艦これ海上戦記譚~明け空告げる、海をゆく~   作:PlusⅨ

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 最近、中身すっからかんな会話ならいくらでも書けることに気が付きました。
 読んで面白いかどうかは自信ないですけど(;^ω^)


第二十六話・出撃前夜(4)

 ――あぁ、そうか。私は死ぬんだ……

 

 ふと、唐突に、何の前触れもなく、そんな気分に襲われることがよくあった。

 

 晴れ渡り澄み切った夜空にぽっかりと浮かんだ丸い月を眺めたとき、雪風はそんな思いに囚われた。宴会の最中だというのに、その騒音は雪風の耳からは遠くなり、その目は肉体を離れて月へと向かってふわりと浮かんだ。

 

 視界を巡らせると、周囲の様子がいつもより高い位置から広々と見渡せた。

 

 配管整備会社・水斗工業の社屋は、大通りから路地を一本挟んだ住宅街に位置していた。三階建ての社屋兼自宅の前には道路に面した駐車場があり、そこに仮説テーブルとベンチを並べ、バーベキューが繰り広げられていた。

 

 焼き網からは白煙が夜空へと立ち上り、その下にはさまざまな食材と、さらにその下には木炭が赤々と輝いて、そこに肉の油が滴り落ちるたびに光と音がはじけ飛んだ。

 

 周りのテーブルでは人々が酒と料理を味わいながらひっきりなしに言葉を交わし合い、遠慮のない笑い声が木霊のように遠く響き渡る。自宅の扉や窓は開け放たれていて、人々が自由に出入りしたり、酔いつぶれた者が縁側で寝転がっていたりする。

 

 リビングのテレビでは天気予報が始まっていて、この島の南側を通過しようとしていた台風が予想より早く温帯低気圧に変わったと伝えていた。

 

 それらすべて音と景色を、雪風は宙に浮いたような感覚とともに全て感じ取っていた。意識が肉体から離れているのにそれが分かるというのは、まだかろうじて繋がっているからだろうな、と思いながら、その細い糸のような繋がりが切れた時、自分という存在は此の世から完全に消え失せるのだという実感があった。

 

 それを怖いと思う感情は、そこには無かった。感情は肉体に置いてきたからだ。なので、肉体から離れたこの意識には感情は無かった。ただそうであると自覚する自我がかすかに漂っているだけで、それさえもやがて曖昧になって、そうだ、これが死だ、雪風という私はもうどこにも無く、それは無から生じたものが無へと帰していき、もう生と死の境目などどこにもなくて、今の私は死んだも同然なのだという言葉にならない実感だけがそこにあっ――

 

 

 

「雪風さん!」

 

「あ、はい」

 

 すぐそばで名前を呼ばれ、雪風の意識はあっさりと肉体へ帰ってきた。視界には現実感が戻り、目の前には初霜のほのかに赤らんだ顔があった。

 

(わー、初霜さんがなんか色っぽい顔してる)

 

 単純に酔ってるだけだが、潤んだ瞳に赤味が差していて妙な色気があった。その瞳が、確固たる決意と覚悟を伴って雪風を真っ直ぐに見つめていた。

 

「雪風さん…っ!」

 

「は…はい?」

 

 ただならぬ気配を漂わせながら迫ってきた初霜に、雪風の心臓が急速に高鳴った。どうしようこれ、目を閉じた方がいいのかな。

 

「私と――」

 

「初霜さんと?」

 

「――デュエットしてください!」

 

「なんで!?」

 

「オトーリの親がまわってきたからです!」

 

「話の流れがわかりませんっ!?」

 

「ちゃんと話を聞いてて下さいよぉ……」

 

 なみなみと酒が注がれたカップを左手に、そして右手には何故かマイクを握りしめながら、初霜は泣きそうな目で雪風に訴えた。

 

「これで五回目なんですよ、親がまわってくるの! 話すネタなんかとっくに尽きて、もう歌うより他に無いじゃないですかぁ」

 

「それがオトーリのルールなんですか?」

 

「いえ…正直、私もそうとは思えないんですけど……」

 

 初霜も納得がいかなそうな表情を浮かべながら、自分に酒とマイクを押し付けてきた人物に目を向けた。

 

 初霜の視線の先には、朝霜が、満面の笑みを浮かべながら、両手の指を口に咥えていた。何をやっているんだこの人は、と雪風が呆気にとられた瞬間、朝霜の口からとんでもなく甲高い音が鳴り響き、雪風の耳を打った。

 

 ――ピィー、ピィー、ピィーヒューピッ!

 

「ひゃっ!?」

 

 面くらった雪風を余所に、周囲の人々――水斗工業の従業員たちが朝霜の指笛に歓声を上げた。

 

「いいよぉ、うまいもんだね姉ちゃん!」

 

「ほら、そっちの姉ちゃんたちも歌って歌って!」

 

「え、“たち”って、私もですか!?」

 

「オトーリの親がまわってきたんだから、何かしなきゃ。ソレッ、ソレッ、イーヤーサーサッ!」

 

「違います、私、親じゃないです」

 

「そう、親は私です」と、初霜。「なので雪風さん助けてください、お願いします何でもしますから!」

 

 あら、いま何でもするって言った? 涙目上目遣いの初霜に対して思わず邪な感情が湧き上がってしまうあたり、雪風もすでにかなり酔っていた。さあて何をしてもらおうかなぁぬふふ。酔っぱらって頭がうまく回らない。

 

 まぁいいやご褒美は後から考えよう、と雪風は理性がマヒしたまま、差し出されたマイクを受け取った。

 

「初霜さん、何を歌いましょうか?」

 

