親睦会も終わり、御主は一人で自室へと戻っていた。今日は、華琳たちが来た事もあり屋敷の風呂を使用している。風呂には、薪や水を大量に使うので普段は使わないが今日は親睦会の二次会となるので使うことにした。普段は、街にある鍛冶場の熱を利用した公共用の風呂で済ませるがこちらの都合で貸切る訳にもいかない。
「今頃、風呂ではどうなってんだろ?」
洛陽に居る恋たちへ向けた手紙を考えながら想像するのは不謹慎極まりないが、部屋の窓を開けていると微かに聞こえる賑やかな声に心が動いてしまう。
「恋、にいにに煩悩に打ち勝つ力を下さい」
血の繋がらない妹の事を思い浮かべる……ダメだ、集中すると余計に聞こえる。
「御主、失礼するわね」
急に聞こえた声に思わず身体が強張る。まだ風呂から上がるには早いはずだ。女性の風呂の長さはこれでも知っている。更に今日は、二次会を行っているのだから。
「……どうかしたの?」
華琳が不思議そうにこちらを見ている。見る限り、髪が濡れており、頬もほんのり朱に染まっている気がする。
「いや……なにも……」
華琳は不思議そうな表情を見せるも隣へと座る。今座っているのは、個別の椅子ではなく長椅子。そのため場所を詰められるとほのかに華琳の香りがするぐらいに近くなる。これは、曹孟徳が仕掛けた巧妙な罠だ。どうせ罠に掛かったところで春蘭と桂花が飛び込んでくるに違いない。
「……本当に大丈夫?」
「ウン、ダイジョウブダヨ」
周囲を確認する。少なくとも物音はしない。春蘭はともかく、桂花の気配なら分かるはずだ。
「まったく、これから大切な話をするのだからしっかりしなさい」
そう言うと、華琳は手に持っていた物を卓へと置く。
「……華琳」
「なにかしら?」
「それって、倉にあったぶどう酒と専用のグラスだよね?」
華琳が卓に置いたのは、倉に仕舞っておいた貿易品の酒と専用の器。
「なにかまずかったかしら?」
「いや、別にいいんだけど。それ、今度袁紹の所に行ったときに持って行く予定だったんだよね。最近、袁家の人達が気に入っているらしくて」
「そう、なら開けてしまいましょう」
袁紹の名前が出たからか手際よく開ける。
「いい香りね。大陸でも生産を始めたようだけど、まだまだ勝てそうにないわね」
開けた際の香りを楽しむと、持ってきた二つのグラスに注ぐ。赤ワインと呼ばれる物で羅馬からの輸入品だ。これ一本で小さい家なら建てられる。
「頑張ってるんだけどね」
話しの前の前祝。これからの話が上手く行きますように。
「それで、用件は?」
御主の言葉を受け、華琳は胸元から一枚の折りたたまれた紙を取り出す。受け取り、確かめてみる。気持ち程度だが湿っぽい気がする。それに温かい。隣に居る華琳からか、それともこの紙からかは分からないがワインよりもいい匂いだ。桂花あたりなら家宝にするかもしれない。俺だって大事に取っておく。あくまでも大事な依頼書として。あくまでも。
「太守になるといろいろと入用なのよ。とてもじゃないけどウチだけじゃ無理だからお願いね」
軽い口調で言うと、ワインを一口含む。見る限り、機嫌が良くなったようだ。
「……軍用馬に交易用の船もいるの?」
「当然でしょ? 戦がある、港も新たに手に入った。どちらも必要でしょ?」
反董卓連合の準備。治める領地が増えた事に対する投資。確かに分かるのだが量が凄い。
「馬に関しては、幽州のを希望となっている。これに関してはなんとかするよ。船は……ちょっとね?」
「あらっ? なにか問題があるかしら? 船は、呉の方で生産しているのではなくて?」
交易路を結んでいる呉の方では優秀な船大工が大勢居る。呉の方では漁業が盛んで必然的に大陸でも有数の生産地なのだ。
