艦これ海上戦記譚~明け空告げる、海をゆく~   作:PlusⅨ

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第二十六話・出撃前夜(1)

 あの酒場の乱闘から一夜明けた朝。南方警備艦隊司令部の地下指令室で、大スクリーンを前に直立不動の姿勢で固まっている二人の司令の姿があった。

 

 警備艦隊司令・海尾 守と、二水戦司令・郷海 隼人である。それぞれの傍らには秘書艦である叢雲と神通の姿もあった。

 

 彼らが緊張の面持ちで見守るスクリーンに映っていたのは、統合幕僚本部作戦部長・野木 魔鈴だ。

 

 彼女はスクリーンの向こうから海尾と郷海を睨みつけながら言った。

 

『話は聞いた。男九人と乱闘し、全員を病院送りにしたそうだな』

 

「そんとおりでごつ」

 

『バカ者どもが』

 

 不機嫌そうな顔を見せる魔鈴に、郷海は不動を保ったまま答えた。

 

「申し開きんしようがあいもはん。おいの監督不行き届きやったとです」

 

『そのとおり。お前が甘いから部下の艦娘たちもぬるくなるのだ。ケンカを売られて病院送りで済ますだと? バカ者め。敵は生かして帰すなと教えたはずだ』

 

「ハッ!」

 

「は?」

 

 間髪入れずに答えた郷海の横で、海尾は間の抜けた声を上げてしまった。今、この山賊は何と言った?

 

『立ち塞がるものは全て討て。私はそう教えたはずだ。相手が民間人であろうと味方であろうと、敵意を向けてきた者は全て敵だと教えたはずだ。それがどうだ。たかがヤク中アル中の若造どもに手こずりおって。格技訓練をサボっていたんじゃあるまいな』

 

「サボってはおりもはん。じゃっどん、おいの判断でチェストすっときはけしまん程度にせーと指示しちょりました」

 

『死なない程度だと? 勝手な指示をするな、バカ者め』

 

「ハッ!」

 

 二人の遣り取りを傍らで聞いて、海尾は頭が痛くなってきた。こいつらは冗談で言っているのだろうか。しかし冗談にしてもタチが悪いどころの話ではない。

 

 軍人が守るべき自国民に暴力を振るい重傷を負わせたなど、とんでもないスキャンダルである。たとえ相手の方が数で勝り、薬物とアルコールで正気を失った男たちであろうとも、自国民であることには変わりないのだ。

 

 たまらずに海尾は口を開いた。

 

「お言葉ですが准将、これはれっきとした服務事故、暴行事件です。地元警察も彼女たちが艦娘であることは掴んでおり、身元照会の要請が我が警備艦隊にも来ております」

 

 二水戦の艦娘に関する要請がどうして自分にくるのだろう、と釈然としないものを感じながら海尾は言った。

 

 まあ二水戦は秘密部隊なのだし、この島で艦娘がらみの事件が起きればその責任者は表向き海尾しか居ないから当然ではあるが、それでもとばっちり以外の何物でもない。

 

 しかし当事者二人がこんな調子なので、海尾の声の調子もついつい非難がましくなった。

 

「作戦実施間際とはいえ、民間人が絡む事件を起こした以上、警察からの要請を断る訳にはいきません。憲兵隊が間に入るにしても作戦への影響は避けられないでしょう。しかし起きてしまったことは仕方ありません。ここはいったん作戦を延期することを進言します」

 

『却下だ。作戦は予定どおり実施する。警察の要請なんぞ無視しろ』

 

「なんですって!?」

 

『無視しろと言ったんだ。いいか、二水戦などという部隊はこの世には存在せんのだ。存在しない連中は事件を起こせんし、逮捕もできん。――安心しろ。とっくに情報部がもみ消しに動いている』

 

 魔鈴はそう言って口の端を吊り上げたような顔で笑った。その笑みも、やってることも悪党以外の何者でもない。

 

 とんでもない連中と関わりを持ってしまった。と海尾は己の人生を嘆いた。

 

 スクリーンの向こうで魔鈴が豪快に笑った。

 

『海尾よ、たかだかケンカ一つでそんな情けない顔をするな。これから始まる作戦に比べればこんなことは些事に過ぎん』

 

「軍人が自国民を傷つけることを些事とされては、私の部下に示しがつきません」

 

『生真面目な奴め。だがまあ、お前たち警備艦隊はそれでいい。しかし二水戦は違うのだ。国家国民のためではなく、どこまでも己のために戦い、己のために死ぬ。そういう連中を私が集めた。……明日無き部隊で命を棒に振ろうというのだ。今日限りの人生を好きに生きられるよう図らうのが私の責務さ』

 

 これ以上の反論は許さん、とでも言うように魔鈴はすぐに郷海へ視線を向けた。

 

『郷海、艦娘どもに伝えておけ。ケンカを買ったのはよくやった、とな。ただし次は手を抜くなともクギを刺しておけ。もっとも、次があればの話だがな』

 

 そう言ったとき、魔鈴の顔からは笑みが消えていた。

 

 次があれば、という言葉は単なるケンカの機会という意味で言った訳では無いのだろう。と海尾は察して、胃の底がズンと重くなった。二水戦には死の匂いが立ち込め過ぎている。

 

 魔鈴が再び海尾と郷海を交互に眺めながら言った。

 

