粘菌を用いた死者の操作技術に置いて重要な発見に自我次元論というものがある。
生命の持つ自我、即ち、心は脳の化学物質の反応でできているのではなく、別次元との接触によって自我が発生しているという理論である。
脳は自我次元と接続を行うための回路であり、それぞれの生物の自我の強度は、この自我次元と接続する強度によって決定されているのである。
否、それは脳だけに非ず、原始的な生物や動物、植物――あるいは粘菌といったものも極小ながら自我次元と接続している。
アンデッドを構成する粘菌は脳と同じようなシナプスを全身に形勢し、情報や信号を交換、身体の全てが脳の代用品となる状態となっている。
これによりアンデッドは脳に依存することなく、自我次元と接触することができる。
尤も、明確な自我と知能を持つ存在は丁寧に、丁寧にネクロマンサーが調整して作る者であり、通常のアンデッドは機械的に与えられた命令をこなす生体機械と言える代物であるが。
この自我次元に脳の著しい負荷を与えるほど過剰に接触した際に起こる現象がある。
正式名称:Extra-sensory perception――略称としてESPと呼ばれたそれは一般的に超能力と言われるものであった。
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ウィンキーにとって人間とは嘘つきである。語っているのに本心は違う。本心が違うのに行動が異なる。行動が異なるのに言葉を謀る。
そんな生物の何を信用するというのか。もし、自らが普通の人間であったなら、納得もしたし、多少の潔癖症で済んだであろうが、直接的に相手の心を感じ取れるというのに気にしないというのは無理であった。
感じ取れるといっても何を考えているのか思考を読める読心能力ではなく、何を感じているのかを自らも感じ取れる感応能力であるが。相手の感情を直接受け止めてしまい、思考がかき乱されるのである。自分は悲しくないのに悲しさに心を引き裂かれ、怪我もしてないのに痛みを感じる様なことが四六時中続くのだから自然と人間に近づきたくなるというものである。
であるがゆえに、隣人がやってきたときウィンキーは良い顔をしなかった。
この施設はESP能力に応じて部屋のランク分けが行われ、ウィンキーは類稀なるESP能力により個室を与えられていた。もっとも監視カメラが隠されており四六時中監視されている部屋ではあるが。
それでも1つの部屋で共同生活させられるよりはマシであった。数多の思念が頭の中で鳴り響く様を想像するだけでウィンキーは怖気を感じる。
個室に分けられ一人で生活できるのはウィンキーにとって天恵であった。しかし、それも隣人のドロシーが来る前の話。
敏感なテレパス能力を持つウィンキーにとって壁というものは意味がなく、ただそこに人がいるだけで煩しいのである。例えるなら扉をしめ切っていても掘削工事の音を防げないようなものであろうか。
しかも自らより強大なESP能力者であるのだから、自分が一番優れているという優越感も台無しにされ、そして、何より怖かった。自らより強いESP能力者など見たこともなかったのだ。
初めて来たときは驚いたものである。周りの研究者はなにかわからないようであったが、敏感なウィンキーにとって獅子が大口を開けているようであった。
それが朗らかな笑顔で話しかけてくるのだから、思わず研究者の後ろに隠れてしまうのも仕方ないじゃない、とウィンキーは思う。
基本的に顔を合わせることができるのは実験の時にたまたまである程度であるが、壁1枚隔てて常に感じ取っていると味方も変わってくる。
始めはおっかなびっくりであったが、四六時中暖かく柔らかな――暖かい毛布に包まって眠っているような――感覚に包まれていると、ウィンキーは警戒しているのが馬鹿らしく思えてくる。
誰よりも本心を感じ取ってきたからこそ、警戒しなくても大丈夫であるとわかったのである。
ある日、眠っていると壁のほうから異音が聞こえて目が覚める。軽くESPでドロシーの部屋を探ってみると何かの作業に集中しているようであった。
何をしているかはわからないが、感覚と音からもしかして壁を掘っているのかと思い、まさかと頭を振る。
巧妙に隠しているが部屋の角にはカメラが仕込んであり、部屋を監視しているのである。脱走を防ぐ目的なのか、一番初めにそれを伝えられるのだから、わざわざ自らの立場を悪くするはずもない、と頭から打ち消した。
また、ESPに対する測定装置のようなものも取り付けられているようであり、一度、話しを見てようと精神感応(テレパス)を送ってみた時はすごい勢いで警備員が飛び込んできて、厳重な注意を受けたのである。
あの時殴られた頬の痛みをウィンキーは忘れない。
しかし、何日も、こちらに音が近づいてくるにつれて疑念は確信へと変わる。暖かい感じは相変わらずだが、なにかこちらにむかって来る執念のようなものすら感じる。
