ゴッド・オブ・ウォー 葬送の残火   作:アォン

5 / 5


終わり。長め。




5(完)

 

 

数週間に渡る行軍において、クレイトスは幾多もの困難を乗り越え、ついに娘の命を救う手段を手にした。だがそれを奪いに姿を現す、最後の勇者アルリック。

スパルタ人と蛮族による決戦がどのような結末を迎えるか――――

それはオリュンポスを揺るがし、やがて誰も想像できない因果をも結ぶ事になるだろう。

そう、神々ですら、未だその全容を知らないのだ。

 

「見事なものだスパルタ人。心からの賞賛を送ってやろう。お前達は数々の困難を乗り越え、生命の木に辿り着き、アンブロシアを手に入れた」

 

神殿の入り口を望む、開けた岩の荒野にて、全ての人間達は死兵となって戦いを繰り広げる。

 

「全て見届けてやったぞ。疲れ果て、望郷への思いに胸を膨らませている姿までな……」

 

戦斧は槍ごと敵を叩き斬り、槍は戦斧をすり抜け敵を貫く。転がる死体の握る武器、それは新たな死体を生む力となった。さもなくば、その戦士の墓標となって不死の神殿を飾った。

命を削る無数の雄叫びは、オリュンポスまで届くほどに燃え上がる彼らの戦意の証だった。

 

「もはや思い残す事もなく、死ぬ準備も出来ているだろう!アンブロシアは俺のものだ!!」

 

狂喜の表情で、アルリックはスパルタ人を蹴散らす。

 

「戯言を!」

 

憤怒の表情で、クレイトスは蛮族を蹴散らす。

 

「死の危機を前にして怖気づく戦士などスパルタに居るものか!!」

 

勇者は互いが比類なき強敵だとひと目で看破していた。付き従う戦士達は、己が勇者の勝利を疑わずに互いの首を撥ねる。

流される血は朝日によって鮮やかに映える。どこまでも、赤く。

 

「成程、大した戦士達だ!だがこのままでは共倒れに終わるぞ、スパルタ人!」

 

「そうだ。戦いの中で地に背をつくのは、死ぬ時だけだ」

 

誰よりも血化粧を濃くする勇者が対峙した。

 

「我々はそのように生まれたのだ!」

 

天高く飛び回るロック鳥は、宴の時をただ待ち続ける。

クレイトスとアルリック。運命に導かれ激突した勇者の戦いは、他の誰も寄せ付けずに演じられた。掠れば肉を刳り骨を軋ませる、それぞれの一撃。常人ならば、風圧だけで体幹は吹き飛ぶほどだろう。

流れる血は粘着き、しかし動きを更に冴え渡らせた。長剣と戦斧は変幻自在にぶつかり合う、決して折れずに。それは彼ら自身の宿す、無類の力と技、何よりも信念の証だった。

 

「敵ながらお前の非情さは歓迎する所だが、生憎と俺には時間が無い」

 

間合いが広がった。アルリックは笑みを絶やさず、傍に佇む馬に手を伸ばした。

ぶら下げる革袋の中からその物体を取り出し、高く掲げた。

ヘルメスの勇者、ダナオス。その首だった。

 

「見るがいい、こいつは未だにその無念と憎しみを燻らせている」

 

青褪め、血に濡れた首は、現世と冥界の狭間を見ているような、虚ろな眼差しを浮かべている。

かくも下らない虚仮威しに、クレイトスは唾を吐きたくなる思いだった。

 

「お前もそのようにいられるかどうか、確かめてみるか?」

 

アルリックの残虐な笑みが、深まった。

 

「馬鹿め。こいつの意思は今や俺の思うままなのだ。畜生どもを好きに操る事が出来るという力もな!」

 

牧畜の神に力を与えられた勇者は、目の前の全てを呪うように瞳を揺らした。

気付いて振り向いたその瞬間、クレイトスは全てが遅きに失したと理解した。

 

「やれ!」

 

襲い掛かる二羽の巨鳥は、それぞれが人間一人丸ごと持ち去れるほどの持っていた。鋭い爪と嘴、刃の届かない場所を駆ける翼も。

激戦の傷と疲労によってクレイトスは、それを一蹴する力を奪われていた。甲高い鳴き声と、低い呻き声が重なる。剣と爪が散らす火花も、羽ばたく風圧があっという間に消していく。

 

「肉を引き裂き、はらわたを食い尽くせ!その血の臭いも残さず、全て貴様らの糞にしてしまえ!」

 

必死の抵抗を見せるクレイトス。腰元から零れ落ちた革袋は、悠々とアルリックに回収される。

 

「お前は大した戦士だったよ。数々の戦いを征する力を持っていた。ほんの少しばかり、頭を使わなかっただけだ!」

 

血みどろのスパルタ人を横目に、降り立った一羽のロック鳥へ跨るアルリック。革袋から漏れる光と見比べて、彼は高笑いをあげた。

 

「見事アンブロシアを手にした偉業に、神々の祝福があるだろう。栄誉など幾らでもくれてやる。この勝利と引き換えにな!」

 

猛禽の爪を背に受けながら、クレイトスは必死に手を伸ばした。やっと、数え切れない犠牲と労苦を払って手に入れた救い。取りこぼすわけにはいかないのだ。

はたして彼に与えられたのは、神々の祝福ではなかった。

 

「無駄にあがくよりも、大人しく鳥どものご馳走になる事を願おうか」

 

アルリックの嘲笑だけが、そこに残された。

飛び立つ翼を見るクレイトスの視界が、自らの血に染まっていく。

 