『情報部が、大鉄塊の出港が迫っているとの報告を上げてきた。行先はやはり我々と同じJ海域だろう。隣国が何を企んでいるのか、そして深海棲艦がそれに対してどう動くのか、それらを知る重要な機会だ。だが同時に何が起こるか予測もつかん。総員、覚悟を決めておけ』

 

「ハッ!」

 

「…はい」

 

『話は以上だ』

 

 スクリーンから光が消えた。

 

 指令室に立ち込めていた緊迫感が消え、それで海尾は、叢雲と共にようやく息を吐くことができた。

 

 一方、郷海は神通と目を合わせると、お互いに頷き合い、そして、

 

「海尾司令、大変申し訳あいもはん!」

 

 二人はその場で跪き、海尾と叢雲に向かって土下座してみせた。

 

 額を床にこすりつけながら、神通が言った。

 

「今回の騒動は私たち二水戦の監督不行届きによるものです。しかし責任さえも取ることができず、このような形でしかお詫びできないことをお許しください」

 

 神通のその声も、そして背中も小さく震えていて、それを眺めていた叢雲は軽く肩をすくめながら、どうする? とでも言いたげに海尾に視線を投げかけた。

 

 海尾も軽くため息を吐いた。どうするもこうする、ここで彼らを糾弾したところでもう意味が無い。再発防止を約束させようにも肝心のトップがあれでは何の意味もないだろう。

 

 海尾が、打つ手なし、というように首を横に振ると、叢雲も目を伏せてため息を吐いた。

 

「郷海司令、神通さん、二人とも顔を上げてください」

 

「海尾司令…」

 

「私から言えることはありません。個人的には言いたいことは山ほどありますが、しかしそれは今ここで言うべきことじゃない。今は作戦を優先しましょう。……私たちの愚痴や不満は、作戦が終了した後でたっぷりと聞いていただきます。それでよろしいですね」

 

「お心遣い身に染み入っと。誠に申し訳あいもはん!」

 

「この汚名は作戦成功をもって命がけで返上させて頂きます!」

 

 二人はわずかに上げかけた顔を再び下げた。ゴツと床にぶつけた音が二つ鳴った。

 

 海尾はまた胃の底が重くなった気がした。命がけで汚名返上とは大仰だが、彼らなら文字通りやりかねない気がして、海尾は背筋がうすら寒くなり微かに身震いした。

 

 

 

 

 

 

 熱に浮かされた浅い眠りの中で、初風は息苦しさにもがいていた。重く閉ざされた瞼の下で意識は白い靄に満たされたかのように白濁としている。

 

 その白い闇に沈むように深い眠りへ付こうとするたび、殴られた箇所が熱と鈍痛を発してその邪魔をした。

 

 眠りに眠れぬ白濁の意識の中で、初風は時折、ぼんやりとした人影をその視界に認めた。それはもやもやとしたシルエットでしかなかったが、初風はそれを雪風と信じて疑わなかった。

 

「ユキ…――」

 

 その名を呼びながら手を伸ばすと、向こうも手を伸ばして初風の手を取ってくれた。優しい感触に手を包まれ、初風はすがるようにその手を握り返した。

 

 相手は――雪風は、空いている方の手を初風に向かって差し伸ばす。きっと濡れタオルだろう、殴られ腫れあがった顔に冷たくひんやりとしたものが触れ、優しく拭われた。

 

「…ユキ……」

 

 手を包むぬくもりと、顔に触れる冷たさが心地よくて、初風はようやく安心したように深い眠りにつくことができた。

 

 初風の浅かった呼吸が規則正しいものに変わったのを認めて、白雪は安堵ともため息ともつかない息を漏らした。

 

 ここは鎮守府の一画にある宿直者用の仮眠室だった。

 

 昨晩、騒ぎを起こした二水戦の五人は白雪と球磨に連れられて帰隊した後、連絡を受けて待ち構えていた郷海と神通に事の次第を報告し、そしてそのまま、この仮眠室で待機を命じられていた。

 

 しかし球磨から受けた一撃がよほど堪えたのだろう、五人は一晩中ベッドでうめき声を上げ続けていた。

 

 特に苦しんでいたのは初風だった。朝を迎え、他の四人が別室で神通から説教を受けている今に至っても、初風はまだベッドから起き上がれる状態ではなかった。

 

 乱闘を止めた当事者のひとりである白雪も流石に気になり、こうして初風の様子を伺いに来て、ついでに軽く看病していたのである。

 

 濡れタオルで拭う初風の寝顔は痣だらけで腫れあがり、それは酷いものだった。

 

「まったくもう、女の子がこんな顔になるまでケンカしちゃいけないわ。こういうのはもっと気を遣ってやるものよ」

 

「同感だクマ」

 

 白雪が漏らした言葉に、ちょうど部屋にやってきた球磨が同意した。どうやら彼女も自分が殴り倒した子たちが気になったようだ、と白雪は薄く笑った。

 

 球磨はベッドで眠る初風の寝顔を見て、肩を軽くすくめた。

 

「素人に顔を殴られる程度の中途半端な実力で喧嘩なんかするからこうなるクマ。こいつらが別の部隊じゃなけりゃ、足腰立たなくなるまで鍛え直してやるところだクマ」

 

「もう既に足腰立たなくしちゃったと思うけれどね」

 

「もろい連中だクマ」

 

「次やるときはもう少し手加減してくださいね。作戦前に再起不能になられても困りますから」

 

