さらに、漁に夢中になるあまり大型船の針路上に入ってしまうこともしばしばだった。

 

 大型船は小型船に比べ運動能力が劣るため、漁船などが近づいてきた場合、それを避けることが難しい。そのため、漁船には出来るだけ近づきたくないのが本音だった。

 

 だが、初霜たちの今の任務は海域哨戒だった。担当海域に脅威があった場合、速やかにこれを排除し、民間船舶の安全を確保することである。

 

 そして、その守る対象には当然ながら漁船も含まれていた。

 

 しかし予定通りの航路を航行する大型船に比べ、獲物を追って広い海域を不定期に移動する漁船は非常に守りづらい対象だ。初霜は漁船群全体の動静をレーダーで把握できる距離を保ちながらも、近づき過ぎない距離を維持しながら航行していた。

 

 レーダー上、漁船のほとんどは停止しているか、短い距離を移動しながら漁を行っていたが、時折、数隻ほどが群れを離れて大きく移動していた。

 

 恐らくは漁を終えて港へ帰っていく漁船なのだろうが、全てがそうとは限らなかった。

 

 初霜たちが航行している方角は、漁船群に対して港のある島とは反対側に位置していたが、三十分ほど前に、十一駆の方へと向かってきた一隻の漁船と遭遇していた。

 

 その漁船は全長30メートルほどのトロール漁船で、左方向から十一駆の針路上を横切るように接近してきた。

 

 先頭で哨戒当直に当たっていた初霜は、かつての事件を思い起こさせるその漁船の動きに警戒感をあらわにし、すぐに探照灯を向けた。

 

 強力なサーチライトの光に照らし上げられたその漁船は、すぐに針路を変更して遠ざかって行ったが、その時、甲板上に居た数人の男たちが慌てたように船内へと駆け戻っていった様子が見えたのが、気にかかった。

 

 探照灯で照らした時、その男たちは双眼鏡を手に初霜の方を見ていた。

 

 いや、双眼鏡にしては妙に大きく、厳めしい外見の装置に見えた。それはまるで・・・

 

(・・・まさか、暗視装置?)

 

 もしも暗視装置だとすれば、あれは漁船ではなく偽装工作船の可能性が高い。

 

 しかし、

 

(・・・肉眼では、はっきりと見えなかった。今更だけど、こちらも暗視カメラで確認しておくべきだったわね)

 

 初霜自身、確証は持てなかったので、旗艦である白雪や司令部への報告は控えることにした。

 

 しかし念のため航海記録に漁船接近の時刻と緯度経度を記録しておく。深海棲艦が跳梁跋扈するこの時代においても、工作船のような国家間牽制のための駒が活動を続けているのが現実だった。

 

 初霜は、レーダーやセンサー、外部カメラを使って全周警戒を続けながら、自分自身は漁船群とは反対方向の右ウィングへと出た。

 

 漁火の無いその方向には満天の星空と、暗い海が広がっていた。

 

 波もうねりもほとんどない穏やかな海面を、船体が波を立てながら航行する。その波の刺激に海中の夜光虫が反応し、船体の航跡を青白く染め上げていた。

 

 初霜はそんな景色を眺めながら静かに深呼吸を行い、湿り気を帯びた夜の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。

 

 そして、ある事実に彼女は気づく。

 

(海水は冷たいままなのに空気が温かい。・・・このままじゃ、きっと朝には霧になるわ)

 

 海上の霧は、空気と海水の温度差が大きくなることによって発生する。特に晴天で風もない日の早朝は、太陽によって空気の方が早く温められるため霧が発生しやすかった。

 

(用心した方がいいわね)

 

 海上保安隊が国際VHFで定期的に放送する気象予報では霧に関する警報や注意報は出ていなかったが、海の天候は気まぐれだ。

 

 特に霧の予報の難しさは、北方に居た二年間で嫌というほど思い知ってきた。

 

 初霜は艦橋内に戻り、時計を見上げる。

 

 夜明けまであと一時間と少し。哨戒当直の交代まで数十分だ。

 

 次直である村雨への申し継を行うため、漁船の接近や霧の発生といった情報も含めてメモにまとめておこうと紙とペンを手に取ったとき--

 

 

 

--静かな艦橋内に、警報が鳴り響いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 南方警備艦隊司令部。

 

 第十一駆逐隊が救難信号を受信したとの報告を受け、海尾はすぐに叢雲と共に地下司令部の指揮所へと移動した。

 

