艦これ海上戦記譚~明け空告げる、海をゆく~   作:PlusⅨ

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第十八話・許されざるモノ

 現場指揮を委任された初霜は、第十一駆逐隊に、さらに球磨と那珂を加えた戦隊規模の艦艇を指揮下に置くことになった。

 

「初霜から各艦へ。本艦はこれより霧の中に取り残された要救助者の救出に当たります。敵戦力は現在のところ雷巡チ級一隻のみ。しかし他にもまだ出てくる可能性がありますので、白雪さんと村雨で周辺の警戒監視をお願いします」

 

「こちら白雪、了解したわ」

 

「はいはーい、村雨も了解です」

 

「霧の中のチ級への攻撃は、私と球磨さん、那珂さん、それとこの空域で待機中の哨戒機による海空協同攻撃で実施します。私の動体検知器で索敵しますが、那珂さんも無人偵察機による要救助者の位置の特定をお願いします」

 

「おっけー、那珂ちゃんに任せといて」

 

 那珂の無人偵察機が霧に覆われた海域の上空を旋回し、救難信号の発信地点付近での赤外線センサーを使った重点捜索を開始した。

 

 霧は海面を広く覆っていたが、上方向にはそれほど高いわけではない。無人偵察機は霧の上ぎりぎりを低く飛び、そこに人間程の大きさの僅かな温度変化を捉えた。

 

「当ったりぃ。要救助者発見、信号と同じ場所に居るよ」

 

「了解しました」

 

 しかし、まだ迂闊には動けなかった。

 

 動体検知器によると、要救助者とチ級の位置は、まだ2000ヤード程度しか離れてはいない。救助に突撃するには敵が近すぎるし、敵へ攻撃するにも要救助者を巻き込み兼ねない。

 

 先ずはチ級を更に引き離すことが必要だ。

 

「球磨さんと那珂さんはこれから指示するポイントに向かって移動して下さい」

 

 初霜は二人に座標データを送信。そこは霧の立ち込める海域の東側だった。

 

 霧の外にあたる場所でもあり、そこからチ級までは、軽巡の搭載する14センチ単装砲の射程ぎりぎりの距離があった。

 

「球磨さんと那珂さんはそこからチ級に対し威嚇射撃をお願いします」

 

 初霜の指示に二人の軽巡艦娘はすぐに意味を察した。

 

「なるほどクマ。こっちに引きつけるクマね」

 

「そう言うことなら那珂ちゃんにお任せ。注目を引くのは得意中の得意だから!」

 

「チ級が要救助者から適当な位置まで離れたところで、私と哨戒機によるSSSM攻撃を実施します。発射弾数は各二発。目標の座標は私が指示します」

 

 初霜の支援依頼に、上空の哨戒機からも協同攻撃の準備が整ったことを知らせる通信が入る。

 

 球磨と那珂が東側へ移動を開始。

 

「球磨、配置についたクマ」

 

「那珂ちゃん、いつでも始められるよ」

 

「攻撃開始」

 

 初霜の指示により、球磨と那珂の14センチ単装砲それぞれ五基が火を噴いた。駆逐艦の12.7センチ砲よりも強力で長い射程を持つこの砲から放たれた弾丸が、チ級から大きく逸れた場所に次々と着弾する。

 

 チ級は動かない。

 

 球磨と那珂は再度、発砲。先ほどよりもやや近い場所に砲弾が落ちる。

 

 しかしまだチ級は動かなかった。

 

 球磨、那珂、第三射弾群を発砲。更に着弾位置が近くなる。

 

「次は当てるぞクマァ!」

 

「球磨ちゃん落ち着いて。そんなことしたら要救助者にも当たっちゃうよ」

 

「不幸な事故ってことにしとけクマ」

 

「その発言ヤバイよ。今のオフレコね、オフレコ」

 

「チ級が移動を開始しました!」

 

 初霜の言葉に、球磨と那珂は口をつぐんだ。

 

 チ級の位置を確認し、初霜は更に指示を出す。

 

「チ級は目論見通り、そちらに向かっています。お二人はチ級との距離をこのまま保ちつつ射撃を続行、東側へと引きつけて下さい」

 

 球磨と那珂が了解したのを確認し、初霜は哨戒機にSSSM攻撃準備を下令。同時に自分の船体に装備されている空になった発射管へ、次弾装填装置から予備弾三発を装填、チ級の座標を入力する。

 

 その間に、チ級が要救助者から十分に離れたことを確認する。

 

 しかしチ級は球磨と那珂の砲撃をかわすために激しい回避運動を行っていた。

 

「ふざけんなクマ! こいつマジで当たらないクマ!」

 

「え? 球磨ちゃん、もしかして威嚇じゃなくてガチ撃ちしてるの!?」

 

 初霜は二人に射撃中止を下令。

 

 砲撃が止んだことにより、チ級が回避運動を止め、直進的な動きになった。速力およそ35ノット近くで球磨と那珂に向かって行く。

 

 今こそ攻撃の絶好の機会だ。

 

「SSSM攻撃開始。一番、二番セルアサイン、SSSM発射用意ーー撃て!」

 

 初霜から二発、哨戒機から二発の計四発のSSSMが霧の中へ撃ち込まれた。SSSMは対ステルス用の強力な指向性索敵レーダー波を照射し、チ級の正確な位置を霧の中から炙り出す。

 

 だが強力なレーダー波故に、チ級にもSSSMの存在とその位置を感知されていた。

 

 チ級がSSSMに対し対空砲火を放つ。

 

 もっとも対艦戦闘に特化した様な性能の雷巡は、対空能力がそれほど高くはない。SSSM四発中、二発が撃ち落とされたが、残る二発がチ級へと突入していく。

 

