艦これ海上戦記譚~明け空告げる、海をゆく~   作:PlusⅨ

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うかうかしている間に、もう二月。二か月ぶりの更新です。ああ、時間だけが過ぎていく……


第二十四話・身命賭して猫一匹(3)

 宮吉島から北方へ約100海里ほどに、SK諸島海域と呼ばれる場所がある。

 

 ここは我が国のEEZ(排他的経済水域)内であり、また極東地域でも有数の漁場でもある。そのためここは一年を通じて多くの漁船がひしめき合っていた。

 

 今から約三十年前に深海棲艦がこの世界に出現して以来、その脅威のため、漁業業界は一時期壊滅状態に陥った。

 

 しかし、深海棲艦の出現海域が限定されていると判明し、また世界各国で対深海棲艦ドクトリンが確立されたこともあって、今では多くの漁船が再び漁場を目指して海を駆け回るようになっていた。

 

 もっとも、三十年前のように自由奔放に漁業ができるわけではない。出現海域や、そこからの海流沿いは今でも深海棲艦に襲われる確率が高く、海軍が定期的に哨戒をしていてもハイリスクであることに変わりはなかった。

 

 一方で、このSK諸島海域は、深海棲艦への対処がほぼ完全に確立している海域でもあった。

 

 出現海域ははるか南側に遠く離れており、しかもその中間地点には宮吉島を含めた南西諸島が台湾島まで連なっている。その島々には海軍の警備艦隊――南方警備艦隊、南西警備艦隊、タイペイ艦隊――が駐留しており、その働きにより深海棲艦の侵入を完璧に阻止していた。

 

 しかし、こうして深海棲艦の脅威が無くなってしまうと、思わぬところから別の問題が浮上してきた。

 

 このSK諸島海域は我が国のみならず、台湾、そして隣国の大陸国家とも近いため、それぞれの漁船がこぞってここへ押し寄せてきてしまったのだ。

 

 国際法上は我が国のEEZであるので、本来ここで漁業が許されているのは我が国の漁船だけだ。しかし台湾は我が国と同じ海洋国家連合に所属し、協同して深海棲艦の侵入阻止をしている関係からEEZでの活動を認められていた。

 

 だが、隣国はそうではない。海洋国家連合にも所属しておらず、対深海棲艦に関しても、国際社会へは金銭的な支援をするに留めている。

 

 そのためSK諸島を含め我が国のEEZで活動する権利など、どこにもないのだが……

 

 隣国で大鉄塊が建造されているという情報が海軍総隊にもたらされる、その少し前。

 

 宮吉島に駐留する南方警備艦隊司令・海尾 守は、SK諸島海域で異変が起きているとの情報に接していた。

 

「ここ数日で違法操業の漁船が急増しているんです」

 

 同じ島に駐留している海上保安隊の庁舎の一画にある応接室。そこで保安署長が、深刻な顔で資料を差し示した。

 

「SK諸島海域周辺には漁業シーズンともなれば一日で二千隻以上の漁船が押し寄せますが、そこには常に違法漁船も紛れ込んでいます。その割合は例年では20パーセントから30パーセント程度なのですが」

 

「ということは五~六百隻ですか。結構、多いんですね」

 

 のんきに感心してしまった海尾だったが、隣に座る叢雲から脇腹を肘で小突かれた。

 

 しょうもないことで相手の言葉を遮るな、という秘書艦からの警告だ。向かいに座る保安署長の顔は真剣そのもので、海尾は慌てて居住まいを正した。

 

「失礼しました」

 

「いえ、構いません。実際、多いですよ。ですがこれでもマシな方です。今ではこの割合が倍増しています。日に千隻を超えているんですよ。一部海域にいたっては違法漁船に占拠されてしまった状態で、我が国の漁船が追い出されてしまう有様です」

 

「我が国の…ということは、その違法漁船の国籍は」

 

「隣国ですよ。国籍を示すものは何も掲げておりませんがね」

 

「それでは海賊だ」

 

「取り締まってはいるんですが、いかんせん数が多すぎる。もう保安隊の戦力だけでは限界ですよ。なので海軍にご助力いただきたくて、こうして司令さんと艦娘さんをお招きしたわけで」

 

 保安署長の言葉に、海尾は隣の叢雲と顔を見合わせた。

 

 保安署長とは、同じ島で同じ海を守る仲間として、こうして偶に顔を合わせて世間話をしているが、ここまで踏み込んだ話をするのは稀なことだ。

 

 まして協同作戦の提案となると、それは一介の提督の分限を超えている。

 

「ご助力したいのはやまやまですが、違法漁船の取り締まりは海軍の任務ではありません」

 

「海賊扱いならば?」

 

「ロケットランチャーや機関銃で武装し、他船を襲っているなら名分は立つかもしれませんが……」

 

「隣国は漁民も海軍の下部組織に組み入れているそうです。いわば海上民兵というやつですよ。違法漁船のうち数パーセントは重火器を隠し持っている可能性が高い」

 

「臨検でそれを発見できれば、海賊として立証できるかも……いや、それでは保安隊のリスクが高すぎる」

 

「そうです。現場の隊員に犠牲が出る可能性がある。犠牲が出れば海軍出動の大義名分ができますが、我々とてそんな事態は望んでいません。……必要なのは、相手に実力行使を躊躇わせる抑止力なんですよ。海軍が砲を撃つ必要はありません。ただSK諸島近辺を航行してその存在を誇示してくださればいいんです」

 

「協同任務ではなく、あくまでウチの訓練の一環として航行して欲しいというわけですか。しかしそれでも難しい案件ですよ、これは。SK諸島海域は三十数年前、我が国と隣国が戦争寸前になりかけた、その発端の場所だ。そこに軍艦を派遣するとなると、再び国際問題になりかねない」

 

「ええ、我々もそこは考慮していますよ。ですので既に、保安隊上層部から内閣府へ調整が始まっています。近日中にはそちらへも話が下りてくるかと」

 

 保安署長はそう言って、その顔に薄い笑みを浮かべた。

 

 その笑みを見て、海尾は肩の力を抜いた。

 

「なんだ、とっくに話は正式なルートで進んでいたんじゃないですか。それを先に言って下さいよ。お人が悪いんだから」

 

「いや失礼、ついつい悪戯心がでましてね。しかし国際問題を起こしかねない政治的案件というのはその通りですよ。なのでしばらくはオフレコでお願いします」

 

「了解しました。ですが先に教えてくださって感謝します。こちらも新しい出現海域の対応で戦力が手一杯でしてね。急に任務を増やされると対応できなくなってしまう。事前に調整しておきますので、そちらのご要望にお応えできると思いますよ」

 

「感謝します」

 

 保安隊庁舎から公用車での帰り道、運転席の叢雲がハンドルを握りながら言った。

 

「ちょっとリップサービスが過ぎたんじゃない? 今ウチは本来の担当海域とJ海域(新出現海域のこと。世界で二十番目に発見されたことからそう名付けられた)の哨戒で手一杯なのに、さらにSK諸島海域の哨戒なんて。三正面なんて無茶よ」

 

「俺も正直そう思うよ」海尾は助手席で答えた。「署長もあくまでリップサービスと分かっているさ。出せて駆逐艦一隻が限界ってところだな」

 

「戦闘するわけでもない単艦航海じゃ練度向上にもならないわ。私たち現場の艦娘にしたら時間の浪費も良いところね」

 

「訓練の体裁をとった抑止力の誇示だからな。必要と分かっているが、効果が判りづらいので現場は士気が下がる。こういう任務が一番厄介だ」

 

「他の子たちに押し付けるのも可哀想ね。私が行こうかしら」

 

 叢雲は面白くなさそうに一つため息を吐いたが、すぐに視線だけを海尾に向けて、冗談めかして言った。

 

「どうせなら一緒に来る?」

 

「それも悪くないな」

 

 叢雲の口癖を真似て答えると、彼女は軽く笑った。お互い冗談半分と分かっていた。司令と秘書艦が二人きりで訓練に出港できるほど、最近の警備艦隊は暇じゃなかった。

 

 だから、結局は叢雲一人に行ってもらうことになるだろうな。と内心で申し訳なく思いつつも、そんな腹積もりで居たところが、事態はさらに予想を超えて動き始めていた。

 

 保安署長との懇談から数日後、隣国は国際社会に向けて驚くべき見解を発表したのである。

 

 SK諸島における領有権の主張であった。

 

 実は隣国は、三十年以上前からずっとこのSK諸島の領有権を主張しており、それを認めない我が国と緊張関係にあった。実効支配をもくろむ隣国の海軍艦艇と、それをさせまいと目を光らせる我が海軍艦艇がSK諸島周辺海域でにらみ合う。そんな時代がずっと続いてきたのである。

 

 しかし約三十年前、深海棲艦が出現したことでSK諸島問題は棚上げとなり、今に至るまで大きな問題は生起してこなかった。

 

