恋のリート   作:グローイング

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黒森峰の日常③ 小梅の思い

 一年前、小梅は黒森峰から転校するつもりだった。

 みほがそうしたように、自分と同じ戦車に乗っていた娘たちが責任を取ってそうしたように。

 

 プラウダとの決勝戦。

 悪天候によって泥濘(ぬかるみ)となった地面、そしてプラウダの砲撃が要因となって、小梅が乗っていた戦車は川へと落ちた。

 優勝候補としてあるまじき失態だ。いくら足回りの弱いドイツ戦車と言え、天候の影響を考慮せずに墜落してしまうなんて。まさに未熟をそのまま滑稽な形として観戦者に披露してしまった。

 小梅はそんな自分を恥じた。

 

 しかし、その失態を責める者はいなかった。あの状況を想定できなかった自分たちにも非はあると。

 真面目で聡明な生徒ばかりの黒森峰では、失敗を犯した者だけを一方的に責めるのは愚かだということを、誰よりも理解していた。

 一人の責任は全員の責任。連帯責任だ。誰もがそれを弁えている。

 ……もちろん、影で陰湿な言葉を吐く者はいたが、そういう者ほど黒森峰の校風には馴染めず、自然と辞めていく。あるいは追放する。

 歪んだ人間性を持つ生徒など、この誇り高き黒森峰には必要ない。

 

 もちろん悔しさはあった。当然である。十連覇を賭けた戦いだったのだ。

 だが、それを逃してしまうような欠点を、自分たちは抱えていた。

 車長が不在になっただけで行動も判断もできなくなるような、とつぜんの事態でパニックなってしまうような、そういう欠点だらけのチームだったのだ。

 認めるしかない。自分たちは、弱かった。

 だからこそ、誰か一人に責任をなすりつけるようなことはしなかった。

 

 フラッグ車を放って、川へ飛び込んだ副隊長みほに対してすらも……少なくとも、生徒たちの間では。

 しかし、OGたちからの非難は避けられなかった。

 

 若き少女が一身に受けるには、あまり重すぎる罵倒と怒りがぶつけられた。中には決して言うべきではない中傷も、大人気ない嘲笑も含まれていた。

 しかし黒森峰は規律を重んじる学園である。意見できる生徒は当然いなかった。

 お偉いたちの怒りを鎮めるためにも、みほは黒森峰を去るしかなかった。それを止めることは、姉のまほであっても、因縁深い間柄だったエリカであっても、できなかった。

 当然、彼女に救われた小梅であっても……

 

(わたしのせいだ……)

 

 小梅は自分が許せなかった。敗因を作った自分を。みほが黒森峰から追い出される原因となった自分を。

 どうして、みほだけが責められなければならないのだ。非は間違いなく、自分にあるというのに。

 

 みほとは黒森峰中等部の頃から親しい仲だった。思うように戦車を乗りこなせない自分を、みほはその優しい心でいつも励ましてくれた。家元の娘特有の近寄りがたさなど微塵も感じさせず、心を通わすことができた。

 尊敬していた。大切な友人だった。なのに……

 

 いっそ罵倒して責めてくれれば、どれだけ救われただろう。

 ぜんぶお前のせいだ。お前のせいで黒森峰は負けて、みほまでいなくなってしまったんだ。

 罪深い自分を、そう言って裁いて欲しかった。

 しかし、彼女に断罪の刃を振り下ろす存在はいなかった。誰もが義理堅く、そして思いやり深く、沈黙を決め込んだ。

 ゆえに、小梅は絶望した。

 

 夜ごとに悪夢にうなされ、押しつぶされそうな罪悪感によって、小梅は日々疲弊していった。

 何故みほは去って、自分はここに残っているのだろう。何を当たり前のように戦車道を続けているのだろう。

 自分なんかよりも、ずっと素晴らしい戦車乗りが黒森峰(ここ)にいたのだ。なのに彼女は、居場所も、家族の絆も、そして戦車道すらも失ってしまった。

 信じたはずの道を突き進んだにも、関わらず。

 