「善処するクマ。けど、ぶっちゃけ死にさえしなけりゃ艦娘はやっていけるクマ。最低限、脳みそひとつあれば船体は動くクマ」

 

「理論的にはそうらしいわね。確か、どこかの国が実際にやってたらしいなんて噂もあったわね」

 

「真偽不明だクマ。ただ、ウチみたいに余裕のある国でなけりゃ、やっててもおかしく無いクマ」

 

「人権を尊重しながら戦争できるなんて、現代の私たちは幸運ね」

 

「生きてるだけで丸儲けみたいな環境はまだまだ残っているクマ。この国にだってな……クマ」

 

 球磨は目を細めて、初風の寝入った顔を見つめていた。と、その目が、白雪と繋いだ手に止まった。

 

「ところで、随分と懐かれたもんだクマ。さっき寝言で名前まで呟かれてるのも聞こえたクマ。昔の知り合いかなんかかクマ?」

 

「いいえ、昨晩が初対面よ。きっと誰かと間違えているんだわ」

 

「雪が付く名前は他に居ないクマ」

 

「二水戦に居たでしょ。ほら、確か雪――」

 

 白雪がそこまで言いかけたとき、仮眠室の扉が開かれ、ひとりの艦娘が姿を現した。彼女は室内に白雪と球磨が居るとは思っていなかったのだろう。二人の姿を認めて、慌てて姿勢を正して敬礼した。

 

「の、ノックもせずに失礼いたしました!? 二水戦所属、陽炎型駆逐八番艦・雪風です!」

 

「ふふ、噂をすれば影ね」

 

「はい?」

 

 手招きする白雪。その片手が初風の手を握っているのを見て、雪風はさらに目を丸くした。

 

(え、なんなのこの状況?)

 

 雪風の内心の疑問を見透かしたように、白雪は言った。

 

「寝ぼけて、私をあなただと勘違いしているのよ」

 

「私と?」

 

「寝言であなたの名を呼んでいたわ。ほら」

 

 白雪は初風の手をそっと外すと、そばに寄ってきた雪風の手を取って、初風の手と重ね合わせた。

 

「じゃ、後はよろしくね」

 

「は、はぁ…」

 

 ポカンとした表情を浮かべた雪風を残し、白雪は球磨と共に仮眠室を出て行ってしまった。二人が何を言っていたのか理解できないまま、雪風は、初風と二人きりで取り残された。

 

 初風の寝息は落ち着いていたが、その痣だらけになった顔に、雪風は胸をひどく締め付けられる思いがした。

 

(……私のせい、だよね)

 

 昨日、初風が気にかけてくれたというのに、雪風はそれを冷たく突き放してしまった。その雪風の態度が、初風を自暴自棄な喧嘩沙汰に駆り立ててしまったのだろうか。

 

「ごめんね、初風……」

 

 その痣だらけの顔に手を伸ばし、頬を優しく撫でた時、初風がうっすらと目を開けた。

 

「…ユ……キ……?」

 

「初風、よかった、目が覚めたんだね。気分はどう?」

 

 その問いかけに、初風ははじめ焦点が合わないうつろな瞳のまま雪風を見上げていたが、やがて頭の中の靄が晴れたのか、その瞳にはっきりとした感情を浮かべ始めた。

 

「ユキ……ユキぃ………」

 

 光が戻った瞳に、涙があふれて零れだした。

 

「ユキっ!」

 

「うわ!?」

 

 初風が突然上体を起こし、雪風に抱き着いてきた。雪風の胸に顔を埋め、初風は泣いた。

 

「ユキ…ごめんなさい、私…あなたにひどいことした……あなたのこと……本当にごめんなさい…!」

 

 泣きながら謝罪の言葉を重ねる初風に、雪風は困惑した。

 

「ちょ、ちょっと待って。どうして初風が謝ってるの!?」

 

「だって私……あなたに余計なことを言って傷つけて……それに私生活ボロボロだとか、死にたがってるとか、他にもいっぱいいっぱい酷いこと言っちゃったし…っ!」

 

 いったい何の話だろうか。雪風は初風を抱き留めながら首をひねらざるをえなかった。

 

 初風が嗚咽混じりに訴えたことはどれも面と向かって言われたことが無いものばかりだ。――いや、私生活ボロボロなのは否定しないし、言われたこともあるような気がするけれど――それよりなにより、謝るべきは初風をそこまで追い詰めた雪風自身であるべきだった。

 

 雪風は初風を抱く腕に力を込め、落ち着かせるためにその背中を優しく撫でた。

 

「初風、謝るのは私の方だよ。あなたの気持ちを考えずに突き放しちゃった。……あなたを追い詰めちゃった。……ごめんなさい」

 

「ユキ?」

 

「私のことを一番気にかけて、いつも一緒に居てくれたのはあなただったのにね」

 

 雪風は初風をそっと離すと、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになったその顔を覗き込むようにして視線を合わせた。

 

「初風…まだ私のそばに居てくれる?」

 

「いいの? …ユキ、いいの?」

 

「うん。私は、あなたが居ないと駄目だから」

 

 主に生活面で、と言いかけたが、それは要らぬ誤解を招きそうなので慌てて喉の奥に飲み込んだ。

 

 初風がまた表情を歪め、雪風の胸に顔を埋めた。

 

「ありがとう、ユキ、ありがとう…。私、あなたのことを守るから。…絶対に守ってみせるからぁ……」

 