 大型スクリーンは既に起動し、担当警備海域と十一駆の現在地、そして救難信号の発信地が示されている。

 

 待ち構えていた仁淀がすぐに状況を報告する。

 

「十一駆の現在地は北緯22度四十三分、東経125度21分。救難信号の発信地点はそこから西へ約10海里です。現在、十一駆は予定航路を変更し発信地点へ移動、状況を確認するとのことです」

 

「今夜、この海域を航行予定の船舶はあるか?」

 

「ありません。推奨航路から外れた海域ですので、この救難信号は大型貨物船、タンカー等の可能性は低いと思われます。十一駆からの報告によると漁船が多数操業中とのことですので、救難信号もおそらく漁船の可能性が高いでしょう」

 

 仁淀の説明を聞き、傍らの叢雲が、

 

「まずいわね」

 

 と呟きを漏らした。

 

 海尾もまた眉間にしわを寄せながら頷いた。

 

 二人のその様子に、仁淀が小首を傾げた。

 

「あの、まずいとはどういうことでしょうか?」

 

「漁船はね」と叢雲。「滅多に救難信号を出さないのよ。出せば、深海棲艦から余計に狙われるということを知っているから。それでも出すっていうことは、それは囮になる覚悟を決めたときよ」

 

「囮・・・? では、まさか!?」

 

「深海棲艦が出現した可能性が高い」と海尾。

 

 

「ですが、現在、同海域を通る海流に、深海棲艦が潜んでいるという情報はありません」

 

 仁淀はそう言って疑問を呈した。

 

 謎の多い深海棲艦の生態だが、それでも出現には一定のパターンがあることは判明していた。

 

 そもそも深海棲艦とは海溝付近から海面へと出現するためにそう名付けられた存在だ。すなわち、その出現海域はある程度判明しており、当然、その海域は厳重な監視下に置かれている。

 

 監視しているのは世界各国から選りすぐられた精鋭艦隊であり、それは定期的に艦艇を交代させながら、二十四時間常時その海域を包囲し、深海棲艦が現れるや否や、その場で殲滅しているのだ。

 

 しかしながら、それでもたまに包囲網をかいくぐってしまう深海棲艦が居る。

 

 それらはある程度海上を移動した後、海中へと没して、以後はその場所の海流に乗って遊弋すると言われている。

 

 “言われている”などという曖昧な言い方なのは、それが本当かどうか、まだ確証が持てないからだ。

 

 なぜなら、いったん海中に没した深海棲艦を探知できた例がほとんど存在しないからだった。

 

 海上に居るときですら高いステルス性を持つ深海棲艦だが、海中ともなるとその能力がさらに高まるらしい。・・・いや、そもそも深海棲艦は、海中では実体を持っていないのでは無いか。

 

 あれは海上へ浮上するのではなく、何らかのエネルギーが海上で実体化しているのでは無いか? そんな一見すると荒唐無稽とも思われる仮説さえ、ある程度の信ぴょう性をもって語られているほどだった。

 

 しかし、もしその仮説が本当なら、人類にとって深海棲艦とは戦争の相手どころか、生存競争の相手ですらなく、まるで幽霊を相手に戦っていることになりかねないのだが・・・

 

 ・・・とりあえず現状問題なのはそこではなく、数少ない確証から判明している事実は、海中に潜んだ深海棲艦は(潜水艦という一部の例外を除き)自力で移動することはできず、海流沿いにしか出現しないということだ。

 

 そして現在、十一駆が居るその海域を通る海流には、深海棲艦が潜んでいるという情報は無いはずだった。もっとも近い位置に目撃された例の人喰い雷巡でさえ、別の海流に乗っているはずだし、海上を移動中との情報も無い。

 

 しかし、

 

「勘だ」と海尾は言った。「嫌な予感がするんだよ。もしかしたら包囲網を搔い潜ったはぐれ深海棲艦が潜んでいるかもしれない」

 

「まあ、駆逐艦一隻程度なら有り得なくもないわね」と叢雲も頷く。

 

「十一駆に通達。直ちに戦闘用回線を開き、RCL(Real-time Combat Link)を開始せよ」

 

「了解しました」

 

 仁淀が海尾の指示を現場の三隻に伝える。

 

 大型スクリーンに白雪、村雨、初霜それぞれからの現場の映像が投影された。

 

 海尾と叢雲はその景色を目にし、思わずうめき声を漏らしてしまう。

 

「こいつはひどいな・・・」

 