 それが、ここにきて突然の再主張である。

 

 その主張に呼応するかのように、SK諸島周辺に蔓延っていた大量の違法漁船群が、一斉に隣国の国旗を掲げ出した。

 

 そして隣国政府は、この漁船を深海棲艦から保護するという名目で、SK諸島海域へ三隻の軍艦を派遣したのである。

 

 この事態の急変を受けて、当初、訓練の名目で駆逐艦一隻のみを派出するはずだった命令が、正式な監視任務へと変更されることになった。

 

 また、隣国の派出艦艇が三隻であったことから、警備艦隊も三隻の駆逐艦を派遣するべしという命令へと変化してしまった。

 

「えらいことになった」

 

 海尾は命令の案文が届いたその日、右手で頭を抱えながら、左手で受話器を握りしめていた。

 

「これはあれか。こないだのイミテーション・ゼロ事件の意趣返しか?」

 

『関係していないとは言い切れないが、それが全てでも無いだろう』

 

 電話の相手は、参謀本部第五室の室長である海原 雄三だ。

 

『第五室に入ってくる情報は噂話の域を出ないが、あっちこっちの部署で“隣国は近々、大きなことを仕掛けて来るかもしれない”って囁かれているぜ』

 

「これはその前触れということか? 武力衝突にまで発展するかもと? 隣国の連中、深海棲艦を放置したまま我が国と戦争しようってのか」

 

『最悪その可能性もあるが、だが表立って戦争しようとは連中も思わんだろう。リスクが大きすぎるからな。それより裏から手を回してくる可能性の方が高い』

 

「どういうことだ?」

 

『深海棲艦をけしかけてくる可能性がある。イミテーション・ゼロ事件でも示唆されていたが、隣国が深海棲艦の動きに呼応しているのはもはや確かだ。それに連中、厄介な代物まで手に入れたらしい。――大鉄塊だよ』

 

「……嘘だろ」

 

『残念ながらこっちは噂話じゃない。現実だ。ついさっきコウメイが俺のオフィスに来て直接資料を置いて行った。後でコピー送ってやるよ。頭に叩き込んで置いたほうがいい』

 

「資料に興味はあるが、叩き込む必要があるのか。……ああ、畜生、あんたが次に何を言うのか予想がついちまった。やめろ、よせ、俺はこれ以上なにも聞きたくない」

 

『察しがいいな。だが現実逃避しても何一つ解決しないぞ。諦めろ。大鉄塊がお前さんの担当海域へ進出する可能性が大だ。それもSK諸島ではなく、J海域の方へな』

 

「カオスだな。隣国は何を考えているんだ」

 

『わからん。しかし参謀本部はもうそれを前提にして作戦計画を立案している。そのためコウメイはJ海域での調査作戦を繰り上げるつもりだ。二水戦で大鉄塊に対処しようって腹積もりだな』

 

「精鋭の二水戦といえ、相手はあの大鉄塊だぞ。水雷戦隊でどうにかなるのか?」

 

『がんばれよ』

 

「ウチか!? 結局ウチの艦娘が主力になると、そういうことか!?」

 

『コウメイ、お前さんのことをずいぶん信頼してるようだぜ。初霜事件とイミテーション・ゼロ事件、この二つを首尾よく収めた手腕が評価されているらしい。今回もきっと期待されてるぜ』

 

「余計なお世話だ。まったく」

 

 会話はそれで終わり。海尾は事前情報をくれたことに感謝を述べて電話を切った。

 

 その後、海原からの情報通り、参謀本部からJ海域調査計画の前倒しと“大鉄塊の進出を前提とした”作戦の変更が正式に伝達され、海尾は再び顔をしかめたのだった。

 

 

 

 

 

 それから一週間後、SK諸島海域の洋上には三隻の駆逐艦が航行していた。

 

 南方警備艦隊・第一艦隊・第二十一駆逐隊である。

 

「ひっでぇ光景だなぁ、おい!!」

 

 夕雲型駆逐艦・朝霜は、艦橋から見える周囲の様子に、呆れと憤りが混じった声を上げた。

 

 今、朝霜の船体の周辺の海上は、数百隻の漁船で見渡す限り埋め尽くされていた。肉眼のみならずレーダーで確認しても、周囲20海里に渡って小型船が海を占拠している様子が映っていた。

 

 上空を定期的に飛行している哨戒機からの情報によると、そのさらに数倍にも渡る海域にまで大量の漁船が存在しているらしい。

 

 そのほとんどが隣国の漁船だった。我が国や台湾の漁船は、ここ数日で急増した隣国漁船の数の暴力の前にほぼ追い出されてしまっていた。

 

 しかし、いくら数が多いとはいえ非武装の漁船だけで簡単に漁場が占拠できるわけではない。

 

 我が国の漁船がSK諸島海域から追い出された大きな理由。その正体が、朝霜の視線の先に存在していた。

 

 全長150メートル、15センチ速射砲一基搭載、その他最新鋭の装備を多数備えた、ステルス性を意識した未来的なデザインの、微かに緑がかった薄いブルーの船体。

 

 隣国海軍の最新式フリゲートが、朝霜から約3海里離れた場所を低速で航行していた。

 

 漁民保護を目的として隣国が派遣した三隻の内の一隻だ。他の二隻も散開し、それぞれ離れた場所で遊弋している。

 

 この三隻の目的は深海棲艦から漁民を保護する為ということになっているが、隣国政府は海洋国家連合に属することなく独自で対処すると表明しており、我が国との協力を一切求めてこなかった。それに加えてSK諸島の領有権の再主張である。

 

 このフリゲートが漁民保護を口実に、SK諸島の領海内での行動を既成事実化しようと目論んでいることは、もはや明白であった。

 

 今のところはSK諸島から50海里以上離れたところを低速でうろついているだけだが、いつなんどき領海へ侵入を図るか分からない。

 

 そのため二十一駆逐隊はそれぞれ一隻ずつ、隣国フリゲートに着かず離れずの距離で追尾・監視していた。

 

 我が国から見れば、周囲の漁船の操業は違法であり、それを支援する隣国海軍艦艇も同罪だ。ならば国際法を盾に追い出せそうなものだが、そうはいかない。

 

 隣国はこれを国際法上、合法だと主張しているからだ。“歴史上、領有権をずっと主張しているから、ここは我々の主権が及ぶ領海だ”という、きわめて強引な理屈だが、しかしそれはそれで一応の筋は通ってしまうのだ。例えそれがプロパガンダに過ぎなくても、だ。

 

 法律は強制力が伴って初めて意味を持つ。法を犯せば司法機関によって罰が与えられる。この原則があるからこそ、皆法律を守るのだ。しかし国際法にはそれが無い。法はあれど、それを守らせる強制力を持った司法機関が存在しないのだ。

 

 したがって国際法は、各国それぞれが法を解釈し、相手を説得して守らせることになる。極論を言えば“言い張った者勝ち”でしかない。双方ともに国際法を大義名分に掲げた以上、強硬手段を取ればその行き着く先は戦争しかないのである。

 

 なので、朝霜は傍若無人に海域を荒らす違法漁船を前に監視することしかできず、忸怩たる思いを抱えていた。

 

「なあ」朝霜は艦橋で独り、声を荒げた。「もし今ここに深海棲艦が来たら、お前らどうする?」

 

『どうもこうも無いわ。いつも通りに決まってるじゃない』

 

 艦橋内で別の声が答えた。朝霜が艦橋の一画に目を向けると、そこにアイコンドール(三頭身にディフォルメされた艦娘の3Dモデル)が投影されていた。

 

 右側に結われたサイドポニーテールに、少しきつめの表情。二十一駆の旗艦である朝潮型駆逐艦・霞だ。離れた場所に居るが、秘匿回線を使って通信はできる。

 

 霞は言った。

 

『深海棲艦は見敵必殺、どんなときでもこの方針が最優先されるのは変わらないわ。違法漁船とかフリゲートとかなんて、その時は無視しなさい』

 

「無視ねえ。できるものならやってるよ。でもなぁ……っ!!」

 

 朝霜は言葉を切ると、即座に「取り舵いっぱい!」と号令を発し、船体を左へ急速回頭させた。

 

 左側に振れた艦首すれすれに、仕掛け網を伴ったブイが行き過ぎていく。

 

「ところかまわず網を仕掛けやがって、ふざけろっ!!」

 

 漁網というのはかなり頑丈だ。それがスクリューに絡まってしまうと、いかに大馬力の艦艇といえど行動不能になってしまう恐れがあった。

 

 朝霜は回頭直前、自分の船体の前方を横切って行った漁船がブイを投入したのを見ていた。漁をするため、というより、朝霜の進路を妨害するためにわざと網を流したとしか思えなかった。

 

「畜生、あいつら手当たり次第に網を流しやがる。こんなところで戦えだって!? 冗談じゃねえや。こんなの機雷原でタップダンス踊るのと変わらねえよ!」

 

