「やれやれ、前途多難な司令職だな」
ソファから立ち上がって背中を伸ばした私を、叢雲が薄笑いを浮かべながら見上げた。
「司令兼長官ね。ま、せいぜい頑張りなさい」
「他人事みたいに言うな。現状、君が唯一の戦力なんだ。秘書だってやってもらう事になる」
「そういうことなら仕方ないわね。秘書艦を拝命するわ。お茶を淹れ直しましょうか? ダージリンだっけ」
「ありがとう」
私はすっかりぬるくなったほうじ茶を一息で飲み干すと、司令用の執務デスクに向かった。
前任者が居ないとはいえ、もともと今日、司令職を交代する予定だったのだから申し継ぎ書類くらいはまとめているはずだった。
案の定、デスクの一番上の引出しに【司令申し継ぎ】と表紙が打たれた分厚い書類が入っていた。内容は、警備艦隊の編制や練度評価、そして人事状況だ。今はここに居ない艦隊の情報だったが、いずれこの艦隊が帰ってくることを考えると無意味では無かった。
もっとも、本当に帰って来ればの話だが。
書類には他にも警備艦隊の担当海域の情報や、作戦行動中の行動規範やその根拠となる関係法規、司令部から出された命令などの通達も添付されていた。
それによれば、この艦隊の主任務は担当海域の海上交通の安全であり、脅威がある場合は独自判断による速やかな出撃、そして排除が認められているらしい。担当海域自体はそこまで広くは無いものの、与えられている権限はかなり強大かつ柔軟といえる。
しかし現状は、それだけの権限を活かせるだけの戦力が無い。従って司令としての当面の仕事は艦隊の再編成と、その間の海域警備をどうするか、だった。
具体的な方策としては他の鎮守府に停泊している艦隊に応援を頼み、手空きの艦艇を何隻か回してもらうしか無いだろう。上層部にその具申を行うとともに、近隣の艦隊へも根回しが必要だ。
近くの艦隊に同期や知り合いが居ればいいのだが、と思いながら書類に目を通し続けている私の前に、ティーカップが静かに置かれた。
紅茶の甘い香りが鼻腔をくすぐる。
「ありがとう、叢雲」
「どういたしまして。ところで紅茶といえば、あのFTなんたらって言う高級茶葉、前任者に送らないと行けないわね」
「そうだな。緊急出港からの転勤だ。置いていった私物も多いだろう」
「艦隊の艦娘の私物もね。急ぎの仕事が無いなら、私は先ずそっちの整理と発送の手続きを進めようと思うんだけど?」
「ああ、それがいいだろう。こっちも艦隊司令部との通信が復旧するまで大きな仕事は無い」
「わかったわ。あと、あんたもいい加減、着替えたら? 制服ボロボロだし、砂もまだ着いてるわよ」
「そうしたいが着替えが無い。君も同じだろう」
「まあね。せめてお風呂くらい入りたいけど、それも無理そうね」
『申し訳ありません』と、猫吊るしが姿を見せないまま謝罪した。『被服倉庫や浴室も被害を受けていまして使用不能です。しかし明日には復旧できると思います』
「大丈夫よ。理解してる」
『ありがとうございます。通信については現在最優先で復旧作業を進めておりますので、間も無く回復する見込みです。それと、もうじきお昼になります』
「ん?」
猫吊るしの言葉に、私は着けていた腕時計を見た。時間は1045。あと三十分もすれば昼飯時だ。
「なあ、食堂は無事なのか?」
