艦これ海上戦記譚~明け空告げる、海をゆく~   作:PlusⅨ

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 やっと二十四話終了。
 今回更新分で区切りつけようとしたら、いつもの二倍近い文字数になってしまった……


第二十四話・身命賭して猫一匹(5)

 ついさっきまで明るく晴れ渡っていた空が、急に雨雲に覆われた。乾いていた風も湿り気を帯び、ひやりとした空気が吹き寄せてきて、雪風は肌を泡立たせた。

 

 雪風は火のついた煙草を咥えたまま、ノースリーブで露わになっていた二の腕を自分の手でこする。さらに風が吹いて、白いワンピースのスカートがめくれ上がりそうになった。

 

「うわっ!?」

 

 慌ててスカートのすそを手で押さえる。口元から煙草が零れ、スカートすれすれをかすめて地面に落ちた。

 

「あちゃあ」

 

 もったいない、という思いと、ワンピースに触れなくて良かったという思いが交錯する。

 

 拾い上げてみるとそんなに汚れてはいない。まだ吸えるかな、と一瞬思ったが、あまりに意地汚なすぎるので止めた。素直に携帯灰皿に吸殻を押し込み、新たな煙草を取り出して咥えた。

 

 ライターで火をつけて、レモンの香りがする煙を胸いっぱいに吸い込む。周囲には誰も居ない。

 

 あてがわれた艦娘寮へ帰る途中の、人気のない海沿いの道路の片隅。雪風はそこで立ち止まり、白波が目立つ海を眺めながらぼんやりと煙草を吸い続けていた。

 

 こんな姿を初風に見られでもしたら、何を言われるだろうか。せっかくの清楚なお嬢様然とした恰好なのに、やさぐれた目をして煙草を咥えているなんて、まるで似合わない。

 

(やっぱり、似合わないよ)

 

 紫煙を吐きながら雪風は思った。初風には申し訳ないけれど、こういうのは自分には似合わないのだ。

 

 女の子らしい、いや、人間らしい生き方なんて、自分には贅沢過ぎる。

 

(ごめんね、初風)

 

 彼女は雪風に、明るい世界をたくさん見せようとしてくれた。穏やかな時間を与えようとしてくれた。そしていつまでも未来は続くのだと信じ込ませようとしてくれた。

 

 そのことには感謝してもしきれないけれど、それでも、やっぱり自分には無理だった。と雪風は思った。

 

 どれだけ明日を夢見ようとも、自分を取り巻く闇がそれを許さない。私の人生は真っ暗だ、と雪風は黒雲に覆われた空を見上げた。

 

 なんとタイミングのいい天気だろう。まるで今の自分の気分を空が汲み取ってくれたみたいじゃないか。

 

 そんな風に思って少し悲劇のヒロイン気取りで自己陶酔してみたが、すぐに見上げていた雲から雫が落ちてきて、鼻先を濡らした。

 

 雨だ。

 

 大粒の雫がぼたぼたと降り注ぎ、雪風はあっという間にびしょ濡れになってしまった。咥えていた煙草も湿気ってしまい、火の消えた先端から短い灰が地面に落ちた。

 

「うぇ~」

 

 ヒロイン気取りどころか、これじゃみじめな捨て猫だ。

 

 いや、そんな可愛らしいものでもないか。せいぜい濡れネズミがお似合いだ。雨の中、煙草を携帯灰皿に押し付けながら雪風は自虐的にそう思った。

 

 もう煙草を吸える天候じゃない。大人しく寮に戻って熱いシャワーでも浴びよう。そう思って、雨煙に沈む海沿いの通りをとぼとぼと歩き出す。

 

 帽子もかぶっていないので雨粒は容赦なく雪風の髪を濡らし、前髪から垂れ落ちた雫が目元を濡らす。

 

 髪を濡らし、頬を濡らしながら、雪風はうつむき気味になって歩いていた。

 

 そう、私は地面を這う濡れネズミだ。

 

「ちゅー」

 

 なんとなく自棄になってネズミの鳴き真似をしてみた。雨の中で馬鹿なことをやっていると自覚するが、それが却って可笑しくなって、雪風は笑った。

 

 自嘲自虐の笑みだが、それでも笑みだ。口の端が自然と上向いたことで、わずかながらではあるが前を向く気力も生まれた。

 

 そうだ、笑えばいいのだ。と雪風は自分に言い聞かせた。こんなくだらない人生、笑い飛ばす以外にどうしろというのだ。

 

「ちゅー、ちゅー、ちゅー!」

 

 歌うようにふざけて鳴きながら、雪風は雨の中をのんびりと歩いた。

 

 私はネズミだ。底辺を這いまわりながら浅ましく金を食む、薄汚いドブネズミだ。

 

「ちゅちゅちゅの、ちゅー!」

 

 やけっぱちに火がついて、雪風の鳴き真似の声が大きくなる。道路脇から望む荒れ気味の海に向かって、雪風は大声で叫んだ。

 

 

「ちゅーーー!!!!!!」

 

「―――にゃあーん」

 

「ふぇっ!?」

 

 まるで呼応するかのように聞こえた猫の鳴き声に、雪風は肩を震わせた。けれど別に天敵の出現に驚いた訳じゃなかった。

 

 その鳴き声は猫ではなく、人間によるものだった。

 

「にゃあーん、にゃあーん!」

 

 雨の中、一人の少女が歩道脇に屈みこんで――いや、それはもう這い蹲っていると言っていい。歩道と車道の間にある雨水の溜まった排水溝に這い蹲り、その脇にある地下への排水口の横穴に向かって猫の鳴き真似をしていた。

 

(な、何やってんの、この人…?)

 

 頭のおかしい人を目撃してしまった。と、今の今まで自分もネズミの鳴き真似をしていたことを棚に上げて雪風は後ずさった。

 

 関わり合いにならないほうがいい。道を変えよう。そう思って踵を変えようとした矢先、その少女が雪風の気配に気づいてしまったのだろう、ハッと顔を上げてこちらを向いた。

 

(うわ、目が合っちゃった)

 

 雪風はすぐにその場から立ち去ろうと思った。

 

 思ったのだが、何故か、足が動かなかった。

 

 目を背けることもできなかった。雨に濡れる少女の瞳から、目が離せなかった。

 

(奇麗な子……)

 

 一瞬、見惚れていた。

 

 どう考えても変人としか思えない振る舞いをしているにも関わらず、その少女の瞳にはひたむきな一途さが宿っていた。

 

 目と目が合い、雪風が立ち尽くしてたのは、ほんの数秒のことだった。恐らく気まずさからだろう、その少女は言葉を探すように何かを言いかけたが、それよりも先に何かに気づいたような表情をして、少女は再び這い蹲って排水口に顔を寄せた。

 

「鳴いてる! 良かった、まだ流されてないのね!」

 

 少女は表情を明るくすると、すぐにまた排水口に向かって鳴き始めた。

 

「にゃあーん、大丈夫よ、ここに居るからね。にゃあーん!」

 

 人目などまったく気に掛ける素振りも見せずに排水口へ鳴き続け、語りかける少女。それで雪風は察した。

 

 この少女が狂っているのでなければ、きっと、この排水口の奥に何かが――おそらく猫が――落ちてしまい、それに向かって呼びかけているのだ。

 

「あ、あのぉ…」

 

 思わず声をかけてしまってから、雪風は後悔した。私は何をやっているんだ。通りかかったトラブルにまた首を突っ込むつもりか。そうやって余計な苦労をまた背負いこむつもりか。

 

 そう頭では分かっていても、トラブルとの不意の遭遇に慣れてしまった雪風の身体は自然と少女のそばに寄ってしまっていた。

 

「もしかして、猫が落ちているんですか?」

 

 雪風の言葉に、少女が再び顔を上げた。

 

(やっぱり、奇麗な子だな…)

 

 思わず、そんな場違いな感想を抱いてしまった。

 

 雨に濡れた長い黒髪と、細面で整った顔立ち、そして強い意志を宿しているようなその瞳。

 

「はい」と少女は頷いた。「この奥の深いところから、猫の鳴き声がずっと聞こえているんです」

 

 少女は、にゃあにゃあ鳴いていた先ほどとは打って変わって、勤めて冷静に、簡潔にそう説明してくれた後、ふっとその顔に笑みを浮かべた。

 

「でも、私の仲間たちが救助用の道具を取りに行ってますので、何とかなりますよ。変なところをお見せしてしまってすみませんでした。どうかお気になさらずに」

 

 そう言って、雪風に先へ進むように促した。

 

「そ、そうですか。…じゃあ」

 

 少女の笑みが、雪風を安心させるために無理やり繕ったものだというのは分かっていた。しかし少女以外にも手助けしてくれる仲間が居ると言うし、それに自分がここに居ても何ができる訳でもない。

 

 なら、少女に促されるままに素通りして何が悪い。雪風はそう判断して、少女の傍を通り過ぎようとした。

 

 ――にゃあぁ……

 

 雪風は足を止めた。

 

 聞こえた。聞こえてしまった。雨水の流れ込む排水口の奥から、恐怖に怯えるか細い鳴き声が聞こえてしまった。

 

 雪風のそばで、少女が猫を元気づけようと、また猫の鳴き声を返した。

 

(放っておける訳、無いでしょ…)

 

