押し寄せる略奪者の群れ。ヘロディオスは、その一人にフレイルを叩きつける。胸骨ごと心臓を潰されたスパルタ人が海に落ちていく。
「聞くが良い!蛮人どもはテーラの民など惰弱な臆病者と思っているようだ!では我らがどれほど無力であるか、スパルタ人に思い知らせてやれ!!」
海の戦士の勇猛さは、弛まぬ研鑽で育まれたスパルタ人と全く遜色は無かった。ポセイドンの勇者の手から伸びる鉄球が、別のスパルタ人の頭蓋を粉砕した。
船を揺らして波を生む決戦。血潮は竜骨まで染み込むほどに散り、溢れた。
「たった一人しか、アンブロシアを手に出来ないという定めなのならば――――それは、私のものだ!!」
襲い来る敵を次々になぎ倒す勇者の宣言が、それに率いられる戦士を昂ぶらせる。
かたやクレイトスの剣は既に二桁を超える首を撥ていた。刻印を覆う返り血を飲む勢いのまま口を開く。
「アンブロシアを手にするのは私だ!!」
スパルタ人が応えて槍を振るう。船乗り如きに遅れを取るためにその戦いの日々は無かった。
「貴様が手にするのは死だけだ!!」
ヘロディオスの言葉は全てのテーラの民の共有する思いだった。
スパルタとテーラ。そこに立つ全ての戦士達は故郷の名を叫び、そしてそのか細い命脈を奪い合った。弱き者は斃れ、次々に冥界へと旅立っていく。
生き残るのは強き者だけだ。声はやがて、一つ、また一つと途切れる。
クレイトスとヘロディオスは、無数の戦士の死体の中で対峙していた。テーラ人だろうとスパルタ人だろうと、それらはもうただの魂なき骸だった。
……船から見渡せる埠頭では、スパルタ人の優勢が明らかだった。
「……我らの負けか。貴様らの手によって、全ては終わった。私の愛するもの達の命運さえも……」
ヘロディオスの言葉に透ける諦念は、クレイトスに哀れみを抱かせるものではなかった。
海風が吹き、クレイトスはそれと同時に飛びかかった。
「同じところへ行くがいい!」
振り下ろされる剣は、同じように振られたフレイルの柄に阻まれる。
「はああっ!」
「ぐおっ……!」
先端から伸びる鎖は、止まった柄の力を受け取り、蛇のように伸びてクレイトスの身体に食らいついた。
鉄球の威力は凄まじく、スパルタ最強の戦士は衝撃に昏倒した。手放された剣がその傍に転がり、硬い音を立てた。
遠くで戦うスパルタの戦士達のうち、その光景に少なからずの動揺を覚える者も居た……。
「残念だ、スパルタ人……そなたは勇敢な戦士だった、こうして敵として出会わねば、別の道もあったろうに……」
激戦を制したヘロディオスは、多くの感情を滲ませ、臥した強敵に語りかける。
「だがそなたは利己的過ぎた。人間が一人で生み出せる力など、たかが知れている」
……クレイトスの意識が闇に溶けていたのは、ほんの僅かな間だけだった。ヘロディオスの目に、取り落とされた剣を握るクレイトスの手は見えなかった。
「私は……多くの人々の思いを背負っている。それが、私に力を与えた。彼らを救うための……」
ヘロディオスの言葉は紛れも無い真実を、半分だけ言い当てていた。
人間ひとりで成せるものなど、どれ程ちっぽけだろうか。彼は多くの命を救いを得る方法を求めたのだ。
――――クレイトスが背負うのは、たった一人の命だった。
そして、彼はその為に自分の命を投げ出す事など、毛ほども惜しく思わなかった。
蒙昧の紡ぐ戯言が、クレイトスの闘志を果てない温度まで燃え上がらせた。
「そして、お前は失敗した」
雷光とともに起き上がり、同時に突き上げられたクレイトスの剣は、その刀身を閃かせる。ヘロディオスの語りは、そのよく動く喉仏と舌を串刺しにされ、永遠に途切れた。
海風が運んできた雷雲は、ヘロディオスの首から溢れる血を雨で洗い流していった。