なにが彼女をここまでさせているのだろうか、見当がつかなかった。
怖くなって担当官に報告しようか悩んだが、しかし、この温かな感触が失われるのもまた嫌で悩む日々が続いたが、ある日、間の抜けた音と共に錐が壁から突き出て、ストローほどの穴が空いた。
「こんばんわ。 私、ドロシー。あなたの名前は?」
第一声はそんな間が抜けた内容だった。ウィンキーはこれが何の罠なのか警戒しながら声を紡ぐ。
「……あんた、馬鹿? 少しESP使っただけであたしが殴られたの知ってるでしょ? それともESPの使い過ぎで頭退化しちゃったの?」
「酷いなぁ、もう。それに大丈夫だよ、人形と布で穴は隠してあるから。そっちも隠してくれたらうれしいかな」
内容と本心に全く違いがない。なら、全く考え無しの馬鹿かもしれない。それなら巻き込まれるわけにもいかない、とウィンキーは考える。。
「あんたを庇う理由がないわよ。それより、このことは担当官に報告するから、もう話しかけてこないで」
「それはやめてほしいかな……」
「嫌よ。あんただって噂は知ってるでしょ。ここで脱走とか企てるとアンデッドにされるって噂よ。それなのにこんなことして、あたしを巻き込まないでしょ」
「うん、ごめん。……けど、安心した」
場違いな単語に数瞬、思考が止まる。今までの会話でなにがどう安心できるのだろうか、まったくもってウィンキーには訳が分からなかった。
「だって、あなた、ずっと怖がってたでしょ。だから、心配で……
「……、……」
「けど、話したら大丈夫そうだから安心したよ。だから、報告するならしてもいいよ」
「うん、やっぱり本当に馬鹿ね。もし……、見つかってもあんたが勝手にやったことっていうからね、あたしを巻き込まないでよね」
ウィンキーは話して分かった、こいつ馬鹿だ。心配だったからという理由だけで、危険を冒してウィンキーと会話しようとしたのだ。
だから、少しだけ、話を続けたいと思った。ここまで馬鹿なら裏切る心配もないだろう。
それに、陽だまりのように温かな気持ちに包まれて眠れるのを、容易く手放す気も無かった。
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そもそも超能力――ESP能力とは何なのか。
平たくいうのなら超感覚により知覚能力、肉体で通常得られる感覚を超えた感覚から何かを察知する能力であり、この世界においては手に物を触れずに物を動かすPK能力もESPに含まれている。
自我次元論が粘菌コンピューターにより立証されたころから稀に起こっていた現象であり、当時はある種の脳障害や自我接続事故と考えられていたこれらの現象は数多の人体実験を経て、その根源を掴むことに成功した。
それは「自我次元論の接触座表面の過剰接続」、即ち、脳に障害が出るほど過剰な自我接続を行うことで、当人の肉体の枠を超えた知覚や物理的な干渉を行う物である。
無理矢理多くのコンセントにケーブルをつなげることでショートを起こすことに似ているだろうか、それを人体で行うのである。
当然、被験者も無事では済まない。過剰な自我次元の接続に耐えうる脳を持つ人材、生物は皆無であり、深刻な脳障害や精神的な衰退を発生させることもしばしばあった。
しかし、その人体実験の結果からから、ESPのみならず脳の機械化テスト、神経強化、簡易AIの作成、変異生物との結合など、数多の軍事的な成果を得ることが出来た。
これらの成果は後にネクロマンシー技術やサイボーグ開発にも大きく貢献し、ESPを用いたアンデッドの操作などにも十分な期待を持てた。
故に、核兵器による威圧的外交が困難になり始め発言力の低下に焦りを覚えつつあった北米大国は極秘裏にESP開発計画を本格的に開始する。
計画の名前は『MKウルトラ計画』、そのために各地で建てられた実験施設のコードネームを『オペラハウス』と呼ばれる。
そんな中、ネクロマンシー技術をESPに応用したらどうなるか、それを研究するための施設がこの『オペラハウス72』である。
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この施設――オペラハウスは嫌いだ。とドロシーは思う。白衣を着た医師の後ろをドロシーはついて歩く。表情はないが、それ以上に感情を感じ取れない、まるでドロシー達を物としか見ていないように無感情だ。
もしも、ドロシーの腕や脚が取れたとしても別のものを付け替えればいいと思っていても不思議ではない。昆虫染みた無機質な視線が、ドロシーにしては珍しく怖気を誘う。
全員のスタッフがこのような感じではないのだが、目の前の彼がドロシーの専属スタッフである。
歩いている途中で扉とすれ違うたびに、膨大な想念に思わずドロシーが顔を顰める。
それは脳にくさびを打ち込まれたような痛みであり。胸の内から燃えつくさんばかりの怒りであり。不信感から来る気持ち悪い感触であった。