 雪風は深くため息を吐いた。引かなくてもいい貧乏くじだが、今回も結局、自らの意思で引くことを決めた。

 

 雪風は少女と向かい合うような形で排水溝に足を踏み入れ、屈みこんだ。

 

「え?」

 

 戸惑う少女の前で、雪風も排水口の横穴に向かって「にゃあん」と鳴いた。

 

「どうして?」

 

「一人よりも二人で呼びかけた方が、猫ちゃんも元気出るかな、と思いまして」

 

 雪風はそう言って、少女を安心させるようにニコリと微笑んだ。

 

 

 

 

 

 

 

 可愛い子だな、とその少女を目にしたとき、初霜はそう思った。

 

 ショートカットの栗色の髪と、幼さを残したその顔立ち。白いワンピースを纏った彼女はまだ子供っぽさが抜け切れていなかったが――多分、外見年齢で言えば初霜とほぼ変わらないだろう――雨に濡れたワンピースが身体に張り付いてしまったせいで、微かに透ける肌の色と、露わになったボディラインが色香を醸していた。

 

 なにより、その憂いをはらんだ瞳が、彼女に年不相応な大人びた雰囲気を纏わせており、そのギャップが少女に不思議な魅力を与えていた。

 

 数秒の間、初霜は少女から目が離せなかった。可愛いが、しかしどこか憂いがある。きっとこんな状況でなければ、この少女の力になってあげたいと思っただろうに。

 

 けれど、今は猫を助けないと。

 

 初霜は排水口の奥へ注意を戻した。霞と朝霜がいったん寮へ戻って救出用の道具を――と言っても大した物がある訳でもないが――持ってくるまで、この猫の所在を把握し続けておく必要があった。

 

 初霜は排水口の横穴に向かって鳴きながら、その反響音と流れ込む雨水の様子、そして周囲の地形から排水口の奥の様子を推察した。

 

 猫のいる地下は、歩道の真下だ。歩道にはマンホールが設置されており、雨水を流すための排水路が地下に並行して伸びているのは確かだった。

 

 初霜が呼びかけている排水口の近くにはマンホールが二つあり、それぞれは約10メートルほどの距離があった。初霜が呼びかけている排水口はそのちょうど中間に位置していた。猫も恐らくそこに居るのだろう。

 

 排水口の横穴は斜め下方に伸びている。その角度が急すぎるのと雨水が流れていることで猫が自力で這い上がるのは不可能だ。

 

 横穴の角度とマンホールの位置から考えて、猫の居る場所までざっと3メートル程度だろうと初霜は見積もっていた。この排水口の横穴から籠か何かをロープで結わえ付けて送り込み、そこに猫が入ってくれれば引き上げることができるかもしれない。

 

 しかし猫が地下の排水路を移動してしまったら、もしくは雨水の勢いが増してしまって流されでもしたら、もう助けられなくなってしまうだろう。

 

 だから猫をこの場に留めようと鳴き真似を続ける初霜の前に、少女が近寄ってきた。

 

「あ、あのぉ…もしかして、猫が落ちているんですか?」

 

 心配そうな表情で問いかけてくる少女。

 

 優しい子なのね、と初霜は思う。この雨の中、憂いた目をしていた子だ。きっと何か事情があるだろうに、こちらのことを気にかけてくれた。

 

 気を遣わせてしまったことを申し訳なく思い、初霜は事情を簡潔に説明すると心配をかけないように笑顔を浮かべて、少女に通り過ぎるよう促した。それで少女も迷いを見せつつも、一旦はその場から立ち去ろうとした。

 

 けれど――少女は排水溝に足を踏み入れ、初霜と目を合わせるように屈みこんだ。

 

「一人よりも二人で呼びかけた方が、猫ちゃんも元気出るかな、と思いまして」

 

 少女はそう言って微笑むと、初霜がしていたのと同じように、排水口の横穴に向かって「にゃあん」と鳴いて見せた。

 

 それに答えるかのように、暗闇の底から猫が鳴いた。

 

「私の声に返事してくれた?」

 

「あなたの思いが通じたのかも知れないわ。…ありがとうございます」

 

 二人は顔を見合わせ、少しだけ笑いあった。別に事態は何も好転してはいないけれど、初霜の心は、少しだけ軽くなっていた。

 

 だけど初霜は、目の前の少女を間近に見て、あることに気が付いてしまった。初霜は慌てて自分の上着のボタンを外し始める。

 

 その様子に、少女が目を丸くした。

 

「え、急に何してるんですか!?」

 

「これを羽織ってください!」

 

 訳も分からず戸惑う少女から目を逸らしながら、初霜は上着を押し付けた。

 

「その……透けてます」

 

「へ? …あっ!?」

 

 濡れて透けたワンピースの薄い生地の下、素肌とともに下着まで見えてしまっていた。少女は慌てて上着を受け取って羽織り、その胸元を閉じた。

 

「ありがとうございます。でも、あなたは大丈夫なんですか?」

 

「私は平気ですよ」

 

 初霜は上着の下に開襟シャツを着ていた。これも夏用の薄い生地だったが、白ワンピースほどは透けないはずだ。それにもし透けても下着はスポーツブラだし、そもそもそんなメリハリのあるスタイルをしていない。

 

 気にしないで、と笑いかけると、少女は顔を赤くしたままコクリと頷いた。

 

 雨は止むことなく降り続ける。まだ土砂降りという程の強さではないが、排水口へ流れ込む水量がこれ以上強くなれば、地下の猫がどうなってしまうか分からない。

 

 初霜は自分の腕時計に目を向けた。もうすぐ霞と朝霜が戻ってくるだろう。でも、彼女たちが持ってきた道具で上手くいかなかった場合、他に救出する手立てはあるのだろうか。

 

 初霜が次善の策に思いを巡らせたとき、少女が口を開いた。

 

「そうだ、消防署に救助を頼んでみたらどうでしょうか?」

 

 その提案に対し、初霜は首を横に振った。

 

「もう連絡したのよ。でも無理だと断られたわ」

 

「どうして?」

 

「今、街で火事が起きてしまっているらしいの。この雨でもなかなか消えない大火事らしいわ。隊員がみんな出動してしまっていて、猫に構っている余裕は無いそうよ」

 

「そういえば街を消防車が走り回ってましたね…」

 

 がっくりとうなだれた少女に、初霜はこれから取ろうとしている救助策を説明した。

 

「なるほど。…ちょっと難しそうですけど、他に方法は無さそうですね」

 

「失敗したら、次はマンホールを開けて地下の様子を確認するしかないわね」

 

「それ勝手に開けていいんですか?」

 

「後から叱られるかもね」

 

 初霜は悪戯をしようとする子供のような気分で笑った。確信犯的な態度だとは自覚している。司令辺りがこれを知ったら、また頭を抱えてしまうかもしれない。そのことを申し訳ないとは思いつつも、自分の行動を躊躇うつもりは無かった。

 

 遠くから水たまりを跳ねさせながら足音が近づいてきた。

 

 霞と朝霜だ。二人とも手に中身の詰まった大きめのビニール袋を提げて、こちらへと駆け寄ってくる。

 

「待たせたな、はつし――って、なんか増えてんな?」

 

「あ、どうも」

 

 少女は屈んだまま朝霜へ会釈した。

 

 初霜が言った。

 

「通りすがりの方よ。猫を気にかけて付き合ってくれたの」

 

「おぉ、そいつはサンキューな!」

 

「雨の中、悪いわね。これ使って」

 

 霞は持ってきた三本の傘の内、一本を少女に渡した。

 

「ありがとうございます。お借りします」

 

 少女は傘を受け取ると、初霜の傍によって、二人の身体が入るように傘を差した。

 

 初霜は少女に礼を言い、そして霞と朝霜に向き直る。

 

「二人とも、道具はあった?」

 

「任せな。バッチリ揃えてきたぜ。懐中電灯に、籠とロープ、そして猫を誘き寄せるための餌もな」

 

 朝霜が説明しながらビニール袋から次々と物を取り出した。用意した籠は複数あった。竹で編まれた丸い籠や、キッチン用品を収納するためのステンレス製の長方形の籠、小物入れ用のプラスチック製の籠等々。どれも排水口に入る程度の大きさだ。

 

「これにうまく入ってくれりゃいいけどな」

 

 朝霜は呟きながら、先ず竹製の丸籠にロープの先端を結わえ付け、その中に持ってきたビーフジャーキーを入れた。

 

「って、ちょっと待ちなさいよ!」と霞が声を上げた。「それ犬用のビーフジャーキーでしょ。猫用の餌とは違うじゃないのよ!」

 

「うるせえなぁ、アタイの部屋にはこれしかなかったんだから仕方ねーだろ。犬も猫も肉食なんだからどっちでも一緒だ」

 

「犬用と猫用じゃ全然違うのよ。っていうか、あんたなんでそんなものが部屋にあるのよ?」

 

「つまみ用のビーフジャーキーと間違えて買っちまったのが残ってたんだよ。これ味が薄くてあんまり美味しくないんだよな」

 

「食ったんかい」

 

「やっぱ不安になってきたな。こんな不味いもんは猫も食わねえかもな」

 

「ペット用食品は基本薄味だから大丈夫よ。でも犬用より猫用の方が良いに決まってるわ」

 