 背中に爪を突き立てんばかりに強く抱きつかれて雪風は息苦しさを感じたが、引き剥がすようなことせずに、初風の背中を子供をあやすようにポンポンと軽く叩き続けた。

 

 こんなにも取り乱した初風を見たのは初めてだったが、それだけ想われている証だと思えば、この息苦しさも受け入れるべきだと雪風は思った。

 

 同時に、自分の胸で泣く初風の姿に、昨日の自分自身の姿が重ね合わせて見えた。

 

 そう、雨の中、一つ傘の下で身体を寄せ合い、相手の胸に抱かれながら胸の内を全部さらけ出して泣いていた昨日の自分の姿が。

 

(――初霜さんから見た私も、こんな感じだったのかなぁ)

 

 そう思うと急に気恥ずかしくなってきた。まったく、私は初対面の人間相手になんて不躾な真似をしてしまったんだろう。

 

 でも、あの人は何もかも受け止めてくれそうな雰囲気を出していて、そして本当に全部受け止めてくれるものだから、こっちも際限なく甘えてしまいたくなってしまうのだ。

 

(うーむ、私、今日どんな顔して初霜さんに会えばいいんだろう?)

 

 昨日、仔猫の救出の後もさんざん一緒に居たくせに、今更こんなことを悩むのも変な話だけど、昨日は昨日で状況に流されて初霜との距離感を見失っていたというのも大きい。

 

 だけどこうして基地に戻り、同じ艦娘同士として、しかし違う部署の隊員として向き合うとなると話はまた別だろう。

 

 二水戦の一員として恥ずかしい真似はできないし、何なら初霜に対して格好いいところを見せたいなんていう見栄だってある。

 

 だけど初霜が雪風に対して抱いているイメージは間違いなく子供みたいに泣きじゃくっていたものであろうし、それを払しょくできないままに初霜の前で軍人として振舞うのはとても気恥ずかしかった。

 

 と、ひとりでそんなことを悶々と考えていたら――

 

「――ユキ」

 

 いつの間にか初風が泣き止んでいて、それどころか顔を上げてジト目で雪風の顔を覗き込んでいた。

 

「は、初風……どしたの?」

 

 雪風は急に後ろめたさを感じながら問いかけた。どうしてだろうか、目が勝手に泳ぎだしてしまう。

 

「ユキ……」

 

「は、はい」

 

「……くさい」

 

「はい?」

 

「煙草くさい」

 

「あ、はい」

 

 ああ、なんだそんなことか。雪風は内心で胸をなでおろした。確かに事件を知った昨晩から今朝にかけて気持ちを落ち着けるために、いつもより多くの煙草を吸っていた。

 

「ユキ、私が煙草の匂い嫌いって知ってるのに、どうして吸ってたの」

 

「えぇ~」

 

 なんだそのめんどくさい問いかけは。

 

「私だってなるべく吸わないようにしようと思ったよ! でも初風のことが心配で堪らなかったから仕方ないでしょ!?」

 

「う~……」

 

 半ば開き直り気味にそう言い返すと、初風はしばらく探るような視線で雪風を睨んでいたが、やがて納得したのか、顔を伏せ、再び雪風の胸に顔を埋めた。

 

「なら、許してあげる」

 

「あ、う…うん、ありがと…」

 

 なんだかよく分からんが良しとしよう。雪風は深く考えることを止めて、初風の背中を撫で続けた。

 

 もうしばらくこのままにしてあげてもいいだろう。雪風はそう思い、腕の中で初風をあやし続けた。

 

 

 

 

 

 

 出撃した海域は夜の闇に覆われていた。

 

 空は厚い雲に覆われ、土砂降りの雨が視界を遮っている。波は高く、艦首が波濤を割るたびに、飛沫というには多すぎるほどの大量の海水が前甲板を超えて舞い上がり、まるで滝のように艦橋へ降り注いだ。

 

 その艦橋の中、初風は暗視装置の感度を最大にして、暗闇の向こう側へ目を凝らしていた。探しているのは、先を進んでいるはずの雪風の船影だ。

 

 艦首真正面からわずかに右側に、微かに灯火が輝いているのを見つけ、初風はホッと胸をなでおろした。

 

 レーダーも通信も封鎖し、そして灯火すら必要最低限の数、それも暗視装置越しで互いの位置がようやく分かるギリギリまで光量を絞ったそんな状態で、全速力で航行しているのが今の状況だった。

 

 初風の目には雪風の艦尾灯しか見えていないが、そのさらに先には神通が陣形の先頭を航行しているはずだ。そして初風の後方には磯風、浦風、浜風、谷風が一列になってついてきているはずだった。

 

 艦と艦との距離は500ヤード以下(457メートル以下)、その速力は時速34ノット以上(時速約63キロ以上)。視界もほとんど無い悪天候下で、この距離、この速度で陣形を組んで航行しているというのは、空軍のアクロバットチームの曲芸飛行よりも危険な真似である。

 

 二水戦はそんな真似を戦場でやってのけていたが、しかし初風には自分たちの技量を誇っているだけの余裕は無かった。

 

 ここは生きるか死ぬかの戦場だ。どれだけ練度をあげようとも、弾が当たればそれで終わりである。自惚れている暇があるのなら、流れ弾に当たらぬよう祈った方がまだマシである。

 

(……祈る、か)

 

 こんなとき、自分はいったい何に対して祈りを捧げているのだろうか。と、初風はふと疑念を抱いた。

 

