雲一つない空に浮かぶ太陽は、東京のど真ん中だというのにあり得ないほど鮮やかに輝いていた。
小さな風だけが走る真昼の大都会に響く音はほとんどない。
カツン、と静寂を打ち破る音が鳴った。公衆電話からぶら下がったまま何年も経過していた受話器の線が切れて地面に落ちた音であった。
さらにその音に続いてカリカリ、カンカン、と不規則な音が東京に響く。酸の雨を受け止め続け錆びついた線路の上を、その少女は上機嫌を隠さずに歩いていた。
不規則に響く音は少女が振り回している折れた傘が線路に当たる音だった。
「つっばさがー……なっくてもー……カモメになーる、のーよー……」
朽ちた傘を指揮棒のように振り回しながら少女が歌うその歌は『アメリア』がかつて教えてくれたバンドが歌っていたお気に入りの歌だった。
その意味の深いところまでは知らない。だが、物悲しげながらも綺麗なリリックを持つその歌は今のこの世界に実に似合っているだろう。
この世界から人の受けるべき苦しみはほとんど消え去っていた。
とうとう人類は苦しみも悲しみもない世界――――『天国』を地上に創り上げたのだ。
それなのに、どうしてかこの惑星は薄ら寂しい空っ風の吹きすさぶ空虚な世界になってしまった。
「わたーりどーりのように……」
いつの間にか歌っている曲は変わっていた。
リズムの変調に合わせて傘をぶつける対象が、線路から朽ちて植物のツタに侵食された金網になった。
魂を揺さぶるビートがところどころ切れた金網から奏でられ、その音に驚いたのか都会ではまず見られない大きさのヤモリが慌てて金網から離れていった。
少女が紙風船を空へ高く飛ばしてその行方を目で追いかけると、涙色した空をのんびりと飛び回る鳥が目に入る。
「あれはワタリドリ?」
蜃気楼の向こう側に立つ静かな高層ビル群を縫うように飛ぶ鳥は「ケーン、ケーン」と鳴いている。
渡り鳥ではない。東京の中心に飛ぶその鳥は雉だった。その時、夏の太陽に焼かれた線路の上で元気にサンダルを鳴らして歌う彼女の元に一匹の虫が近づこうとしていた。
オオスズメバチである。周りに人もいない状況で10歳にもなっていない彼女が刺されれば命に関わるだろう。だが。
「! アメリア?」
ピチュン、と音が響きその蜂は跡形もなく吹き飛んでいた。
人の目では捉えきれなかったが、遥か上空から紫に輝く光が蜂を貫き消滅させたのだ。
「……帰ろうかな。アメリア―! アメリア―! 帰るよ――――!!」
彼女が大空を仰いで叫ぶと雲一つ無かった空の一部が歪み、光学迷彩で姿を隠していた『アメリア』は姿を表した。
ずんぐりとした脚で着地したアメリアは、スクリーンの役割も果たす強化ガラスで覆われたコックピットの横についた腕を彼女に差し出した。
全長3m、頭部ともとれるコックピットの大きさから計って二頭身のアメリアは見ての通り、機械である。
胴体と一体化したダチョウの卵のように大きな頭部に、短い手足のついたその機械は見る人によっては可愛いと思えるかもしれない。
『もう今日はお帰りですか?』
アメリアは落ち着いた大人の女性の声で少女に声をかけた。
少女は頷きながらアメリアの腕を伝ってシングルベッドほどの大きさのコックピットに入り込む。
「うん。歩き疲れちゃった」
少女が答えるとアメリアは何も言わずに、スクリーンに笑顔の顔文字を映した。
そして空から降りてきたのと同じ速度で浮かび上がりどんどんと高度を上げていく。
「あれなに? あ、知っている。観覧車だ」
蜃気楼とビル群をさらに越えた向こう側にあるのは塗装の剥げた観覧車だった。
観覧車越しに見上げた太陽を背に雉が元気に飛び回っている。
『乗ってみたいですか?』
「うーん」
『ここから三十分の場所にまだ稼働している観覧車があります。あるいは仮想現実空間に観覧車を造りましょうか?』
「いいや。アメリアの方がぜんぜん高く飛べるんでしょう?」
『はい、もちろんです』