 霞はそう言いながら、自分が持ってきたビニール袋からスティック状の袋に入った餌を取り出した。その袋の表面には「ねこまっしぐら」と銘打たれている。

 

 ちゅうるちゅうる、というフレーズのCMソングでお馴染み、猫の食いつきが良すぎて飼い主が不安に駆られると評判のペースト状のキャットフードだ。

 

「お前もなんでそんなもん都合よく持ってんだよ?」

 

「えと、たまたま偶然、部屋にあったのよ」

 

「酒に合うのか?」

 

「つまみとして買ったんじゃ無いったら! …散歩中に猫ちゃんと会えたときに、これをあげたら懐いてくれるんじゃないかなぁ、って思って」

 

「野良猫をちゅうるジャンキーにするのは感心しないわ」

 

 と、初霜が真面目な顔して苦言を呈すると、霞はちょっと目を逸らした。

 

「ま、まあ私もちょっと拙いかもと思ってたのよ。だから買ったはいいけど使わずに仕舞っておいてたの。でも、まさかこんな形で使うことになるとはね」

 

 霞がペーストフードを籠の底に絞り出した。

 

「よーし、上手いこと籠に入ってくれよ」

 

 朝霜が籠を排水口の横穴に押し込んだ。流れ込む雨水に押されて、籠は奥へ、奥へと滑り落ちていく。

 

「あの」と少女が訊いた。「猫が籠に入ったことは、どうやって確認するんですか?」

 

「まあ、勘だな」

 

 朝霜が、籠に結わえ付けたロープを送りながら答えた。

 

「今更だけど、籠に鈴でも付けときゃ良かったかな?」

 

「これで上手くいかなかったら、今度は私が鈴を買ってくるわ」と初霜。

 

 霞が首を横に振った。

 

「近くのコンビニじゃ売ってないわよ。少し遠いけれど、街の雑貨屋あたりまで買いに行くしかないわね」

 

「お、籠が底に着いたみたいだ」

 

 朝霜がロープを送る手を止めた。送り込んだロープの長さから、ざっと2.5メートル程の距離だった。

 

「けっこう深いな」

 

 朝霜はロープを少し手繰り寄せ、たるみを取った。そのまま手元に間隔を集中する。

 

「お?」

 

 反応があったのか、朝霜はすぐに声を上げた。

 

「入ったの?」

 

 と尋ねた霞に、朝霜は首を横に振った。

 

「まだわかんねえ。でも、籠がガサゴソと動いてるのは手応えでわかる。多分、籠に頭を突っ込んで餌を舐めてるんだ」

 

「全身が入らないと意味が無いわ」と、初霜。

 

 霞がしまった、と呟いた。

 

「籠の中心に餌を入れたのは拙かったわね。もっと端に置くべきだったわ」

 

「籠の揺れが止まったぜ」と朝霜。「全身が入ったかもしれねえ。引き上げるぜ」

 

 朝霜がそろそろとロープを手繰り寄せ始める。その様子を、少女も含め全員で固唾を飲んで見守った。

 

 朝霜が言った。

 

「ロープが重い。猫は間違いなく入ってるみたいだ――あっ、畜生!」

 

 排水口の横穴の奥で、何かが水に落ちた音が響いた。朝霜が急いで籠を引き上げたが、中身は空だった。

 

「籠が動いたことに驚いて猫が逃げちまったんだ。餌はしっかり食ってるから惜しいところまではいったんだけどなぁ」

 

「別の籠を試してみるのは?」

 

 そう言ったのは霞だった。だが彼女は、すぐに自分の考えを自分で否定した。

 

「いえ、やっぱり駄目ね。猫が自分から飛び出しちゃうんじゃ、同じことの繰り返しだわ。下手したら怯えて別の場所に行っちゃうかもしれない」

 

「餌だけ入れましょう」と、初霜。「猫をここに留めるために、もう一度、籠に餌を入れて送り込むの。引き上げようとしなければ籠に留まり続けてくれるかも知れないわ」

 

「猫が籠に留まってくれるなら、流されずに済むかもしれませんね!」

 

 少女も初霜の案に同意した。それを受けて霞も頷く。

 

「そうね、それで時間を稼ぐのが良いかもね」

 

「で、次はどうする?」と朝霜。

 

 初霜は言った。

 

「マンホールを開けて潜り込むしかないわ。救出できるかどうかは未知数だけど、少なくとも地下の状況は判るはずよ」

 

「よっしゃ、じゃあアタイに任せな」

 

 朝霜は新たな餌を入れた籠を再び排水口の横穴に送り込むと、そのロープを少女に預けた。

 

「こいつを頼んだぜ。猫の命綱だ。手応えは結構わかりやすいから、猫が入ったらすぐ気づくはずだ」

 

「は、はい」

 

 受け取ったロープからは、すぐに反応があった。籠が揺れ、中に重量のあるものが納まった感覚が伝わってきた。

 

「猫が入ったみたいです!」

 

「そのまま驚かさないように保持していてください。よろしくお願いしますね」

 

「はい」

 

 初霜の言葉に頷く少女。初霜は彼女が差していた傘の下から出て、朝霜と共にビニール袋から新たな道具を取り出した。

 

 それは大きめのラジオペンチだった。初霜と朝霜はそれぞれラジオペンチを手に、排水口からみて上流側にある歩道のマンホールへ駆け寄った。

 

 マンホールの蓋には小さな取っ掛かりが左右に二つある。二人はその取っ掛かりをそれぞれペンチで挟み、「せーの」とタイミングを合わせて持ち上げようとした。

 

 しかし、

 

「駄目だ、ビクともしねえ!」

 

「やっぱりペンチじゃ無理があったのかしら?」

 

「いや、こっちに来る前に寮の前のマンホールで試したけど、そっちはすんなり開いたんだぜ。形状はほとんど変わんねえから、こっちでもいけると思ったんだけどなあ」

 

 初霜と朝霜の遣り取りを眺めていた少女が、「もしかして」と声を上げた。

 

「蓋が錆びて固着しているんじゃないですか? 私、業者の人がハンマーでガンガン叩いてから開けたのを見ました!」

 

「ハンマーか。よっしゃ、分かったぜ。すぐに取りに行って――」

 

「待って」と、初霜が止めた。「それでも上手く開けられるか分からないわ。そうしたら時間を無駄にするだけよ」

 

「それこそ、やってみなきゃ分かんねーだろ。それとも諦めんのか? お前らしくねえぜ」

 

「もちろん諦めないわ。でも業者の真似事をするくらいなら、本人に頼んだほうが早いと思うの」

 

「つまり業者を呼ぶってこと?」と、霞。

 

「心当たりがあるわ。確かここの近くに配管工事の会社があったはずよ」

 

「あんた何で知ってるのよ?」

 

「前、ウチの復旧工事をしてくれた業者さんの一つよ。業者さんはみんな看板に名前と住所や連絡先を出していたから」

 

 初霜は答えながら自分の携帯端末を取り出し、ネットに繋いで検索を始めた。

 

「あったわ、水斗工業!」

 

 目当ての会社を見つけ出し、初霜はさっそく電話をかけたのだった。

 

 

 

 

 

 

 配管工事を主に請け負う水斗工業。その社長一家の自宅兼会社事務所の一画で、水斗 慧爾は一人、今日の業務報告書を書いていた。

 

 社長である父を含めた他の従業員は別の現場で作業中であり、今、事務所に居るのは慧爾を除けば副社長兼経理担当の母だけだった。

 

 その母は特に仕事も無いのか、息子以外に従業員が居ないのを良いことに、自分の席で堂々とタブレット端末でネット動画を鑑賞していた。

 

 慧爾は業務報告書を書き上げると、それを手に自分のデスクを立った。

 

「母さん、これ父さんが帰ったら確認もらっといて」

 

「あら? お父さん達、定時までには帰ってくるって言ってたわよ? それまで待たないつもり?」

 

「今日は時間休をもらって早引けするって言ったでしょ。夕方からライブがあるんだよ」

 

「ああ、那珂ちゃんの」

 

 思い出したかのように納得した母に報告書を渡す際、タブレット端末に映っていた動画が目に入った。

 

 猫の動画だった。猫じゃらしを追って半狂乱になったように駆けずり回っている。

 

「あんたも一緒に観る?」と、母。

 

「別に興味ないし」

 

「なんでよ~、こんなに可愛いのに」

 

「猫を飼いたかったら好きにすればいいじゃないか。別に父さんも反対していないんだしさ」

 

「でも賛成もしてくれないのよ。あんたと同じ、好きにすればって態度。つまり面倒も見てくれないってことでしょ」

 

「だって興味ないし。ペット飼うときは、予防接種を受けさせたりとか色々あるんでしょ。餌やりやトイレの世話とかも面倒そうだしさ。そういうの母さんが全部やるっていうなら、お好きにどうぞ」

 

「薄情者」

 

「はいはい、お先~」

 

 母の文句を軽くいなしながら事務所を後にする。建物は三階建てであり、一階が事務所、二階にリビングやキッチン浴室があり、三階に慧爾の自室があった。

 

 慧爾が自室で出かける準備を整えていると、階下から階段を駆け上がってくる足音が聞こえてきた。

 

「ちょっと慧爾、大変よ、大変!」

 

 ノックもせずに母が部屋のドアを開け放つなり言った。

 

「猫よ、猫!」

 

「何の話だよ?」

 