遥か遠くで鳴った稲妻の轟音と、閃光。ポセイドンの勇者が最期の瞬間に理解したのは、それだけだった。
「ニコス隊長はどうした?」
「重傷です。治療が必要でしょう」
船へと乗り込む大勢のスパルタ人達。剣を仕舞い、テーラ人の死体を海に投げ込んでいくクレイトスは、運び込まれて寝かされるニコスに駆け寄った。
「私は大丈夫だ……」
「歩けなければ背負って連れていく事になるだろう。これ以上時間を掛けるわけにはいかない、私達の求めるものはまだ遥か彼方にあるのだ」
制して手を振るニコスに、クレイトスの言葉は冷厳だった。そして、それはどのスパルタ人でも口にせねばならない事だと、誰もが知っているのだ。
横になりながら、隊長は力を振り絞って声を上げた。
「さあ定位置につけ!帆を立てろ!!出発するぞ!!」
吹き付ける風雨も、スパルタ人の進軍を阻むものになるはずもない。船は港を出て、荒らげる波を蹂躙して突き進む。
--
だが、それを座して見守る気のない意思が確かにあった。
「おのれ、あんな蛮人のために賭けが無駄になるなど、我慢ならん!」
ポセイドンは遂にそれを決行した。彼にとってはテーラの運命への慈悲よりもヘロディオスの善戦への賞賛よりも、その感情が先立つものだった。
かつて全ギリシャを二分する大戦争でも同じような光景が頻発したように、彼らにとってゲームへの介入とは破って当然の禁止事項だった。見咎められるのが愚かなのであり、声高に非難するのは皆を鼻白ませるだけの軽挙なのだ。
「己が行いの報いを受けよ、スパルタ人!」
--
勢いを増す豪雨は巨大な帆船へと容赦なく降り注ぐ。強まる風、高まる波。それがどんな意思の介在するものかも知らないクレイトス。舵を握り、叫んだ。
「我々はレウカス島へ向かう!そこでアンブロシアが待っているぞ!」
「隊長、あれを!」
兵士が指差す方向には、雨で朧げに遮られながらも確かにそれを望めた。天まで届こうかという竜巻が、幾つも立ち昇り、荒れ狂っていた。
「人間だけが敵だと思うな!!」
息を呑むニコスを激励するかのように、クレイトスは声を張り上げた。鳴り響く稲妻もかき消す音響に、スパルタ人は歯を噛み締めて恐怖と風雨に耐え、操船に力のすべてを注ぐ。
だが、必死で舵を取るクレイトスにだって、その全貌を理解することは叶わなかった。竜巻は天を仰いで嘶く、途方も無く巨大な、馬の姿をしていた……。
「なんという波だ!だが、こんなものでは我らの意志は挫けぬ!」
ヒッポカンポスの息吹は、それだけで船を空へと舞い上げようかという暴風を生んだ。海面に叩きつける蹄が、壁のようにスパルタ人の視界に迫る波を起こす。
「スパルタの勝利を阻めるものなど、何も無い!!」
心の底からの真意を叫ぶクレイトスの姿も、大いなる力の前には滑稽なほどだった。
クレイトスと勇敢なるスパルタ人達は、その凄惨なる略奪によってポセイドンの怒りを買ったのだ。
数ヶ月を要して作り上げられた巨大な船が引き裂かれるのは、あっという間の出来事だった。
「や、やっと収まったか……」
散らばる木切れに掴まる兵士の一人が、そう呟いた。少なくない数の兵士は、船もろとも海の底へと沈んでいった。
しかし、更なる試練は彼らに休息など与えず襲いかかった。
「ポセイドンは私達を見逃すつもりはないらしい」
クレイトスは、海面に生まれる波紋が回り出すのを見て、忌々しげに呟く。渦はどんどん大きくなってその勢いを増し、船の残骸ごとスパルタ人を飲み込もうという神の意思すら見出させる。
「うわああああーっ!」
悲鳴ごと周囲の全てを引き寄せる昏い闇の穴は、まさしく冥界への入り口そのものとスパルタ人は錯覚した。
「いかん!皆、まだ諦め――――!!」