「ゆけ!我が故郷へ!」

 

落ちてくる一枚の羽根が、伸ばした手に触れた。

全てが終わった。

血に飢えたロック鳥の凶暴な囀りも、彼の耳から遠ざかっていく……。

……クレイトスの命脈がまさに尽き果てようとしたその時……。

彼は見た、同じ境遇にある、生まれたばかりの娘の幻影を……。

 

「お父さん……助けて……」

 

遠い場所からか細く聞こえる、その声。

小さな顔は、彼の頭蓋を砕こうと振り下ろされる嘴の向こうで、確かに叫んでいた。

 

「お父さん……!」

 

まばたきと同時に、それはかき消えた。

……彼は、なぜ自分がここに居るのか。

なぜ、これほどの危険と困難に満ちた旅を歩んできたのか。

その全てを、思い出したのだ。

 

「違う……これで、終わりのはずがない!!」

 

クレイトスは、ロック鳥の首を掴んで受け止めた。目の中の炎が湛えるのは、怒り。敵への怒り。残酷な運命への怒り。

……弱く愚かな、自分への怒りが、彼の尽きかけた意思をもう一度、燃え上がらせた。

嘴の中に両手を突っ込んで、魂の芯から溢れる力に身を委ねた。

 

「カリオペ!たとえこの命が尽きようとも……私はお前を救ってみせる!!」

 

口を上下に裂かれたロック鳥の断末魔は、その血と混じり合ってクレイトスの身体に浴びせられた。

雲間から差し込む日は、飛び散る羽毛を纏う血塗れの戦士を照らした。

彼の戦いは終わってなどいなかった。

彼自身が、全てを諦めない限り。

 

 

--

 

 

「……まだ死なんのか?」

 

神は、人間の意思に心動かされる事も無かった。ハデスは呆れ果てた様子で、祭壇の前に佇んでいた。

 

「恐ろしいしぶとさだな……プロメテウスといい勝負だ。……尤もお前がアルリックに追いすがるのを見過ごす事もしないがな」

 

鼻を鳴らし、ハデスは両手を掲げる。遍く魂を握り、裁きを下すその手に、昏い光が宿った。

 

「こんな賭けなどよりも、もっと面白い見世物を演じるがいい。どうせ死ぬなら、同じ事だろう……アレスの勇者よ」

 

兜の下の含み笑いを聞く者は、誰も居ない。

冥界の王は、己の栄光と勝利に何の疑いも持っていなかった……。

 

 

--

 

 

そこにあるのは、ただの人間同士の命の取り合いだった。地上ではごくありふれた光景だったはずだ。

だからこそスパルタ人も蛮族も、突如出現したそれに驚愕した。

 

「ウワアアアア!」

 

地の底から次々に生える、干からびた腕。昏い光を纏うそれらは、手当たり次第に周囲の戦士を掴んで、底のない闇へと引きずり込んでいく。

さもなければ、鋭い爪に心臓を貫かれ、五体を引き千切られ、彼らはことごとく息絶えていった。

勝利と栄光を求める決戦は、瞬時に消えてなくなった。誰もが恐怖し、悲鳴をあげた。尋常の理を超えた意思の顕現は、どんな人間もそんな反応をするしかなかった。

 

「神々は我々を見捨てたのか……!?」

 

蛮族の頭目が飛び去るのを見つめ、スパルタ人の一人が絶望を吐露した。

 

「違う!!」

 

ただ一人クレイトスは、死の命運を退けていた。

長剣は無数のハデスの腕を刈り取り、もう片方の手で掴んで引きちぎる。

 

「神の意思など関係あるものか!!私を止められるものなどありはしない!!」

 

いつだってそうだった。彼は、この長い旅路で、どんな困難の中でも、そのように叫んで戦い続けた。成し遂げなければならない。その一心が燃やす闘志は、他のどのスパルタ人も鼓舞して立ち上がらせた。

……しかし、その光景は遂にこの時、尽きた。

 

「冥界からの招き手だ!死にたくない!」

 

長い長い旅だった。休息も碌に得られず、矢継ぎ早に現れる敵との戦い、怪物、神の怒り。

その果てに現れた死の化身は、誇り高きスパルタの戦士達の心を食い尽くすのに充分過ぎた……。

 

「隊長!陣を立て直さねば……!」

 

「こんなものがスパルタ人の相手になるものか!」

 

クレイトスの言葉は正しかった。彼ら本来の力であれば、その場に生えて振り回されるだけの腕を恐れるなど有り得ないのだ。

しかし、スパルタ人を支配するのは今や、恐怖だけだった。

 

「我が父よ、救いはもうすぐに届けられるだろう!」

 

空高くから、アルリックの声が聞こえた。クレイトスの焦燥は、身体を焼き尽くさんと荒ぶった。

 

「カリオペ……!!」

 

途方も無い使命感に突き動かされ、クレイトスは屍の中を駆ける。死に呼ぶ腕を切り伏せながら、周囲を見渡す。

神殿を望む山麓には、死、ただ死があった。死を恐れ、逃げ惑い、戦いを忘れた哀れな贄ばかりが居た。敵も味方もそこには無かった。凄惨なだけの、名誉も何も無い最期を遂げる者達。地に降り立ち死者の血肉を啜るロック鳥だけが、歓喜に沸いていた。

これが、かくも遠大なる英雄譚の結末だと、神々が定めたというのか。

世界のすべての人間が頷こうと、クレイトスには認められなかった。

 

「このままではアンブロシアを取り戻せぬ、行かなければ!」

 