『でしたら、敵を別の海域へ誘引するしかありませんね』

 

 そう答えたのは、霞の隣に投影された、長い黒髪のアイコンドールだった。

 

『私たち三隻が囮になってここよりもっと東へおびき寄せることができれば、周りの漁船も巻き添えにすることなく戦え――』

 

「馬鹿なこと言ってんじゃねぇよ、初霜』

 

 朝霜は冷たい口調で僚艦である初春型駆逐艦・初霜の言葉を遮った。

 

「漁船の巻き添えなんかどうだっていいんだよ。そいつを気にするのはあのフリゲートの仕事だぜ。むしろ便乗してアタイたちの足を引っ張りかねないぜ。だからよ、深海棲艦が出たらいったん撤退して、十分に距離をとった後から余裕をもってSSSM(Surface to Ssurface and Submarine Missile)をぶち込む。これが一番だろ」

 

『違法漁船だからと言って、見殺しにはできないわ』

 

 初霜は臆することなく反論してきた。

 

『深海棲艦は人類共通の敵として位置づけられているわ。その敵が船を襲っているのに撤退したなら、却って隣国に人権問題で口実を与えかねない。深海棲艦を前にする以上、人命救助を最優先にすべきだと私は思うの』

 

「もっともらしいこと言ってんじゃねーよ。初霜、それはお前の個人的な信念でしかないんだぜ。それに助けようが見殺しにしようが、あの隣国のこった、どっちにしろ国際問題化するに決まってるんだ。だったら余計なことはしたくないね」

 

『私の信念なのは認めるわ。だから、朝霜に無理強いはしない。あなたの足は引っ張らないから安心して頂戴。いざとなったら私を捨てて逃げていいわ』

 

「独りで勝手にやるってか。頑固者」

 

『二人とも、いい加減にしなさい!』霞が割り込む。『初霜、独断専行なんて絶対に許さないからね。これは旗艦としての命令よ。いいわね!』

 

『もちろんよ、霞、私はあなたに従うわ』

 

 初霜のアイコンドールが、安心してほしいとでも言うようにニッコリと笑った。対して霞のアイコンドールはきつい表情のままだ。

 

 初霜は腹の底が読めない艦娘だ。

 

 いや、その思考の根底にあるのは“人の命を守りたい”という単純かつ極めて強固な思想だが、それをやり遂げるために何をしでかすか分からないという危うさを秘めている。朝霜はそう思っていた。

 

 それは霞もまた同じである。その霞のアイコンドールの顔が、朝霜に向けられた。

 

『朝霜、あんたも余計な言葉が多すぎるわ。ここで感情的になるのはやめなさい。愚痴をこぼしたいなら、帰投した後でいくらでも付き合ってあげるから』

 

 ため息混じりの、霞の声。旗艦の気苦労を察して、朝霜は矛を収めることにした。

 

「愚痴に付き合ってくれるなんて嬉しいね、ありがとな。さすが霞ママは優しいね」

 

『誰がママよ。それやめてったら!』

 

「なら、かーちゃんって呼ぶか。霞の“か”に、ちゃん付けしてるだけだぜ。誤解すんなよ」

 

『うるさい、却下よ!』

 

『そうね』初霜も頷く。『ちゃん付けは駄目よ。さん付けにして尊厳を込めて“お”も付けましょう』

 

「つまり“おかーさん”だな」

 

『そういう問題じゃない!』

 

 ふふ、と初霜のアイコンドールから笑い声が漏れ聞こえた。その隣で霞がため息を漏らす。

 

 少し前まで漂っていた苛立ち混じりの剣呑な空気はすっかり無くなり、三人は気の置けない気さくな関係に戻っていた。

 

 それから少し間をおいて、サポートAIが友軍からの通信が入ったことを告げた。

 

 南西警備艦隊に所属する駆逐隊がこの海域に到着したらしい。隣国フリゲートへの追尾・監視任務を二十一駆から引き継ぐための部隊だった。

 

 旗艦である霞が代表して通信を行い、現在の状況を申し継ぐ。

 

 それから約二十分後、それぞれの現場に到着した友軍艦艇と入れ替わる形で、第二十一駆逐隊は母港である宮吉島へ針路を取った。

 

『さ、二人とも、急いで島へ帰るわよ。私たちには次の任務が待っているんだから』

 

「三日後から二水戦との共同作戦か。休む暇もありゃしねえな」

 

『秘密部隊である二水戦、どんな方たちが来るのか楽しみね』

 

 三隻は合流すると単縦陣となって漁船の間を縫うように母港へ向かう。

 

 南の海の空は、台風が近づいてくることなど嘘のように、奇妙なくらいに晴れ渡っていた……

 

 

 

 

 

 

 宮吉島はリゾート地としても有名な島である。

 

 深海棲艦により海路は不安定となったが、観光客は主に航空機を好んだので、深海棲艦との戦いでアドバンテージを取れるようになった今の時代、観光業もかつての活気をほぼ取り戻していた。

 

 そもそも宮吉島には大型機が離着陸できる「宮吉島中央空港」の他に、隣接する二つの小島にも小型機用の空港があった。しかもその島々と宮吉島本島は橋で繋がっており、実質、三つの空港を有している状態である。

 

 そのため本土から遠く離れた南端の島であるにも拘わらず、夏ごろになると多くの観光客を乗せた旅客機がひっきりなしに発着し、賑わいを見せていた。

 

 今、宮吉島はそんなリゾートシーズンの真っただ中にある。

 

 しかし赤道付近で発達を始めた台風の影響から、空には黒い雲がところどころに浮かび、海上の波もいつもよりかはやや荒い。

 

 そのため、各ビーチでは遊泳禁止の達しが出され、サンゴでできた白い砂浜が広がる海岸には、まばらな人影しか見当たらなかった。

 

 時刻は夕暮れ。

 

 普段なら水平線に沈む美しい夕陽を満喫できる西側のビーチも、今日は黒い雲と荒い海面のせいで、十数人の若者で構成されたグループを除いて他には誰も居なかった。

 

 というか、そもそもこのビーチは立ち入り禁止の場所であった。

 

 今日のように波の高い日は海難の危険もあって、地元民でさえ近寄らない場所である。もちろん立入禁止の看板もあるし、浜へ通じる道は車止めとロープで塞がれていた。

 

 しかしこうして、向こう見ずな観光客がロープを潜って立ち入ってしまう事例は後を絶たなかった。

 

 若く日焼けした男たち十人と、同じく若い女がこちらは七人。

 

 恐れ知らずで向こう見ずな彼ら彼女らは、注意に訪れた地元民に嘲笑とビールの空き缶を投げつけて追い返すと、荒れて高くなった波でサーフィンを楽しみ、砂浜では思う存分バーベキューを繰り広げ、陽も落ち切らないうちから大量の花火を空と海と砂浜にばら撒いた。

 

 彼らの心には枷などない。南国の解放感にひたり、モラルも常識も全てかなぐり捨てて楽しみ尽くすのが彼らの望みであり、正義だった。

 

 度を越したアルコールと薬物が、彼らの高揚感を歯止めが利かないレベルにまで押し上げていた。

 

 日が暮れ、闇が辺りを染め始めた頃、誰かがゴミの山に火を点けた。他の数人が面白がって更にゴミや酒を投げ込み、その火を巨大な炎にまで煽り立てた。

 

 持ち込んだタブレットに接続されたステレオとウーハーが大音量で地獄の狂乱めいた音楽をがなり立てる中、激しく燃え盛る炎の周りで、男たちと女たちは服を脱ぎ捨て乱痴気騒ぎに耽っていた。

 

 しかし男十人に対して女は七人。あぶれた三人の男たちがアルコールで薬物をキメながら自分たちの順番を待っていた時、そのうちの一人が、海から上がってきた一人の人影を見つけた。

 

「おほ?」

 

 女だった。それを見た男のアッパー系薬物の摂取で開いた瞳孔が、さらに大きくなった。

 

 それもそのはず、その女は全裸だった。それも身震いするほど美しいスタイルの女が、水着さえも付けずにその身体を惜しげもなく晒しながら、波間から現れて砂浜をこちらへ向かって歩いてきたのだ。

 

 見つけた男は、この乱痴気パーティーに参加していた女の一人がたまらずに海に飛び込んだのかとも思ったが、すぐに別人であることに気が付いた。

 

 暗い海面を背景に、浜の焚火に照らし上げられた女の素肌は抜けるように白く、そしてその長い髪は目がくらむような銀色をしている。さらに息を呑むほどの美貌にはサファイアの如き深紅の瞳が怪しげな光を湛えながら、男たちを眺めていた。

 

 そのあまりの美しさに、目が合った男は息をすることも忘れ、手にしていたビール缶を取り落とした。

 

 落としたビール缶の中身が噴き出し、すぐ隣に居た別の男の足にかかった。

 

「冷てぇっ! おい、なにやって――」

 

