ゴッド・オブ・ウォー 葬送の残火   作:アォン

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アウト食らったらそれまで




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男は、長い旅路のさなかにあった。

海を越え、夜闇を越え、山肌を越えて彼は歩み続ける。

力強く大地を踏みしめ、決して休む事無く。

その道を阻むあらゆるものを斃し尽くして。

灰を被ったような真っ白い肌に、血のように赤い入れ墨が走る、筋骨隆々とした肉体。

上半身はその鍛え抜かれた筋肉を浮かばせる素肌を惜しげなく晒し、頭髪は一本も無く剃り上げられている。

太い眉の下に輝く金眼は万余の言葉でも足りぬ怒りにつり上がり、血脂に固まって冷たく光る髭を生やす太い顎は、耐え難い苦悩を引き結ぶ口でもって表現していた。

男の名は、クレイトス。

かつてスパルタにおいて、最も勇猛で誇り高き戦士としてその名を轟かせていた男。

取り返しのつかない過ちを犯し、罪の証をその肌に刻みつけられた男。

罪を贖うために、想像を絶する多くの苦難を乗り越え、遂には戦いの神となった男。

彼は、自身を苛む悪夢がいずれ終わるものと信じていた。

しかし、すぐに理解する事になる。全てはまだ、始まったばかりなのだと。

 

「クレイトス!この先の神殿には誰も立ち入る事は出来んぞ!死を恐れる理性がまだ残っているならば、引き返すがいい!」

 

峡谷を繋ぐか細い岩の回廊で、クレイトスを囲むミノタウロスの一匹が吠えた。

大群をなして戦いの神に牙をむく畜生の声は、しかし、彼を止める力とはならなかった。

 

「アンブロシアを手に入れるまで、私は止まる事はない。たとえタルタロスの怪物達を前にしようとな」

 

毅然と言い放ったクレイトスは、鎖に繋がれた魔剣を両手に握り締め、跳んだ。

振り下ろされた刃に斬り伏せられ、ミノタウロスの骸は虫けらのように谷底へと落下していく。

 

「ハッ!思い上がるな。お前はただの人間と同じように、その血全てを流し尽くして死ぬのだ!」

 

牛の喉が発する濁った咆哮は合唱となり、谷底から吹き上げる谺と一つになってスパルタの亡霊に吹き付ける。

だが、彼は一切の恐怖も抱かなかった。

 

「私はもはやただの人間ではない。戦いの神だ!」

 

もはや是非も無かった。彼の言葉を皮切りにミノタウロスは殺到する。

前と後ろから迫りくる怪物たちを、次々に奈落へと叩き落としていくクレイトス。

腕に絡みつく鎖は、戦士の意思を漏らさずに受け取り、灼炎を纏う牙を哀れな供物へと突き立てるべく縦横無尽に踊り狂う。

 

「幾らでもかかってくるが良い、怪物ども!!」

 

頼りない足場に立つクレイトス目掛け怒涛のごとく押し寄せるミノタウロス。

だがそのいずれもが、滅ぼすべき存在へと触れる事すら出来ず次々と命を散らしていった。

切り裂かれ、砕かれ、焼き尽くされ、闇の底に消えていく無数の影。

断末魔は、更に恨めしく震える響きを伴って峡谷を満たした。

 

「この手の中にあったものの為に、ここに来たのだ」

 

静寂の中で、クレイトスは独りごちた。物言わぬようになったミノタウロス達の死体を踏み、押し退け、彼は洞窟に足を踏み入れる。

闇の中を歩くクレイトスの道は、平坦ではなかった。いつだってそうだった。

洞窟を抜けると、その先に現れた断崖を見上げ、躊躇無く彼はそこに手を掛ける。

 

「アスクレピオス、その霊薬アンブロシアは、あらゆるものを癒やす」

 

それは彼にとっては何らの妨げになるものでもなかった。あっという間に、崖の中腹にまで登りつめた彼は、そこに空いた横穴へと入り込む。

 

「……かつて一度、私はそこに辿り着いた」

 

断崖の内部へ続く洞窟。その闇の奥に、小さな影があった。

 

「再び果たせない理由などあるものか……」

 