クレイトスに選択の余地は無かった。舌鼓を打つロック鳥の首を掴み、暴れるその背に無理矢理跨る。

それに、手を伸ばす者が居た……。

 

「待ってください隊長!あなたが居なくなったら、我々は……!」

 

クレイトスは、自分の決断がどんなものであるかをよく知っていた。そして、もはや他に道は無いのだとも……。

苦渋の表情を、苛烈な憤激で塗り潰した。

 

「私が残すのはスパルタの戦士だ。最期の瞬間まで戦い抜け!!」

 

悲鳴が、飛び立つクレイトスの背を貫いた。

それを打ち消すかのように、クレイトスは雄叫びを上げた。

……王に命じられ、偉大なる戦士の冒険に同行したスパルタ人達。その全ての者の運命は決した。

クレイトスの眼下には、血の海に沈む無数の死体があった。

 

「私は……お前達に同行を求めたわけではない……」

 

それだけ残して、彼は前を向いた。ロック鳥の背の上で、彼方の雨雲が生む豪雷を望んだ。

彼はもう、振り向かなかった。

それは求めるものを得るのに、何の意味もないことだと知っていた……。

 

「飛べ……もっと、速く!」

 

横殴りの雨に打たれながら、クレイトスはそう命ずる。風は傲慢な人間を吹き飛ばそうと荒んだが、ロック鳥の皮膚まで食い込んだ彼の指が屈する事は無い。

……壮絶な死を遂げた戦士達の姿は、決して拭い去ることの出来ない像となって、クレイトスの脳裏に焼き付いていた。娘の為と必死に自分に言い聞かせようとも。

彼らの血はどこまでも広がり、地の底へと染み込んでどす黒い跡を残している。

クレイトスはニコスの最後の言葉を思い出していた……。

隊長は皆の為の選択をしなければならない。人の命運を握る者は、それを扱う時と同じように、彼らに扱われるだろう……。

彼は胸の鼓動とともに、腹の底にとてつもなく重いものが落ちてくるのを感じた……。

……だが、その苦痛を意に介する事も、今の彼には許されていなかった。

成し遂げねばならない事の為に、彼は他の全ての思いを身体の中から追い出して前を見据えた。

乗り手の執念が、その奇跡を手繰り寄せたのかもしれなかった。クレイトスの目は、遂にそ前方の影を捉えた。

雷光の中に羽ばたくロック鳥は、それぞれの背に勇者を乗せて並んだ。

 

「アンブロシアを渡せ。苦痛の無い死をくれてやる」

 

アルリックを睨みつけ、クレイトスは言い放つ。

信じがたい光景を目の当たりにしながら、だがアルリックは不敵な笑みを絶やさなかった。

 

「ならば俺は苦痛に塗れた死をお前にくれてやる!」

 

アルリックの駆るロック鳥へと飛び乗るクレイトス。既に剣を抜いていたスパルタ人は、躊躇無くそれを振るった。戦斧を抜く暇の無いアルリックは、不安定な足場でそれを避けつつ、岩のような拳を放つ。

 

「命の尽きたその貧弱な身体は、俺が笑っている間に大地を揺らすだろう。俺の父が率いる軍勢によって蹂躙されるスパルタと、病に苦しみ抜いて死んでいく娘の姿を、冥界の底から見上げているがいい!」

 

稲妻はどんな神の意思も寄せ付けない檻のように、二人の周囲に荒れ狂った。獣を足蹴に、冥界の手も、海の波も、月と太陽の光も届かない場所で、最後の戦いは繰り広げられた。

鍛え抜かれた肉体と技。剣と拳が交差し、空振る衝撃も命取りになる距離で鍔と肘鉄がぶつかり、弾かれる。

夥しい雨粒は肉薄する互いの存在をのみ、両者に認めさせた。ロック鳥の叫びよりも、彼ら自身の息遣いだけが耳に届いた。刹那の油断も許さない攻防は、アスクレピオスの知るそれを超越して激しく、際限なく燃え上がった。

両拳だけを頼りに戦うアルリックの顔に、もう余裕は無かった。そうなれば、その決断を迷わなかった。

腰から抜き去る短剣。一閃の居合は、クレイトスの薄皮一枚を斬って空振った。

……それが放たれる瞬間に掠めた、腰元の革袋。溢れ出す光が飛び散り、刃の軌道を辿ってクレイトスの身体に掛かった。

 

「アンブロシア……!馬鹿な!なんということを……!」

 

クレイトスは瞠目した。呑んだ息が、彼の身体を止めた。裂けた袋から零れ落ちる奇跡の雫は、決定的な隙をもたらしたのだ……。

 

「馬鹿はお前だ、死ね!!」

 

ハデスに選ばれた勇者は強く、賢く、残虐だった。どんな戦いでも、それを制する手段を選ばなかった。

たった一口で父は救われると知っていれば、無用に膨れた革袋の中身が減ったところで、何の痛痒も抱かなかった。

嘲りの言葉とともに振られた短剣が、クレイトスの喉を真一文字に切り裂いた……。

 

「終わりだ。あっけないものだな……」

 

酷薄な笑みが、クレイトスに突きつけられた。

動脈から噴水のように溢れ出す血。上半身を覆っていく温かい感触。

同時に、身体の芯が冷えていく。

 

「そんな……」

 

クレイトスは呆然としながら、傷に手を伸ばす。止め処なく、彼の命脈は地上へと流れ落ちていった。

すべては決したと、その光景は物語っていた。アルリックの笑い声が遠くで聞こえる……。

 

「私は……」

 