 その男もまた美女の存在に気が付き、言葉を切った。いや、失ったというべきか。二人の男はそろって目を蕩けさせ、口を半開きにした状態で呆けたようにその場に立ち尽くした。

 

 美女がうっすらと笑みを浮かべながら二人の男の目の前まで歩み寄る。その裸身が近づいてくる間、男たちは金縛りにあったように身動き一つ取れなかった。目さえも逸らすことができなかった。

 

 それどころか男たちの目は血走り、半開きの口からは荒い呼吸とともに大量の涎が零れ落ちている。

 

 男たちは完全に正気を失っていた。アルコールと薬物と、そして激しい炎と音楽が男たちをトランス状態に陥れていた。

 

 しかし男たちを狂わせた決定的な要因は、この目の前の美女だった。

 

 美女は野獣のような形相で立ち尽くす二人の男の前で立ち止まると、その口を開いた。

 

「ねえ、私、初霜を探しているんだけど、知らない?」

 

 男たちの狂相など気づいていないような素振りで、あどけなさすら感じさせる表情で、そして何より耳の奥から脳髄を溶かすような声で、美女は問いかけた。

 

 それが男たちのなけなしの理性を完全に破壊した。

 

 二人の男が、下半身から突き上がる凶暴な獣欲のままに女に飛び掛かった。男たちの手が、美女の柔らかな身体を乱暴に掴み、力任せに爪を立てる。

 

「「ぐぇおおおおっ!?!?」」

 

 波音響く夜の海岸を圧するような激しい悲鳴が辺り一帯に響き渡った。

 

 襲われた美女の悲鳴? いや違う、それは男たちの悲鳴だった。

 

 およそ今まで聞いたことが無いような不快な悲鳴に、焚火の周囲でそれぞれ行為に及んでいた他の男女たちが一斉に動きを止め、悲鳴が上がった方向を向いた。

 

 彼ら彼女たちが目にしたのは、悠然とたたずむ全裸の美女と、そしてその足元で背中を丸めてうずくまる二人の男の姿だった。

 

 男たちは顔面を砂浜に突っ伏し、両手で己の股間を押さえながら激しく身を震わせていた。

 

「あ、あひっ…ひっ…!?」

 

 男たちが短く甲高い声を上げて震えるたびに、押さえた股間から白い粘液が零れ落ち、周囲に異様な匂いを漂わせた。

 

「あら、そんなつもりはなかったのに」

 

 美女は呆れたように男たちを見下ろしながら言った。

 

「遺伝子情報はもういらないのよ。私が欲しいのは言語情報。ねえ、聞いてる? 初霜よ、初霜。その居場所を聞きたいの」

 

 美女はしゃがみ込んで、足元に突っ伏している男の髪をつかんで無理やり顔を上げさせた。

 

「ひっ!?」

 

 男は、しゃがんだ格好の美女を目の当たりにした瞬間、そのあまりにも煽情的な光景に耐え切れず、口から泡を噴いて卒倒した。

 

「駄目ね、まるでお話にならないわ」

 

 美女は男から手を離すと、立ち上がって辺りを見渡した。

 

 砂浜で呆けたように座り込んだ男女の中で、一人だけ、立ち尽くしたままの男がいた。

 

 最初にあぶれていた三人の内の一人だった。

 

 先に襲い掛かった二人に対し、少し離れた場所に居たせいで出遅れただけなのだが、今、砂浜に蹲る二人の男の有様を目撃したことで、怯えと、しかしそれでも抑えがたい性衝動に挟まれて、動くことも倒れることもできずに立ち尽くしていたのだ。

 

 その男に対し、美女が、

 

「いらっしゃい」

 

 と手招きしたことで、男の中で均衡が崩れた。男が夢遊病者のような足取りで美女に近づき、その身体に触れようとして両手を前に突き出した。

 

 美女はその手を邪険に振り払うと、片手で男の喉元を無造作に掴み、締め上げた。

 

「くぇっ!?」

 

「これから同じ質問するから、ちゃんと答えなさい。…ああ、別にもう言葉で答えなくてもいいわ。思い浮かべるだけでいいの。大丈夫? 私の言葉、理解できる?」

 

 男は喉を締め上げられ喘ぎながらも、微かに首を縦に振った。

 

「そう、いい子ね。じゃあ、初霜はどこ? 艦娘の初霜、駆逐艦・初霜よ」

 

 男は窒息寸前で喘ぎながら必死に首を横に振ろうとした。しかし、美女の腕力と握力が強すぎて身動き一つできなかった。

 

「初霜はどこ?」

 

 美女は繰り返し問いかけながら、男を引き寄せ、空いたもう一方の手の人差し指を男の額に突き付けた。

 

「初霜……」

 

 ずぶずぶと鈍い音を立てながら、女の人差し指が、まるで豆腐に指を立てるかのような容易さで、男の額に突き刺さっていく。

 

 そのまま第三関節まで埋め込んでしまうと、美女は何かを探るように指で中身をかき回した。

 

「嫌だわ、この個体ったら、中身は空っぽ同然ね」

 

 美女は指を引き抜き、そこについていた液体を振り払いながら、喉を掴んでいた方の掌に力を込めた。

 

 枯れ枝が折れるような音が響き、男の息の根が止まった。

 

 美女はそのまま片手で、死体を海に向かって投げ捨てた。成人男性の身体が、まるで小石のように高く遠く宙を舞い、暗い海の波間に微かな水音を残して消えた。

 

「他に知っていそうな個体は……どれも無駄そうね」

 

 美女はため息を吐きながら、その場を後にしようとした。が、少しして足を止め、再び引き返す。

 

「コレなんか良さそうね」

 

 浜に脱ぎ捨てられていた女たちの衣服から白のワンピースを拾い上げると、美女は、心神喪失状態で座り込む男女たちを残し、島の内陸へと歩き去って行ったのだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 島中心部に位置する宮吉島中央空港に降り立った二水戦司令・郷海 隼人と、その秘書艦である軽巡・神通、そして雪風たち以下六人の艦娘たちを、南国の強い日差しが出迎えた。

 

 もうすぐ夏も盛りを迎えようとする頃であった。天気予報によれば最高気温は三十度を超えるそうだが、湿度の高い本土と違って、南の島特有のからりと乾いた風が心地よく吹き抜けていく。

 

 ここまで乗ってきた旅客機の機内は少し冷房が効きすぎていたこともあって、雪風はその温度差に少し気分が悪くなってきていた。

 

「これでも、いつもより湿気ているほうでね」

 

 空港ロビーで待っていた艦娘、航空戦艦・日向はそう言いながら二水戦をエントランスへと案内した。

 

「台風が近づいていることもあって風も強くなりつつある。ここしばらく、ウチの担当海域一帯は荒れっぱなしになりそうだ。――郷海大佐はこちらの公用車へどうぞ」

 

「ごわす」

 

 郷海は指揮官用の黒塗りセダンに案内され、日向が同乗する。

神通と雪風たちは、もう一人いた迎えの艦娘に、マイクロバスへと案内された。

 

「軽巡・五十鈴よ。今回の作戦であなた達の二水戦のバックアップを担当するわ。よろしくね」

 

「秘書艦の神通です。こちらこそよろしくお願いします。ところで、今回はバックアップの他にも、三隻の駆逐艦が私たちと一緒に前線へ出るとお聞きしましたが?」

 

「ああ、ウチの二十一駆ね。優秀な子たちよ。あなた達とは比べられないと思うけど、少なくとも足を引っ張るような真似はしないわ」

 

「……私たちは、そんな褒められた部隊じゃありませんよ」

 

 謙遜、というには幾分か暗い影をまとった神通の物言いだった。五十鈴はそのニュアンスに気づき微かに眉を動かしたが、気にする素振りを見せないようにして彼女たちをマイクロバスの車内へと案内した。

 

 車内もやはり冷房がかなり効いていた。少し汗ばんだ身体がまた急速に冷やされて、雪風は微かに身震いした。

 

 北国の人間は内地よりも強めに暖房をかけるので却って寒さに耐性が無いと聞いたことはあるが、南国はその逆で暑さに耐性が無いのだろうか。と、雪風は思いながら鳥肌が浮いた二の腕を手で軽くこすった。

 

 そんな雪風の様子に、隣に座った初風が気づいた。

 

「ユキ、どうしたの?」

 

「ちょっと冷房がきつくて」

 

「そう? こんなものじゃない?」

 

「えぇー……」

 

 初風だけじゃなく、磯風たちも平気な顔をしていた。どうやら寒がりは雪風ひとりだったようだ。

 

 普段から冷房慣れしていないだけに、こうコロコロと温度が変わると気持ちも身体も追いつかない。そんな雪風の内心をよそにマイクロバスは鎮守府へ向けて走り出した。

 

 窓の外に目を向けると、そこには夏の強い陽射しを浴びてサトウキビ畑が一面に鮮やかな緑の海となって拡がっていた。その広大なサトウキビ畑の上をヴェールのようなすじ雲が通り過ぎていく。

