以前から家に帰ると視線を感じる。誰かに見られている。視線の正体を突き止めることもできずに時は流れ、今日も仕事を終えては居心地の悪い家に帰る。
他に見る物もないのでテレビを点けると、芸能人が怪談や都市伝説を語る番組が映った。するとそこで話される内容が、なにやら自分の境遇に似ているではないか。テレビを見るうち、いつもより強い視線を感じるようになっていく……。

1 / 1
縛られる視線

 ほとんどの人がそうだと思うけど、僕には霊感がまったくない。人並みに霊が見えず、霊能力や超能力も使えず、といった至って普通な生活を生まれてこの方二十数年続けている。

 時に、彼女いない歴がそのまま年齢となる男性は、世の男性の何割を占めているのだろうか。僕はその答えを知らず、おそらくほとんどの人が知らない。しかし僕は、幽霊を見たことない歴がそのまま年齢となる人が、世界中の人間の何割を占めるかは知っている。きっとほとんどの人も知っているだろう。

 九割九分九厘。ほぼ十割の人が幽霊など見たことがなく、また信じてもいない。他の人も同じく見たことがないと信じている。圧倒的多数派に属しているのだから、そのような考え方をしても何らおかしなことはない。九割を越えた割合は、それが人権を犯すような問題にならない限りは、十割と同義である。

 ……と、そのように考えていた僕は、自分が多数派であることを確信していた。そこそこ長く生きているが霊の類は見たことがなく、他の人もそうだろうと思っていた。幽霊なんて存在しないと思うけれど、もしかしたらパーセンテージで表すと小数点以下の割合で、見える人がいるのかもしれないね。……そう思っていた。

 思って「いた」のだ。過去形である。今は、自分の考えを百パーセント信用することができなくなってきている。

「ただいまー」

 仕事を終え家に帰ったら、誰もいないとわかっていながら声をかけるようにしている。両親共働きの家庭で子どもが取る防犯的な意味ではない。

 僕は最近、自宅に居る時視線を感じるのだ。幽霊なんて信じていないつもりだったのに、情けないことに真っ先に浮かんだ視線の正体候補は幽霊だった。実はこのアパートは事故物件だったのでは、なんて考えたりもした。

 が、冷静に考えて、家賃的に考えて、このアパートが事故物件であるはずがない。仮に家賃があからさまに安かったとしても、それならそれで家を借りる前に不動産屋から、事故があった旨伝えられるはずである。それが不動産屋の義務なのだから。

 何も言われていないのだから、不動産屋がよほどの極悪であった場合を除いて、今住んでいるアパートが事故物件だという線はあり得ない。……そうは考えても視線の感覚は消えず、僕は新たに次の説を考えついた。初めからそっちの方向性で考えるべきだった、と今では思っている。

 つまり、やはり幽霊など存在せず、視線の正体は人間である……と。なぜだか知らないが、僕はストーカーに監視されている。そう考えた。

 そうなってくると幽霊の存在を疑っていた期間が致命的だ。相手がストーカーとなると僕は、次の瞬間にでも視線の正体に殺されかねないのだから。なぜ殺されるのかも、なぜ監視されていたのかも、死ぬ間際に知ることになってしまう。もしくは最悪何も知らないままになる。

 かといって、「視線を感じるんです。絶対ストーカーがいます助けてください」と警察に言ったところで、かの国家権力は僕のためには動いてくれないだろう。権力は抑止力として社会を守っているのであって、僕を守る無償のボディガードではないのだ。

 だから、ただいまと声をかけるのだ。僕はお前の存在に気づいているぞと視線の正体に伝えるために。背中から刺されれば成す術ないが、正面からの対峙ならもしかしたら助かるかもしれない。返事の返らない一見するとむなしい声かけには、そんな淡い希望が込められているのだ。

 

 ただいまと言う以外には、僕は家でほとんど喋らない。一人暮らしの、ついでに友達もいない人は大体そんなものだろう。

 もちろん、疲れたの意味で「あぁー……」とか「はぁ……」とか、言葉と呼べるか怪しい声を出すことはある。けれどもテレビに向かって話しかけたりだとか、そういうことは一切しない。

「これ、俺が大学生だった時に友達から聞いた話なんですけど」

 他に見る物もないのでテレビを点けると、怖い話や都市伝説を芸能人が語るという内容の番組が映った。

 ……僕には霊感がない。まったくない。幽霊なんて信じていない。けれど、それなのに、僕は本当に幽霊を見たことがある人なんて百パーセントいない……とは言いきれないのだ。九割九分九厘の人は見たことがないだろうとは声を大にして言えても、十割の人が、全人類が幽霊を見たことなどないだろうとは、言えないのだ。

 それはなにも、証明されていないことは口にしないなんていう科学者的な信念ではない。そんな信念があるのなら、初めから何割だなんて話はしていない。僕はただ、なぜだか漠然と断言できないだけなのだ。

「当時その友達がですね、なーんか視線を感じるって言うんですよ。彼一人暮らしなんですけどね」

 寒気がした。芸能人の話すことが僕の境遇に似ているから、ではない。視線を感じたのだ。

 幽霊なんて絶対に、一つの例外もなく存在しないよ。そう主張することがなんとなく出来ないのは、その理由は、僕が知らず知らずのうちに自覚しているからではないのか。自分が例外側の、小数点以下ほどの確率に属する人間であることを、自覚しているからではないのか。今まで見えなかったからといって、これからも見えないとは限らないのではないか。

 テレビの話題のせいか、ストーカーへの恐怖心が幽霊に対する恐怖心にまで飛び火した。幽霊への恐怖心なんてものが残っていたことにも驚いたが、そんなことよりも、寒気の正体は背後にあった。