「木材とかが手に入らないんだよ。知ってるだろ? ウチが洛陽から追い出されたのは? それに交易路も黄巾党の残党のおかげで上手く搬送できないし」
御主の言葉に華琳は笑みを零す。予想していなかった言葉が出たからだ。
「私には、そんな嘘は必要ないわよ。董卓の女に手を出したなんて噓でしょ? 私は会った事はないけど、あなたが力を貸してあげたくなるほどなのだから。それに、直接運営していない別の商会に譲渡済みじゃない。此処平原にはないだけで、他の所にはあるのでしょう?」
「……華琳には敵わないな」
どうやら予想よりも知られている。詠の放った者達も華琳だけを狙う訳にはいかない。その隙を上手くついたのだろう。桂花か? それとも陳留に居るであろう二人の人物によるものか。やはり、詠一人では分が悪い相手だ。
「詳しい返事は、公孫賛と話してからになる。あちらに任せてあるからね」
「お願いね。あなた以外にこれだけの物を調達できる人間を知らないからできないと困るのよ」
「他にもあるけど、これぐらいは――」
「ダメよ。知っているでしょう? 太守となった以上、治める場所に居る豪族たちが邪魔なのよ。だからできる限り内密に揃えてほしいの」
反董卓の前に豪族たちを相手に前哨戦でもするのだろうか? もし上手くできるのなら詠の仕掛けた嫌がらせも逆効果になる。華琳に土地を、力を与えてしまった事になる。
「華琳の頼みなら。できる限り早めに揃えるように明日にでも早馬を出すよ」
「さすが、御主ね。頼りになるわ」
「ありがとう」
グラスに残っている分を飲み干す。すぐに注いでもう一杯。
隣で楽しそうに笑う華琳に一矢報いたい。このままではこちらの完敗だ。とはいえ、肝心の矢を持っていない。
「ねぇ、御主?」
「なに?」
「私の所に来る気はない? まだ董卓と繋がっているのは知っている。でも、桃香の下に居る必要はないでしょ? あなたは、桃香の下に居るべき人間ではない。私の、曹孟徳の下に居るべき人間よ」
華琳の方を見る。まっすぐにこちらを見る目。昔と僅かにも変わらず、深く、力の籠った瞳がそこにある。多くの者がこの瞳に惹かれている。華琳の下に居れば、必ずやこの大陸を治める事ができると信じられる強い瞳だ。
「……何度言われても断るよ。こればかりは、華琳とはできない」
「……なんで? 教えて頂戴」
「俺は、華琳を知っているつもりなんだ。確かに華琳なら上手くできるかもしれない。でも……必要となれば切り捨てられるだろ? 大陸の安寧を願う華琳なら切り捨てられる。心を傷付け、死人を背負いながらでも、この大陸の為に自分を信じる大切な者をも切り捨てる覚悟のある華琳なら。俺は、華琳にそうなってほしくないんだよ。そんな華琳を見たくない。戦いたくも……ない」
華琳なら上手く事を運べるかもしれない。そんなことは分かっている。でも、仮に上手く行ったとしてもその先を見据えてどのような行動を取るかは分からない。華琳の目指すべき場所は、あまりにも遠く見えにくいもの。その為なら月たちの命など物の数にも入らない。
「桃香ならできるの? あんな甘くて力のない子に?」
「分からない。正直に言うと、全然分からないよ。でも、少なくとも今回の事を任せられるのは他に居ない。桃香は、絶対に裏切らない。華琳からしてみたらどうしようもないほどの甘さかもしれないけど、大切な人の命が懸かっている俺にとっては大事な事なんだ」
「……そう……残念ね」
華琳は、自分のグラスの分を空けると新たに自分と御主のグラスに注ぐ。
「ここからは、友人として飲み直しましょう」
「あぁ、そうだな。またこうして会えたことに」
華琳と昔の事を思い出しながら夜は更けていく。
こうして飲む事ができるのはこれから先に何度あるのだろう?