陽だまりの君へ   作:Mi-Me-2

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11.究明/極夜

 あくる月曜日。人の気配はありながら静寂に包まれた廊下を、カチューシャは歩いていた。ヒソヒソと声が聞こえて辺りを見回すと、ちらほら周りの目を憚るようにして話すグループが散見される。どうやら、同じような話題を話しているらしい。

 休日に何かあったのかしら。カチューシャは疑問に思いながら、自身の教室に向かう。

 

 

 教室は、廊下とは違う雰囲気で満ちていた。

 ノートにペンを走らせる音、物凄い勢いでページをめくる音、ぶつぶつと呟く声。静寂という言葉では言い表せない受験間近の高校三年生の静けさは思わず息を呑むほどに切羽詰っていた。

 プラウダには自由登校という期間はない。生徒は全員、通常通りに登校しなければならない。だがその代わり、午後で下校が許可される。

 何のための規則なのかしら、とカチューシャは思わずにはいられない。どうせ自習しかさせない癖に、と唇を尖らせる。

 

 そういえばヴィーチェルの姿を最近見ないわね、と机に座りながら考える。ここ数週間、文化祭からずっとだ。

 あの談話室の灯油も減っていない。ということは一度も来ていないということだ。無造作に置かれた安楽椅子を見るたびに、カチューシャは寂しい気持ちになる。

 

 そんなことないわ、カチューシャが寂しい訳ないじゃない、と鼻を鳴らし、カチューシャは気晴らしに勉強をすることにした。

 もちろん、戦車道関連ではなく普通の数学や英語などの科目だ。大学に行ったとき、カチューシャがどうでもいい相手に成績で負けるなんて考えられない、という思いからである。

 

 小さな手でノートにペンを走らせること一時間強。周囲の受験生も疲れたのか、少しばかり話し声が聞こえてくるようになった。

 

「ねぇ、聞いた?」

 

「あの…………でしょ、一体誰…………の?」

 

 勉強にもちょうど飽きてきたところだったので、カチューシャの耳に断片的な声が聞こえた。

 やっぱり、昨日何かあったらしい。

 

「噂じゃ…沢くん………わよ」

 

「ええッ!?白沢くんが!?」

 

 ちょっと、声が大きいわよ、という窘めの声。

 そこでカチューシャは、完全に勉強への関心を失った。

 

 ……『白沢』?その名前は、確か。

 

「ねぇ、アンタたち」

 

「あ、カチューシャ……」

 

 カチューシャが話していた女子生徒たちに声をかけると、女子生徒は少しばつが悪そうな顔になった。

 

「邪魔だった?ごめん、静かにするから……」

 

「そうじゃないわ。アナタたちさっき、『白沢くんが』とか言ったでしょ。何かあったのかしら?」

 

 女子生徒たちは、一瞬きょとんとした後、周りを憚るようにして声を潜めた。

 

 

「昨日ね、飛び降り自殺があったの。

 幸いに、未遂で済んだらしいんだけどね―――」

 

 

 

 

 

 

 

 昼休み。長閑な日差しが雪の積もった校庭を照らす中、全力で廊下を疾走するカチューシャは、目的である生徒会室に飛び込んだ。 

 

「生徒目録!渡しなさい!」

 

 突如として飛び込んできたカチューシャの叫びに、ビクリと高校二年生の生徒会役員は肩を震わせた。

 無理もない。これまでカチューシャは度々生徒会に無理を通していた。先代の生徒会でもそうだったのだから、先輩がいなくなった生徒会ではさらに好き勝手されるとでも思ったのだろう。だが、今回のカチューシャの目的はそんなことではなかった。

 

 カチューシャは小さな肩で息をしながら、渡された分厚い生徒目録を抱えるように持ってページを捲る。

 

「あ…か…さ…し…しら…白沢!」

 

 目当ての生徒のページに行き着いたのか、資料が色々散らばっているのに目もくれず机にカチューシャは目録をドンと置いた。ハラリとプリントが数枚机から落ちてしまったが、彼女の関心は一切向かない。

 

 彼女の関心は、或る一人の男子生徒の欄に向けられていた。

 

 

 3年8組。出席番号15番。

 白沢、夜一。

 

 

「ねぇ、ちょっと!生徒の個別写真が載っているのはどこにあるの!?」  

 