「しかも何やら、自分が出かけている間に、家に置いてある物が若干動いている気がする、なんて言いだすんですよ。それで結局彼、カメラを仕掛けることにしたんです」

 背後から視線を感じる。今までよりも強く見られている。見られている「気がする」なんてものではない、明らかに強烈な視線。背筋が徐々に凍るように冷えていき、嫌な汗が流れる。

 しかし、その視線は、どうも僕だけを見ているわけではないようだった。では他にどこを見ているのかといえば、そんなことまでわかるほど僕は優秀ではないのだけれど。

「観葉植物にビデオカメラを隠して、録画モードにしたまま彼は家を出ました。もし泥棒なりストーカーなりが映り込んだら警察に行こう。……って、カメラ仕掛けて出てきたその日に俺に言ってきたんですよ? こっちの方が怖くなりますわ」

 我が家には観葉植物がない。なにより、視線は感じても、知らぬ間に物が動いたことはない。姿の見えない何者かに見られ続ける生活に僕だって神経質になってきているし、単純に動いている物を見落としているだとか、気づいていないだけなんてことはあり得ない。

 いつの間にか聞き入ってしまっていたテレビ番組の怪談も、完全に僕の境遇と一致しているわけではないようだ。そうなると途端にフィクションが語られているように見えてきた。元よりフィクションを語っていると、語り手は自覚しているのかもしれないが。

「肝心の録画結果は、俺はあとから見せてもらったんですけど、いざ映像を見てみると、彼が家を出た瞬間に別の部屋から知らない女が出てきたんですよ」

 スタジオに、用意された物っぽい悲鳴が響く。キャーなんて甲高いものではない、引いたようなニュアンスの悲鳴だ。

 その悲鳴で一気に作り物感が高まってきてしまって、みるみるうちに興味が失われていった。背後の視線のことさえ一瞬忘れるぐらいに、失望感のようなものを覚えたのだ。

 チャンネルを変えようかと思ったが、まさか今のがオチでもないだろうし、せっかくなのでこの話のオチだけ聞くことにする。

「その女しばらく普通に、自分の家に居るかのように生活して、日が沈んでくるまでずっとカメラに映る範囲にいるんですよ。それで、ある時押入れに頭からつま先まで潜りこんで、そのまま戸も閉めて完全に映像から消えた。それからすぐに鍵が開く音がして、帰ってきた彼がカメラの録画スイッチを切るところが映って、終わり。……これみなさんどういうことかわかりますか」

 再び背中に視線を感じた。いや、視線なんて生易しい物じゃない。肉食獣の放つ眼光のような物に刺され、僕の体は捕食される側らしく固まってしまった。蛇に睨まれた蛙、という言葉を思いだした。

「彼が家に帰った時、同じ部屋の押入れにはまだ女が……」

 テレビ画面の中、スタジオで再び悲鳴が上がる。今度のそれは出演していた女性アイドルの上げた甲高い声だった。僕に送られる視線が、一体どこから送られているのか。今僕は全てを理解した気がする。

 僕の目の前にはテレビがある。そして背後には……押入れがある。

 振り返らなければならない。押入れからの視線は僕の背中ともう一つ、テレビ画面も見ていたはずだ。番組の内容が視線の正体を刺激してしまったかもしれない。正面から向かえば安全とは言えないが、このまま背を向けていればなおのこと危ない。視線の正体は今にも飛びかかってくるかもしれない……!

 正直恐ろしい。まだ幽霊に実在しておいてもらった方がマシだ。一番怖いのは人間だったなんて月並みな教訓を、命をかけて得るだなんて割りに合わなさ過ぎる。そんな何の役にも立たない教訓を土産に冥土へ行くなんて御免だ。

 僕は振り返る。視界に刃物を持った女が映し出されたとしても、奇跡的に体が最善の動きをすることを願って。

 ……そして、振り返った僕が見たものは女ではなかった。男でもなければ幽霊でもない。ただ少しだけ戸の開いた、別の世界へと通じていそうな押入れだけが見えた。開いた戸の隙間がどこか別の世界へ繋がっていそうだと思ったのは、あまりの緊張に僕がマトモではなくなってきていたからだろう。

「…………」

 テレビは明るいCMソングを垂れ流している。それが僕に勇気を与えた、もしくは危機感を失わせた。細く開いた戸の先にある、部屋の明かりも入らない暗闇の中を覗いてみようだなんて、マトモに考えれば実行すべきことではないのに。

 細く開いた闇を、一筋の黒を、その中に潜む何かの正体を確認したくて覗いてしまった。あの視線は間違いなく気のせいなどではなかったのだから、何者かが中にいることは確実なのだ。

 ……目が見えた。

「っ!?」

 思わず飛びのきそうになる。が、その目が「目」としては普通であったために、最終的には思い留まった。その場で静止する僕に結果として、その目が危害を加えてくることはなかった。

 害がないと分かれば落ち着ける。僕はその目をよく観察することにした。

 特別大きいわけでもなく、おびただしい数があるわけでもなく、血走ってもいなければ、こちらに恐怖を与えるようにギョロギョロと動き回るわけでもない。ただ普通の人間の目。戸の向こうに潜んでいる誰かの目。

 もちろんそれだけで恐れるには十分な理由になるのだが、しかし僕は戸の向こうに未知の恐怖を予見しすぎていて、普通の人間の目だと確認できた時にはむしろ安心してしまっていた。

 戸の向こう側に誰かがいる。それはわかっている。しかし僕は実際に安心しきっている。観察していた目がこちらを向いて、それと見つめ合うような状態になってもまったく恐怖は感じないのだ。

 我ながらマトモではない。そう感じていた時、何の前触れもなく戸の隙間から腕が出た。

「え?」

 戸の隙間は狭く、押入れの中にいる人間が外へ腕を伸ばすことなどまず不可能だ。が、事実として暗闇の中から一本の腕が伸び出てきた。

 何が起こったのかと戸の隙間に目をやると、そこから出ている物は紙のように薄っぺらく白に近い肌色をした「何か」だった。それが狭い隙間から外へ出て僕に近づいてくるにつれ、厚みというか太さを得て腕となっている。