扉の向こうで何が起きているのかはわからないが、どれも気分が良いものではなかった。ドロシーはまだ耐えられるが、隣のウィンキーは繊細そうなので大丈夫だろうか、心配であった。
そういう意味では目の前の男の無機質な想念は心が乱されずありがたいものである。
「あの扉の向こうで何が起きてるの?」
「君が知る必要はない。実験には無関係だからだ」
話しかけるも取り付く島もない。そして、男はメモ帳を取り出し何かを書き込んでいる。どうやらドロシーが何かを受信していることをメモっているようだ。
ドロシーは不満を隠さないが、男から反応はなかった。
溜息を一つついたドロシーは別のことに集中する。通っている道に張り付けられているオペラハウスの案内版。それを気づかれない様に横眼で見て、記憶に焼き付ける。一度ですべて覚えることは無理だから、何度も何度も繰り返している。
部屋の外に出られるのは実験のときだけなのだ。少ない機会を逃すわけにはいかない。
実験自体はドロシーには簡単なものである。少し面倒なのが実験施設に行くために迷路を通ることだった。
時間以内に毎回順路と出口が違う迷路を通って実験施設に行かないと行けようになっており、そこでは勘だけが頼りである。
いまのところドロシーは困ったことはないのだが、ここを問題なく通れるにはウィンキー含め、少数の様である。
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青空を見ながらドロシーは迷路を迷いなく進んでいく。
この迷路の悪質なところは警備員が巡回しており、見つかると理不尽なことに厳重注意されるのである。悪意が透けて見えるのが見つかると時間のロス甚だしいのでできる限り見つからないようにしないといけない。
しかし、ドロシーにとってはそんなに苦になるものではなく、なんとかなく近づいてくるのがわかるのでそれに合わせて隠れるだけである。
警備員はなにかふらついたような動作で壁に手をつけて休んでいたが、気にせず、ドロシーはしばらく隠れる。
もう1つ悪質な点として必要な順路が隠されていることも多く、行き止まりと思ったたら下部や上部に隠されている隠し扉をみつけて進まないといけないことも日常茶飯事である。
完全に特殊な能力を持った人間を対象にした迷路であり、ここで高得点を出さないと待遇が悪くなるらしい。
現時点でもそんなに良いモノとは言えないのだが、これ以上に悪い待遇とはどのようなものか、それを想像してドロシーは気落ちしながら迷路を進んでいく。
できれば助けてあげたいところだけど、そんな力はドロシーにはないのであった。だから、せめて手が届く範囲はどうにかしてあげたいな、とドロシーは思いながら進んでいくのであった。
†
「うーん、ドロシーちゃん。本当に逸材だね。ここまでの能力早々ないよ?」
「ありがとうございます。けど、そんなになの?」
迷路を抜けた先の実験室。いまのところドロシーが受けている実験は雑誌などに乗っている超能力訓練とさほど変わらない。
といっても難易度が段違いなのであるが。いま、行っているのは封筒に入れたトランプを室内に隠しておき、それらのカードを見つけて神経衰弱の様に同じ数字ごとに箱に入れていくものである。
ドロシーとしては中身まではわからないものの、勘を信じていれていけば自然と正解になるのでそんなに困らないのであるが。
「そうそう、ドロシーちゃんの次の成績の子は、ドロシーちゃんの半分くらいの得点だもの。全問正解何てあなたぐらいのものよ」
「何も入ってない封筒も混ぜてたら仕方ないと思うんだけど……」
「……へぇ、わかるんだ」
赤い口紅に白いファンデーション、薄いアイシャドウを塗った”男”の研究員はとてもお喋りである。女口調でしゃべる彼に最初は面食らったものの、意外と気さくな人物らしく自然と打ち解けていていた。
感じ取れる思いは穏やかでこんなところにいるのが不思議であるが、時折鋭い視線を向けることがある。そのときは温和な雰囲気はなくなり、静かに対象を観察する研究者の視線となっている。そのため普段との雰囲気の落差が恐ろしい。
今、ドロシーに向けている視線がまさにそれだ。ドロシーの所感であるが、この研究所には”ずれている”人間が多いように思える。
人間的な感情はあるのだけど、それよりも目の前の研究や成果に目が向いているような気がした。
「な、なんとなくだけどね……」
「んー、そのなんとなくが大事なのよーん? わたしたちの研究ってそういうのを追ってるものだし」
「研究いっつも大変だね。普段もずっと研究してるの?」
「今日で何徹したかしら……実はこの化粧もそれを隠すためのものなのよ」
「え?」
「うっそー。冗談よ。普段からずっと根詰めてるわけではないわ」
野太い声で笑う。彼は太い腕を組んだ。なぜか掃いているスカートから見える脚には毛が見えないから剃っているのだろう。
