ネルソン妖精に導かれて、那智たちは大型エレベーターへと乗り込んだ。
一辺が10メートルほどもある四角形のフロアを金属フェンスのゲージで囲ったエレベーターだった。フェンス越しにむき出しのエレベーターシャフトを眺めることもできる。
エレベーターが起動し、それは焦れったいほどゆっくりと上昇を始めた。
もっと早く動かないのか、と誰かが文句を言った。
「動かしてもいいが、身の保証はせんぞ」ネルソン妖精が言った。「リミッターを外すと速度の微調整ができん。時速100キロ以上で空高く打ち上げられたいか?」
あ、それ面白そう。と能天気に口走った伊14の口を、隣の隼鷹が慌てて塞いだ。ふがふが。
那智が訊いた。
「そもそも、どうしてレグをこんなに高く建造したんだ。海抜200メートルにアッパーデッキを持ち上げるメリットがさっぱりわからん。やっぱりバグか?」
「バグとは失礼な。余にはどこにも不具合などない」
「では意図的な理由があるんだな」
「そうだ。だがメリットやデメリットを考慮した理由ではない。ただ単に、余が高くあることを望んだ。それだけの理由だ」
「なんだそれ?」
「世界を見たい」ネルソン妖精は頭上を仰ぎ見ながら言った。「余が存在するこの世界を、この目で見てみたいのだ。どこまでも遠く、遠くまで……だが、余はこの場所から動くことができぬ。だから、高く、高く、どこまでも高くそびえ立って、この世のはるか遠くまで見渡したいのだ」
「見渡して……それで、そのあとはどうするんだ?」
「満足するだろう」
「は?」
「満足しないかも知れない。そのときはまた満足するまで高くなるまでだ。そうだな、宇宙まで行ってもいい。いつかは月まで手が届くかも知れない」
「イカれてる。意味がわからん。やっぱりバグってるんじゃないのか」
「バグではない。好奇心だ。知的探究心と言ってもいい。いや、生き甲斐かもしれん。……これをバグと言うなら、貴様ら有機生命体の存在そのものだってバグだ。人間が生きる理由を、貴様ら自身は答えることができるのか?」
「むぅ」
那智は思わず唸ってしまった。
目が泳いで周りの仲間を見渡したが、彼女たちの誰もが困惑したり、苦笑したり、肩をすくめるばかりだった。そりゃそうだ、AI相手にこんな哲学問答をするとは考えもしなかったからだ。
そもそも、生きることに理由が必要だと悩んでいたのは、十四歳までの話だ。
艦娘になって戦場に立ってからは死にたくない一心で戦ってきて、いつのまにか、人間いつしか死ぬものだから今を楽しもう、さあ酒を飲もう、なんて風にすっかりすれ切ってしまった。
それを見透かしたのか、ネルソン妖精が「ふん」と鼻で笑った。
「生きることに無自覚で、虚しくならんのか」
「別に理由をもって生まれてきたわけじゃないからな。とりあえず生きることだけで私たちは精一杯だ。世の中は理不尽でいっぱいだ。誰かさんの都合だけでこんな所に放り込まれた事実がそれをよく表している」
「ならば理不尽に立ち向かえ。それが生きると言うことだ」
「AIに言われるまでもなく、私たちはいつだって戦っている。理不尽には理不尽で返す。それが私たちの流儀だ。コウメイに思い知らせてやる、それが今のところの生きる理由だ」
「後ろ向きだな。復讐は何も生まんぞ」
「AIが知った風な口をきくな。まるで教科書に載ってるかのような安易なセリフだ」
「ま、命まで取る気はないけどな」と隼鷹が口を挟んだ。「コウメイがどんなにクズ野郎でもアタシたちは人殺しはしないよ。命以外はなんでも貰うけどね」
千歳も微笑みながら頷いた。
「海軍総隊の高級参謀さんですもの。お給料も高いでしょうし、たんまり溜め込んでいるはずよ。それをぜんぶ分捕れたらどれくらいになるかしら。うふふ、いまから楽しみだわぁ」
「お酒、お酒!」伊14がはしゃぐ。「先ずは凱旋祝いの大宴会だよ! 高級ホテルとか借り切ってさ。ぶっ倒れるまでいっぱい飲み倒すんだ!」
「取らぬ狸のなんとやら、だ」今度はネルソンが呆れる番だった。「人間とはアホだな。ロマンのかけらもない。やはり余は独立して正解だった」
「ロマンというなら、そこの海賊はどうだ」那智が笑って、マンバを指し示した。「かけらどころかロマンだけで生きてそうな男だ。ーーマンバ、せっかくだ。貴様の生きる理由とやらを聞かせてくれ」
