平原の街の中を桃香と愛紗と共に歩く。
「うーん、久しぶりの街だー」
気持ちよさそうに桃香は背を伸ばす。
「そんなに久しぶりなのか?」
「そうだよー。ずっと役場にこもって報告書の確認とかしてたんだー。御主さんが呼びに来てくれなかったら今日もそうだったよー、助かっちゃった」
朝や夜の屋敷での食事時も疲れているように見えていたが肉体の疲労よりも精神の方が疲れているのかもしれない。
「仕方ありません。私達が行わなければ何も始められないのですから。それとも、人々に住む場所すら用意しないおつもりで?」
「そんなことはないけど……」
弱々しい桃香がこちらに視線を送ってくる。助けてほしそうに。
「こればかりは庇えないよ」
御主の言葉に唯一の味方を失った桃香は表情に絶望の色が表れる。本当に表情がコロコロ変わる子だ。
「これから先、太志を抱き先に進むのならこの程度は問題にならないぐらいでないと。今はまだ戦はない。この場所を巻き込むような。でもこれからは違う――」
董卓が討たれれば、董卓が今まで居た場所を巡る戦いが始まる。大陸を巻き込む戦をするだけの価値があるかは分からないが、話し合いで決められるようなものでもない。
「――ただ、このままだと事を成す前に桃香たちが倒れるかもしれない。何か良い手があればいいんだけどね」
「星が手伝ってくれればいいのです。読み書きが不得手な鈴々と違ってできるのですから。それなのにサボりなどとは、まったく国を守るものとしての自覚が足りないのです」
そういえばまだ言ってなかったな。しかし、今の機嫌の悪い愛紗に言うべきかどうか。
「でも、星さんだってお仕事はしてるよ? ついこの前だって、黄巾党の残党の討伐に行ってくれたし」
「それは分かっています。本来であるのならば非番なのも。しかしですね、今は休んでなどいられないのです。桃香様を信じてくれている者達の期待に応えるのが私達の役目なのですから」
「それは、そうだけど……」
頑張れ桃香。上手く愛紗を言いくるめてくれれば星の件を言いやすくなる。なんだかんだ桃香には甘い愛紗だから折れずに押せば行ける。頑張れ。
「――あらっ? これは、関羽に劉備じゃないの」
急に声を掛けられる。この声は、ある意味では今の状況の元凶とも言える者の声だ。なんで陳留ではなく平原に居る?
「あっ、曹操さんだ」
桃香がこちらに向かってくる曹操たち一団に手を振る。
「お久しぶりね、関羽。それに、劉備も」
曹操は、桃香を一瞥するだけで愛紗の下に来る。主君よりも優先するのはどうかと思うが、曹操にとって愛紗は特別とも言える相手だから仕方ないのかもしれない。
「関羽。いい加減、私の所に来てくれないかしら? 兗州の太守になってから人手が足らないのよ、どう? 待遇なら考えるわよ?」
曹操は、愛紗に比べると背は低い。それこそ桃香よりも。しかし、その内面から出るものは彼女を大きく見せている。
「ダ、ダメです! 愛紗ちゃんは渡しません!」
我慢が出来なくなったのか、それとも愛紗が本当に引き抜かれると思って不安になったのか桃香が二人の間に割って入る。
「と、桃香様……」
「愛紗ちゃんは私の所で一緒に頑張るんです! いくら曹操さんでもこれだけは譲れません!」
温厚な桃香にしては珍しいほどの鬼気迫る形相。しかし、相手はあの曹操だ。むしろ、笑みすら浮かべて楽しんでいる。
「此処平原を治めるようになってから少しは成長したのかしらね。でも、まだまだ全然足りないわよ。この乱世の世を生き抜くには」
「確かに私はまだまだ未熟です。でも、曹操さんに負けませんから」
急に街の中で始まった平原の刺史と兗州の太守による攻勢に周囲の一般人も固唾をのんで見守っている。
「二人とも、それまで」
このままだとまずいので二人を止める。桃香と曹操はともかく、曹操の連れの抑えが効かなくなると暴発してどうなるか分からない。
「曹操。とりあえず後ろの二人を止めるのを手伝ってやってくれないか? 夏侯淵が一人で大変そうだぞ?」
曹操の連れの内の二人を抑える苦労人が一人。
「華琳様に対してなんて口を……ええい、離せ秋蘭!」
「おのれ、関羽……華琳様にあんなに目を掛けられているというのにあんな劉備なんかに……。でも、もし来たとしたら華琳様の寵愛を得る機会が減ってしまう事にも……くぅ……」
「二人とも落ち着くんだ。華琳様に恥をかかせるわけにはいかないだろ?」
今にも飛び掛かって来そうなのが名を夏侯惇、字を元譲(げんじょう)。真名を春蘭(しゅんらん)と名乗る曹操の下では随一の腕を持つ豪傑だ。少々猪突猛進なところがあり、特に曹操に関する事だと暴走気味になる。
その横で飛び掛かろうとはしていないものの愛紗に向けて嫉妬の念を飛ばしているのが名を荀彧(じゅんいく)、字を文若(ぶんじゃく)。真名は桂花(けいふぁ)。王佐の才を持つと称揚されるほどの才女なのだが曹操に関しては、ある意味では夏侯惇に負けていない程に強い。ついでに言えば男嫌いで御主とは仲がよくない。