 神も仏もまじめに信じてはいないが、それでもふと気づくと、戦闘の最中、必死になって何かに祈り、すがろうとしている自分が居た。

 

 戦場で仲間が沈んでいくのを不運と憐れみ、そして自分が生き延びた幸運を何かに感謝しているときがある。生と死の境は薄皮一枚、その微かな境界線上を全力疾走しているとき、人は誰でも人知を超えた何かにすがりたくなるものらしい。

 

 神が居るからすがるのではない。すがりたい本能が神を生んだのだ。

 

 こんなことはきっと、本当は誰だって気づいて居るのかもしれない。でもそれを認めてしまうと、すがるものが居なくなってしまうから認められないのだ。

 

 神などいない、とうそぶいて撃沈されるよりかは、神を信じて数パーセントの幸運を祈る方が、精神的にはよっぽど楽だ。

 

 だけど――

 

 ――前方を進む雪風の艦尾灯が、急激に右方向へ流れ出し、初風も咄嗟に舵を右へ切った。直後、砲弾が風を切り裂く甲高い音が聞こえ、初風の左脇に水柱を突き立てた。

 

 深海棲艦からの砲撃が始まったのだ。

 

 雪風の艦尾灯のすぐそばでストロボ発光による高速モールス信号が瞬き、初風に電波管制の解除を告げた。敵にこちらの存在が暴露された以上、存在を秘匿する必要はもうないという事だ。

 

 先頭艦の神通から二番艦・雪風経由で伝えられた指示を、初風は同じように後方の僚艦へとリレー送信しつつ、彼女は己の船体に搭載されている全てのアクティヴセンサーを起動させた。

 

 水上・対空レーダーを起動した途端に、その画面は真っ白に染め上げられた。深海棲艦の重巡級もしくは戦艦級によるバラージジャミングだ。全方位に向けありとあらゆる帯域に渡り無差別に妨害電波を放つため、これを打ち破るには、より強力な出力――すなわち、こちらも重巡級か戦艦級による大出力レーダー波を放つしかない。

 

 しかし同時に、無差別であるがために深海棲艦側ですらその影響を受け、双方ともにレーダーを塞がれていた。そのためバラージジャミング下での戦闘は必然的に古き時代の海戦にも似た砲雷撃戦が主となっていた。

 

 だが全てが昔と同じという訳ではない。ジャミングの影響を受けているとはいえ、レーダーはまだまだ有効だ。敵から放たれた砲弾が至近距離に着弾したならば、その砲弾がどの方向からどれだけの角度と速度で飛来したかぐらいの識別はできる。

 

 それだけの情報が得られれば、敵の大まかな方向、距離、そして大砲の種別をサポートAIが判断してくれる。

 

 暗闇を単縦陣で駆け抜けながら、各艦は指向性の強いレーザーセンサーを前後の僚艦に向け、自分たちが取得した着弾情報を互いに共有する。こうやって複数の情報を整合することで、より詳細な敵の位置情報が判明する。

 

 砲撃してきた敵の規模は、恐らく駆逐艦が四~五隻。それが右前方から反航態勢で迫ってきていると予想された。

 

 初風はその方向に光学センサーと主砲を向けた。攻撃が許可されたなら即座に発砲できる態勢で、旗艦・神通の指示を待つ。

 

 しかし攻撃命令はなかなか下されなかった。

 

 神通のすぐ後ろに位置する雪風も発砲していないことから、指示を受信しそこねたわけでもないらしい。

 

 神通は反撃せずにそのまま敵とすれ違う針路を維持する。

 

 敵からの砲弾はその後数分間、周辺にまばらに落ち続けていたが、その着弾位置は徐々に遠ざかって行った。

 

(敵がこちらを見失ったのかしら?)

 

 おそらくそのとおりだろう。無差別バラージジャミングは敵味方問わず視界外の戦闘を困難にする。敵はある程度はこちらの位置を掴んでいたのだろうが、命中弾を与えるほど正確では無かったらしい。もしこちらが焦って反撃していれば、却ってこちらの位置を暴露してしまう結果になっただろう。

 

 神通が反撃を許可しなかったことで、結果としてこちらの正確な位置を秘匿したまま、相手の位置だけを得ることができた。

 

 神通は敵から遠ざかる針路をとり、そのまま敵と無傷ですれ違うと、妨害電場の発信源に向けて一気に舵を切った。

 

 各艦が受信している妨害電波の発信源を整合することで、その距離まで既に判明していた。

 

 算出された位置は、ここから約20海里(約37キロメートル)前方。発信源の方位変化は少なく、しかも電波の強度が徐々に上がってきていることから、このまま進めばほぼ衝突するコースでお互い接近していると判断できた。

 

 神通はそのまま突っ込んでいく。逆落とし戦法だ。通常の艦隊では普通やらない突撃強襲戦術である。視界がほとんど聞かない暗闇の中、荒れた海を34ノット以上の全速航行。艦首が高い波を砕き、艦橋に巨大な水の壁が幾度も衝突する。

 

 敵も恐らく30ノット以上で航行しているのだろう。その距離が一気に縮まっていく。砲戦の有効射程距離である10海里以内には後十五分程度で踏み込むはずだ。しかしこの暗闇では5海里以内に近づいても互いの艦影は見えやしない。まして揺れがひどく、この気象で、互いに動きまわっている状態で敵に確実に命中させるには、2.5海里(5000ヤード≒4600メートル)以内まで接近する必要がある。