腕には研究主任がつけるビニール製の腕輪が巻いてあることから、地位が高い人物であると思われるのだが……。
気さくな人物であるが、この格好は大丈夫なのだろうか、とドロシーは毎回思う。
「そうね。わたしたちも人間だから、ご飯がてら他のスタッフと議論したり、家に帰って趣味に没頭したりするときもあるわよ」
「ここのスタッフの人って全員、夜に帰ってるの?」
「残業で残ることも多いわねぇん。けど、帰れる人は帰ってるわ。それにまぁ、警備員の人達が巡回してるからスタッフの有無はあんまり関係ないかしら」
「ふぅん。警備員の人たちもいるんだ」
「いるわよん。ドロシーちゃんと出会うことはないと思うけど、外部からの侵入者や内部からの脱走者を監視してるわあん」
「あの迷路にいる人たちは違うの?」
「あれも一応警備員ねぇん」
「ふぅん……。夜、部屋の外を通ってるのも警備員なのかな」
「そうね、オペラハウス内の巡回も担っているわ」
「みんな大変なんだね」
ドロシーが窓から外を見ている。この実験場は外が確認できる数少ない場所である。
そこから見える景色を見つめながら、窓から見える施設を脳内に刷り込んでいく。
これまで通っていた迷路は見るたびに順路が変わっているのだが、何か仕掛けがあるのだろうか。
それ以外には大きく変わった様子は見えない。森の中にぽつりとある施設が此処だ。
5階建ての最上階にいるので、それなりに高いところにいるはずだが周囲に町などは見えない。
鬱蒼と茂った森が続いているだけである。さらに施設を覆うように囲む聳え立つ壁の上には有刺鉄線が敷かれており、まるで監獄の様だ。
「……ねぇ、本当に毎日帰れてるの? 正直、来て帰るだけで日が暮れそうなんだけど……」
「んー、実家に帰れるのはたまにかしら。ここ、陸の孤島って呼ばれてるから長期的な休暇以外で帰るのは困難なのよねぇん。だから、オペラハウス内に居住区があるわよん」
「居住区とかあるんだ。やっぱり帰って寝るだけなのかな」
「娯楽施設とか一応あるわよん。品ぞろえは悪いけど売店も揃ってるし」
「うらやましいなぁ……。私も備え付けのシャンプーじゃなくて自分で見繕いたいなぁ」
「それは私じゃ、どうしようもないわねん……」
†
殺風景な部屋。ベッドや机、壁に掛けられた時計、ドアを挟んでトイレとお風呂が一つの部屋にあるというユニットバスといった暮らしていくのに必要最低限の部屋。
机の上にはノートと筆記用具が置いてあるだけで他には何もない。
ウィンキーとドロシーの部屋を比べるのなら、ドロシーのベッドの上にはクマのぬいぐるみが一つ置かれているだけが差異であろうか。
早朝に部屋から出ていったドロシーの気配が戻ってきてウィンキーは安堵の息を1つ吐いた。
「あんたはいいわよね。最近、人気で」
「……どうしたの、いきなり?」
「あたしなんて最近、あんまり実験がないんだから……」
「いいことじゃないかな。正直、あれ、作業に近いし」
「……実験が少ないってつまり、廃棄されるってことじゃない」
「……あー……、違う、と思いたいけど……」
「違わないわよ。……きっと噂みたいにあたしはアンデッドにされるのよ」
壁に向って寝転んだ二人はいつものように会話をしていた。最近、実験が少ないとウィンキーが不安がっていたが、今日も実験に呼ばれなかったようだ。
アンデッドにされるかどうかはわからないが、実験の回数の少なさは確かに不穏である。
壁越しに感じるウィンキーの不安を感じ取れるが、手を伸ばせないのがなんともドロシーにはもどかしかった。
「んー、困ったなぁ……。ウィンキーがいなくなったら、私、話し相手いなくなっちゃうよ」
「あたしだって消えたくないよ。ねぇ、ドロシーのいやらしい体でどうにかならない?」
「怒るよ、ウィンキー?」
「冗談よ。本当に悪い冗談。……けどね、ドロシー。あたしもここにつれてこられて長いし、本当に危ないのよ。気づいてるでしょ。ここの危険性を」
「……うん」
幸い居住区と実験棟は離れている様で影響が少ないが、それでも影響がでないわけではない。
夢を見るのだ。それもとびっきりの悪夢を。
頭蓋を開けられ針を突き刺され電極から電気を流される夢を。
なんらかの方法で肥大化した脳を露出させられ、別の脳と物理的に結合させられる夢を。
複数人の人間が一つの部屋に集められ、わざと人数に満たない食料を与えられ、奪い合う夢を。
巡回している警備員が聞こえてくる悲鳴に必死に耳をそらし、やがてそれらに何も感じなくなる様を。
その他諸々の悪夢としか思えない光景を、対象そのものになる夢を見るのだ。
悲鳴を上げて起きるのも一度や二度ではなく、ここに来て安らげることといえばウィンキーとの会話ぐらいである。
多分、ウィンキーも同じようなものだとドロシーは思う。
「本当にただの夢ならいいんだけどね」
「きっと違うわ。廊下を歩いてればわかるでしょ?」
「……うん。ここは悪夢のような場所だね。」
「本当よ、全く」