「あんた、ちょっと今から助けに行きなさいよ」

 

「だから何の話なんだよ!?」

 

 母は一度大きく深呼吸すると、「今ね、電話があったのよ」と話し出した。

 

「猫がね、排水口に落ちているらしいのよ。この雨で流されそうだから助けて欲しいってね」

 

「そりゃ可哀想に。でも人手が居ない。他をあたってくれ」

 

「あんたが居るじゃない」

 

「今から仕事に行ったんじゃライブに間に合わないでしょうが。というか仕事なの、コレ? 残業手当とかつかないでしょ」

 

「まー、我が息子ながら薄情者だこと。あんた、猫の命とライブと、どっちが大事なのよ」

 

「ライブに決まってるでしょ。というか何でウチに電話を掛けてくるのさ。消防署にでも頼めばいいじゃないか」

 

「その女の子が言うには、火事で出払ってるんだって」

 

 女の子、という単語に慧爾は一瞬反応しそうになった。猫を助けたら感謝されるかもしれないという下心が頭をもたげかけたが、いやいや待て待て、と自分を制する。どうせ恋愛対象範囲外の小さな子とかいう落ちに決まっている。

 

「その子ね、二~三か月前だったかしら、あんたが工事しているところよく見かけていたから、ウチの名前を覚えていたんですって」

 

「ふ~ん……ん?」

 

 二~三か月前の現場と言えば、そう、鎮守府の復旧工事に関わっていた頃だ。そのことを思い出したとき、慧爾の目の色が変わった。

 

「母さん、その女の子、名前はなんて言ってた!?」

 

「へ? あ、聞いてなかったわ」

 

「そこ重要! ものすごく重要だから!」

 

 慧爾は仕舞いかけていた作業着を掴み、すぐに着替え始めた。

 

「母さん、その子にもう一度連絡して、すぐに向かいますって伝えておいて! ――あとできれば名前も聞いといて!」

 

「その必要は無いわよ。すぐに向かわせますって、もう答えておいたから」

 

「勝手に承諾するんじゃないよ!? …ったく」

 

 着替え終えた慧爾は階下に駆け下りると、必要そうな道具を手当たり次第に業務用ライトバンに詰め込んで運転席に乗り込んだ。

 

 エンジンをかけ、発車しようとしてハッと思い出す。

 

「そうだった。場所、どこ?」

 

「あんたねえ、女の子の名前よりそっちが重要でしょ」

 

 呆れた様子の母から場所が記されたメモ用紙を受け取り、慧爾はすぐに車を出した。

 

 雨煙に沈む景色に消えて行ったライトバンを見送りながら、慧爾の母は再びため息を吐いた。

 

「まったくあの子ったら、下心がみえみえ過ぎて不安になるわ」

 

 そんな母の心配を余所に、慧爾はライトバンを走らせた。現場は鎮守府にも近い海沿いの道路だ。ということは、やはり電話してきたのは海軍の関係者である可能性が高い。

 

 もしかしたら初霜さん本人かもしれない、と慧爾は期待に胸を躍らせた。もしそうでないにしろ、海軍関係者なら彼女に繋がる伝手を得られるかもしれない、と都合の良い妄想が膨らんでいく。

 

 だが一方で、この降りしきる雨に不安も高まっていた。

 

 排水口に落ちた猫を助けるのは至難の業だ。母は安請け合いしてしまったが、慧爾にできることはせいぜい排水路の内部の様子を確認する程度のことだ。配管の汚れや詰まりを取るために押し流すことは簡単だが、猫にそれをする訳にもいかない。

 

 かといって、猫を相手に何をどうすればいいのか、その妙案も思い浮かばない。これは早まったかな、と期待よりも不安の方が勝り始めた頃、連絡を受けた現場が見えてきた。

 

 海沿いの片側二車線の道路だ。交通量はほとんどなく、行き交う人々も居ない。その車道と歩道の間に作られた排水溝の一画に、四人の少女たちが肩を寄せ合うようにして屈みこんでいた。

 

 遠目から見て十代半ばから後半程度の少女たちだった。近くに車を止めると、それに気づいた少女たちがこちらを向いた。

 

 その姿を見て、慧爾の胸が高鳴った。間違いない。あの彼女――初霜だ。

 

 慧爾はすぐに車を降りた。

 

「あのっ、連絡を受けて参りました。水斗ですっ!」

 

「ありがとうございます。私が連絡した初し――」

 

「あーっ、あの時のお兄さん!?」

 

 自己紹介しようとした初霜の横で、傘を差していた白ワンピースの少女が驚いた顔で声を上げた。

 

 慧爾は一瞬、呆気に取られてその少女を見た。清楚なお嬢様、といった風情の美少女だ。しかし何処かで見覚えがあるなぁ……と思った途端、少女の正体に思い至った。

 

「あぁ、トイレを我慢していたユキさん」

 

「そんな覚え方されてたんですか私!? まあ、その通りなんですけど!?」

 

 顔を真っ赤に染めた少女・ユキに、慧爾は慌てて謝った。

 

 初霜が、慧爾とユキを交互に見比べた。

 

「お知合いですか?」

 

「ええ、まあ、その」

 

 赤い顔のまま俯くユキの様子に、慧爾は詳細は明かさない方がよさそうだ、と空気を読んで本題を進めることにした。

 

「それより、猫が落ちているのは何処ですか?」

 

「ここです」

 

 初霜が排水口の横穴を指し示した。彼女から現状を説明してもらう。猫は今、ロープで繋がった籠の中で大人しくしているらしい。しかし引き上げようとすると猫は飛び出してしまうそうだ。

 

「状況は判りました。取り敢えず地下の様子を確認しましょう」

 

 慧爾はライトバンに戻ると、そこから配管検査用カメラを取り出した。

 

 これは細長いチューブの先端に小型カメラとライトが内蔵された検査器具だ。病院で胃や腸の検査をするときに使う内視鏡によく似た形状をしている。チューブの長さは約8メートル。それがリールで巻かれており、そのリールから伸びたコードをタブレットに差し込むことで、カメラの映像を確認することができた。

 

「お、すっげーなコレ」

 

「やっぱりプロは機材からして違うわね」

 

 他の二人――朝霜と霞が感心している様子に少しくすぐったい気持ちになりつつ、慧爾はカメラを排水口の横穴に挿入した。

 

 斜め下方に伸びる横穴の出口付近で手を止め、タブレットに目を移す。画面にはライトに照らされた籠が映っていた。

 

 その中身は空だった。

 

「居ませんね」

 

「入ってきたカメラに驚いて飛び出したんだわ」

 

 慧爾の顔のすぐ横で初霜が答えた。慧爾と一緒にタブレットを覗き込んでいたのだ。

 

 触れ合いそうなほど近くに居る彼女の存在に、慧爾の胸は高鳴りすぎて止まりそうになった。

 

「え、えと……」

 

「カメラをもっと奥へ入れることはできますか?」

 

 十数センチも離れていない距離で、初霜が慧爾に目を向けて言った。

 

「は、はいっ!」

 

(なにこれ役得過ぎるぞいやそれより猫を探さなきゃだけど――あ~なんか良い匂いする女の子の匂いってやつ?) 

 

 思考が支離滅裂になりつつも、初霜の指示通りカメラを奥へ進める。

 

「止めてください。居たわ!」

 

 初霜が、タブレットを持つ慧爾の手にその手を重ねて、画面に向かって身を乗り出して覗き込む。

 

 慧爾の鼻先に初霜の濡れてしっとりとした黒髪が触れて、彼は思わず呼吸を忘れそうになった。

 

(僥倖! これは僥倖っ! 女の子の香り吸い放題!?)

 

 しかし多幸感が過剰過ぎて呼吸がうまくできない。しかもそこへ、

 

「本当ですか!?」

 

 初霜とは反対側から、ユキも慧爾に身を寄せてタブレットを覗き込んできた。

 

(美少女サンドイッチ!?)

 

 夢にまで見た奇跡のシチュエーションが思いがけず実現し、慧爾は今度こそ心臓が止まりそうになった。

 

(いや止まるなら心臓よりも時間だ。この時間よ永遠に続け)

 

「仔猫だわ。奥で震えて蹲っている」

 

「びしょ濡れですね。このままじゃ衰弱する一方ですよ」

 

 幸せ回路発動中の慧爾を、初霜とユキの声が現実に引き戻した。

 

「ちょっと失礼します」

 

「あ、すいません」

 

 慧爾が声をかけると、二人は彼の視界を塞いでいたことに気づいて身を離した。そのことに少し、いやかなり落胆しながら、慧爾は地下の様子を確認する。

 

「猫の居る場所は結構広いですね」

 

 排水口の横穴の先は、箱の内部のような立方体の空間になっていた。歩道に沿って伸びる地下排水路の本流と、この地上から流れ込む支流が合流する際に圧力が一気に高まらないよう、概ね50センチ四方の立方体空間が設けられているようだ。

 

 仔猫はその片隅で震えながら蹲っていた。

 

「どう、助けられそう?」

 

 背後から霞が尋ねた。

 

「難しいですね」慧爾は正直に答えた。「仔猫が居るこの場所はマンホールもない孤立した空間です。人間の手が届く場所じゃない。やはり籠に入れて引き上げるしかなさそうですね」

 

「そこのマンホールを開けることはできますか?」

 

 初霜が歩道のマンホールの蓋を指さした。

 

「さっきも言った通り、この場所から離れすぎて手が届きませんよ。本流の排水路も直径が仔猫よりも少し大きい程度ですから、人間が潜り込むのも不可能です」

 

「でもマンホールの下くらいは人間が入れるようになっているのでしょう? だったら、猫をマンホールの下まで追い立てることができれば、助けられるんじゃないかしら」

 

「なるほど」

 

 慧爾はチューブに付いた巻き癖とたわみを利用してカメラの向きを変え、本流が流れる排水路の横穴へ向けた。

 

 本流は、カメラを入れた支流に対して直角に交わるように流れていた。左右90°横に上流と下流の横穴が見える。その径の大きさは慧爾見立て通り仔猫よりも少し大きい程度だ。

 

 この横穴から上流か下流のどちらでも概ね5メートルほど先へ進めば、マンホールの場所にたどり着ける。このカメラで猫を上手く追い込めば助けることができるだろう。

 

 問題はカメラの操作性だ。カメラはチューブの先端にくっついているだけでリモコン操作で向きを変えるような機能は無い。なので仔猫を追い立てながら90°真横に向きを変えて本流に押し込むという高度なことはできない。

 

(でも、下流側のマンホールからカメラを挿入すれば、上流側まで一直線だから何とかなるか?)