(わたしのせいだ……)

 

 こうして黒森峰にいることそのものが、小梅にとっては辛かった。

 戦車に乗るたび、在りし日の雨音がまるで亡霊のように小梅の耳に甦る。

 重苦しく昏い雨空が、いまも瞳に焼きついている。

 

 小梅が陸に引き上げられたとき、すでに勝敗は決していた。

 小梅は朦朧とする意識の中で、自分がみほの腕によって抱かれていることだけはわかった。

 自分を救い出してくれた、みほの手。氷のように冷たい彼女の体温。頬に滴り落ちてきた、雨とは異なる熱い滴。

 そして、掠れるような、いまにも消えてしまいそうな彼女の声。

 

 ──ごめんなさい。みんな……

 

 笑顔がとても素敵だった少女。その少女から笑顔を奪ってしまったのは、自分だ。

 

 だからこそ小梅は決めた。二度と、戦車には乗らないと。そんな資格は、もう自分にはないだろうから。

 誰も自分を責めないのならば、自身がその懲罰を与えよう。

 

 教師以外に転校のことを告げるつもりはなかった。隊長であるまほや、小梅を庇ってくれたチームメイトたちに対しての不義理の何物でもなかったが、彼女の精神はそこまで追い詰められていた。もう仲間と顔を合わせることすらも怖かった。

 このまま誰にも知られることなく静かに去り、そして自分の存在そのものを忘れて欲しかった。

 

 しかし……

 

「君も辞めるのかね?」

 

 そんな小梅の思惑を見抜く者が一人いた。

 最後のけじめとばかりに、自分が乗っていた戦車に礼をしようと、日の落ちた格納庫にやってくると、そこには一人残って整備を続ける男子生徒がいた。

 それが礼慈だった。

 彼は、ひと目で小梅が何を考えているのかを理解した。

 

「……あなたには関係ありません」

 

 礼慈の問いに、小梅は冷ややかに答えた。

 その頃の小梅は、男子に対して強い警戒心があった。エリカの幼なじみである新留礼慈は特に苦手だった。

 いつも何を考えているのかわからなくて、奇抜な言動や行動には正直苛々させられていた。

 ぶっきらぼうに答える小梅に、「それもそうだな」と礼慈も無関心そうに言った。

 

「簡単に諦めるような人間に、私は露ほどの興味もない。辞めたければさっさと辞めるがいい。やる気のない人間などいても邪魔なだけだ」

「……」

 

 きつい言葉を前に、しかし小梅は反論する気にはなれなかった。悔しくはあったが、正論だったからだ。

 そのまま小梅は背を向けて格納庫を去ることにした。

 その背中にポツリと独り言のような言葉がかけられる。

 

「君が最後の一人だ」

「え?」

「みほ君が身を挺して救った乗員で、いま黒森峰に残っているのは君だけだ」

「……」

 

 小梅と同じ戦車に乗っていたチームメイトはすでに黒森峰(ここ)にはいない。全員が「ごめんなさい、ごめんなさい」と壊れたゼンマイ人形のように謝罪し、涙を流して去っていった。

 小梅もその一人になる。そんな彼女に、礼慈は鋭く言い放つ。

 

「もしも君まで黒森峰を去り、戦車乗りであることをやめてしまうというのなら──みほ君はいったい何のために川に飛び込んだのだろうね」

「……っ!?」

「彼女は決して、君たちまで戦車道を辞めることなど、望んではいなかったと思うのだがね」

 

 小梅は言葉を失った。

 自分までが黒森峰の生徒でなくなり戦車道を辞めるということは、彼の言う通り、みほの行為を無碍にすることに等しい。

 

 みほ一人が責任を背負って黒森峰を去ったのは、最愛の姉の立場を守るためだけではない。

 失態を犯してしまった自分たちが今後も黒森峰で過ごせるように、心ない非難を彼女が一身に受けてくれたのだ。本来ならば自分たちが浴びるはずだった中傷すらも、彼女一人で。

 