『残念ながら吹き飛ばされました。自慢のカツカレーが台無しになったと調理担当者が憤慨しながら缶飯を準備中です』
「着任初カレーは来週に持ち越しだな」
『缶飯の種類は、赤飯、五目飯、鳥飯です。どれになさいますか?』
「赤飯で頼む。叢雲、君はどうする」
「五目が良いわ」
『わかりました。準備出来次第こちらにお持ちするよう担当者に伝えます。・・・司令、たった今、軍事用無線通信が復旧しました。艦隊司令部への秘匿通信が可能です。デスク上の電話機からお掛け下さい』
「わかった。ありがとう。・・・そういえば電話帳はあるか? 艦隊司令部の番号を知りたい」
『右の引出しです』
「そうか」
私は左手で受話器を耳に当てたまま右手で引出しを開けた。中には確かに電話帳が有ったが、それ以外にも或る物が収められていた。
「?」
私は電話帳と一緒に、それを取り出す。
それは折りたたまれた新聞紙だった。猫吊るしが言った。
『電話帳を使わずとも私がお繋ぎいたします。海軍総隊艦隊司令部司令長官執務室ですね?』
「あ・・・ああ」
『繋ぎました。そのままお待ち下さい』
耳元で呼び出し音が鳴る。しかし、私は既に上の空だった。
私の注意は手元の新聞紙に奪われていた。そこには、こんな見出しが躍っていた。
【南西諸島に不審船座礁! 乗組員が島内に潜伏か?】
【座礁船確保の為、特殊部隊投入。乗組員の国籍は? 緊迫する南西諸島問題】
【南西諸島近海で護衛艦が謎の爆沈! 事故か? 攻撃か?】
【護衛艦むらくもの乗員130名の生存は絶望的】
この新聞は何について書いてあるのか。いや、それよりも重要なことは、この護衛艦の艦名だ。
・・・むらくも。
そうだ、この護衛艦の名前を私は知っている。
そうだ、私はこの護衛艦の乗員だったのだ。
深海棲艦ではなく、同じ人間を相手にして、
駆逐艦ではなく護衛艦に乗り組み、
有事に限りなく近い平時のグレーゾーンで、数多くの制約に縛られながら、ギリギリの神経戦を繰り広げていたのだ。
そして、そして・・・
魚雷接近から命中までの、あの異様に長い一瞬を、私はリアルに思い出すことができた。停止したかの様な時間と、直後の爆発と衝撃。私の意識は途切れ、そして再び目覚めた時、艦娘が存在するこの世界に居たのだ。
だとすれば、どういう事だ?
私はこの世界の人間、海尾 守では無いのか?
いや、しかし私には確かに海尾 守としての記憶がある。その個人の半生をまざまざと思い出す事ができる。だが、不思議とそれは映画のようなフィクションを客観的に見ているような気がするのも確かだ。
一方で護衛艦むらくも乗員としての記憶は生々しく、感情を伴っていて、まさに自分が経験した記憶だと言い切る事ができた。むらくも艦内での仕事や、生活や、乗員同士の人間関係などを隅々まで思い出す事ができる。
ところが、ところがだ。奇妙な事に艦内以外の記憶はかなり曖昧なのだ。
それどころか、個人としての名前がわからない。自分の役職さえも、艦長だったのか、砲雷長だったのか、船務長だったのか、航海長だったのか、CIC員だったのか、艦橋での見張り員だったのか、はたまた食堂で慌てて食事をかき込んで噎せ返った新人だったのか・・・
・・・それが判然としない。しかし、彼ら全ての記憶が、感情が、思い出せるのだ。
なんだ、なんなのだ。
私はいったい、誰なんだ?