 

 問題はマンホール同士の距離が10メートル離れているのに対し、カメラのチューブが8メートルと長さが足りないことだが、しかし残り2メートルぐらいなら餌か何かで誘き寄せることもできるかもしれない。

 

 やってやれないことは無い。

 

「わかりました。マンホールの蓋を開けましょう」

 

 慧爾がそういうと、初霜をはじめとした艦娘たちは皆表情を綻ばせた。

 

「仔猫の様子を確認する必要もありますから、カメラはしばらくこのままにしておきましょう。誰か預かってもらえますか?」

 

「やるやる、アタイがやる!」

 

 朝霜が即座に立候補した。彼女にカメラとタブレットを渡し、慧爾は再びバンに戻ってマンホールフックを持ち出した。

 

「上流側と下流側の二つのマンホールを開放します。片方からカメラを送り込んで、反対側のマンホールまで仔猫を追い立てましょう」

 

 慧爾は自分の考えを説明しながら、先ず上流側の蓋にフックを引っ掛けた。

 

 しかし、引き上げようと力を込めてもビクともしない。やはりこれも錆びているのだ。ならいつも通りハンマーで叩こうと思ったが、それでは仔猫が音に驚いて逃げてしまうかもしれないという可能性に思い至った。

 

 慧爾は周囲を見渡し、マンホールの数を確認した。

 

 仔猫の近くにあるマンホールは、上流と下流にあるこの二か所だけだった。仔猫が地下排水路を移動してマンホールより奥へ行ってしまったなら、もう助けられなくなる。

 

(ハンマーで叩かずに開けるしかないか)

 

 慧爾はフックを持つ両手に力を籠め、両足を踏ん張った。

 

「ふっ――!」

 

 短く息を吐き、奥歯を噛みしめ渾身の力を込めて蓋を引き上げようとする。

 

「ぐ…ぐぅぅ!」

 

 しかし開かない。もう一度、勢いをつけて引っ張るが、それでもビクともしなかった。日ごろから肉体労働に従事している分、人並み以上の筋力はあると自負していたが、しかし慧爾一人の力では限界があるようだった。

 

 それでも再び力を込めた。全身の筋肉に熱が籠り、身体を滴り落ちる雨水に自分の汗が混じったのが分かった。

 

「くそ!?」

 

 思わず悪態が口を吐いて出た。額を流れる汗をぬぐい、もう一度、力を込める。

 

「私も手伝います!」

 

 初霜が迷うことなく慧爾の横に並び、片方のマンホールフックを握った。

 

「すみません」と、慧爾。

 

 胸を高鳴らせている余裕は無かった。ただ彼女の優しさを感じつつ、二人は「せーの」と声を合わせてフックを引き上げた。

 

 ガコン! と音を立てて蓋が持ち上がった。

 

「うわっ!?」

 

 力を込め過ぎた。二人はしりもちをついてしまい、マンホールの蓋が地面に落ちて大きな音を響かせた。

 

「しまった!?」

 

 けたたましい音が響き渡る中、カメラを監視していた朝霜が声を上げた。

 

「仔猫が逃げた!」

 

「どっち!?」

 

 霞がすかさず訊き返しながらタブレットを覗き込んだ。しかし、そこにもう仔猫の姿は無い。

 

 朝霜が答えた。

 

「わからねえ。上に飛び上がって画面から消えたきりだ」

 

 慧爾はそれを聞いて、すぐに立ち上がってマンホールの蓋を穴からずらした。

 

 開いたマンホールに、初霜が躊躇うことなく飛び込んだ。

 

「危ないですよ、初霜さん!」

 

「ごめんなさい、でも怪我は無いわ!」

 

 穴の底から初霜が答えた。穴の深さは1.5メートルほどしかない。初霜は飛び込むや否や、すぐさましゃがみ込んで足元に開いていた排水路本流の横穴を覗き込んでいた。

 

 足元を流れる雨水に顔や髪、服が濡れることなど気に掛ける素振りさえなかった。

 

「初霜っ!」霞がマンホールに駆け寄ってきた「ほら、懐中電灯!」

 

「助かるわ!」

 

 初霜は、投げ込まれた懐中電灯を上も見ずにキャッチするとすぐに横穴の奥を照らした。

 

「居ましたか?」

 

「分かりません」奥を覗き込んだ姿勢のまま初霜は答えた。「水斗さんは反対側のマンホールも開けてください。あっちに逃げた可能性があります!」

 

「わ、わかりました!」

 

 慧爾はマンホールフックを拾い上げようとしたが、なぜか手近にあったはずのそれが無かった。

 

 辺りを見渡すと、すでに霞がマンホールフックを手に下流側の蓋を開けようとしているところだった。

 

「あんた、早くこっちに来て手伝ってったら!」

 

「は、はい!」

 

 慌てて駆け寄り、二人して力を込める。その間に朝霜はカメラを操り地下の様子を探り続けていた。

 

「駄目だ、この場所のどこにも居ねえ。どっちかに逃げたのは間違いねえぜ!」

 

「上流側には居ないわ!」

 

 初霜がマンホールから顔を出した。その片頬は泥で汚れていた。

 

「霞、そっちはまだ開かないの!?」

 

「やってるわよ! でも、開かないのよ…っ!!」

 

「私もやります!」

 

 ユキも傘を捨てて加勢した。

 

「「「せーの!」」」

 

 三人で力を合わせ、ついに蓋が開いた。

 

 今度は慧爾がすぐに飛び込んだ。懐中電灯を点け、底に伏せて排水路の横穴を覗き込む。足元に溜まった泥が頬にべちゃりと付着して、そのおぞましい感触と悪臭に悪寒が走ったが、それを必死に堪えながら横穴の奥に目を凝らす。

 

 懐中電灯の光が差し込む範囲には何も見えなかった。さらに目を凝らすと、奥の闇に何かが煌めいたのが見えた。

 

 仔猫か、と一瞬思ったが、違った。あれはライトの光だ。朝霜が操っているカメラ先端のライトの光が漏れて見えているのだ。

 

 それが見えてしまっているということは、この排水路にも仔猫は居ないということだった。

 

 慧爾は立ち上がり、マンホールから顔を出した。

 

「こっちにも居ません。音とは反対方向に逃げたと思いますから、きっとここを通り過ぎてさらに下流まで行ってしまったんだ。…カメラをこっちに持って来てください」

 

 朝霜がカメラを引き上げ、慧爾に手渡した。慧爾はマンホール内で向きを変え、下流側の排水路の横穴にカメラを挿入した。

 

 奥へ奥へとカメラを送り込む。しかし、仔猫は見つからなかった。5メートル進み、また支流との合流地点である立方体空間に出たが、そこにも居ない。

 

 さらにカメラを奥へ押し進める。手元のチューブの残りが短くなってきた。

 

「――駄目です、見つかりません」

 

 チューブの長さいっぱいの8メートル先までカメラを送り込んだが、仔猫は見つからなかった。

 

 おそらくこの先も支流との合流地点ごとに立方体空間があり、そのどこかに居るはずだが、下流側にはもうマンホールが無い。そのため、もし仔猫を見つけることができたとしても、もうマンホール側へ追い立てる手立てが無かった。

 

 失敗だ。慧爾は歯噛みしながらカメラを引き寄せていると、ふと頭上に影が差した。

 

 慧爾が顔を上げると、艦娘たちが集まって彼を見下ろしていた。その表情は皆、落胆の色があった。

 

 残念ながらこれ以上は打つ手がない。慧爾はそう告げようとしたが、そのとき、見下ろす顔ぶれの中に初霜の姿が無いことに気が付いた。

 

 まだ上流側のマンホールに居るのかな、と思った矢先、

 

「にゃーん!」

 

 と声が聞こえた。

 

 仔猫が鳴いたのかと思ったが、違う。これは初霜の声だ。艦娘たちが下流側に目を向け、慧爾もマンホールから顔を出してその方向を眺めた。

 

 下流側の10メートル以上先で、初霜が歩道脇の排水溝に這い蹲っていた。

 