「え、あ、……これです」

 

 怯えられつつ渡されたバインダーをカチューシャは素早く捲っていく。クラスも、出席番号もわかっている。

 見つけるのは、時間の問題だった。

 

「ヴィーチェル……!」

 

 小さな証明写真に写った男子生徒を見て、カチューシャは思わず息を呑んだ。

 見慣れていたモノと比べて多少表情に陰があるが、間違いない。間違いようもない。

 

 

 白沢夜一が。

 彼こそが。

 

 

 プルプルとカチューシャは首を横に振ると、ポケットからスマートフォンを引き抜いた。そして電話帳の一番上に配置された番号を軽やかに叩く。

 ワンコールで、繋がる。

 

『なんでしょうか、カチューシャ?』

 

 頼りになるプラウダが副隊長、ノンナの声が、機械を通してカチューシャの耳に届いたのだった。

 

 

----------

 

 

「では、『白沢夜一』について調べるのですね」

 

「……ええ」

 

 カチューシャは戦車道隊長執務室の大きな椅子に沈み込むように座って、ノンナの確認に頷いた。

 

 

 カチューシャは生徒会室から出ると、ノンナとクラーラに連絡を取り、ヴィーチェル……白沢夜一のことを調べるようお願いした。今のところ、集まった情報は学校から(こっそり)得た彼の個人情報だけだ。

 実のところノンナは彼に対する聞き込みを過去にしているが、もちろんそんなことは口が裂けてもカチューシャの前では言えない。粛々とノンナは彼の住所から故郷まで、あらゆる情報をコンピュータで集めることに専念する。

 

 そんなノンナの事情など露知らず、カチューシャは大きな椅子に体重を預けて天井を見上げた。

 

「どうして自殺を図ったのか、ってことが一番知りたいことではあるけれど……」

 

 背もたれから背を離し、カチューシャは顎に手を当てて考える。

 しばらく考えても答えは出なかったのか、彼女は目の前にいる男子生徒に声をかけた。

 

「ねぇ、アンタはどう思うの?」

 

 そんなカチューシャの問いに、

 

「あのなァ、ンんなこと聞く前に俺に説明してくれ。なんで俺ゃアこンなとこまで連れてこられてンだ?」

 

 不満げに顔をゆがめた小此木が、来客用の椅子に座って不機嫌そうに声を上げたのだった。

 

 

 何故こんなところに彼がいるのか。

 勿論、クラーラが連れてきたからである。

 

 何故彼は不機嫌なのか。

 勿論、試験まで残り一ヶ月を切ったからである。

 

 小此木は隣のクラーラを睨みつけた。彼女こそ、白沢の自殺未遂でショックを受けている小此木に『白沢さんのことでお聞きしたいことが』なんて声をかけ、まんまと連れてきた張本人だからだ。

 睨まれてなお涼しげな顔で、クラーラは小此木の耳元に囁く。

 

「まぁまぁ。アキラも知りたいでしょう?どうしてシラサワさんが自殺なんてしたのか」

 

「……そりゃアな」

 

 ふむ、と小此木は考える。

 深呼吸を一つ。そもそも、彼の頭は今現在混乱しつつの高速回転真っ只中である。友人が自殺した、それも大きな要因の一つだ。

 だが、最も大きい要因は。

 

「よりにもよって、『あの』カチューシャかァ……」

 

 彼が聞いていた、『ソーンツェ』の正体だった。

 あまりにも、夜一から聞いていた印象と違いすぎる。

 

「何か言った?」

 

「なンにも」

 

 耳ざとく顔を上げたカチューシャに肩を竦める。

 アイツ、存外趣味悪ィんだな、と、失礼な感想を抱いたまま。

 

 そんなことを彼が考えている間に、カチューシャは何かを決心していた。思いつめたように立ち上がり、白沢の個人情報が載った資料をバサリと机に置く。

 

 

 

 

 ヴィーチェル。貴方が何を思って自殺したのか、それを知られたくなかったから黙って死のうとしたのか、その理由は知らないけれど。

 私は、それが許せない。

 

「見てなさい、貴方の『今まで』、カチューシャの名に懸けて暴いてみせるわ」

 

 

 

 だから。

 きっと、目を覚ましたそのときには。

 

 

 

----------

 

 

 