混乱する私の耳元で、不意に、
『海尾大佐』
と低い声で名を呼ばれ、私は反射的に背筋を伸ばした。
「はっ!」
『君の要望は承知した。司令部としても南方警備艦隊の再編成は急務であると認識している。着任早々、厳しい状況だろうが、海上武人としての職務を全うしてもらいたい』
「はっ。粉骨砕身の覚悟で臨みます。艦隊司令長官殿!」
『よろしい』
その言葉を残し、電話は切れた。
私は背筋を伸ばして受話器を耳に当てたまま、しばらく呆然としていた。
そんな私をいぶかしんだのだろう、叢雲が声をかけてきた。
「ねえ、あんたいつまでそうやっているの?」
「あ、あぁ・・」私は受話器を戻し、そして叢雲に問いかけた。「私は・・・司令長官と話をしていたのか?」
「ええ、普通に着任と今後の方針を報告していたわよ。最後だけいきなり気合入ったのには驚いたけど」
「そう・・・なのか・・・?」
「どうしたの? 顔が悪いわよ?」
そうなるのも当然だろう。なにしろ私には、司令長官との会話の記憶が無い。相手に対して無意識に生返事をしていたと言うならばまだ理解できるが、能動的に報告をするなんて真似は無意識では不可能だ。
ならば、司令長官へ報告していたのは、“私”ではない“私”、おそらく“海尾 守”の方の意識の仕業だろう。ほとんど確信にも近い感覚でそう思った。
すると、今になって電話でのやり取りが記憶に現れてきた。
思い出した、というには不自然な感覚だ。現れた、としか言いようが無い症状だった。これは自覚の無い記憶だった。
私は多重人格者なのだろうか。と疑ったが、全く違う記憶(それも異世界の記憶)を同時に共有する多重人格などあり得るのだろうか。心理学の専門家では無い以上、はっきりしたことは言えないが、おかしいのは確かだった、
おかしい。
うむ、そういえばおかしなことは、もう一つあった。
「叢雲、お前いま、“顔が悪い”って言わなかったか?」
「まさか、聞き間違いよ。“顔色が悪い”と言ったに決まってるじゃ無い」
「そうか?」
「そうよ」
「ふむん」
私はイスの背もたれに身体を預け、もう一度記事を確認しようと新聞に手を伸ばそうとした。
しかし、その時、
『緊急信を受信しました!』
「おわぁっ!?」
デスク上に突然現れた猫吊るしに、私は思わず奇声を上げてしまった。
「なんだ、いきなり!?」
『驚かせて申し訳ありません。ですがたったいま、深海棲艦の目撃情報が入りました』
「なんだと」
猫吊るしの報告に、叢雲も私の隣にやってくる。
『南方海域上空を飛行中の民間旅客機からの情報です。場所は、ここから南西約100海里』
猫吊るしのすぐ脇に海域図の立体映像が映し出され、そこに目撃地点が示された。その目撃地点をかすめるように、いくつものラインが引かれている。
『このラインは本日航行する民間船舶の予定航路です』
「通商航路のすぐそばじゃないか。急いで航行警報を出せ。付近船舶に情報を流し、航路を変更させるんだ!」
『了解。直ちに通報します』
猫吊るしが姿を消す。
私は隣の叢雲に目を向けた。
「・・・出るしかないな」
「これも囮かもよ? 大部隊で待ち構えてるかも知れないし、鎮守府がまた空襲を受けるかもしれない」
「こちらの戦力がたった一隻であろうとも、敵の大部隊が通商航路付近にいるなら、何をおいても排除せねばならん。鎮守府が壊滅しようともだ」
「進軍やむなし、ね」
「我々が守るのは鎮守府では無い。海上の安全だ」
私がそう言うと、叢雲は、フッと不敵な笑みを浮かべた。
「悪くないわ。そういうの、嫌いじゃない」
『緊急出港ですね』と、猫吊るしが再び姿を現した。『昼食は間に合いそうに無いですね。缶飯は補給物品と一緒に岸壁へと回しておきます』
「そうね、海上で頂くことにするわ」
「長丁場になるかも知れん。一週間分は用意してくれ。可能か?」
『全て缶詰ですが、量は充分に用意可能です。栄養の偏りを防ぐため、ビタミン剤と食物繊維の錠剤も用意しておきます』
そこに叢雲がもう一つ注文を加えた。
