この
ちから強くして自儘を極め
勢い大盤石を覆すがごとし
男女の垣根を越えし天衣無縫、唯我独尊の超人なり
怪異六畜を爪裂く
名よりも、見るはおそろし──
ブラッディ・カント著
『世界の偉人・英雄別巻』より抜粋
最初は、イライラした。
会う度に、ヘラヘラして、意味のない作り笑いばかり浮かべて。
苗字を持ってる、貴族のボンボン息子が、何も苦労もせずに豊かな暮らしが出来る権利を放り出して、半端な気持ちで冒険者になったと思って。
それでいて、実力だけはあるから、余計癇に障って。
貴族は嫌いだった。父も母も、貴族の怠慢と足の引っ張り合いで死んでしまった。
だから、グレイラットの苗字を持っているアイツ……ルーデウスのことが、大嫌いだった。
でも、会う度に、彼のことがそんなに嫌いになれなくなっていた。
ラスターグリズリーの群れを、一人で倒してしまった時。
ガルガウ遺跡で、スノウドレイクを一人で足止めしてくれた時。
そして、トリーアの森で、アイスフォールトゥレントに捕まって、死にかけていた私を助けてくれた時。
目を開けたら、おとぎ話の王子様のように、ルーデウスは私を助けてくれた。
大切な物を扱うように、傷ついた私を治してくれた。
それから、ルーデウスと良く話すようになった。
一緒に冒険をして、一緒に打ち上げして。ルーデウスのことが、どんどん好きになっていった。
ルーデウスも、一緒に過ごしていく内に、私の事を好きになっていったんじゃないかなって思った。
だから、あの時精一杯のオシャレをして、デートに誘って、お酒の力も借りて。ルーデウスを誘った。
直接告白するのが怖かったから、助けてくれた時のお礼の形をとって。
それで、結ばれたら、本当の自分の気持ちを伝えようと思って。
それからは、最悪だった。
最初は、ルーデウスが私の身体に全く魅力を感じてなくて、出来ないものだと思って。
ルーデウスが自分の事を、好きじゃないんだって思って。
自分の初めてを台無しにされたと思って、ルーデウスにひどい嘘をついて。
ルーデウスが、あの後娼婦とキスをしているのを見て、最低な奴だと思って。
でも、それは、全部私の勘違いだった。
あの後……娼婦の、エリーゼさんに全てを聞いて。
ルーデウスが、私の為に、自分の病気をなんとかしようとしてたのを知って。
そんなルーデウスを、私は拒絶してしまった。
こんな私を、ルーデウスは拒絶してしまった。
悲しかった。
辛かった。
一晩中泣いた。
そして、私の初恋は終わったのだと気付いた。
それからは、ただルーデウスに謝りたかった。
ルーデウスだって傷ついていたのに、私だけが被害者だと勘違いして、怒って、喚いたことを。
今でも、その気持は変わらない。
スザンヌ達と別れて、こうして冒険者を続けていても、その気持は変わらない。
ルーデウス……
もし、またルーデウスに会って、それで、心から謝って。
許してもらえたら、また……
私達、また、やり直せるのかな?