 常識を超えた、腕のように見える存在。ジリジリと次第に近づいてくるそれを見て僕は、女性の腕だ、と思った。溶けてしまいそうな白さと、不安になるほどの細さ。爪の先まで美しいその腕に、僕は確かに見覚えがあった。

 それが誰の腕なのかを思いだしたと同時に、いかにも非力そうなその腕は、ついに僕の肩を掴んだ。途端、磁力で引かれるような抗い難い力で押入れの方へ吸い寄せられる。肩が戸の向こうへ、彼女の潜む方へ引きこまれる。

 腕一本も通せぬように見えた戸の隙間が、僕の体よりも遥かに大きい門のような大きさにまで広がっていく。開け放たれた真っ暗な門の中へ引かれながら、きっと戸の隙間には何の変化も起こっていないのだ、と思った。

 暗闇へ引かれる僕の体は、紙のように薄っぺらくなっているに違いない。

 

 すぐに現れた闇をかき消す光は、暗い門を通ってきた僕の目には眩しすぎた。寝ぼけ眼を擦りながら部屋の明かりを点けた時のような眩しさは、そんな日常と何ら変わらぬ形でもたらされていた。

 僕の部屋だ。今僕は、天井に取りつけられたライトが辺りを照らす、自分の部屋にいる。

「こんばんは」

 僕しか使ったことのない小さなテーブルを挟んだ先に、見知った顔の女性が座っていた。

「久しぶりですね、マコトさん」

 マコトさんと、名前にさん付けで僕を呼ぶ人なんて彼女以外にいない。

「そうだね、ユキ。……もう会うことはないと思っていた」

 彼女、ユキとはかつて付き合っていた。そしてもう別れた。死に別れたのだ。

 目の前に座っている彼女は間違いなくこの世の者ではない。僕は小数点以下の確率で存在する、心の底から霊を信じる側の人間になってしまったらしい。

 おしとやかに姿勢良く座る彼女は、微笑むような、慈しむような表情で、優しく僕に語りかけてくる。

「もう、わたしには会いたくなかった?」

 風呂場と冷凍庫が脳裏をよぎった。

 すぐに思い直す。会うとは例えば今のように、彼女が生きていた頃と同じように対面することだろう。そうであるなら、

「そんなことはない。むしろ、君の方が僕に会いたくなかったんじゃないか?」

 ユキは恥じらうようにはにかんで、ゆるゆると首を振った。

「ううん、会いたかった。ずっと、ずっとね」

 僕は死を予感した。もしくはそれ以上の何かまでも想わせられる。

 それは死者である彼女と同じ場所に僕が居るからかもしれない。ここがどこなのかは分からず、今居る場所が本当の意味で僕の部屋だなんて思ってもいないけれど、だって彼女はそれでもあんなに優しそうじゃないか。杞憂であってほしい。

 しかし今に限っては、優しささえも死の予兆に見える。

「会いたかった? それはまた、……どうしてだい?」

 訊くことも恐ろしかった。天井から照らす光が、一体何物であるのかも僕はわからないのだ。押入れの向こうにあった、なぜか死者がはっきりと、それこそ生きているかのように存在している世界。そこに、電気という概念はあるのだろうか。

「どうして? そんなの決まっているじゃない。わたし、マコトさんのことが好きなの。それはずっと変わらない」

 ユキがテーブルの上に手を置いた。

「……座ったら?」

「あ、あぁ」

 カチコチに緊張した受験生のように立ちっぱなしだった僕は、言われてやっと座ったのだった。正直頭の中から立つとか座るとか、そういう選択肢があるということさえ抜け落ちていた。

 テーブルの上に置かれた手は、確かに僕の肩を掴んだものと同じものだった。美しいその手が今は不気味に映る。

 片方の手でもう片方の手をさすりながら、彼女は子供を相手にするように言う。

「ねぇマコトさん。わたしのような死者、つまりは霊が、生きた人間に触れるにはどうすればいいと思う?」

 どうしてこの手であなたを引きずりこめたと思う? 主張するかのように手をさする彼女は、そう言葉にしているも同然だった。

 なぜ触れられたかなんて、無論僕がそんなことを知るはずもなく、黙って先を促す他にない。

「認識してもらわなければならないの。「何かがいる」ってだけじゃあダメ。わたしが居ると、具体的に認識してもらう必要があるのよ」

「僕が君に見られていることを自覚していたと?」

 それは考えにくい。たしかに僕は何者かの視線を感じてはいたが、ユキに見られていると思ったことは一度もない。そういうことがあるかも、とさえ思ったことがない。

 なにせ僕は、ついさっきまで幽霊なんて信じていなかった人間なのだから。それで当然である。

「えぇ。マコトさんは確かに、わたしに見られているかもと考えてくれた」

「……だとすれば無意識だった」

 深層心理というやつだ。自覚していなくても、心は、脳は考えている。ユキに見られている可能性がゼロではないと、考えていた。彼女の言うことが正しいのならそういうことになる。