 カチューシャとノンナは、その次の日には飛行機に乗り込んでいた。小此木とクラーラはプラウダに残って白沢のことを調べてくれるらしい。受験勉強で忙しいだろう時期なのに、二人とも無理をした様子もなく「いいから」という雰囲気を醸していた。

 

 飛行機が離陸する。ぐうっと全身を押されるような感覚。向かう先は本州の山奥。

 まずは彼の過去。彼が生まれ、彼という人格を形作った、故郷へ。

 

 

 

 しばらく飛行機の硬い座席に耐え、小さな空港に到着したカチューシャは、バスに数時間揺られ、誰も使っていないような山の中のバス停に降りた。

 ノンナは途中のバス停で降りた。彼の通った学校や学園艦の出身者に聞き込みをしてくれるらしい。

 

 降りた途端に、腐葉土のような落ち葉の香りがつんとカチューシャの形の良い鼻をついた。針葉樹林のような空虚な森ではない。夏には鬱蒼と木々が、草が生い茂るのだろう生命溢れる森。冬の寒さの厳しい山奥に、透き通る空気を満たした森。

 

 ここが彼の、白沢夜一の源点なのだ。

 

「それにしても。

 ちょっと、交通に難があるんじゃないかしら…?」

 

 カチューシャは、いつ舗装されたのか予想するのも怖いほど摩耗したアスファルトの道路を歩き出した。すっかり落葉して落ち葉の溜まった道を、ガサガサと音を立てて歩いていく。通行する車は一台もなく、バス停で降りたのもカチューシャ一人だけだった。

 そのまま歩いてどれほど経ったのか。いつの間にか目の前に大きな家が見えていた。大きいといっても横に平たい、日本古来の屋敷という感じだが。

 

「ごめんくださーい」

 

 カチューシャはその家の玄関先で声を上げる。立派な屋敷だから門の一つもあるのかと思ったが、それほど豪華なわけでもないらしい。

 扉の内からただ今、という上品な声が聞こえた。

 

 すぅっと、音もほとんど立てずに戸が開く。

 上品そうな物腰の老婆が、そこにいた。彼女は突然の来訪者に驚いたように目を見開く。

 

「はい、どちらさまで…あら、カチューシャさん?」

 

「はじめまして、よね?黒極元子さん」

 

 カチューシャは、老婆の細い手と握手を交わす。事実通り孫ほど年の離れたカチューシャに、元子と呼ばれた老婆は柔らかに微笑んだ。彼女の皺だらけの手のひらは、乾いて冷たかった。

 

「遠いところまでわざわざありがとうございます。用件は聞いております、どうぞ、あがってください」

 

 老婆は微笑んでカチューシャに促す。カチューシャは少し硬い表情のまま頷くと、遠慮なく屋敷に上がりこんだ。

 

 

 

 

 

 静かな客間に通されたカチューシャは、粗茶ですがというお決まりの言葉と共に出された美しい緑のお茶から立ち上る湯気を見た。長い話になることを見越してなのか、少し熱めに淹れられている。

 

「紅茶の方がよろしかったですか?」

 

 カチューシャの向かいに座った老婆はにこやかに微笑んだ。言いながらも、彼女は落雁をいくつか載せた小皿をカチューシャの目の前に置く。別に構わないわとカチューシャが言うと、安心したかのようにまた微笑む。やはり血だろうか、柔和なその雰囲気は、どことなく彼を連想させる。

 

 カチューシャは緑茶を一口飲んで、口を開いた。

 

「早速で悪いのだけど。……夜一のこと、聞かせてもらって良いかしら」

 

 老婆はそこでようやく、笑顔から真剣な眼差しになった。……その少し緊張した空気は、すぐに老婆のため息で崩されることになったが。

 

「あの子のこと、ですか」

 

 そう言って、老婆もまた一口緑茶を飲んだ。

 

「……あの子が、自殺しようとしたということは先日連絡がありました」

 

「でも、ヴィ……夜一は、そんなことを軽々しくするような男には見えなかったわ」

 

「自殺を軽々しく行う人などいるものですか。本人には何か……重大な何かが、決定的なにかがあったのでしょう」

 

 チチチ、と小鳥が鳴いた。昼の麗らかな日差しが部屋に差し込んでくる。

 

「何か、心当たりとかは無いの?」

 

「……私は、ただあの子の保護者として費用を振り込んでいただけです。最後に会ったのは、もう数年前のことですから」

 