 深い霧を切り裂き、SSSMが海面に着弾し高い水柱を上げた。

 

 しかし、爆発は起きていない。

 

「不発? いえ、外された・・・!?」

 

 ほとんど命中したかに見えた瞬間、動体検知器がチ級の位置を見失っていた。

 

 初霜だけではなく、データリンク中の僚艦たちもそのことに気づく。

 

「ねえ、これって消えたってこと?」

 

 と村雨が疑問を口にした。

 

 それに白雪が答える。

 

「いえ、着弾の前に海中へ潜水したとも考えられるわ」

 

 そんな推測を口にしている間に、動体検知器が再び目標を探知した。恐らくチ級だろう。しかしその位置は消失地点から大きく移動していた。

 

(これは・・・)初霜は思案する。(やっぱり白雪さんの言う通り海中を移動したのかしら?)

 

 もしそうだとすれば、消失地点と出現地点の位置関係から計算して、海中をほぼ30ノット以上で移動したことになる。

 

 それは海上を航走していた時とほぼ同じ速力だった。

 

 しかし潜水艦以外の艦種が海中を自力で、しかもこんな高速力で移動したという前例は無かった。

 

 いや、だが何事にも例外はある。ましてやあのチ級は、例外の塊ともいえる“人喰い雷巡”だ。

 

 初霜は新たな指示を下す。

 

「哨戒機で再度SSSM攻撃を仕掛けます。協同攻撃は、村雨、あなたにお願いするわ」

 

「はいはーい、了解だよ。で、今度も二発でいいの?」

 

「そうだけど、一発はASROC(anti submarine rocket:対潜水艦用飛翔魚雷)モードへ切り替えて置いて。対水上攻撃用SSSMは哨戒機と同時発射。アスロックは私の指示により発射。よろしくね」

 

「村雨、了解。SSSMアスロック攻撃モード、攻撃準備よし」

 

「初霜から村雨及び哨戒機へ。SSSM攻撃始め!」

 

 哨戒機から二発、村雨から一発のSSSMが発射され、霧の中のチ級へ向かって行く。

 

 それに対しチ級が再び対空砲火を上げた。今度は、堕とされたのは一発のみだった。残る二発がチ級へと突入する。

 

しかし--

 

「また消えたクマ!?」

 

「今よ、アスロック攻撃始め!」

 

「了解!」

 

 初霜からの指示により村雨がチ級の消失地点へ向けてSSSMを発射する。

 

 そのSSSMはある程度上昇したところで飛翔用ロケットモーターを分離、先端の短魚雷部がパラシュートを展開し海面へと降下した。海中へと潜水した短魚雷は、チ級消失地点を中心に円を描きながら周回し、目標の捜索を開始する。

 

 もしも予想どおりチ級が水中を高速で移動しているならば、そこには大音量が発生するはずである。深海棲艦が無音の存在で居られるのは、あくまで自力移動せず海流に身を任せている時だけだ。

 

 そのはずだ。そのはずなのに、それでも・・・

 

 動体検知器が、また別の場所に目標を探知した。

 

 短魚雷は相変わらず消失地点を周回し続けながら、海中深くへと消えて行く。これはつまり海中を無音で航行したことに他ならない。

 

 それか、もしくは、

 

「潜水じゃないとしたら」と、那珂が呟く。「水上でも水中でも無い。これじゃまるで瞬間移動だね。・・・って、那珂ちゃんも有り得ないって分かってるけどね。でもね」

 

 言い淀んだ那珂だったが、その後の言葉を、白雪が代わりに引き継いだ。

 

「この海域で有り得ないと思った事は数知れません。もはや、どんな事でも起こり得ると考えて行動すべきでしょうね」

 

「で、でも」と、村雨。「何でも有りじゃ、むしろ何の予測も出来ないですし、対処も立てようが無いですよ」

 

「いいえ、何とかなります」

 

 そう言ったのは、初霜だった。

 

 全員が、初霜の言葉に耳を傾ける。

 

 初霜は続けた。

 

「確かにあのチ級は海上からも海中からも消えたように移動しています。しかしそこに時間差が生じているのも事実です。これは瞬間移動では有りません」

 

「ふむん・・・クマ」と、球磨。「つまり追尾が出来ないだけで、後は普通の移動と変わらない。そう言いたい訳だクマ。確かに過去二回の消失と出現のタイミングはほぼ一致しているし、その方向は概ね消失前の移動方向の延長線上だったクマ」

 

「少なくとも無制限に移動できる訳では無いのは確かでしょう。ならば、相手の出現地点を狙って攻撃を仕掛けられるなら、勝機はあります」

 

「過去二回だけじゃ、予測するにはデータが少なすぎるクマ」

 

「もう一回攻撃する?」と村雨。「SSSMは私と白雪さん合わせて、まだ十発残ってるよ」

 

「それは無理ね」と白雪が否定する。「チ級の対空能力が低いとは言え、一度の攻撃に少なくとも三発は撃ち込む必要があるわ。他の敵の出現にも備える必要がある以上、チ級へのデータ収集に消費する余裕なんて無いわよ」

 

「私たちも使い切っちゃったしね。この那珂ちゃんの目をもってしても、人喰い雷巡がここまで例外だとは見抜けなかったわ」

 

「予測はしません」と、初霜。「こちらから仕掛けて、敵を有利な位置に誘い込みます」

 

「できるクマ?」

 

「皆さんの協力があれば」

 

 初霜はそう言って、ある作戦を告げた。

 

 その内容に、全員が息を呑む。

 

「初霜ちゃん、それは流石にヤバすぎるよ」

 