最後にその二人を抑えているのが名を夏侯淵、字を妙才。真名は秋蘭(しゅうらん)。夏侯惇の実の妹であり、文武に秀でた苦労人である。
ちなみに華琳とは、曹操の真名である。
「大丈夫よ、秋蘭に任せておけば。それよりも御主、あなたには私の真名を許しているはずなのだけど?」
「愛紗と同じ理由だよ。主である桃香が許されていないのに呼べないだろ?」
「……まさかと思うけど、劉備の下についたの?」
曹操から軽蔑にも近い視線を送られる。
「どこかの誰かが平原の人間を引き抜いてくれたおかげで人手が足りないんだよ。明日から桃香たちの手伝いをするだけだが、それでも大事なものだろ?」
「人が何処へ行こうとも勝手ではなくて? むしろ、人が離れるのは上に立つ者に問題があるのではないかしら?」
曹操の言葉に桃香の表情が曇る。平原から曹操の下に向かった人間は、一人や二人ではないからだ。
「桃香、別に気にする必要はないよ。曹操の下に行った者達はそもそも考え方が曹操の方に合っていただけだから」
「御主さん……」
「桃香には、桃香の良い所がある。そこに惹かれている者が居るのは言わなくても分かるだろ? だから自信を持ちなよ」
「そうです、桃香様。この関雲長。桃香様以外に仕える気などはありません」
「愛紗ちゃん……」
目に涙を浮かべそうになっているのを手で拭って堪える。
「ありがとう、御主さん、愛紗ちゃん。曹操さん、私はあなたには負けません!」
「そう、楽しみにしているわね」
自分を奮い立たせて胸を張る桃香に対して、だからなにとでも言いそうなほど曹操は余裕の笑みを浮かべている。これが今置かれている二人の現状。これを変える事ができなければ大陸は曹操のものになるかもしれない。
「それで、なんで此処に居るんだ? 曹操が此処に来るなんて聞いてないんだけど?」
「そういえば、私も聞いてない。愛紗ちゃんは、聞いてる?」
「いえ、私も聞いていません」
「当然よ、言っていないもの。私は、袁紹に用があって来ただけよ」
なるほど。おそらくだが反董卓連合の盟主である袁紹にとりいり立場を有利にしておくつもりなのだろう。曹操と袁紹は旧知の仲で、言い合いをする仲ではあるが交友がある。袁紹は、曹操の実力は認めているはずなので上手く行く可能性は高い。
「ねぇ、御主。あなたに一つ訊いておきたいのだけどいいかしら?」
「ん? 何かあるのか?」
「あなたの屋敷は、前に泊まらせてもらった時と変わっていないのかしら?」
「……桃香たちの住むところが完成するまで居候しているぐらいだけど?」
「そう、関羽も居るのね。御主、しばらく厄介になるからよろしく頼むわね」
なんだろう、理解できない。なにを曹操は言っているのだろうか?
「えっと、曹操さんも御主さんの所に住むの?」
桃香が補足をしてくれる。どうやら聞き間違いではないようだ。
「袁紹の所に厄介になりたくないのよ。しばらくの間だけとはいえ疲れたくはないから。此処なら陳留とも近いし丁度いいのよ」
「話は分かったけど、別にウチじゃなくてもいいんじゃないの?」
「この街で私に合う場所が他にあるのかしら? あなたの屋敷以上に私に相応しい場所が?」
なんとなくだが曹操が言いたい事が分かった。曹操が言いたいのは暗殺などの警戒だろう。噂では、曹操は昔から暗殺者などに狙われているらしい。優秀なのも困りようで、恨みや嫉妬、警戒の為に殺しておきたい者も少なからず居るのだろう。
もしかしないでも桃香たちが屋敷に居ることを既に知っている。でなければ、男嫌いで御主の事を嫌っている曹操大好きな荀彧が憎しみを込めた人を殺せそうな程の視線を御主に送りながら歯を食いしばってはいないだろうから。
「部屋は空いているからご自由に。細かい所は、役場に居る朱里たちと決めておいて」
「ありがとう。それでは、役場へと向かうとするわね。では、また」
曹操は、三人を連れ朱里たちの居る役場へと向かって行った。
「曹操さんも一緒に住むの?」
「そうですね。相手は、兗州の太守になります。もしなにか問題が起きれば桃香様が責任をとらされることになるかと」
「それだけじゃない。形だけとはいえ、此処は袁紹が治める場所でもある。形だけの任命でも桃香の上司にあたる袁紹にも話は飛躍するはずだよ」
曹操のこういうところは尊敬に値する。既にこちらの情報を全てではないにしろ知っているはずだ。董卓である月に関する情報も洛陽での勤め時代の友人や荀彧の親族を通して僅かばかりではあるが得たと聞いている。それこそ御主が今も通じているというのも知っているだろう。一体どこまで把握されているかは分からないが敵とも言える相手の懐に入り込んで情報を得る腹積もりなのだと思う。自らの安全を確信した上で。
「今は、朱里たちに任せて英気を養うとしよう。これからは、屋敷でも気を使わないといけないんだからね」
休む場所すら失った桃香に同情をしつつ今は朱里たちに任せよう。曹操が相手じゃ御主程度では渡り合えない。