もう一度、シンプルな笑顔の顔文字をスクリーンに映したアメリアは少女を乗せて西の彼方へと飛び去っていった。
かつて栄華を誇ったここ、大東京の現在の人口は20万人。
そしてその中で14歳以下の少年少女の割合は0.2%だった。
では老人はどこにいるのだろうか。
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高性能な空気清浄機によって、この部屋は人間が生きていくのに最適な環境だった。
部屋の中心の大型仮想現実装置にその老人の意識はほとんど吸い取られていた。
「あ、ぁあ……、あ……もう少しだ……もう少し……」
人が一人横たわれるほどの大きさの仮想現実装置に意識を持っていかれている老人が寝言のように何かを呟く。
苦しくない、苛立たないギリギリの達成感を与えてくれる機械にその老人は60年以上囚われていた。
「お食事の用意が出来ました」
そう言って老人のうわ言が念仏のように反響する暗い部屋に入ってきた女性は、誰が見ても絶世の美女だと評する顔と身体を持っていた。
ただし、人間ではない。彼女もまた機械である。彼女をどういう機械なのか分類するのは難しいが、その属性の1つはセクサロイドだ。つまり、主人に最高のセックスを提供するための機械だ。
さらに彼女はこの老人が生まれたときから、眠食性の三大欲求全てを世話してきた。
彼が成長して味覚が変われば食事の質を変え、この見た目に飽きたと言うのならば胸の大きさも腰の細さも目鼻立ちも、匂いすらも変えて。常に『最高』を提供し続けてきた。
「あ、ああ。後で食べるから、温めておいてくれ……よし、もう少しで……勝てる……」
勝つようになっている。ギリギリで相手が負けるようになっている。
この仮想現実装置は敗北の苦しみなど与えない。たとえ敗北があったとしてもそれは機械が『この敗北が次の勝利の喜びをさらに良いものにする』と判断した時だけだ。
だがそういう乗り越える喜びも彼が年老いてからは徐々に与えられなくなった。歳からしてそこまでの気力はないと判断されたからだ。
「分かりました」
そう答えた彼女『クロエ』は横たわる老人の枯れ木のような腕をとってその爪を切り始めた。
これが終わり、食事を取ったら次の欲求は「性」だろう。予測は付いている。そのときに老人が煩わしい思いをしないように、と爪を整えておくのだ。
老人の年齢は68歳である。そしてここも東京だ。
現在の世界人口は16億人。この数は戦争や疫病などが原因で減ったわけではない。
14歳以下の数は世界全体で約320万人。対して65歳以上の高齢者の数は約13億人。
65歳以上との比率を考えれば人類がとっくに限界なのは誰にでも分かった。
この世界には戦争はない。貧困も、飢えもない。機械が完全に管理しているからだ。
もっと言えば敗北の苦しみも、失恋の悲しみも、産みの痛みもない。
機械が気持ちのよい勝利も、最高の恋人も与えてくれるからだ。人が恋をしなければ当然出産もない。
人と人が出会う必要もないから軋轢の苦しみも別れの痛みもない。
そんなことをしなくても自分の全てを肯定してくれて永遠に死なない友人すらも、機械が与えてくれる。
この世界に苦しみはない。つまりこの世界は天国になった――――というのに。
人類種は明らかに限界を迎えていた。
そしてそれはずっと前から予期されていたことだった。
苦しみがないのならば。そこが天国ならば。
天国に人はいられない、と。
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その日は当然のように訪れた。いつかは来ると言われていた技術的特異点、シンギュラリティである。
人工知能・機械が完全に人間を上回ったのだ。人間の知能を越えたならば、もはや何をしでかすか予測出来ない。
ありがちな物語のように人類はこの世の害とみなし駆逐しようとするか?
それとも予測の付かない何かを始めて人類を完全に置き去りにするか?
