陽だまりの君へ   作:Mi-Me-2

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クラーラ回です。今回の話は二話執筆終了と同時に書いたもので、多少加筆修正はしましたがおかしいところがあったら指摘してもらえると嬉しいです。
イチャイチャさせるのが意外と楽しいことに気づきました。

あと、読みが難しい漢字にはルビを振れ、と言われたので今回からルビが少し多目になります。



9.逢瀬/芸術

 それは、芝生でカチューシャたちがデートの約束を取り付けているのとほぼ同時刻。

 カツカツと足音を響かせ金色の髪を靡かせながら廊下を歩いていたクラーラは、お目当ての男子生徒を見つけるや否や彼の襟首を掴んで自分の方に向かせた。

 

 そのままの勢いで男子生徒の背を廊下の壁に押し付ける。

 

 その際、意図的かそうでないのか自身の胸を相手の胸板に押し付けるようにして密着し、襟首を掴んでいた手を滑らかにスライドさせて襟首を掴みあげた。

  流れるような一連の動作。された側の男子生徒は何をされたのかも分からずにきょとんとしている。

 

 クラーラがもし血気盛んな不良のような見た目だったら、いや、もう少し剣呑な表情だったならばすわ喧嘩かと思われてしまいような格好で、クラーラは()()()()()()()

 

『デート、しましょう』

 

「はァ!?」

 

 問答無用でデートの約束を交わした。

 

 

----------

 

 

「で、行き先が美術館かァ…」

 

「嫌ですか?」

 

「いンや。別に……」

 

「ふふ、なんだかアキラと話しているだけで楽しくなってきちゃいますね」

 

「なンでだ!?」

 

 街中でロシア語を使うと色々注目を浴びてしまうから嫌だ、という小此木側の意見によって日本語で会話する小此木とクラーラ。

 初めはその流暢さに驚いた小此木だったが、クラーラも小此木独特の訛りに興味を抱いたらしい。先ほどから彼の訛りがつぼに入ったのか、定期的にお腹を押さえて笑っている。

 

 

 

 不意打ち気味のデートの約束、その目的地は本州にある美術館だった。クラーラの話によると様々な芸術品が美しく展示されており、何週間かの間隔で何らかのテーマによる展覧会が開かれているらしい。

 学園艦と本土を繋ぐ連絡船を降り街を歩きながら、付き合ってもねェのに二人で出かけンのはどうなのかねェ、と小此木は弱気に考える。過去調子に乗った経験から、女子とある程度距離を置いていたために、今日の小此木は妙に元気が無い。

 

「大丈夫ですか、アキラ?」

 

「大丈夫大丈夫。これでも元は運動部だからなァ、体力が無けりゃアやってられねェんですよ」

 

 言って大きく伸びをする。

 まァ今日は『女子とのデート』じゃアなくて『恋愛小説の資料集め』ということにするかァ、と気楽に考えることにした。あんまり女子に気を使わせるのも、彼にとっては居心地が悪いのだし。

 

「私は美術館ってあんまり行ったことないんですが、アキラはどうなんですか?」

 

「そうだなァ……俺もあンまり行かねェなァ」

 

「…あまり乗り気じゃなさそうですけど、もしかして美術館は嫌いですか?」

 

「ンー。まァ、嫌いじゃアねェよ。ただなァ、あの雰囲気がなァ……」

 

「雰囲気、ですか?」

 

 あァ、と小此木は頷き、流れる汗を暗い灰色のハンカチで拭う。

 

「あの『ここに置いてあるものは綺麗なんですよ』みてェな感じ…というか、あの厳密な規律と価値観に縛られてるみてェな感じが苦手でな」

 

「…そうですか。なら、行くのは止めますか?」

 

 とンでもねぇ、と小此木は首を振る。

 

(たま)にゃアいいさね。それに」

 

「それに?」

 

「二人で行けば何か変わるかもしれねェだろう?」

 

 クラーラが足を突然止めた。じっと小此木の目を見つめる。

 

「…アキラって」

 

「……なンだよ」

 

「結構クサいですね」

 

 ぐわっ、と小此木は思わぬ精神攻撃に胸を押さえ、クラーラの曇りない目を見る。いや、自分でも若干クサいなとは思ってたンだが、などと言い訳じみたことを呟きつつ、恨めしげに。

 そんな小此木を見て、クラーラは吹き出した。

 

 

 

 

「……にしても、やっぱ学園艦とは違ェなァ」

 

「高層ビルなんて、艦上じゃ立てられませんからね」

 