「思っていた以上に、事態は面倒なことになりそうね」

 

 その三隻からの映像全てで、周囲一面を埋め尽くさんばかりの大量の漁船が走り回っていた。

 

 それは救難信号の発信地点から急いで遠ざかろうとする漁船の群れだった。

 

 十一駆はその漁船が逃げようとする方向に位置していたために、百数十隻にも及ぶ漁船群の移動に巻き込まれてしまったのだ。

 

 十一駆が救難信号を受信したとき、旗艦である白雪をはじめとした三隻は漁船の行動を予測していたものの、それを回避するには漁船群の規模が大きく、そして距離が近すぎた。

 

「初霜ちゃん!」と、白雪が先頭の初霜を呼ぶ。「針路上の漁船群はどこまで広がっているの!?」

 

 問いかけるその声が上ずってしまっているのを白雪は自覚した。

 

 しかし、それも仕方がなかった。前後左右、レーダーで探知できるほとんどの範囲を漁船に占められているのだ。

 

 しかも漁船群は救難信号の発信地点から我先に逃げ出そうとしているために統率などあるはずがなく、おおむね同じ方向に向かっているだけで、追い越し追い越されつつ、右往左往しながら走り回っていた。

 

 まさにこの瞬間も、白雪の艦首すれすれを一隻の漁船が高速で横切っていき、衝突の危機に白雪はゾッと肌を粟立てた。

 

 今、三隻はほとんど停止に近い速力で進んでいた。

 

『漁船群の端まで、残り4000ヤードです』初霜が答えた。『私の方は間もなく漁船群を抜け出します』

 

「私と村雨ちゃんはまだ動けそうにないわ。初霜ちゃんは漁船群を抜けたら陣形を離脱し、単艦で発信地点へ急行、現場の状況を確認すること。いいわね?」

 

『了解しました。・・・間もなく抜けます』

 

「待って、司令部からRCL要請が来ている? 旗艦から各艦へ、これより司令部とRCLを開始します。初霜ちゃんはそのまま待機」

 

『初霜、了解』

 

『村雨も了解です』

 

「RCL開始。司令、聞こえますか」

 

『こちら司令部。海尾だ、感度良好。漁船群に巻き込まれてしまったか』

 

「申し訳ありません。予測はしていたのですが」

 

『間が悪かったということだ、気にするな。それよりも、これからどうするかだ』

 

「初霜が間もなく漁船群を抜けますので、彼女を先に状況確認と救助に向かわせます」

 

『現場指揮官は君だ、その判断を支持する。しかし事前に達したとおり、担当海域外だが深海棲艦の目撃情報もある。奴らがいつ出てくるかも知れないし、もしかしたらはぐれ駆逐艦が既に居る可能性もある。気を付けてくれ』

 

「了解しました。--初霜ちゃん、聞いたとおりよ。そっちはどう?」

 

『漁船群を抜けました。針路クリア、増速可能です』

 

「離脱を許可します。単艦で発信地点へ進出し、要すれば救助を実施せよ」

 

『了解』

 

 初霜は速力を上げ、発信地点に艦首を向けた。前方には既に他の漁船の姿は見当たらず、夜の濃い闇だけが拡がっていた。

 

 だが、しかし。

 

(まだ一隻だけ残っている・・・?)

 

 暗い闇の向こうには何も見えない。

 

 しかしレーダーと、そして起動中の動体検知器には確かにゆっくりと移動する一隻の漁船の影が映し出されていた。

 

 その距離、約2000ヤード。その漁船が夜間灯火をつけているなら、既に肉眼で見えて居なければおかしい距離だ。

 

 ではまさか無灯火の漁船なのだろうか。

 

 初霜がそう思ったとき、彼女の視界に、ぼんやりと浮き上がるようにして、その漁船の灯火が出現した。

 

 輪郭もおぼろげにゆらゆらと揺れるその灯火に、初霜はハッとする。

 

(すでに霧が立っているんだわ!)