愛する妻と娘、自分の代わりに死んだニコス、無念を残して死んでいった兵士達……瞬時に蘇る幾つもの記憶。

……それはクレイトスを終わりへ導くものとはならなかった。

 

「……生きて、いる、のか……?」

 

温かい燐光が、クレイトスの手を濡らしていた。淡い金色の輝き。アルリックの刃とともに降り掛かった、一筋の飛沫。

それは時間を巻き戻すかのように、彼の傷を塞いでいく……。

 

「アンブロシア……」

 

不死の霊薬が、クレイトスの死を退けた。それこそが、彼の途方も無い渇望の掴んだ、神の慈悲であったのだろうか。

疑問の答えは無かった……。

真に理解を超えた光景をただ見ていたアルリックに、クレイトスが向き直る。

革袋を睨みつけ、叫んだ。

 

「まだ残っているなら、それを奪うまでだ!」

 

ロック鳥の背から、二人の勇者が宙に投げ出される。

アルリックに組み付いたクレイトスは、遥か地上へと引き寄せられる中でそれを奪い取ろうと手を伸ばした。

 

「なぜだ、なぜ死なんのだ!?」

 

悲鳴にも似た響きでアルリックは呻いた。彼の疑問も、轟く雷鳴が一瞬でかき消していった。

神々の王だけが見守る戦いは、鬱蒼と広がる森へ落ちていく中でもおさまらない。アルリックの腕は、クレイトスの首をへし折ろうと絡みついた……。

 

 

--

 

 

過去からその意識を呼び戻されたクレイトスは、明白なる事実だけを真に理解していた。

人間だろうが、神だろうが、アンブロシアを求める旅路にあるのは、命を捨てる覚悟をもってしても克服し難い危険ばかりなのだという事を。

巻き付く木の枝に苦しむクレイトスに、地割れの底から声が掛かる。

 

「また貴様が来るのをどれ程待ち望んでいたか……クレイトス!」

 

島が揺れ、湖に飛沫が上がった。山の洞を崩しそうな轟音と振動は、クレイトスの知るあらゆる存在にも呼び起こせないものに違いない……。

……否、クレイトスはその存在と、かつて邂逅した事があった。

 

「一体何だというのだ……お前は、何者だ……!?

 

島の地表あちこちが割れ、赤い瞳は空隙を埋め尽くすように開かれる。枯れ木は間違いなく、その巨大なる存在の意思に従ってざわめいていた。

途方も無い存在は、無数の口でクレイトスの疑問に答えはじめる……。

 

「我ら兄弟は……遥か昔、この世界全てが誕生するよりも前に生まれたのだ……」

 

「天空の父ウラノスの胤を受けた全ての母、ガイアから生まれ落ちた。五十の頭と、百の腕を持つ、混沌の巨人……」

 

湖の中から、巨大な腕が現れた。島がどんどん、見えない天蓋へと持ち上がっていく。

クレイトスは遂に悟った。そこは島ではなかったのだと。かつて彼が征服したパンドラの神殿、それを背負う存在――――タイタンに比肩する、偉大なる巨人の生き残り。

あの時、ヘリオスの勇者セレヨンと戦った時は全く及びもつかなかった、想像を絶する真実だった。

 

「父は我らの醜さを恐れ、地の底の底へと幽閉した……だが我らはアスクレピオスの力に目をつけた」

 

「生命の木は、我らが正当な世界の支配者たらしめるのに必要な力をもたらすと……」

 

「それを、貴様は……!」

 

枝の力が強まる。首からそれを外そうと手を掛け、渾身の力を込めるクレイトス。

しかし、さしもの戦いの神と言えど、ヘカトンケイレスの膂力は容易に抗せるものではなかった。

 

「貴様と、貴様の呼び込んだ者は、我が腕と生命の木を焼き、アンブロシアを盗んだのだ……!」

 

「この憎しみ、屈辱……貴様を手に掛けるだけではおさまらん……!」

 

人間から首を取り去り、盛り上がる肩の間に目と口を並べたような頭部。三本の巨大な腕は、百の人間も握りつぶせるほどの掌を広げ、伸ばされる。

創造神も恐れた忌み子は、神殿の奥深くに屹立し、全ての口で雄叫びをあげた。

もはや小さな人間など見ていないかのような、遠大な怒りに打ち震えながら……。

 

「我らは取り戻す……」

 

「我が兄弟アイガイオーン、コットスとともに……」

 

「我らのものでなければならない全てを、この手に取り戻すのだ!!」

 

異形の巨人ギュゲスは、天まで届かせんとその思いの丈を宣う。

大音響によって神殿の壁と天蓋が崩れ落ち、湖は高く水柱を作った。

 

「あの時、太陽神の勇者と貴様の戦いのせいで焼き払われた腕を癒やすには、長き眠り以外の方法は無かった……」

 

「だが、こうしてお前が再び来たとあれば、話は別だ!」

 

「忌々しい、ゼウスの末裔め!死ぬがいい!」

 

耐え難い苦しみを与えられているさなかにあって、クレイトスは今一度……最後の回想へと引き込まれていく。

アルリックもろとも、その身を空へと投げ出したあの瞬間……。

 

 

--

 

 

アルリックの腕を振りほどいたクレイトス。相手の腰元に伸ばした手が、何かを掴んだ。迷いなく手繰り寄せながら、叫ぶ。

 

「娘は助かる!私が助ける!!」

 

下から吹き付ける風と雨粒を受け、スパルタ人はその宣言を仇敵へと叩きつける。だがこの状況にあっても、アルリックの判断は鈍らなかった。彼がクレイトスに手渡したのは、ダナオスの首だった。