誰に対してでもない呟きも、小さな怪物には解せぬものに違いなかった。蹲っていた毛だらけの角が、クレイトスのほうを向いた。

親を失くしたミノタウロスの赤子の顔は、彼に懐かしい哀れみを思い起こさせた。遠けき、幼い日々の記憶を……。

 

--

 

……クレイトスがその赤子に与えたのは、哀れみではなく、死だった。

 

「聞いているか、幼きスパルタ人。お前は何をするべきか、知っているはずだ」

 

手に抱く赤子から顔を上げたクレイトスは、前を見た。同じ年頃の少年達は何人も、兵士に付き添われて並んでいた。

 

「スパルタ人は戦場の武勇を運命づけられている。そのようになれぬ身体に生まれついた者は、ここタイゲトス山の断崖より、地の底へと送り返すべきなのだ」

 

吹き上がる風は、闇の底へ消えていった者達の怨嗟のようにクレイトスの耳に響いていた。

自分より前に並んでいた少年が、意を決した様子で、手に抱いていたものを放り投げる。

 

「次だ、若き戦士よ。さあ、弱き者を葬るのだ。お前はスパルタ人か、否か!」

 

切り立つ断崖は無慈悲な言葉を紡ぐ兵士の声を引き立てるように、冷徹なままクレイトスの前にあった。

粗布にくるまれた小さな生命の温もり、重み、肌の柔らかさ。クレイトスは、手の中にあるものがかつての自分とほんの少しの違いしかないものだという事くらい、知っていた。

だが……。

 

「お前達はこれから、想像もつかない苦しみを学ばねばならないのだ……」

 

クレイトスは目を閉じたくなる衝動に耐え、その腕を突き出した。

 

「苦痛も悲哀も意に介さず、戦いに全てを注げるようになるまで……」

 

彼は、スパルタ人だった。そのように生まれ、育つべき運命を与えられていたのだ。

遥かな谷底目掛けて小さくなっていく赤子の姿を、クレイトスは目を逸らさず見続けた。

それが消えてしまう瞬間まで、ずっと。

……そして、彼は共に育つ仲間達の中でも最強の戦士となるべく、訓練の日々を送るようになった。厳しく、慈悲は少なく、技と知慧を競い、高め合う。

友誼とはかくの如くしてのみ育まれ、命を預けられるべき信を得るには、力を身につける以外に道は無いと彼は学んでいった。

やがて、少年は男になる時が来た。

 

「クレイトスよ、お前は比類なき戦士たる片鱗を覗かせているが、どんな人間も取り返しのつかない失敗をする事はある」

 

試練を言い渡す教官はしっかりとクレイトスの肩を抱き、まっすぐに彼の目を見つめながら言う。

 

「かつて私は武器を持たず荒野を彷徨い、それを学んだ。お前は真にスパルタ人の男になる為の、最後の試練を受けねばならない――――あの時の私と同じ齢になった、今こそ」

 

クレイトスはまだ十三歳だった。だが、もう十三歳なのだ。スパルタの戦士たる誰もが乗り越えねばならないものとして、その法は定められていた。

少年はひとり、城壁の外へと旅立った。

 

『過酷な自然はお前を苦しめるだろう……』

 

舞い落ちる雪はやがて風と混じり、少年の身体を容赦なく白い帳に覆い尽くそうと荒んだ。

 

『……飢えと乾きを凌ぎ、いかに生き延びる事が出来るかを学ぶだろう……』

 

無慈悲に太陽は天空で輝き、ひび割れた大地を彷徨う少年を跪かせる。

 

『……獣達は、弱ったお前を容赦なく餌食にしようとするだろう』

 

夜闇とともに現れる、血に濡れた牙と双眸。無数の影を前にしたクレイトスは、敢然とそれに立ち向かう。

石を削った両手のナイフは、飛びかかってくる獣の首を切り裂き、心臓を穿った。爪で肉を抉られながら、クレイトスは獲物の脳天を叩き割った。

 

『一年の間、生き延びる事が出来れば、お前は本当の意味でスパルタ人の男となる……戦士として、生まれ変わるのだ』

 

獣の肉を喰らい、骨髄を啜り、彼は飢えと乾きを満たした。毛皮を被り、火を熾し、寒さを凌いだ。

そして――――彼は、生き延びた。

 