 世間話をしながら、いくらか活気のある街並みを歩く二人。背が高く足が長い分自分の方が歩く速さは早い筈なのにどうして自然にクラーラが隣に並ぶんだ、と小此木は若干の汗をかきつつ、目的地に向かう。

 

「そういや、今ってなンかの展覧会とかやってるのか?」

 

「今はタカヤ・クロギメという人の展覧会が開かれてるらしいです」

 

「…いや、それは黒極(くろごく)崇彌(たかや)って読むンだ」

 

「クロゴク、ですか?」

 

 首を傾げるクラーラ。そんな彼女に、小此木は軽い薀蓄をたれてみる。

 

「あァ、黒極。元々は江戸時代の歌舞伎役者の位付けでの最上位のことを『黒極上上吉』って言ってな。そこから『黒極』だけで最高、最上を表す言葉になったンだと。

 まァ、黒極ってのは本名らしいから意味はあンまり関係ねェけどな」

 

「なるほど。…随分詳しいですね?」

 

「…無駄知識ほど覚えやすいんだよ。こういうのは」

 

 唇を尖らせる小此木に、それを見て笑うクラーラ。 ひとしきりクラーラが笑い終わったところで、小此木は零すように呟く。

 

「それに、黒極崇彌のファンなンだよ、俺ゃア」

 

 きらりと、その言葉を聞いてクラーラの目が輝く。

 

「……ほう。それは、白沢さんとは関係の無いところで?」

 

「…やっぱ、有名だよなァ、それ。確かにアイツは黒極崇彌の孫だけどよ、別にアイツと付き合いがあるから作品が好きなわけじゃアねェよ」

 

 そもそも夜一の口からンなこと聞いたことねェし、とこぼしてから小此木は続ける。

 

「さっきも言ったろ?俺ゃア芸術作品の『これは綺麗な、褒められるべきものなんですよ』みたいな感じが嫌いなんだ、って」

 

「言いましたね」

 

「でもよォ、黒極崇彌の、特に若ェ頃の作品はそういうンじゃねェんだよ」

 

「はぁ。どういう風に、ですか?」

 

「ンー、なンつーか…。まァ、見りゃア分かるさ」

 

 ほら、ここだろう?と小此木が足を止めるのにあわせてクラーラも足を止める。

 

 話している間に、いつの間にやら目的地である美術館に来ていたらしい。小此木たちの目の前には大きな建物が威圧するようにそびえたち、その前の噴水の中心には見事な造詣の彫像が誇らしげに建っていた。

 もうとうに敷地内に入っていたらしく、見渡すと周りには前衛的なアーチやらどこかで見たことがあるような像のレプリカやらが(まば)らに設置されていた。

 

「ほら、行くンじゃねェのか?」

 

 クラーラの目の前に歩み出し、ほれ、と小此木は手を差し出した。

 そんな彼の手を、何も認識できなくなった機械のようにクラーラはじっと見つめる。

 

「……」

 

「……? 何だよ。ここまで来て入らねェのか?」

 

 不思議そうに、二人ともが同時に首を傾げた。

 

「……この、手は、一体?」

 

「一体何って、そりゃア……」

 

 そこではっと何かに気付いたように、小此木は赤面して手を引っ込めた。だが、何も分かっていないクラーラの様子をチラチラと伺い、また手を今度は躊躇いがちに差し出した。

 

「……デート、なンだろう?手ぐらい、繋ぐもンじゃねェのか……?」

 

 徐々に尻すぼみになっていく語尾。恥ずかしそうに顔を赤くさせる小此木をたっぷり数十秒見つめて、ようやくクラーラも事態を把握したらしい。

 

 

 ボフッ、と音がしそうなほど急速に、雪原のように真っ白だったクラーラの頬が紅く染まった。

 

 

----------

 

 

 小此木たちが美術館に入館してから、およそ数時間後。カチューシャたちは美術館から少し離れた水族館内の大水槽前にいた。

 カチューシャは声を押し殺してヴィーチェルの胸で哭き、ヴィーチェルはそのナイフのような事実に耐えるように、ただ小さな彼女を抱きしめる。

 

 誰もいない水族館の中で、どれほどその状態だったのだろう、カチューシャはやがて泣き止み、ヴィーチェルの背に回していた腕を解こうとして、

 

「……ヴィーチェル?」

 

 ヴィーチェルが、動いていないことに気が付いた。

 

「ヴィーチェル!?」

 