歯噛みし、クレイトスはもう片方の手を伸ばす。

 

「離せ、これは俺のものだ!」

 

アンブロシアへの魔手を押し退けようと、両手で制するアルリック。苛烈で容赦なき戦いの刻限は、遂に間近に迫る。木々の一本まで見える距離に彼らはあった。

クレイトスは、叫んだ。

 

「これまでだ――――!」

 

無数の梢は何の妨げにもならなかった。

巨大な落雷のような衝撃が、森に轟いた。揺れる大地に合わせて、木の幹も葉も激しく震えた。

……静寂が、森に訪れた。雨は嘘のようにあがり、雲の裂け目から覗く光は森の中まで照らしていく。

 

「く……」

 

暗闇から意識を呼び戻し、クレイトスは立ち上がる。そこに、信じられない光景を見た。

 

「!?なぜ、立っている。まさか……」

 

同士討ちの覚悟も、スパルタ人の狂的な計算に基づいた戦術だった。アンブロシアの力を宿したこの身であれば耐えられよう、さにあらざる敵の五体は砕けようがと……。

日差しの中に立つアルリックの姿は、まさしく神々の祝福を与えられし勝者だった。やはり彼は、それを理解して笑みを浮かべていた。

 

「そうとも……お前と同じだ。アンブロシアの力は大したものだな……!」

 

アルリックの腰の革袋は、見る影もなく萎んでいる。あとどれ程残っているのかクレイトスには見当もつかない。呆然とする一瞬のうちに、アルリックは背中に帯びた戦斧を抜いた。

クレイトスの剣は落下の衝撃で手放され、どこかへ消えていた。彼にはひとつの得物も無かった。ゆっくりとこちらへ近づくアルリックの顔は、屠殺の真似事で遊ぶ子供のようだった。

何か、どうする、どうやって。

スパルタの戦士は、残された全ての力を思考へ注いだ。視界に映る光景から何かを見出そうと試みる……森、木、草、あの巨大な戦斧と渡り合える道筋はどこにも無かった。

ならば素手でか。それこそ正気の沙汰ではなかった。彼は破れかぶれの吶喊など、いかなる奇跡も生まないという事をよく知っていた。

これまでなのか。

クレイトスの手は柔らかい草を握り潰した。

……それが、草ではないと理解した瞬間、クレイトスの思考は啓かれた。

クレイトスはそれを携えて、力強く立ち上がった。

勝利への確信が、その目を燃え上がらせていた。

 

「成程な……ゆえにお前は、長き苦しみを味わう事になるだろう!プロメテウスのように!」

 

そう言い放ったクレイトスは、ダナオスの首を高く掲げた。彼が掴んだのは、その黒髪だった。

自分達を足蹴にしていた憎い人間どもを探し回っていたロック鳥は、抑えがたい怒りを纏ってアルリックに襲い掛かった。

 

「行け、ケダモノ共!奴を殺せ!!」

 

目を剥くアルリックは己の失敗を悟った。勝利の味に舌舐めずりをするのは、それを得てからでなければならない。どんな戦いでも守ってきた戦士の鉄則は、かつてない最強の敵を前に完全に忘れ去られていたのだ……。

左右から襲い掛かる爪に肉を引き裂かれ、アルリックは絶叫した。

 

「やっ、やめろおおおおお!!」

 

「アンブロシアの力で蘇ろうが、何度でも、何度でも殺せ!!」

 

耐え難い痛みに倒れ込み、生きたまま食われるその姿は、クレイトスの哀れみを呼び起こすものではなかった。

 

「ギャアアアアアアアアアア!!」

 

「蛮族の王子、お前は不死の力がその身体から消え去るまで、何度でも、いつまでも苦痛に責め立てられるだろう!!」

 

凄まじい握力で背を刳られ、嘴が脊柱を引き千切る。血の海をそこに作り出すアルリックの身体は、痛みの引かぬうちに光を放ち再生していく。

それはロック鳥にとって至上の獲物と言えた。はらわたを散らして上げる歓声は、終わりなき拷問に嗜虐の趣を見出しているようでもあった。

血みどろの革袋を手に取り、今度こそ手放すまいと握り締めるクレイトス。

もう一羽のロック鳥が彼の前に傅く。

 

「飛べ……スパルタへ!」

 

ダナオスの首も無く跨るクレイトスに、大鷲は歯向かわなかった。真の勝者へ遣わされた、ゼウスの使者の如く。

大空へと舞い上がる影は、不死ゆえの苦しみに悶えるアルリックには見えなかった。

 

「カリオペ……お前は生きる、生き延びるのだ!!」

 

日は高くあった。風と一つになって、クレイトスは故郷目指して飛んだ。

眼下の森はあっという間に後方へと去った。山間をすり抜け、雲を切りながら、彼はただ、救うべき者、自分を信じて待つ者の事だけを思い続けていた……。

 

 

--

 

 

 

「スパルタ人は戦場の武勇を運命づけられている。そのようになれぬ身体に生まれついた者は、ここタイゲトス山の断崖より、地の底へと送り返すべきなのだ」

 

赤子を抱く王は、断崖を前にして語る。病に弱った手の中の命を、俯き侍る少年へと差し出した。

続く山脈は、今にも触れようかという日に染まり、海のように茜色を湛えていた。壮麗な光景は、その儀式への神々による慈悲にも等しかった。

 

「落日とともに、お前は弱き者を葬るのだ……お前はスパルタ人か、否か!」

 

