「恋愛小説か?」と首をかしげたくなる内容ですが、こういう今回だけだと思うので、よろしくお願い致します(懇願)
「だって、寝ているときのヴィーチェルってすごく静かなのよ?死んでるんじゃないかってくらい」
「…そういうもの、なのか?自分では、そういう寝ているときのことは分からないものだな」
ややあって、ソーンツェ――カチューシャとヴィーチェルは並んで座りサンドイッチをもふもふと齧っていた。ヴィーチェルの口調は、先ほどと違って小此木と話している時のようなものになっている。
それというのも、初めは敬語で話していたヴィーチェルだったが、カチューシャに
「敬語は止めて。貴方の好きなように話しなさい」
と言われて幾分砕けた口調になったのだ。
しかし、彼の話すその言葉に、依然としてどこかソーンツェに対する、尊敬に近い何かがこもっているのをカチューシャは感じていた。尊敬、と言えば良いのか、一歩距離を置いている、と言えば良いのか。触れようとしているのに、触れる寸前で手を引っ込めているような、そんな印象。
彼の鷲のような瞳の色は、それだけで優しさと厳しさを兼ね備えているふうなのに。
そのどちらも、態度に表れることがない。
不思議な雰囲気ね、とカチューシャは思う。今までに手紙で話しているからかもしれないが、初対面―――顔は何度も見たことがあるが―――でもぎこちない雰囲気もなく話せている。…なのに、このしっくりこない感じは一体なんなのだろう。例えるのなら、森にいるのに木の匂いがしない、というような妙な感じ。
そんなことを考えながらカチューシャは横目でヴィーチェルを見た。美味しそうな大きめのサンドイッチを小さく齧っているヴィーチェルと目が合う。
「そのサンドイッチ、美味しそうね。貴方が作ったの?」
「…ん?そうだよ。朝は強い方だから、軽いものなら何とか」
「…何が入ってるの?」
ごくり、と唾を飲み込んでいる音が聞こえそうなほど目を輝かせて、彼女はヴィーチェルのサンドイッチを凝視する。
「目玉焼き、ハム、鳥ムネ肉、レタス、トマト、タマネギにピクルス。それを焼いたパンにマスタードとバターを塗って挟んでるんだ」
「…ねぇ。一口だけ、貰っていい?」
ヴィーチェルお手製のサンドイッチに、今にもよだれを垂らしそうなカチューシャ。そんなに物欲しそうな目で見られてちゃ落ち着いて食べられそうもない、と頷き、一口といわず全部食べてくれとヴィーチェルはサンドイッチを手渡した。
満面の笑みでサンドイッチを受け取り大きく口を開きかけたカチューシャだったが、ふと思いとどまってヴィーチェルに尋ねる。
「ほんとに食べていいのね?」
「ああ。思う存分ガブリといってくれ。正直に言えば、あまり食欲は無い方なんだ」
その言葉を聞くや否や、辛抱堪らないとばかりにサンドイッチに齧り付くカチューシャ。その豪快さゆえに、口の端にパン屑やらバターやらがくっ付いてしまっている。
だがそんなことは気にしない―――いや、気付いていないカチューシャは、素直に目を輝かせてヴィーチェルのサンドイッチを賞賛する。
「美味しい…!あ、目玉焼きは両面焼きなのね」
「家で食べるなら片面焼きで半熟にするんだけど。それだと、黄身がこぼれてしまうから」
なるほど、頷くカチューシャの傍にヴィーチェルはそっと紙ナプキンを置き、口をそっと指差した。カチューシャははっと気が付いて紙ナプキンを手に取り、口の周りを拭く。
そうして誤魔化すように、彼に自身が持ってきたサンドイッチを差し出す。
「はい、代わり…というか、お礼にカチュ…私のをあげるわ。サンドイッチって、元々あんまり食べないの。あれって片手間で食べるための軽食じゃない?」
「…俺のそれも、サンドイッチではあるんだが」