俊流の勢いには、さしものクレイトスも顔だけ海面を出すのにも死力を尽くさねばならないほどだった。吹き荒れる嵐の雨粒と波飛沫で一寸先も見えない視界の果てに、両手を広げ海を揺さぶるポセイドンの姿をクレイトスは見た。
――――後に戦いの神としてオリュンポスに名を連ねるクレイトスも、かつては人間だったのだ。
神の怒りをただ恐れる事しか出来ない、弱く、小さな……。
「我々はポセイドンの怒りを買ったというのか?このまま滅ぼされるしかないのか……」
何処からか聞こえたスパルタ人の嘆きの声に、クレイトスは憤慨して口を開けた。
「私の手を取れ!ニコス隊長を救出するのだ!我々はまだ死ぬわけにはいかん!!」
兵士の手を取ると、渦巻く海流に乗りつつ、遠くで藻掻くニコス目掛けて泳ぐ。彼は決して、諦める気など無かった。
クレイトスを襲う苦難。それを克服するのは彼自身の為のみならず、ともに戦うスパルタ人の為、そして。
「離れるな!!」
何を置いても、生まれたばかりの我が子カリオペの為でもあった。彼の死は、いま彼の背負う全ての者の死に他ならない。
どんな人間も絶望し神々に運命を委ねるだろうこの状況でも、彼の目に宿る炎はいっそう燃え盛るのだ。
それを遥かな場所から見下ろす存在は興味深そうに呟くが、ただの人間に聞こえる筈もない……。
--
「やるねえ、あいつ。大したもんだよ」
「だが、結果は決まっている」
--
……過酷なる試練の数々はここにきてクレイトスに一つの洞察を芽生えさせつつあった……。
愛娘の救済を妨げる、大いなる意思の存在を彼は朧げに感じ取っていたのだ。
……アンブロシア、伝説の霊薬。神々のみが口にする事を許される、不死の源……。
理不尽なる運命、旅路を阻む超常の存在、同じような境遇の敵……。
「神々よ……!」
深い、遥か深い大渦の中心から、それは姿を現した。先程までスパルタ人の大軍を乗せていた船すら囲い込める程の長駆。その大海蛇は、すり鉢状の断崖にも等しく勢いを増す渦の底に鎮座し、口を開けて宴の時を待ち受けていた。
「卑しい怪物どもめ!どうあっても私の道を阻むか!」
二本の毒牙は人の背丈ほどもあった。荒れ狂う波の音に乗せて、飢えた蛇の歓声がクレイトスに吹き付けられる。
しかし、彼は己のなすべき事を知っていた。彼の姿を見る全てのスパルタ人も。渦の内側へと飛び出したクレイトスは、落下の勢いのまま大蛇の眼球へと剣を突き刺す。
とぐろを巻く胴体に飛び乗っていくスパルタ人。小さな人間をすり潰す処刑場だった激流は今、巨体を持て余す哀れな供物の檻と化したのだ。
「ならば――――死ぬがいい!!」」
クレイトスは痛みに藻掻く蛇の喉元を一閃した。苦悶の叫びを更に轟かせる蛇の胴体に、必死にしがみつくスパルタ人達。
そのような状況でも、動脈から溢れているだろう大量の血に泡が混じっている事を、ニコスは一瞬で看破した。
「見ろ、クレイトス……奴は息を吸うためにこうして顔を出したのだ!」
「では、奴は海の底に棲んでいるわけではない……?!」
クレイトスは瞬時にその決断を下した。海を渡る手段は絶え、大嵐を凌ぐ体力も無い。ならば。
「皆の者、聞け!限界まで息を吸って潜るのだ!後に続け!」
沈みゆく蛇の身体を飛び降りて、クレイトスは一番にそれを実行する。今の彼は、なおも神々の慈悲を信じたかった。
ポセイドンの怒りを辛くも逃れたクレイトスは、生き残ったスパルタ人を率いて冷たい闇の底へと突き進んだ。
しかし、先の見えない暗黒の世界を泳ぎ続ける事は、クレイトスの希望を揺らがせる恐怖をも呼び起こす――――。
だがやがて、その確かな光明は示された。
テュケーの与えた幸運か、闇の中に見えたその光は、間違いなく大蛇の住処へと続く水面から差し込むものだった。クレイトスの決断は、正しかったのだ。
横穴は縦に折れ曲がり、生暖かい空気の満ちる洞穴に通じていた。水面から次々に顔を出すスパルタ人は、尽きずに呼吸が出来る事を何より喜んだ……。