 

 そのサトウキビ畑の地平線にフェンスに囲まれた赤レンガ調の建物が見えてきた。目的地の鎮守府だ。鎮守府に近づくとその向こうに鮮やかなエメラルドグリーンの海が真っ青な空と接している光景も見えてきた。

 

 雪風はその景色を目にして、ようやく南の島へ来たのだという実感が湧いてきた。なんと美しい海と空だろうか。内地沿岸の暗い海とくすんだ空とは大違いだ。

 

 隣の初風が、任務以外でここに来たかったわ。と、呟いた。

 

「いつかまた遊びに来たいわね。ね、ユキ」

 

 その言葉に、雪風は一瞬、答えに窮した。いつか、という不確かな願望を抱くのは苦手だった。

 

 結局、少しだけ間をおいて曖昧に頷くに留めた。

 

 司令用の公用車と、雪風たちを乗せたマイクロバスが鎮守府へ到着し、二水戦一同は地下の司令部施設へと案内された。

 

「南方警備艦隊司令・海尾 守です。郷海大佐、お久しぶりです」

 

「国防省ビルでん会合以来じゃ。こちらこそよろしゅうお世話になりもうそ」

 

「秘書艦の駆逐艦・叢雲です。早速ですけど変更点などの打ち合わせを行いたいのですが、よろしくて?」

 

「秘書艦・神通です。そうしていただけると助かります。参加範囲は全員ですか?」

 

「とりあえず司令と秘書艦だけで十分よ。他の方はそちらの自由にして頂いて構わないわ」

 

「ありがとうございます。では……」

 

 神通が郷海に視線を向けると、郷海は黙ったまま頷いた。それだけで神通に意図は十分伝わったようで、神通は今度は最先任者である雪風に顔を向けた。

 

「司令から許可を頂きましたので、あなた方については上陸を許可します。明日、0800にこの司令部に再度集合すること。よろしいですね」

 

「了解しました。上陸許可ありがとうございます」

 

 上陸とは船から陸へ上がること、転じて外出を意味する海軍用語だ。

 

 海尾と郷海の両司令がそれぞれの秘書艦とともに司令室へ消えて行ったのを見送った雪風たちは、その場で顔を見合わせた。

 

「上陸許可をもらったけど、解散する前にここの艦娘さんたちに挨拶しようと思うの。いい?」

 

 雪風の提案に、皆同意した。というわけで早速ガンルーム(艦娘待機室)を訪問したのだが、

 

「失礼します。二水戦・雪風、他五名、入ります……って、あれ?」

 

「すまないな、今は私たちしか居ないんだ」

 

 広いガンルームに居たのは、雪風たちを案内してくれた日向と五十鈴の二人だけだった。

 

 日向が苦笑を浮かべながら説明する。

 

「今、ウチの半分は哨戒任務に出てしまっているのと、そしてもう半分も、今夜、那珂がやるコンサートの後方支援に出払っていてな。こうして暇しているのは私たちぐらいだ」

 

 それに対して初風が「二十一駆はどうされたんですか?」と訊いた。

 

「二水戦の指揮下に加わると聞いていたから、せめて挨拶でもと思ってたのに」

 

「あの子たちも哨戒中よ」と、五十鈴がため息混じりに答えた。「急にSK諸島海域での監視任務も加えられたからね。作戦間近でも出さざるを得なかったのよ」

 

「だが」と、日向が続ける。「今日で他の警備艦隊と交代して帰還する予定だ。確か、後一時間もしない内に帰ってくるはずだが、どうする?」

 

「でしたら……」

 

 雪風は一度、仲間たちに目を向けた。目が合うと、彼女たちは皆軽く頷いて同意を示した。

 

 雪風は日向に向き直って言った。

 

「……せっかくなので、待たせてもらっても良いですか?」

 

「ああ、ゆっくり寛ぐといい。コーヒーとお茶はそこの棚にある。中央のテーブルにあるお菓子も好きに食べてくれ。…そうだ、五十鈴、例のアイスもたくさん余っていただろう」

 

「え、日向さん、あれお客さんにお出しするの? 私あれ苦手なんだけど」

 

「今のところ賛否半々だからな。美味しいかどうかは人それぞれだ」

 

「はいはい」

 

 五十鈴がガンルームの片隅にある大型冷蔵庫から、大きめのビニール袋を取り出して戻ってきた。

 

 袋からお出しされたのはカップ容器に入ったアイスクリームだった。それをテーブルに並べながら五十鈴が言った。

 

「宮吉島特産品のモズクを使ったアイスクリームよ。ご当地スイーツとして売り出そうと目論んでるみたいだけど、私は正直、ちょっと……」

 

 言い淀んだ五十鈴に代わって、日向が言った。

 

「好みは分かれるが、私は悪くないと思う。那珂が地元ローカルテレビの番組にゲスト出演したときに試供品を貰ってきてね。たくさんあるから、もし気に入ったなら遠慮せずに好きなだけ食べてくれ」

 

「いや、無理しなくてもいいわよ」と五十鈴。

 

 果たしてどうなのやら。

 

 雪風が恐る恐るフタを開けてみると、濃いモスグリーンのアイスが現れた。その表面に黒く短いひも状のモズクがいくつか見え隠れしている。カップを手にもって匂いを嗅ぐと、微かなお酢の香りが鼻腔をくすぐった。

 

 これは……どう考えても見えている機雷だ。

 

「ねえユキ、私これ無理だわ」

 

「谷風さんも、モズクは好きだけど、流石にこいつはねえ…」

 

「う、ウチもお酢の匂いがするアイスは、ちいと遠慮したいけえ」

 

 初風と谷風と浦風が早々に脱落した。

 

 そんな仲間の様子に、磯風が不敵な笑みを漏らした。

 

「ふっ…食わず嫌いとは情けない者たちだ。何事も挑んでみなければわかるまい」

 

「そうです」と、谷風も真面目な顔で頷いた。「それにせっかくお出しされたものを突き返すのも失礼でしょう。ここは潔くいただくのが礼儀というもの」

 

 そう言って、磯風と浜風の二人は躊躇なくアイスにスプーンを突き立てて口に運んだ。

 

「………」

 

「………」

 

 そのまま、二人の動きが止まった。その顔を覗き込むようにして、浦風が問いかけた。

 

「二人とも、味はどがいな感じや?」

 

「……磯の風味が、こう、口の中に広がってだな、うん、うーむ」

 

「浜辺の匂いと、酸っぱさと、甘さが、なんとも言えませんね…」

 

 磯風と浜風はそれ以上は何も言わずに、微妙な表情のままモズクアイスを黙々と口に運び続けた。

 

 そんな反応を目の当たりにして、雪風は、さてどうするかと少し悩んだ。味はあまり期待できそうにないが、かといって出されたものを無駄にするのも勿体無い。

 

 短い葛藤の末に結局、染み付いた貧乏性が勝って雪風はスプーンをアイスに突き立てた。少なくとも食えない味ではないだろう、と期待値を最低にまで落とした上で口に入れたアイスの味は、思ったよりも悪くなかった。

 

「あれ?……意外とイケる」

 

「ユキ…それ本気で言ってる?」

 

 ドン引きしている初風に、雪風は二口目を味わいながら言った。

 

「お酢の酸っぱさが甘さを引き立ててるし、口の中にモズク特有の海っぽい香りが広がる感じが、なんか、いいかも」

 

 雪風の反応に、日向が腕組みをして鷹揚に頷いていた。

 

「まあ、そうなるな」

 

「ならないと思うわ」

 

 と、げんなり顔の五十鈴。

 

 そんな中、雪風は自分の分のアイスをするりと食べきってしまった。

 

 日向がそれを見てニッコリとほほ笑んだ。

 

「気に入ってくれたようでなによりだ」

 

「慣れると美味しいですね。いくらでもいけちゃいそうです」

 

「そうかそうか。お代わりもあるぞ。遠慮せずにいっぱい食べてくれ」

 

「はいっ、ありがとうございます!」

 

 雪風が表情を輝かせながら二つ目を空にし、そして三つ目のアイスを食べ終えたころ、司令室の扉が開いて、そこから秘書艦の叢雲が顔をのぞかせた。

 

「日向、ちょっといい?」

 

「うむ」

 

 歩み寄った日向に叢雲は軽く耳打ちすると、また司令室に姿を消した。日向が振り返り、告げた。

 

「今、帰投中の二十一駆から連絡があったそうだ。台風の影響で波が高く、速度が上がらないらしい。このままだと更に一時間くらい遅れてしまうそうだ」

 

「あー、そうなんですか。大変ですね」

 

「君たちもこれ以上待っていては、せっかくの上陸時間が勿体無かろう。顔合わせは明日でもできる。今日はもう上がるといい」

 

「お気遣いありがとうございます。そういうことでしたら、今日はこれで失礼させていただきます」

 