「これは美味しいし食べ応えがあるじゃない。カ…私は、好きよ。こういうの」
「…それは、どうも」
ヴィーチェルはカチューシャの持ってきたサンドイッチを手に取り、彼女と違い小さく齧るように食べ始めた。小さな欠片を、じっくり味わうように咀嚼する。
カチューシャが持ってきたのは、プラウダの食堂で販売されているサンドイッチだ。ロシアを真似ているのか、プラウダの食堂で販売されているサンドイッチはオープンサンドや黒パンを用いたサンドイッチが多い。けれど、カチューシャが買ってきたのは日本で普通に食べられているハムサンドだった。
挟まれた新鮮なレタスが小さな欠片になってもヴィーチェルの口の中でシャキシャキと軽快な音を立てる。
「そういえば、貴方は趣味とかないの?」
ヴィーチェルがカチューシャのサンドイッチを食べ終わり一息ついているころ、カチューシャはヴィーチェルに尋ねた。
風もあまり吹かず、夏を感じさせる日差しが暑いほどの天気。雲ひとつ無い青空の下、ヴィーチェルは少し考えてから彼女の質問に答える。
「特に、ないな」
「趣味が?本当に?」
趣味が無いのは、あんまり良くないんじゃないのとカチューシャは素直に自分の思ったことを言っていく。あまりに実直なその言葉に、何を気にすることなくヴィーチェルは小さく頷いた。
「趣味の一つくらい持っておいた方が良いって、分かってはいるんだけどな…」
「じゃあ、家に帰ってからは何をしてるのよ」
「日記…じゃないけど、似たようなものか。そういう類いのものをかいたり、だ。一人暮らしだから夕食の準備もしなくちゃならないけど、俺は他人と比べて何をしても行動が遅いから」
「本当に?」
そうは見えないけど、と呟いてカチューシャはまた一口サンドイッチを頬張った。大きく口を開けているにしても、彼女の口自体が小さいので食べ終わるにはまだ時間がかかるらしい。
それでも他愛もない話をしている間に、カチューシャはサンドイッチをみるみる平らげ、最後に残った一欠片を口へ放り込み、口端にソースやらが付いているのも構わず満足げな表情を浮かべた。
「…ああ、ほらまた」
またしても思わずといった感じでヴィーチェルが紙ナプキンを取り出した。素早く紙ナプキンでカチューシャの口元を拭おうとして、
「……ッ!」
動きが、止まる。
彼の体から力が突然無くなったかのように、ヴィーチェルは芝生へ背中から倒れこんだ。受身も何もあったものではない。重力に任せて、ただのモノのように。
彼の持っていた紙ナプキンが、彼の手から滑り落ちた。
「ちょっと、ヴィーチェル!?」
突然の事態にカチューシャは慌てふためいて、ヴィーチェルの表情を見ようとその小さな手で彼の肩を掴んだ。そうして彼の顔を覗き込む。
彼は、何かに耐えるようにぎゅうっと固く、目を瞑っていた。
「ねぇ!ヴィーチェル!?大丈夫!?」
「……ぁ、あ。大丈…夫、だ。問題…ない」
「嘘。そんなに辛そうなのに、何も問題ない訳ないじゃない!どこか、痛いんじゃないの!?」
「本当だ…本当に、大丈夫、だから……。そんな怖い顔をしないでくれ、ソーンツェ……」
なおも強情にヴィーチェルは『大丈夫』といい続け、カチューシャはそれを認めようとしない。とうとう疲れ果てたのか、先に音を上げたのはヴィーチェルだった。
「眠いだけなんだ。その眠気を耐えようとしていただけだ」
仰向けのまま、ヴィーチェルはカチューシャの方を向いた。その表情は無表情のままだったが、先ほどのように何かに耐えるようなものではない。ほんの少しだけ微笑んで、ヴィーチェルは口を開いた。
「そんなことよりほら。もう昼寝の時間だろう。いつものように眠ろう」