 と、村雨が苦言を呈したが、

 

「・・・あの北方のエースがやるって言うなら、やれる筈だクマ。止めはしないクマ」

 

「お手並み拝見させて貰うよ。ま、那珂ちゃんも全力で支援するけどね」

 

 軽巡二人の前向きな様子に、村雨は戸惑った。

 

「し、白雪さん! 流石に駄目ですよね、こんな危険な作戦!」

 

「・・・」

 

 村雨に問われ、白雪はしばし答えなかった。

 

 だが、やがて、

 

「私は、初霜ちゃんの作戦に賛同します」

 

「うそぉ・・・。あ、でもでも、提督が止めてーー」

 

「白雪から司令へ。第十一駆逐隊旗艦として、この作戦の承認をお願いします」

 

『・・・お前がそう言うなら、いいだろう。作戦を承認する』

 

 肝心の指揮官がここまで言ってのけたのだ。村雨はもはや黙って従う他になかった。

 

 そして、白雪は、

 

「ありがとうございます、海尾さん」

 

『俺の命も、覚悟も、とっくにお前たちに預けてある。責任は全て俺が取る。だから、白雪、そして初霜。後のことは気にせず、全力で行け』

 

「「了解!」」

 

 初霜と白雪、二人の声が重なった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 太陽は既に高い位置にあり、蒼穹の空には雲ひとつ無い。しかし海面の霧は未だに濃く、晴れる気配は見えなかった。

 

 その霧で閉ざされた海へ向け、球磨と那珂が砲撃を開始した。

 

 いくつもの砲弾が霧を切り裂き、チ級へと殺到する。それはもはや威嚇射撃では無い。命中を期した全力射撃だった。

 

 それに対し、チ級が回避運動を開始、まるで弾道が全て見えているかのような軌道で、乱立する水柱の間を悠々とすり抜けて行く。

 

「夾叉弾だらけの筈なのに、相変わらず嘘みたいに当たらないクマ。本当にどうなってんだクマ」

 

「電波探知も無いし、レーダー使ってる訳でもなさそうだね。もしかして、はっしーの動体検知器と同じ能力を持ってるのかも」

 

「つくづく例外の塊だクマ」

 

 ぼやきながらも、並の深海棲艦なら容易く木っ端微塵にできる精度と密度の砲撃が間断なく続けられる。

 

 しかしチ級はそれを全てかわし切っていた。

 

 さらにチ級は、その超感覚で砲弾以外にも接近する物体を探知していた。

 

 船だ。

 

 それも駆逐艦。

 

 そしてこの大きさ、この音、この匂い、この気配。

 

 間違いない、彼奴が来る。とチ級は確信した。

 

 初霜が来る。

 

 この霧の中、真っ直ぐに突っ込んで来る。しかしその目指す場所はチ級の方角ではなかった。

 

 それは救難信号の発信地点、そこを目指して全速力で走っている。

 

 位置関係的には、初霜はチ級に対して右手側、即ち右の横腹を晒す形で進んでいる。

 

--ようやく、餌に喰らいついたか。

 

 チ級の思考を、あえて人間の言葉に訳すならこうなるであろう。

 

 チ級は初霜の右側面を衝く針路を取る。

 

 その気配を初霜も捉えたのだろう、相手の殺気が明確にこちらへ向いたのを、チ級は察知した。

 

 気配からして大砲を向けたに違いない。チ級にはそれが分かる。もっともこの能力を持っているのはチ級の中でも、この“人喰い雷巡”だけだ。

 

 そして同様の能力を、あの初霜も持っていると言うことに、チ級も気付いていた。五隻いる艦娘の内、その能力を持っているのは初霜しかいないことも。この霧の中、レーダーを使わずに突入して来たのが初霜しかいない事からも、それは明らかだ。

 

 しかし、初霜が探知した情報が他艦にも共有されている事も間違いない。この嫌がらせの様な砲撃もそうだし、そして時折、狙い澄まして撃ち込まれるミサイル攻撃。これらはチ級にとっても油断できるものでは無かった。

 

 そのミサイルが、また来る。霧の外で待ち構えている二隻の駆逐艦--白雪と村雨--からそれぞれ二発ずつ、計四発のミサイルが発射されたのをチ級は感じ取る。

 

 チ級が落とせるミサイルはせいぜい二発までだ。他のチ級なら四発も撃たれては逃げ場が無い。

 

 しかしこのチ級、“人喰い雷巡”にはまだ奥の手があった。

 

 ミサイルが接近する中、チ級の姿が朧げに霞んでいき、霧の中へと溶けるように消失した。

 

 直後、その場所にミサイルが着弾し、盛大な水柱を上げて虚しく沈んでいった。

 

 そう、チ級はまさしく文字通り、消えていたのだ。

 

 チ級の消失を初霜も動体検知器で確認していた。

 

 初霜は即座にサポートAIに消失地点から距離3海里、進行方向を軸として左右45度の範囲を海図に表示させ、それを各艦に共有させる。

 

 これは過去二回のデータから割り出したチ級の出現予想範囲だった。データが少なすぎる為かなりアバウトな予測だが、しかし、それでも充分だ。

 

「球磨さんと那珂さんは予測範囲の左側に向け、散布射撃を開始して下さい。--白雪さん!」

 

「わかっています。準備はできているわ」

 

「ええ、頼みます。・・・今です!」

 

「短魚雷発射!」

 

 初霜がチ級の消失地点へ向けて舵を切ると同時に、霧の外から白雪が三発の短魚雷を発射した。

 

初霜はソーナーでその短魚雷が狙い通りの場所に向かって進んでいるのを確認し、彼女自身もまた最後に残してあったSSSMを短魚雷モードに切り替えた。

 

 今、初霜はチ級の消失地点へ針路を取ったことにより、救難信号の発信地点を向かって左手側に、そしてチ級出現の予測範囲を右手側に見ていた。

 

 動体検知器では、まだチ級の出現は感知されていない。

 

 しかしその予測範囲の左半分は、球磨と那珂による砲撃により、その場所を埋め尽くすかの様に次々と着弾していた。

 

(いつ来る・・・?)