少年は小さな命を抱いた。温かく柔らかい、病に冒されて尽きそうな生の感触を知り、その心は身体を重く縛る。

だが、守らなければならない掟があった。それは、誰にも覆せないのだ……。

並ぶ兵士と少年達のもとへ駆け寄る一つの影があった。

 

「お願いです、王よ、お願いします、どうか待ってください、あと少しだけ……!」

 

リサンドラは涙を流し、王に懇願した。彼女は信じていた。世界で最も愛する男とかわした約束を。

 

「クレイトスは必ず、必ず成し遂げてみせるはずです。いつだってそうだった、あなたの名のもとに、どんな戦いにだって勝利をおさめて帰ってきた!今度もあの人は帰ってきます、カリオペを救うために、必ず!」

 

兵士もそれを止めようとはしなかった。偉大な戦士でも成し遂げられない事は、この世にあるのだ……。戻って来なかった者を思い、喪失の無念に誰もが耐えていた。

 

「どうか、どうかお慈悲を……」

 

「リサンドラ……スパルタの法の上に人は立てぬのだ」

 

腕を組み、首を横に振る王。それから、顔を覆い膝をつく哀れな女の肩に手を乗せる。

スパルタの王は慈悲深く賢かった。そして、どんな時でも公正だった。

 

「たとえスパルタの最高の戦士だろうと、たとえ王であろうと……それは許されない。他に選ぶべき道は無いのだ。さあ、時間だ……」

 

泣き崩れるリサンドラを兵士に任せ、王は少年の背を押した。

断崖から吹き上がる風は、無辜の赤子達の呼び声のように谺する。

……全てのスパルタ人がそれを背負い生きなければならないのだと、少年は知った。

 

「神々よ、スパルタに永遠の栄光があらんことを」

 

クレイトスのたった一人の娘カリオペは、誰の手も及ばない場所へと放たれた。

底の無い闇目掛けて、彼女は落ちていく。病の苦しみに身動ぎすることしか出来ない赤子に、自分の運命など理解できなかった。

王も、それを成した少年も、小さく消えていく影から目を離さなかった……。

 

「王、あれは」

 

だが、ひとりの兵士は、空の彼方にあるその影に気付いた。夕焼けを背負い、猛烈な勢いでその輪郭を明らかにしていく巨鳥。

兵士の声に、王の顔もその方角へ向いた。

リサンドラは、自分が幻覚を見ているのだと思った。

夫を失って、娘が死ぬのを止められない、愚かな女に神々の与えた最後の慈悲なのだと……。

 

「……クレイトス」

 

大鷲を駆るその男は、彼女にとっては、たとえ死の瞬間だろうと忘れることの出来ない存在だったのだ……。

 

「やめろ……」

 

聞こえるはずのない、その声も……。

 

「やめろおおおおーーーーっ!!」

 

奇跡が起きた。全てのスパルタ人が、そう思った。

冥界へと消えていく小さな命、何と引き換えにしても惜しくはなかった愛しい娘を、クレイトスは空中で抱きとめた。

谷底からの風を受け、一気に舞い上がるロック鳥。断崖に立つ人々を見下ろすクレイトスの姿は、後光を纏う英雄そのものだった。

 

「クレイトス!よくぞ戻った、だが、遅かった。そなたの娘の運命は決したのだ!」

 

王は湧き上がる感慨と、それでもという無念に胸を満たし、クレイトスに向かって告げる。

その言葉は正しかった。日は地平に溶け、その光を奪いつつある満月が反対側の空に輝いていた。

クレイトスの未練は抑え難かった。小さな革袋を掲げる。

 

「だが、病を治す手段はここにある……!私が戻ってきたのは、娘の命を救うためなのだ……!」

 

「そなたの功績は確かに理解しよう、だがそれだけで全てを覆す事は出来ない。さあ、アンブロシアをこちらに」

 

クレイトスの得た英雄的な結果のすべてを王は加味し、その決断は瀬戸際で分けられた。スパルタで最も偉大な戦士は、他の誰にも出来ない偉業を確かにやり遂げたのだ。だが……。

クレイトスの顔に、言い尽くせない無念が浮かんだ。王への無礼と知っていても、その思いを吐き出さずにいられなかった。

 

「私は……神々とすら戦ったのだ、全ては娘の為に。その勝利でも足りないというのか?」

 

崖の上に降り立つクレイトスは、泣き咽ぶ妻に娘を抱かせる。その美しき家族の姿に、兵士達もただ無念を募らせた。

 

「それは間違いなく賞賛されて然るべきだ。しかし、それでも法を曲げるのに叶う事ではないのだ……」

 

その高き壁はどんな威光も遮る。例外は無かった。どんな苦難も乗り越えてきたクレイトスの力も、無意味だった。

彼は骨の髄までスパルタ人であり、それをやめる事など出来はしなかったのだ。その心は娘への思いと王への忠誠の間で揺れ、砕け散りそうになっていた。

――――彼を救ったのは、敵を滅ぼす為の力ではなかった。

 

「王……進言をお許し下さい」

 

娘を抱いていたリサンドラは、顔を上げた。王へと向けられる目に、夕暮れの光とは違う輝きがあった。

それは、他でもないクレイトスが与えたものだった……。

 

「私達は、スパルタの神聖なる法に逆らう気はありません……そして、王にそれを侵すように宣う事もありません」

 

王は黙して、その言葉に耳を傾ける。

 

「クレイトスは、あなたにアンブロシアを持ってくるよう誓いました……そして、それは今ここにあります。これが間違いなく、いかなる病も治せる神の霊薬であるかを証明するのは、容易い事です」

 