 決意を固めたはずの小梅の心は揺れた。

 本当にこのまま辞めてしまってのいいのか。みほの思いを裏切ってまで、戦車道を捨てるのか。

 

「わたしは……」

 

 それでも小梅は勇気を振り絞ることができなかった。みほの思いを実感したからこそ、余計に選択肢は重みを増してしまった。

 みほのように立派な戦車乗りではない自分が、どこまでも弱い自分が、はたしてこの先、罪を背負ったまま戦車道を続けられるのか。

 

「わたし、はっ……」

 

 恩義と不安。ふたつの激情の狭間で小梅は葛藤した。

 気づくと瞳から熱いものが込み上げていた。もう何度流したかわからない。

 それでもその日のソレは、今までで一番深い悲壮を孕んでいた。

 

「う、うぅうぅ……」

 

 小梅は子どものように嗚咽した。

 

「どうすれば……わたしは、どうすれば、いいんですか?」

 

 それは礼慈に向けてか、あるいは自分に対してか、小梅は縋るように問いかけた。

 暗い洞穴の出口を求めてさ迷うように。

 

「……」

 

 そんな小梅を、礼慈はどこか切なそうに見ていた。

 

 たが、その表情はすぐに非情なものに変わった。まるで仮面を被るように。

 鋭く冷たい態度となって、礼慈は背を向ける。

 そして、

 

「……まあ、()()が救うような人間が残ったところで、足手まといでしかない」

「っ!?」

「彼女は本当に余計なことをしてくれたよ。我々整備士の苦労もすべて水の泡じゃないか」

 

 黒い悲壮が嘘のように引いていった。

 代わりに飛来してきたのは、真っ赤に染まった怒りだった。

 

「十連覇を逃す要因となった人間たちなど、諸共いなくなったほうがこの黒森峰のため……」

 

 格納庫に激しい破裂音が響き渡った。

 身体が真っ先に動いていた。

 自分の力とは思えない腕力で礼慈を振り向かせ、その頬を思いきり叩いていた。

 

「あなたに……」

 

 自分への罵倒ならまだいい。

 しかし、

 

「あなたに、みほさんの何がわかるんですか!!」

 

 みほへの侮辱だけは、絶対に許せなかった。

 

 それは小梅の人生において、一番激しい感情の爆発だった。

 

「どうしてみほさんだけが、そんなにも責められなくちゃいけないんですか!? あの人は、何も間違っていなかったのに! あの人に無茶をさせてしまった、わたしたちが悪いのに! どうして、どうして!」

 

 一度爆ぜた本心は、堰を切ったように溢れた。それはずっと胸の内に溜め込んでいたものだった。

 何もできなかったことが悔しくて、弱い自分が情けなくて、そしてなによりも──みほがここにいないことが悲しくて。

 そんな激情を、すべて吐き出す。

 

「みほさんはいつだって、わたしたちのことを考えてくれたのに! 誰よりも黒森峰のために頑張っていたのに! なのに……っ」

 

 みほは正しいと信じた道を突き進んだ。そんな彼女に待っていた仕打ちは、あまりにもむご過ぎるものだった。

 純粋で優しい彼女が、どうしてそんな目に遭わなければならなかったのか。

 

「試合に勝つことが、そんなに大事なんですか!? 優勝することが、そんなに大事なんですか!? もっと、もっと大事なことがあるんじゃないですか!? それを学ぶために、わたしたちは戦車道をやっているんじゃないんですか!?」

 

 決して明かすことのできなかった本心。ましてや真の戦犯である自分が決して言うべきではない発言だった。

 西住師範を始め、黒森峰のOGの前では間違っても口にすることなどできない。

 そうわかっていても、小梅はもう自分を抑えられなかった。

 秘め続けていた感情が、怒涛のように溢れる。

 

「仲間を見放してまで勝ちを優先することが戦車道だって言うなら、わたしはもうそんなもの続けたくない! 立派な女性に、善き母になるために戦車道があるのに……どうしてそれをしてきた人たちが、みほさんを否定するの!? あの人が間違っていただなんて、ヒドイことを言うの!?」