「そうそう、重要なことを忘れていた。君たち二水戦の滞在先だ」

 

 日向はそう言いながら、鍵を六つ、手渡してくれた。

 

「寮の鍵だ。鎮守府を出てすぐのところにある。しかし申し訳ないが、今日は水道管の検査があって夕方まで断水することになっててな。それまでの間、シャワーなどが使いたければ鎮守府の浴室を使ってくれ」

 

「よかったら那珂のコンサートも観てやってくれないかしら」と五十鈴。「あの子、今日は二水戦が来るからっていつも以上に張り切っちゃってね。時間は1900から、入場は無料よ」

 

 五十鈴からコンサートのチラシも受け取り、雪風たちは礼を言ってガンルームを後にした。

 

 冷房の効いた地下から、再び日差しの強い地上へ出て寮へと向かう道すがら、皆で自由時間をどう過ごすか話し合う。

 

 とりあえず那珂のコンサートを観に行くことは満場一致で決まったものの、まだ昼近くということもあって時間はたっぷり余っていた。

 

「買い物にでも行くわ。いいでしょ、ユキ」

 

 初風から同意を求められて、雪風は「あ…うん」と頷いた。そもそも初めから雪風の同意など求めてないような言葉だったが、特に逆らう気も起きなかった。こういうプライベートにおける主導権は常に初風にあるのだ。

 

 というより、雪風が丸投げしている、という風に周囲からは思われていた。面倒くさがりな夫を引っ張る妻、そんな夫婦のような二人の様子を見て、他の四人は密かに苦笑した。

 

 磯風が言った。

 

「我々も各自それぞれで好きにやるさ。コンサート会場で落ち合おう」

 

 話はそれで決まり、磯風、浦風、浜風、谷風の四人は、正門を出てすぐにタクシーを拾って街へと繰り出して行ってしまった。

 

 初風も同じようにタクシーを呼び留めようとしたが、

 

「あのさ、その前に寮に寄ってもいいかな」

 

「どうして? 置くような荷物なんか持ってきてないでしょ?」

 

「いやちょっと…ね…」

 

 ごろり、と低く重い音が微かに鳴った。

 

「あら、雷?」

 

「…えと、アイス…食べ過ぎたみたい……」

 

 雪風は自分の腹を両手で押さえていた。その手の下でまた、ごろり、と遠雷が鳴り、嵐の予感に、雪風は冷や汗を浮かべたのだった。

 

 

 

 

 

 

 水斗 慧爾(みなと けいじ)が実家の配管修理会社に入社したのは、義務教育を終えてからすぐのことだ。社会人として四年が経ち、今年で十九才になる。

 

 高等学校へは進学しなかったが、これは今の時代、さして珍しいことでもなかった。実際、慧爾の同世代の知り合いでも、高校以上に進学している者は数える程度しか居ない。

 

 少子高齢化が深刻化し、人口が毎年減り続けている現在、若い労働者の確保は切実な社会問題となっており、義務教育修了者に対するリクルートが活発化していた。

 

 艦娘の適合年齢もちょうどそれくらいであったことから、深海棲艦への脅威に対抗するために国家を挙げてその風潮が後押しされ、結果、教育体系が大幅に変更・効率化され、今では高校・大学へ進学するのは専門性の高い研究職・技術職を目指す一部の者だけとなっていた。

 

 そうやって進学する者たちは一般的にスーパーエリートと呼ばれたが、かといって特権階級なのかといえば、そうでもなかった。

 

 進学する者は大した奴だが、それはそれとして、手に職付けて世間で働いてこそ一人前。そんな、ある意味で真っ当な認識が社会では根付くようになっていた。

 

 慧爾も、今の配管工という仕事を気に入っていた。よく“きつい、汚い、危険”の三拍子そろった3K職場と言われるが、実家の稼業でもあるし、それに割と高収入だ。そして何より、社会のインフラを支える重要な仕事だという自負もある。

 

 仕事にも慣れ始め、現場でもある程度は自分の裁量に任されることも多くなり、慧爾にとっては仕事に張り合いを感じ始めた時期でもあった。

 

 慧爾の主な仕事は、給水設備の整備、つまり水道関係だ。慧爾の勤める会社、つまり彼の実家は軍関係の仕事も受注しており、半年ほど前に鎮守府が空襲を受けた時も、その復旧工事に参加していた。

 

 今日はその復旧工事のせいで後回しになっていた海軍寮の給水設備点検の日だ。

 

 慧爾は鎮守府近くにあるアパートメント式の寮につくと、さっそく建物の前にあるマンホールの蓋を開ける作業に取り掛かった。

 

 マンホールの蓋は鋳鉄製で、その重量は約40キロもある。到底、素手で開けられるものではないので、マンホールフックという道具を使用する。

 

 といってもそんな複雑な道具ではない。先端がかぎ状に曲がっただけの棒だ。それを二本、それぞれ両手にもち、先端を蓋の取っ掛かりに引っ掛けて持ち上げるのだ。

 

 だが、蓋はビクともしなかった。錆びて固着しているのだ。慧爾はいったんマンホールフックから手を離すと、道具箱から大きめのハンマーを取り出した。

 

 慧爾は片手で再びマンホールフックを引き上げながら、もう片手に握ったハンマーで蓋の縁を叩き始めた。

 

 ガンガンと大きな音が周囲に響き渡った。近隣住民にはこういう騒音も含めて事前に断りを入れて了承を得ているが、それでも思っていた以上の音にクレームがつくことがある。時には現場へ怒鳴り込んでくる者さえ居た。

 

 昨日もそうだった。海岸近くのリゾートホテルで作業をしていたら、昼間から泥酔していた観光客から大声で文句を付けられた。

 

(あんたの声のほうがよっぽど煩いよ)

 

 そう言い返してやりたかったが、グッと堪えて頭を下げた。

 

 だけど、今日はそうならないだろう。平日の昼間ということもあって海軍寮には誰も居ないという連絡は受けていたし、それ以外の民家もかなり距離があるので、今日は音を気にせず仕事ができる。

 

 慧爾は流れる汗を時折ぬぐいながらハンマーを振るい続けた。40キロの鉄の塊を片手で引き上げながらハンマーを振るい続けること十数分、ガボッという微かな音とともに、ようやく蓋が動いた。

 

 慧爾はホッと息を吐くと、マンホールフックから手を離し、中腰姿勢から身体を起こして背中を伸ばした。三十度を超える気温の中、蓋を開けるだけでもう汗だくだ。見上げた空には雲が多いが、その分、いつもより蒸し暑さを感じる。

 

 喉の渇きを潤そうと水筒に口を付けながら、そういえばあの時もこんな日だったな、と以前のことを思い出した。

 

 あれは確か春のころ、鎮守府の復旧工事に参加していた時のことだ。あの日は季節外れの暑い日で、慧爾はやはり汗だくになっていた。

 

 その休憩中、たまたま通りがかった軍の職員から声をかけられた。

 

――暑い中、いつもありがとうございます。

 

 それは女性だった。それも少女と言ってもいいような外見の、きっと艦娘だろう。何気ない、単に視界に入って、お互いなんとなく目が合ったから軽く声をかけた程度の挨拶だった。

 

 しかし、おざなりな印象は受けなかった。鎮守府を復旧してくれていることへの感謝と、慧爾の仕事への敬意が込められていた。そしてその言葉が、艦娘という、普段からこの島を守っている者からかけられたことが、なおさら印象を深くしていた。

 

 慧爾はその時、そんな感謝されることに慣れていなかったこともあって、曖昧に会釈を返すことしかできなかった。

 

 しかしその後も、その艦娘は作業現場を通りかかる度に、同じように声をかけてくれた。

 

 礼儀正しい子だった。派手では無いがどこか凛とした佇まいで、慧爾は気が付けば無意識に彼女の姿を目で探すようになっていた。

 

 それが恋と呼べるようなものだったのか。それとも、単なる艦娘への好奇心によるものだったのか、まだ若い慧爾には判断がつかないまま、彼は鎮守府での作業を終え、別の現場へと移った。

 

 艦娘の子とも、挨拶以上の言葉を交わすこともなく、それきりだ。

 

 彼女についても分かったのは名前だけだ。一度だけ、彼女が他の艦娘から名前を呼ばれていたのを耳にして知ったのだ。

 

 初霜。それが艦娘としての彼女の名だ。多分。本名に至っては知る術もない。

 

(……こんなに気になるってことは、俺、やっぱり惚れてるのかなぁ)

 

 水分補給しながら、ぼんやりとそう思う。

 

(しっかし、声かけられたぐらいで惚れるとか、ちょろいな、俺!?)