プラウダには昼寝の時間というものがある。昼休みの後半に、昼寝をすることを推奨する時間が存在するのだ。といっても強制ではなく、この時間には静かにすることくらいしか制約は無い。言ってみれば、すこし長めの昼休みなのだ。生徒たちはこの時間、昼寝をしたり読書をしたり次の授業の予習などをして過ごす。
何故こんな曖昧な時間があるかといえば、それは偏にカチューシャのためだ。最近は鳴りを幾分潜めたとはいえ、カチューシャは隊長になってすぐに『昼寝の時間を設ける』ことを生徒会に要請するほどの暴君気質だった、という話である。初めのうちは『カチューシャが起きるまで』が昼寝時間の範囲だったが、一部の(匿名)生徒の批判や生徒会の泣きが入った要請状により、カチューシャが気持ちよく起きられる時間をノンナが算出した上で時間を設定することになった。そのため、カチューシャが寝坊するということもあり得ることになったのだ。
まぁ、そもそもその『昼寝の時間』という制度も、この芝生を見つけたことが起因しているのだが、彼がそれを知る由もない。
だが、昼寝の時間を気にするようなカチューシャではない。『小さな暴君』と呼ばれる彼女が、枠組みに易々と従うわけが無いのだ。
「昼寝の時間がどうしたって言うのよ。貴方が急に倒れこんだから心配してるんじゃない!」
感情の昂りで髪を逆立ててカチューシャは言うが、ヴィーチェルはそんなことかと気にする風も無く新しい紙ナプキンを置いて口を指差す。
カチューシャは紙ナプキンを取り乱暴に口元を拭う。
「大丈夫だって。眠たいだけなんだ。せっかくソーンツェと話しているのに、眠るなんてもったいないと思ったから目を瞑って耐えていただけだ」
「…じゃあ、なんで倒れたのよ?」
「眠くて力が一瞬抜けてしまったんだ」
それだけだ、と彼はしれっと言うと、いつも眠っているように体勢を変えると、目を瞑ってカチューシャに「おやすみ」と言った。
「……はぁ」
そのあっけらかんとした態度に、カチューシャも毒気を抜かれたのか、しぶしぶいつもの通り横になって目を瞑り、初夏に近い太陽の温もりを享受することにする。
と、何かを思い出したのか目を開け、
「ちょっと。手、だして」
「ん?」
何の疑いも無く差し出された左手に、カチューシャは手を伸ばして触れ合わせた。触れ合った瞬間、彼は逃げるように手を引こうとしたが、カチューシャはその左手を固く握り締めた。
振りほどこうとすれば容易に解けるだろうその手を、彼はそれ以上抵抗することもなく、されるがままにしておくことにした。穏やかなこの場所を、カチューシャに感じて欲しいから。
そうして、彼らはまどろみの中へ落ちてゆく。
少女は暖かで幸福な夢を。
青年は。
かつて在りし、日々の夢を。
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―――ああ。…また、この夢を見るのか。
『彼』は其処に立っていた。何もない暗闇。全ての光を奪われた空間。存在するものを観測できないという、至極原始的で、単純な恐怖の中に。
闇の中で蹲り、涙を流す少年がいた。
闇の外で癇癪を起す、下卑た女の声が聞こえた。
少年は震えながら、人差し指で目に溜まった涙を拭う。涙で濡れた指を、床に滑らせていく。何も見えない暗闇の中で、涙で床に軌跡を描く。自身にも見えないだろう軌跡。何のために描いているのかも分からないまま、ただただ床に指を走らせ続ける。
しばらくして、指が乾いたのか少年はまた目を擦った。その拍子に床のゴミが目に入ってしまったらしく、目に痛みが走る。それでも、少年は床に意味不明な文様を描き続ける。
『彼』は無感動な瞳で、少年の奇行を見守る。何をも見えぬ暗闇の中のはずなのに、少年の指で描かれた軌跡と少年の哀れな姿は、煌くように鮮明に『彼』の目に映った。
『――――――!』