「何と言われても、歌える曲があるならこんなお願いはしないわけで」

 

「そりゃそうですね」

 

「雪風さんが得意な曲でいいですよ。私はそれに適当に合わせるので」

 

「得意な曲? 私の?」

 

 雪風はそこで固まってしまった。そんなもの、ある訳が無い。友人とカラオケに行くなどという行為は、雪風にとっては例えるならおとぎ話の舞踏会と同じくらい別世界の話だった。流行りの歌を聞いたことがあっても、歌えるほど覚えちゃいない。

 

 雪風が覚えている身近な歌といえば、同居している初風が料理中にハミングしていた鼻歌ぐらいだ。しかしあれは割としっかりとしたメロディーだったので、多分ちゃんとした題名のある歌なのかもしれない。題名は知らないけれど。

 

 酔いも手伝ってか、雪風は思い出すままにそのメロディーをハミングしていた。それを聴いて、初霜が「あら?」と首を傾げた。

 

「私もその歌、知ってるかもしれません」

 

「そうなんですか? 題名わかりますか?」

 

「雪風さん知らないんですか?」

 

「知らないんですよ」

 

「歌詞も?」

 

「さっぱりです」

 

「私もです。困りましたね。何となく歌えそうなのに」

 

 ポンコツ酔っ払いが二人、首を傾げながら顔を見合わせフンフフ~ンと鼻歌をハミングする。それをマイクが拾ってスピーカーから響き渡り、周りの人々が「お、始まったぞ」とヤレソーレと合いの手と手拍子を入れ、そこに朝霜が景気よく指笛を吹き鳴らした。

 

「あのねぇ、ぜんぜんまったく合ってないったら。何をやってるのよ、あんたら」

 

 あきれ声をあげたのは霞だった。ずっと仔猫の相手をしていた彼女だったが、さすがにこのデタラメな様子に我慢できなくなったらしい。

 

「題名も歌詞もわからないのよ」と初霜。「ねえ、霞。聞き覚えないかしら。こんな感じの曲よ。フフフフ~ンフンフン」

 

「ピィー、ピィー!」

 

「わかるかそんなん。ていうか朝霜うるさい」

 

「フフフ~ン……あ、ちょっと思い出してきたかもです」と、雪風。「フフフ~ンフフフ~ン♪」

 

「ああ、そうそう、それ、それです。フフ~ンフフ~ン♪」と、初霜。

 

「ピィー、ピィー!」と、朝霜。

 

「イーヤーサッサ!」と、従業員一同。

 

「……なにこれ?」と、霞。

 

「みゃー」

 

 呆れる霞の手元から仔猫が飛び出し、縁側に置かれたエサ皿へ走って行った。

 

「あ、ネコちゃん待ちなさい、待ってったら~」

 

 霞は締まりのない顔で仔猫を追いかけてオトーリの輪から外れてしまったので、親の順番は、初霜の調子はずれた鼻歌にうっとり聴き惚れていた水斗 慧爾にまわってきた。初霜が酌をしながら、「お粗末な歌でした」と恥ずかし気に微笑む姿に、慧爾の頬はだらしなく緩み切った。

 

「粗末なんてとんでもない。聴き惚れましたよ。綺麗な声でした」

 

「まぁ」

 

 初霜が嬉しそうにはにかみながら隣の雪風に顔を向けた。

 

「声が綺麗ですって。良かったですね、雪風さん」

 

「え、私が褒められてたんですか」

 

 きょとんとする雪風。違うそうじゃないと首を横に振る慧爾。その間に初霜は他の者たちに対する酌をちゃっちゃと終えて一周し、慧爾に酒瓶とマイクと親の役目を押し付けた。ちなみに慧爾はこれで通算六回目の親である。

 

 コップを握りしめて立ち上がり、一言。

 

「それじゃ俺も得意な歌を一曲」

 

 うるせーこのやろう、ひっこめこのやろう、聞き飽きたぞワンパターンやろう、そうじゃねーだろこのやろう。と、父親含め従業員一同からの容赦ないヤジが飛んだ。

 

「わかったよ! だったら俺が初霜さんたちと一緒に仔猫を助けた時のことを――」

 

「それ一番最初に聞いたわよ」と、いつの間にか戻ってきた霞に抱かれた仔猫がミャー。

 

「だったら何を言やいいんだよ!?」

 

「そんなん決まってんだろ」

 

 と、慧爾の横から腕を回して肩を組んできたのは朝霜だった。

 

「何ですか朝霜さん」

 

「三回目行けや」

 

「おま……無えよ!? 三回目って、そもそも二回もやった時点でありえなかったのに!」

 

「三回目行けや」

 

「やらねえよ。今さらただ恥を上塗りするだけじゃないか。ありえねえよ」

 

「………」

 

「………」

 

 見つめ合うジト目とジト目。互いに酒臭い吐息をかけあう我慢比べの末に、先に折れたのは慧爾の方だった。

 

「わかりましたよ、やってやろうじゃないの!」

 

「よく言った慧爾、三度目の正直いったれー!」

 

 朝霜に背中をどつかれながら、慧爾は初霜の前に進み出た。

 

「初霜さん!」

 

「はい」

 

 勢い込む慧爾を、初霜は酔いのまわった赤い顔でのほほんと見返した。

 

「ずっと前から好きでした! 俺とお付き合いしてください! お願いします!」

 

「ごめなさい今は仕事以外のことは考えられないの」

 

 本日三回目の告白ともなれば、立て板に水が如きお断りの台詞が、打てば響く鐘のごとき素早さで返ってきた。

 

