B級2位に座する影浦隊の隊室を覗くと、そこに『ごくつぶしのキヨ』の姿を見ることができる。
彼は本来であれば他のエンジニアたちと共にイレギュラーゲートの対応に追われているはずなのだが、何故か今、ブラシ片手に影浦隊のオペレーター仁礼 光の髪の毛をブラッシングしている。
やってる事はエンジニアの仕事ではなく下僕のそれである。ただ、これにはそれなりに理由があった。清治は無駄に女子力が高いのだ。
きっかけは本部長補佐の沢村 響子だった。いつもの通り胸を触られ、触った主に鉄拳を食らわした直後、喰らった側がその手をつかむと
「お響さん爪ガビガビやんけ」
言うなり、清治はネイルケアグッズ一式を持ってくると、驚くほどの手並みでファイリングで爪の形を整え、キューティクルリムーバーで甘皮やルーズスキンの手入れを行い、バッフィング、マッサージ、仕上げにベースコートの塗布と、ネイルケアの一連の作業を手早く済ませてしまったのだ。
ケア前と後の沢村の爪の様子は、ビフォア・アフターのサンプル写真にしてい程に大きく違っていた。驚く沢村に
「本部長がどこまで見とるかは知らんけど、忙しゅうても最低限のケアはしとかんと」
と言って清治は去っていった。
噂を聞いた加古が清治にケアを依頼すると、今度はネイルサロンも真っ青のネイルアートを施したのである。これにはさすがの加古も舌を巻いた。アクリル絵の具やビーズ、ストーンを丹念に散りばめて描かれたのは加古隊の隊章だった。
もっとも、この話を聞いても『実力派エリート』は驚かなかった。
「前にムサさんが、米粒で観世音菩薩を彫ってたを見たことあるからね」
だそうだ。
ともかくこの噂はすぐに女子隊員に広まり、引いてはネイルケアだけでなくハンドケア、ボディケア、ヘアケア(本人のヘアは残念だが)メイクの方法など、様々な相談を彼女たちから受けることになった清治。そういうわけで、同じ『セクハラの双璧』と比較すると清治のそれは多少大目に見てもらえている節もあるのだった。
ちなみに、このことから清治には女装癖があるのではないかという噂が立ったことがある。だが、これについては本人が
「そのような事実は一切ございません」
とキッパリと否定している。
他の噂や渾名、陰口については知らぬフリをしている彼がこれだけはきちんと否定したため、その噂は徐々に下火になっていった。
だが、結局女子力が無駄に高いことから『女子力の双璧』とも言われるようになりはしたが。ちなみに、双璧のもう一人は玉狛支部の木崎 レイジである。
そんなわけで、今清治は『黙っていれば美少女』な仁礼のためにブラッシングをしているのである。
「よっしゃバッチリぢゃ」
「おう。サンキューな。ムサ」
ブラッシングが終わり、頭を一撫でされた仁礼がぶっきらぼうに礼を言う。一体どういう育ち方をしたらこのような口調になってしまうのだろう。彼女もまた、ボーダーに複数いる『残念女子』の1人である。
「ひかりんの髪は綺麗じゃけやり易いわ。ユウちゃんのはだいぶクセッ毛っちゅ~か、猫っ毛っちゅ~かぢゃけんね」
言いつつ清治はブラシをポーチに収めている。ポーチの横には一応書類の入ったブリーフケースが置いてあった。
この書類は、清治が迅とラーメン屋で別れた後の小細工の結果が記されていた。
清治は空閑 遊真との邂逅のあと、部屋に籠って再びログの解析を行っていたのだ。そして、件の清治だけが見つけることのできる『ノイズ』の部分の波形を三次元化して、正常にゲートが誘導できた際のログと比較したのである。
違いは、はっきり言ってしまえば些少だった。だが、絶対に見極めができないというほどでもなかった。
複数のケースを同じようにサンプリングして比較し、自身で検証した結果を開発室に(つまり鬼怒田に)報告したのだ。もしかしたら、完全とまではいかずともこれまでよりもイレギュラーゲートのコントロールが容易になるかもしれない。
清治が今のんびりと仁礼の髪をといているのは、その報告書を開発室内で検討しているからだった。そうでもなければ、特に防衛任務が入っているわけでもない勤務時間帯にこんなにのんびりとした時間を過ごすことなど、さすがの清治でもできはしないのだ。
「よしムサ。こたつに入ることを許可するぞ」