「スパルタに栄光あれ!!」

 

そこに一人の戦士がいた。

 

「オリュンポスの神々に栄光あれ!!」

 

その槍の穂先は常に先陣を切り、最も多くの敵を斃した。一番に、城壁を越えた。一番に、敵の将を討ち取った。

彼の鬨の声は、誰よりも広く、戦場に響き渡った。

数々の戦いにおいて無双を極める強さと勇気を示すクレイトスは、やがて将の、王の目にも止まるようになる。

 

「いずれそなたは、スパルタ全ての兵を率いる者になろう」

 

王は真実の敬意とともに、栄誉の証として剣を下賜する。万雷の歓声は、偉大なる戦士の名を繰り返し呼んでいた。

しかし、国中からの賞賛と尊崇を集めている最中であろうと、クレイトスは次なる勝利への飢えを絶やさなかった。

彼は、飢えていた。常に、足りぬものを感じていた。

 

「そなたの武勇を誇らしく思う。その偉大なる名とともに、スパルタに永き勝利と繁栄あらん事を……クレイトス?」

 

遠くから自分を見るスパルタの民。多くの影は皆、戦士への尽き果てぬ憧憬をのみ向けていた。

しかし、クレイトスはその中に、たった一人だけ、別のものを宿した女の目を見た。

栄誉を授けられる式典が終わったその日のうちに、彼は彼女のもとを訪ねた。

 

「クレイトス。素敵な方……。私は……」

 

女は大いに畏まって、平伏しようと頭を下げた。だが、クレイトスはそれを制止した。

 

「跪かなくていい……名前を教えてほしい」

 

ふたりは、一目で通じ合った。言葉が無くとも、互いの思いを理解した。

 

「……リサンドラ。私の名前は、リサンドラ」

 

見つめ合う男と女の出会いは、そのようなものだった。

長く戦いの高揚と、夥しい敵の血を味わってきたクレイトスは、しかしそれらで何かが満ち足りた事は決して無かった。

どんな女も、彼は寄せ付けなかった。彼が飢えているのは、もっと別の何かだった。

……血と戦いの幻影は夕日のように霞み、彼の中の空虚へと溶けていった。そして彼は、人生で初めてそれを感じた。

他のどんなものにも代え難い、満ち足りた気分を。

 

--

 

「リサンドラ、私と同じように呼吸しなさい。痛みを和らげるように……」

 

産婆は幾多もの経験があるのを知っていたが、クレイトスはどんな戦いの中でも覚えたことのない不安で満たされていた。

腕を組み、沈痛そうに見守る夫にリサンドラは微笑みかけた。

 

「私の事は心配しないで、あなたの子の事だけを……」

 

愛する妻が新たなる命を産み出す瞬間は遠く、果てしない困難が伴い、そして自分では決してそれを征する助けを与えられないものと知っていた。

クレイトスは耐えた。ただ待ち続け、神々の慈悲を信じ、祈った。

 

「頭が出てきた、もう少し」

 

分娩台に寝そべる妻を見守り続けたクレイトスは、遂にその瞬間に立ち会った。

……それが、全てのはじまりの瞬間だった。

 

「あ、ああ!怪物……?これは?」

 

助産婦の一人が、青ざめた顔でその赤子の容姿を語った。

体中に斑点と疱瘡を浮かばせた、生まれながらにして重い病を宿した哀れな娘の姿があった。

取り上げた産婆も、呆然として呟いた。

 

「おお、神よ……」

 

弱々しい産声をあげる娘を前に、クレイトスはかつてない狼狽に囚われる。

 

「私の娘……一体これは、……何をしたというんだ?」

 

只ならぬ事態を聴覚で感じ取ったリサンドラは、産褥の疲れも痛みも忘れて股ぐらへと顔を向けた。

 

「クレイトス?どうしたの?何があったの?」

 

「疫病です。スパルタの赤子達がいずれも罹り、次々に死んでいっているのです。神々の嘆きもいつ届く事であるか……」

 

クレイトスは妻の視界を手で遮った。見せる必要は無かった。産婆の言葉だけで、全てを理解させるのに充分だったからだ……。

リサンドラの容態を落ち着かせるのに暫しの時間が必要だった。

 