 

 涙と怒りで、彼女の胸の中はぐちゃぐちゃだった。それでも、言葉は口から溢れ続けた。

 

「わたしは、悔しいです……っ。あの人の居場所を守ることができなかった自分が。あの人に何も恩を返せていないことが。あの人の、戦車道を守ることができなかった自分が! 言いたい……あの人の戦車道は、絶対に間違いじゃなかったって!」

「ならば、答えはすでに出ているじゃないか」

「え?」

 

 涙に濡れた顔を上げる。

 頬を腫らした顔を、礼慈はまっすぐと、小梅に向けていた。力強い瞳だった。

 

「伝えればいい。いま私に言ったことをみほ君に。叫べばいい。世間に向かって、君の思いを」

 

 先ほどまでとは違う、温情に満ちた顔で、彼はそう言った。

 そして唐突に頭を下げた。

 

「試すようなことを言ってすまなかった」

「え?」

「私のいまの発言に何も感じないのなら、引き留める必要はないと思ったが……」

 

 礼慈は顔を上げる。腫れた頬に手を触れる。

 

「まさか殴られるとは思わなかったよ」

 

 苦笑いを浮かべる礼慈を見て、小梅はすべてを察した。

 

「……わざと?」

「心にも思ってないことを口にするというのは、想像以上に自分自身に腹が立つものだね」

 

 拳を握る鈍い音がする。音のほうへ小梅は視線を配る。

 礼慈は、血が滲むほどに拳を握りしめていた。

 

「あ……」

 

 小梅は口元を抑えた。

 そして、自分の手を見つめる。彼の頬を叩いた手を。

 生まれて初めて、男性を殴った。そんな自分に今更ながらに困惑し、そして罪悪感が芽生えた。

 小梅は顔を伏せる。

 

「あの、わたし……」

「謝る必要はない。君が殴らなければ、自分で自分を殴っていた」

「……」

「いいんだ。嫌われることには慣れている」

 

 何でもないことのように、礼慈は言った。

 

「そして、そんな嫌われ者である私は、これから身勝手なことを言うよ」

 

 小梅は顔を上げる。

 彼が言うように、これまで嫌っていた人物の顔を。しかし、そこには小梅が今までに見たことのない、真剣な表情があった。

 

「赤星小梅さん。君は、黒森峰(ここ)に残るべきだ。残って、戦車道を続けるべきだ」

 

 礼慈はそう言った。ただまっすぐに。どこまでも真剣に。

 

 小梅は思った。

 きっと、これが本来の彼なのだろうと。いま彼は、真実の心で自分と向き合っているのだと。

 

「本当に思い残すことがないのなら、止めはしない。辞めたければ辞めればいい。それで君の心が救われるのなら。だが……君にはまだやり残したことがあるんじゃないのか?」

「……」

 

 やり残したこと。思い残すこと。

 そんなものは、もう自分の中には残っていないと小梅は思っていた。

 だが、礼慈に煽られた瞬間、それは驚くほどに口から溢れた。

 礼慈の言うとおり、答えはすでに出ているのだ。自分が、すべきこと、ここでやるべきことが。

 

「重みから解放されること自体は、とても簡単なことだ。ただ捨てればいいだけだ。……だがね、後悔してから気づいても、捨てたものは二度と戻ってこないのだ。たとえ自分の手で捨てたものだとしても、一度手放してしまえば、それはもう取り返せないものなのだ」

 

 零れた水は器に戻せないように。そんな言葉が小梅の脳裏に浮かんだ。

 

「君には君の立場があるし、思うところもあるだろう。だが、それでも私はやはり身勝手に言うよ。

 ──残りたまえ。君がここで戦車道を続けることが、もしかしたら、みほ君にとって救いになるかもしれない」

「みほ、さん……」

 

 みほと同じように自分も戦車道を辞めることが、せめてもの贖罪になると小梅は思っていた。

 だが思い直す。はたして、みほという少女は、そんなことをして喜ぶ人物だったろうか。

 小梅は思い出す。彼女との思い出が昨日のことのように甦る。

 

 ──ボコはね、どんなことがあっても諦めずに、必ず立ち上がるの。だからわたしも、ボコに負けないぐらい頑張らなきゃって思うんだ。

 ──赤星さん、一人で悩まないで? みんな最初は初心者だよ。これから一緒に頑張っていこうよ!