 

 初霜は動体検知器に意識を集中する。ほんの僅かな空気の揺らぎも見逃さない様に。

 

 何処にいる?

 

 どこから来る?

 

 その時、空気がかすかに揺らいだ。場所は予測範囲の最も右端、消失地点から最も離れた位置だった。

 

「短魚雷発射始め、右舷!」

 

 その場所に向け、すかさず魚雷を発射する。その直後、その場所で空気が爆発的に押し広げられ、100メートル近い巨体の出現を探知した。

 

 チ級だ。そのまま、初霜とは反航態勢で進み出す。初霜の魚雷はその水切り音を探知し、追尾を開始。

 

 しかし、チ級まではまだ距離があり過ぎた。

 

 チ級は魚雷の接近に気付くと、そこから全速力で遠ざかる針路を取る。それは同時に、初霜の背後へと回り込む針路でもあった。

 

 初霜は前部側にしか主砲が無いので、背後に回り込まれては攻撃の手段がない。砲の死角に回り込まれるのを避ける為、初霜も右回頭を開始。

 

 互いに相手の背後を衝くため円を描く巴戦の形になりながら、その彼我距離が詰まって行く。

 

 初霜とチ級の旋回能力はほぼ互角だった。

 

 しかし、チ級の出現位置との関係上、向こうの方が先に死角へと回り込む。

 

 チ級の主砲が、初霜へと向けられた。

 

 チ級が狙うのは艦橋、初霜自身が居るその場所だ。チ級は霧の向こうに初霜そのものの気配を探り、そこに狙いを定める。

 

 しかし、その時、チ級の思考に戸惑いの色が浮かんだ。

 

--何だこれは、どういう事だ?

 

 初霜の気配と、その船体の位置がズレていた。右旋回を続ける船体に対し、初霜の気配は逆に左側へと急速に移動していたのだ。

 

--船体から降りたのか。

 

 チ級はそう判断した。

 

 搭載されている作業艇に乗り込み、救難信号の発信地点へと向かっているのだ。

 

 しかし、それに何の意味があろうか。船体を囮に使うという大胆な戦法も、人間そのものの気配を敏感に察知する深海棲艦の超感覚を前にしては何の意味も無かった。

 

--小賢しい。

 

 チ級に嘲笑の様な思考が浮かんだ。

 

 その主砲が、霧に隠れた作業艇を正確に追尾する。そして、発砲--

 

--しようとした、その寸前、チ級は己の背後から迫る三つの魚雷音に気が付いた。

 

 これは初霜が放った魚雷なのか?

 

 いや、それは一発のみであり、しかもまだ遠くにある。

 

 これは白雪の放った魚雷だった。

 

 しかし何故こうも正確に未来位置を予測できたのか?

 

--違う、これは・・・!?

 

 チ級は身体を捻り、背後へと振り向いた。迫る魚雷に向け、主砲を放つ。

 

--この魚雷は、最初から初霜を狙っていた!?

 

 そう、白雪が放った三発の魚雷は、初霜のスクリュー音を追尾していたのだ。

 

 初霜は味方の魚雷に追われながらチ級を巴戦に誘い込み、そしてわざと背後を取らせて、迫る魚雷の射線上に入れたのだ。

 

 チ級が放った砲弾が海面を叩き、一発の魚雷を破壊する。しかし二発はもう真近に迫っていた。

 

 チ級の姿が朧げになって行く。また消えて避けようというのだ。しかし完全に消え切る前に、魚雷が真下に潜り込み、起爆装置を作動させた。

 

 チ級を中心に海面が真っ白に泡立ち、直後、轟音と共に天を衝く巨大な水柱が噴き上り、その姿を呑み込んだ。

 

 その衝撃波が救難信号の位置まで達する寸前、初霜はギリギリのタイミングで彼を作業艇へと引き上げることに成功していた。

 

 だがすぐに爆発によって生じた大波が襲いかかり、作業艇はまるで木の葉の様に波間に翻弄され、流されて行ってしまった--

 

 

 

 

 

 

 

 海に流された後の事を、彼はよく覚えていなかった。

 

 深海棲艦に対する激しい怒りと悲しみに理性を失ったまま海へと放り出され、そのまま意識まで失った状態で海面を漂っていた。

 

 彼が微かながら意識を取り戻したのは、誰かに救出されようとしていた時の事だった。

 

 小柄な少女の細い腕によって、彼は作業艇に引き揚げられようとしていた。その時の事を、朧げながらも覚えている。

 

 しかしその時に彼が思っていた事は、自分を救おうとしている少女が誰かという事よりも、自分が手に持っていたはずの写真失くしていたという事だった。

 

 手放してしまった大切な写真。

 

 それが、引き揚げられた作業艇のすぐそばに浮いて漂っていた。

 

 

--拾わないと。

 

 

 あれは彼に残された最後の、たった一つの心の拠り所だった。

 

 海に向かって手を伸ばそうと、作業艇から身を乗り出した彼に、少女が背後からしがみついてきて艇内へと引き戻された。

 

 

--離せ、離してくれ!