北方大地
ネリス王国第三都市ドウム郊外
「ふぅ。これで、採集完了っと」
透明度の高い泉の辺りで、A級冒険者、弓使いのサラは、依頼品である薬草を採取していた。
かつて所属していた冒険者パーティ“カウンターアロー”は、リーダーのティモシーと副リーダーのスザンヌが結婚したことで解散し、今はあちこちの冒険者パーティに参加しながらソロで活動していた。
だが、都合良く既存のパーティに臨時参加する機会はそうあるものではなく、こうしてランクフリーの低難度な採集依頼をソロで請け負うことも多々あった。
小遣い稼ぎの、簡単な依頼。低級冒険者御用達の依頼であったが、サラは選り好みをせず淡々と依頼をこなす日々を過ごしていた。
「はあー……」
深く、長い溜息を吐く。
あれから、二年の歳月が経っていた。
カウンターアローを解散する前。ルーデウス・グレイラットと共に冒険した日々から、二年。
ルーデウスとひどい別れ方をした乙女は、この二年間、時折狂おしい程のもどかしい思いを感じ、鬱々とした日を過ごすことがあった。
ルーデウスと、一線を越えようとしたあの日。
ルーデウスが不能だった事を、乙女は気付く事が出来なかった。
それが原因で、好きだったルーデウスとひどい別れ方をしてしまったのを、乙女はずっと後悔していた。
「流石に引きずりすぎかなぁ……」
サラは鬱屈した空気を纏わせながら、透明度のある泉をまんじりと眺める。
既に採集ノルマは達成しており、あとはギルドに採集品を納品するだけ。
だが、美しい泉を見ている内に、もう少しこの自然を見ていたい気持ちが沸き上っていた。
「きれいな泉……」
泉の縁で、しゃがみ込んで水の中を見る。
滋養のあるこの水源では様々な生物の活気が見て取れ、サラはしばしその生命の輝きをぼんやりと見ていた。
こうして、何も考えずに自然を見ているのが、ルーデウスを忘れられるひと時であるのをサラは自覚していた。
時刻は昼過ぎ。生命の輝きが、もっとも輝いて見える時間帯であった。
「いい加減、前向きにならなきゃだめだよね」
そう独り言を呟くサラ。
最近、とあるパーティと共に依頼をこなし、その功績を認められてA級に昇格したサラ。そのパーティ“アマゾネスエース”から熱心な勧誘を受けるようになったサラは、これを機に再び固定のパーティに参加しようかなと、ぼんやりと思考する。
アマゾネスエースは女だけのパーティで、もう二度と、あのような辛い思いを感じる事がないだろうと思ったのも、参加に前向きな理由のひとつでもあった。
スザンヌ、ティモシー、パトリス、ミミル……そして、ルーデウス。
かつての仲間達のような関係は、もう二度と築く事は出来ないだろう。
そう、自嘲しながらの考えでもあった。
「よし。帰ったらティーナとメラニィに話を……」
立ち上がり、採集品が入ったずた袋を担ぎ直したその時。
美しい自然が広がるサラの視界に、不自然な光景が現れた。
「……?」
サラが泉に目を向けると、こぽこぽと水面に奇妙な水泡が沸き立っていた。
サラは不自然なその現象に訝しみつつ、目を凝らしてそれを見つめる。
(魔物……? でも、この辺に水棲の魔物なんていないはずだし……)
自然と警戒態勢に入る。
A級冒険者と成ったサラは、どんな些細な違和感も見逃さない。たとえ絶対に安全と思われる場所でも、簡単に命を落とすのがこの北方大地の常である。
背負っていた弓を構え、いつでも射てるべく弓弦に矢を当てた。
静かに水泡へと狙いを定め、その弦を引き絞る。
そして、水柱と共に水中から一人の若者が現れた。
「うっひゃあ!?」
突然、真紅の総髪を濡らした全裸の美丈婦が激しい水音を立てて現れる。
あまりにも突然の出来事に、サラは思わず警戒態勢を解き尻もちをついた。
「ああ、よく寝た……」
そんなサラに構うことなく、紅髪の若者は濡れた髪を掻き上げて気持ち良さそうに身体を伸ばす。
その美しい乳房を惜しみなく晒し、水滴がその美肌をつたう。