 一回目の告白は、酒の勢いと周囲の盛り上がりと慧爾の覚悟もあって、初霜も躊躇いと恥じらいと誠意をもって懇切丁寧にお断り申し上げた。

 

 それから一時間、慧爾は失恋で傷つき自棄酒を煽っていたが、未だに未練たらたらなことを朝霜を始めとした野次馬たちに散々突っ込まれたので、その恋心にきっぱりとケジメをつけるべく玉砕覚悟で再度告白。初霜も彼の覚悟に応えてバッサリごめんなさいと断った次第。

 

「せめてお友達から、なんて未練がましいこと言わなかっただけ、あいつは立派だったぜ」

 と、焚き付けた張本人である朝霜は彼の告白をそう評しておきながら、その舌の根も乾かぬうちに三回目の告白を強いる鬼畜の所業に及んで現在に至る。

 

 三回目のブロークンハートを涙の一気飲みで慰める慧爾の背中を、朝霜が笑いながらバンバンと叩いた。

 

「だははは、慧爾、残念だったな、なぁ!」

 

「ブホォ!? やめろ、飲んでるときに背中をどやすんじゃない! っていうか残念どころか当然の結果だよ! 残当って奴だよ!」

 

「諦めの早い奴だなオメー、まだ三回目じゃねえか。四回目いっとけ」

 

「お代わり感覚で他人に告白を強いるな。あんた俺にどんだけ恥を上塗りさせる気だ」

 

「あぁ? そんなこと言うなんて見損なったぜ、慧爾。お前、相手を想う気持ちより自分の体面の方が重要なのかよ?」

 

「う、いや、それは……」

 

「はぁ……所詮お前の恋ってのは、恋に恋するドーテー野郎の妄想だったてことか」

 

「どどどどーてーちゃうわ! 俺は本気で……」

 

「……本気で? あぁん? 何が本気だ、言い淀んでないでハッキリ言えよ、なぁっ!!」

 

「本気で好きだ!」

 

「誰が好きだ!?」

 

「初霜さんの事が好きだぁーっ!」

 

「だそうだぜ、初霜」

 

「お気持ちだけ頂きますね」

 

「ですよねえぇええ!!」

 

 まんまと四回目の告白をさせられてテーブルに突っ伏した慧爾の頭を、朝霜はわしゃわしゃとかきまわした。

 

「あっはっは、そう落ち込むなって。気持ちだけは受け取ってもらえたんだから、一歩前進だぜ」

 

「それを前進とは言わねえよ普通……」

 

 慧爾は自分でそう言いつつも、微かに期待する気持ちもあり、突っ伏した顔を少しだけ上げて初霜を見た。

 

 初霜は申し訳なさそうに苦笑いを浮かべていた。

 

 彼女のその表情を目にして、慧爾は胸に切ない痛みを感じた。酒の勢いとその場の雰囲気で誤魔化そうとしていた失恋の痛みが耐えがたいほど強くなって胸を刺し、慧爾の視界はじわりと滲んだ。

 

(あ、やばい泣きそう)

 

 溢れた涙を顔を伏せて拭い去り、新たな涙が零れだす前に、慧爾は立ち上がって皆に背を向けた。

 

「俺、ちょっとトイレに行ってきます」

 

「お、う○こか?」

 

「食事中にそんなこというんじゃ無いったら!」

 

 朝霜が霞にしばかれている間に、慧爾は足早に自宅の中へと去ってしまった。雪風はそんな慧爾の背中を見送った後、初霜に目を向けた。

 

「泣かしちゃいましたね」

 

「流石に可哀想になってきたわね」

 

 少し顔を曇らせた初霜に、がっはっはと豪快な笑い声を上げた者が居た。慧爾の父親だった。

 

「あのバカはあれで良いんですよ。フラれて泣けもしない男に、恋する資格は無いんです」

 

「ロマンチストなんですね」

 

「大人の魅力に気づかれましたかな?」

 

 ダンディに流し目を送る慧爾父の後頭部に慧爾母の手刀が決まった。

 

「セクハラ、アルハラ、モラハラ。お得意様に三冠を決めるんじゃありません」

 

「まだ何もしてないぞ」

 

「なにかあってからじゃ遅いのよ。艦娘さんたちもバカどもがまたバカしたら蹴り飛ばしていいですからね。では、ごゆっくり~」

 

 妻に首根っこを掴まれる形で水斗夫妻が別のテーブルに移り、他の従業員たちもそれぞれで勝手に飲み食い談笑を始めていて、これでオトーリはようやく自然終了となった。

 

 それでも宴会自体は続いている訳で、初霜、雪風、霞、朝霜の四人で料理をつまみながら話す雰囲気となった。

 

 初霜が、少しホッとしたように言った。

 

「水斗ご夫妻がああ言って下さるの、ありがたいわね」

 

 その言葉に霞も頷いた。

 

「朝霜が完全に弄んでいたからね。ご両親の居る前でやり過ぎよ、ばか」

 

「ミャー」

 

「すまんかった、って言ってるぜ」

 

「仔猫に押し付けるんじゃないったら!」

 

「でも」と雪風。「可哀想ですけど、初霜さんがちゃんと断り続けたのはそれでいいと思います。曖昧な気持ちのままお付き合いするのも…その……違う気がしますし……」

 

 言いながら、雪風の胸中に初風の姿が過ぎって消えた。

 

「とはいえ……そのぉ……えっとぉ……」

 

「雪風さん?」

 

「……自分でこんなこと言っとおいてから訊くのもアレですけど……初霜さんって、この先、誰かと……その……」

 

「付き合う気はあるか、ってことかしら?」

 