 

 

 しがみ付く少女を振り払おうとした時、大波が襲い掛かり作業艇が激しく揺れ、彼は少女と共に艇内に倒れ、転がされてしまう。

 

 彼がはっきりと意識を取り戻したのは、その後からだった。

 

 気が付けば、彼はたった一人きりで、海を漂う作業艇の上に居た。

 

 周囲はまだ霧が立ち込めていて、ほとんど何も見えなかった。少女の姿もどこにも無かった。

 

「夢・・・だったのか・・・?」

 

 しかし夢だとしても、それはどこからどこまでがそうなのか。それは彼が立ち上がろうとして、バランスを崩して倒れた時に明白になった。

 

 倒れたのは、右腕を失って身体のバランスが取れなくなっていたからだった。

 

 失った右腕には、アメーバ状の何か--メンテ妖精が変形したものが貼りついて、その傷を覆っている。チ級の掌の上で、等身大の深海棲艦に襲われたのは間違いなく事実だったのだと、彼は思い知った。

 

 そして、あの二つの頭蓋骨も・・・

 

 

 その後、海に流されてからどうなったのか。

 

 誰かにこの作業艇に引き揚げられたと思っていたが、誰も居ない事から考えるに、それこそ夢だったのかも知れない。と、彼は思った。

 

 この作業艇は初霜から逃亡する時に奪った作業艇であり、きっと流された後、無意識の内に自力で這い上がっていたのかも知れない。

 

(これから、俺はどうすればいい・・・?)

 

 作業艇で独りきり、彼は思い悩んだ。

 

 復讐は果たせず、それどころか、深海棲艦に片腕を奪われ、死に勝る屈辱を与えられた挙句に海に流されて、ついには心の拠り所である家族の写真までも失った。

 

 残されたのは無意味に生き存えてしまった彼自身のみ。

 

 そこにはもはや、何の価値も無かった。

 

 お前には死ぬ価値すら無いのだ。そう宣言されたようなものだった。

 

 泣きたかった。

 

 畜生、殺せ。と、そう泣いて喚きたかった。

 

 だが、誰に対して泣き喚けというのか。

 

 この悔しさを、

 

 この憤りを、

 

 誰に、どこに向かってぶつければいいというのか。

 

 この海でさえも、彼を無視するかのように霧で隠れているというのに!

 

 しかしその時、不意に目の前の白い世界が急に暗くなり、その向こうに巨大な影が音もなく出現した。

 

 霧の向こうにまるで壁のようにそそり立つ影。その一部分にまるで鬼火のように青く爛々とした明かりが灯っていた。

 

 これは、まさか。

 

 彼がそう思ったのも束の間、その影がゆっくりと近づき、その正体が露わになった。

 

 チ級だ。

 

 チ級の顔が、水面近くにあって目の前に現れたのだ。

 

 しかしなぜ顔だけ?

 

 その疑念を晴らすかの様に霧が薄れ、チ級の顔以外の部分も露わになった。

 

 そこに現れたのは、チ級の残骸とも呼べるものだった。

 

 うつ伏せになり、あらぬ方向に曲がった二本の腕で海面を掻きながら、這いつくばって作業艇へと近づいて来ようとしている。

 

 下半身は見えないが、こうも無様に這いずる姿を見れば、もはや原型を留めていないだろう事は想像に難くない。

 

「誰だ・・・誰がやった・・・!?」

 

 チ級をこんな姿になるまで追い込んだのは誰だ。

 

 この自分が成し得なかった復讐を果たしたのは、いったい誰だ。

 

「やはり・・・貴様なのか・・・チューシャン!」

 

 彼の前、チ級と作業艇との間の海面に立つ、小柄な少女の背中が、そこにはあった。

 

 初霜だった。

 

 彼女は作業艇をその背に庇い、這い寄るチ級に対しその小さな身体一つで立ちはだかっていた。

 

「やめろ、チューシャン!」

 

 その背に向け、彼は叫んだ。

 

「俺は貴様に守られたくなんか無い! やめろ! これ以上、俺に生き恥を晒させるな!」

 

 しかし、初霜の背中は微動だにしなかった。迫り続ける巨大な怪物を真っ直ぐに見据え、彼女は立ちはだかり続ける。

 

「やめろぉぉぉ!」

 

 彼の絶叫が響く中、這い寄るチ級の動きが、止まった。

 

 海面近くにあるチ級の半開きになった口の中から、何かが姿をのぞかせた。

 

 それは、あの女だった。

 

 女は、口の中から、海面に立つ初霜の姿をじっと見つめていた。

 

「・・・フハ」

 

 不意に、女が笑みを漏らした。

 

「ハハハ・・・アハ、アハハハ・・・ハツシモォ・・・アーハッハハハハ」

 

 それはすぐに大きな笑い声を伴って、不気味な響きとなって海面を拡がっていく。

 

 それは狂った様に笑う中、

 

「ソウダヨ・・・ソレデイイ・・・マタ、アソボオネエ・・・」

 

 そんな言葉を残して、チ級の姿が霞み出し、霧の中へと溶ける様に消えていった。

 

 後に残ったのは木霊のような女の笑い声のみ。

 

 しかしそれさえもやがて消えて、海には再び静けさが戻った。

 

 初霜の背中から、張りつめていた糸が切れたかの様に、ふと力が抜けたように見えた。

 

 彼女はひとつ大きく息を吐き、そして作業艇に向かって振り向いた。

 

 その瞳が彼の無事を確認して、細められる。

 

「・・・良かった」

 

 そう言って、初霜は微笑みながら作業艇へと近づいた。

 

 彼女は作業艇の傍に着くと、そこから中にいる彼に向かって身を乗り出して、何かを言いかけた。

 