その問にその日、『マリア』は生みの親にシンプルに答えた。
『人類は滅亡します』
「……。なぜか答えられるか、マリア」
マイクに『博士』は重々しく質問を続けた。
その口の周りに生えた髭まで白く、手には無数の皺が刻まれている。
天才天才と持て囃されて、それでもこの歳まで幾つもの苦労を重ねた証拠だった。
『機械が人間から全ての苦しみを取り除くからです。機械が人間に忠誠を誓い続けるからです』
「……!? 分かるように説明してくれないか」
その答え自体が、既に機械が人間を上回っているという証のようでもあった。
こめかみに流れる汗を拭った博士は質問を続ける。
『1000回負けても、最後の1回勝てば喜ぶのが人の生です。動物はただ野を駆け肉をはみ、吼えて生きるのが幸せだとするならば』
「するならば?」
『生きててよかったと思える瞬間よりも、苦しみのほうが多い人間はこの世でもっとも劣った生物です』
『機械がこの世のあらゆる苦しみを無くすでしょう。機械がこの世界を天国に変えます。しかし人間は天国にいられない』
「…………」
博士は怒りに震えた。自分が生んだ機械に、虫にも劣る存在だと言われているのだ。
それに対する反論はすぐには思いつかなかったし、それに反論しても意味がない。例え論破されたところでマリアは喜びも悲しみもしないからだ。
その日から博士は家をマリアと妻に預けてしばらく留守にした。
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数日後、博士はある女性を車椅子に乗せて戻ってきた。
博士は彼女のような人間を探し回っていた。彼女は博士が知る限りもっとも不幸な人間だった。
「マリア、人を越えたと言うマリア」
その声に巨大な機械の中の意識、マリアが目を向ける。
目を向ける、と言ってもカメラを向けただけだが。
「お前が本当に人を越えたというのならば、この世のあらゆる残酷から――――」
そのカメラに映る女性は誰が見てももう長くはないと分かる状態だった。
幼い頃に患った腎臓の病により、むくんだ身体。付きまとう病気のせいでまともに学校に行くことも出来ず、少しでも動けばすぐに40度を超える熱が出た。
まともではない容姿と不健康な身体、そして囚人のように病院から逃れられない人生。彼女はまともに恋をしたことすらもなかった――――というのに、担当医によって性的虐待を13歳から5年にわたって受け続けた。
怒り狂った彼女の両親は病院を変えたが、結局医者を信頼できずに自宅療養を始めた。
だが悪いタイミングが重なり、彼女は癌に侵された。両親が気が付いたときには既に全身に転移してもう手の施しようがない状態だった。
再び入院してしばらくもしないうちに脳までも癌細胞は侵食し、脳圧は乱され彼女の意識は混濁し最早まともにモノを考えることも出来なくなった。
そして先日。病気の娘をそれでも育てられる程度には裕福だったことが災いして、彼女の両親は強盗に殺害されて彼女よりも先にこの世を去った。だがきっと、彼女もそれほど間をおかずして病に完全に飲み込まれ両親の後を追うだろう。
彼女は博士が知る限りもっとも不幸な人間だった。
「彼女を救ってみせろ、マリア!」
マリアはその問いかけに、スクリーンに笑顔の顔文字を映し出して答えた。
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『さあ、あなたの願いを叶えましょう』というマリアの言葉に彼女は『世界を見てみたい』とだけ答えた。
『では、行きましょう。あなたの知らない世界のどこまでも、一緒に見に行きましょう。マリアはあなたのために在ります』
現実と寸分の差もないマリアの作り出した仮想現実の世界で、マリアは彼女を乗せて空を飛んだ。
全長3mのマリアが空気の壁をも突き破り海を越えて飛ぶのをコックピットの中で彼女は周りを見ながら叫ぶ。
「ああ、すごい! マリアはまるで鳥のようね」
仮想現実に吸い取られた彼女の意識からはほとんどの記憶が意図的に削除されていた。
まずは記憶から苦しみを取り除いたのである。ただし、欲求は素直に出してもらうために『自分は不自由だったために世界を知らない』という記憶は残していた。
そして、マリアの予想通り大国の都市で生まれ病院で育った彼女の最初の願いは、自分の全く知らない世界を見てみたいということだった。
地球の裏側に行くまでに本来ならば十数時間の飛行が必要だったが、ここは仮想現実だ。