何かをスライドさせる音と共に少年の周りにあれだけあった闇が消え、代わりに人工的で冷たい光と顔を醜く歪めた女の顔が、暗闇であった空間に差し込んできた。
女は何か怒鳴っている。大声で怒鳴っているはずなのに、あんなにヒステリックに喚いているのに、『彼』には何も聞こえない。
なのに、少年のか細い声は、まるで自分が話しているかのように鮮明に聞こえてくる。
『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!』
『―――。――――――!』
『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……!』
…この少年は、何故謝っているのだろう。ああ、あの矮小な声は何度聞いても克明に聞こえるのに。
あの女の声は何回聞いても聞き取れない。
『―――!――――――!!』
女が何か叫んで、持っていたコップの中身を少年に浴びせかける。途端、饐えたような匂いが辺りに広がり、ぐらぐらと少年の意識が揺れた。状況を鑑みるに、どうやらそれは焼酎か何かの酒であるらしい、と『彼』は変に冷静な頭で推測した。
意識を朦朧とさせた少年の頭を掴み、女は少年の小さな頭を何度も何度も床に叩きつける。少年の涙でうっすらと描かれていた軌跡が、少年の
涙が乾いてしまったのか、それともナニカですっかり汚れてしまったのかは分からないが、軌跡が少年に見えなくなった頃、ようやく女は彼の頭から手を離した。喚きながら少年から遠ざかっていく。水音。どうやら、手を洗っているらしい。全く、素晴らしく衛生的だ。
少年は腫れた目で時計を見上げた。『彼』もつられて時計を見上げる。小洒落たデザインの時計の針が、深夜の時刻を示していた。
女が戻ってくる。何も言わずに左手で少年の髪を掴み、少年のまだ幼さの残る体を引きずって強制的に移動させる。少年はピクリとも動かない。死んでいるわけではない。ただ単に、抵抗する気も無いだけだ。抵抗しても無駄だと、諦めているだけだ。
『―――! ――――――!?』
だがそれが、またしても何処か女の機嫌を損ねたらしい。女は少年の髪を思い切り上へ持ち上げ、空いている右手で彼の頬を打った。手加減も思いやりも何一つ無いバシン、という音を、『彼』は静聴する。酒が入っている女は、彼の顔が腫れあがってしまっていることに気付きもしない。あんな顔では明日の学校に行けないな、と『彼』は思った。
ああ、いつも通りだ。
またこうして夢は醒めるのだろう。女が何を言ったかも、理解できないまま。
しばらくして、女は顔を叩くのも飽きたのか、急に髪を離すと、崩れ落ちた少年の姿をじっと見つめる。少年がのろのろと起き上がる。女は、その光景をじっと見つめたままだ。少年が、顔を上げる。その顔を、女は見た。
少年は、涙を流しながら―――。
『――――――ッ!』
女が手を上げる。ゴス、という鈍い音が聞こえるような拳が少年の顔にめり込んだ。
『――――――!』
女が、床に倒れこんだ少年の腹を蹴った。内臓にいくらかダメージが入ったのか、少年は苦悶の表情を浮かべのた打ち回る。しかしその光景だけでは怒りを収めるのに足りないのか、何度も何度も、少年を蹴り、踏みつけていく。
『彼』、は、困惑した。
何故、夢が、終わらない。
『…お前!さっきから―――――やがって!馬鹿にすんじゃないよ!』
女の、声がした。『彼』は、背中に、冷たい、凍りつくような何かが差し込まれたように感じた。
何故。何故、この女の声がする。この女が、何故自分に干渉する。
『オラァ!さっさと何か言ってみな!言わなきゃずっとこのまま続けてやる!』
弱弱しく首を振りながら、答えようと少年は口を開く。その腹を、女は容赦なく蹴りつけた。少年の口から、胃液交じりの唾液が零れ落ちる。