「ドロシーは怖くないの? あたしは正直、怖いよ。ここ」
「私も怖いよ。けど、約束があるんだ」
「約束?」
「そう、約束。ここに来る前に友達とした約束でね。きっと、また会おうって」
その時、ドロシーのリボンと交換したのがこのトトのティディベアの人形である。
それをそっと撫でると勇気が湧いて出るのをドロシーは思う。
――トト、元気にしてるかなぁ
と物思いにふけってると、ウィンキーから不機嫌そうな気配。
わずかに空いた穴から部屋を覗くと、ウィンキーは逆の方向を向いて布団をかぶっていた。
「あれ、ウィンキー?」
「うるさい、もう寝る!」
「どうしたの、不機嫌そうだけど」
「うるさい、ドロシーの馬鹿」
「ねぇってば」
「知らない、もう寝る」
結局、その日、ドロシーがいくら話しかけてもウィンキーからの返事はなかった。
†
ESP研究において重要なのは自我の拡大である。これは自我次元に対する接続面積の過大によりESPが引き起こされるからだ。
であるゆえに、自然と自我の拡大に耐えられる脳の研究が行われる。
方法は様々である。物理的に肥大化させた脳を別のモノに接続したり。
機械と脳を接続し、デジタル的に自我の拡大を測ったり。
あるいは別の生物と遺伝子的かけ合わせて新生物を誕生させようとしたり。
様々なオペラハウスで方法が試されてる中、この『オペラハウス』では『ネクロマンシーを用いたESP研究』を主題としている。
ネクロマンシーで用いられるアンデッドは全身が脳のようなものである。全身に用いられている粘菌がネットワークを形成し、思考を行っているのである。
つまり、全て粘菌コンピューターで構築されているアンデッドをESP観測に用いることができるかどうか、が此処の命題である。
結論から言うなら、画期的なほど適合していた。
アンデッドの肉体は通常の生物では不可能なほど自我接続面を拡大しても問題なく稼働が行え、また不都合が出たとしても自我接続面を変えれば問題なく運用ができた。
ESPにより対象の脳が破壊されたとしても、肉体面を交換すれば問題なく面倒なメンテナンスも抑えることが出来る。
また、ESPの酷使を行うことによっておこる対象の自我次元のパターンの損傷や記憶障害、幼児退行なども一定の成果をもたらす検体をいくつも用意できるなら、問題なく使いつぶすことが出来た。
これ以上ないほど理想的な検体、それがアンデッドのESP開発に対する結論である。
それらの成果をもって他のオペラハウスでもネクロマンシー技術の導入が始まった。
超能力開発につつがなく用いることが分かったところで、1つの疑問が生まれる。
元々超能力適性がある者とそうでないもの。それらをアンデッド化した場合、違いはあるのか、と。
それらの命題を解決すべく、各オペラハウスより被験体の募集を呼びかけ、適正のあったものを呼び寄せた。
「さーて、どうしたものかしらん」
「大方の予測通り、適性の高いものをアンデッド化すればやはり通常よりも高出力のESPを扱えますね」
「そうねん。けど、出力は上々だけど安定性は相変わらずなのよねん」
「自我暴露により精神に異常をきたした職員もちらほらとおりますからね」
発動するESPの規模は大きくなってきたものの、未だコントロール性に難があるため、高出力の精神感応(テレパス)に曝されたスタッフには精神に異常をきたしたものも少なくない。
軽い精神障害ならまだ良い方で、酷いものになると廃人になるものもの続発している。
しかし、実験の手が緩められることはなかった。スタッフが減っても、別のスタッフが補充されるだけなのだ。
「そちらの処置は?」
「仰せの通り、軽度の者は療養に。重度の者は被験体に回しました」
「其れで問題ないわん」
「では、その通りに。次の予定はどうなってますか?」
「そうね。そろそろ適性が最高レベルの被験体を用いてみたいわ」
「では、ウィンキーから行きましょうか」
「ええ、彼女からとれるデータもほとんどなくなってきてるしね。彼女で試してからドロシーに行きましょう」
何故か女装している職員。彼の腕には研究主任がつけるビニール製の腕輪が巻いてある。
彼はドロシーやウィンキーの写真が張られたカルテを机の上に起きながら、次の実験について思考を巡らせた。
出力については問題ない。ならば、これらの実験が終わったのなら、次はコントロール性に主題を置いた実験を行うべく、その方法に思索を向けるのだった。
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周りから優しいと言われているドロシーではあるが、本人としてはそんなことはないと思っている。
面倒なことなら手を抜くこともあるし、隠し事もしている。現に壁に穴を開けた錐もトトからもらった人形の中に持ち込んだものである。
そういわけで、実は誰にも言ってないこともそれなりにあるのである。