「無意識でいいの。確信できる人なんてほとんどいないのよ。無意識でもわたしのことに気づいてくれて嬉しい。本当に嬉しい」

 もう死んでしまった者、死者であるユキは生前とまったく変わらない笑顔を見せた。その笑顔には高嶺の花のような美しさと、底の見えない谷のような恐ろしさがあった。

「それでね、わたしマコトさんに訊きたいことがあるの」

 また手をさすりながら話す彼女を、僕は本能的にさえぎった。

「それよりもここってどこなんだ。僕の部屋のように見えるけど、違うんだろう?」

 強引に話を遮ってもユキは気を悪くしなかった。少なくとも態度には出していない。ただ、喜びに溢れるように軽快だった声は重量を増したようだった。

 沈むような声になったのは機嫌を損ねたのではなく、むしろ僕に申し訳なさを感じたことが原因のようで、彼女は詫びてから僕の質問に答えてくれた。

 そんなところが、もう泣きたくなるくらいに生前の彼女と変わらなかった。

「あぁ、ごめんなさい。まだ何も説明していなかったわね。そうですよね、気になりますよね。ごめんなさい、順を追って説明するから」

 部屋をキョロキョロと見回す彼女は、きっと「順」とやらを考えているのだ。僕はそれを待つ。ユキは頭の回転が早い方ではないから気長に待つ。彼女が生きていた頃と何も変わらない。

 五分ほど経った後、彼女はゆっくりと話を始めた。驚いたことにこの部屋にある時計は、およそ正しいと思われる時刻を指している。

「初めに言っておくと、ここは現世ではないの」

 なんとなく予想していたことだ。

「現世っていうのはマコトさんのように生きている人間が暮らしている」

「大体わかるよ」

 現世という言い方をすると若干の違和感を覚えずにはいられないが、要するに僕が生まれてから今に至るまでの二十数年を過ごしてきた世界のことだろう。僕の帰るべき世界のことだろう。

 僕が余計な話を聞かされたと腹を立てているとでも思ったのか、ユキは縮こまるように消え入りそうな声で「ごめんなさい……」と言った。僕はそれを確かに聞き取った。

 しかし僕は、それに対して何も言うことはない。それがいつものことなのだ。

「えぇと、それで、ここは現世ではないのですけど、あの世でもありません」

「では、ここは何なんだ」

「名前はないの」

 強いて言えば、わたしの世界です。俯きがちに言う彼女が、その呼び方を恥ずかしい物として捉えていることは伝わった。僕が同じことを言う立場になったとしても同じような気持ちを抱いていただろう。中学時代を思いだしてしまう。

「わたしは地縛霊だから、成仏せずに留まる場合は縛られた場所か、そこにそっくりな現世でもあの世でもない「隙間の世界」にしか居られない。そして現世に居ては、認識されることは永遠にないの」

 今いる場所は「隙間の世界」という、地縛霊が縛られている場所とそっくりな、それ以外の詳細はよくわからない空間らしい。つまり彼女は当然といえば当然だが、僕の部屋に縛られているわけだ。

 僕は自分のことを、それなりに理解力のある奴だと思っている。彼女の説明に続くように言った。

「それじゃあ地縛霊というのは、君が押入れの中から繋がるこの隙間の世界に居るように、それぞれ違った隙間の世界を持っていて、その世界はまたそれぞれ対応した現世の場所へと繋がっているわけだな」

 僕の部屋に縛られているユキの世界が押入れから現世に繋がっていたように、どうせ他にも存在しているのであろう地縛霊は、それぞれの場所に繋がる自分の世界を持っているのだ。交通事故で死んだ者の霊が、横断歩道の隙間から腕を伸ばしてくることがあるかもしれない。

 正しく理解しているかな? と、ユキへ視線を送ると、再会に感極まったような表情を浮かべて、声も跳ねるような物にして答えてくれた。

「えぇ、その通りです。さすがマコトさんですね」

 その表情と声はいささか遅れ気味ではなかろうか。ついさっき再会したには冷静だったじゃないか。そう考えていたので、彼女からの称賛へは苦笑いしか返せなかった。

 理解力があるというのは、無いわけではないことを言いたいのであって、何も僕は自分を才能のある奴だと思っているわけではない。なので褒められても困るのだ。無能ではないと主張すれば有能だと主張したことにするのはやめてほしい。

 けれど、ユキが僕を褒め、僕はそれに苦笑いで応える。それはとてもなつかしいやりとりだった。

「一つ訊きたい」

「はい」

 隙間の世界と呼ばれるらしいこの場所で、彼女の世界で。僕はいよいよ重要なことを知ろうとする。これからする質問の答えに比べれば、その他のことは取るに足らないとさえ言えるはずだ。

「現世ではない世界へ来た僕は、もう死んだということになるのか?」

 ユキが僕を、現世での言い方で言えば「殺す」に至る理由は十分にある。殺意を抱く理由はあるのだ。はい、もうあなたは死んでいますよと答えられても、ショックは受けるが驚きはしないだろう。

 ユキは平常通りの、自らを卑下するようなニュアンスの漂う、優しい顔をした。そこから感情を読み取ることはできない。生前の彼女は同じ表情こそするものの、わかりやすい子だったと記憶しているが。

「今は、現状では、そうとも言えます」

 含みのある言い方の、含みの部分がすぐに補足される。

「この場所に居るマコトさんは魂のみで構成されているから、肉体の方は今も押入れの前で横たわっています。今ならまだ肉体に魂が帰れば何事もなかったかのように蘇生できますけど、時間が経てば手遅れということもあります。長時間魂の抜けた肉体に入り込める魂は、どこにも存在しませんから」

「帰ろうと思えば帰れるものなのか?」

「わたしが、そう望めば今すぐにでも」

 彼女と目が合い、僕はため息を吐いた。彼女がそれをどう捉えるかは大体察しがつくけれど、それでも僕は彼女に悪意を向けたわけではない。ただ純粋にため息が出た、それだけだ。

 帰るというのはどうやら肉体や魂うんぬん以前に、この隙間の世界から現世に戻ること自体を指しているようだ。けれど息を吐く間に考えても、ユキが僕をどうする気なのかは予想がつかない。もし彼女が僕をこのまま亡き者としたいのであれば、その場合今後もこの狭い部屋で二人きりで過ごすことになるわけで、そのあたりをどう考えているのかまったくわからない。

