「結果発表!」
いえー、と陽乃は一人で楽しそうだった。
期末テストも終わり、全ての答案が返却されたのは昨日。張り出された総合順位を見たその足で生徒会室に足を運んだ八幡が見たのは、やけにハイテンションな陽乃だった。
「見切り発車し過ぎでしょう。入ってきたのが俺じゃなかったらどうするつもりだったんですか?」
何をするかわからない人間という陽乃のキャラは既に全校生徒に知れ渡っているが、それでもあまり見られたくはない姿というのもあるだろう。具体的には、八幡がきたと想定して取った行動を、全く関係のない人間に見られるとか。自分がそうなったら死にたくなるようなその光景を想像し八幡は思わず身震いしたが、陽乃はあっけらかんとこう答えた。
「私が八幡を間違える訳ないじゃない」
「嬉しいですね。その根拠は?」
「足音。八幡の足音は腐ってるから、すぐにわかるよ」
「次からはすり足で近づくことにします」
「無駄じゃない? 腐った足音が腐ったすり足の音になるだけだと思うし」
自分は何から何まで腐っているらしい。何となく暗い気持ちになりながら、八幡は自分の書記席に鞄を放り投げると、お茶セットの置いてある場所に移動する。陽乃の机に紅茶はない。自分で淹れた方が美味いのに、他人に淹れさせたがるのである。八幡としてはたまには陽乃の淹れた紅茶を飲みたいのだが『他人に奉仕する自分』に拒絶反応が出るらしく、八幡がいる限りは決して自分ではやらないのが陽乃だ。ちなみに彼女の一番嫌いな言葉はボランティアである。
「そ・れ・よ・り、どうだったの? もちろん、約束は守ったよね?」
目を輝かせながら身を乗り出して聞いてくる陽乃に、八幡は黙って紙を差し出す。張り出されるのは総合順位だけで、個々の結果は個人にしかわからないようになっている。八幡が渡したのは、その詳細結果が書かれた紙だ。陽乃はそれをもぎ取るようにして受け取ると、さっと目を通した。途端、喜色に染まっていた顔に、僅かに落胆の色が混じる。
「数学、ようやく平均点なんだ……」
「一桁だったことを考えれば大分進歩したと自負してます」
数学の順位は今回の賭けには関係ないが、突っ込まれる要素はできる限り排除しておきたかった八幡は、数学にもそれなりに勉強の時間を割いた。陽乃にはバレないように、こっそりとである。彼女の指導をあまり受けることができなかった分、他の教科に比べれば成績は振るわなかったが、点数一桁から平均点までという獲得点のアップは全教科でも文句なく最高のもの。今回の勉強である意味最も成果の出た教科と言えるだろう。
だが、陽乃にとってはその程度の結果であるらしい。賭けの埒外ではあるが、それでも高得点を取ることを期待していたのだろう。自分で用件の外に出したくらいだから制裁こそないだろうが、次に似たような賭けが発生した場合は、数学も組み込まれることは想像に難くない。今よりハードルは上がると考えて良いだろう。その時困らないように、勉強は継続的に続けていかなければならない。
元より友達がおらず、自分か妹のためくらいにしか時間を使っていなかったから、それを勉強に費やすくらいどうってことはないが、自主的に勉強時間を増やす自分に驚きを覚える。これではまるで真面目な学生のようだ。
「でも目標は達成できたね。偉い。流石八幡」
「お褒めいただき光栄ですが、あまり褒められてる気がしないのは何故でしょうね」
言いつつ、淹れたお茶を陽乃の前に差し出す。陽乃は紅茶から立ち上る香りを一度楽しむと、カップに口をつけた。
「相変わらず成長しないね」
「精進します」
いつもどおりのやり取りを経て、自分の分を淹れると、書記の席に腰を下ろす。
ともあれ目標は達成できた。陽乃に勉強を見てもらった教科は軒並み高得点を達成。一番ハードルの高かった国語も、本腰を入れて勉強した結果無事に一位を獲得することができた。陽乃の模範解答付で過去問を解いた結果、遭遇した同じ問題を確実に拾うことができたのも大きい。
陽乃のフォローと自分の努力の結果。国語の一位に関して八幡はそう信じて疑っていないが、生徒会室に頻繁に顔を出す静が国語の教師ということもあり、問題をリークしたのではという噂が一部で広がっている……とは、静自身が教えてくれた。根も葉もない噂であるから放っておけば消えるだろうが、高得点が続くようなことがあれば再燃する恐れもある。
気にしてなくて良い、と静は笑っていたがその辺りも対処する必要はあるかもしれない。そのためには『こいつならば高得点を取ってもおかしくはない』という環境を作り上げる必要がある訳だが、それが友達のいない八幡には面倒なことだった。