リサンドラは、布に包まれたカリオペを見せるように持ち上げる。娘と一緒に手渡された革袋が、金色に輝いていた。

 

「一口だけ、……私達の娘に与えて、全てが失敗だったのだとしたら、カリオペは死ぬでしょう。けれども、彼の戦いが勝利と成功に終わったものであれば……」

 

母として、妻として、それが彼女が見出したたった一つの出来る事だった。

慈悲を請うものではない強い眼差しは、横に並ぶクレイトスと同じように、揺るがず王に向けられていた。

 

「残りは全て、王のものです」

 

アンブロシアを差し出すリサンドラ。王は、その重みに瞑目した。

 

「彼は約束したのです。必ずや王に、スパルタにアンブロシアをもたらすと。彼がその約束を果たしたかどうか――――彼に、証を立てさせるようにするかどうか、お決めください」

 

涙の痕で顔を汚した女と、身体中を乾いた血で飾る男は、静かにその沙汰を待った。

二人に迷いは無かった。何よりも大切なものの傍に居る限り、その心は一つだった……。

 

「……フッ」

 

王は、笑みを漏らした。開いたその目はクレイトスを見やる。

 

「クレイトス、そなたはその美貌に相応しく賢い女を妻にしたようだな。……王が作った法律は、王であろうが逆らえない。そうとも、私はそなたと約束した……」

 

口を開けて高らかに笑う王。軽く、クレイトスの肩を叩いた。

スパルタの王は賢く、公正だった。ただ力があるだけでは、王にはなれない。人々の命運を握る者は、それを扱う時と同じように、人々に扱われるのだ。

 

「リサンドラの言う通りだ。私がその約束を破るわけにはいかんな」

 

王の両手はアンブロシアをクレイトスに握らせた。

 

「さあ、その一口で、私に証明してみせるのだ」

 

クレイトスは、幼い娘の口に革袋を近付ける。金色の雫が、一口そこに落ちた。

神々しい輝きがカリオペを包んだ。それは奇跡の光景だった。彼女の肌に浮かぶ痣、膿んだ水疱は、嘘のように消え去っていった……。

果てなく続く苦しみから解放され、カリオペは生を謳歌するように笑った。

 

「王よ、スパルタへの永遠の忠誠とともに、これを捧げます」

 

英雄は跪き、偉業の証を王へと捧げた。

 

「そなたはスパルタの誇りそのものだ。……新たなる隊長、クレイトスよ」

 

アンブロシアを手に、王はそう言った。

スパルタ人は諸手を挙げて、歓声を轟かせた。真の英雄、真の勇者。比類なき戦士。神々の計略をも退けた男の勝利は、全スパルタに知れ渡るだろう……。

しかし、今の彼はただ、家族を抱き締めてその幸福に浸っていた。あの日、妻と眺めた夕焼けの空よりも美しい光景が、彼の前に広がっていた……。

クレイトスは言い尽くせぬ喜びを家族とともに分かち合った。

――――それが、どれ程短いものであるかも知らずに。

彼が全てを失うのは、遠い未来の事ではなかった……。

 

 

--

 

 

「アルリック!もはやアンブロシアの力も尽きたが、お前にはまだやるべき事が残っているはずだ」

 

屍肉を啄むロック鳥は、突如立ち昇った獄炎に焼き尽くされた。

それを吐き出した地割れから、屈辱と憤怒に塗れた昏い声が響く。

 

「立て!そして、私を虚仮にしたあの男を殺すのだ!」

 

冥界の王の力が、アルリックの無残なる骸を再生していく。その魂すらも。

なぜ自分が生きているのか、何のさだめなのか、いかなる神の導きか……何も理解出来ないアルリックは、それでも自分が敗北した事だけは知っていた。

 

「お、俺、は……まだ……父よ、どうか……最期の、時に……」

 

死にかけた蟻のように、彼は歩いた。ただ、帰るべき場所を目指して……。

……長い帰路。生と死の狭間を歩き続けたアルリックは、あまりにも長い時を経て、蛮族の野営地に辿り着いた。

最も大きなテントの前に、激しく燃え上がる炎があった。

その目前で、アルリックは崩れ落ちた。

アルリックは全てを悟った。

荼毘に付される最愛の父を前に、彼の涙は赤く染まった。

胸を満たす怒りに、蛮族の新たなる王は誓った。

……かのスパルタ人に、必ずや報いを受けさせると。

クレイトスとアルリック。運命はこの二人の勇者を、いつか再び対峙させるだろう……。

 

 

--

 

 

天空の落とし子ヘカトンケイレスと対峙したクレイトス。彼の身体は、全宇宙へと向けられる怒りに捻り潰されそうだった。

 

「我が怒りを呼び覚ましてくれた事に礼を言うぞ……」

 

「だが貴様は再び実りを湛えた生命の木に辿り着くことはない!」

 

「この力をもっていま一度兄弟とともに立ち上がり、地上、宇宙全てを我らの手に取り戻すのだ!!」

 

巨体の天辺に在る小さな木が輝いた。神すら触れる事の憚られる生命の木。それを密かに簒奪せんとする過去の亡霊は、無数の大口を開きクレイトスに迫る。

 

「まずは貴様を殺してからな!!」

 

どんな人間が、この光景を前に足掻こうなどと考えるだろうか。ただ苦しみの尽きる時が速まるのを神々に祈るだけだ。

だがギュゲスの無数の手に縛られる者は、人間ではなかった。

戦いの、神だった。

 

「違う!私はそんなものを手に入れる為に来たのではない!!」

 