「……マコトさん、今度はわたしから訊いても、いいですか……?」

 おずおずと、熱い物に触ろうとするような臆病さを持って、彼女は僕にさえぎられた話を今度こそ続けようとした。

 今度はわたしから。そんな言い方をされたら、もう一度さえぎる気力が湧かなくなってしまう。僕の沈黙を彼女は許可の意味と取った。

「マコトさんはどうして、わたしを殺したんですか」

 冷凍庫の中にある、幾等分かの彼女が、映像として頭の中で再生された。

 

 思っていたよりも人体に含まれる血の量は多く、風呂場は真っ赤に染まったものだ。排水溝へ流れていく水で薄まった血の海を見て、二度とするまいと誓ったものだ。

 目の前に座っている、生きているかのような彼女を見て、改めて心底美しいと思う。

「聞いてどうする?」

 一周回って強気になってきた。僕が原因不明の孤独死を遂げることはすでに決定しているのだと思えば、決まってしまったのだと思えば不思議と落ち着けるのだ。開き直りというやつだろう。

「言いたくなければ、それでもいいんです」

 彼女は悲しそうだった。自分を殺害し、その遺体を解体した男に面しているのに、恨みを抱いている様子が一切なかった。きっと僕の都合良い目を通して見ているからそう見えるのだろう。

「……でも」

 しっかりと僕を見据えて、彼女は言う。

「できれば、教えてもらいたい」

 教えればここから帰らせてくれるのか、とは言わない。怖くて言えないわけではない。僕は、わかりきった答えをわざわざ聞く性格をしていないのだ。

「教えるよ。君には聞く権利があるから」

 僕がそう答えた瞬間、ユキは目の中いっぱいに期待を浮かべた。僕が人気のアニメキャラクターになって、彼女は子供になったみたいだった。

「蟻を殺したことがあるだろう?」

 あわてて付け足す。

「君のことを蟻と言いたいわけじゃない」

 虫も殺さないような、むしろ虫にさえ殺されてしまいそうな、か弱く高潔な彼女は、僕の意図を汲んだと表情で示す。そしてふるふると首を横に振った。

「ありません。蚊なら殺してしまったこともありましたけど」

 蚊では意味がない。僕の語ることに、実害のある生物を殺したということは関連しない。彼女のような聖人には共感を得られないかもしれない。

「蟻じゃないとダメだ。害のない、自分よりも圧倒的に弱い生き物を殺したことがあるだろう……と、言っているんだ」

 返されたのは同じく否定する首の動き。仕方なしに話を進めることにする。初めから共感欲しさに語ろうとしたわけでもないし。

「僕は殺したことがある。幼稚園の頃、ふと思いついて踏み潰した。潰れたとは言えない程度にしっかりと原型を残して、死の際でもがき苦しむ蟻が見られたよ」

 ユキはわかりやすくつらそうな顔をして、僕から目をそらして俯いた。そういえば彼女はそうだった。本当に生前と変わらない。

「ごめん、こういう話は苦手だったね」

 謝ったことに深い意味などなくて、話をやめる気なんてまったくなかったのだけれど、彼女はそう捉えなかったらしい。気を取り直すように真っすぐ僕の方を見て、その目で「話を続けろ」と強く主張してきた。

 念の為続けてもいいかと確認すると、首が落ちそうなくらいに強く頷かれた。

「僕はその時の蟻を見て率直に、気持ち悪いと感じた。どうして踏もうと思ったのか詳しい理由は憶えていないけれど、二度とするまいと誓ったことは憶えているくらいだ」

 我ながら話しの先が見えない語り方だ。捉えようによっては嫌がらせとも取られかねない話を、真剣な眼差しで聞いてくれる彼女はやはり聖人なのだろう。

 それも、それが自分を殺した男へ対する態度なのだからなおさらだ。

「けれど僕はもう一度だけ蟻を殺した。シャボン玉で遊んでいた時だった。水にシャボン玉が浮かぶ時みたいに、地面にもドーム状にシャボンが張り付くんじゃないかと考えたんだ。そして、そのドームの中に蟻を閉じ込められるんじゃないかと思いついて、せっせと実行を試みた」

 その時なぜ蟻を対象に選んだのかというと、それだけ蟻という生物が、僕にとって身近で、なおかつ絶対に抵抗しない弱者だったからだろう。正確には、有効となるような抵抗はできないわけだが。

 時に我々大人は、普通上に向かって吹き空へ飛ばすシャボン玉を、下へと吹き地面に叩きつけるようにしている子どもを見たとして、そこに違和感を抱くことができるだろうか? 結果としては、当時の僕の試みが誰かに邪魔されることはなかった。

「何度やってもシャボン玉は地面に触れてはじけるだけで、蟻を閉じ込めるドームにはならなかった。そして何度もシャボン玉をぶつけられた蟻は、おそらくシャボンに含まれる成分か何かが原因で、いつの時からかもがき苦しみ始めて死んだよ」

 蟻のもがいた末に死ぬ姿は、踏まれた時のそれと同じく気持ちの悪いものだった。二度と蟻にシャボン玉はぶつけないと誓った。

 ただ、それとは別に当時の僕は、今なお続く想いを抱いてしまったのだ。

「そういう方法でも死ぬんだ、って思った。潰されるとか、そういう物理的でわかりやすい死に方以外にも、他にもいろいろパターンがあるんだ……って。それからちょっと死に興味が湧いた」

 そしてその興味は今も尽きることがない。

「以降その他の殺し方なんて思いつかなかったけれどね。潰すの一辺倒じゃあ虫は気色悪い上に同じような反応ばかりだし、動物は捕まえることができなかった。興味こそ湧いたけれど、僕はほとんど何も行動を起こさなかったんだ」