正しく泉の水虎、もとい精霊の如き美麗かつ壮麗なその姿に、サラは驚愕と共に目を奪われた。
「え、女の人……」
サラは突如現出した若者の過剰にして無謬、猥褻にして純潔な姿にしばし見惚れる。
「はぅ!?」
が、直ぐにその下腹部にある雄渾なる逸物に気付く。
その剛槍は大自然の精気を存分に吸ったのか、天を貫かんばかりに屹立していた。
つまるところ、寝起きの朝勃ちである。
「ななななななんで? その、お、おっぱいあるのに、その、アレ、お、おち、おちん……!」
若者の真紅の総髪のように顔を真っ赤に染め、震えた声で若者を指差すサラ。指の先には、筋肉質ではあるが均整の取れた美麗な肉体に相応しからぬ剛槍が屹立していた。
サラの18年の人生で半陰陽の者はこれまで目にした事が無く。またルーデウスの機能欠落したアレとは違い、このような凶悪な逸物を目にするのも初めての事であった。
いや、そもそもこの人はずっと水の中にいたの? いつから? 息続くの? 私結構前からここにいたよね? などの当たり前の疑問が全て吹き飛ぶ程の衝撃。サラの脳内は混乱の極致にあった。
「拙者、雄にあらず」
自身の濡れた乳房を蠱惑的に撫で回し、紅髪の若者はゆっくりとサラへ近付く。
慄くサラはショックで腰が抜けたのか微動だに出来ず。
「まして牝にあらず」
バチイイン! と、灼熱の熱棒がサラの頬を叩く。
サラは自身の頬に伝わる艶めかしく熱い温度を感じ硬直状態になるも、数瞬してから若者の肉棒が自身の頬に押し付けられたのに気付いた。
「ギャアアッ!?」
「うふふふふ」
乙女らしからぬ汚い悲鳴を上げたサラの悲惨な反応を、愉悦に満ちた表情で見やる紅髪の若者。
乙女のあんまりな反応に満足したのか、満を持して名乗りを上げた。
「我が名は
現人鬼波裸羅が発するその苛烈な威勢に、弓兵の乙女は完全に腰が抜けてしまっていた。
「小娘、冒険者か?」
「ひぃ!?」
相も変わらず乙女の顔面にゴリゴリと熱棒を押し当てる現人鬼。
涙目となったサラは抵抗する気力がごっそりと抜け落ち、ただ震えて現人鬼の美声を聞くだけであった。
「男女あらば情欲あり。男女交合の愉悦は真理からの賜物なり」
慄くサラを増々愉悦に満ちた表情で見やる現人鬼。
その雄渾なる剛槍も、増々硬くイキり立っていった。
「冒険者ならばこのイキった刃、鞘に入れて鎮める“冒険”でもしてみせろ」
そんな冒険なんてしたくない。
そう抗議をあげようとしたサラであったが、現人鬼の剛直が発する熱気の所為でまともに口を動かす事が出来なかった。
ああ、私の初めて、こんなトンデモない状況で失われるんだ。
ごめんなさいルーデウス。なんだかしらんけどわたしが全面的にわるかったです。
そんな虚無感に満ちた謝罪を、この場にいないルーデウスに向けるサラの心情は、見るもの全てが胸を打つ凄惨な情景ではあったが、現人鬼はそんなのお構いなしで乙女に肉薄する。
サラが全てを観念して、目を瞑ったその瞬間──
「ふんッ!」
「ウゲェッ!!」
肉を貫く音と、何者かの悲鳴が聞こえ、サラの顔面に鮮血が飛び散った。
「え……」
目を開けると、陽炎のような半透明の人型を、その手刀で刺し貫く現人鬼の姿があった。
「ガハッ……! ど、どうやって見破った……!」
血を吐きながら徐々に実体化する人型。
黒装束に身を包み、面布で顔を隠した魔族の男が現出していた。
男は手首に“身体を不可視化”する魔道具を装着しており、隠形による不意打ちを仕掛けるべく現人鬼の背後に忍び寄っていた。
しかし、その企みはあっさりと現人鬼の手刀により打ち砕かれていた。
「そ、そうか、
「勘。」
「勘て」と呟きながら、襲撃者は絶命した。
「現人鬼!」
「主命により
隠形の襲撃者が絶命すると同時に、周囲から次々と新手の刺客が出現する。全員覆面で顔を隠していたが、牛頭、馬頭、豚頭……人族ならざる異形異類の特徴が良く現れた集団が、瞬く間に現人鬼を囲んだ。その数は三十は超える。