 気恥ずかしさから尻すぼみになってしまった質問の意図を相手に言わせてしまい、雪風の顔が思わず赤くなった。いったい私は何を訊こうとしているのだろうか。

 

 自分で自分の感情を計りかねる雪風を前に、初霜は少しだけ考える素振りを見せてから、言った。

 

「今は、まだ……そんな気持ちになれないわね。慧爾さんのことが嫌いとか、そういう理由じゃないけれど」

 

 むしろ良い人だと思ってるわ。とフォローを入れつつ、初霜は続けた。

 

「好意を向けていただけるのは嬉しいけれど、私自身は、それを素直に受け入れられる立場に無いの」

 

「立場? それって、艦娘だからってことですか?」

 

「いいえ、そうじゃないの。単純に私の――」

 

 初霜は何かを言いかけた。しかしその言葉は飲み込まれ、少しだけ間を空けてから、彼女は言った。

 

「――私の気持ちの準備が、できていないだけよ」

 

「何が気持ちの準備だよ」横から口を挟んできたのは、朝霜だった。「恋愛なんてそんな身構えるもんじゃねえんだよ。良い奴って思ってんなら、取り敢えず付き合ってみればいいじゃねえか。好きになるも嫌いになるも、先ずはお互いのことを知ってからの話だろ。なぁ?」

 

 真面目に語る朝霜に、初霜も思わず真顔になった。

 

「朝霜……、まさかあなたからそんな正論を聞くとは思わなかったわ……」

 

「アタイが正論言っちゃ悪いか」

 

「いいえ、そんなことないわ。それにある意味、あなたらしい意見だし」

 

「だろ? だいたい恋愛なんてのは突然落ちたり消えたりするような、はっきりしたもんじゃねーんだよ。しょっちゅう顔を合わせて適当にしゃべくり合っている内に、気が付いたら何となく好きになってた。って、そういうもんなんだよ」

 

 とうとうと語る朝霜に、雪風は「へぇ」と感心したが、

 

「こいつの言う事を鵜吞みにしちゃダメよ」と、霞が忠告した。「今の言葉は全部、別の同僚からの受け売りだから」

 

「えぇ~、そうなんですか」

 

「感心して損したわね」と初霜もむくれた。「それで、いったい誰からの受け売りなのかしら?」

 

「村雨」

 

「あぁ」と初霜も納得。「というより、それは恋愛論というより、村雨の実体験そのまんまじゃないかしら?」

 

 初霜は苦笑しつつ、傍らの雪風が興味津々な顔をしていることに気が付いたので、同僚の艦娘:村雨が、海兵隊員の青水二2曹と付き合うに至った顛末を軽く説明した。

 

「それって……何か素敵ですね!」

 

 見知らぬ艦娘の話ではあったけれど、その話をきいて雪風の心は華やいだ。どこか翳りのある人間関係ばかりだった雪風にとって、明るく健全な男女関係の話題は素直に楽しめた。

 

「霞さんと朝霜さんには、そういうお話は無いんですか?」

 

 雪風が華やいだ顔のまま二人に顔を向けた。その質問に霞は「うっ」と顔をしかめたが、朝霜は対照的にニタリと笑みを浮かべた。

 

「聞きたいか、アタイの武勇伝」

 

「何が武勇伝よ。他人の恋愛論を受け売りするようなあんたに、まともな恋愛経験なんてないでしょ」

 

「いってくれるねえ、霞。こうみえてアタイにゃボーイフレンドが山ほど居るんだぜ」

 

「ボーイフレンドていうか、あんたの場合は文字通りの男友達でしょうが」

 

「まあな。フットサルチームの連中とダイビングクラブの連中と行きつけの飲み屋にたむろしてるオッサンとジーさん連中」

 

「フットサルもダイビングもまとめて全部、飲み友達じゃないの。異性として扱われていないパターンじゃない」

 

「かもな。ま、アタイとしちゃ、つるんでて楽しけりゃ恋人だろうが友達だろうがどっちでもいいけどな。…で、霞はどうなんだよ?」

 

「そういう相手は居ないわね」

 

「お前それ、他人のことをとやかく言えた立場じゃねーじゃん」

 

「そうね。村雨とか飛龍さんを見てると、確かに輝いているな~って気はするけれど、私自身はまだ恋愛に対する憧れって薄いわね。……正直、艦娘やってると、その辺の男がどうしても頼りなく見えちゃってさぁ」

 

「なよなよした男は嫌いってか。お前、実はけっこう男に夢見てるタイプだな?」

 

「どういう意味よ」

 

「ゴリゴリマッチョを紹介してやろうか。男くさいやつなら知り合いにいっぱい居るぞ?」

 

「冗談じゃないわ。ゴリマッチョ以前に、あんたと気の合う飲み友達って時点でお断りよ」

 

「何でだよ。みんなアタイに似てイイ奴らばっかりだぜ」

 

「あんたに似てるってところがアウトなのよ!」

 

「お前それ、流石のアタイも傷つくぞ?」

 

「実際、あんたが女だから割と許してる部分はけっこうあるのよ。異性だったらセクハラどころじゃ済まない言動してるわよ、あんた」

 

「そうか? おっぱいやケツ触るくらい、スキンシップの範疇だろ?」

 

「んなわけないったら!? え、ちょっと待って、もしかして飲み友達に触らせたりしてるわけ?」

 

「おう、アタイが触ってもみんな怒ったりしないし、むしろ喜ぶぜ?」

 

「あんたが触る側かぁっ!!」

 

 やめろそれも立派なセクハラだ、と声を荒げた霞の剣幕に、彼女の手に抱かれていた仔猫が驚いて、飛び出して逃げてしまった。

 