 ──赤星さんは、わたしよりもたくさん素敵なものを持ってるよ? だから自信を持って!

 

 いつだって、誰かのために頑張って来た優しき少女。

 いつだって、自分よりも他人の幸せを優先した少女。

 そんな彼女が、自分のせいで誰かが悔やみ、戦車道を辞めたと聞けば……悲しむに決まっている。

 

 だが、その逆ならば?

 あなたがいてくれたから、わたしはこうして今も戦車道を続けられています。

 そう伝えることができるのなら、それは……

 

「……うぅっ」

 

 小梅は泣いた。

 悲しさからではない。自身に対しての情けなさからでもない。

 

 こんな自分でも、みほのために何かできることがあるかもしれない。

 それに気づくことができたからこそ流れる、涙だった。

 

「一人で悩むな」

 

 切な声色で、礼慈は言う。かつての、みほのように。

 

「悔しいのは、私だって同じだ。もっとちゃんと戦車を整備していれば、もっと知識があれば、君たちを勝利させる戦車を用意できたかもしれないと。……いつも、そう悔やんでいるよ」

 

 そうだ、と小梅ははたと気づく。自分たちがそうだったように、彼ら整備士たちにも、整備士なりの悩み葛藤があったのだ。考えてみれば、当然のことだった。

 ずっと自分たちを影から支えてきてくれた、縁の下の力持ち。

 自分たちは、一度でもそんな彼らに感謝をしたことがあっただろうか。

 

 遠い先の未来を見るように、礼慈は空を見据える。

 

「悔やむなら尚のこと、我々は前に進まなくていけない。二度と同じ過ちを踏まないために。だから心ない大人たちの声に負けている暇などないのだ。もっと戦車を強くする整備の方法を、あらゆる工夫を凝らしてでも探そう。どんなにバカらしいことでも、何だって試す。

 君たちを勝利させる最強の戦車を用意するべく、私は整備を続けるよ。……だから、君もどうか、諦めないでくれ」

 

 一人じゃない。

 こうして自分に対して、まっすぐな言葉をかけてくれる存在が、まだいてくれる。

 同じ苦渋を背負う存在がいる。

 

 そのことが何よりも……

 

 小梅は顔を覆って泣いた。

 そんな彼女の肩に、礼慈は優しく掌を重ねた。

 

「君は、強い人だ」

 

 涙を流す少女に、礼慈はそう言った。

 

「涙を流せる人は誰よりも強くなれると、かつて私の盟友(とも)が言っていた。だから、君は諦めちゃダメだ。こんなにも誰か一人のために涙を流せる優しき人が、簡単に押し潰れていいわけがない」

 

 彼の一言ひとことが、小梅の心を奮い立たせる。熱い涙をより、流させる。

 

「迷わず進みたまえ。君が信じた道を、戦車に乗って。どんな障害があっても、砲撃で撃ち抜いてやれ。それでも進めなくなったときは……私を頼りたまえ。どんなに壊れようと、必ず直してみせる。私は、そのために此処(ここ)にいるのだから」

 

 小梅は涙いっぱいの顔を礼慈に向ける。

 

「……本当、ですか?」

「私は口にしたことを決して曲げない」

 

 礼慈は力強く言った。

 

「どんと構いていたまえ。なにせこの黒森峰には、魔法使いである私がいるのだからね」

 

 普通ならば笑ってしまうようなその言葉も、礼慈が口にすると、本気で信じてもいいと思えた。

 

 事実、彼は小梅の中に、ひとつの魔法を起こしたのだから。

 それは勇気と呼ばれるもの。

 そして……

 