「囲め!」
「逃さんど!」
剣や斧、魔杖など様々な得物を構え、己に突きつける刺客の集団に囲まれても尚、現人鬼は不敵な笑みを崩さなかった。
「うふふふ……貴様ら、バグラーの手の者か? それともケブラーか? 心当たりが多すぎて分からぬわ」
分からぬと言いつつ、刺客の正体に大凡の当たりを付けた現人鬼はゆっくりと己の乳房を弄ぶ。
己の命を狙う刺客を前にしてもこの扇情的な態度を崩さない現人鬼に、刺客達は面布の下で憎々しげに表情を歪めていた。
「大名ばりの波裸羅の路銀供出に苦しくなったか。ケチな主君を抱えて難儀な事よ喃」
煽る現人鬼に業を煮やした刺客達は、口々に現人鬼へ罵声を浴びせ襲い掛かった。
「ええい! 問答無用!」
「お命頂戴!」
「ていうか一日金鉱銭200枚とか普通に財政破綻するわ!」
「加減しろ莫迦!」
最前線にいた刺客十数名が一斉に現人鬼へと襲いかかる。
華麗に跳躍し、刺客の凶刃を躱した現人鬼は即座に反撃の一撃を見舞った。
「ヴェッ!?」
足刀が刺客を頭から真っ二つに断ち割る。
刹那の瞬間、現人鬼は独楽の様に己の身体を回し、その足刀で次々と刺客を裁断し始めた。
刺客が放つ必殺の剣撃を美麗に躱し、刺客が持つ剣ごとその足刀で胴を断つ。
現人鬼を滅するべく魔術を詠唱中の刺客に、一瞬で間合いを詰めその足刀で首を断つ。
これぞ現人鬼の絶技、旋風美脚“
熟した瓜の如く人体を苛む脚技に、刺客の五体はたちまち断裂せしめる。
美麗に回転しながら人体を細切れにする様は、一種の倒錯的な美しさがあった。
「あ、ありえない……!」
現人鬼が舞う度に、返り血がサラにも降りかかる。サラの目からみても刺客達の実力は相応に高いものであり、少なくとも剣術、そして魔術で聖級以上の実力を持つ者が何人かいた。
だが、それらを難なく殺害しうる現人鬼の絶大な戦闘力。
血海に沈む実力者達の無残な姿を見て、サラは恐怖と驚愕に苛まれるも、その残酷美麗な光景を見ていく内にある種の憧憬的な感情が沸き上がっていた。
(凄い……!)
圧倒的な強さ、そしてその美しさに、弓兵の乙女はしばしその惨劇に魅入っていた。
「ゴッツァン!」
興が乗った現人鬼が、自身の肉棒で襲撃者の頭部を一刀両断せしめた光景には流石にドン引きしたが。
「嘘でしょ」
この時、サラは悟った。
現人鬼波裸羅。この
また、自分が知らなかっただけで男性器とはこのような凶器に成り得る事があり、ルーデウスは本当の意味で自身の身体を気遣ってあえて不能の振りをしていたのでは? と、見当違いな方向に思い至ったのは、混乱の極みに達した乙女であるからして、サラは普段はこのような残念な思考を持っていないことをここに記しておく。
「イチモツでゴッツァンしやがった!」
「聞いてねーぜ
困惑するのは乙女だけでなく刺客達も同様。
刺客の中には魔族では無く人族の刺客も紛れており、これらは現人鬼討伐の為、魔族達が現地で雇った暗殺者であった。
だが、雇われた暗殺者達はここまで非常識な強さを持つ標的だとは聞かされておらず、その戦意をみるみる萎えさせていった。
「ぬぅ! 退け! 退け! 出直しじゃ!」
形勢不利と見た刺客達の長が撤退の号令をかける。
三十以上いた刺客の数は、既に十を割っていた。
「こげなくそ! おいは退かんぞ!」
「現人鬼のタマ取るまで死ぬまでゴッツァンするぜよ!」
「おいはここで鬼に喰われうー!」
「ええい! いいから退くぞ!」
尚も戦意旺盛な一部の魔族達を宥め、散開した刺客達は苛まれた同胞の遺体を担ぎ、現れた時と同様に瞬く間に姿を消した。もっとも、細切れにされた遺体も多かった為、大部分の
後に残されたのは、返り血を存分に浴びた現人鬼と弓兵の乙女、そして刺客達の血と残骸で無残な状態に変わり果てた大自然の姿だけであった。
「ふん、
美しく括れた腰に手をあて、仁王立ちしながら遁走する刺客を眺める現人鬼。