 

 同僚や友人にバレたら勘違い童貞野郎とからかわれることは間違いないので、口外したことはない。しかしこの感情が恋かどうかはともかくとして、若い異性から労いの言葉をかけてもらって嬉しくならない者はまず居ないだろう。

 

 特に炎天下での重労働なら、なおさらだ。

 

(あ~、だるい)

 

 艦娘も住んでいる寮での仕事と聞いた時、何かを期待していなかったと言えば嘘になる。とはいえ別にイヤらしいことを考えていた訳じゃない。単に初霜の姿をまた見かける事ができるかもしれないという程度だ。それ以上のことは期待していない。

 

 でも、今日は仕事上では都合の良いことに、しかし慧爾にとっては不幸なことに艦娘は全員不在だそうだ。

 

 社長である父が笑顔で、「クレームを気にせずに済むぞ、よかったな」と気楽に笑って慧爾を送り出したが、慧爾は内心でため息を吐いていた。リスクを避けるばかりでは仕事のモチベーションは上がらないのだ。

 

 やれやれと慧爾は額の汗をぬぐいながら作業を再開した。動くようになったマンホールの蓋にもう一つのフックを引っ掛け、両手で引き上げる。

 

「よいしょっ…と」

 

 ゴトンと重い音を立てて蓋が横にズレた。そのまま穴が全部あらわになるまでズルズルと引きずりながら移動させる。

 

「ふう、ようやく本番だな」

 

 懐中電灯を用意してマンホールに潜り込もうとしたところで、不意に、

 

「あ、あのっ…!」

 

 背後から声がかけられ、慧爾は振り返った。

 

 そこに居たのは一人の少女だった。栗色の髪をショートカットにした、小柄な女の子が、腹部を手で押さえながら立っていた。

 

 走ってでも来たのだろうか。少女は肩で息をしながら、困ったような、申し訳なさそうな顔をして言った。

 

「えっと、もう寮の水道って止めちゃいました?」

 

「え? あ、はい。点検の時間ですのでご利用を控えていただくことになっていますが」

 

 まだ水道の元栓は閉めていない。あくまで住民に“控えてもらっている”だけだ。しかし少女はそれを“もう使えない”と誤解したようで、その顔をみるみると曇らせた。

 

「そ、そんなぁ…」

 

 まるでこの世の終わりみたいな顔をしながら、少女は言った。

 

「お願いです! もうちょっと、もうちょっとだけ工事を待ってくれませんか!? 五分、いいえ三分でいいんで水道使わせてください!」

 

「あ、いや別に工事じゃないので、どうぞ」

 

「本当ですか!? ありがとうございます!」

 

 少女の顔がパアッと明るくなった。が、その顔がすぐにまたサッと青ざめた。どこかで、ごろり、と遠雷のような音が鳴った。

 

「す、すぐに済ませますので!」

 

 少女は青ざめた顔のまま、寮の一階に並ぶ部屋の扉へと走り寄り、そのドアノブに鍵を差し込んでガチャガチャと回し始めた。

 

 どうやらここに住んでいる艦娘の一人だったらしい。だが、それにしては少し様子が変だな、と慧爾は思った。

 

 扉がいつまで経っても開かないのだ。

 

「ど、どうして…!? 部屋番号はここで合ってるのに、って、あ…、この鍵、初風の部屋の鍵だ…」

 

 どうやら部屋の鍵を間違えて持ってきたらしい。どうしてそんなことになったのか皆目見当もつかないが、それよりも、その少女が扉の前で苦しそうに蹲ってしまったので、慧爾は慌ててその傍に駆け寄った。

 

「大丈夫ですか!?」

 

「も、もう…駄目かもしれない…」

 

「救急車を呼びます!」

 

 携帯端末を取り出した慧爾を見て、少女は慌てて首を横に振った。

 

「だめだめ、それはやめて…!?」

 

「で、でも」

 

「あ、あの、ですね…その…トイレ、なんです…」

 

「は?」

 

「トイレ…漏れそう…」

 

「あ…あぁ…」

 

 成程。事態を全部察した慧爾の前で、少女は羞恥心と腹痛で涙目になった顔を伏せた。

 

(こ、困ったぞ!?)

 

 要するに、問題はトイレだ。この寮以外のトイレと言えば、すぐ近くの鎮守府だろうが、その広大な敷地のどこにトイレがあるか慧爾は知らない。というかすぐに行けるなら少女はとっくに行っているはずだ。

 

 そうでなければ鎮守府とは反対側の方向にコンビニエンスストアがあるが、ざっと300メートルは離れている。普段は何でもない距離だが、そろそろ限界を迎えそうなこの少女は果たして耐えられるのだろうか。

 

(いや、迷っている暇はない!)

 

 事態は一刻を争うのだ。別に命の危機ではないが、この少女の尊厳には関わる。少女が歩けないなら最悪、慧爾が背負ってでも連れて行こう。

 

 と、そんな覚悟を決めて、慧爾は少女に声をかけようとした。

 

 が、それよりも先に、別の声が飛んできた。

 

「ユキ!?」

 

 また別の少女が叫びながら、こちらへと駆け寄ってきた。

 

「そこのあなた、すぐにユキから離れなさい! 憲兵を呼ぶわよ!」

 

 突き飛ばしかねない勢いで割り込んできた別の少女の剣幕に、慧爾は慌てて飛び退いた。

 

「ち、違います。俺、そんなつもりじゃ…」

 

「黙ってて。……ユキ、大丈夫? 怪我はない?」

 

 寄り添った少女に、ユキと呼ばれた少女が顔を上げた。

 

「は、初風ぇ…違うの…と、トイレ…漏れそう…」

 

「はぁ?」

 

「か、鍵…初風のと間違えた…」

 

「………」

 

 ユキが涙目で手元の鍵を差し出す。初風と呼ばれた少女は、そのユキの顔と鍵を交互に見比べながら、すべてを把握したようで、深くため息を吐いた。

 

「あんたって子は、もう。だったら私の部屋のトイレを使えば良かったじゃない」

 

 初風の言葉に、ユキは盲点を突かれたような顔をした。成程、その手があったか。

 

「ま、私の部屋は二階だから、今となってはユキの部屋の方が近いけどね」

 

 初風はそう言いながら、自分が持っていた“ユキの部屋の鍵”を使って目の前の扉を開けた。

 

「ほら、ちゃっちゃと済ませてきなさい」

 

「あ、ありがと!」

 

 ユキは礼を言うや否や室内へと駆け込んでいった。ドタンバタンと室内からドアが乱暴に開け閉めされる音が漏れ聞こえてくる。

 

 初風がこれ以上音が漏れないように玄関の扉を閉め、そして慧爾に向き直った。

 

「さっきは怒鳴ってしまって御免なさい。てっきり、あの子に危害を加えようとしてるのだと誤解しちゃったわ」

 

「気にしないでください。そう見えてもおかしくなかったですから」

 

「いいえ、私の思い込みのせいよ。むしろあの子を心配してくれてたんでしょう。礼を言うべきだわ。ありがとう。そして、ごめんなさい」

 

 初風はそういって深々と頭を下げた。

 

「そんな、俺は何もしていませんよ。…それより、艦娘さんですよね」

 

「ええ、そうよ。と言っても、今日ここに来たばかりだけどね」

 

「お引越しされたんですか」

 

「申し訳ないけど、その手の質問には答えられないの」

 

 無表情のまま冷淡な声で告げられて、慧爾は怯んだ。

 

「そうですか、すいませんでした」

 

 見た目は少女だが、こんな話題にも触れられないあたり、やはり軍人なのだと実感する。慧爾とは住む世界が違うのだ。

 

 あの子…初霜もやはりこんな感じなのだろうか。そうだとすれば、少し寂しい。

 

 初風が言った。

 

「お仕事の邪魔して悪いわね。あの子のトイ…用事が済むまで少し待ってもらえる?」

 

「お気になさらずに」

 

 それきり、二人の間で会話は途切れ、その後はずっと沈黙が続いた。

 

 そんなに時間はかからないと思ったが、ところが、ユキと呼ばれた少女はなかなか部屋から出てこなかった。

 

 十分程度なら、まあそれくらいはかかるだろうと踏んでいたが、しかし二十分経っても音沙汰が無かったので、流石に初風も気にして、室内の様子を見に行った。

 

 一分もしないうちに、初風が部屋から出てきた。

 

「ねえ、度々申し訳ないんだけど、近くにコンビニかスーパーは無いかしら 」

 

 初風は何度目になるか分からないため息を吐きながら、そう言った。

 

「コンビニなら、あちらへ300メートルほど先に」

 

「ありがと」

 

 初風は礼を言うと、コンビニへ向けて走り出した。そして、ものの数分もしないうちに、彼女はトイレットペーパーを抱えて部屋へと入って行った。

 

 なるほど、引っ越したばかりの新しい部屋なら、そうなるな。と、慧爾は納得した。

 

 それからさらに数分経ってから、慧爾はようやく作業を再開できたのだった。

 

 

 

 

 

 

「もう、ユキのせいでいらない恥をかいたわよ」

 

 あれから数十分後、街へ向かって歩きながら口をとがらせる初風に、雪風は「ゴメン、ゴメン」と謝りつつ笑ってごまかした。

 