「ありがたき幸せ」
当初は仁礼のこうした口調にさすがの清治も苦い顔をしたものだが、今はすっかり慣れてしまった。正したところで直るものでもない。
ちなみに、仁礼は本来このような口調ではあっても目上の人間には『さん』を付ける。付けられていないあたりで清治が彼女に嘗められているということが良く分かるというものだ。
しばらく2人でこたつに入り、ミカンを食べながら(清治が剥いたものを仁礼が食べるだけだが)中身のない会話をしたあと、清治は影浦隊の隊室を後にした。彼らにはこれから防衛任務が待っている。長居は無用である。
もちろん去り際に仁礼の胸にタッチするのも忘れなかった。
影浦隊と入れ違いで防衛任務が終了するのが三輪隊だった。その三輪隊の任務終了間近という時間のことだった。
『ゲート発生。ゲート発生。座標誘導誤差7.66』
警報が鳴ると同時に清治は開発室へと走った。今回のゲートはどうやら警戒区域の中に発生したらしい。何か成果があったということなのだろうか。
「ポンさん!」
入るなり大声で鬼怒田を呼ぶ。
「大声を出すな! …どうやらおまえの発見が一応の効果を発揮したようだぞ」
鬼怒田が言うには、これまで全く誘導できなかったイレギュラーゲートを、ほんの少しだけコントロールできるようになったという。
清治が提出した検証結果を元に、イレギュラーゲートが発生する時にわずかに出る『ノイズ』を検知してさらにコントロールをするというものだ。
「どのくらいの精度なんすか?」
「30%前後だ。これで成功とはとても言えんが、それでもこれまでのことを考えると格段に向上したぞ」
これまで発生していたイレギュラーゲートは全くコントロールできていなかった。数値で言えば2%以下だ。それを考えれば確かに前進したとは言える。だが、鬼怒田の言う通り十分な『成果』とはとても言えるものではなかった。
「やれやれ。それでもなんぼかマシって程度ですか。ゲートそのものの発生を抑えることはできんのですか?」
「トリオン障壁を使えばできなくはないが、持って50時間ほどだ。その間に問題が解決できなければアウトだぞ」
苦々しげに鬼怒田が言う。目途が立たない状態でそれは避けたい。その考えは鬼怒田にしても清治にしても、他のエンジニア達にしても同じ思いだったろう。
「! ポンさん。この位置はちょっとマズイかもしれませんで」
誘導されたゲートの位置を座標で改めて確認した清治は、苦味のある笑みを浮かべながらそう言った。
鬼怒田も改めて確認すると、誘導されたゲートの位置は、防衛についている各隊からは遠い場所だったのだ。
「三輪隊が一番近いが、間に合やぁえぇんぢゃが…」
右肩をそっと撫でながら清治の言う『間に合う』というのは、ゲートから現れたネイバーが市内に入り込まないように撃破できるかということだ。
ボーダー本部基地の周辺には人は住んでいない。ここを警戒区域としてゲートが発生したら誘導し、そこでゲートから現れたネイバーを駆除するのだが、警戒区域の外では普通に市民が生活をしている。
そこにネイバーがなだれ込めば被害は甚大なものになる。それを防ぐのがボーダーの仕事なのである。
「ポンさん! むしろここからの方が現場に近い! 本部待機の部隊を!!」
「わかっとる! もう忍田本部長に…」
鬼怒田が言いかけたその時、開発室内がざわめいた。何事かとモニターを見ると、先ほどゲートから登場したネイバーの反応が消えている。
「撃破した、のか…?」
だが、時間的に考えてその場にどこかの部隊が到着したとは思えない。それでも、ネイバーが撃破されたことは間違いなかった。
「…回収班をすぐに向かわせろ! 何にしても現場で調査をしてみんことには何も分からん」
呆気に取られていた鬼怒田だが、すぐに我に返って指示を出す。回収班が出発すると、清治も含めて数人のエンジニアが今回のゲート誘導についての検証に入った。
突如として消えたネイバーは確かに不可解だが、今ここで考えるには考証材料が足りない。であれば、回収班の現地調査を待って検証を行うべきだ。
おそらく現場には、回収班だけでなく三輪隊も向かっているはずである。まずは両者の報告を聞いてからのことだった。