「にゃーん!」

 

 同じように開いていた排水口の横穴にめがけて鳴き真似をし、そして耳をそばだてる。しかし反応が無かったのか、初霜は立ち上がるとそのまま溝を進み、次の排水口の横穴に移動して同じことを繰り返した。

 

「初霜さん……」

 

「悪い癖が出たわね」霞がやれやれとため息を吐いた。「あの子、ああなるとしつこいわよ。生半可な理由じゃ引き下がらないわ」

 

「霞が諦めろって命令すれば、あいつも従うさ。アタイたちのリーダーなんだしさ」

 

「本当に従う気があるの?」

 

「お前自身が納得してりゃな」

 

 朝霜が二ヒッと笑い、霞はまたため息を吐いた。

 

「先は長いわよ」

 

「しゃーない、付き合うさ」

 

 二人は頷き合い、そして下流側に向かって駆け出すと、初霜の傍を通り過ぎてその先の排水口の横穴でそれぞれ屈みこんだ。

 

「にゃーん」

 

「にゃー」

 

「にゃあーん。返事して。にゃああん」

 

 日暮れが近づいているのだろう。周囲が徐々に薄暗くなっていく。その雨が降り続く道路で、少女たちが等間隔に這いつくばりながら猫の鳴き真似をしている。

 

 それは余りにも異常な光景だった。他の人が通りかかっていないから良いようなものの、事情を知らなければ狂人の集団と思われても仕方ないだろう。

 

 けれど、あの三人はそんなことを気にもかけずに、仔猫の安否だけを気にかけて行動していた。

 

 たかが猫だ。慧爾は困惑していた。たかが仔猫一匹のために雨の中で何をムキになっているんだ。

 

「私も探します」

 

 困惑する慧爾を残して、ユキまで再捜索に加わった。慧爾の居るマンホールから30メートルも離れた場所で同じように鳴き真似を始める。

 

 あんな遠くに居るものか、と慧爾は疑った。もし居たとしても、それからどうしろというんだ。こんなのはもう悪あがきでしかない。もう見ていられない。誰も諦めようと言えないのなら、自分がそれを言うしかない。

 

 慧爾がそう思ってマンホールから這い上がった、その時、

 

「見つけました!」

 

 遠くから上がった声に、全員が顔を上げた。一番遠くに居たユキが、手を振っていた。

 

「ここです。この下に居ます!」

 

 まさか、と意表を突かれた慧爾を、初霜が振り返った。

 

「水斗さん、カメラを!」

 

「は、はい」

 

 艦娘たちと共にユキの居る場所に集まった。

 

 誰もが雨に濡れているだけではなく、泥にもまみれていた。しかしその目は排水口の横穴に注がれ、その耳は穴の底から漏れ聞こえる微かな仔猫の声を聴いていた。

 

 カメラを入れると、確かに居た。最初に見つけた時と同じように立方体空間の隅に蹲っている。

 

 その様子に艦娘たちの口から安堵の溜息が漏れたが、慧爾はすぐに首を横に振った。

 

「これ以上はどうしようもありません。近くのマンホールに追い立てようにも距離が離れ過ぎています」

 

「せめて隣の合流地点まで追い立てられませんか。そうやって一か所ずつ移動させて、そのたびにカメラも排水口から入れなおすというのはどうでしょう?」

 

「直進ならともかく、本流の排水路の位置は支流に対してほぼ真横ですから、このカメラじゃそこまで大きな方向転換はできないんですよ。仔猫もうまく追い立てられるかどうか。……せめて自走式カメラでもないとほぼ無理でしょう」

 

「自走式カメラ?」

 

「ええ、カメラの先端にモーターと車輪がついた高級品ですよ。複雑な配管の検査なんかに使うんです。でもウチの会社は持っていないんですよ。島内の他の業者も導入したなんて話は聞いたことないですし……」

 

 慧爾は説明しながら、自己嫌悪に陥りそうになった。ここまで一生懸命に身体を張って頑張ってきた初霜たちに、あきらめを突き付けることしかできない自分が情けなかった。

 

 しかし、

 

「ロボット!」初霜の目が、なぜか輝いていた。「そうよ、それを使えば良いんだわ!」

 

「いや、だからですね。持ってないんですよ。俺の話を聞いてました?」

 

「わかってます。でも、あるんです!」

 

「は?」

 

「あるのよ」

 

「あるぜ」

 

 初霜だけではなく、霞と朝霜も同じことを言った。

 

 呆気にとられる慧爾とユキを余所に、三人は目配せしあった。

 

「よっしゃ、そうと決まればダッシュで取ってくるぜ!」

 

「あんた一人で行かせたら無断持ち出しで盗難になっちゃうわ。私も行くわ」

 

「二人とも、お願いね」

 

 朝霜と霞が水たまりを蹴立てながら鎮守府の方角へ向かって走り去っていった。初霜はそれを見送ることもなく、すぐに例のロープを結わえ付けた籠とペースト餌を取りに行った。

 

 初霜はそれらを手に戻ってきて、言った。

 

「この籠に餌を入れて地下へ降ろします。霞たちが戻ってくるまで仔猫をここに留めましょう」

 

「いったい何を取りに行ったんですか?」

 

「ロボットですよ。ちょうど良さそうな小型偵察ドローンが基地にあるんです」

 

「へえ、流石は艦娘さんだ。そんな便利なものまであるんですね」

 

「まあ偶然ですけどね」

 

 素直に感心する慧爾に、初霜は微笑みを返した。その顔は泥で汚れていたが、それでも慧爾の目にはとても可憐に見えた。

 

 が、その可憐な笑みがふと、きょとんとした表情に変わった。

 

「あら、そういえば私たちが艦娘って言いましたっけ?」

 

「…俺、聞いてませんでしたっけ?」

 

「名乗りそこねた気もしますが」

 

「そうでしたっけ」

 

 そういえばそうだった、と慧爾は思い出した。けれど、前から気になっていた人だったので名前を聞くまでもなく知っていました。なんて答えたら流石に引かれてしまうかも知れない。

 

 ここは胡麻化すしかない。しかしどうやって? と悩む慧爾の目に、傍に佇んでいるユキの姿が入った。

 

 そうだ、この子も艦娘じゃないか。

 

「あ、えっとですね。今日こっちに来る前に艦娘寮の検査もやってたんですよ。そのときこちらのユキさんともお会いしましてね。艦娘さんと一緒に居るなら、あなた方もやっぱり艦娘なのかな、って」

 

 よし、上手く誤魔化せた。と慧爾が心内でガッツポーズを取っている脇で、

 

「え?」

 

「え?」

 

 初霜とユキが、互いに驚いた表情で顔を見合わせていた。

 

 

 

 

 

「まさか、あなたも艦娘だったなんて」

 

 初霜はタブレットに映る仔猫を眺めながら、可笑しそうにクスクスと笑った。

 

 仔猫は今、降ろした籠の中で大人しく蹲っている。それを同じように眺めながら、雪風が少し恥ずかしそうに言った。

 

「気づかなくても当然ですよ。だって、こんなヒラヒラした格好の艦娘なんて居ないですもん」

 

「そうかしら。ウチの艦隊にも可愛い私服の人たちはたくさん居るわ。それにとっても似合っていますよ、雪風さん」

 

 そう言われて、雪風は顔をさらに赤くして俯いた。

 

 霞と朝霜が戻ってくるまでの間、二人は一つの傘の下で肩を寄せ合いながら、こうして仔猫の様子を見張っていた。

 

 ちなみに慧爾は開けっ放しのマンホールを放置しておくわけにもいかないので、少し離れたそのマンホールの傍に所在なさげに佇んでいた。

 

 日は既に暮れ、辺りは暗闇に覆われ、等間隔に建っている街灯の明かりが相合傘の二人を照らしていた。

 

 雨だれが傘に落ちる音を聞きながら、雪風は言った。

 

「普段はこんな格好、絶対にしないんですけどね。後輩がどうしてもっていうから……」

 

 雪風はそこまで言って、初風のことを思い出し表情を曇らせた。

 

「雪風さん?」

 

「あ、何でもないです」

 

 雪風はすぐに表情を取り繕ったが、しかし、初霜の目がじっと雪風を見つめていた。

 

「あのぉ…初霜さん?」

 

「泣いていましたよね」

 

「へ?」

 

「雪風さんを初めて見た時、泣いていたように見えたんです。…この雨の中で傘も差さずに、自暴自棄になっているみたいに――って、あ、ごめんなさい」

 

 初霜が慌てて頭を下げた。

 

「初対面なのに、こんなこと言ってしまって。…気に障ってしまったかしら」

 

「……っ」

 

「ゆ、雪風さん?」

 

 雪風は再び俯き、肩を小刻みに震わせていた。

 

「も、もしかして怒っていますか? どうしよう、私ったら、すごく失礼なことを――」

 

「いえ、怒ってる訳じゃないです。…ただ」

 

「ただ?」

 

「ちょっと恥ずかしくて……全部その通りなんです。初霜さんが見透かした通りです」

 

 雪風は赤くなった顔を上げ、深呼吸のようなため息を一つ吐いた。

 

 初霜は言った。

 

「良かったら話してくれませんか? 差し支えなければ、ですけど」

 

「面白くもない愚痴ですよ?」

 

「それであなたの心が軽くなるのなら」

 