「あっ、ネコちゃんゴメンね。やぁぁん、行っちゃやだぁ、戻って来てよぉ」

 

「……アタイに怒鳴ってた直後とは思えない猫なで声だしやがって……気持ち悪っ!」

 

「やかましい。悔しかったらあんたも仔猫並みの愛嬌を身につけなさい」

 

 相変わらずな二人を余所に、仔猫は開け放した縁側から自宅へと入って行った。それを眺めながら、朝霜が言った。

 

「きっと飼い主のところに行ったんだな。ちょうどいいさ、落ち込んでる時にゃ格好の慰めだ」

 

「いいなぁ」と、霞は溜息。「はぁ……艦艇乗りだなんて仕事でなけりゃ、私も猫を飼うのにさぁ。……私、決めたわ。いつか艦娘を引退したら、ペット可の物件を購入して猫を飼うわ」

 

「おめー、それ、お独りさまコースまっしぐらの思考じゃね?」

 

「いいのよ。私にとってはそれでも立派に幸せな夢なんだから」

 

「へーへー」

 

 朝霜は呆れたようにそう呟くと、ふと何かを思いついた顔になって仔猫が去って行った方向を眺めた。そしてその目を一度、初霜に向けた後、改めて霞に向き直った。

 

「何よ、朝霜?」

 

「いや、物件付きで猫欲しいってんなら、いっそ慧爾と付き合っちまえばよくね? って、思ってよ」

 

「はぁ!?」

 

「そんな素っ頓狂な声出すなよ。てかさ、アイツは初霜の言うとおりイイ奴だぞ。見ず知らずのアタイたちに付き合って猫を助けてくれたしよ。それに、その猫を引き取ってくれた上に、こうして宴会まで呼んでくれてさ、良い意味でバカなイイ男だぜ」

 

「まぁ半分以上は初霜への下心――じゃなくて恋心が理由だとは思うけどね。でも、確かにそうね。彼、その辺の軟弱な男よりかはガッツはあるわ。…かなりのお調子者だけど」

 

「なら、悪くなくね?」

 

「そうね」霞も、初霜をちらりと流し見た後、言った。「でも、やめておくわ。本気で初霜のことしか見えてなさそうな男だし」

 

 霞の視線を受けて、初霜は少し困ったような力の無い笑みをその顔に浮かべた。

 

「慧爾さんのことを悪く言うつもりは無いけれど……正直、物好きな人だと思うわ。私みたいな変わり者を好きになるなんて」

 

「そうね」

 

「そうだな」

 

「……自分で言っておいてアレだけど、あっさり頷かれちゃうとそれはそれで複雑な気分ね。そこは嘘でも否定してよ」

 

「いやあんた実際、変人だし」

 

「霞に言われたくないわ」

 

「何よそれどういう意味」

 

「いいぞいいぞもっとやれ」

 

「そ、そんなこと無いと思いますっ!」と、雪風。「初霜さんのこと好きになっちゃうの全然おかしくないと思いますっ!」

 

「雪風さん……、ありがとうございます。そう言ってくれて嬉しいわ。――ほら、二人が私に容赦無いせいで、雪風さんに気を遣わせちゃったじゃない」

 

「気遣いを要求したのはあんたでしょうが」

 

「で、雪風よぉ。お前さん、この変人のどこが好きなわけ?」

 

「変人って言わないで」と初霜。「せめて変わり者と言って」

 

「どう違うんだよ」

 

「初霜さんは変人でも変わり者でもありません! 優しいし可愛いし仔猫を必死に助けようとする姿はとってもカッコよかったです!!」

 

 雪風はテーブルに手をついて立ち上がってしまうほどの勢いで熱弁していた。しかもテーブルに手をついたときに手元に置いてあったマイクのスイッチに手を触れてしまった。

 

 マイクのスイッチが入り、雪風の熱弁はスピーカーから周り一帯に大きく響き渡っていた。その声が余韻を残して消えた後、周りには静寂が落ち、その場にいた全員の視線が雪風に集まっていた。

 

 しまったやらかした。雪風は自分の顔が急速に熱くなり、真っ赤に染まっていくのを自覚した。

 

 みんな雪風の発言にポカンとした表情を浮かべていた。特に話題の張本人である初霜が一番呆けた顔をして、雪風を見上げていた。

 

「えっと…雪風さん?」

 

「あああああ!? しし失礼しましたぁ!!」

 

 雪風は、沈黙と視線に耐えかねてその場から駆け出し、家屋の裏側へと走り去っていったのだった。

 

 初霜を含む一同は呆気にとられたまま、その姿を見送った。そのまま、しばらくの沈黙の後、朝霜が、初霜に目を向けた。

 

「おい初霜、お前なんか言えよ」

 

「……もしかして、これがモテ期というものかしら?」

 

「おバカ」

 

 ぺしり、と霞に頭をはたかれた初霜だった。

 

 

 

 

 

 雪風が人目から逃れようとして立ち入った家屋の裏側には、既に先客が居た。

 

「あ、慧爾さん」

 

「ども」

 

「みゃー」

 

 慧爾の膝の上に仔猫も居た。家屋の裏側は低い垣根に囲まれた芝生が拡がる庭になっており、その片隅に設置されたベンチに慧爾は腰かけていた。

 

「ネコちゃん抱っこしてる。いいな~」

 

「雪風さんも抱っこします?」

 

「え? 私が? 慧爾さんに?」

 

「は?」

 

「へ?」

 