だが兵士の一人に肩を借りるニコスは、それでも歩くのがやっとの様子だった。
「ニコス隊長、もはやこれ以上ついて来られないというのなら、私は一人でも行くつもりだ」
「いや……心配は無用だ」
クレイトスの言葉には確かな後ろめたさがあった。かくも困難に満ちた冒険と知っていたならば、最初からクレイトスは彼らの同行を拒否していただろう。
しかしニコスはやはり首を横に振る。スパルタ人全てが、自分で選んだ戦いについて泣き言を漏らす事など、何より恥ずべきものと知っていた。
どんな事があっても生き延び勝利するために戦う。勝てずとも、その屍を踏み越えた仲間の勝利のために命を燃やし尽くす。それだけが自分達の生き方なのだとも。
「……クレイトス、そなたの勇敢さは送るべき言葉が見当たらないほどだ。スパルタ人を導く者は、誰よりも勝る賢明さと非情さを兼ね備えていなければならない」
兵士達が揃うのを待ちつつ、ニコスの賞賛をただ黙って聞くクレイトス。
「私達が故郷へと凱旋した暁には、そなたがどれほど将軍に相応しい存在か皆が知るだろう……」
しかし本当は、運命の女神が定めた彼らの死は、暗く冷たいエーゲ海の底ではなかった。
ただ、それだけだったのだ……。
--
こうして再び訪れたその洞窟の闇は、クレイトスの意識を今へと引き戻す……。
……消えない苦酸の記憶が残り、彼を苛もうと身動ぎする。
あれから、あまりにも多くを失ってしまったという事実……。
最も得難く思うものを手に掛けてしまったという記憶は、決して忘れる事が出来ない。
苦悶を塗りつぶす強い表情のまま、炎を纏う剣を大蜘蛛の頭から引き抜くクレイトス。先へ進もうと踵を返す。
そして、そこに現れた光に一瞬だけ目が眩んだ。
「アテナか?」
かつてクレイトスを究極の試練へと導いた、知恵の女神。輝きの中の陰影は、その目がどんな色をしているかも伺えない。だが、厳かに開かれる口は、決して軽々しい繰り言を紡ぐものではないと知れた。
「クレイトス、この苦難すらも序の口にすぎません。ここからは更に多くの危険が待っています……」
ただの人間が聞けば、反駁をしようなどと思いもしない神聖な響き。オリュンポスの最高神にも匹敵する神威には、どんな狼藉者も平伏して従うだろう。
だがそこに居る男はただの人間ではないし、彼女の言葉に耳を貸さない理由を持っていた。
「忠告のつもりか?私がかつてこの洞窟を踏破した事を忘れたのか?何があろうと知った事か、誰も私に傷をつける事すら叶わぬだろう」
彼が信じていないのはアテナだけではない。全ての神々の言葉はいまや彼にとって何の価値も無かった。
不信を通り越し敵意すらも滲ませる凶相とともに、魔剣を強く握りしめるクレイトス。
「あなたは間違っています、ここは今やゼウスすらも手を焼くほどの……」
「恐れるものなど私には何も無い!」
アテナはそれでも、いかなる感情も浮かべずに淡々と語る。
「戦いの神よ、あなたの為に言っているのです。私だけではない、オリュンポスの神々の言葉と知りなさい……。かつてのあなたは確かに、その旅路を生き延びる事が出来ました。しかし今度待ち受けている敵は、あなたには想像も出来ないほどの存在なのですよ」
――――クレイトスの意思は全く揺るがなかった。
それは掲げる剣の切っ先とともに、アテナに向けられる。
「お前は未だに私をただの人間だと思っているのだな、アテナよ。立ちはだかる者は全て殺す、それだけだ」
背を向けるクレイトス。彼にはやらなければならないことがあった。それがどんな罪だと罵られようが、諌められようが、歩みを止める事は出来なかった。
「闇の中に潜んでいるのが何者だろうが、変わりはしない」