 

 漁船との距離は1000ヤードにまで詰まっている。その距離で灯火がぼやけるということは、かなり霧が濃くなっていることを示していた。

 

 漁船との距離がさらに近づき、ぼやけていた灯火がはっきりとした輪郭をもった。

 

 しかし他の漁船群が全速力で逃げ去っていく中、その漁船の速力は10ノットも出ておらず、完全に取り残された格好になっていた。

 

 これはもしや漁船に何らかのトラブルが発生しているのだろうか。そしてあの救難信号と何か関連があるのだろうか。

 

 初霜はそう思い、双眼鏡を目に当てた。

 

 灯火の微かな明かりの下に二人の人影があり、そして、そのうちの一人が、初霜に向かって大きく手を振っていた。やっぱり助けを求めているのだろうか。

 

 初霜は速力を落とし、わずかに舵を切って漁船に接近した。

 

「両舷停止。メンテ妖精は漁船の横づけ及び船員の揚収準備にかかれ!」

 

 サポートAIに指示を下し、初霜はウィングへと出た。

 

 その初霜の耳に、かすかに人の声が聞こえてきた。漁船から呼びかけられているのだ。初霜はすぐに集音センサーをそちらへ向けた。

 

 おーい、という呼びかけに続き、

 

『あんた、初霜か!? 初霜なら頼みがある。いや、初霜でなくてもいい。なあ、聞こえているか!』

 

(私のことを知っているの・・・?)

 

 名指しで呼びかけられたことに戸惑いながら、初霜はそれでも外部拡声器のスイッチを入れた。

 

「こちら南方警備艦隊所属、駆逐艦・初霜です」

 

『そうか、やっぱりあんたなのか。よかった。ならどうしても頼みを聞いてくれ・・・助けてやってくれ!』

 

「助けてやってくれ?」

 

 てっきり、助けてくれの聞き間違いかと思ったが、そうではなかった。

 

『あいつは・・・あんたがこれから助けに向かおうとしている男は、あの人喰い雷巡の被害者なんだ。家族を喰い殺されたせいで、深海棲艦と、そしてあんたを恨んでいる。だから、復讐するつもりなんだ!』

 

「っ!?」

 

 人喰い雷巡

 

 被害者

 

 復讐

 

 これらの言葉に、初霜は胸ぐらを掴まれたような衝撃を受けた。

 

 二年前のあの日に起きた悪夢のような惨状が、今、再びこの暗闇の向こうに蘇り、彼女を待ち受けているかのような錯覚を覚えた。

 

 いや、違う。と初霜は自らに言い聞かせた。

 

 初霜を待っているのは助けを求める人間のはずだ。

 

 だが、それはあの日に救えなかった、見殺しにせざるを得なかった誰からしい。

 

 そして、その誰かは復讐しようとしているらしい。

 

 誰に?

 

(それは私だ。そう言っていた)

 

 やっぱりそうだった。と、初霜はその事実を、ほとんど無批判に受け入れていた。

 

 それは初霜自身がずっと背負ってきた自責の念と罪悪感の現れであった。

 

 人喰い雷巡事件の後、初霜が救助を諦め撤退したことが問題になったが、海軍としては軍事的観点から撤退は妥当と判断され、また法的に何の落ち度もなかったとされた。

 

 この事件を報道した一部マスメディアからは散々バッシングを受けたが、海軍は組織ぐるみで初霜をかばってくれた。

 

 かつての司令も、全ては俺の責任だと言って、初霜にひとつも責任を負わせなかった。

 

 初霜が責任を負うことを許してくれなかった。

 

 責任を負うことで、大勢の人間を見殺しにした罪を償わせてはくれなかった。

 

 償わせてほしかった。

 

 何の責も負わず罰も受けず、ただ罪悪感に苛まれ続けるのは生き地獄だった。

 

 いっそすべての責任を一身に背負って死んでしまいたいとさえ思いもした。

 

 その方がいっそ楽だった。

 

 だけど、それが許されないというのならば・・・

 

 ・・・ならば、強くなるしかなかった。

 

 己の罪悪感に殺されないために。

 

 彼女自身が生き延びるために。

 

 死にたいと叫び、死んではならないと叫ぶその矛盾に、心が引き裂かれてしまわないために。

 

 この二年間、北方海域の霧の中で、姿の見えない敵を相手に戦い続けてきた。

 

 けれど、常に強いままではいられない。

 

 時折、不意に、何の前触れもなく心が折れそうになる。

 

 そして今、あの時の被害者が初霜に復讐しようとしているという言葉を聞き、初霜はある種の安堵感を覚えると同時に、その心が折れようとしていた。

 

(復讐される・・・。私は、罪を償える・・・)

 

 思考が曇り、暗い願望がその胸に去来しようとしていた。そしてそれは、ひどく甘美な香りを伴っていた。

 

 それは誰も救わない。破滅と滅びの感情だ。それはわかっている。理解している。だけど・・・

 

 

 ・・・もう、いいじゃない。

 