クラスにいるのははっきりと敵意を向けてくる敵か、表面上は静かな敵か、あるいは無関心を決め込んでいるただのクラスメートしかいない。最低でもクラスの三割くらいは敵だろう。その多くはリア充で構成されており、クラス内ヒエラルキーの上位は彼らによって占められている。味方のいない状況ではイメージアップもない。良い成績を取り続けたとしても、不正を続行した結果という印象は彼らの中で残り続ける。クラスでデキる人間というイメージを表面的な物にするのは、今のままでは不可能だろう。
静を援護するのは難しいことのように思えた。
救いがあるとすれば、教師の側には八幡の不正を疑っている空気がないということだ。陽乃個人は真面目な教師にウケが悪いが、そこに八幡までは巻き込まれていないらしい。リア充がどうこうというのは生徒側の問題だ。生徒の間には根強く存在するやっかみも、教師にはない。生徒に無関心と言ってしまえばそれまでだが、静のように肩入れしすぎる教師の方がレアなのだ。
教師というものに何も期待していない八幡の目から見ても――面倒な部分は色々あるにしても――良い教師には違いなかった。できれば迷惑はかけたくないと思えるほどには、静のことを信頼していたし好いていた。
しかし静を援護する方法は思いつきそうにない。何より本心を言えば面倒くさい。自分のイメージ向上を自発的にするなど、自分のキャラに反する。そんなことをしても失敗するだけで面白くないし、何よりそういう行動は陽乃に介入される恐れがあった。自分の不得意な分野で陽乃に介入されたら、確実に事態は悪い方向に転がる。あらゆる意味で生徒達の頂点に立つ陽乃にとって、一人の生徒を追い詰めることなど造作もないことだ。
そして陽乃は平気でそういうことを実行できる精神の持ち主であった。特に身近にあるものにほどそうなる傾向が強くなる気がする。物理的に距離が近いだけの自分でこれなのだ。お気に入りの姉妹とかいたら、一体どんな仕打ちを受けるのか……想像するだけで恐ろしい。
いるかも知れない姉妹には同情する。もし会う機会があったら、その時はできる範囲で優しくしようと八幡は心に誓った。
「邪魔するぞ」
そろそろ来ると思っていた。国語教師なのに白衣を着た静は平然と生徒会室を横切り、会計の席についた。そこは静の指定席である。八幡は黙って紅茶を入れると、静の前に差し出す。静は紅茶の香りを聊か雑に楽しむとそっと紅茶に口をつけ、小さく溜息を漏らした。
「やはり自販機の紅茶とは違うな」
「率直な意見をありがとうございます。それで今日はどういったご用件で?」
「比企谷が随分と頑張ったようだからな。祝いの言葉を言いにきた。まずはおめでとう比企谷。頑張ったな」
「どうせ『雪ノ下陽乃が選んだだけのことはある』みたいな言葉が続くんでしょう?」
「良く解ったな。が、陽乃の手伝いがあったとは言え努力をしたのはお前自身だし、結果を出したのもお前だ。もう少し誇っても良いと思うが……」
「心の中に留めておきます。調子に乗るとロクなことにならないってのは、中学の時に嫌というほど学びましたからね」
「謙虚というにはあまりに後ろ向きだな。まぁ、らしいと言えばらしい訳だが」
ふむ、と小さく頷いた静は陽乃に視線をやる。
「陽乃、何かご褒美は考えてるのか?」
「静ちゃんのおっぱい?」
「それは忘れろ……お前が提示したことを比企谷は達成したんだ。それについては、何らかの報酬があっても良いと思わないか?」
「報酬のない仕事って、良くあることって聞くけど?」
「それが平然とまかり通るようになったら世の中おしまいだ。私は教師だからな。世の中を少しでも良くするために、教え子を教え導くという建前があるのだ」
「びっくり。何だか静ちゃんが先生みたい」
「そりゃあ、先生だからな」
ははは、と笑う静が差し出した空のカップに、紅茶を注ぐ。気分はまるで執事だ。紅茶を注ぐ八幡を静は視線だけで見上げ、ぱちり、とウィンクする。不器用でらしくはないが様にはなっていた。美人は何をしても絵になるという実例である。裏にどういう意図があるのか知れないが、陽乃にご褒美を促していることを、静はこちらに対する貸しと考えているようだった。教師らしいことを言った直後だが、何事もタダではないらしい。
これが普通のクラスメートであれば最初から踏み倒すことを考えただろうが、相手が静であれば話は別だ。人格の破綻している陽乃の相手をできる唯一の教師である。彼女がヘソを曲げて生徒会室に来なくなれば、それだけ八幡の負担は増す。静を逃がす訳にはいかないのだ。
「ご褒美ねぇ……」
陽乃は頬に指を当ててしばらく考えた後、八幡と静をみてにやりと笑った。
「八幡、軽井沢って行ったことある?」