そう、彼を突き動かす意思の強さだけは、あの時と何も変わってはいなかった。
--
「クレイトス……待ってくれ、少しの間でいい」
「何だ?」
スパルタ人の生き残りも最初に比べると目立って減っていた。ポセイドンの魔の手から逃れることが出来た同胞もこれまでと見て足を踏み出すクレイトスを、ニコスが引き止める。
「もう少しだけ、ここで休息をとるべきだろう」
「私達は足を止めるわけにはいかない」
クレイトスは真実の言葉だけを語る。アンブロシアを手に出来るのは最初の一人だけ――――テーラの英雄ヘロディオスの言葉だ。神託を疑う人間の生きるすべなどこの世界には存在しない。他にも求める者は居るのだ。クレイトスの確信は揺るがし難かった。
「わかってくれ、彼らは困憊しきっている……少しの時間があれば、皆は英気を取り戻すはずだ」
そして、ニコスの言葉もまた、真実である。深い水底から這い出した者は、一様に息が切れ顔を俯かせていた。
クレイトスは首を横に振った。
「弱い者に合わせていれば、いつまでも経っても前には進まない」
「私達は神ではない、クレイトス……そなたもまた、疲れ切っているはずだろう」
割り切れない思いがクレイトスの中にあった。身体は重く、肺腑はどれだけの呼吸を与えても落ち着く気配は無い。いま敵と出くわせば、相当の苦戦は免れないだろう。
ニコスの言葉は正しい、まったく正しい。しかし……。
「……時間は多く残されていないのだ……」
「誰かを導くには、その者達の要望を受け入れる時も必要だ」
彼は他の何を捨て置いても、歩みを止められない理由があったのだ。強く、割れそうに歯噛みして、眉間に深い皺を刻む。
先にアンブロシアを奪われるよりも深い危惧が、クレイトスを支配していた……。
「だが、娘の命が……」
「わかっているとも……だからこそ、彼らがその為の力となる事を信じるべきだ」
今も苦しみ、糸よりも細い命脈を必死に繋ごうとしているだろう最愛の娘。その救いを待ち続ける妻。目の前で疲れ果てているスパルタ人の姿と、それらを重ねる。
掌を破りそうなほど拳を握り、クレイトスは頷いた。
そのようなやり取りを行う彼らは、闇の中から自分達へと向けられている双眸に気付けなかった。
--
「ポティア、奴が居た。アルテミスがお前に警告していたという……」
スパルタ人の休息地から離れた、洞窟の片隅。地底湖のほとりに彼女達は居た。全て、女だ。
いずれも鹿のようにしなやかで強靭な筋肉を浮かばせる肢体を晒している。
「アレスの勇者が?一人で?」
「いや、多くの戦士達を率いている。……どいつも疲れ切っているようだが」
斥候の報告にアマゾネスは俄にざわめいた。うなじが隠れる程で髪を切りそろえた、その女戦士――――アルテミスの勇者ポティア――――は、杯から口を離して、薄く笑う。
「はるばるスパルタからご苦労な事だ。相手になるかどうか怪しいところかな」
しかし横に座る年老いた賢女は、不敵な態度の戦士の浅慮を諌めようとする。
「まだ命の取り合いをするつもりなのかい?あれほど危険だと言っているのに……」
「ああ、何度も何度も聞いた言葉だ。ならば他にどんな道がある?」
ポティアは少し口調を強くして、賢しらな言葉を遮った。細まった彼女の目は、ここではない何処かへと向けられている。
「ケロスの女たちはあと何回、腹の中の子を失えばいい?医者は皆の悲しみを贖う方法を知っているのか?奴らは強いだろうな。そして私達は、命に代えても再び子を宿せる身体を取り戻さなければならない。アンブロシアを得るのが奴らか、私達か……しくじれば、ケロスは滅びる。それだけの事」
小さな島に暮らす氏族の運命を変えるべく、彼女達はここに居た。その全てが神々の仕組んだ出来事と知っていても、彼女達は――――全ての人間は、そうしただろう。