 固く目を瞑ったままの彼は、カチューシャという支えをなくしてがくりと頭を垂れた。

 

 そんな彼の肩を掴んでがくがくとカチューシャは前後に揺さぶる。このまま目覚めないのではないかという、悪い予感に苛まれながら。

 

 幸いなことにカチューシャの嫌な予感は的中せず、ヴィーチェルは目をゆっくりと開けた。仄かに安堵したカチューシャだったが、その顔を見てぎょっとする。

 

 顔色が真っ青だった。それだけではない。紫色に近い唇を震わせ、目は焦点を失って虚ろに揺らめいている。

 

「だ、大丈夫!?」

 

 その声に、不規則に揺らめいていたヴィーチェルの瞳が光を取り戻した。ゆっくりと顔を上げ、カチューシャと目を合わせる。

 

 怯えたように、笑った。

 

「…あ、あ。大丈夫。大丈夫……なんだ」

 

 そう言って立ち上がり、……ふらついた足取りで、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

「ヴィーチェル……?」

 

「……あ、あ?……すまない、少し、時間を」

 

 震える声で言って、顔を手で覆う。混乱したカチューシャは、何も分からずうろたえたままその様子を眺めている。

 

「…待たせた。もう、出ようか」

 

 幾分顔色が回復した、けれど具合は悪そうなままにヴィーチェルは提案する。

 

 外に出よう、と。

 

 カチューシャは、心配そうに頷くことしか出来なかった。

 

 

 

 

「もう大丈夫だ、安心してくれ」

 

 夕暮れの雰囲気を漂わせる水族館の横にあるビオトープで、ヴィーチェルは言った。

 

「ほんとに、大丈夫なの?」

 

 いつになく心配そうにカチューシャはヴィーチェルの顔を覗き込んだ。ヴィーチェルは普段通り、無表情に振舞う。

 

「安心してくれ、ちょっとした眩暈だから」

 

 嘘だ、とカチューシャは直感した。あの怯えようは間違いなく何か原因がある。

 

 多分、(カチューシャ)が泣いている間か、その前後に。

 

 カチューシャがそんなことを考えている間に、ヴィーチェルは何か気になるものを見つけたらしい。

 

「蓮の花、だ」

 

「え?」

 

 カチューシャが振り返ると、ビオトープの池に蓮の葉が浮いていた。その中に、蕾のようなものが混じっている。

 

「蓮の花?これが?」

 

「ああ、今は夕方だから閉じているんだろう」

 

 話を逸らしたがっているんだな、とカチューシャは思ったが、問い詰める気にはならなかった。

 

 

 それは、ヴィーチェルの名前を知ろうとしないことと同じだ。

 この関係が壊れるのを、私も彼も避けているんだ。

 

 

「今日は、すまなかった。不愉快な思いをさせてしまった」

 

 不意に呟かれた言葉はとても小さく、感情的だった。

 ヴィーチェルらしからぬ、言葉。

 

「…別に。気にしてないわ」

 

 カチューシャは一言に彼の謝罪を不要と切り捨てた。二人はじっと池を見詰める。その間に、太陽が水平線の彼方に沈んでいく。

 

 夏の長い日が、終わろうとしていた。

 

 

----------

 

 

 美術館の中は、荘厳さえ感じてしまいそうになるほど静かだ。

 そんなことが数時間後に起こるとは微塵も思っていない小此木は、窮屈そうに首の後ろに右手を回しパキパキと首を回す。

 その音すら響き渡りそうなほどの静寂。そこそこ見学者はいるものの、誰も彼も口を縫ったのかと疑いそうになるくらいだ。

 

 ()しくは、全員が小説の特に意味も無い一般群衆(モブキャラクター)なのかもしれない、なんてことを小此木は現実逃避気味に考えてみたりする。

 

「アキラ、アキラ」

 

 何かにがっしりと左腕をロックされている、その左側から可愛らしく弾んだ、しかし他の見学者の邪魔にならないくらいに小さい囁き声が聞こえた。

 油の切れたブリキの玩具のように首を回す。

 

「ねぇ、これはどういう絵なんでしょう?」

 

 両腕で小此木の左腕をホールドした、上機嫌に微笑むクラーラの姿があった。抱きしめるような、ともすれば頬擦りさえしそうなほど密着した格好で。

 

 美術館に入館する直前からずっとこの調子だ。小此木は嬉しいやら何やら色々入り混じったような複雑な表情を浮かべ、真上の天井を仰ぐ。

 原因は分かっている。

 まぁ、入り口前での手を繋ぐどうのの話だろう。

 