 ふふ、と初霜は静かに微笑んだ。

 

 その笑みがあまりにも柔らかくて、優しさに溢れているように見えたから、雪風は「実はですね」と自分でも驚くくらいあっさりと言葉が口から洩れて出た。

 

 実家が多額の借金を背負っており、雪風の稼ぎをその返済に充てていること。それにも関わらず母は借金返済のためと言い張り無茶な投資を繰り返していること。そんな家庭の事情を、気づけばぺらぺらと話していた。

 

「だいたい私の両親はどっちもクズなんですよ、クズ」

 

 今まで誰にも話さなかった――話したくなかった身内の恥を、思うままに吐露していた。

 

「もぉ~本当に、ふざけるなって言いたいですよ。っていうか言っちゃったんですよ。死んでしまえって」

 

「…そう」

 

 初霜は静かに相槌を打つ。感情のままに言葉を吐き出す雪風に、同調する訳でもなく、だけど否定もせず、静かに受け止め、その心に寄り添うように。

 

 初霜がそうやってどこまでも聞いてくれるものだから、雪風も言葉が止まらなくなっていた。

 

 迷惑ばかりかけて死んだ父への罵倒。娘の苦労を顧みず面倒ばかりかける母への罵倒。縁を切ってやりたい。死んでしまえばいいのに。いやいっそこの手で殺してやりたい。実の親へのそんな激しい感情さえ何度も吐き出した。

 

 心の堰が決壊し、溜まりに溜まった淀みが一挙に溢れ出していた。

 

 バカみたい。殺してやりたい。死んでしまえ。もう嫌だ。逃げ出したい。

 

 ……もう、死にたい。

 

 気づけば、雪風は泣いていた。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を初霜の胸に埋めて泣いていた。

 

 小さな傘の下で、初霜に抱きしめられながら、雪風は子供の様に泣きじゃくった。

 

 結局、初霜は最後まで何も言わなかった。助言や、励ましや、ましてや非難めいた事も言わなかった。

 

 ただ、時折雪風を見つめる瞳が一緒に泣いてくれているように見えて、だから、それだけで雪風は救われた気がした。

 

 

 

 

 霞たちが戻ってきたのは、それからさらに三十分ほど経ってからだった。

 

「待たせたわね。説得するのに手間取ったわ」

 

「この石頭がなかなかウンと言わねえから、無理やり引っ張ってきたぜ!」

 

 二人に引きずられるように両腕を掴まれて連れてこられたのは、例の技官だった。

 

「あなた達は無茶苦茶ですよ!? これは軍の備品なんですよ。勝手に使って壊れたらどうするんですか!?」

 

「この程度で壊れるなら実戦で使い物になる訳ないでしょ!」

 

 霞にすかさず反論され、技官はぐうの音も出せなかった。

 

 初霜が技官の前に立った。

 

「わがままなのは承知の上です。でも、あなただけが頼りなんです。責任なら私が取ります。ですからどうか、お願いします」

 

 そう言って深く頭を下げた初霜に、技官は冷たい目で言った。

 

「責任って軽々しく言わないでください。部署も違う、一介の艦娘でしかないあなた達がどう責任をとるっていうんですか」

 

「そうですね。私たちに脅されて仕方なく、というのはどうでしょう?」

 

 虫も殺さぬような大人しい顔のまま、初霜はそう言った。技官はそれになんの説得力も感じなかったので呆れた笑みを浮かべた。

 

「僕を脅す? 大の男が、こんなか弱い少女に力づくで脅されたなんて誰が信じるというんです。僕を馬鹿にするのも大概にして―――んが!?」

 

 技官はいきなり両腕を背後に捻り上げられ、無理やり両膝を地面に付かされた。

 

「あんた、艦娘のことを何も理解してないようね」

 

「アタイらも人を殺すための訓練を受けているんだ。素人の腕を素手で折るくらい朝飯前なんだぜ」

 

 霞と朝霜が両側から腕を極めながら、ゾッとするような冷たい声でそう言った。

 

「二人とも、やり過ぎよ」

 

 初霜の言葉に、二人がぱっと手を離した。

 

「乱暴な真似をしてごめんなさい。でも、これで説得力は出たと思います」

 

 そう言いつつ、初霜が屈みこみ、その両手で技官の頬を包み込んだ。傍から見れば頬を優しく撫でているよう見えるが――慧爾にはそう見えて思わず技官に嫉妬の念を抱いたが――当の技官はそれどころではなかった。

 

 頬を包み込んでいるように見えた初霜の両手、その左右の薬指と小指が、首元の頸動脈を圧迫していた。

 

 初霜がその気になれば地獄の苦しみを与えられるどころか、命さえも取られかねない。そして技官を見つめる初霜の目は、それを行うことに何の躊躇いもなさそうな冷たい光を宿していた。

 

(狂ってる!?)

 

 技官は心底から恐怖を味わった。

 

 技官は戦場に出たことが無かった。死線を潜り抜けてきた艦娘たちが持つ戦場の顔を、彼は初めて間近に見たのだ。

 

「わ、わかりました。やります」

 

「本当ですか。ありがとうございます!」

 

 初霜の表情が途端に明るくなった。一瞬前までの深海の底のような冷たさが嘘のような表情の変化だった。

 

 解放された技官が青ざめた顔をしながらドローンの準備を始めた。朝霜がそれを眺めながら、呆れたように言った。

 

「おい初霜、誰がやり過ぎだって? お前の方がよっぽどえげつねえじゃねえか」

 

「だって、あれ以上やったら、あなた達まで脅迫犯になっちゃうでしょ?」

 

 初霜は当然のようにそう答えた。その言葉と態度に、霞も肩をすくめた。

 

「あんたを止めなかった時点で私たちも同罪よ」

 

 慧爾には彼女たちの遣り取りの意味が分からなかった。

 

 しかし、同じ艦娘である雪風には初霜が何をしたのか理解できてしまい、それゆえに少し引いていた。

 

「初霜さん。…なんでそこまでするんですか」

 

「えっ?」

 

 初霜は意外だ、とでも言いたげな表情で雪風を見つめ返した。そんな質問をされることさえ考えたことが無さそうな顔だった。

 

 初霜は少しだけ考え、答えた。

 

「気が付いてしまったから、ですかね」

 

「何に?」

 

「助けを求める声に、ですよ。…一度気づいてしまったら、もう後戻りできないじゃないですか」

 

 それは至極真っ当で、そして誰もが持っている当たり前の感覚のように雪風には思えた。雪風だって仔猫の鳴き声を聞いてしまったから放っておけなくなったのだ。

 

 しかし他人を脅迫してまで救出しようなんて普通は思わない。

 

(やり過ぎですよ、初霜さん……)

 

 そんな初霜に脅された技官がドローンの準備を終えた。

 

 手のひらサイズの四輪車を排水口の横穴の傍に置く。そのドローンからは飛行用のプロペラが外されていた。

 

 技官がヘルメットを被りながら説明した。

 

「地下の狭い排水路を走ることを考慮してプロペラはオミットしました。これからドローンを地下に進入させ、仔猫を上流側のマンホールに追い込みます」

 

「じゃあ俺がマンホールの底で待ち伏せます」

 

 慧爾が30メートル先のマンホールに移動し、身体を入れてから、手を振って合図した。

 

 ドローンを入れるため、地下に下ろしていた籠を引き上げる。仔猫が籠から飛び出し、立方体空間の隅に蹲ったのを確認してからカメラも引き上げた。

 

 ヘルメットのバイザーを下ろしリモコンを手にした技官の肩を、朝霜が叩いた。

 

「頼むぜ、技官の兄ちゃん。仔猫の運命はあんたの腕前にかかってんだ」

 

「失敗したら殺すなんて言いませんよね?」

 

「成功したらジュース奢ってやるよ」

 

「安い見返りだなぁ」

 

 技官はぼやきながらリモコンのスイッチを入れた。艦娘たちにも状況が分かるようドローンのカメラ映像がタブレットに転送され、彼女たちの目がそちらに集まる。

 

「行きます!」

 

 技官の声とともに、ドローンが排水口の横穴に飛び込んだ。そのまま雨水とともに急な傾斜を滑り落ち、仔猫の居る空間に到達する。

 

 ドローンのライトに照らし上げられて、仔猫の姿が露わになった。仔猫は突如現れたドローンに驚き、足元に溜まった雨水を蹴立てながら走り回った。

 

 朝霜が映像を見ながら叫んだ。

 

「仔猫が逃げちまうぜ。下流側に行かないように入口を塞ぐんだ!」

 

「任せてください!」

 

 ドローンが狭い空間内で素早く急旋回し、下流側の排水路の前に陣取った。そのドローンから逃げようと、仔猫は上流側の排水路に潜り込んだ。

 

「よっしゃ、いいぞ!」

 

「このまま追い立てます!」

 

 技官が慎重にドローンを操作し、仔猫を追った。支流との合流地点ごとにある同じような立方体空間へ入るたび、技官はドローンを細かく操作し、仔猫を慧爾の居る場所まで追い立てていく。

 

 そして――

 

 慧爾の居るマンホールの底。その足元にある排水路の横穴から、ドローンが発するけたたましいモーター音が響いてきた。

 

「水斗さん!」頭上から初霜が見下ろした。「もうすぐ猫が来ます!」

 

「わかりました」

 