「そういえば、彼の両親はどこに住んでるの?確かに、学校の書類では彼の保護者は貴女と書いてあったわ。どうして、祖母である貴女が?」

 

「知りませんか。あの子の父親も母親も、二人とも死んでしまいました」

 

 淡々と告げられた言葉は、カチューシャの思考を止めるのに十分なものだった。二の句も告げられずにカチューシャは目を丸くする。

 そのカチューシャの目を見つめて、掠れた声で老婆は言った。

 

「母親……私たちの娘ですが、あの子はどこの者とも知らない男と心中したと聞いています。残された夫は生きているのか死んでいるのか分からないほど衰弱した末に亡くなったと」

 

 

----------

 

 

「そうですか……どうもありがとうございました」

 

 いえいえ、と手を振る相手に頭を下げ、ノンナは手元のメモ帳を閉じる。

 

 聞き込みを始めてもう数時間。白沢夜一のことを知っている人物を片端から調べ、話を聞く。彼の小学校の同級生、当時の教師、近隣住民。彼のことを忘れている人も少なからずいたが、思っていた以上に情報は集まった。

 

 一旦休憩と喫茶店に立ち寄る。とりあえずホットコーヒーを注文し、調査を書き取ったメモ帳、彼女の几帳面な小さい文字で埋められたページの一枚一枚に目を落とした。じっと、無表情に考え込む。

 

 

 

 調べた限りの話としては、こうだ。

 

 

 小学生から中学生にかけての間。

 白沢夜一は、どうもいじめられていたらしい。

 

 

 しかも、それは同級生からだけではない。小学校に入ってからは担任教師からも、中学に入ってからは上級生からも。

 

 そして唯一安らげる場所であるはずの自宅で、彼の母親からも。

 

 

 

 そもそも、彼は成績優秀、スポーツ万能と非の打ちどころのない少年だったという。あらゆる物に興味を持つ好奇心と運動神経、そして、祖父である黒極氏から受け継いだのか、()()()()()()()()そうだ。

 それだけ多才でありながら、いつも快活に笑い嫌味などを言う事も無く誰に対しても好意的に接し、自慢などをすることはなかったらしい。

 

 だが、それ故に。

 それ故に、彼は疎まれるようになったのだろう。

 

 『出る杭は打たれる』というやつか、とノンナは届けられたブラックコーヒーに口をつけながら思う。教師が物を教えれば鋭い疑問を口にし、同級生と共に運動をさせれば、絵を描かせれば他を圧倒していたと、当時の同級生だった男子生徒は言っていた。そりゃあ、いじめられるとまではいかなくとも、他の人とは違って見られるに決まっている。

 ほどなくして、同級生たちは担任と共謀して嫌がらせを始めた。それも最初はありがちな、彼の持ち物に落書きをし、露骨に彼のことを無視するというような幼稚なものだったらしい。

 

 だが、さらに不味かったのは。

 彼が、それでも笑っていたことだ。

 

 いじめによる満足感を得られなかった彼らは、彼に対するいじめを、恐ろしい勢いでエスカレートさせていった。彼らは掃除になれば汚水を浴びせ、彼の分の給食をこぼし、休み時間になればその顔にボールを思いきり当てていた……と、当時傍観者だったと主張する女子高生は証言していた。

 

 小学生でそこまでやるのか、とノンナはしばらく言葉も出なかった。何か別のことで見返してやればいいものを、と考えて、はたと思い至る。

 

 子供達が『努力してなお届かない』と嫌でも思い知らなければならないほど、彼の才能は、白沢夜一という存在は輝いていたのではないか、と。

 幼い時分から既に、『自分達とは違うモノ』と見せつけられたのか、と。

 

 いつしかその笑顔すらも消え、授業中あれだけ元気だった夜一少年はどんどん無表情になり、保健室にこもるようになった。

 その時期は、……彼が当時両親と住んでいた家から怒声や物の壊れる音が聞こえてきたと近隣住民が言っていた時期と、ほぼ一致している。

 …まぁ、要するに彼は学校だけではなく、家でもいじめられるようになってしまったということなのだろう。どんな人間であっても、安らげるときが一瞬たりとも無いような環境で生き続けることなど出来はしないのだから。

 