「あと、替えの下着とタオルもお願いできる?」
『支給品の野暮ったいので良ければ、まだ残っています。サイズはまちまちですが』
「そこは我慢するわ。海水とはいえ艦内で風呂に入れるだけマシだしね。・・・で、あんたは何で私の胸元を見てるわけ?」
「いや、気のせいだ」
その控えめな胸ならサイズに困ることも無いだろう、というのは男の無知だろうか。まあこんな事を口にすれば、敵よりも先に叢雲に殺されかねない。
私は叢雲の疑わしげな視線から目を逸らしつつ、彼女を伴って執務室を出た。
階段を昇って地上に上がり、岸壁で足を止める。
「これより船体を回航するわ」
叢雲はそう言って、岸壁から海面へと飛び降りた。
しかし彼女は水柱を上げて沈むことは無く、その両足を伸ばしたまま水面に立って見せた。
むらくも乗員としての“名の無い私”はその光景に驚愕したが、しかし、すぐに“海尾 守”の感覚が表に現れてきて、その事実を受け入れた。
しかも“守”の記憶と知識は、この後にまだ続きがある事を“名無し”に教えていた。
海面に立つ叢雲が、目を閉じ、両手を組んでいた。まるで何かを祈っている様だ。
変化はすぐに訪れた。
彼女の足元を中心に青白い光が海面いっぱいに拡がり、それは粒子となって泡立ち、空中へと吹き上がった。
まばゆい光が叢雲を包み込み、私の視界を奪う。
それはわずか数秒の出来事だった。光に眩まされた私の視界が回復した時、そこには、巨大な鋼鉄の軍艦が出現していた。
全長120メートル、排水量2000トン、槍の様に細長いその船体の前部甲板には12.7センチ連装砲、その後ろに三階建構造の艦橋、そこより後ろの甲板は一段下がった構造になり、縦列配置された二つの煙突と、三基の61センチ三連装魚雷発射管が並び、そして後部甲板には後ろ向きに付けられた12.7センチ連装砲が二基搭載されている。
岸壁に立つ私のちょうど目の前に当たる船体の側面には、カタカナで【ムラクモ】と表記されていた。
そう、これこそ艦娘と呼ばれる彼女の真の姿、一等駆逐吹雪型5番艦・叢雲であった。
その叢雲の艦名が書かれたすぐ近くの甲板から桟橋が下され、岸壁に掛けられた。その桟橋の先で、彼女が待っていた。
私は桟橋を渡り、叢雲の甲板上へと足を踏み入れた。彼女が敬礼で私を迎える。
「司令、乗艦。これより出港準備作業にかかります」
「了解、かかれ」
私が答礼すると、彼女は敬礼を解き、踵を返した。
「艦橋へ案内するわ、こっちよ。階段はかなり急で狭いから、頭をぶつけない様にね」
彼女の案内で私は艦橋へと向かう。
古めかしい艦の外観と違い、艦内は非常に洗練されたハイテク機器の集合体と言っても良かった。アナログの計器は一つも無く、全て多目的スクリーンに統一されている。そこに艦内の状況が次々と表示されていた。
「各武器の作動確認を実施。巡行用タービン及び戦闘用タービン起動準備。・・・補給物品が岸壁に届いたみたいね。搭載終了後、桟橋を外し試運転を行う」
艦橋からウィングに出て岸壁を見下ろすと、桟橋横に駐車されたトラックから、段ボール箱がいくつも積み込まれているところだった。一週間分の食料と着替えとはいえ、わずか二人分である。積み込み作業はすぐに終わった。
桟橋が格納され、艦の奥底からタービンエンジンの唸り声が響き渡った。
「タービンの試運転終了」
叢雲が宣言し、私のそばに立った。
「出港準備完了しました。司令」
「了解、出港を許可する」
「出港用意!」
叢雲の号令と同時に艦橋内のホーンから出港ラッパが高らかに吹き鳴らされ、艦は岸壁を離れた。
遠ざかって行く岸壁の奥、掩体壕の入り口の前で、猫吊るしの一枚絵が見えた。
私たちは猫吊るしに見送られながら、外洋へと艦首を向けた。
次回予告
新米提督にとって初めての秘書艦との、初めての出撃。
それは、たった一艦による海上護衛だった。
だがこの叢雲、腕に覚えあり。
深海棲艦が待ち受ける広い海に、助けを求める悲鳴が響く。
次回「第二話・海上護衛戦」
「対空戦闘用意!」