女は、自分の言葉が理解できないほどに激昂しているらしかった。『彼』は、その光景に思わず口を押さえる。ぐっ、と嗚咽を洩らし、嘔吐した。
だが、『彼』の口からは何も零れ落ちない。唾液さえ、乾ききってしまったかのように。確かに吐いているはずなのに、何も口から零れるものはない。なるほど、確かにこれは夢か、と『彼』は口元を拭った。
その間も女は少年を蹴りつけている。少年が何か言おうとしているのに、女の喚き声で聞こえない。
『お前が、いるから―――お前が―――勝手に――私を―――クソ、――な、――な、畜生、畜生、畜生――――――』
その目は既に常人のそれではない。焦点の合わない目で、憤怒に、憎悪に満ちた目で、悲哀を耐える目で、屈辱を湛えた目で。必死に藻掻き苦しみながら許しを乞おうとする少年をいたぶり続ける。
『クソ、クソクソクソクソッ!お前はもう何も見るな、何も感じるな、何も聞くな、何も味わうな、何も触るなぁッ!お前が私より優れていることなんて何もないんだ!いいなッ!お前に起因する全てが無価値だッ!いいや、お前の為すことは全部、何もかもを侮辱し貶す行為だ!何も感じることなく、何をすることも無く、死んでしまえ!』
ーーーああ。…吐き気がする。
ようやく女は少年に与え続けた暴力をやめ、吐き捨てるように叫んだ。少年は蹲って、じっと体中の痛みに耐えているようだった。
『その目で次に私を見てみろ―――私が、お前を殺してやるうッ!』
叫んで女は傍にあったガラスのコップに透明な液体を注ぎ込み、一息に飲み干した。どうせ、酒かなにかだろう。水のように女は酒を飲み下すと、女らしさという言葉からかけ離れたような汚らしい息を吐いた。
『彼』は女を見た。…その時、同時に女も『彼』を見ていたらしい。
二人の目が、あった。
『……お前ぇ!』
女がガラスのコップを床に叩きつけ、こちらに歩いてきた。思わず、『彼』は後退ってしまう。女はそんな『彼』を睨めつけ、口を開く。その睚眥に思わず『彼』は目を瞑り、来るであろう声に身構えた。
ところが。
『――――――!』
「あ、…え、は?」
女の声が、聞こえない。突然、聞こえなくなった。何か喚いているが、何も聞こえない。そのくせ『彼』自身の声、それにひどく荒れた呼吸音はきちんと聞こえる。
震える右手で、『彼』は胸を撫でおろした。足元に、先ほどまで原形をとどめていたガラス片が花散るように散乱している。喚く女の向こう側では、少年がまだ動かずに蹲っていた。
「は、は」
口汚くこちらを罵っているのか、女は相変わらず口を動かしている。『彼』は思わずへたり込み、笑うように息を洩らした。ついた右手がガラス片に切り裂かれ血を流したが、夢の中だ。気にすることでは、ない。女は絶えず聞こえない何かを叫び続けている。
『―――!――――――!』
『彼』の胸が早鐘を撞く。ぐるりぐるりと酒に酔ったかのように視界が反転し、回転し、動転する。色彩がどろりと濁り、曇り、失われていく。冷ややかな蛍光灯の明かりも、何もかもが暗闇に呑まれていく。
最後に女が口を動かしたまま闇に呑まれ、『彼』の周りには何もなくなった。なんだ、振り出しに戻るのか、と彼は倒れこんだまま背を地面につけ、寝転がった。
その時。じゃり、と、後頭部に鋭い痛みが走った。
「痛―――?」
何かあったのかと体を起こそうとして、
起こそうとして、
彼は、自分の体が動かないことに気付いた。
辛うじて動いたのは、左手だけだった。『彼』は動いた左手を持ち上げ、視界の端に捉える。
そこには。
ガラス片が大量に突き刺さり、
汚物と血に塗れた小さな手が、
『彼』の左手を握り締めていた。
そこで、ようやく目が覚めた。