いつもの休憩場所に座っている清治は、珍しく難しい顔をして座っている。それも手ぶらでだ。
先ほどまで開発室にいた清治は、例によって定時になると出て来たのだ。だが、どうもすぐに帰る気になれなかったため、ここで来るかもしれない三輪を待っているのだ。
三輪は隊の活動が終了したあと、しばしばここにやって来る。本来彼は、ここに休憩にやって来るのだ。知っていてそうするのは心苦しいが、話を聞くためにはここで待つのが一番良かった。
また、来ない可能性だってあった。そして、そうであればそれでも構わないとも清治は思う。
ネイバーの反応がレーダーから消えた後、一番最初に現場に到着したのは予想通り三輪隊だった。彼らの報告では、自分たちが到着した時には既にネイバーは消されていた。それも大分派手にだ。
にもかかわらず、彼らよりも先に現着したボーダー隊員は皆無。奇怪としか言いようがなかった。
『他の部隊はそこには来てない。私たちが一番乗りのはずよ?』
先日おっぱいを触ってしばかれた月見の声のログを確認しながら、清治は右肩をそっとさすった。
三輪はボーダーの最高責任者、城戸指令の腹心でもある。正式な報告を上層部にするために遅くなっているのだろう。そう言えば、清治が開発室を出る少し前に鬼怒田が急ぎ足で出て行った。
きっと今頃は会議室で三輪隊の報告と、その内容の精査でもしているのだろう。技術者である清治にとっては迂遠なことだと思われた。
偉い人たちは今後の対応を決めるために会議をしているのだろう。それはわかる。だが、情報が新鮮なうちに開発室にもたらせば、それだけ解決への手間と時間が節約できると清治は思っている。
方針をどうするかにしても、調査や検査を行うのは結局技術者だ。であれば、早めに情報を受け取ることができれば初期段階の調査や検証にそれだけ早く着手できる。
――― 偉い人にはそれがわからんのですよ
いや、案外鬼怒田は内心同じように思っているかもしれんが、彼はまた上層部の人間として上層部の事情も分かっているはずだ。
現場を軽視するわけではないのだが、ボーダー全体を考えると上層部の都合を優先せざるを得ないのだろう。中間管理職とはつらいものだ。
清治がそんなことをくだくだと考えていると、果たして待ち人が向こうからやってきた。待ち人は清治を見て一瞬嫌な顔をしたが、すぐに一礼して休憩室に入ってきた。
「よ。三輪っち。お疲れのところを申し訳無いんぢゃが、ちょいと教えてくれんかね」
主語を述べずにそういう清治に、三輪は鬱陶しげに返事する。
「現場の状況は鬼怒田室長にも伝えました。詳しくはそちらから聞いてください」
そう言う三輪に、清治はなおも食い下がる。
「いや、わしが聞きたいのは、報告書にあるような堅ぁ内容のモンぢゃなぁ。三輪っちが現場を見て率直に思ったことを聞きてぇのだ」
三輪が聞けば嫌がるかもしれないが、清治は三輪を非常に高く評価している。その報告書には、事実を客観的に分析したものが掲載されているのだろう。
私見を交えないそれは、報告書としてはとても高い水準にある。だが、清治はむしろ三輪の私見を聞きたいのである。
できれば一緒に現場に居たであろう米屋にも話を聞きたいが、彼の場合逆に私見が入りすぎる。普段そうした話を聞くのは清治にとっては好ましいことだが、今の状況ではそれでは判断材料になりにくい。
やれやれ… そういった様子で頭を横に振ると、三輪は報告書には記載しなかった彼自身の私見を述べはじめた。
おおよそは清治が考えていたことと同じだった。報告書に書いた通り、倒されたネイバーの残骸から、ボーダーのトリガーとは異なるトリガーの反応があったということ。
報告書にはそこまでしか書いていないが、そのトリガーは別のネイバーのものではないのかという疑いを彼が持っているということだった。
「なるほどの… 確証はなぁにしても、とにかく三輪っちはそう思ったってことなんぢゃね」
三輪がうなずくのを見ると、清治は右肩を撫でながら言葉を続ける。
「わしもおおよその見解では三輪っちと同じようなもんぢゃ。行ったことがあるけぇ言うんぢゃが、ネイバーっつっても色々な国があって、連中同士で戦争しよるトコも少のぉなぁ。案外、今回レーダーにかかった奴を派遣して来た国とは違う国のネイバーが、こっちに来たやつを始末した後行方をくらましたんかもしれん」