 昔のことを思いだしながら語っていると、自然に視線が宙を漂ってしまう。何も存在しない空間を、さもそこに何かがあるように見つめているのでは、さすがに彼女へ対して失礼だろう。

 もはや意味などないであろう礼儀をもって、僕はユキの目を見る。

「次に起こした行動が、君を殺すことだった」

 少しの間を置いて、静かな部屋に「なるほど……」と深刻そうな声が浸透していった。実際に深刻、というか深刻どころではないのだ。

 しかし彼女は、まるで素晴らしい演説を聞いた後のように、心底感心したと表情で語っていた。

「わたしが殺された理由はマコトさんの探求心だったんですね」

 躊躇いもせずに彼女は付け加える。

「そしてわたしが、あまりに無力で手軽に殺せるようだったからなんですね」

 実にたやすく僕に懐いてくれた彼女は、それを自覚しつつも悔いることはしないようだった。僕だけが彼女をそう見ているのか、彼女が聖人として崇められるべき人物なのかは、もうどうでもよくなってきていた。

 

 僕とユキの出会いは非常に簡単に説明できる。僕も彼女も大学生だった頃に、お互い人数合わせで呼ばれた合コンで出会い、彼女の方から懐いてきた。以上で説明を終了できるほどに、何もドラマチックな展開はなかったのである。

 今となっては年賀状のやり取りさえしない、当時は知り合い以上友達未満の関係にあった彼が合コンに誘ってこなければ、確実に僕はユキを見ることもなく後の人生を過ごしていただろう。僕が自ら合コンに出ることなどあり得ないからだ。

 僕も男なので女性を好む心は人並みにあるが、だからといって女性に好かれようとする努力は良しとしない。面倒だから。わざわざ合コンに行くくらいなら帰って寝るし、高い服を買う金があれば何か旨い物を食べる。そんな選択をする人間なのだ、僕は。

 なので彼女は、ユキは相当に運が悪かった。頼まれたら断れない彼女の性格が、しつこく食い下がる彼を無理に断るよりは承諾した方がマシかと考えた僕の動きと上手く噛み合ってしまって、合コンという場で出会ってしまったのだから。強烈な不運だったと言えるだろう。

 彼女は彼女の友達に誘われて出席していた。嫌と言えない性格故に連れてこられたのだろうということは、出会ってから数分でなんとなくわかった。少し境遇が似ていることに親近感を抱かないでもなかったが、彼女のそれと僕とでは大きく違った。

 なにせ彼女は美しいのだ。恐ろしく美しいのだ。その白い肌は、細い腕は、整った顔立ちは、透き通るような声は、他の者を圧倒できる美しさがあるのだ。わざわざ自分より美しい者を、数合わせで合コンに呼ぶ者もいまい。であれば彼女は、友達からの厚意で連れてこられたのだ。恋愛などに疎いタイプだったのだろう。実際そうだった。

 僕はといえば完全な数合わせで、タダで飲み食いができるという条件で連れてこられたはいいが、そこまで食に重きを置いて生きているわけでもない。さっさと帰りたかった。その心を正直に表へ出すと、女性たちは草食系だのと言って笑ったが、内心ではさっさと消えちまえとでも思っていたかもしれない。

 ユキだけが違った。彼女は、他の女性たちのようには笑わなかった。一瞬席を外した僕の後を追ってきて、ただ微笑んだだけだった。

 彼女は僕に短く言ったのだ。

「もう今から、一緒に帰ってしまいませんか」

 無論、抜け出そうという意味だった。僕は人は見かけによらぬものだと内心驚きつつも、表情を変えぬように意識してこう返した。

「構わないけれど、その場合僕はまっすぐ家に帰るよ。一人で」

 そうして僕たちは店をこっそり抜け出して、その場で別れて帰宅したのだ。ただ、連絡先だけは交換した。もちろん彼女から言いだしたことだった。

 後日彼女から画面越しに文字で言われたことだ。あなたは自分をしっかりと持っていて、それを確固たる意思で貫いていらっしゃる。尊敬します……と。僕は人間という生物の多様さに驚き、そして正直に言って棚からぼた餅が落ちてきたと喜んだ。

 僕だって何の苦労もなしにという前提があるのなら、もちろんモテたかったのである。

 

「ねぇ、マコトさん?」

 彼女の微笑みは、いつものような慈悲や包み込むような優しさを纏ったものではなくなっていた。それだけではなくなっていた。そこには、喜びが混じっていた。

 いや、生前はそちらの表情を見せてくれた方が多かったかもしれない。彼女はいつも嬉しそうにニコニコとしていた。それでいて、全てを許してくれそうな包容感も持っていた。

「わたし、別に怒ってるわけじゃあないんですよ」

 僕の顔を見て言う。何か書いてっただろうか。死を前にした人間の顔には、まぁ何も書いていない方が不自然に思えるので、仕方のないことだ。

「そうなのか。ならどうして僕をここに連れ込んだ」

「そんなの決まっているじゃないですか」

 胸の前で両手を合わせ、少し手首を傾ける。何かをねだるようにも見えるその仕草は、しかし彼女の場合「これ以上は何もいらない」という意味を持っているだろう。これ以上は何もいらない、十分に幸せだ。そう顔に書いてある。不思議なことに、そう書いてある。

「マコトさんに会いたかったからですよ」

「それは理由になっていない」

 ユキの気分がみるみるしぼんでいった。頭の上に苗でも生えていれば、感情に連動してしなびていっただろう。そんなことを思わせるくらい、わかりやすく彼女は落ち込んだ。

「理由に、なりませんか……?」

「ああ。会いたかったから連れ込んだでは不十分だ。すると僕は、なぜ会いたかったのかと訊かなければならないだろう。似たような質問を繰り返させる答えは、答えになっていないよ」