「わかっているさ、けど、何も殺し合う必要は……」
「レダ。私達がどれ程殺すか、或いは死ぬか。それを選択するのは私達なんだ」
鼻梁を横断する一文字の傷痕は、その上にある緑眼の煌めきを受けて僅かな影を作った。
「後でどれ程人の血におののく事になろうが、今選ぶべき道はこれしか無いし、選ばずに後悔するのは御免だ」
彼女は戦士だった。
この、神々のゲームに参加する全ての人間がそうだった。
その発端が何であろうが、するべき事は決まっていた。
「ケロスの戦士達よ!アルテミスは私達に力を与えた、人を殺す為に弓矢を、ナイフを、槍をどのように扱えばよいのかを教えてくれた!」
眉尻の上がる凛々しき表情の勇者の言葉を、全てのアマゾネスが聞き入る。彼女達の心は一つだ。生きるために獣を追う狩人は今、人を斃し未来を掴もうとする戦士としての顔を並べていた。
「さあ、武器をとれ!私達は、絶やしてはならないものの為に戦おう!」
得物を掲げて、鬨の声が上がった。
それは群れをなす獣の暴走の如き勢いで、スパルタ人のもとへと届けられる。
「勝利の為に!!」
暗闇の奥から、水の中から現れたアマゾネスを認めるや、僅かな暇を得て緩んでいたスパルタ人の士気を一瞬で引き上げる。
「スパルタ人よ、奮い立て!戦いだ!!」
クレイトスの怒声は、天井知らずに彼らの力を絞り出させた。先頭に立ち、容赦なくアマゾネスの一人を両断する姿も。
女だ。
だから、どうした。
矢で脳天を射られ、槍で心臓を突かれ、ナイフで首を切り裂かれるスパルタ人は、そんな心得を忘れた愚か者だと皆は知った。
太陽の光の届かない洞の底で、壮絶な殺し合いが演じられる。逃げ場は無かった。誰も逃げなかった。死の瞬間まで、彼らは戦士だった。
敵味方の肩も触れ合うほどに密集した殺戮の舞台は、怒声と悲鳴、狂気と信念の熔けあう坩堝となって、人間達の命を啜っていった。
「いいぞ、スパルタ人。お前がクレイトスだな」
周りに死体を転がして、二人は対峙する。剛強の化身とも言えるスパルタ人は、女戦士の細い身体を捉えられずに居た。
紙一重の差で空を切る剣閃の後にやって来る棍の一撃。皮膚を斬るほどの風を纏うそれを直撃すれば、ただでは済まないだろう。休息を更に得ていようが、容易に征するのはかなわなかったに違いない相手だ。
苛立ちを浮かべる右目と、それを縦断する傷痕を見つめながら、ポティアは口を開く。
「その刃から伝わる。お前がどれほど強く勇敢か」
裂帛とともに薙がれたクレイトスの刃は、軽やかに跳び上がるポティアの足下を空振った。
頭上の空気を乱す気配から、消失した敵の位置を瞬時に割り出すクレイトス。振り向く。
「だが、それだけだな」
蹴られた砂が、彼の視界を阻んだ。
「くっ!」
「これほど容易い相手とは思わなかったよ。……悪く思うな、お前の情けが招いた事だ」
ポティアは、クレイトスの手心を見抜いていた。女だから、という。そこに付け入らねば勝てぬとも。こうして言葉を聞かされ、幾度もの打ち合いを行った事で、スパルタ最強の戦士は忘れることの出来ない感情を思い出しつつあった。
他の並み居るアマゾネスを一撃で斃したのは、そんなものに惑わされるべきではないと、彼自身が理解していたからなのだ。
「何かが違えば、共に肩を並べて戦う事もあったかもしれない……だが……どうあれ、お前は死ななければならない!」
棍がクレイトスの左手をかする。腕当てが無ければ骨が砕けていた衝撃だ。
追い詰められた鹿のように、悲愴で、御しがたく、そして美しく舞い踊る女にクレイトスは舌打ちしたくなった。
--
・レウカス島
island of leucas:レフカダ島。
・ケロス
keros:「ナヴァロンの要塞」で有名。一説ではアルテミスが生まれた島とも。