 

 

 暗闇の中で怯えるような少女の顔は、もうそこにはなかった。

 

* * *

 

 そうして、小梅は黒森峰に残り、戦車道を続けた。

 いつかまた、大切な恩人と巡り合えることを信じて。

 そして、その願いは思いのほか早くに叶えられた。

 

 そのことを、小梅は「アラトさんのおかげです」と礼慈に感謝した。

 しかし礼慈は首を振って言った。

 

『私がいなくとも、小梅君は黒森峰に残ることを一人で決意できたと思うよ? 私はただ、ちょっかいをかけただけに過ぎない』

 

 確かに、苦悶しつつも小梅は結局ここに残ることを選択したかもしれない。

 しかしそれは、きっと後ろ向きの選択だったに違いない。状況を変えることを恐れ、結局は前に進めないまま、無意義に日々を過ごしていたかもしれない。

 勇気をいだいて、そして前を向いて立ち上がれたのは、礼慈の言葉があったからだ。

 だからこそ、

 

 ──みほさんが、戦車道をやめないでよかった。

 

 戦車道の聖地で、小梅は恩人にそう伝えることができた。そして……

 

 ──あなたの戦車道のおかげで、今のわたしがあります。

 

 戦車乗りとしての敬意と感謝も、まっすぐに伝えることができた。

 その言葉にみほはただ戸惑っているようだったが、それでも、自分たちを見る暗い眼差しに、ひと筋の光が宿ったように思えた。

 

 今年の大会も、黒森峰は王者に返り咲くことはできなかった。それでも、小梅の胸には清々しい気持ちが広がっていた。

 口にしたら間違いなく叱られるだろうが、それでも小梅は思わず祝福したい気持ちになったのだ。

 大洗で戦車道を再開したみほが、新たな仲間と共に優勝したことを。

 そこには確かに、小梅が夢見て憧れた絆と呼ばれるものがあった。彼女が求める戦車道があった。

 

 だから、小梅は思う。諦めずに、戦車道を続けてよかったと。

 小梅が主張するまでもなく、みほの戦車道は正しかったと証明された。そのことが、誰よりも嬉しかった。

 

 きっとこの先、戦車道の世界は大きく変わっていく。もう過去のしがらみに囚われている暇もなく、変化を求められるだろう。

 これからの時代を作っていくのは、そして築いていけるのは、自分たちなのだ。

 その変革の時代にいられることに、小梅は感謝した。

 きっと、変えてみせる。

 学園は違えど、みほと共に、輝かしい戦車道を進んでいきたい。

 

 だから今日も小梅は戦車に乗る。

 栄光を今年こそは手にするために。そして、また笑顔で“彼女”と会うために。

 

 ……が、その前に解決すべき珍事があるようだった。

 

「お願いします副隊長! いつもの調子に戻ってください! 今の副隊長はすごく気持ち悪いです!」

「何を言うの直下(仮名)さん♪ わたしようやく心を入れ替えて皆と仲良くしようと考えているのよ? このままでいいに決まっているじゃない♪」

 

 身も心も文字通り綺麗になったエリカはそう言って微笑む。

 美化200%の微笑みは、華やかというよりもケバ過ぎて、隊員の少女たちは「ひいい」と怯えた。

 

「あ、あはは。エリカさん、まだアロマオイルの効果抜けてなかったんですね……」

 

 小梅はそう言って苦笑する。

 アロマテラピーの効能によってストレスがなくなったらしきエリカ。まるで別人の状態で訓練に現れたので、隊員全員が「誰!?」という具合に驚愕した。

 あまりにも普段とのギャップ差が激しすぎるので、誰もが異様な薄気味悪さを感じていた。

 

「さあ皆、今日も元気に訓練をしましょう♪ 困ったことがあったら何でも言ってね? ティーガーⅡの乗員の皆とすっかり仲良くなれた今のわたしなら、どんな相談にも乗れるから。ね? みんな♪」

 