 そこから、ノンナにもイメージしやすい今の『白沢夜一』像が出来上がっていったのだ。全てのことに無関心。やる気がなく、闘志がなく、目的がなく、ただ無表情で佇む少年。何も知らない近隣住民は、彼のことを不思議な子供だと思っていたらしい。人によっては、かつて活発だった彼と別人だと思っていた人もいたほどに、彼は変わってしまっていたという。

 

 だが、とノンナは思う。

 一つ分からないことがある、と。

 

 

 少年達が彼に嫉妬やら何やらを抱いていじめだしたのは、理解に苦しむがわからないでもない。

 

 では何故、白沢夜一の母親は唐突に彼をいじめるようになったのだろう……?

 

 

----------

 

 

「あの子には、苦労をかけてしまいました」

 

 老婆はその皺だらけの顔を伏して、独り言のように言った。あの子、とは老婆の娘、夜一の母親のことだろう。過去の自分の行いを嘆き、今は亡き娘に悔いながら、老婆は口を開く。

 

「あの人や私が芸術家というだけで周りから奇異の目で見られ、しかもそのことを私達に相談することもしませんでした」

 

 いえ、そうではありません。

 私達があの娘の話を聞こうとしなかったのです。

 

「……それで」

 

 カチューシャは、老婆に気圧されるように先を促した。老婆は、目を細めて続ける。

 

「あの娘は。……お世辞にも絵が上手いとは言えませんでした。それでも、あの人の娘であるというプライドが、『絵の描けない自分』を許せなかったのでしょう。小さい頃から絵を描き続け、『将来は私も絵描きさんになる』と言っていました」

 

「それでも。貴女たちに褒めてもらいたかったんでしょう。子供ながらに、どうやれば見てもらえるか考えて」

 

「……そうなのかもしれません。でも、私が褒めても無駄でした。私が褒めたところで、あの人は褒めませんでしたから」

 

 それからも、彼女は絵を描き続けた。いつしか時は過ぎ、彼女は学園艦に通うために家を出て、成人し家庭を持ち、子供をもうけた。そこそこにその生活は楽しかったのだろう。気の合う伴侶と共に、人生を歩み始めたのだから。

 

 それでもなお、彼女は絵を描くことを諦められなかった。

 手段と目的は、入れ替わってしまった。

 

「その後、あの娘がどうなったかはわかりません。何度か夫とあの子……夜一と一緒に三人で年始には顔を見せに来てくれていましたが、いつしかそれも無くなり、その後か細く続いていた手紙の一通も、ついには来なくなりました」

 

 そうして彼女は、音沙汰無かった娘が心中したということを警察から聞いた。その死は彼女の夫とではなく、恐らく不倫相手と見られる男性とのものであった、と。

 

「あの娘の夫はその後すぐに亡くなってしまわれたそうです。自暴自棄になっての交通事故と、後になって聞きました」

 

 その後、両親を亡くし一人になった白沢夜一は、この家にやってきた。その姿は、かつてのものとは似ても似つかなくなっていた、と老婆は言う。

 

「年始に会ったあの子は、いつも笑顔でどんなものにも顔を輝かせていました。親馬鹿……なのでしょう、可愛くて可愛くて仕方がありませんでした。あの人もあの子を相手にするときには、少しだけ表情が和らいでいましたから。

 ……ですが、やってきたあの子の姿は悲惨なものでした。目は暗く濁り、頬はやつれ、病人そのもののような姿でした」

 

 小学生高学年の夜一は、迷惑をかけまいとしたのか祖父母ともあまり関わろうとせず、空いた時間は自室に篭って過ごしていたという。

 まるで、廃人のように。

 

「それでも、何度か話しました。何か悩んでいるのか、私に出来ることは無いか、と。こちらの質問に一言二言ほどは返してくれたので、私はそれらの話の断片を繋げて、一体あの子に何があったのか知ろうとしました。

 ああ、そういえば、あの人も幾度と無くあの子と話そうとしたり、外へ連れ出してみたりしていました」

 

 その頃は、あの人も自分の死期についてなにか悟っていらっしゃるようでした、と老婆は言う。

 白沢が小学校高学年ならば、今から7、8年前。ちょうど、黒極崇彌が脳溢血で逝去した頃だ。

 

 ああ、確か。

 あの絵も、『公孫樹』が描かれたのも、その頃だったっけ。

 