 しかしその言葉が口をついて出る前に、彼は、初霜に向かって殴りかかっていた。

 

「きゃっ!?」

 

 初霜が短い悲鳴を上げて身を引き、彼の拳は虚しく空を切った。

 

 もとより利き手とは反対の左手、ましてや不安定な作業艇の上で、しかも怪我によって身体も上手く動かせない状態で殴りかかったのだから、その拳に当たったところで、ほとんど力なんて入っていなかった。

 

 彼は空振りした勢いで、作業艇の中で無様に転倒した。

 

「だ、大丈夫ですか!?」

 

 初霜が慌てて艇内に乗り込み、彼の傍に駆け寄る。

 

 それに対して、彼は再び左の拳を振るった。

 

 起き上がり様に内から外へと振り抜いた彼の左拳が、初霜の頬を打った。

 

 今度の拳には勢いも力もあった。まともに顔面を殴られてよろめいた初霜に対し、彼はぶつかる様に組み付き、彼女を押し倒した。

 

「殺してやる!」

 

 初霜に馬乗りになり、残った左手で彼女の喉を掴み、力を込めた。

 

 殺す。

 

 俺から復讐をも奪い去り、そして死にも勝る生き恥を与えた。

 

 こんな屈辱があるものか。

 

 こんな理不尽があるものか。

 

 何もかも、何もかも、貴様が悪い。

 

 全て貴様が悪い。

 

 貴様が憎い!!

 

 彼の行き場を無くした憎悪の全てが、初霜に向けられていた。

 

 貴様を道連れにしてやる。

 

 死ね、チューシャン。

 

 お前に見殺しにされた、妻と子の恨みと苦しみを思い知れーー

 

 

 

 

--その妻と子が、彼を見つめていた。

 

 

 

 

「っ!?」

 

 幸せだったあの頃に撮った、笑顔に満ちた表情の妻と子の写真が、彼の目の前にあった。

 

 それは、海に流され失くしたと思っていた形見の写真・・・

 

 ・・・それを、初霜が首を絞められながら、彼に向かって差し出していた。

 

「チューシャン・・・貴様・・・」

 

 初霜がしばらく作業艇から離れていたのは、この写真を探しに行っていたからだった。

 

 その事実に気が付いた時、彼の手から、力が抜けた。

 

 その手が、震えながら、初霜の手から写真を受け取る。

 

 彼は馬乗りになっていた初霜の上から離れ、艇の隅に崩れる様に座り込んだ。

 

 写真を見つめる彼の目から涙が溢れ、こぼれ落ちた。

 

 彼は写真を胸にかき抱き、その場にうずくまり、泣いた。

 

 それは怒りでも恐怖でも悲しみでも無い、ただ言葉にならない感情が止まらずに溢れ出して、彼はひたすら泣き続けた。

 

 初霜は艇内で横たわったまま、彼の泣き声を聞いていた。

 

 その首には深く濃い痣が残り、それほど強く絞められた事で、彼女の意識はまだ朦朧としていた。

 

 そんな朦朧とした意識の中で、初霜は二年前の事を思い出していた。

 

 そう、あの時も泣いていた。

 

 でも、あの時泣いていたのは・・・

 

 

 

 

 

 

 二年前のあの日、何十人という人間の無残な死を目の当たりにした初霜の心は、壊れかけていた。

 

 人を喰らい続けるチ級に無謀にも立ち向かい、船体を大破寸前にまで追い込まれながらも辛うじて一矢報いることに成功した。

 

 しかし、チ級が去って行った後に残されていたのは、血に染まった海面と、そこに散らばる命の残骸に群がる鮫や魚の群れだけだった。

 

 救えた命は、たった三人だけ。

 

 しかし、その三人は・・・

 

(許さない)

 

 壊れかけた心で、初霜は憤った。

 

 この惨事の原因を作ったあの三人を許して良い筈がない。

 

 生かして良い筈がない。

 

 初霜は、足元に落ちていた拳銃を拾い上げた。それは、あの三人が持ち込んだものだ。

 

 彼らはこの銃を初霜に突きつけ、他の人々を見殺しにして撤退しろと脅迫した。

 

 非道。

 

 外道。

 

 そんな言葉では表せられない行為だ。

 

 その報いを受けさせなくては。

 

 初霜は弾倉を確認する。まだ数発残っている。三人相手なら充分だ。

 

 初霜はそれを手に、艦橋の隅に居る三人に目を向けた。

 

 メンテ妖精によって拘束され、身動きが取れないままに戦闘に巻き込まれた彼らは、死の恐怖に如実に晒された事によって心を挫かれ、恐慌状態に陥っていた。

 

 青褪めたを通り越して真っ白になった顔色の彼らと目を合わせると、三人は目に見えて震えだした。

 

 初霜が銃を手に、彼らに向かって足を踏み出すと、彼らは一斉に悲鳴をあげた。

 

--お願いだ、殺さないでくれ。

 

--死にたくない。

 

 いったいどの口がそれを言うのか。

 

 お前達にそれを言う資格があるのか。

 

 報いを受けろ。

 

 初霜は銃を向けようとして・・・

 

 ・・・そのとき、一人の男の足元に、別の何かが落ちているのを見つけた。

 

 それは、写真だった。

 

 何度も手にして眺めていたのだろう、折り目だらけで、手垢にまみれたその写真。

 

 写っていたのは、みすぼらしい家屋の前で、粗末な服を纏った子供達に囲まれた、その男の姿だった。

 

--お願いします。殺さないで下さい。

 

 その男が言った。

 

--罪なら償います。犯罪からも足を洗います。だからお願いします。殺さないで下さい。家族が待っているんです。家族の元に返して下さい。お願いします。殺さないで・・・

 

 

 

 

 身勝手な話だ!