「あの子はお前と一緒には居られない。然るべき場所に移さなければ」

 

クレイトスの宣告が何を意味するものか、妻は知っていた。

 

「お願い、あの子を連れて行かせないで!わかっているでしょう、このままあの子は……!」

 

……そして、夫がどのような心境であるかをも。優しく妻を抱きしめるクレイトスの身体は震えていた。彼もまた、妻の思いを全て知っていた。

 

「リサンドラ……スパルタは、強き者しか生きる事が許されない。誰であろうと……」

 

「あなたの言葉なら聞くでしょう!?あなたの娘なのよ!?お願い、止めて……」

 

二人は、漸くこの世に生を受けた愛する娘が辿るべき運命を知っていたし、それを呪う思いはひとつだった。それでもそのように言葉をかわす事しか出来なかった。

夫の胸の中で啜り泣くリサンドラ。

……夫婦から背を向けていた産婆は告げる。

 

「彼らは聞きはしないでしょう、奥様……法を覆す事は出来ないのです。兵であろうが、王であろうが。……けれども私は一度だけ、ある医者に聞いたことがあります、ずっと昔、どんな病をも癒やす事が出来る方法というのを」

 

偉大なるスパルタの戦士と、その妻の愛は深く、断ち難かった。幾人もの子の誕生と死を見てきた産婆は、だからこそその話を聞かせようと思ったのに違いなかった。

 

「何だと?それはどこにある?どうすれば得られる?」

 

クレイトスは飛びかかるように産婆の話に食いついた。肩を掴む力の強さも気にかけられないほど、彼の心は揺れていた。

 

「そ、それは……アンブロシア。アスクレピオスの、アンブロシアと」

 

「アスクレピオス?……医術の神か」

 

光明神アポロの子アスクレピオス。彼の隠された神殿には、神々のみが立ち入るのを許される。そこに生えた生命の木には、どんな傷も病も癒せる果実がなるという……。

 

「死をも覆すという、神々の霊薬アンブロシア。私はその医者の場所しか教えられません……彼も、アスクレピオスの神殿の場所を知っているだけでしょう」

 

クレイトスの決意は既に固まっていた。振り向いた彼は、泣き崩れる妻の声を聞く。

 

「クレイトス、カリオペと会わせて……あの子を抱かせて」

 

「リサンドラ、それは……」

 

言葉に詰まる。大きくなっていく腹を撫でる愛おしげな顔、あれほどに待ち望んだ我が子の姿がどんなものであるか……。

クレイトスは妻を気遣う思いゆえに、その言葉を聞き入れるのに躊躇を感じた。

 

「お願い、私の娘を……」

 

産婆は何も言わずに、リサンドラに娘を差し出す。布に包まれた、小さい、新たな生命。クレイトスの虚無を満たす、安らぎの結晶……。

母の手に抱かれたカリオペは、病の苦しみも忘れて無邪気に笑い、歓喜の声を上げた。

斑点と疱瘡の浮かぶ娘の顔。それを見下ろすリサンドラは、涙を流して破顔し、呟く。

 

「ああ、なんて、綺麗な子……」

 

クレイトスは全てを悟った。全ての確信は誰にも覆せないものとして彼の中にあった。

 

「神々の慈悲と共に、私たちはこの子を救ってみせよう」

 

しかし、それを阻もうという意思は確かにあった。

 

「そこまでだ!」

 

安らぎと静寂を打ち破るよう、兵士達は武器を携えて産院に現れる。

 

「近衛か?何故ここに来た」

 

「既に話は聞いた、クレイトス……遺憾に思うが……しかし、私達は守らねばならない掟があるのだ」

 

兵士を率いる男は無慈悲なだけの人間ではなかった。だが、彼はスパルタの民であり、王の従僕たる使命を忘れる事など出来ないのだ。

相手がどれほどの尊崇を向けても足りない戦士だろうと、変わらなかった。

 

「それが運命だったのだ」

 

赤子を抱きしめるリサンドラに、兵士は手を伸ばす。生まれついて病んだ赤子の幾ばくも無い余命の為に、スパルタはどんな施しも与えられなかった。

生まれたからには、良き戦士となるか、それを生む母となること。それが民の務めだった。

 