「あの子は」

 

 そこで老婆は声を詰まらせ、とっくに冷めてしまった緑茶で喉を湿らせて夜一の話を続ける。

 

「あの子は、母親から……虐待されていたようなのです。あの子は一度として認めませんでしたが、深くトラウマになっていることは明白でした」

 

 曰く、頬を叩かれた。

 曰く、何度も頭を床に叩きつけられた。

 曰く、服に火をつけられた。

 

 少年の口から語られた真実は、あまりにも残酷だった。話を聞いたカチューシャが、思わず口を覆ってしまうほどに。

 

 けれど、と老婆は言う。

 

 本当に恐ろしかったのは、少年の態度だった、と。

 

「一度でも、辛そうに言わなかったんです。無感動に、無感情に、ただ事実を淡々と言うような―――あんな態度、小学生がするようなものではありません」

 

「辛そうじゃなかった……?」

 

「私が言えた事でもないですが、普通……虐待された子供というのは、『虐待を受けている』という事実を他人に話すことが出来ないのではないのでしょうか。それが出来るのなら、とっくの昔に友人や教師づてに学校側で何かしらの行動が起こっているのではないですか」

 

 老婆は知らない。

 白沢夜一が、学校でも虐待されていたことを。

 

 彼に逃げ場など、どこにもなかったということを。

 

「……他に、何かなかったかしら。……ああ、昼寝っていうのは、彼の元々の趣味だったの?」

 

「小さな頃は、いつも活発な子でした。昼寝なんてしたがらない子でしたが……そうですね、こちらに住むようになってからは頻繁に寝ていたような……。突然倒れこむように眠ったりすることもありましたが」

 

 と、そこで何かを思い出したように老婆は顔を上げた。

 

「悪夢を、見ていたのかもしれません」

 

「悪夢……?」

 

 ええ、と頷く老婆に、カチューシャは詳細を尋ねる。老婆は目を瞑って思い出すようして口を開いた。

 

「寝てすぐ、悲鳴を上げるのです。私が寝ている寝室は彼の部屋からは離れているのですが、それでもはっきり聞こえるほどの声です。普段表情を変えないあの子が、そんなふうに大声で許しを請っていたのです」

 

「……許しを請うって、誰に?」

 

「……母親、でしょうか。『許して、許してください、ごめんなさい』と、何度も繰り返して……」

 

 そこでふとカチューシャと自分のお茶がすっかり無くなっているのに気付いた老婆は、新しいのを持ってきますと言い残して部屋を出た。一人残されたカチューシャは先ほどの話を反芻する。

 

 寝てすぐに、悪夢を見る。倒れこむように眠る。

 

 それは。

 

「何かの、病気……?」

 

 

----------

 

 

『……ナルコレプシー?』

 

『ええ、カチューシャ様やノンナから話を聞いているときから、そうじゃないかとは思っていたんです』

 

 カチューシャが老婆から白沢の過去を聞いているちょうどその頃、学園艦の船べりであるテラスのベンチに並んで腰掛けながら小此木とクラーラはロシア語で話していた。そのベンチは白沢が飛び降りたというテラスのすぐ近くであり、立ち入り禁止のテープで仕切られたそのすぐ外にあった。

 先ほど下を覗き込んでみたところ、すぐ下に壁から突き出すようにして設置されているテラスがブルーシートで覆われていた。恐らく、白沢は落下地点を見誤ってテラスに落ちたのだろう。

 海面に落ちればまず即死だっただろう高さから飛び降りたのに自殺未遂で済んだのは、運がよかったとしか言い様がない。

 

 二人の受験勉強の時間を削っての調査はあまり収穫がなく、結局彼のことをまともに知っている人間はプラウダにはいなかった。

 そこで仕方なくクラーラの(ほんの少しだけ怪しげな)情報網によって得た情報を、白沢の自殺未遂現場を見るついでにまとめているところで、クラーラが口を開いたのだった。

 

『ほら、このデータを見てください』

 

 クラーラはずずい、とタブレットに映し出された彼のデータを、ついでに自らの体とともに小此木に近づける。

 小此木は甘んじてそれを無抵抗で受け入れながらデータに目を通した。

 

「中学の時の検査……?えっと、何々……ヒト白血球抗原……髄液検査……拒否……?」

 