過去の記憶が彼に力を与えた。必ずや成し遂げるという意思は時を越え蘇る。抜き去られた双剣――――ブレイズオブアテナは消えない業火を纏い、蠢く枯れ木を薙ぎ倒した。

 

「アレスのしもべが……あの狂った神を復活させるべく、生命の木を求めているのだと知らなければ、このような忌まわしい場所に来ることは無かった……!」

 

支えを失い、虚空へ投げ出されるクレイトス。百の人間も飲み込める大口が迫る。剣を枯れ木の一本に投げつけ、長い振り子のように彼は宙を舞った。

 

「奴の謀りによって……私の家族は死んだのだ……!」

 

円を描く軌道に合わせて剣を戻し、空中で独楽のように回転しながら斬撃を繰り出す。

醜く並ぶ無数の牙が、その一振りで一斉に砕かれた。

 

「奴が蘇るだと……私の家族を死に追いやった、奴だけが!」

 

再び鎖を伸ばし、枯れ木を捉えた。渾身の力で引き寄せ、クレイトスは空を蹴るように跳躍する。

その先の巨大な眼球を睨みつけ、彼は叫ぶ。

 

「私がアンブロシアを再び盗みにやって来ただと!?」

 

振り下ろされる双剣。長い鎖の残像は、まるで巨大な戦斧のようにギュゲスの目に映った。

 

「違う!!私は、それを消し去りに来たのだ!!」

 

双剣が、爆炎を噴き上げた。それは決して消えない彼の怒りを形にしたように、何度も何度もギュゲスの眼球を刳り、焼いた。

 

「無駄だ!生命の木が宿るこの身体を滅ぼす事は出来ん!」

 

しかしギュゲスは、自分の言葉が既に虚勢じみた繰り言へと堕しつつあると、本能で感じ取っていた。凄まじい怒りは、巨体全てを覆い尽くそうかという炎をその鎖に宿していた。

木の枝を焼き、眼球を粉砕し、牙を次々にへし折っていくクレイトス。もはや、ヘカトンケイレスなど彼の敵ではなかった。

彼がそれまで戦った相手は、遥か過去に敗北し封じられた存在などよりも、ずっと強大で、悪辣だった。

ギュゲスの悲鳴はアスクレピオスの慈悲を呼び起こさなかった。生命の木は勝利の栄光ではなく、終わることのない苦痛の時間をギュゲスに与えていた……。

 

「私の望みを阻もうというのなら――――!」

 

クレイトスは、これ以上無駄な時間を使う理由など持っていなかった。彼の怒りは、その内にずっと秘められていたものを呼び起こしていた。

湖を望む通路へと降り立つ。杖に絡みつく蛇の紋章は、緑色の光で照らし出された。

その光は他でもないクレイトスの腕から生まれていた。遠い昔に彼を導いた炎。それは戦いの神となった今、真の力をここに顕現させた。

 

「貴様は死ぬだけだ、ギュゲス!!」

 

緑色の炎がクレイトスの手から放たれた。それは蛇のようにギュゲスの巨体に絡みつき、際限ない勢いで燃え上がる。

 

「かつて貴様の腕を焼き尽くしたのは、神の選んだ勇者の力だ。だが神そのものの――――アポロの炎の力の前では、その身体全てが薪に過ぎん」

 

混沌の時代から蘇った亡霊は、神々の最後の慈悲に包まれて絶叫する。

クレイトスは冷え切った目で、それを見つめていた。

 

「オリュンポスの炎は全てを焼き尽くすだろう。貴様の命も……生命の木も……」

 

炎は神殿の内部全てを満たして更にその勢いを増していく。怨嗟に満ちたギュゲスの断末魔もかき消す、業火の迸り。

湖から背を向けて、クレイトスは走る。

 

「……アンブロシア……」

 

その顔にある深い悲しみ。神々ですら消し去れない、彼の心の深い爪痕。

痛みに耐えるように歯を食いしばり、彼は神殿の入り口から飛び出した。

直後、そこから凄まじい勢いで炎が吐き出される。

 

「アレスが蘇る手段もろとも消え去るのだ、永遠に……」

 

呟きは炎に混じり、天へと消えていった。

一度だけ振り向くクレイトス。血を燃やすような赤色とは違う、どこか安らぎすら呼び起こす緑色。

その中に、失った家族の微笑みが見えたような気がした。

だが、もうそれは決して戻らないものだった。彼は知っていた。それを手に掛けてしまったのは、自分自身なのだと。

たとえアレスによって与えられた策謀の結果なのだとしても。

あの時、他でもないクレイトスによって斬り伏せられたリサンドラとカリオペの骸は、炎に包まれ灰となり、彼の身体に貼り付いた。

白く変わった皮膚は、そのおぞましい行いを見る者全てに知らしめ、そして人々は彼をこう呼んだ。

スパルタの亡霊と……。

長い贖罪と試練の果てに、報いは果たされた。アレスを殺し戦いの神となった彼は、だが真に望んだ魂の救済を手にする事はできなかった。

戻らない過去を心の奥底へと封じるクレイトス。

神殿を後にする足取りは、重かった。

 

 

--

 

 

アレスの滅びは永遠のものとなった。だがクレイトスがそれに救いを感じる事はなかった。

自分のことを簒奪者と信じる者達の怒りは、いずれ再び姿を現すであろうと、彼は知っていた。

だが彼はどんな敵が目の前に現れようとも、どんな悪辣な企みに絡め取られようとも、それらを討ち滅ぼす用意が出来ていた。

スパルタの亡霊の前にあるのは、果てなく続く戦いの運命だけだった。

 

 

 

 

 

 

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