例えば――超能力開発の時に使ってる能力も、まだ手加減している、とか。
感受性が強すぎるためにある程度、自ら能力を落とし込まないと、とてもではないが頭の中がうるさすぎるという切実な理由から覚えた手加減であるが、手加減した能力が自らの最大値であると周りが思っているようなのは望外の幸運であった。
ESPの一つに精神感応(テレパス)というものがある、言語や道具を用いずに他者と意志を交わる能力である。普段は相手の心を感じ取る程度であれば、能動的に用いれば相手の心を覗き込むことも可能である。
もっと悪意的に使うなら相手の意志を乗っ取ることも可能なようであるが、ドロシーは出来る限り、そうならないように気をつけている。仕方がないことでも、あまり人を傷つけたくはないのだ。
これを利用して、迷路や巡回している警備員に気付かれない程度に、少しずつ少しずつ記憶を盗み見て、ある程度、施設内の把握を行うことが出来た。
「うん、それはいいんだけど……どうしよう。脱出の糸口が見当たらないよ……」
その上で頭を抱えることになる。まず単純に街までが遠い。
追跡には犬や車が導入されるのに対し、こちらが取れる札はせいぜいESPを利用した手段ぐらいである。
次に脱出が困難である。
実験棟から周囲を見渡してみたが、聳え立つような壁に加えて、上部には有刺鉄線が張り巡らされている。
それだけでもうお手上げだというのに、さらに警備員は武装も許されているのである。
映画などであればスマートなアイディアが思い浮かびそうな状況であるが、ただの少女であるドロシーにはどうすればいいのか見当もつかなかった。
「……ねぇ、ドロシー。あたし死ぬみたい」
「ええ!? どういうことなの、ウィンキー」
「今日、聞こえちゃったの。次にアンデッドになるのはあたしだって。明日、アンデッドにされちゃうんだって……ねぇ、ドロシー。あたし何か悪いことしたかな。こんな施設に連れて来られて、勝手に実験材料にされるほどひどいことしたのかな……」
「ウィンキー……」
「もう疲れたよ。いっそう、楽になれるならそれでもいいかもね」
「……ウィンキー、壁に頭を近づけて」
実際の処、ドロシーには一つだけ手段があるのである。できれば、絶対にしたくなかった手段が。これをしたらトトに胸を張ってあえなくなるような気がするからしたくなかった手段がある。
だから、出来る限り手を尽くそうと思っていたが、ウィンキーの話を聞いて踏ん切りがついた。
壁の向こうから聞こえる涙声、ぽっかりと空いた穴のような虚無感を抱えた少女を、そのままにしたくはなかった。
「……こう?」
「うん」
ドロシーは今まで使わないでおいた精神感応(テレパス)で、これまで得た情報をすべてウィンキーに転送する。
壁の向こうでウィンキーが驚いてるさまが伝わってくる。
廊下でけたたましい足音が聞こえる。どうやら警備員が急いでドロシーの部屋に向っているようだ。
「逃げだそ。このままここにいたら駄目だよ。ウィンキー」
そして、部屋の外に向って視線を向ける。
したくはなかったけれど、覚悟は決まった。だから、あとはやるだけである。
入ってきた警備員に精神感応(テレパス)を飛ばす。
警備員の身体が痙攣した後、表情を失って棒立ちとなった。
「ねぇ、ウィンキーの部屋もあけてあげて」
「……」
警備員はふらりふらりとドロシーの部屋から出ていく。ドロシーはティディベアを抱え上げる。
ここに来た時も必死に抵抗してティディベアの所持だけは認めてもらったのである。
だから、持っていくものはこれしかなかった。
ドロシーが外に出ようとしたとき、ふらりと少女が現れる。
ほっそりと痩せた体つきの幼い顔つきの少女、身長はドロシーの胸元ぐらいだろうか。
ドロシーと同じく薄い青色の検査衣に身を包んだ、この少女はウィンキーだ。前に実験場の傍で互いに見かけたことがあるのだ。
ツインテールの髪を揺らしながら、不機嫌そうな三白眼をドロシーに向ける。
「ねぇあんた、こんなことして無事で済むと思ってるの?」
「多分、無理じゃないかなぁ……。けど、無理でもやらないと友達が死んじゃうじゃない」
「そこの警備員はいいの」
「多分、大丈夫と思うよ……うん、多分」
ドロシーが眼をそらす。一時的に意識を乗っ取っただけだから大丈夫だと思うが、誰かに試したことがあるわけではないので、本当に大丈夫かどうかはドロシーに自信はなかった。
†
女装している主任がドロシー達の脱走を聞いたとき、まず最初に出た言葉は罵声ではなく歓声であった。
ESPの研究の目的の一つにESPを用いたアンデッドや人間の操作があるのだが、それを生身の人間であるドロシーが実現したのである。
これは安定したESPが開発が可能なアンデッドも十分に可能性があるという実例として有意義な結果である。
そして、それほどESP能力を持ったドロシーを逃がすわけにはいかない、厳戒態勢を命じるのだった。
警備員だけではなく、アンデッドの使用も解禁したのである。