「その子を連れて行く」

 

「駄目だ!この子に触れる事は許さん!」

 

クレイトスは決定的な意思を示した。剣を握って妻子を庇う彼に、兵士達が槍を構える。

 

「掟に背くつもりなのか?」

 

声は鋭く冷たい。だが割って入る者の言葉には、真に自分の命など惜しまない決意があった。

 

「待って……産婆が言ったわ、この子の病を治す方法があると。それが本当なら、それがあれば……」

 

リサンドラの決死の訴えは、確かにそれを聞く者の心を揺らす。

 

「その話の真偽にかかわらず、王の命令には従わねばならない……」

 

「私達の子だけじゃないわ、スパルタの全ての人々が救われるのよ」

 

その場凌ぎの繰り言と断ずるには説得力のある言い分だった。スパルタには幾人ものリサンドラとカリオペが居た。しかし、その夫、父の誰もがクレイトスではなかった。

クレイトスの目に煌めきが宿る。

 

「……そうだ。この方法ならば、子供を犠牲にする必要など無い。我々の軍隊はさらに数を増して、より強くなるはずだろう」

 

崖に赤子を投げ捨てる、心の奥底に焼き付いて消えない記憶。弱き者はその手で葬らねばならない、なればこそ強く生まれついた者はより強く、勇敢な戦士であらねばならない。

それは、この国を守り、更に偉大なものとするための掟なのだ。

リサンドラの言葉は、クレイトスに揺るぎない確信をもたらす。

 

「スパルタの永遠の栄光へと続く道でもあるのだ。どうか、私達に時間をくれ」

 

はたして彼の確たる意思に基づいた言葉は遂に、近衛の心を動かした。

僅かな瞑目から立ち直った彼は、厳かに告げる。

 

「……いいだろう。ではその方法を探し出してみせるのだ。産婆の言葉が真実なら、そなたの娘は救われる。そしてスパルタの全ての民はそなたに感謝することだろう」

 

王の名代として、その約束はクレイトスとの間にかわされた。しかし、その担保を要求しないほど彼は慈悲深くは無かった。

 

「だが知っての通り、犠牲の儀式は次の満月の出に行われる。その時まで戻ってこれなければ……」

 

カリオペを取り上げた兵士は、弱々しく身動ぎする赤子を抱えながら、しかと妻の肩を抱くクレイトスを見つめる。

 

「この娘も、エリュシオンへと旅立つ事になるだろう……」

 

かつて、クレイトスが、名も知れぬ誰かの赤子にそうしたように。

 

「決して忘れるな。遅れる事は許されない」

 

クレイトスの目に、確かに滾るものがあった。

 

 

--

 

 

オリュンポスの片隅にある、祭壇を囲む広間に、神々が集っていた。

 

「奴だ。クレイトス。私は奴に賭けよう。若き頃から奴を見てきたが……あの目の中に宿る、激しい怒りが決め手だ」

 

かれらは祭壇に浮かび上がる人間の営みを眺めている。スパルタの最も勇猛な戦士にして、夫として父として理不尽な運命に怒りを燃やす男の姿が、祭壇の上に浮かぶ。

それを見守る一柱の神が、満足げに呟く。

 

「今それは使命に飢え、燃え上がっている。奴を止められる者は地上に誰一人として居ないだろう」

 

燃え盛る炎にも似た長髪を揺らめかせるアレスは両手を広げ、自分の選択の正しさを知らしめる如き姿をとる。

 

「……そう、我々ですら御せぬ程の男かもしれんぞ」

 

その最後の一言がどのような意味を持つか、誰も知らない。

隣でそれを聞いていた神は、内に獄炎を宿す兜に覆われた口から、暗く淀んだ声音を漏らした。

 

「この賭けに勝つのは儂だろう、アレス。全てが終われば儂の名誉のもと、新たな神殿が建てられ、そこに偉大な神像が坐すのだ。かの、パンドラの神殿をも凌駕する威容でな」

 

腕を組む彼は確かな自信に基いてそう主張したのだろうが、アレスは鼻で笑った。

 

「随分と先走る妄想だな、ハデス」

 