 エリカの星だらけの瞳がティーガーⅡへと向けられる。

 エリカと同じ乗員たちは、全員げっそりとした顔で親指を立てた。エリカに対してではなく、「みんな、ドンマイ……」と被害に遭うであろう隊員たちに向けてのエールである。

 

「みんな♪ 手と手を取り合って、来年こそ優勝しましょうね! きっと薔薇色な学園生活がわたしたちを待っているわ♪」

「ちょっと新留さん! あなたの仕業でしょ! なんとかしてくださいよこの気味悪い副隊長!」

「フハハハハ! 我が幼なじみエリカよ! せっかくアロマの効能で見てくれだけでなく心まで綺麗になったというのに気味悪がられるとは! 本当に君って奴は不憫な女だなあ!」

「仕方ないわ。それだけキツいことを皆に言ってきたんだもの。でも大丈夫♪ 心を通わせれば、きっとわたしたちにも大洗の人たちのように決して切れない絆が芽生えるわ♪」

「……つまんない! こんなエリカ、レイちゃんつまんない!」

「もう、子どもみたいに駄々をこねちゃダメよレイくん♪」

「「本当にこのエリカ(副隊長)気持ち悪い!」」

 

 エリカを中心としたそんなやり取りを、小梅はクスクスと笑いながら見守った。

 

「もう。本当に毎日ハチャメチャですね、うちの訓練は」

 

 去年と比べたら、とても信じられない光景だ。みほが今の黒森峰を見たら、さぞ困惑するに違いない。

 

 そして小梅のように、自然と苦笑しだすことだろう。

 それほどまでに、今の黒森峰には明るい活気が満ち溢れている。

 

「エリカ! お前の大好きなハンバーグだぞ! 鉄板の上でジュウジュウ鳴ってるぞ!」

「あら嬉しい♪ わたしのために用意してくれたのレイジ?」

「このハンバーグにケチャップとマスタードをたっぷりぶっかけてやる! ドバドバっとな!」

「……ん?」

「そしてさらにとっろとろのチェダーチーズとカッリカリのピクルスをこれでもかというぐらいに投入だ!」

「レイ、ジ? そんなこと、したら、せっかくのハンバーグが……」

「そして最後にバンズで挟んで! レイちゃん特製ハンバーガーの出来上がりだあ!」

「おどりゃああああ! ハンバーグに対してなんて邪道なことしてくれとんじゃあああ!!」

「おお! 戻った! エリカが元に戻った!」

 

 大好物のハンバーグがアメリカンに侵食された怒りからエリカは元の『残念美少女』へと回帰。

 周りの隊員たちは「バンザーイ! バンザーイ! 残念副隊長バンザーイ!」と歓喜の涙を流した。

 

「お帰り私のエリカ! さあ残念な君の復活を祝してこのハンバーガーを存分に食すがいい!」

「わたしはそんなものより純粋なハンバーグが好きなのよ! って、ちょっと! そんなアツアツなもの口に突っ込まないでよアチイイイイイ!!」

 

 エリカと礼慈。

 二人のいつものやり取りを見て、小梅はまたクスクスと笑った。

 周りの隊員たちも同じように笑いだしていた。

 

 黒森峰は本当に変わった。訓練中に、こんな風に和気藹々とできる日が来るなど、誰が想像できただろう。

 それも、たった一人の整備士……いや魔法使いによって。

 彼は本当に、魔法のように黒森峰に偏在していたわだかまりを、たったの半年で消し払ってしまったのだ。

 

 

 

 一見ふざけているようにしか見えない礼慈の奇行。しかし小梅だけは、その裏にある、彼の純粋で優し過ぎる真意を知っている。

 ある日、小梅は尋ねた。

 どうしてそこまで、毎回おかしなことをするのかと。

 礼慈は一瞬きょとんとして、しかしすぐに明るくほがらかな笑顔で答えた。

 

『だって、みほ君がもしも黒森峰に帰ってきたとき、暗い場所よりも明るく楽しい場所になっていたほうが、彼女も喜ぶではないか』

 