返り血にまみれても尚、その美麗な立ち姿は一種の美術品の如き気品を漂わせていた。
ショッキングな光景を見せられ続けた弓兵の乙女は、魂が抜け落ちたかのように呆然とその美姿を見つめている。
ちなみに戦闘中も現人鬼の剛直は立派に屹立し続けており、今も圧倒的な存在感を放っていた。
「さて、小娘。ぼちぼち波裸羅の情けをくれて──」
そう言いかけた現人鬼は、ある方向を見つめるとピタリとその動きを止めた。
「……ふむ。中々に強烈な“龍気”が立ち込めておる。カントめが言ってたのは、あれのことか……」
顎に手を当て、何やらぶつぶつと独り言を呟く現人鬼。
現人鬼の視線の先には、魔法都市シャリーアが存在していた。
「うっふっふっふ。凶剣がイキる時が来たようじゃ……!」
現人鬼は舌舐めずりをした後、サラへと顔を向けた。
「小娘。波裸羅は急用が出来た。
サラへ残虐な笑みをひとつ向け、血にまみれたまま現人鬼は踵を返す。
尚も呆然とするサラに構わず、現人鬼は自身の美尻を豪快に叩いた。
「あば!」
バチイイイイインッ! と快音を響かせ、現人鬼は跳躍し忽然とサラの前から消え去った。全裸で。
「……」
一人残され、地べたにへたりこんだサラが再起動するのは、もうしばらく後のことであり。
美しかった自然の営みは、現人鬼と刺客達の戦闘により地獄の光景へと変わり果てており。
透明度がある美しい泉は、刺客達の血液により血の池と化し。
大自然の活力を感じさせた瑞々しい木々は、刺客達の四肢や
柔らかで太陽の香りを感じさせた草々には、刺客達の指や臓物などが散らばり、臓物から発せられる悪臭が漂っていた。
そして、失恋の哀しみにいじらしく悶える乙女の可憐な姿は、血泥に塗れた無残な姿へと変わり果てていた。
サラが虚ろな瞳で冒険者ギルドに帰還し、全身血まみれのその姿にギルド内が騒然としたのは、また別のお話。
魔法都市シャリーア
ルーデウス・グレイラット邸
ラノア魔法大学にて双子の獣人剣士の襲撃を受けたウィリアムは、難なく双子を蹴散らし、目当ての転移魔法陣の在処をナナホシから教示されると足早にルーデウス邸へと戻っていた。
「あ、ウィル兄! おかえりなさい!」
アイシャが喜々とした表情を浮かべウィリアムを出迎える。直ぐに大好きな兄に飛びつこうとするも、手に包丁と馬鈴薯を持ったままなのに気付いたアイシャは慌てて台所へと踵を返した。
「飯を、作っておるのか」
そんな慌てたアイシャに目を細めつつ、ウィリアムは優しげに声をかける。
不自然な程柔らかいその声色に、アイシャは一瞬だけ違和感を覚えるも、直ぐに明るい笑顔を返した。
「うん! 今日は、お芋さんが安かったから!」
快活な笑顔を次兄へと向けるアイシャ。その陽だまりのような暖かさに、ウィリアムは僅かに表情を崩していた。
ウィリアムは台所へと足を向けると、そのまま籠に積まれた馬鈴薯の前へと立つ。
「ウィル兄……?」
台所へと入ったウィリアムを不思議そうに見つめるアイシャ。
ウィル兄は何をしようとしているのかな? もしかしてつまみ食いでもしに来たのかな? と、ほのぼのとその様子を見つめる。
ウィリアムが包丁と馬鈴薯を手に取った時は、慌ててその横に駆け寄ったが。
「あ、いいよウィル兄! お料理はあたしが──」
そう言った刹那。
風を切るような音と共に、一瞬にして皮が剥けた馬鈴薯がウィリアムの手の中にあった。
「わっ! すごい!」
感嘆の声を上げるアイシャに構わず、次々と馬鈴薯の皮を剥くウィリアム。
精密機械の如き正確さで包丁を操り、飛燕の如き疾さで馬鈴薯の皮を剥く。その姿は、料理に慣れたアイシャの目からしてもまさに“料理の鉄人”といった風格を漂わせていた。
アイシャは綺麗に繋がった馬鈴薯の皮を手に取り、「おぉ……」と目を輝かせそれを見る。
僅かの間に、籠に積まれた馬鈴薯は全て皮が剥かれていた。
「次は」
ウィリアムは興奮気味のアイシャに優しく語りかける。