「クラーラ? あンまりくっつかれると歩きづれェっていうか、その、さ」

 

「そうですか?私は大丈夫ですよ?」

 

 話が通じない。こういう相手にゃア理屈が通じねェんだよなァ、と小此木は頭を抱えたくなる。

 抱えるための手、その半分は彼女の支配下にあるので頭を抱えて蹲ることは適わないのだが。

 

 まァ、と小此木は現実の打破を諦めて妥協に回る。

 こういうのも、悪くない。

 

「先ず説明文を読めって。大体俺の説明よりかは詳しい解説が載ってる」

 

 小此木たちの目の前には、黒極崇彌がまだ高校生だった頃に書かれた絵画があった。すぐ隣に貼られた説明書きのパネルにはこうある。

 

 

 【題を『懈怠(けたい)/冬』。青年時代当時に黒極崇彌が居住していた家、その中の彼の部屋から見えていた景色を描いたとされる風景画。重厚な夜の、紫にも見える暗い色にぼんやりと浮かび上がる黒ずんだ積雪の明かりと、光源であるはずなのに影を降らせている月。満点の星を映す川面が滲むように流れている。

 この頃から黒極崇彌はキャンバスの端に題を走り書きで書く癖が出来ているのが分かる。『懈怠』と名付けられたこれらの作品は四季の風景を描いた四つがあったが、『秋』は借金の片に売られ、その後の調査によって焼失したとされている。

 また『目に入る全てが退屈で醜悪で怠惰だった』と本人が評する頃、後の妻となる「久保谷(黒極)元子」と出会う前の彼を象徴する作品であり、風景の美しさに隠れた醜さを強烈に描き出した作品である……】

 

 

「なんだか、変わった人ですね」

 

 小此木の腕に絡みついたまま、クラーラがため息を零すように言った。

 

「醜いものをわざわざ描くなんて」

 

「そうでもねェ。醜さを描くことで何かを際立たせようとしたのかも知れねェだろう。…まァ、この作者に限って言やァそンなこたねェんだろうが」

 

 その隣の絵は『懈怠/春』と題されている。絵の中の川には上流で散ったらしい桜の花びらが浮いており、『冬』に雪が積もっていた野原には足を引き摺った犬がこちらを見ていた。

 

「『一生を通して写実的な絵を好み、何気ない日常にもイーゼルを立てるほどに写生画に拘っていた』ですか。見たままの世界を描写するのに固執したんですね。

 …でも、世界の全てが醜く見える、というのはどうなのでしょうね。そんな生き方しか出来ないなら、その人はいつか壊れてしまうと思うのですが」

 

「違ェねェ。だが、見るもの全てが醜いなら見なければ良いのさ。どうしても見えちまうなら関心を抱かなきゃア良い。俺たちヒトが無意識にやっていることだ。

 だが、それでも黒極崇彌は目の前の風景を写生することに拘った」

 

 『懈怠/夏』の前を通り過ぎる。燦々輝く太陽の下、青々とした野原に小さく描かれている子供達の、そこでケラケラと笑う様子が目に浮かぶほどに情景が真に迫っている。

 

「小説でもそういうのは同じだろうなァ。だが、景色をそのまま描くのなら写真を撮れば良い。黒極崇彌(カレ)が写真家にならなかったのは、誰かに何かを伝えたかったからなンだろうさ」

 

「誰か、というのは?」

 

 さァ、と首を横に振る小此木。

 

「芸術家ってのはどこか一本くれェ頭の螺子が外れた奴らばっかりだからなァ。俺なンかじゃア理解できねェよ」

 

 『未来を繋ぐ』と題された木の苗の絵の前で、右肩をすくめて小此木は言った。

 

 

 

 

 時折足を止めながら、特設の白い画廊を歩く小此木とクラーラ。

 ふと、クラーラの目に入るものがあった。クラーラは立ち止まる。もちろん腕を抱かれた小此木も立ち止まらざるを得ない。

 

「どうしたンだ?」

 

「……これは」

 

 クラーラがじっと見つめているのは、この展覧会の中でも抜きん出て鮮やかな一枚の絵だった。

 透き通る水に、射し込む陽。森の薫りすら漂ってきそうなほど巧緻に描写された森の風景。生物学的にはギャップとも呼ばれる森の間隙に存在する、清らかな泉。その水面に浮かぶ花は、華やかなれどどこか儚い。

 

「あァ、それか。有名な作品だろう?」

 

「蓮の花、ですか」

 