いったん言葉を切った清治は、三輪にうまい棒を進めながら続けて言った。
「三輪っちの所感にしてもわしの見解にしても、今んトコ裏付けになるモンがなぁ。とりあえずわしの方でも色々探ってみるが、三輪っちは知らんフリしといた方がえぇ」
まだそこに残る三輪をおいて、清治はセーフハウスへと足を向けた。無論空閑 遊真の隣室ではない場所へである。
迅と約束した手前、清治は彼に対してはアンタッチャブルでおこうと考えていたのだが、ここへ来て少々事態が切迫してきたように思う。
端的に言えば、清治は今日の謎のネイバー撃破事件の中心には彼がいるのではないかと思っている。つまり、清治は空閑をネイバーなのではないかと疑っている、いや、ほぼ確信している。相変わらず根拠はないが。
――― ゆういっちゃんなら『俺のサイドエフェクトがそう言っている』なんて言うんぢゃろうが、わしのサイドエフェクトにゃそんな性能はなぁしの
清治のそれは、あくまでも彼の勘でしかない。ただ、あながち外れてもいないのではないかと自分では思う。
とはいえ、親しい友人である迅と約束した以上、過剰な接触は極力避けるべきだし、彼に対して疑義を抱いている自分が接触するのは少々マズイと清治は考えていた。
――― アレにゃ少々の嘘は通じそうにないしのぉ
先日会話をした時、その前日にあの『家』に居なかったことを聞かれた際のことを清治は思い出していた。
――― ありゃぁ完全にわしを疑っとる目ぇぢゃった。わし嘘ついてないのに
清治にとって『本当のことを言わない』ことは嘘には入らないらしい。彼はきっと死後は何本も舌を抜かれることだろう。
ともかく清治は、空閑と接することで自分がうっかり必要のないことを彼に言ってしまい、そのせいで迅が見た未来とやらが悪い方に流れることだけは避けたかった。
優しい鬼怒田に迷惑をかけるのも嫌だが、優しい迅を苦しめるのはもっと嫌だった。
三輪には悪いが、今は清治が調査をするフリをして彼には動かずにいてもらう方が良いだろう。
未来が見えるわけでもない清治だが、とにかく今は、迅の見た未来のうち最悪のものではない結末のためには、自分と三輪が過度に関わらない方が良いだろうと思うのだった。
三輪隊が現着する少し前、ネイバー(現れたのはバムスターだった)が撃破された現場に2人の少年がいた。1人は清治の隣人で、もう1人は清治の知らないメガネをかけた少年だ。
「いやいや違う。ボーダーなのは『親父の知り合い』。親父はボーダーとは関係ない」
メガネの少年三雲 修の質問に対し、清治の隣人でもある空閑がそう答える。三雲は呆気に取られた。
「関係ないはずないだろ。トリガーを持っているのはボーダーの人間だけだ」
彼には空閑が何を言っているのか分からなかった。
それはそうだ。彼からすれば、ネイバーと渡り合う上で唯一の『武器』であるトリガーを所有しているのはボーダーであり、それを使用できるのはボーダーに所属している人間だけだ。
しかし、空閑の答えはそんな疑問を投げかけた三雲の予想をはるかに上回る、今の言い方で言えば『斜め上』を行っていた。
「それは『こっちの世界』でのハナシだろ?」
完全に予想外の答えに三雲は息をのむ。空閑はさらに続けて言った。
「おれはゲートの向こうの世界から来た。おまえらが言うところの『ネイバー』ってやつだ」
三雲 修は戦慄した。この規格外の戦闘力を持ったトリガーを駆使する、今日初めてあった少年。
彼はまだ知らなかった。この出会いによって、ごく目立たないボーダーの訓練生に過ぎなかった自分の運命が大きく変わってしまうということを。
それはまた、未だ彼の知らない幾多の人物たちとの出会いをもたらし、彼自身が思ってもみなかった道をたどることになる、ほんの入り口での出来事に過ぎないということを。
そしてまた、武蔵丸 清治も知らなかった。彼ら二人の出会い、そしてその後の彼らとの邂逅によって、なけなしのやる気を出してこの件に係わるハメになるということを。
もっとも、もし彼の中に『やる気』と呼べるものがわずかでもあるのであればの話ではあるのではあるが。