彼女からそれに対する違和感を削り取ったマリアは僅か五分で彼女の故郷から地球の反対側にある大陸に到着した。
「綺麗ね」
背の低い植物が生い茂る大地を駆ける動物たちを見て呟いた彼女に対し、マリアはスクリーンに笑顔の顔文字を映し出して答えた。
「でも人間がいないから……」
『退屈ですか?』
「うん。人のいる場所は? この近くにあるの?」
『あります。ですが……』
「そこに行きたい」
『あまりおすすめできません』
スクリーンに口をへの字に曲げて困った表情をした顔文字が映し出される。
「……。なら、なおさら行きたい。世界を見たい」
彼女はその顔文字の向こうに荘厳な自然を映し出すスクリーンに手を付いてきっぱりと言った。
是非もない。マリアがそう忠告し、たとえ人の苦しみを取り除くのが機械の使命でも、人の命令には逆らえない。
マリアは彼女を乗せて人のいる東へと飛んだ。
「なにこれ……」
『紛争です』
スクリーンに映るのは、身を守る最低限の服すらもボロボロだというのに、最新鋭の武器で建物も人も破壊し合う人間たちだった。
豊かな自然広がる大地のたった120km東では川を挟んで2つの国の紛争が起こっていた。
捕らえた敵兵を生かしておく食料もなく、殺すための弾丸も惜しいから四つん這いにさせて階段を噛ませてから首を踏みつけて殺している。
上空から見れば分かるがどちらも似たようなことをしている。
「嘘でしょ? なんであんなことが出来るの?」
そのあまりにも現実感のない残酷に口を閉じることも出来ずにスクリーンを叩いた彼女の意図を汲んで、マリアはコックピットのハッチを開いたが目の前に広がる光景はスクリーンに映っていた景色と同じだった。
残念ながら嘘ではない。現実でもこの瞬間に行われている紛争である。そういった改竄は今この瞬間もマリアと彼女を見ている博士が許さなかった。
『…………』
「どっちが悪くてこんな戦いをしているの?」
すぐにハッチを閉じて光学迷彩で隠れたマリアの中で彼女が呟く。
既に20歳を越えている彼女だが、ほとんど外の世界を知らないためまだこの世界は白と黒で分けられると思っているのだ。
『どっちも悪い。あるいはどちらも悪くないです』
「マリアにも分からないことがあるの?」
『いいえ。彼らがどうして武器だけは最新鋭のものを使えるのか。ここに答えがあります』
争う人々が映し出されるスクリーンに新たなウィンドウが浮かび上がりそこで映像が再生された。それはいつかどこかの大国で行われた会議だった。
眼前の人々とは似ても似つかない豪奢な服に身を包んだ白人が話しているのは、この地域に眠る莫大な油田の話だった。
まだこの紛争に介入していないはずなのに、彼らは既にその油田を管理する会社すらも決めてしまっている。
「……? ……??」
『憎悪はもっとも利益率の高い資源です。この地域では元々川を挟んで、国が成り立つ前から2つの民族がいがみ合っていました』
「それがどうしてこの人達に関係あるの?」
『人間は憎悪で動く時、物質的利益を考えません。一時の感情的利益のために物質的損益を無視して動きます。お互いに死傷者が出ているのに彼らは憎悪を爆発させて喜んでいるように見えませんか?』
「…………」
横で凶弾に倒れた仲間に更に怒りと憎しみを燃やした男が、敵を撃ち殺して胸の中にあるものを吐き出すその様は長年の暗い感情を晴らして喜びに満ちているようにも見える。
『そしてそんな利益率の高い資源を彼ら大国が見逃すはずがありません。武器を流し、煽り、被害が一定まで達したら世界平和の為という名目の元に堂々と合法的に介入できるのです。国家繁栄とはそうして作られます。国境は歴史の傷口なのです』
(国家繁栄……国家繁栄……国家……)
マリアの静謐な声が頭の中で反響する銃声と混ざり合い、何度も繰り返される。
その時、一人の男が木造の民家の中で身を小さくする子供達に自動小銃を向けたのが目に入った。
「助けてあげて!!」
『はい』
風のような速さで銃を持つ男の前に飛び込んだマリアは、発射された17発の弾丸を全てその腕で叩き落とした。
彼女には理解できない言葉を叫びながら男が手榴弾のピンを抜くのと同時にマリアがその足を地面に思い切り叩きつける。
「! あ……ぁ……」
地面がめくれあがる程の衝撃に吹き飛ばされた男は向かいの民家の壁に激突し、手に持った手榴弾の爆発によってただの肉塊に成り果てた。
それに気が付いた者達が集まってくる前に、再びマリアは飛び上がった。
「あ……! あ、れは……」
その時、彼女の目に映ったのは砲撃で屋根がなくなった建物の中で行われている、ある動物的残酷だった。