 

 しかしそれは敵がこちらの接近に気づかず、バラージジャミングを続けていた場合の話だ。もし敵がこちらの接近を予想していたなら――

 

 

 ――その時、だしぬけにレーダーが復活した。敵がバラージジャミングを止めたのだ。初風の周囲30海里の状況が明らかになる。

 

 二水戦が居たのは、敵の大艦隊の真っただ中だった。脳裏に浮かぶレーダー画面上の前後左右に微弱な反応が夜空の星々の様に煌めいている。レーダー上では小型船程度の小さな影だが、それは深海棲艦の電波吸収能力のせいだ。実際はどれも全長100メートル以上の怪物たちだ。実際、神通が搭載している動体検知器からの情報によると、軽巡級の深海棲艦が十数隻、左後方からこちらに向けて急速に追いすがっているらしかった。

 

 僚艦とのデータリンクも復活したことで、より詳細な状況が明らかになってきた。既に最後尾の谷風が、後方の軽巡級から集中砲火を受けているらしかった。しかも被弾したらしく、その速力が目に見えて遅くなっていく。

 

 しかし神通は速度を緩めない。単縦陣のまま、艦隊中心にいる敵戦艦を目指し突撃を続ける。

 

 バラージジャミングが止んだことにより、四方八方からさらに敵が一斉に群がってくる。

 

 距離10海里を切った。レーダーが前方から高速小型目標の飛来を探知。敵戦艦からの砲弾だ。神通から「各個に回避運動しつつ突撃続行」の指示。各艦は陣形を崩し、一斉にジグザグ運動に移行する。初風の頭上を甲高い音が通り過ぎて行った。最後尾で谷風の足が完全に止まった。

 

 距離10海里。至近弾が激しくなる。浦風と浜風に四方からの攻撃が集中し、それを回避しているうちに、集団から離れてしまった。そのままはぐれてしまう。

 

 神通から指示が下る。

 

『ウェポンズフリー、対水上戦闘、攻撃はじめ。目標、敵戦艦。トラックナンバー8052。エンゲージ!』

 

『雪風エンゲージ!』

 

「初風エンゲージ!」

 

『磯風エンゲージ!』

 

 浦風、浜風からの復唱は無かった。谷風の反応は既に消失している。

 

 神通、雪風が敵戦艦の右側から。そして初風は磯風と共に左側から回り込む。主砲を発砲しつつ、SSSMを魚雷モードに切り替える。

 

 距離5海里を切った。敵の発砲炎が暗闇に輝いているのが見える。お互いにレーダー照準が可能とはいえ、全速力で動き回っていればそうそう当たるものでは無い。しかし、それでも、可能性はゼロではない。

 

 初風が回頭した時、たまたま視界に入った磯風の船体が、巨大な火柱に包まれたのが見えた。敵砲弾が命中したのだ。発射直前のSSSMに誘爆したのだろう。磯風は目もくらむような閃光を発しながら木っ端微塵に砕け散った。

 

 初風は閃光から目をそむけながらSSSMを全弾発射。すかさず反対方向へ舵を切り、離脱を測った。レーダーを確認すると、雪風も同じく離脱を開始していた。

 

 しかし神通は敵戦艦から離れる気配が無い。センサーを一瞬だけそちらへ向けると、船体の後方を沈めたまま砲撃を続けている神通の姿が見えた。あの状態でも舵どころか前進も後進もできないだろう。初風はセンサーを神通から外し、自分の針路上に意識を集中した。

 

 レーダー画面上から敵戦艦の反応が消えた。攻撃成功だ。だがそれ以外の敵は数えきれないほど残っている。初風は自分以外で唯一生き残っている雪風の姿を探した。

 

 雪風は初風から10海里程離れた場所を並走していた。初風は、このままそれぞれ単独で離脱するべきか、それとも合流するべきか迷った。

 

 合流すればこちらの火力は倍になるが、同時に敵の攻撃も一か所に集中することになるだろう。

 

 だが今の状況は、雪風に向かっていく敵の方が数が多く、その分、初風の周囲の敵が薄くなっていた。このまま雪風を囮にすれば、初風だけは離脱することが可能だ。

 

 であれば、二水戦の艦娘として取るべき選択肢は一つしかなかった。雪風もそれを察したのだろう。『我に構わず先に離脱せよ』との信号が初風に向けて発せられた。

 

 初風はその信号を受信し、すぐに決断して舵を切った。船体が反転し、雪風を襲う敵艦の一部に対し、背後から強襲する針路となった。

 

『初風、何してるの!?』

 

 雪風からの叱責を無視して、初風は雪風を襲う敵軽巡めがけ、主砲を斉射した。軽巡に命中弾が発生し、暗闇に爆炎が光る。しかしすぐに反撃の砲弾が四方から雨あられの様に降り注ぎ始めた。初風の周囲を取り囲むように、大量の水柱が乱立する。

 

 船体の中部から後部にかけて立て続けに命中弾を受け、激しい振動と共に速力が急激に低下する。火災警報と浸水警報がけたたましく鳴り響き、船体各所でダメコン妖精たちが炎と水流にもまれ機能を失っていく。

 

 機動力と戦闘力を奪われた船体に敵の砲撃がさらに降り注いだ。数えきれない砲弾に船体をずたずたに引き裂かれながらも、初風は、かろうじて機能していたレーダーから雪風の反応が消失したことを確認した。

 