 それから少しの間、ドローンが細かく動いたような音がした後、スピードを上げたのだろう、モーター音が一気に大きくなった。

 

 と、次の瞬間、どろどろに汚れた小さな頭が、横穴からひょこっと現れた。

 

「うわっ!?」

 

 仔猫だ。慌てて手を伸ばすと、仔猫は怯えてすぐに頭を引っ込めてしまったが、ドローンに追われ、またすぐに飛び出してきた。

 

 仔猫が慧爾の股下を潜ろうとしたのを、なんとかぎりぎりで捕まえた。

 

「やりました!」

 

「やったわ!」

 

 二人の声の他に、他の艦娘たちもわっと歓声を上げた。

 

 仔猫を抱えて頭上を見上げると、そこに涙を浮かべて微笑む初霜の姿があった。

 

 その彼女が慧爾に向かって手を差し伸べた。

 

 手を貸してくれるのかと思い、慧爾はその手を取ろうとしたが、生憎と彼は両手で仔猫を抱いていた。しかもまだパニック状態でじたばた暴れており、しっかり抱えていないと落としかねない。

 

 このままじゃマンホールから上がれもしないので、仕方なしに先ずは仔猫を初霜に差し出した。

 

「良かったわね、猫さん」

 

 初霜は泥だらけの猫を嬉しそうに胸に抱いた。その周りに他の艦娘たちも集まってくる。

 

 霞がタオルを手に傍に寄る。

 

「ほら、初霜。猫をこっちに頂戴。私がきれいに拭いてあげるわ」

 

「よろしくね」

 

 仔猫を霞に預け、初霜は再び慧爾に向かって手を差し伸べた。

 

 今度こそその手を取ろうとした慧爾の向う脛に、ゴツっと固いものがぶつかった。

 

「いってぇ!」

 

「あ、ぶつけちゃいましたね。すいません」

 

 技官が初霜の背後から顔を覗かせた。

 

「ドローン、拾ってもらえませんか」

 

「…はいはい」

 

 足元のドローンを拾い上げ、ちょうど近くに居た初霜に手渡した。

 

 初霜はドローンを手に、技官へ振り返った。

 

「技官さん。手荒な真似をして申し訳ありませんでした。脅迫の責任はしっかりとります。でも、あなたのおかげで仔猫を助けることができました。だからお礼を言わせてください。本当に、ありがとうございました」

 

 ドローンを返却し、深々と頭を下げた初霜に、技官はやれやれと頭をかいた。

 

「脅迫って何のことですかね。これは追加の評価試験ですよ」

 

「え?」

 

「改善点はいっぱいありますが、少なくとも仔猫を助けるくらいには役立てることが分かりましたから、まあ悪い結果じゃないですね」

 

 半分自虐気味に、けれどもう半分は、小さな命を救えたという自負を感じさせる表情で、技官は笑った。

 

 慧爾はそのやり取りを横目で見ながら自力でマンホールから這い上がろうとしていた。

 

「お兄さん、大丈夫ですか?」

 

 雪風が傍に寄り、手を差し伸べてくれた。

 

「ありがとうございます」

 

 礼を述べてその手を取り、地上に上がった慧爾に雪風が言った。

 

「お兄さんもお疲れさまでした。一緒に頑張ってくれて、感謝です」

 

「まあ仕事みたいなものですからね」

 

 そう言って、そういえば仕事なのかコレ? と自分の言葉に首を傾げた。

 

 母が一体どういう条件で慧爾を送り出すことにしたのか、そのあたりの事情を確かめもせずに飛び出してきてしまったから、どういう見積りをだして、誰に請求すればいいのか見当もつかない。

 

 そう考えこむ慧爾の前に、初霜がやってきた。

 

「水斗さんも、ありがとうございました。突然の依頼だったのに快く駆けつけてくださって、本当に、なんとお礼を言えばいいか…」

 

「いえ、困っている方を助けるのは当然のことです!」

 

 思わず見栄と胸を張って格好つけてしまった。

 

 初霜は「ありがとうございます」とまた笑顔になったが、不意にまじめな表情になった。

 

「ところで、少し相談があるのですが」

 

 初霜がさらに距離を詰め、声を潜めた。

 

「な、なんでしょう?」

 

 どぎまぎする慧爾に、初霜は言った。

 

「お支払する金額はお幾らくらいでしょうか?」

 

 真面目な顔で世知辛い話題を振ってきた初霜に、慧爾はがっくりと肩を落とした。

 

 というか、そもそも自分は何をしに来たのだろう。ここでやったことと言えばマンホールの蓋を開けた程度だし、しかもそれで仔猫が逃げてしまったのだから、これでは足を引っ張りに来たようなものだ。

 

 こんな有様のくせに費用を請求しようものなら、初霜からの心象は悪くなってしまうだろう――と、そこまで思って、そういえば初霜に逢いにここへきたのだった。と、自分が飛び出してきた根本的な理由を思い出した。

 

 ならば、答えは決まっていた。

 

「費用なんかいりませんよ。あなたのお役に立てたのなら、それだけで十分です」

 

 少し気の利いたセリフを言ったつもりだったが、初霜はきょとんとした表情で慧爾を見返していた。

 

(やば、これは滑ったかな)

 

 慧爾は後悔し、慌てて言い足した。

 

「そ、その、俺も猫好きですし、ほっとけないというか、困ってる人は助けなきゃって…あ、困ってる猫か」

 

 目を泳がせながら言い訳する慧爾の様子に、初霜はふふっと笑った。

 

「優しい人なんですね。でも、ただ働きでは会社の方から叱られてしまうのでは無いですか?」

 

「それなら全然大丈夫ですよ。ウチの社長は俺の親父ですし、副社長はお袋ですから。それに今回の費用なんて俺の人件費ぐらいですし、両親からしたら元からあってないようなものですよ」

 

「でも……」

 

 初霜はなおも言い募ろうとしたが、そこへ霞が仔猫を抱えたままやってきた。

 

「初霜、ちょっといいかしら」

 

「どうしたの、霞」

 

「この子、どうする?」

 

 霞は腕の中の仔猫に目を落とした。タオルにくるまれた仔猫は、与えられたちゅうるを前足で抱え込んで無我夢中でむしゃぶりついていた。

 

「この子、ノラなのよ。でもまだ小さいし、また排水口に落ちるかもしれないと思ったら、無責任に野放しにするのも気が引けてね」

 

「なら、アタイたちで飼うか?」

 

 朝霜が横からひょいと顔を出し、仔猫の小さな額を指で撫でた。

 

 霞が首を横に振った。

 

「寮ではペット禁止よ。そもそも私たち船乗りは長期間留守にしがちなんだし、ペットを飼うには不向きな職種だわ」

 

「船と言えばネズミ捕り用の猫が居るって昔から相場が決まってるぜ」

 

「船体で飼う気? 戦場に道連れなんて可哀想だわ」

 

「それもそうか」

 

 朝霜も諦めて肩をすくめた。

 

 初霜が言った。

 

「私が里親を探すわ。でも、里親が見つかるまではどうしようかしら」

 

 うーん、と三人の艦娘が顔を寄せ合って悩みだす。その時、初霜の目が一瞬だけ慧爾の方へ向いた。

 

(あれ? 俺もしかして期待されてる?)

 

 でも、何を? 慧爾が疑問に思ったとき、すぐ横で雪風が言った。

 

「お兄さん、さっき猫好きとか言ってませんでしたっけ?」

 

「あ!?」

 

 しまった、そうだった。初霜の前でテンパってしまい、心にもないことを口走ってしまったんだった。

 

 雪風の発言で、初霜たち艦娘三人組の視線が慧爾に集まった。

 

 初霜が少し迷いを見せながら、言った。

 

「あの、大変恐縮なお願いなんですが……」

 

 その次の言葉はすぐに予想できた。仕方ない、ここは少しでも甲斐性を見せるのが男の役目というものだ。と慧爾は腹をくくった。

 

「その仔猫、ウチで預かりますよ」

 

 先回りしてそう言うと、初霜の顔に満面の笑みが咲いた。

 

「水斗さん…あぁ、良かった。ありがとうございます。本当に、ありがとうございます!」

 

 初霜が手を伸ばし、慧爾の両手を握った。小さくて、柔らかなその手。

 

 気づけば雨は止んでいた。

 

 空を覆っていた雨雲が流れ、丸い月がその姿を現し、月光が周囲を朧げに照らし上げる。

 

 淡い月光に纏った雨粒が煌めき、慧爾には初霜がいっそう輝いているように見えた―――

 

 

 

 

 

 

 

 




次回予告

 誰よりも傍に居たはずなのに、その心に触れることがかなわない。

 雪風の心を求めてあがく初風は、仲間たちに誘われて酒で悲しみを紛らわす。

 しかし埋まらぬ心の隙間。雪風の心に広がる荒野に気が付いてしまったとき、初風は行き場のない感情を爆発させる。

次回「第二十五話・酒場場外大乱闘」

初風 「私、今とてもイラついているの。邪魔しないで」

DQN「なになに~、あの日~? ――ぶべっ!?」

磯風 「あのな初風、もう少しこう、手加減というか。って、おい貴様、この不埒な手は何だ。圧し折るぞ」

DQN「ぎゃああ、折れてる!? もう折れてるから、たすけてくれぇぇ!!」

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