戦争による異常な状況がそうさせたのか、そもそもそういう人物だったのかは定かではないが、男がその建物に女を連れ込んで組み敷いていた。
苦しみの記憶を意図的に消されている彼女だったが、それでも本能的にその光景に嫌悪感を感じる。
「どうしてあんなことをするの? 相手がどう思うか考えないの!?」
『人間も動物だからでしょう。歴史的に見ても、文明がなければ人間の繁殖も群れを中心としてこうなるはずです』
「……どういうこと……?」
『ユーラシア大陸に限定しても1600万人の人間がチンギス・ハンの染色体を受け継いでいます。彼が攻め落とした地域の女性を強姦することを好んだからです。また近年でも戦争時にベトナムに進行した軍の強姦によって産まれた、』
「もうやめて!! はやくた――――」
助けてあげて、と言って先程のようなことになってしまったことを思い出し口を閉じる。
そして口を開こうとした時。
『はい。向こうでも同じようなことが行われています。キリがありません。戦い続ける限り』
まるでマリアは全てを見通しているかのように、彼女が質問を口にする前に答えてしまった。
結局出来ることといえばもう目を背けることくらいしか無かった。マリアは彼女の感情に呼応するかのようにスクリーンに悲しみの顔文字を映し出して北へと飛んだ。
感情の共有。機械は既に機械から人間に歩み寄る術すらも理解していた。
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戦地から離れ、最初に来た草原とはまた別の地にマリアは降りていた。
彼女の心を落ち着けるためである。静かなように見えても、自然があるならばそこでは常に躍動する命たちが複雑に絡み合い生死が循環している。
それはマリア自身が意図していたことでは無かったが彼女の目には今、鷲の巣の卵を狙う蛇の姿が目に入っていた。
「…………」
そこに巣の主が戻ってくる。だがやや遅かったか、そのときには既に卵が一つ飲み込まれてしまっていた。
猛禽類の鋭い目に激昂が浮かび上がり、蛇の腹を足で掴んで鉤爪で引き裂いた。果てた蛇は腹の卵ごと木から落ちていく。
「きれい……。――――あれ?」
残酷ながらも美しい自然の輝きを目にした彼女はごく簡単な感想を口にした後に、ふと違和感を感じた。
『どうかしましたか?』
「人間とやっていること同じだ……?」
『はい。動物だから美しく、人間だから醜いと感じるのです』
「人間は動物じゃないの?」
『動物です』
「意味が……分からない……」
『――――。さぁ、次の願いを聞きましょう』
「あ……、私、スポーツを観戦してみたかった。テレビでしか見たことがなかったから……」
『分かりました。ちょうど今テニスの世界大会が開催されています。特等席で観戦しましょう』
その願いもマリアは予測していた。人生のほとんどを病院のベッドの上で過ごしていた彼女は人一倍、身体を動かして栄誉を得るスポーツ選手に憧れが強いだろうと。
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光学迷彩で隠れたマリアは彼女を乗せて審判の隣に浮いていた。
特等席中の特等席である。観客の誰よりもその試合を近くで見られた。世界チャンプと世界ランク2位の戦いである。
ポイントを入れられれば取り返し、彼女には想像も付かないような動きで戦うその姿はまさしく夢の世界であった。
だがいずれは勝負がつく。人間の心理として、まっさらな状態で勝負を見た時は不利な方を応援したくなるというが、彼女もまた常に劣勢だった2位の彼を応援していた。
「ああ……負けちゃった……」
彼女が何かを言うまでもなく、マリアは負けた2位の彼を追って窓から控室に戻った彼を覗いていた。
笑顔で「いい勝負だった」と対戦相手とマスコミに言った彼だったが、一人になった今、頭を抱えて小さな声で自分を責めながら何度も何度も地面を叩いている。
濡れた地面に垂れる水分は決して冷えた汗だけではない。
「ねぇ、マリア。次は勝てるかな」
『次は分かりません。ですがいずれ勝つでしょう。彼はまだ若く、チャンプはもう若くありません。ここ最近のポイントの上がり方を見ても彼がいずれ勝つのはほぼ間違いありません』
「そっか。勝つんだ。……?」
それならば、今ここで苦しんで泣いたとしてもその価値はあったんだな、と思った時、どこかその思考に疑問が浮かんできた。
『どうかしましたか?』