 雪風は慧爾と顔を見合わせ、言葉のすれ違いに気が付いて、二人そろって顔がボっと熱くなった。

 

「い、いやいや、雪風さんが、猫を、です!」

 

「そそそうですよね! 私が、ネコちゃんを、ですよね!」

 

「……もしかして、かなり酔ってます?」

 

「お恥ずかしながら耄碌しておりますです、はい」

 

「お水もってくるんで、ここに座ってて下さい」

 

「あ、はい、恐縮です」

 

「猫もどうぞ」

 

「あ、はい、いただきます」

 

「みゃー」

 

 ベンチに腰掛け、仔猫を受け取り、膝に乗せた。撫でると柔らかな毛並みが心地よかった。

 

「わ~、ネコちゃんもふもふ~」

 

「水、お持ちしましたよ」

 

 戻ってきた慧爾からペットボトル入りのミネラルウォーターを受け取った。仔猫を膝に乗せていることを考慮してか、ペットボトルの蓋は、慧爾が既に開けてくれていた。

 

「ありがとうございます」

 

 喉を潤す冷たい感触が、酔った身体に気持ちよく染み込んでいく。ペットボトルは冷たくて表面が結露していた。その露で濡れてしまった手で仔猫を撫でる訳にもいかず、どうしたものかと雪風が悩んでいると、

 

「雪風さん、手、出してください」

 

「え…」

 

 慧爾がハンドタオルを用意してくれていた。彼に向かって差し出した手がタオルで覆われ、優しく水分が拭い去られた。

 

「雪風さんの声、ここまで聴こえていましたよ」

 

 そう言って微笑んだ慧爾に、雪風も照れ笑いを返した。

 

「私もなんか勢い余っちゃって、告白したみたいになっちゃいました」

 

「つまり、俺たちは仲間ってことですね」

 

「仲間?」

 

「初霜さんのファン仲間」

 

「あぁ~、そっか、ファンかぁ……はい、確かにそうかもしれませんね」

 

 雪風は少しその意味を考え、そして納得した。好意、憧れ、友情、はたまた……初霜に向けた感情の種類は色々とあるような気もするけれど、ファンという言葉が一番腑に落ちた。

 

「あ、でも慧爾さん的にはそれでいいんですか?」

 

「まあ正直にいうと、良くないけど……」

 

 慧爾は力なくうなだれた後、再び顔を上げて言った。

 

「……フラれたってのに、気持ちをぜんぜん諦めきれないんだから仕方ないですよ。かといって、しつこく言い寄って彼女を困らせたくもないし……だから、ファンってことで」

 

 慧爾のその言葉に、雪風は思わずクスリと笑みをこぼした。雪風に笑われて、慧爾はまたうなだれた。

 

「やっぱり変なこと言ってますよね、俺」

 

「ううん、そんなこと無いですよ。むしろ、ちょっと感心しました」

 

「感心?」

 

「はい。世の中には、こんな失恋の仕方もあるんだなぁ、って」

 

「ひどいなぁ」

 

 慧爾は口ではそうぼやいたものの、その顔には笑みを浮かべていた。雪風も、彼と顔を見合わせて笑いあった。

 

「あはは、じゃあ慧爾さんと私で、初霜さんファンクラブを結成しちゃいましょうか」

 

「お、いいですね、それ」

 

「会員一号は私です」

 

「え~、俺の方がずっと前から好きだったのに」

 

「でも、ファンに移行したのはついさっきでしょ?」

 

「それ言ったら雪風さんも同じでしょ」

 

「私の気持ちはずっとファンでした。そのことについさっき気が付いただけです」

 

「ずるいな!?」

 

「いいじゃないですか。慧爾さんは、初霜さんが居るこの島で暮らしているんですから」

 

「ん? 雪風さんもそうじゃないの?」

 

「言ってませんでしたっけ。私、違う部隊なんですよ。任務でたまたまこの島にやってきて、初霜さんがネコちゃんを助けようとしているところに偶然居合わせたんです」

 

 実はその時、お互いに艦娘とさえ知らなかったんですよね。という雪風の言葉は意外だったものの、慧爾が現場に駆け付けた時に目にした二人の様子を思い返すと、そう言う事だったのかと納得できる部分があった。

 

「私は任務が終わったら、初霜さんやこの島とはお別れですからね。だから、ファン一号の名誉くらい私にくれてもいいじゃないですか」

 

「そっか……なら、そうですよね。認めましょう、雪風さんが第一号で、そして会長だ」

 

「へへ、やった」

 

「みゃー」

 

「お前も入りたいか?」

 

「じゃ、ネコちゃんが会員第三号ですね」雪風はそう言って仔猫を撫でつつ、「……そういえば、ネコちゃんってまだ名前は無いんですか?」

 

「そういえば付けてないな。拾った場所の近所の人たちは野良だのシロだの好き勝手に呼んでたみたいだけど」

 

「う~ん、じゃあ私が勝手に名付けてもいいですか?」

 

「いいんじゃない」

 

 猫に戸籍がある訳でも無いのだし、猫も自身がどう呼ばれようが気にする生き物では無いだろう。と、慧爾は他人事気分で肯定したのだが、雪風がじっと自分を見つめていることに気が付いた。

 

「私がつけた名前で、慧爾さんは呼んでくれるんですよね?」

 

「え…? ま、まぁ…」

 

「ですよね。だって同じファンクラブの仲間なんですし」ニヒっ、と雪風が笑った。「よぉーし、それならすっごく可愛い名前を付けちゃおーっと」

 

「そういうことかぁっ! ちょっと待って。人前で呼べないような恥ずかしい名前は頼むから止めてくれよ!?」

 