 お、と目を丸くする小此木。そこに目をつけるのかァと言いつつ、自身も視線を絵に向ける。 

 

「題を『加持(かじ)』。加持ってのは、仏教用語だな」

 

「どういう意味の言葉なのですか?」

 

 尋ねてくるクラーラに小此木は苦笑した。詳しいことはよく知らねェ、悪いがまた今度調べとくとバツが悪そうに告げる。

 

「ンで、この絵の何に惹かれたンだ?蓮、好きなのか?」

 

「ええ。蓮の花言葉、知りませんか?」

 

 知らねェな、と否定の意を示す小此木にクラーラはフフンと鼻を鳴らし説明を始めた。

 

「いいですか、蓮は仏教と密接な関わりを持っています。それは知っていますか?」

 

「あァ、確か『泥沼から生えるのに美しい花を咲かせる』って話が『逆境、苦しみを乗り越え悟りを開く』って仏教の教えに即している、とか」

 

 小此木の言葉に、はい、その通りですと嬉しそうに微笑んで、クラーラは続ける。

 

「花言葉もそこから派生したものが多いんです。例えば『清らかな心』『神聖』とかですね。マイナスイメージ的ですが『救ってください』というものもあるそうです」

 

 それ以外にも『沈着』『休養』など色々あるんですけどね、と止め処なく話すクラーラの話を小此木は反芻する。

 

「つまり、そういうイメージを描き出したってことなのか、この絵は?」

 

 小此木は説明のパネルを探してみたが、辺りには何もない。

 それはわかりませんけど、と極めて至近距離で反応してくれるクラーラがいるだけだ。

 

「…しかし、『離れていく愛』という花言葉もあります。蓮の花びらが一枚一枚散っていく様子から来たらしいですが、絵に描かれた蓮は、決して散ることはないでしょう。この森の中で、光に包まれて咲き続けます。

 花言葉を黒極氏が知っていたかはさておき、そういう風にもとれる絵だということは間違いないと思います」

 

「……そこまでメッセージ性を詰め込ンだ絵を、写実主義の画家が描いた。その時点でもう、晩期への変化は始まっているンだってことか」

 

 ほう、と小此木はため息をつく。やっぱ感受性ってのは鍛えとかねェとダメだなァ、なんて首を振る。

 

「『加持』ねェ…。わざわざ仏教用語にしてンのも意味があるのかも知れねェなァ」

 

 絵を見るにゃア知識は要らねェが没入するには必要なンだなァと小此木は呟いた。

 至近距離にいたクラーラが首を傾げる。

 

「なにか言いましたか、アキラ?」

 

「いいや。そンなことより次に行こうぜ。このペースだと回りきれねェ」

 

 腕を抱かれたまま小此木は歩き出す。先ほどとちょうど逆、小此木がクラーラを引っ張るように歩き出した。

 その言葉にはい、と嬉しそうに微笑んで、クラーラは小此木の腕に頬をすり寄せた。

 

 

 

 

 黒極崇彌の晩期の作品は、それまでの作品とは違って色彩に溢れている。なるほど、確かに『加持』以降からはその違いが素人目にも分かるほど色使いが違う。

 小此木は『日暮』と題された、真っ赤な夕暮れに黒いシルエットを投影する林を描いた絵を見た。赤い空には見事な入道雲が描かれ、見る者にこの絵が夏を描いたものであることを無意識に思い起こさせる。

 

「こりゃア読み方は『日暮(ひぐれ)』でいいのか?」

 

 題を見て小此木は首を傾げる。未だべっとりと小此木にくっついたクラーラが彼の言葉に反応した。

 

「『日暮(ひぐらし)』ではないでしょうか。今にもヒグラシの寂しげな鳴き声が聞こえてきそうですし」

 

 ほう、成る程なァと小此木は感心してクラーラの頭を空いている右手で撫でた。

 恥ずかしそうにクラーラは首をすくめる。

 

「…お、もうすぐ終わりか」

 

 見ると、展覧会の出口がもう見えるほどだった。時計は午後五時を指している。数時間は絵を見ていたのか、と小此木は目を丸くした。 

 その時、

 

「あ、この絵は」

 

 と、声を上げたのはクラーラだ。小此木も彼女の向いている方を見た。

 

「どうした?何か見覚えでもあったのか?」

 

「ええ、この絵は一度見たことがあります」

 