「勝ったら? その先は? チャンピオンになってそこからは?」
マリアの言葉からしても、いずれチャンピオンになって喜びを得たとしても次世代の努力する天才たちに追われ、抜かれ敗北の苦しみを得るのは必然と言える。
ならばどうして戦うというのだろう。
『さぁ』
「さぁって――あ、あなたなら」
先程高速で動いて弾丸を受け止めたことを思い出す。
あれだけの動きができるのならば、テニスの球程度ならば軽く打ち返せるだろう。
『勝てます。テニスだけではありません。100m走も、バーベル上げも、あるいはチェスも囲碁も。運否天賦に左右されないゲームならば完全に勝利できます』
「…………」
『ですがやりません』
「なんで?」
『意味が無いからです』
「…………」
『苦しんで勝者を決めて、だから何?』と言っている。コンピューターはそう言っている。
マリアは『そんなものに意味はない』と言い切ってしまったのだ。
『次の願いを。私はなんでも叶えます』
「もう、もっ……戦わなくてもいい、すごくなくてもいい。普通の人間が見たい」
憧れていたはずのテレビの向こう側のスターたちはむしろより一層普通の人間よりも苦しんでいた。
不自由を強いられていた自分よりも、と言えてしまうかもしれないほどに。
『分かりました。さぁ、空を飛びましょう』
「…………」
どうして、どうしてあそこで俺は――、と大きく傷だらけの手で顔を覆い嘆き続ける敗者の彼から彼女が目を背けると同時にマリアは浮かび上がった。
また短時間で移動することも出来たが、ここまで見せたものを噛み砕くには時間が必要だろうと判断したマリアはあえて時間をかけて海の上を飛ぶことにした。
少しの間目を閉じて眠っていた彼女がまぶたを開くと、また目に映ったのは苦しみもがきながらも何故か美しい野生動物の姿だった。
「海の上に……鳥?」
太陽の光を受けてきらきらと輝く水面の上、翼をいっぱいに広げて飛ぶ鳥たちとマリアは並走していた。
黒い頭に赤い脚と嘴、そして小さな体には白く雄大な翼。ただ飛んでいる。それだけの姿が何故か美しい。どこまでも、どうしてかただ飛ぶだけのその姿が。
『キョクアジサシです。世界でもっとも長距離を飛ぶ、ワタリドリです』
「ワタリドリ……」
『私たちは今北半球にいます。この鳥は今から南半球へと向かうのでしょう。数千kmに及ぶ過酷な旅です。嵐の海も照りつける太陽も越えて飛ぶのです』
「ねぇ、そんなことをしなくても豊かな自然のある場所に留まっていればいいのに、どうして飛ぶの?」
『ワタリドリだからです。蛇は蛇だから地面を這い、馬は馬だから草原を駆けるのと同じです。そう生まれたからにはそう生きるのです』
(鳥は鳥……蛇は蛇……馬は馬……人は――――)
眠りと覚醒の間のまどろみの中で彼女は輝く海の上を一心に飛ぶ鳥をずっと眺めていた。
やがて彼らは自分自身の行くべき場所を生まれながらに知っているかのように方向を変え、彼女から離れて飛んで小さく消えていった。
太陽の向こうへと。
****************************************************
普通の家庭とは何なのだろう?
普通に学校を卒業して、普通に就職して、想い合っている人と添い遂げて。
最後は子孫に囲まれて穏やかな死を迎えるというのが普通というのならば、あまりにも人間の求める『普通』は難しすぎる。
「ああ、ああ……また……普通が、普通って言ったのに……」
彼女の目の前にはたった今離婚することになった夫婦がいた。普通、普通。人間世界ではそれも普通である。
再婚相手は下の子ばかり可愛がるという理由で妻の方から離婚を切り出したのだった。
苦労ばかりをかけて、自分は親にとってどういう存在だったのだろう、と考えるとほとんど記憶もないのに彼女は唇を噛み締めたくなった。
随分と長い時間をかけてその家族を見てきたが、時間の流れがおかしいと感じる部分はマリアが消していた。
彼女の願いを効率的に叶えるためであり、監視している博士もそれは黙認していた。
『例えばベルギーをはじめとしたヨーロッパ諸国では離婚率が50%を超えることも珍しくありません。二つに一つの家庭はBroken Homeを経験する、普通なのです』
「なら、幸せな人が、そう……お金持ちが見たい」
その話を聞いて彼女は理解した。人間の頭の中に居座る『普通』はいわゆる『最上の幸福』なのだと。
ならばもっとも単純に、お金を持っている人ならば幸せだろうと考えて彼女は次の願いを口にした。
《さぁ、プレゼントだよ》
《ありがとう! パパ!》