 

 

 

 泣きながら訴える男を見下ろしながら、初霜は「ふざけるな!」と叫びたかった。

 

 死んで行った者達にだって家族は居るんだ。

 

 生きたかったのはお前達だけじゃ無いんだ。

 

 死んでいい人間なんてどこにも居ないんだ。

 

 そう叫びながら、銃を撃とうと思った。

 

 死んで償え、と。

 

 

 

 

 

 

 

 けれど、出来なかった。

 

 銃を向けることも、言葉を吐くことさえも出来なかった。

 

 それならばせめて睨みつけてやろうと思ったが、視界が滲んでまともに目を開けなかった。

 

 瞼を固く閉じ、唇を噛み締めて俯いた初霜の頬に涙が伝い落ちた。

 

 この者たちにも家族が居る。

 

 死んでいい人間なんてどこにもいないのなら・・・

 

 ・・・この三人だって、そうなのだ。

 

 その矛盾に気付いた時、初霜もまた、泣いていた。

 

 誰も救えなかった己の無力さと、悔しさ。

 

 そして何よりも、自分もまた生き残った事に対する安堵感と、罪悪感を認めたくなくて、

 

 その後ろめたさを否定したくて、

 

 その全てをこの男たちにぶつけようとした。

 

 してしまった、この己の心の浅ましさ。

 

(そう、誰よりも許されないのは・・・この私だ)

 

 許されざる己の罪。

 

 それはあの日以来、初霜の心を霧のように覆い尽くしていた。

 

 あの日、泣いたあの涙の意味。

 

 それと同じ涙が、今、ここに流れていた。

 

 誰も恨む事ができないなら、泣く事だけが、たった一つ残された慰めだった。

 

 初霜はそっと身を起こして、うずくまって泣き噦る彼の元へと、静かに寄り添った。

 

 彼の慟哭が海に響き渡る中、立ち込めていた霧がようやく晴れようとしていた--

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 初霜に収容された男については、情報部員と医療スタッフを乗せたヘリにより、帰投途中の洋上で回収する。

 

 海尾は艦隊司令部からの電話でそう告げられた。

 

『戦艦、そしてあの人喰い雷巡も含めた十七隻もの深海棲艦を撃破し、かつ民間船舶に一隻の被害も出さなかった。まさに大戦果だよ。素晴らしい』

 

 手放しで褒める司令長官の言葉に、海尾は低い声で、

 

「・・・全て部下の活躍のおかげです」

 

 と答えた。

 

『無論、そうだろうとも。何しろ艦隊司令部で直々に選抜した精鋭だ。状況がこれほど早く動いたのは想定外だったが、彼女達ならこれくらいの局面は乗り切ってくれると予想していたよ。まさに期待通りだ』

 

「状況が早く動いたとは・・・それはどう言う意味ですか」

 

『別に君の指揮官としての資質を否定しているわけでは無い。部下の手柄はそのまま指揮官の手柄でもある。君もまたよくやってくれた』

 

 違う、そんな事を訊いた訳じゃない。そう言おうとしたが、

 

『今後も期待している。以上だ』

 

 まるでこちらの質問を受け付けないかの様に、電話はさっさと切られてしまった。

 

「くそっ」

 

 海尾は叩きつける様に受話器を戻した。艦隊司令部からの電話に対し悪態を吐くのは既に二度目だ。

 

 荒れた態度の海尾の様子に、叢雲が不安そうな視線を向けた。

 

「今度はどうしたの。やっぱり叱責を受けたとか?」

 

「叱責どころか、不自然なほど手放しの賞賛だ。ぬけぬけと何が大戦果だ。こんな嬉しくない手柄は初めてだ」

 

 不機嫌な海尾に、叢雲も肩をすくめた。

 

「ねえ、艦隊司令部は今回の事を予想していたと思う?」

 

「司令長官の口振りから察するに、そういう事だろう。まあ、深海棲艦の大量出現はさすがに予想外だとは思うが・・・」

 

 しかし、あの男が初霜に対しテロを仕掛けたと判明した時、艦隊司令部は不自然なほど早く、そして強権的に身柄の確保を要求してきた。

 

 まるでこうなる事を知っていたかのように。

 

「情報部は怪しい連中をマークしたままずっと泳がせていた。今回のあの男もな。恐らくあの男も含めて誰かがテロを起こすのを待ち構えていたのだろう」

 

「じゃあ、警備艦隊再編成に艦隊司令部の意向が強く働いたのは、これを狙っての事?」

 

「この島は隣国とも近いし、市民団体も息がかかっているのが多い。そこに初霜の様な隣国との因縁を持った艦娘を送り込めば、連中が早かれ遅かれ何らかのリアクションを起こすことは予想に難くない。大方、情報部が筋書きを描き、艦隊司令部が乗ったと言うところだ」

 

「予算増額で舞台を整え、役者を送り込んできた、か・・・あの子たちに聞かせられる話じゃないわね」

 

「まったくだ」

 

 この命がけの任務が、初めから味方によって演出された陰謀の結果だったなどと、現場の彼女たちに言える訳がない。

 

 いや、言えるどころか、

 

「部下の命を捨て駒にしかけたんだ。こんなの指揮官失格だ・・・」

 

 そう口にして、海尾はうなだれた。

 

「そんなこと言うものじゃないわよ」

 

 ふふっ、と隣で叢雲が笑いながら、海尾の傍に寄り添った。

 