「この子は女の子だから、とってもメルヘンチックでファンシーな感じの名前にしようと思います」

 

「お願いだからやめて。男の俺が人前に呼べる名前でお願いします」

 

「可愛いもの好きな男性だって居ると思いますよ?」

 

「俺はそうじゃないんだよ」

 

「でも初霜さんは可愛いですよね?」

 

「はい」

 

 ノータイムで肯定して墓穴を掘った。

 

「やっぱり可愛いのが好きなんじゃ無いですか~」

 

「うががが、謀られた!」

 

「慧爾さんが勝手に自爆しただけです。でも、安心してください。せっかく名前を付けても慧爾さんに呼んでもらえないんじゃ、この子が可哀想ですしね」

 

 雪風は優しい眼差しを仔猫に向けながら、その背中を撫でた。仔猫はペルシャの血統が混じっているのか、血統種ほどではないが、他の猫に比べて毛が長かった。水斗家に迎え入れられてから手入れされたその毛並みは豊かで柔らかく、雪風は手のひらにもふもふとした感触を感じながら名前を考え――

 

「……モフモフ」

 

 ――考える前に、手のひらの感触がそのまま口をついて出て、それが雪風の中でぴったりとハマった。

 

「そうだ、モフちゃん!」

 

「え、モップ?」

 

「違います、モフちゃんです。だってこの子の毛並み、すっごくもふもふしてますし」

 

「まあ確かに」

 

 どんなファンシーな名前が出てくるかと身構えていたところに、意外と安直な理由で名前が決まったので、少し拍子抜けした慧爾だったが、人前で呼ぶのに差し支えなさそうな名前なので、特に反対する理由もなかった。

 

「じゃあ決まりだな。お前の名前はモフだ。よろしくな、モフ」

 

「慧爾さん、違います。“モフちゃん”って呼ばないとダメですよ」

 

「“ちゃん”まで名前に含まれてるのか?」そんな那珂ちゃんさんじゃあるまいし。「えっと、モフ…ちゃん、うーむ、呼びづらいな」

 

「“モフ=チャン”みたいな発音やめてください」

 

「分かりにくい例えだなあ。じゃあさ、せめてモフモフにしてくれない? それなら呼びやすいし」

 

「仕方ありませんね。妥協してあげます」

 

「ありがとうございます」

 

「では、この子の名前はモフモフ、愛称はモフちゃんで決定ですね」

 

 名前が決まってよかったね~、モフちゃん。と雪風の言葉に応えるかのように、モフモフはみゃーと鳴いた。そして自分の話題が終わったことを悟ったのか、はたまた撫でられ飽きたのか、モフモフは雪風の膝の上から飛び降りると、そこで大きく伸びをして。そしてまだ宴会が続く表側へと歩き去ってしまった。

 

「モフちゃん、行っちゃた……。ねえ、慧爾さん。モフちゃんのこと、大切にしてくださいね」

 

「ああ」

 

 雪風の言葉にこの島を去りゆく者としての寂しさを慧爾は感じ取った。だから、彼は自分の携帯端末を取り出して言った。

 

「雪風さん、アドレス教えてよ」

 

「え?」

 

「島を離れた後も、モフモフのこととか知りたいでしょ。様子とか写真とか俺が送るよ」

 

「そっか、それいいですね!」

 

「でしょ。そのかわり……」

 

「そのかわり?」

 

「雪風さんって、初霜さんともアドレス交換してるでしょ」

 

「してますね」

 

「初霜さんとおしゃべりした時とかに、その内容をちょっとだけでも教えてくれたりしたら、俺めちゃくちゃ嬉しんだけど……」

 

「それはファンとしてどうなんですかね。まあ気持ちは分かりますけど。……初霜さんの迷惑にならない範囲なら考えなくも無いです」

 

 初霜本人が与り知らぬ状態では、迷惑かどうかの基準など無意味でしかないが、あいにくとそれを客観的に判断するだけの理性を、酔った二人は残していなかった。

 

 悪魔に他人の魂を売り渡すがごとき密約の下、雪風は自分の携帯端末に慧爾のアドレスを登録した。ついでに二人でグループ名も登録した。

 

「“ハツシモフモファンクラブ”です」

 

「呼びにくくない?」

 

「でも“ハツシモフモフファンクラブ”だと“フ”が続いて表記上カッコ悪いと思います」

 

「それは片仮名にしてるからじゃないか?」

 

「ハツシモは漢字表記にしましょうか」

 

「うん、その、そもそもネーミングセンスに問題が……いやもうこれで良いや」

 

 慧爾は苦笑しながら携帯端末をポケットに戻した。その隣で、雪風はしばらく自分の携帯端末を見つめていた。

 

 アドレス欄に新たに加わった、慧爾の名前。

 

(そういえば、初めてかも……)

 

 仕事上の付き合いでもない、同僚でもない、艦娘という共通項も無い、純粋にプライベートな付き合いの知人の連絡先は、これが唯一の名前だった。雪風は自分にもそんな、ある意味まっとうな人間関係ができたことに軽い驚きと、そして喜びに心が弾んでいるのを感じた。

 

「楽しい……」

 

 弾んだ気持ちがそのまま言葉となって零れ落ち、雪風は微笑んだ。

 

「雪風さん?」

 

「私、楽しいです。この島にきて、初霜さんに出会えて、モフちゃんも救えたし、こうやって宴会にも招いてもらえて、美味しいもの食べて、美味しいお酒もいっぱい飲んで、おしゃべりもして、慧爾さんとも友達になれて」

 

「友達……うん、友達だよね、俺たち」

 