『ええ、これはシラサワさんが中学時代に倒れたときのデータなのですが、どうもナルコレプシーの疑いがあると記載されてます』

 

 そりゃア普通に犯罪行為なンだが、と小此木は内心思ったが、言わないことにした。大丈夫、疑いがあるって書いてあるだけだし。正式なカルテとかじゃないし。

 

『いいですか、アキラ?ナルコレプシー患者の多くはオレキシンという脳内物質が欠乏しています。それを調べるのが髄液検査です。……本人が拒否しているので確証はないですが、彼の症状からいって、ナルコレプシーで間違いないと思います』

 

『…そもそも、ナルコレプシーってのは何なんだ?』

 

 医学系の知識に乏しい小此木の質問に、クラーラは嫌な顔一つせずに答える。

 

『過眠症……』

 

「待った。ロシア語で医学の解説をされても訳がわからねェ、日本語で頼む」

 

 説明を始めようとした矢先に遮られたことに少し頬を膨らませて小此木を困らせた後、クラーラは今度こそ日本語で質問に答えた。

 

「過眠症とも言われる、睡眠障害の一つです。日中においての強い眠気の発作や覚醒状態の維持能力、レム睡眠の調節能力の阻害、情動脱力発作(カタプレキシー)……感情の高ぶりによる脱力なども症状の一つであるとか」

 

「日中の強い眠気……」

 

 小此木は、白沢の授業態度を思い返す。

 いつもは模範的な規律正しい生徒なのに、突然眠りこけるその態度は、そういう背景があったのか、と。

 

「レム睡眠って言やァ、寝始めてからしばらく経って起こる浅い眠りのことだろ?それの調節が阻害されるってこたァ、どういうことが起こるンだ?」

 

「調整が上手くいかない……具体的には『眠ってすぐにレム睡眠が起こる』らしいです。レム睡眠のときに夢を見やすいって話は知ってます?」

 

「あァ、体を休めてる代わりに脳が働いてるから夢を見るって話だろ?

 ……ん。レム睡眠が眠ってすぐ起こるってこたァ」

 

「ええ、入眠時幻覚……『寝てすぐに夢を見る』もしくは『脳が働いたまま体が脱力する』んです。特に、その時の夢や幻覚・幻聴はネガティブなものが多いとか。

 ……以前に、アキラはノンナに言ったそうですね。『保健室で寝ていたシラサワさんが、急に叫んで飛び起きた』と」

 

「……まさか」

 

 クラーラは、頷いた。

 

「多分、悪夢を見たんだと思います。それこそ、過去のトラウマのような」

 

「ちょ、ちょっと待ってくれ。日中の強い眠気やら入眠時幻覚やらがそうだとしてもだ。それだけでアイツがナルコレプシーだって判断すンのは無理がねェか。

 その、カタプレキシーとかいう症状なンて俺ァ見たことねェぞ」

 

 小此木の言葉に、クラーラは冷静に返す。

 

「そもそも入眠時幻覚もカタプレキシーもナルコレプシー患者全員に起こる症状ではありませんし、そもそもどういうメカニズムで眠気を催すのかも詳しくは分かっていないのですが……。

 ですが、考えてみてください。彼がそれほど強い情動を起こしたことなど、ありましたか?」

 

 小此木は黙り込む。

 言い返そうとするなら言い返せる。例えば自身の絵を見られたときなど、確かに彼には感情が見えた。

 ……だが、それは驚くほど小さいものだった、ような。

 

 そもそも、『感情が昂ぶった』白沢など、見たことがあったか。『不快だ』という感情を表したことしかないのではないか。そのカタプレキシーとやらは、『不快』という情動で起こるものなのだろうか。

 

 言われて見れば。

 確かに白沢夜一という男は、あまりにも感情に乏しすぎる男だった。

 

「……じゃア、何だ。アイツは、本当に」

 

「ええ。ナルコレプシー患者なのだろうと思います。

 ……ナルコレプシーは日本人の発症率が高い病です。日本においては600人に1人、世界平均の四倍も罹患率が高いといわれるほどに」

 

 小此木は今までの白沢を思い返し、不可解に思っていたほとんどの行動の理由を推測できることに愕然とした。そうして、少しでも自分に相談しなかった友人に、ほんの少しだけ不満を洩らす。

 

「ほンと、勝手な奴だよなァ……」

 

 

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