 クラーラが指差したのは、黄金にも似た輝く黄色に溢れた一枚の絵だった。横に広く、一面が金色の葉をつけた銀杏(いちょう)の木々の絵。

 だが、特に目を引くのはその鮮やかさではなく、その前にしゃがみこんでいる少年の存在だった。

 美しい景色がその真後ろに広がっているのにも関わらず、少年はぼんやりした様子で明後日の方向を向いている。

 

「ふうン……俺ゃア見たことねェなァ」

 

 そう言って小此木は銀杏と少年の絵に向き直って、しげしげと眺めた。描かれた銀杏の生え方からするとこの銀杏の黄金の景色は少年のほぼ全方向に広がっているのだろう、と小此木は感じた。

 では、何故この少年は明後日の方向を向いているのだろう?何故黒極氏はこの少年の視線をこのようにして描いたのだろうか?

 

「この絵、カチューシャ様が好きな絵です」

 

 この少年、誰かに似てンなァと顎に手を当てる小此木の隣で、思い出した、とばかりにクラーラが言った。

 

「カチューシャ?戦車道隊長の?」

 

 ええ、とクラーラは頷く。

 

「この絵に描かれた少年にいたく感心を持っていたように思います。『どこかで見たことがあるような気がするんだけど…』と言っていました」

 

「へェ……」

 

 小此木は絵の下の題を見る。『公孫樹』と書かれているそのプレートを見て、思わず彼は声を上げそうになった。

 

「こりゃア……夜一だ」

 

「え?」

 

「この子供。夜一だよ、白沢夜一。黒極崇彌の孫」

 

 ああ、とクラーラも頷いた。

 

「どこかで見たことがあると思ったのはそれですか」

 

「ああ。そっくりだ……」

 

 じっと絵を見つめて、小此木はため息をついた。ほとんどこの頃から雰囲気が何も変わっていない。

 変わり者らしい感じと、今にも眠りこけそうな不安定さがぼんやりと漂っている。

 

 説明文によると、この絵は黒極崇彌が死ぬほぼ一年前に描かれたものらしい。たくさんの作品を遺した彼の作品の中で、特に傑作とされている、とか。

 また、説明にも少年に対する文があった。確かにそこにもこの少年が黒極崇彌の孫ではないかと書かれている。

 

「こっちの絵は、どういう絵なんでしょう」

 

 クラーラが指したのはすぐ隣の絵だった。展覧会を締めくくる、最後の絵。

 黒極崇彌が遺した、最後の作品。

 

 『公孫樹の視野』と題されたその作品は、一際異彩を放っていた。

 

「こりゃア……」

 

 一目見て思わず、小此木も息を呑んだ。

 

 

 どこかの室内。物が所々に散らばった床を背景に、イーゼルとキャンバスが描かれていた。

 キャンバスには、先ほどの『公孫樹』よりも遥かに色彩豊かに、美しく描かれた銀杏があった。その『キャンバスの中のキャンバス』に描かれた美しさすら筆舌に尽くし難いほど。

 

 だが、異様な点というのは。

 そのキャンバスの中の銀杏以外に、色彩がどこにも存在しないということだ。

 

 

「どういう絵なんでしょう…?」

 

 クラーラが言う言葉も聞こえない。それほどに小此木は集中して絵を見つめた。

 背景に白黒で描かれた作業室と見られる部屋の床。絵の中のキャンバスに描かれた、先ほどの絵と比べても遥かに『美しすぎる』銀杏の絵。

 

「なンなンだろうなァ……」

 

 絵を穴が空くほど見つめて小此木がようやく搾り出したのは、その一言だけだった。

 

 説明文も簡潔な物だった。

 晩年、黒極崇彌が死の数週間前に完成させた絵であり、未完成などではないと妻の元子が証言していること。何を描こうとしたのか、未だ研究家の間でも論議が続いているということ。

 だが、ある程度潔癖なところがあった黒極氏がこんなに床に物を散らかすはずがないというのは共通の見解で、このイーゼルが置かれた部屋は黒極氏のアトリエなどではないということ。

 そして銀杏のキャンバス、この銀杏の絵は明らかに黒極氏の絵の描き方ではなく、それでもなお人々の心を掴んで離さないこと。

 

 黒極崇彌が遺した正真正銘最後の作品であり、本人のアトリエにひっそりと保管されていて、本人に発表する気はなかったのではないか、ということ。

 

 

 

 クラーラは、胸に迫る何かを抑えた。小此木も、何故か分からないが同じ気持ちだ、と思った。

 

 世界はこんなにも美しいと、銀杏の絵が訴えているような気がしたのだ。 

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