「うん……本当に楽しくて……本当に楽しくて…こんなの私、初めてで……」

 

 雪風の鼻の奥がツンとして、視界がにじんだ。

 

「楽しくて……楽しすぎて……私……私……っ」

 

 怖い、と呟いた声は、かすれて震えていた。

 

(そうだ。私は死ぬんだ……)

 

 宴会の最中、不意に過ぎったあの感覚が、今また雪風の胸に蘇った。あのときは無感動に魂を浮遊させていたあの感覚が、今は痛いほどの切なさで雪風の胸を締め上げていた。

 

 二水戦の艦娘にとって、死は日常だ。昨日まで親しく会話していた仲間が何の前触れもなく居なくなり、翌日には忘れ去られ、気が付けば新しい艦娘に置き換えられている。そんな世界に生きる雪風にとって、死と隣り合わせの生は、諦めと絶望に対する戦いの日々でしかなかった。

 

 雪風にとっての死は、自身の理不尽だらけの人生と運命に対する敗北だった。死んだら負けだ。自分が負け犬でしかなかったと認めることだ。だから負けたくない、死にたくない、その一心で戦って、戦い続けて……

 

 ……いつまで戦えば良いのだろう?

 

 雪風が背負わされた莫大な借金を返済し終えた時? しかしあの母親がいる限り、今の負債を返し終えたところでいずれ新たな借金が雪風に圧し掛かるだろう。いや、借金だけではない。死んだ父親のように、母もいつか身を亡ぼすようなトラブルを引き起こすに違いない。そして雪風もまたそれに巻き込まれるのだろう。自分の不幸に誰かを巻き込まずにいられない、母はそんな女なのだ。

 

 二水戦を出れば、雪風はいつか母に身を滅ぼされる。殺されるという意味じゃない。母は決して加害者にはならない、なれない、なろうとしない、弱くて卑怯な人間だ。母は被害者の立場のまま全ての責任を他人に押し付けて人生を全うするに違いない。そしてその責任を押し付けられた者が加害者と呼ばれるのだ。雪風は自分がそ呼ばれるような気がしてならなかった。

 

 二水戦を出て身を亡ぼすくらいなら、このまま二水戦に居た方がマシだった。ここならば目の前に迫る死と戦ってさえいれば、それでいい。戦って、戦って、戦って……

 

 ……きっと、いつか死ぬ。

 

 惨めな負け犬だが、少なくとも自分の人生を己の物としたまま死んでいける。誰かに責任を押し付けられ、加害者として後ろ指を差されることも無い。運命の理不尽にせいいっぱい抗ったという自己満足を慰めにして楽になれる……。そんな思いが、自分でも気が付かぬうちに、その身を蝕んでいた。

 

 その蝕みを、この島が、この出会いが、今日というこの日が、忘れさせてくれた。雪風はどこにでもいる、ありふれた、ごく普通の少女として過ごしていられた。

 

 楽しかった。だから、怖くなった。死にたくなかった。

 

 負けたくないという気持ちではなく、失いたくないと思った。もっともっと生きたいと願ってしまった。

 

 昂った気持ちが抑えきれなり、目頭が熱くなって、こらえきれずに固く閉じた瞼から涙がポロポロと零れ落ちて、強く握りしめていた携帯端末に滴り落ちた。

 

「ゆ、雪風さんっ!?」

 

「ごめん…ごめんなさい…私…っ」

 

 慧爾は訳が分からず狼狽していたが、すぐにハンカチを渡してくれた。雪風は受け取ったハンカチに顔を埋めて、声を殺して泣いた。

 

 慧爾には、雪風の涙の理由など知る由も無かった。それでも……

 

(そうだ。この子も艦娘だったんだ……)

 

 国を守るための命懸けの戦いに身を投じる彼女がもらした“怖い”という呟きの重さは、慧爾には想像さえできなかった。

 

 けれど、放ってはおけなかった。何とかしてあげたかった。小さな身体にはあまりにも不釣り合いな重荷を背負って震える少女を、どうにかして慰めたいと切に願った。

 

 だけど、慧爾には自分に何ができるか分からなかった。気の利いた励ましの言葉も思いつかず、その震える肩を抱く勇気もなかった。彼にできたのは、雪風の隣で座るその距離を少しだけ縮めること。

 

 そして、

 

「待ってるから……」

 

 と、自分のせいいっぱいの気持ちを拙い言葉にのせて伝えることだけだった。

 

「俺、待ってる。モフモフと一緒に、雪風さんがまた遊びに来てくれるのを。…そんで、また初霜さんも呼んで宴会しようよ。その時は、俺また初霜さんに告白するよ。きっとフラれると思うけど、そしたら、今日みたいにみんなで大声で笑ってさ……」

 

 慧爾は言いながら、こんな意味のないことを話している自分が情けなくなった。それでも、それでも……

 

 慧爾の横で、雪風がハンカチに顔を埋めたまま、わずかに頷いてくれた。

 

「雪風さん……」

 

「――ます」

 

「え?」

 

「わ…私、…来ます。また、ここに、遊びに来ますっ」

 

 顔を覆ったまま、嗚咽で途切れ途切れになりながら、雪風は言った。

 

「初霜さんと一緒に、…ここに帰ってきます。モフちゃんに会いに来ます。…そして……そして……」

 

「そして?」

 

「慧爾さんがフラれるところを見て、大笑いしてやりますっ!」

 

 ハンカチから顔を上げて、雪風は笑った。それは涙でぐちゃぐちゃなままの笑顔だった。

 

 月明かりの下で、二人の笑い声が重なり合って響き渡った――

 

 

 

 

 

 

 

 

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