†
「ねぇ……あれ、なに?」
「化け物、かな……」
居住区から出たところで地響きを立てて歩く巨人を見たところで二人の脚が止まる。
それはつぎはぎだらけの肢体で何かを探すように研究所の敷地内を歩き回っていた。
頭上から先が機械に置き換えられた犬が無数に周囲を嗅ぎまわっている。
それらは頭の上半分が機械的な一つ目の兜のようなものになっている。
犬の群れは機械的に統一された動きでドロシーとウィンキーの方を向く。
無数の生物が1つの遅れも無く同時に動くさまは言葉にはしがたい威圧感があり、二人が少し後ずさる。
彼らから精気のようなものは感じられず、思念も平坦なままだ。
「ど、どうするの、ドロシー?!」
「うーん、どうしようか……」
「そんな暢気にしてる場合じゃないでしょ!!」
「んー、もうこれしか手がないんだけど」
ドロシーが精神感応(テレパス)を機械犬たちに飛ばしてみる。
途端、彼らの動きがピタリと止まる。どうやら、アンデッドにも有効なようである。
ウィンキーからみるとドロシーから出た透明な手がアンデッドの頭に絡みつき、そのまま内部に浸透していくさまが見えている。
本人は無自覚だが、彼らの自我に干渉接続に干渉して操っているのだろう。
ウィンキーも真似してこちらに向かってきている巨人の一体に精神感応(テレパス)を飛ばす。
ぐらりと巨人の動きが止まるが、それまでであった。ウィンキーの頭の中に巨人の思念が混じり込む。
それは言語化できない音、テレビの砂嵐をずっとみているようであった。相手の思念が逆に混じ込み、頭の中がぐわんぐわんと揺さぶられたかのような不快感。
思わず立っていられなくなり、その場にへたり込む。
「ウィンキー、大丈夫!?」
ドロシーが同じ巨人に視線を向けると、温かな湯船につかったような安堵感をウィンキーは覚えた。まだ頭がくらりくらりとするものの、ドロシーが伸ばした手を取って立ち上がる。
巨人の方を見ると、別の巨人と取っ組み合って静止している。どうやら、ドロシーが片手間で巨人を制御し、そのままウィンキーを精神感応(テレパス)で保護したようである。
他にもいた巨人たちは、先ほどの機械犬が群がっている。それらは仲間が巨人に叩き潰されながらも、果敢に噛みつき肉を食い千切っている。
「だ、大丈夫……。ねぇ、ドロシー。あなたちょっと規格外すぎない?」
「そう? 普通だよ」
「…………。あんた、いつか刺されるわよ」
「?」
きょとん、とドロシーが首をかしげる。
「よくわからないけど、あの巨人を乗っ取っちゃえば、塀を乗り越えられそうだね」
「……うん、あんたにしかできない方法ね」
つぎはぎの巨人がドロシー達に近づき、傅く。ウィンキーに先に行くように促したところで、ドロシーが背筋に走った悪寒に目を見開き、遅れてウィンキーも同じような予感に身を竦める。
「ドロ――ッ」
乾いた発砲音が、小さく響く。何かを察知したドロシーがそちらを向こうとして、脇を穿たれた。発射された銃弾はドロシーの脇腹から突き刺さり、反対方向から抜けていった。
二人からは見えないが、狙撃銃を持ったアンデッドが機械的に引き金に指をかけている。
ウィンキーがドロシーに駆け寄る。巨人が二人を守るように立ちはだかり、次弾を受けている。
「ご、めん……ウィンキー。最後まで、一緒にいけそうには、ない、かな」
「そんなこと、どうでもいいから! 黙って! 死んじゃう!」
おぼろげな灯りしかないためか、ドロシーの検査衣が黒く染まっていく。ウィンキーが穿たれた部分を無理矢理抑えるが生暖かい感触は広がっていくばかりだ。自らの検査衣が血に染まっていく中も必死に抑えつける。
「ごめん、私、もう無理そうだから……せめて、これ、だけでも連れて行って、あげれないかな」
「聞かない! 聞かないから、しっかりして、ドロシー!」
ドロシーが力なく腕を上げ、地に落ちたティディベアを指さす。
ウィンキーが首を振ってドロシーにすがりつく。その耳に唸り声が聞こえた。見ると、新たな機械犬が周りを囲み、じわりじわりと距離詰めてきている。
ドロシーが制御下に置いてある巨人が我武者羅に暴れて、時間を稼いでいるが焼け石に水だ。機械犬に加え、のっそりと動くゾンビ染みたアンデッドや武装に身を固めガスマスクを着けたアンデッドなど複数のアンデッドが討伐に動いており、数の差でいずれ討伐されるだろう。
ティディベアを指していたドロシーの指が地に落ちる。
「ドロシー? ………、ドロシー?!」
あわてて呼びかけるが返事はない。
地面に伝わる血にウィンキーの膝が浸かり、生暖かい。
機械犬や他のアンデッドが少しずつ方位を狭めてきている。
――通常、人間というものは無意識に力に制御を掛けている。
例えば、火事場の馬鹿力というものがある。これは筋力が普段制限している力を、火急の場にてその制御を外した時に得られる本来の力であるが、反面、その場を凌ぎ切った後は骨折などをしていることも多い。