妹の料理を手伝う次兄の優しさに、アイシャは今日一番の笑顔を浮かべていた。
「えへへ! じゃあ、次はー……」
望外なところで兄に甘えることができた少女は、そのまま最後まで料理を手伝ってもらい、ホクホク顔で夕餉の支度を整えていった。
大量の芋料理を持て余すシルフィエットの苦笑と共に、グレイラット家では家族の暖かい団欒が営まれていった。
深夜。
グレイラット邸にて穏やかな一時を過ごしたウィリアムは、
家人が完全に寝静まってからの支度であったが、元々大した荷物を持たないウィリアムの旅支度にはなんら支障もなく。
「……」
ウィリアムはそっとアイシャの部屋のドアを開ける。
少女を起こさないよう、静かにそのベッドの前へと歩み寄った。
「うーん……」
むにゃむにゃと寝返りを打つアイシャ。
その様子を穏やかな表情で見つめるウィリアムは、この天真爛漫な少女が健やかに成長しているのを改めて感じていた。
「アイシャ……」
そっと、その朱髪に触れようと手を伸ばすウィリアム。
「……」
だが、寸前でウィリアムはその手を引いた。
血塗れた己の手で、少女の無垢な寝姿を汚さまいとする兄の心情。それでも、その成長をその手で感じ取りたい兄の心情。
二つの心が、ウィリアムの中で狂おしい程の葛藤を見せていた。
「ん……」
眠るアイシャが身じろぎする。
切なそうに表情を歪めるアイシャの寝顔は、虎の心を更にかき乱した。
「おかあ……さん……」
だが、アイシャがふと発した寝言に、ウィリアムは心の葛藤が鎮静していくのを感じた。
「……」
一筋の涙が、アイシャの頬をつたう。
ウィリアムはその涙をそっと指で拭い、丁寧な手付きで少女に毛布をかけ直した。
「……待っておれ」
小さく、しかしはっきりとした口調で、虎は少女へと声をかける。
母、リーリャを想い涙を流すアイシャは、年相応に母の情を求める幼い少女でしかなく。毎晩、こうして母を、そして家族を想い、涙を流していたのだろうか。
今生の虎は、その姿を不憫と思わない程、薄情ではなかった。
ウィリアムは入ってきた時と同様に、静かにアイシャの部屋から退出する。
そのまま、廊下に置かれていた自身の荷物を担ぐと、玄関へと足を運んだ。
「ウィル君」
忍ぶように家から出ようとしたウィリアムに、寝間着姿のシルフィエットが声をかけた。
どこかで、泥沼の嫁は義弟の不自然な態度に違和感を感じていたのだろう。ウィリアムがそれとなく自身の荷物を気にしていたのを、目敏く察知していたシルフィエットは、予想通り黙って家を出るウィリアムを悲しげな瞳で見つめる。
「ルディのとこに行くの?」
「……」
義姉の問いかけに、沈黙を返すウィリアム。
暗に肯定を示す義弟の不器用なその姿を、心優しいクオーターエルフの乙女は溜息を一つ吐いて諦めの表情を浮かべた。
「何言っても行くのは止めないのだろうけど、ひとつだけ言わせて」
シルフィエットはウィリアムの前に立ち、その右手を優しく包んだ。
「絶対、必ず、この家に帰ってきて。そのままいなくなったら、絶対にだめだからね。ノルンちゃんや、アイシャちゃんに、悲しい思いをさせないで」
瞳を潤ませながら、両手でウィリアムの右手を包むシルフィエット。
真っ直ぐで、純粋に己を想う義姉の気持ちに、虎は少しだけ表情を歪ませた。
「……」
「あ……」
ウィリアムはシルフィエットの手を尊い物を扱うように退ける。シルフィエットは、それが虎の“拒否”だと感じ、増々悲しげな表情を浮かべた。
ウィリアムはそのまま玄関の扉を開けると、振り返る事なく歩を進める。
辺りは夜の帳が下りており、グレイラット家の玄関先は悲哀を感じさせる程の静寂に包まれていた。
「ウィル君……」
シルフィエットは悲しげに義弟の後ろ姿を見つめる。本来ならば、ルーデウスの、愛する夫の助太刀に向かう頼もしき義弟の旅立ち。
だが、永遠の別れを思わせるウィリアムの立ち振舞に、シルフィエットはどうしようもなく不安な思いに囚われる。