 今度は複雑だった。喜ぶような、反省するような、上がるとも下がるとも言えない気分に、彼女自身もどう反応していいのかわからないようだった。

「ごめんなさい……。わたし、本当にいつになってもダメだ」

 彼女が生きていた頃も、僕と彼女が恋人として付き合っていた頃も、似たような無駄の多いやり取りをよくしていた。僕が今のように指摘するたびに、彼女は申し訳なさそうにするのだ。思ったよりも彼女が落ち込んでしまうので、毎度困っていた。

 なぜ困るって、指摘するのは、別に彼女に落ち込んでほしいからでもなければ、改善してほしいと本気で思っているわけでもないから。思わず指摘してしまうだけで、そこにそれ以上の意味はないのだ。

「これも何度も言っているけれど、僕は君のそういうところ嫌いじゃない。だから気にしないでいい」

 おかしな話だが、僕は自分が殺した相手を慰めるようなことを言っている。それは彼女が、僕に殺された人間らしくない態度を取っているからだろう。

「ごめんなさい。でも、本当にマコトさんはマコトさんですね。……大好きです」

 涙こそ流れていないものの、彼女は泣き笑いのような顔をしていた。思えば彼女を殺した時、彼女には泣く暇すら与えてやらなかった。殺すという行為そのものを引いて考えても、ひどすぎることをしてしまったか。

「……もっと、もっと一緒にいたかったのに」

 突然ぽつりと、恨み言のように彼女が言葉を漏らした。泣いているのか顔を伏せながら、幽霊らしい恐ろしさを持った声で言葉は続いていく。

「死にたくなかった。もっとマコトさんと一緒にいたかった。もっと話したかった。触れたかった。何十年も、そうして生きていきたかった。……勝手なことですよね。マコトさんがどう生きるかは、マコトさんが決めることなのに。でも、一緒に生きたかった。わがまま言ってごめんなさい」

 何も言えなかった。勝手なのは僕の方だなんて言えるほど、僕は面の皮が厚くできていない。

 かろうじて言葉となった声は、しかしそれもひどいものだった。

「わがままくらい言えばいい。それで僕が困ることはないんだから」

 あまりに酷なことを言ってしまった。君はもう死んでいて、僕はそうではない。ここにいるうち僕も死ぬのだろうけど、残念ながら僕に未練はない。彼女と違って地縛霊となることもないだろう。輪廻転生か、地獄が待っている。

 いや、地獄は嫌だな。被害を受けた張本人であるユキから、例えば拷問されるとかなら、それはまぁわかる。けれども閻魔大王だとか、そういう仕事として人に罰を与える者から苦痛を受けるのは、何か違うよな。なら僕にも未練というか、ここへ縛りつけられる動機はあるかもしれない。

「……絶対にここから出さない、と言ってもですか」

 俯いたまま言葉を吐きだす彼女の声は、小さくそして低かった。寒気がするほど低かった。

「出してくれないのか」

「えぇ、出しません。絶対にです。せっかくマコトさんがわたしに気づいてくれて、やっとこうして会えたんです。もう二度と、離すものですか」

 殴られたって蹴られたって、もう一度殺されたって離さない。死んだあとに殺されても、これ以上は何も起こらない。テーブルを挟んで向こう側に座る彼女は、確固たる決意を持っているようだった。

 それを受け入れるのが妥当だと、僕も思った。

「ああ、それでいいよ。償いになるかはわからないけれど、君がそうしたいのなら、僕は言う通りにしよう」

 彼女は結果的に、自分を殺した相手を殺すことになるのだ。報復らしくて実に良いと思う。やはり人間とはそうでなくてはならない。人間に詳しいつもりはないが、それでも彼女の聖人ぶりは明らかに異常だから。

「いいんですか……?」

 僕がどのような反応を見せると想定していたのかは知らないが、ユキは純粋に驚いたようだった。

「ああ、構わない」

 彼女を殺すのは一瞬だった。鈍器で頭を殴って、それで終わり。悲鳴も物音もなかった。死体をそのままにはしておけないので、風呂場で細かく解体して、あとは冷凍庫に入れておいた。はたしてそれで様々な問題が解決されるのかは知らないが、結果としては近所の人が不審に思って通報だとか、そういうことはなかった。

 頭から血を流し動かなくなった彼女は、ひどく醜いものだった。白い肌は鮮血に汚され、表情は永遠に失われ、次第に体は固くなっていった。醜いなんて言葉じゃあ表しきれない、この世に存在してはならない物のように思えた。

 細かく切り分けられた彼女はさらに汚い赤に塗れていて、僕はもうそれから冷凍庫を一度も開けていない。二度と見る気にならなかったから。もう二度と人は殺さないと、堅く誓った。

 あるいはあの白い肌は、血を絵具とすれば最高のキャンバスになったのかもしれないが、僕は絵に興味はなかった。彼女の肌を血で塗り、それを芸術と呼ぶやつがいれば、僕から見てそいつは異常者だ。

 何が言いたいかというと、もう僕に現世へ帰る理由は特にないということだ。あの冷凍庫が封印されるのであれば、もうそれでいい。再び美しい彼女見ることができるのなら、この上なく幸せだ。

「僕も、ユキと一緒にいたいから」

 ユキは笑った。幸せそうに、屈託のない笑顔を浮かべた。僕も幸せだった。一生この部屋へ縛りつけられても、それでまったく構わないと確信できた。

 嬉しさによる副作用か、彼女はいろいろなことを話し始めた。

「わたし、結構前からマコトさんのことを見ていたんですよ。わたしの死体がどこへいったのかわからない程度には、死んでから時間が経っていましたけど」

 見られていたことは知っていると伝える僕は、自分でも意外なほど愉快そうに笑っていた。彼女もつられるようにして笑った。死体はバラバラにして冷凍庫に入れ、一度も開けていないと言うと、彼女はまた感心したような顔をした。