 沈んだのだ、雪風が。

 

 ――大丈夫だよ、ユキ。

 

 艦橋付近で起きた爆発によって床に投げ出されながら、初風はうっすらと笑みを浮かべていた。

 

 ――最期まで一緒だよ。一緒に死のう、ユキ……

 

 深海棲艦が放った魚雷が船体の真下で爆発した。船体は中央から真っ二つに圧し折られ、艦首と艦尾を暗天に向けて高々と突き上げながら、一挙に海中へと引きずり込まれていった。

 

 二水戦最後の一隻が轟沈したことを受け、二水戦戦術AIは状況中止を宣言。各艦のサポートAIとのネットワーク上に展開していた仮想空間での演習シミュレーションを停止した。

 

 真っ暗になっていた初風の艦橋にも灯りが戻り、仮想空間を投影していた舷窓が透明になって現実の景色を透かせてみせた。

 

 そこは宮吉島鎮守府の岸壁だった。二水戦の六隻と、そして二十一駆の三隻はそこに係留された状態でそれぞれのサポートAIを地下のスーパーコンピュータに接続し、演習を行っていたのだ。

 

『初風!』

 

 演習を終えてホッと一息ついた初風の耳に、雪風の声が響いた。振り向くと、艦橋の一画に雪風のアイコンドールが出現し、彼女を睨みつけていた。

 

『どうしてあの状態で戻ってきたの!? あのまま進めば撤退できたのに!』

 

 非難する雪風に、初風は澄まし顔で平然と答えた。

 

「そうとも限らないわよ。あの状態じゃ単艦突破でも合流でも生還率は大して変わらないわ」

 

 半分は本当だが、もう半分は嘘だ。雪風のそばに向かって舵を切ってからは、生き残るつもりなど微塵も無かった。だけどその本音はおくびにも出さず、初風はなおも何かを言いかけた雪風を制して、神通に通信をつなげた。

 

「こちら初風。ただいまの演習の評価をお願いします」

 

『神通から各艦へ。作戦目的“艦隊中心の敵戦艦の撃破”は達成されたことから、戦術AIはただいまの演習結果をS評価と判断しました。司令はこれを受けて、次回作戦における所要の練度に達していると認めなされました。本日の訓練はこれにて終了します。以上』

 

 

 

 

 二水戦が停泊している岸壁から一つ隣の岸壁に、同じく演習に参加していた二十一駆の三隻――霞、朝霜、初霜――が係留していた。

 

 彼女たちは訓練終了の報を受け取ると、それぞれ船体を転送し、生身一つの姿で岸壁に戻ってくる。

 

 三人が揃ったところで、朝霜がさっそく口を開いた。

 

「全滅したのにS評価かよ。信じられねえぜ」

 

 呆れ口調の朝霜に、霞が頷いた。

 

「相打ちでも目標撃破したから良し。というのは、ちょっと引っかかる考え方ね。確かにさっきのシミュレーションの想定は厳し過ぎる難易度だったから、敵を撃破できただけでも大したものだけど」

 

 先の訓練では、二十一駆は戦闘には直接参加せず、戦域外で待機し、二水戦の撤退支援を担当していた。

 

 訓練は今回を含めて四度実施しており、今回以外の訓練では二水戦も撤退に成功していた。そのため二十一駆としても撤退支援の要領は掴んでおり、二水戦との連携も確立しているので問題は無かった。

 

 その上で、彼女たちは二水戦の戦い方に、他の艦隊と比べて違和感を覚えていた。そしてその違和感は、もっとも難易度が高い四回目の訓練に挑んだ時、より明確になった。

 

 三人の視線の先には、まだ係留中の二水戦の船体があった。それが一隻ずつ、光の粒子となって虚空へと消えて行き、ひとり、またひとりと艦娘たちが岸壁に戻ってくる。

 

「あの人たちは……」初霜が、近くの二人だけに聞こえるような声で囁いた。「……きっと、撤退することを考えていないんだわ」

 

「やっぱそうか」

 

「私も初霜に同意見ね。そもそも私たちの配備位置が二水戦から離れすぎているのよ。これじゃ支援しようにもしきれないわ。過去三回の訓練だって、二水戦がほぼ自力で撤退してきたようなものだったし」

 

「アタイたちが配備位置の変更を求めても、却下の一点張りだったしなぁ」

 

 朝霜の言葉に、霞が続けた。

 

「最後の訓練も退路の確保をまるで考慮していないような突撃だったし、二水戦司令は何を考えてあんな戦術を取らせたのかしら?」

 

 全滅前提の作戦なんて、クズの戦術よ。と、霞は小声でひっそりと呟いた。初霜はそれを耳にしながら、少し離れた位置にまだ係留していた神通の船体を眺めた。

 

 その神通から一人の男性が桟橋を渡って降りてきて、そのまま地下司令部の方へ向かっていく。二水戦司令の郷海 隼人だ。

 

 先に岸壁に戻っていた二水戦の艦娘たちが整列し、敬礼で司令を見送っている。そこに雪風の姿もあった。雪風は司令が去って行った後、隣に立っていた艦娘に対して、怒ったような表情で食って掛かった。

 

 声ははっきりと聴こえないが、どうやら何か揉めている様だ。

 

 初霜たちが近づいていくと、雪風もそれに気が付いて、ばつが悪そうな顔を初霜に向けた。

 

「雪風さん、どうかしたんですか?」

 

「は、初霜さん。いや別にちょっとしたことで、その、た、大したことじゃないんですよ。……あはは」

 

 雪風は照れ臭そうに笑いながら指で頬をかいた。その隣に居た相手の艦娘――確か初風だったはず、と初霜は思い出す――は、呆れたような表情で雪風を見たあと、その目を初霜に向けた。

 

(――睨まれた?)