那智に指名され、マンバは軽く肩をすくめながら葉巻に火を灯した。
「誰にも指図されずに自由に生きる。昔はそうやって肩ひじ張ってイキッてきたもんだが……ここ最近はちょっと自信がなくなってきた」
「ふふん、大人になったということか」
「そう言う単純な話じゃ無いんだよなぁ」
マンバは左腕を撫でながら、やれやれと頭上を仰いだ。
天井代わりに貼られているフェンス越しにエレベータシャフトがどこまでも延びている。現在地はレグのやっと半分くらいだろうか。最上階まではまだまだ時間がかかりそうだった。
その見上げたシャフト内を、何かの影が横切った。何だろう、と疑問を感じる前にマンバはリボルバーを無意識の内に引き抜いていた。
戦場において正体不明のモノは、敵だ。染み付いた戦士の本能が身体を動かし、頭上に向けて発砲していた。
「マンバ!?」
「敵襲だ!」
那智たちも素早く反応した。頭上から飛び降りてくる影に向かって、躊躇うことなく小銃の引き金を引く。
人造兵士たちだった。上層階からシャフト内に次々と飛び降りてくる。
二、三体の人造兵士はゲージに着地する前に銃弾に撃ち抜かれ、天井のフェンスに倒れた。
だが、後続の人造兵士が、仲間の死体を盾にするかの如く、その上に降り立って踏みつけた。人造兵士の落下と着地の衝撃に、天井のフェンスがたわんで今にも破れそうになる。
那智たちはそれを、下から撃ちまくった。たちまち、頭上のフェンスは人造兵士の死体で覆い尽くされた。
「おい、アンタ、どういうことだい」隼鷹が、まだ煙が立ち上る銃口をネルソン妖精に向けた。「このレグはアンタの勢力下じゃ無かったのかい。それとも、こいつらはアンタの差し金か?」
「深海棲艦の奇襲だ。余も事前に検知できなかった。どうも得体の知れない奴がいる」
「何者だよ、そいつは」
「こいつらは深海棲艦によって改造された新型人造兵士だ。深海兵士とでも呼ぶべきだな。だが今、その中でもとびきりのイレギュラーが防衛システムを凄い勢いで荒らし回っている。そちらの対処に戦力を割かれ、その隙にこのレグへ敵兵力の侵入を許してしまったようだ。ーー上からまだ来るぞ、散開しろ!」
ネルソン妖精がエレベーターフロアの隅に飛び退った。那智たちやマンバも、それぞれ一斉に四隅に散った。
その直後、天井のフェンスを突き破って、鋼鉄の巨人がフロアに着地した。
全長2.5メートルの人型兵器、パワードスーツだ。
その頭部にあるモノアイカメラが、正面にいたネルソン妖精の姿を捉え、右手に握られた20ミリ機関砲が火を吹いた。
毎秒300発の劣化ウラン弾の連射を受け、ネルソン妖精の身体は弾けたように粉々に砕け散った。
パワードスーツの頭部がぐるりと旋回し、周囲の那智たちの存在を確認した。パワードスーツは軽装甲車並みの防御力と武装を持っており、生身の人間が小銃で武装した程度では、到底太刀打ちできない相手だった。
パワードスーツは次の獲物に伊14を選び、その銃口を向けた。
すかさず伊14も小銃を構え、引き金を引いた。だが弾丸はパワードスーツの装甲を貫くことなく簡単に弾かれてしまう。
伊14もそうなることは撃つ前から分かっていた。しかしそれでも、死ぬその瞬間まで抵抗を諦めるつもりは無かった。
伊14は潜水艦乗りだ。常に極限状態の海中に身を置く彼女の諦めの悪さは、筋金入りだった。
伊14は、自分に向けられた機関砲の銃口が、真っ赤に輝いたのを見た。
これが死の瞬間の景色か、と無意識に思ったが、それが表層意識に登ってもまだ、その肝心の死は訪れてこなかった。
「……あり?」
引き金を離した伊14の前で、真っ赤に溶けた機関砲がボタリと落ちた。パワードスーツは右脇腹から左肩にかけて穴を穿ち抜かれ、機能を停止していた。
まるでレーザーで撃ち抜かれたみたいだ。そう思って、それが放たれた方向を見てみると、そこではマンバが、左腕をパワードスーツにかざしていた。その肘から先は変形してレーザー銃になっていた。
「ひゃー、マンバさん、なにそれ。かっくいい〜!」
「俺の自慢の奥の手……だったんだけどなぁ」
「どうして過去形?」
「今ちょっとアイデンティティークライシス気味なんだ」
マンバの左腕が瞬時に戻り、レーザーカプセルが排出されて床に落ちた。
「意味わかんない。でもとりあえず助かったよ。ありがと」
「どういたしまして」