 

 そう思いかけた、その時、

 

「頼む、初霜!」

 

 いつの間にか肉声が聞こえる程に接近した漁船から、漁師が声を張り上げていた。

 

 その漁師の言葉が、初霜に届く。

 

「あいつを救ってやってくれ。訳わからないと思うが、それでも、きっとあいつを救えるのはあんただけなんだ。頼む!」

 

「――ッ!」

 

 ほんの一瞬、過ぎった諦観、折れる寸前だった心を、初霜は歯を食いしばって繋ぎ留めた。

 

 すぐにウィングから身を乗り出して、漁師に向かって叫び返す。

 

「わかりました。私が救出します。--私が、守ります!!」

 

 漁師がそれを聞いて、暗がりの中で頷いた様子が見えた。

 

 漁船はそのまま後方へと離れていく。

 

 初霜はそれを見送りながら、一度、唇を強く噛みしめた。そして、大きく息を吸い込むと、胸の内の迷いと共に一息に吐き出した。

 

「よしっ!」

 

 気合を入れなおし、艦橋内に引き返す。

 

 漁船はすでに霧の向こうへ消え、他の漁船や僚艦の灯火も見えなくなっていた。

 

 艦橋内では白雪と村雨のドールが不安そうな表情で初霜を見上げて居た。RCLを通じて、今の漁船とのやりとりも聴かれていたのだろう。

 

『初霜ちゃん』と白雪。『あの事件の関係者という可能性が高いわ。任務遂行は大丈夫?』

 

「大丈夫です」

 

 初霜は即答し、そしてふと気づいて、自分のドール表示を笑顔に切り替えた。

 

 これで少しは安心してもらえるだろうか。そう思ったが、村雨が『でもでも』と不安そうな声を出す。

 

『あの人、初霜ちゃんのことを恨んでいるって言ってたよ! それに復讐するって!?』

 

「それは不確実な情報よ。確実なのは、誰かがこの海で救難信号を出しているということ。だから・・・初霜、任務続行します」

 

『了解』

 

 と白雪が答える。

 

 これらのやりとりを、やはりRCLを通じて司令部も聴いていた。

 

「行かせてもいいの?」

 

 と叢雲からの問いかけに、海尾は頷いた。

 

「白雪の判断に任せる。まだ俺が口を出す状況じゃないからな。しかし・・・」

 

 海尾は司令専用コンソールを操作し、そこから情報部内偵科のデータベースへとアクセスした。

 

 【秘】と記された情報を呼び出し、一人の男の資料を表示させる。

 

 海尾は叢雲をコンソールの傍に呼び寄せ、その資料を見せた。

 

「この男は何者なの?」

 

「初霜の部屋の扉に落書きをした容疑者だ。初霜の着任と同時にこの島に入り込み、外のデモ関係者と接触している」

 

「隣国政府の工作員にしては迂闊ね。こうも簡単に情報部にマークされるなんて」

 

「工作員なら、そもそも国籍や過去の経歴ぐらい最初から偽っているだろうさ」

 

「じゃあ工作員じゃない、本当の“人喰い雷巡の被害者遺族”だというの?」

 

 叢雲が資料の経歴部分を示した。

 

「海軍批判にはうってつけの人物だな。俺が活動家の立場なら、大金を積んで招待して、デモで派手に演説させるよ」

 

「でもそれが何故、海に飛び込んで復讐だなんて言い出しているのかしら」

 

「さあな。活動家たちと、この男とで思惑にズレがあったのかもしれない。・・・そもそも、まだこの男と決まった訳でもない」

 

「もしも、この男だったら?」

 

「敵対行動を取るようならば、排除する。現海域からの脅威の排除。それが我々の任務だ」

 

 海尾はそう言って、コンソール脇の通信パネルに目を向けた。

 

 そこに、白雪のドールが立っていた。司令と旗艦のみの秘匿通信回線だった。

 

 海尾が頷いて見せると、白雪ドールもまた、何も言わずに敬礼を返したのだった。

 

 

 




次回予告

 貧しさに喘ぎながらも、それでも助け合い、支え合いながら生きてきた、かけがえのない家族だった。

 それを失った。

 奪われた。

 家族を奪った海は、何事もなかったかのように今も静かに凪いでいる。

 ふざけるな、この静かな海め、沈黙する海め、この俺が報いを受けさせてやる。

次回「第十五話・沈黙の海」

「さあ来い。俺はここに居る、ここに居るぞ!」

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