「アイス食べ過ぎちゃったみたい。っていうか、あのガンルームの冷房もちょっと効き過ぎてたと思わない?」

 

「そうかしら。あれくらい普通でしょ。むしろ真夏でも冷房を付けないユキがおかしいのよ」

 

「だって光熱費がもったいないでしょ」

 

「猛暑になったら熱中症で死ぬわよ」

 

「大丈夫だよ。去年は窓を全開にして下着姿でいれば、扇風機一つで全然平気だったし」

 

「今年それをやったら許さないからね」

 

 額に青筋を立てて凄む初風の迫力に押されて、雪風は「わ、わかりました」と素直に頷いた。

 

 初風が、また深いため息を吐き、雪風はその様子から彼女の内心を敏感に読み取った。これは、この羞恥心の欠片も無い少女にどうやって女の矜持を叩き込むか、それを思案しているときの顔だ。つまりこれから説教が始まるということでもある。

 

 そうなる前に、雪風は「そ、そういえば」と慌てて話題を逸らした。

 

「これから服を買いに行くんだよね。楽しみだなぁ。どんなのがあるかな!」

 

 本当はそんなに興味は無いが、表向きは楽しみを抑えきれない風を装って明るく言ってみる。

 

 が、初風からジト目で返された。

 

「棒読み。おまけに顔が引きつってるわよ」

 

「うぇ…」

 

「ま、ユキが服に興味が薄いのは知ってるから今更だけど、食わず嫌いも良くないってことは覚えて欲しいわね」

 

「食わず嫌いねえ。モズクアイスは食べなかったくせに?」

 

「見えている機雷は別よ」

 

「でも美味しかったよ?」

 

「おなか下したのに?」

 

「あれは量の問題だから…」

 

 うーむ、何を言っても言い返される。口喧嘩では男は女に敵わないとはよく言われているが、同性同士だと女子力の違いで勝敗が決まるのかもしれない。

 

 と、雪風がそんなどうでもいいことを考えている横で、初風が何かに気づいて別の方向に目を向けた。

 

「ん? どうしたの初風」

 

「あぁ、ほら、あそこ。向かいの通り」

 

 初風の視線を追って、雪風もそちらへ顔を向けた。

 

 二車線の道路を挟んだ反対側の歩道。そこを一人の女性が、雪風たちとすれ違うように歩いていた。

 

 鍔の広い麦わら帽子に、ノースリープに丈の長いスカートの白いワンピース姿。照り付ける陽光に長い髪と白い肌を輝かせながら、その女性はそのまま遠ざかって行った。

 

「ねえ、ユキ」

 

 初風が、露骨にならない程度に振り返ってその姿を目で追いながら、言った。

 

「あの人、すごく奇麗じゃない?」

 

「うん、ビックリするくらいの美人さんだった。女優かモデルさんみたい」

 

 雪風もその後ろ姿を目で追いながら素直に頷いた。審美眼なんて持ち合わせていない雪風でさえ、断言してしまうほどの美しさだった。

 

「ああいうのよ、ああいうの!」初風が興奮気味に言った。「麦わら帽に白ワンピ! まさに夏の御令嬢って感じよね。ああ、もう、理想的だわ!」

 

「初風…もしかして私にあの格好をさせようと思ってたの?」

 

「そうよ」

 

「いや無いでしょ。似合わないでしょ。私みたいなチンチクリンが白ワンピ着たって、あんな美人になれる訳ないでしょ!?」

 

「いいえ、なれるわ。同じ人間よ、なれない筈が無いわ」

 

「いやいや、なれないって。ほらよく見てよ。あの美人を人間というなら、私なんてせいぜいげっ歯類だよ!」

 

「ビーバーもカワウソも可愛いじゃない。磨けば光るポテンシャルを秘めているわ」

 

「磨いたところで、ゆるキャラにしかならないよ!」

 

「ええい、グダグダと文句ばかり煩いわね。黙ってついてきなさい。私がユキを超絶美少女にすると決めたのよ。あんたに拒否権は無い!」

 

 俄然やる気を出した初風に手を引かれながら、雪風は街へ向かって歩みを速めた。

 

 街はもう目の前だ。人通りの多い方向へと消えて行く二人のはるか背後で、例のワンピースの美女は独り、街とは反対の方向――すなわち鎮守府の方向へと歩みを進めていた。

 

 美女が歩む道はやがて緩くカーブしながら海沿いに伸び始め、その視界にエメラルドグリーンの水平線が広がった。

 

 その水平線の果てから、三隻の駆逐艦の影が現れたのを見て、美女は麦わら帽子の下でひっそりと笑みを浮かべた。

 

「初霜…やっと見つけた…やっと帰ってきた……」

 

 美女はしばしその場に佇み、帰投する第二十一駆逐隊を眺め続けた。その時、海風が潮の香りを纏いながら吹き付けてきて、美女の髪やスカートを揺らした。

 

 と、不意にその風が強くなり、美女を包み込むように渦を描いた。麦わら帽子が宙高く舞い上がり、車道を超えて反対側の歩道へと落ちる。

 

 だが美女はそんなことを気にする素振りも無く、海に目を向けながら、しかし何かを嗅ぎ取るようにその形のよい鼻梁から深く息を吸い込んでいた。

 

「……この香り…そう、初霜はここを通るのね…」

 

 美女は何かを嗅ぎ取ると、その細い顎に指をかけて思案を始めた。その顔には、待ちわびた友人をどうやって出迎えようか、そんな期待混じりの感情が読み取れそうな微かな笑みが浮いていた。

 

 と、そこへ、美女の背後から声をかける者があった。

 

「あのー、おねーさーん」

 

 少し舌足らずな幼い少女の声。美女が振り向くと、反対側の車道から美女に向かって手を振る幼い少女の姿があった。その振っている手には、先ほど風に飛ばされた麦わら帽子が握られていた。

 

「これ、おねーさんのでしょ?」

 

「ええ、そうよ」

 

 美女は車道を横断して少女へと近づいた。

 

「拾ってくれたのね。ありがとう」

 

「えへへ、はい、どうぞ」

 

 差し出された麦わら帽子を受け取ったとき、その少女の足元で白い影が動いた。

 

 にゃーん、と甘えたように鳴きながら、一匹の白い仔猫が少女の足元に擦り寄っていた。

 

「あなたの飼い猫かしら?」

 

「ちがうよ。ノラちゃんなの。ご近所さんみんなに可愛がられているんだよ」

 

「あら、そう。人気者なのね」

 

 美女が屈みこみ、仔猫に手を伸ばした。差し出された指先に興味を持ったのだろう、仔猫が鼻を近づけ、幾度か匂いを嗅いだ。

 

 仔猫はすぐにその指先に顎をこすりつけ始めた。

 

「警戒心が無いのね」

 

「誰にでもすぐに懐くの。可愛いでしょ」

 

「ええ、とても」

 

 美女の目がスッと細められ、その顔に薄い笑みが浮いた。

 

「きっと、初霜も放っておけないわ」

 

「はつしも?」

 

「この猫、もらうわね」

 

 仔猫の顎を撫でていた美女の指が素早く動き、仔猫の首を鷲掴みにした。仔猫が苦しめに呻きながら暴れだし、それを目の当たりにした少女が悲鳴を上げた。

 

「やめて! ノラちゃんをいじめないで!?」

 

「大丈夫よ、あなたはすぐに忘れるから」

 

 美女は笑顔でそう言いながら、もう片手の指を少女の額に突き付けた。たったそれだけで、少女は凍り付いたように動きを止め、その場に立ち尽くした。

 

 美女はもがく仔猫を片手に掴んだまま、少し周囲を見渡した。

 

 その目が、歩道にあるマンホールの蓋に止まった。雨水排水溝と記されている。道路に降った雨水を流すための排水路だ。

 

 美女はマンホールの蓋のそばに歩み寄ると、その蓋の取っ掛かりに指をかけ、片手で引き上げた。錆びで固着していた40キロもの鉄の塊が、いとも容易く持ち上がり、黒々とした穴がそこに現れた。

 

 美女は躊躇なく、仔猫をその穴へ投げ落とし、その蓋を閉めた。

 

 美女が再び海へと目を向けた。第二十一駆逐隊の影はだいぶ大きくなり、鎮守府へ間もなく入港しようとしているところだった。

 

 美女はそれを一瞥すると、その場から悠然とした歩みで立ち去って行った。

 

 その場に取り残された少女は、しばらくそのまま立ち尽くしていたが、やがてハッと意識を取り戻した。

 

「……あれ、わたし、なにしてたんだっけ?」

 

 すっぽりと抜け落ちた記憶に多少の違和感を覚えながらも、少女もまたその場から立ち去って行った。

 

 後に残されたのは、青い空と、白い雲、美しく澄んだ海の色と……

 

 地の底から響く、哀れな仔猫の鳴き声のみ……

 

 

 

 

 

 

 


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