 

 強い敵意にも似た感情が、初風の目に浮かんでいるように見えた。

 

(えっと、私、この人に何かしたかしら?)

 

 初風は戸惑いつつ考えてみたが、思い当たる節は無かった。先の訓練でも気に障るようなことはしなかったはずだし、そもそも何かをする機会すら無かった。ほぼ後方で見ていただけだ。

 

 じゃあ他に睨まれるような心当たりといえば……

 

(……もしかして、球磨さんの件かしら)

 

 確か初風は、昨晩のケンカ騒ぎで球磨に一番こっぴどくやられた艦娘だったはずだ。自業自得とはいえ、南方警備艦隊に対して複雑な感情を抱いたとしてもしょうがない。

 

 ……と初霜は勝手に納得して、初風の視線を受け流した。

 

 そんなことより、雪風の方に用事がある。

 

「雪風さん、この後、お時間ありますか?」

 

「へ? まあ、特に用事も無いですし、ヒマですけど」

 

「よろしければ、いっしょにお出かけしませんか?」

 

 初霜がそう誘うと、雪風は一瞬、呆けた表情を見せた。

 

「おでかけ……初霜さんとおでかけ!?」

 

 そんな驚くことだろうか。雪風の大袈裟な態度に苦笑しながら、初霜はその理由と目的を告げようとした。

 

「ええ、実は――」

 

「行きます! よろこんでお付き合いします!」

 

 いきなり距離を詰められ、手を取られた。目の前に雪風のキラキラと輝いた大きな瞳が迫り、その勢いに初霜は若干引き気味になってしまう。

 

「そ、そう? ならよかった。それで、どこに行くかなんです…けど――」

 

 その時、初霜は視界の端に映ったものを見て、思わず口を閉ざしてしまった。

 

 雪風の明るい表情の背後で、初風が血走った眼をして初霜を睨みつけていた。もはや般若の表情である。

 

(え、なに? 私なんかやっちゃいましたか?)

 

 殺気すら漂う初風の表情に思わず背筋に悪寒が走った。

 

 青ざめた初霜に対し、雪風が不思議そうに小首をかしげた。

 

「初霜さん、どうかしたんですか?」

 

 あどけなさすら感じさせる仕草はどことなく小動物的な可愛さがあるが、初霜はそれを見ている余裕は無かった。目を逸らしたら殺される。そんな予感さえしていた。ほんと、私が何をした?

 

 初風が雪風の背後から、つかつかと歩み寄り、雪風の肩を掴んだ。

 

「わっ!? は、初風? びっくりした」

 

「私も行くわ」

 

「え? ああ、そう?」

 

 雪風は戸惑いと若干の迷いを見せながら、初霜に伺うような目を向けた。

 

「か、構いませんよ」

 

 初霜も引きつった笑みを浮かべながら同意した。断る理由も無いが、それ以上に初風からの圧に耐えられなかった。

 

「で、どこに行くの?」

 

 と初風が冷たい目で問いかける。質問というよりまるで尋問だわ、と初霜は思う。というか、まずそれを先に確認すべきじゃないかしら。

 

 とりあえず目的を告げようとしたとき、それを遮るように海の方向から声がした。

 

「その外出は許可できません」

 

 そう告げながら海から上がってきたのは、神通だった。近くにいた磯風が咄嗟に「気を付け!」と号令をかけ、二水戦の艦娘たちが一斉に直立不動の姿勢を取った。

 

「初風、磯風、浦風、浜風、谷風の五名は、この後、私と一緒に体力錬成訓練を行います。……理由を言う必要はありますか?」

 

「「「「「ありません!」」」」」

 

 名指しされた五人が、不動の姿勢のまま、悲鳴にも似た声で返事をした。

 

「あの、神通さん。……私も」

 

「雪風さんについては外出を許可します」

 

 神通は穏やかな笑みを浮かべながら、初霜たち二十一駆に向き直った。

 

「色々とご迷惑をおかけしておりますが、どうかご勘弁を」

 

 神通から深々と頭を下げられてしまい、初霜たちは却って恐縮した。

 

「いえ、そんな」

 

「どうかウチの雪風をよろしくお願いします。……さて、皆さん」

 

 頭を上げた神通が、再び初風たちに向き直った。

 

「腕立て伏せ用意」

 

 淡々と言い放たれたその言葉に、初風たちは這いつくばるように、一斉に地面に伏せた。

 

「私がイチと言ったら腕を曲げ、ニと言ったら伸ばすこと。いいですね」

 

 その指示に、誰かが「ひっ!?」と小さく悲鳴を上げた。

 

「では始めます。…イチ」

 

 五人が一斉に腕を曲げる。

 

「………」

 

 そんな彼女たちを見下ろしながら、神通は沈黙を保っていた。

 

「ほ、ほら初霜さん、霞さん、朝霜さん、私たちも行きましょう!」

 

 雪風に促され、初霜たちはその場を後にした。

 

 ……背中越しにうめき声と悲鳴が上がり始めたが、神通の声は、いつまでたっても聞こえてくることはなかった。

 

 

 

 

 

 


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