なぜなら、筋力の力に骨が耐えきれないからである。なので、普段は筋力を制御することでそういう事故が起こらない様にしているのである。
これはESP開発にも似たようなことが用いられる。
自我接続面の拡張を行うために過度の負荷をかけることで拡張を行う手法はESP開発に置いて一般的な方法である。
この施設においても適性が低い者達に共同生活をさせ、その上で成績に応じてあえて待遇に格差を与えることで、集団内に不和が起こりやすい環境を作り、ESP発現が起こりやすい環境を作っている。
ドロシー達が夢で体験したぎくしゃくした人間関係の共同生活はおそらくこれであろう。
であるならば。
捕まれば確実にアンデッドにされるため明日はなく。
唯一のつながりであったドロシーが失われる恐怖に我を忘れ。
無力感に自棄になったウィンキーのESPが暴走するのはおかしなことではない。
ドロシーには劣るもののウィンキーのESPもこの施設ではトップクラスの能力を持っており、それが、自らの脳が焼ききれることも恐れずに、今行使された。
†
眠る寸前の心地よい感覚に揺蕩っている。
うとうと、と、微睡むような。いつの間にか意識を失って、はっと目覚めるのを繰り返しているような状態。
一度、意識を失うたびに光景が切り替わっていく。
ある時は、5mを超える巨人となり周囲を見渡している状態で、緩慢に動く腕で地面から生えている木を掴み持ち上げると、用意に引っこ抜けた。
次に意識が気づいたときは白い手術室で誰かに施術を施している最中だった。滅菌された緑色の布から鋏状の器具を持ち上げて、回復された腹部の白い腸に手を掛けたところである。
私に医療知識はないのだが、何故か、この腸を切り裂き、内容物を吸引したあとに洗浄する途中であることが分かる。なので、そっと鋏を近づけ、ちょきりと切り裂く。麻酔をされ意識を失っている筈の、手術台の私に自らの腸を切り裂いた柔らかな感覚が伝わった。
そして、私は今、頭蓋を切除されている。それを別の私が見つめ、頭蓋を切除された私の頭から露出した脳を見ている。その背後から別の私が針を取り出し、固まっていた。
工程はわかっていた。これから露出した脳に針を突き刺し、電極を入れ、粘菌コンピューターと接続する作業を行うのだ。
しかし、できない。なぜなら、私に自ら針を刺して、自らの脳に電極を突き刺すような恐ろしい作業が出来るだろうか。それがわかるからこそ、固まるのだ。
いま、この施設において、自他という区別はない。
ESPの暴走事故により施設内のすべての生物――粘菌コンピューターすら含め――は自我暴露され、全ての自我が同一に融合した状態となり揺蕩っているからだ。
脱走者を収容するために追走したアンデッドも、ESP訓練のために迷路を彷徨っている被験者も、次の予定を話している学者たちも等しく”私”である。
そこに自他の境目はないため、誰かの身体を触れば自らも触られた感覚がある。
例えば、外の蜘蛛の巣にかかっている蝶を捕食しようとしている蜘蛛は、自ら(くも)が自ら(ちょう)に噛みつき消化液で内臓を溶かされている感覚を味わいながら捕食していた。
施設内の人員はその痛みをすべて共有しているのである。
微睡むような気持で全員がそれを味わっている。
その共有している視界が、1つのティディベアを見つける。
土で汚れ、血に塗れた、ティディベア。
溶けあった自我の中がぼうっとそれを見つめるなか、1つの約束が思い出される。
『ドロシー、もう一度会えるでしょうか』
『うん、絶対に会おうよ。だから、これは約束』
互いにティディベアとリボンを交換して交わされる再開の約束。
すっと一人、混ぜ合った自我の中に一人立ち上がる。
「行かないと」
様々な色が混じりあい不定形に変化し続ける想念の世界。それは色が変わりゆくスープが不定形に蠢いているように見える。
その中から触腕が1つだけ伸びたかと思うと、そのまま不定形のスープの中から千切れ、独立した。
自らの名前すら思い出せないが、それでも交わした約束を守ろうと、その場から離れだす。水に浮かぶように、ふわりと。夢から覚めるような上昇感を覚え、その場を後にする。
そして、完全に覚醒する寸前、かつてよく聞いた声で「許して……」聞こえ、振り返ろうとしたが、それよりも早く彼女は目覚めてしまった。
†
「ドロシー?」
褐色に白い肌がところどころつぎはぎされた少女が心配そうにドロシーを覗き込んでいる。いまならわかるが元の色は白のほうだが、いまは褐色肌の方の面積が多くなっている。
ピクリとリボンのついた犬耳を揺らして、彼女には珍しく心配そうな表情が隠れていない。
拉げた腕が痛々しく曲がっており、だらりと力なく垂れ下がっていた。
トトだ。背中の棺に入れおいてはずだが、いつの間にか出てきたのだろう。
「何があったでありますか……?」
トトの言葉に、ドロシーの瞳から涙が零れ、地に落ちた。