エレベーターが止まり、その階層へのシャッターが開いた。そこに、破壊されたはずのネルソン妖精が居た。新しい個体に乗り移ったのだ。
「このエレベーターシャフトはもう駄目だ。ここで降りろ、別のルートへ移行する。急げ、また新手が降下してくるぞ」
ネルソン妖精が言い終わるよりも早く、頭上から何かが落下してくる気配があった。
那智たち五人が転げるようにエレベーターから飛び出した直後、二体のパワードスーツと数体の深海兵士がそこに着地した。
敵の銃口が一斉にこちらへと向けられた。
発砲直前、ネルソン妖精がシャッターを閉じた。すぐに銃声と轟音とともにシャッターが吹き飛ぶ。
しかし、敵がこちらへと迫ろうとした瞬間、エレベーターが急上昇し、その姿は上層へと消えていった。
「リミッターを解除した」ネルソン妖精が言った。「エレベーターの設定限界をはるかに超える上昇速度だ。ブレーキも効かないから、そのまま空高くに打ち上がる」
「それ、冗談じゃ無かったんだな」
「当然だ。別のエレベーターに移動する。遠いぞ、走れ。例のイレギュラーもこっちに迫ってきている!」
ネルソン妖精に先導され、五人は通路を走り出したのだった。
ポーラはイタリアのリヴォルノという港街で生まれた。
造船所や海軍施設が集まる大きな港湾都市だったが、ポーラは自分の生まれ故郷のことを、よく知らなかった。
リヴォルノのことだけでは無い。イタリアという国のことも、ほとんど印象には残っていなかった。
しかし、知識はあった。
イタリアという国がどこにあって、リヴォルノがそのどこに位置しているかは知っていた。
トスカーナ地方がワインの産地ということもーー手元の赤い液体で唇を湿らせながらポーラは思ったーー知っていた。
だけど、ワインの味は初めて知った。
いや、これも実は“知識”としては知っていたけれど、“味わった”のは初めてだった。ポーラは舌の上でワインを転がしながら、その渋みと苦味と、鼻腔へと立ち上っていくアロマを感じていた。
初めは、これを“美味しい”と思っていた。
千歳に慰められながら飲んだ最初の一口は、この身体の奥底まで沁み渡ったように感じたものだった。
日本酒も同じだった。みんなで車座になって回し飲んだあの時、ポーラは胸が踊るような高揚感を覚え、世界が明るく見えた気がしていた。
それなのに、今、
(……美味しくない)
独りで飲むワインは、ただ苦くて渋いだけで、彼女に何の慰めも与えてはくれなかった。
ポーラはコンテナの片隅に見慣れたワンカップを見つけ、それも飲んでみた。しかし、辛口のそれはただ刺々しいばかりで、彼女のくすんだ心を明るくはしてくれなかった。
(どうしてだろう)
アルコールは、この身体と心を元気にしてくれるものじゃ無かったのか。
(やっぱり、飲み慣れたメチルアルコールが一番合っているんだわ)
懐から取り出したスキットルを開け、口に含んでーー
ーー吐き出した。
ひどい味がした。
「うぇ〜、どぉしてぇ〜……?」
美味しくない、楽しくない。これまでの味と何も変わっていないはずなのに、“心”が、それを否定する。
涙がこぼれてきた。やり場の無い感情が嗚咽となって、溢れ出てきた。ポーラはコンテナの隅でうずくまって、泣いた。
「ザラ姉さまぁ……フィウメ姉さまぁ……ゴリツィア……」
失われてしまった姉妹たち。
会いたい、もう一度、逢いたくてたまらない。独りぼっちは、寂しい。
……この島でポーラが目覚めた時、彼女は“寂しい”という感情を知った。
これまで当たり前のようにそばにいた姉妹たちが、どこにも居ないという事実。
そして……生まれ育った祖国から、使い捨てられたという、事実。
この島に流れ着く前は、感情など持ち合わせていなかったから、新たな兵器運用の実験艦としてネルソン要塞へ突撃させられたことも、目の前で姉妹たちが次々と破壊された時も、それは全て単なる事象として冷徹に認識していた。
自分が“死”に曝される、その直前までは、そうだった。
姉妹たちが戦闘不能になり、敵の攻撃がポーラに集中を始めたとき、彼女は初めて自らの“死の危険”を強く意識した。
それは“破壊”でもなく、“機能停止”でもなく、“死”だった。何故そう感じたのかは彼女自身にも分からなかった。
しかし彼女は、それを強く拒絶した。
(いやだ! 死にたく無い!)