 それはマコトさんらしい。そう言って笑う彼女を見て、やっぱり彼女はおかしいと思う。けれど思えばそれは、生前だってそうだった。僕に近づいてきた時点で彼女はおかしかった。僕を尊敬するだなんておかしな話だった。

 生前付き合う前に、もしかして尊敬などというのは皮肉だったのではないかと、連絡に飛びついてから考えたよと言うと、そんなわけないじゃないですかとユキは笑う。生きていた頃の話を思い出話のようにする人なんて、それもその二人が殺人者とその被害者の関係であるなんて、他には絶対にないだろう。

 もはや破損データのような物と化したであろう自分の肉体を忘れかけていた頃、楽しい雑談の一環として、彼女はこんなことを言ってきた。

「ところでマコトさん。マコトさんの言う通り、わたしはマコトさんに懐いていたので、きっと出会ってからある程度経ってからは、その気になればいつでも殺せたと思うんです」

 そんな話さえもが、彼女にとってはただの雑談となっていたのだ。僕としてはまだそこまでの境地には至っていない。

「どうして何年もわたしを生かしていてくれたんですか? もちろん嬉しいことですけど」

 嬉しいことだが、ずっと一緒にいられると決まった今となっては疑問の方が勝る、とでも言うのだろうか。もちろん彼女には聞く権利があるので、僕は隠すことなく教えなければならない。

「ああ、それは」

 口にしようとして、彼女がある種の境地に達している理由もわかった気がした。いや、まったく理解はできないが、そういうことなのかもしれないと言葉にすることができるようになったのだ。

「君が数年前に両親を事故で亡くし、天涯孤独の身になったと聞いた時に、殺すことを決めたんだ」

 数年前というのは、具体的には彼女がまだ高校生だった時の話だ。多額の遺産を残して、両親は事故死してしまったという。具体的に何の事故だったのかは、僕が訊く気にならなかったために今でも知らない。

 付き合ってから数年経って、彼女が突然そのことを僕に打ち明けたのだ。それを聞いて気の毒に思った。純粋に、両親を失った悲しみは深いだろうと心が痛くなった。僕は実家を離れて暮らしているけれど、父や母がこの世から去ることを具体的に想像するなんてできない。

「なるほど」

 きっと彼女は、こんな場所に縛りつけられている地縛霊だから、亡くなった両親と再会なんてできていないのだろう。そもそも両親の魂はすでに輪廻転生の輪に組み込まれてしまったのかもしれないが、両親と同じ死者となった彼女の気持ちは計りかねる。

 だが、それこそ彼女が僕を好いた理由だと思っている。彼女は孤独を癒してくれる相手を求めていたはずだ。そうしてなぜだか僕が選ばれた。弱っている人間の目というのは、例外なく曇るものらしい。

 そして僕の目は曇っているわけではないけれど、なるほどと言う今の彼女が見せた表情の現すものが、悲しさなのか照れなのかの判断もつかない。

「口が滑りましたね」

 返事ができなかった。事実、彼女は口を滑らせたのだから。彼女が死んで本気で悲しむ人は、殺した相手を本気で恨む人は、もういないのだと僕に打ち明けたのだから。

 当時は冗談抜きに、ユキが僕に殺してくれというメッセージを出したのだと確信していた。それが数年に渡る交際の末に、僕が彼女を殺すことに決めたきっかけだった。

 突然ユキの音沙汰がなくなれば両親が心配して、最終的には警察の力をもって僕を捕らえるだろうと、そう思っていたから。そこに対する策がなかったために、動物を捕まえられなかった子ども時代と同じく、僕は半ば死への興味を諦めていたのに。

「それでも、こうしてまた一緒に暮らせるんだからいいんですけどね」

 そう言って彼女はにこりと笑った。続けて、

「ここにいれば歳も取らない、お腹も空かない。永遠はここにあるんですよ、マコトさん」

 と目を輝かせて言った。たしかにどれも、死んでしまえばあり得そうな話だった。現世の常識は生きることの常識であって、この世界では通用しないのだ。

「なら、ずっと一緒に暮らせるな」

 彼女の目から希望を奪いたくなくて、僕は適当なことを言ってしまった。地縛霊の持つ隙間の世界とやらにいれば永遠が約束されるだなんて、そんな甘い話があるとは思えなかったのに。

 輪廻転生が実在することを前提として、その輪から離れることはここまで簡単なことなのだろうか。そうは思えない。残りたいと思うだけで成仏を免れるのなら、生きたいと思うだけで死を免れてしかるべきだろう。そうでないのだから、猶予は限られているのだと思う。

 それでも時間は残されているだろう。僕とユキがこの部屋で暮らしていくのには、きっとまだ長い長い猶予期間が残されている。彼女が満足できるほどの時間があることを、僕は心の底から祈った。そして願わくば、僕の興味を追求する時間が残されていることも望んだ。

「これからはずっと一緒よ、マコトさん」

 二度と人は殺さないと誓った。こんなに美しい彼女を、醜くしてしまうのは愚かな行為だったと自分を悔いた。……人は、もう殺さない。

 けれども僕は気になってしまうのだ。死に、魂だけの存在となった、まるで生きているかのような彼女を、この隙間の世界で。もう一度殺したらどうなるのだろう?

 




例の怖い話はコピペなどになっていますし、著作権などは存在しないと判断しての「オリジナル作品」です。元ネタはそのコピペです。問題があれば修正しますが、その場合コピペのタイトルを教えてください。知らないのです。


▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
一言
0文字 一言(任意:500文字まで)
※目安 0:10の真逆 5:普通 10:(このサイトで)これ以上素晴らしい作品とは出会えない。
※評価値0,10は一言の入力が必須です。また、それぞれ11個以上は投票できません。
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。