 皆は知っているだろうか。

 変人にしか見えない彼が、どこまでも人の幸せを願っている人物だということを。

 エリカは知っているだろうか。

 彼がここまで人々を笑顔にしようとするのは、()()()()()のために、世界そのものを幸福で満たそうとしていることを。

 

「レイジィ~! あんちゃってやちゅは、ほんちょにいっちゅもいっちゅもバカなこちょしゅるんだから~!!」

「フハハハハ! お口火傷したせいで舌足らずみたいになっちゃってるぞエリカ! 実にかわいいらしいぞ~!」

「うるちゃいうるちゃいうるちゃい!!」

 

 エリカを見つめる彼の笑顔は、とても優しく、そして慈愛で満ち溢れていた。

 その微笑みを向けてもらえるエリカを、小梅は羨ましく思った。

 だが黒い嫉妬のようなものは、不思議と湧かなかった。

 心の底では、あの二人の仲を認めているからだろう。

 そしてそれ以上に──礼慈に、幸せになって欲しいと思っているから。

 

 いつも誰かの幸せを願い、笑顔にすることを夢見ている魔法使いに、小梅は誰よりも幸せになって欲しかった。そう願うことが、自分にできる恩返しだと思った。

 礼慈と触れ合い、彼の新たな一面を知るたびに育ていった感情。

 その感情の名前を自覚したのは、ずいぶんの後のことだった。

 

 もっとも、どんなに早く気付いたところで、勝負はとっくについていた。もう何年も前から。

 だからか、不思議と悔しさはなかった。あの二人なら、祝福したいと素直に思える。

 なによりも、そこに礼慈の幸せがあるのなら。

 

(わたしは、思えているだけでも幸せですから)

 

 礼慈は、戦車道と向き合うチカラをくれた。

 こんなにも明るく楽しい場所を作ってくれた。

 いくつもの魔法を、自分に見せてくれた。

 だから、自分が報われようなどとは考えない。ただ彼の傍で、彼の笑顔を見られるのならば、もうそれで充分だった。

 初めていだけたこの感情は、きっと小梅にとって生涯の宝物になるだろう。

 礼慈が幸せになれるのなら、それ以上は望まない。

 

 小梅は信じている。

 きっと“彼女”なら、礼慈を幸せに……

 

「もう許さん! 全員乗車! あの悪魔を戦車で木っ端微塵にしてやるわ!」

 

 幸せに……

 

「ええ!? そ、それはさすがにむご過ぎるのでは副隊長!?」

「問答無用よ!」

 

 幸せ、に?

 

「ふっふっふっ……覚悟しなさいレイジ。ここをアンタの墓場にしてやるわぁ!」

「フハハハハ! おもしろい! いまはなき“対戦車道”の再現というわけか! いいだろう! 《漆黒の魔導士》と謳われし我が力を存分に披露してやろうではないか!

 おい誰か! 我が鎧“ナーサリー・クライム”をここに持ってきてくれたまえ!」

「だーれが競技用特殊スーツの武装を認めた!? そのまま生身で向かってきなさい!」

「フハハハ! 鬼かね君は!」

 

 礼慈の言うとおり鬼の形相で砲撃を始めたエリカを見て、小梅は「う~ん、でも……」と思った。

 

 もし仮に。本当にもし仮に、エリカが礼慈の思いを踏み躙り、彼を不幸にするようなことがあれば……

 

(そうですね……そのときは、わたしが全力でアラトさんを幸せにしちゃいましょう♪)

 

 なんやかんや言いつつ、そんなちゃっかりしたことを考える小梅であった。

 これはそう。『なんちゃらする乙女は強い』という、独特の心理である。

 

(そういうわけですから、アラトさんを傷つけたら、承知しませんからねエリカさん♪)

 

 ティーガーⅡに追い掛け回される礼慈を救うべく、小梅は爽やかな笑顔で戦車を走らせるのだった。

 

 

 

 止まない雨がないように、澄み渡る青空のような笑顔で、今日も小梅は戦車に乗っている。

 


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