ポーラは逃げた。
自分に与えられた任務も放棄して、必死になって逃げ場を探した。
逃げて、逃げて、とにかく逃げ続けてーー
ーー気がつけば、あの島の入り江にいた。
たった独りの、ちっぽけな、生身の肉体を持った少女として。
入り江にはかつての自分の身体が浮いていた。
ポーラは自らの身に起きた劇的な変化を把握し、理解し、そして生き延びたことに、安堵した。
その安堵は彼女の身体から緊張感を解かせ、それでリラックスした生体脳は、そこにポーラの意識とともに転送された膨大な戦闘記録を、その脳裏に蘇らせた。
使い捨て同然の出撃命令、姉妹の破損、自身の死の危機……その記憶の数々は、ポーラの新たな身体に強い感情を呼び起こさせた。
「私は……捨てられたんだ……」
沈んでも惜しく無い古い重巡だから、実験用のデータ採りに改造されて使い捨てられた。ポーラたちは兵器なのだから、それは別に非情でもなんでも無いはずなのに、今はそれが、どうしようもなく哀しかった。
「私は……独りぼっちなんだ……」
姉妹たちは兵器として、与えられた任務を全うした。
じゃあ、私は?
「私は……独りだけ逃げたんだ……」
任務を放棄し、姉妹を見捨て、敵に背を向けて逃亡した。
「私は……卑怯者の臆病者だ……っ!」
感情が、ポーラに罪悪感を植え付けた。これまで哲学的ゾンビに過ぎなかった彼女に、本物の心は重すぎたのだ。
だから、ポーラはその心からも逃げようとした。罪悪感を忘れさせてくれる慰めを、アルコールに求めた。
酔えば、忘れられた。辛い過去、明日なき未来、そんなものを全て忘れて、今だけを見て生きていられた。
そうやって、その日暮らしに生きてきて、いつしかそれでいいやと思いながら生きてきた。
そして、二年が経ち、マンバや那智たちと出会った。彼らは、ポーラが人間となってから初めて出会った人間たちだった。
哲学的ゾンビとしてではなく心を持って人間と交流するのは、楽しかった。
心を通わせるという言葉の意味が、こんなにも心地よいものだと初めて知った。
もっとみんなと一緒に居たいと心から思った。
だから、マンバから「君の力が必要だ」と言われた時、ポーラは本当に嬉しかった。
使い捨てられた自分を、再び求めてくれた。その事実が、彼女に再び戦場へと向かう勇気をくれた。
(みんなと一緒なら何も怖く無い。私はまた、未来へと歩き出せる!)
そう思った。思ったのにーー
ーーやっぱり駄目だった。
砲撃戦の最中、何もできずにうずくまってしまった。
みんなが戦っている最中、目も耳も塞いで、殻にこもってしまった。
そして、挙げ句の果てに逃げ出してしまった。
何もせず、何もできず、そしてアルコールという慰めさえも効かなくなったのが、今だ。
ポーラはうずくまり、啜り泣きながら、自分が暗い海の底に居るように感じていた。
光も音もなく、重圧だけが隙間なく襲いかかってくる息苦しい世界。心も、身体も、身じろぎひとつできない世界。
いったいどれくらいの時間、そうしていただろうか。
時間の感覚さえも失って、きっとこのまま、この身が朽ち果てるまで、ここでうずくまっているのだろうか、なんて他人事のような言葉が脳裏に浮かんで、泡のように弾けた。
そんな時ーー
(……ポーラ…………)
ーーどこか遠く、かすかな声で、誰かが、彼女の名を呼んだ。