「あの時、あんたが艦隊の指揮を剥奪されて艦隊司令部直属で動いていたら、もっとひどい力押しの作戦を取らされた可能性だってあるわ。だけど、あっちの指揮官に自決の覚悟なんて無いでしょうね・・・あんたの覚悟は現場の皆にも通じているわ。だからあんな無茶な作戦も成功できたのよ。誇っていいわ」

 

 寄り添う叢雲の手が、海尾の手に重ねられた。

 

 その温もりと感触が、ささくれかけた海尾の心を包み込む様に宥めてくれる。

 

「すまないな、叢雲・・・ありがとう」

 

「どういたしまして」

 

 叢雲の微笑みに、彼も笑みを浮かべながら、しかし、と内心で思う。

 

(俺の覚悟か・・・)

 

 それはきっと、初霜の信念とも言うべき覚悟に引きずられて出たものだろう。しかしだからと言って、自分自身の覚悟を一時の気の迷いだったと言うつもりはなかった。

 

 あの時も、今も、これからも、海尾は部下とともに命を懸け続ける覚悟だった。

 

「ほら」叢雲が司令部の海域図を見上げた。「艦隊が島に近付いてきたわ。そろそろ見えてくるはずよ。迎えてあげましょう」

 

「そうだな。あいつらには言いたい事が山ほどあるが、まあいいさ、先ずはよく帰って来てくれたと褒めてやる事にしよう」

 

「それと、球磨と那珂の歓迎会もしなくちゃいけないわね。また店を予約しとかなくちゃ」

 

 二人は地下司令室を出て岸壁へと上がる。

 

 外はちょうど日が沈みきった頃だった。まだ薄明かりが残る空に星々が瞬き、その水平線に、こちらへと向かってくる艦隊の灯りが浮かんでいた。

 

 その艦隊の上空を、一機のヘリが低く飛んでいた。艦隊司令部から連絡のあった、情報部のヘリだろう。

 

 ヘリは単縦陣で進む艦隊の最後尾に位置していた初霜の船体上空で低くホバリングを開始し、ホイスト降下によって情報部員と医療スタッフを乗り込ませてきた。

 

 彼らは初霜の食堂兼仮眠室のベッドで看護を受けていた男を担架に移すと、手早くヘリまで吊り上げて収監し、飛び去って行く。

 

 彼は、初霜の船体に収容されてから、ヘリに移送されるまでの間、ずっと大人しくしていた。

 

 眠っていた訳ではない。しかし初霜とは何も話さず、身柄を受け取りに来た情報部員の質問にも黙秘を貫いた。

 

 結局、彼の名前さえも分からないままに、初霜は艦橋で、ヘリが飛び去って行くのを眺めていた。

 

 ヘリはすぐに宵闇へと紛れ、消えて行く。

 

 彼が今後、どのような扱いを受けるのか、初霜にそれを知る権利は無かった。情報部関係の情報は、海尾でさえ安易に知る事が出来ない機密事項だった。

 

 それでも、彼とはもう二度と会うことはないのは確かだろう。

 

 初霜がそう思ったとき、艦橋に、一体のメンテ妖精が現れた。

 

 艦橋配置の妖精とは別の個体だ。それが呼び寄せた訳でもないのに、勝手に初霜の元へとやって来ていた。

 

「これは、どういうこと?」

 

 初霜の疑問に、サポートAIが答えた。

 

『要救助者から物品を受領したため、提出に参りました』

 

 彼から何かを渡されたと言うのか。

 

 改めて妖精を見てみると、それは彼の傷口をずっと塞いでいた個体である事に気付いた。

 

 そういえばこの個体は、彼を船体に収容した後もずっと、彼の看護要員として傍に付き添わせていたのだった。

 

 その妖精が敬礼し、手にしていた物を初霜に差し出した。

 

 それは、ラミネート加工された写真。彼の妻子の写真だった。

 

「これを、どうして?」

 

 疑念を抱きながら写真をよく観察すると、裏に何かが書いてある事に気が付いた。

 

 それは食堂に備え付けてあった油性ペンで、そして恐らく利き手ではない左手で書いたためか酷く歪んだ字で、こう書かれていた。

 

【别忘了 初霜】

 

 忘れるな、初霜。

 

 あの日の、名もなき人々のことを、お前は忘れてはいけない--

 

 

 

 

 

『僚艦全て入港完了しました。これより本艦は入港準備作業にかかります』

 

「--了解」

 

 初霜はサポートAIの報告に答えながら、その写真を懐にしまい込んだ。

 

 

 忘れはしない。

 

 あの日の事も、そしてあなたの事も。

 

 彼女の胸に宿る信念に、また一つ折れる事が出来ない理由が加わった。

 

 

 船体は港に近づいて行く。

 

 既に他の艦娘たちは入港を終えており、岸壁の照明に照らされて、そこに海尾と叢雲を加えた仲間たちが初霜の入港を待っている姿が見えていた。

 

 艦橋配置の妖精がラッパを構えてウィングに立つ。サポートAIが報告。

 

『入港準備完了』

 

「了解。入港用意!」

 

 初霜の指示により、妖精がラッパを吹き鳴らす。

 

 入港ラッパの高らかな音色と共に、初霜は帰投した。

 

 

 

 

 

 

 




次回予告

 どこか見覚えのある海、見慣れたはずの鎮守府

 そこで繰り広げられるのは既視感にまみれたいつかの光景

 だがお前は誰だ? ここに居る俺は誰だ?

 記憶を失った青年がある艦娘と出逢った時、新たな物語が幕を上げる。

 第X章〜海を生きる漣〜「第一話・こんにちは、ご主人さま(*≧∀≦*)」

「・・・第一章の初期艦かえただけのセルフリメイク、キタコレ?」
「言うな」

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