せっかく会えた、義弟。
せっかく会えた、家族。
それなのに、再び離散してしまうかもしれない。
どうしようもない哀しみが、クオーターエルフの乙女を苛んでいた。
「……
「ッ!」
ウィリアムが立ち止まる。
ゆっくりと、その顔をシルフィエットへと向けた。
「どこにも、行き申さぬ」
「ウィル君……!」
そう言うと、ウィリアムは再び歩み始める。
その背中は、様々な宿業を背負った剣士の悲哀、そして不器用な優しさが滲んていた。
シルフィエットは泣き出しそうな、それでいて嬉しそうな笑顔を浮かべながら、ウィリアムの後ろ姿が見えなくなるまで見つめていた。
やがて虎の姿が完全に見えなくなると、シルフィエットは静かに玄関の扉を閉める。
哀しくも、優しい義弟の言葉を、シルフィエットは静かに反芻していた。
「……おねえちゃんって、呼んで欲しかったな」
寂しげに呟くシルフィエットの言葉が、静まり返ったグレイラット邸に響いていた。
ウィリアムがグレイラット邸から出立してしばらくして。
徐々に白み始めた空のもと、魔法都市シャリーアの外門をくぐった虎は、ラノア大学にて蹴散らした双子の姿を目撃した。
双剣ナックルガード。
兄ナクルの片目は虎に潰されたままで、巻かれた包帯は痛々しい様を見せている。弟ガドの片腕も包帯で吊られており、その布下では虎の爪痕が生々しく残っていた。
「お主らは……」
意趣返しか、と僅かに怒気を滲ませるウィリアム。武芸者同士の尋常な仕合にて遺恨を残すとは、北神流の剣士とは呆れ果てた輩。虎は、殺気と共に腰に差した七丁念仏の柄に手をかけた。
だが、双子の兎はウィリアムの姿を見留めると、即座に膝を突き頭を垂れる。
神妙な顔付きの双子の兎は、その胸中を虎へ明かした。
「アダムス殿……いや、若先生」
「どうか我らを弟子に」
「見込みがなければ」
「この場にてお手討ちを」
平伏する双子の兎を、冷めた目で見つめる虎。どれだけ言葉で飾ろうと、双子の魂胆は己の虎眼流を盗むつもりなのだ。そう断じだ虎は、望み通りその肉体を妖剣の餌食にせんべく、ズズッと七丁念仏を引き抜く。そのまま、頭を垂れる双子へ剣先を突きつけた。
「……」
だが、七丁念仏の刀身が怪しく煌めくと、ウィリアムの脳裏に前世での忠弟達の姿が浮かんだ。
己の為に、虎眼流の為にその若い生命を燃やした虎子達。その儚く、瑞々しいまでの生命の輝きが、虎の脳裏に浮かんでいた。
しばしの間、虎と兎の間で沈黙が漂う。
尚も頭を下げ続ける兎達に、虎は深い溜息をひとつ吐いた。
「……ッ!」
そして、神速の斬撃が双子の頭上に放たれる。
音を、そして光を置き去りにするその斬撃の余波で、双子は思わず顔を上げた。
「え……」
「なんだ……」
ひらりと、一本の“毛”が双子の手のひらに落ちる。
双子は、それが自身らの兎耳に生える“毛”であることを視認し、訝しげにそれを見つめた。
「「ッ!」」
見つめていると、兎の毛が
超極細の獣毛を、刀剣にて
それはまさしく、前世にて行われた虎眼流入門儀式を遥かに超える、神技への扉。
異界虎眼流入門の儀“紡ぎ綿毛”
後にそう呼ばれる事となる
「お美事!」
「お美事にござりまする!」
双子の心からの賞賛を受けるウィリアム。そのまま歩みながら、双子へと声をかけた。
「ついてまいれ」
「ッ! は、はい!」
「どこまでもついていきまする!」
白んでいた空に、僅かに朝日の光が覗く。
力強く歩む異界虎眼流の剣士達を、その儚い光で照らしていた。
かくして、虎と双子の兎は砂漠の大地、ベガリット大陸へと赴く事となる。
若き虎の、父と、母。そして、兄を助ける為に。
その道中に、様々な困難が待ち受けるとは知らずに。
確りとした足取りの武芸者達は、その困難に打ち勝つ事が、果たして出来るのだろうか。
転移魔法陣の前で、鬼と、龍が待ち受けているのを、虎は気づくことはなかった。