全身を覆う傷と棘は、嘆きと憎悪に満ちる冥界の王に相応しきおぞましさと人間達は恐れるだろう。そんな陰気に似つかわしくない壮語は、どこか滑稽さもあった。

にべもないアレスの言い方が癇に障ったのか、ハデスは珍しく饒舌に続ける。

 

「いいや。お前の選んだ人間は弱い。軽率で、衝動的な、ただの獣に過ぎん。自分の力を推し量れない…………そして、甘さを棄てきれない男だ」

 

彼は死を支配する王ゆえに、スパルタの戦士の中に残って消えない、生きる事への後ろめたさ、死者を踏みしだく罪悪感を見抜いたのである。

 

「儂の選んだ勇者は違う。蛮族の王子アルリック。奴は常に冷酷で、残忍だ。どんな相手にも容赦しない。男、女、子供、獣、全てに哀れみを抱かず殺すだろう」

 

祭壇に映る光景は、巨大な駿馬に跨り暴れまわる偉丈夫の姿に変わる。凶暴という言葉をそのまま体現したかのような男の姿は、人よりも獣に近い印象を敵対者に抱かせるだろう。

 

「お前が、あの巫山戯た戦士の娘に病を与えこのゲームに引きずり込んだように、儂も蛮族の王に呪いを掛けた。父を救うためのアルリックの歩みを止める事は、誰にも出来ない……」

 

神々だけが全ての真実を握っていた。かれらにとって、これは壮大なるゲームだった。地上に溢れる人間達の中から一人、駒を選び、それに途方も無い試練の旅路を歩ませる。

目的は同じ、それを得られる者は一人だけ……途中で出逢えば、何が起きるか?

どのような結末を迎えるか?

見事に勝ち残った優勝者は、代え難い歓びと名誉を得て、それを選んだ神のいかなる言葉をも受け入れるだろう。

全ては、神々の紡いだ運命なのだ。クレイトスの深い葛藤も……。

 

「では皆はどうだ?ポセイドン、ヘリオス、ヘルメス、アルテミス……既に勇者を決めたのか?」

 

首を動かして広間を見渡すアレス。目の合う者達は苦笑した。

 

「心配で仕方がないようだなアレス?残念だが、私はハデスのようにお喋りではない。お前の勇者は然るべき時、私の勇者と対面する事だろう。教えてやれるのはそれだけだ」

 

アルテミス。

 

「安心するがいい、アレス。アトランティスの神殿にはここに居る全ての神を漏れずに招待してやる。我が栄光の戦士への謝辞でも考えておけ」

 

ポセイドン。

 

「アハハハ、だだっ広いだけのがらん堂の神殿ばかり建てる事しか考えられないんだから、皆も可哀想なくらい愚かだね。僕の勇者が勝った暁には、ギリシャ全土に僕の彫像を建てるよ。人間達はいつでもどこでも、僕への感謝を捧げられるだろうさ」

 

ヘルメス。

 

「そう、我々はこれから、そのいずれかが実現するかを見て楽しむとしようじゃないか」

 

先導するヘリオスの言葉とともに神々は祭壇の広間から出て、宴を囲う為の卓に集った。

ワインの注がれた杯をを手に取り、掲げる。

 

「彼の、彼女らの勝利に!」

 

 

--

 

 

ひとり、天界で開かれる腹の探り合いを後にしたハデスは、血の川と死者の嘆きの声が満ちる己が居城で笑い声を上げていた。

 

「精々浮かれているがいい。しかしお前達も知っているように、全ての人間は我が領域へと辿り着く運命なのだ、遅かれ早かれ……」

 

地の底の王たるを選ばされた神は、どの神よりも人間達の本質を知っていた。怒り、憎しみ、悲しみ、欲望。常にそれらを間近に見せつけられ、裁き、責め立てる彼の目はどこまでも冷たく凍り付いている。

彼の確信はただの虚勢などではなかった。己の勇者よりも勝る器を他の者に見出だせはしなかったのだ。

 

「お前達の勇者がどれ程急いで儂の元へとやって来るのか、見ものだな……」

 

愉悦に震える言葉も、遥か地上で山を越え谷を渡るクレイトスには、決して届かなかった。

 

 

--

 

 






・勇者
champion:「英雄」でもいいか。

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