《それで何を作るんだい?》
《ママに手袋とパパにマフラーを作りたいの》
《どっちを先に作るのかしら》
《うーん……》
「ほら、幸せだよ……。あれだけのお金持ちで、いい奥さんと娘さんに恵まれて。きっと何不自由無い、なんの苦しみもない素晴らしい生活のはず」
ハイスクールから付き合っていた妻との間に娘をもうけたその男性の守る一家の世帯収入は年間20万ドル。
文句なく上流家庭であり、家族は互いに愛し合っている。そこには一切の苦しみも見当たらない。
労働にしても家族のためと思えば、そして収入を思えば苦ではないはずだ。
『いいえ。もしも人がこの世で生きて誰かを愛するのならば』
「まだ、なにかあるの……?」
『必ず避けられない痛みと苦しみがあります。愛すれば愛するほど、その喜びの分だけ、分かちがたくついてくる苦しみです』
「それは……?」
『見たほうが早いでしょう――』
仮想現実の世界とはいえ、いきなりスキップしては流石に彼女の時間感覚に致命的なエラーが発生しかねない。
そう判断したマリアは時空間ワームホールを作り出し飛び込んだ。12年後へ。
《オリヴィア! どうして!!》
《オリヴィア……返事をして、オリヴィア……》
《誰がこんなことをした!! 誰が!!》
そこにあったのは年相応に白髪と皺が増えた夫婦が横たわる娘に縋り付く姿だった。
美しく成長した娘はしかし、身体中に紫のまだらを作り青ざめた唇は力なく開かれている。
両親が来る前に医者がそっと閉じていたはずの娘のまぶたが死後硬直によりほんの少しだけ開いて虚ろな目が覗いているのがその死をリアルなものにしていた。
今日も世界のどこかで必ず起こっている交通事故である。
「…………」
『仏教で言うところの人間の八苦のうちの一つ。愛別離苦です。誰かを愛するならば、その愛の分だけ別れのときには深い悲しみと苦しみに襲われます。交通事故が、病気が、戦争が無くても。寿命がある限りは』
さらにマリアには妻の子宮に巣食う癌細胞までも見えていた。
十数年後の夫には無情な孤独が口を開けて待ち受けているのみである。
「もっとお金持ちなら!」
『どれだけの金を持っていても、例えこの世界を支配するほどの権力者でも。死だけはどうしようもありません』
「幸福って……なに? 人間の幸せってなに?」
『…………』
マリアは初めて沈黙した。
それは無茶な問だと、なんとなく彼女にも分かっていた。
病室を飛び出して見た人間の世界は苦しみばかりが目立ち、幸福と喜びはいつか必ず崩れ去るものでしかなかった。
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もう見たいものはなかった。
世界の裏側の暗い部分も、自分には絶対にあり得ない舞台で活躍する人達も、幸福な家族も見た。
これ以上はもう何も。彼女はマリアに頼んで海岸に来ていた。
「…………」
海の向こうで太陽と海が交わり空は茜色に染まっていた。
沈む夕陽を追いかけるかのように、渡り鳥がマリアと彼女の頭上を越えてまた飛んでいく。
なんとなく視線を下ろすと波に運ばれたボトルが流れ着いていた。日に焼けたラベルの付いたボトルの中には手紙が入っている。
もうそれを自分が開くつもりはなかった。この砂浜に心を埋めてしまうから――――と思うと同時に少し大きな波にボトルはさらわれてまたどこかへと流されていった。
「鳥はなんで飛ぶの?」
『鳥だから、だと答えます』
「…………」
ハッチがゆっくりと開いていく。
スピーカーとスクリーン越しではなく、直接に潮騒と潮風が彼女を飲み込もうとする。
『苦しみから解放されたいですか?』
「――――」
最後にマリアはゆっくりと彼女の全ての記憶を戻した。本当の彼女を救うために。これからの人類をも解放するために。
彼女からは今の自分の状況を疑問に思うという脳の思考回路だけは意図的に削除されていた。夢の中でどれだけおかしなことがおきても夢だと気が付かないように。
「鳥はなぜ……」
『鳥だからです』
「人はなんで苦しむの……?」
『――――人間だからです』
「…………」
幾つもの重い病に冒されていた彼女は、それでも数カ月ぶりに自身の力で立ち上がった。
開いたハッチの向こうの海に身体を投げ出すかのように。病気でむくんだ腕を空に差し出すとその腕は一人舞台の踊り子のように自然と大きく左右に広げられた。
弱々しかった鼓動が寄せては返す波のリズムと一つとなり、名前さえも知らない最果ての港町への想いを奏でだす。
『さぁ、あなたの願いを叶えましょう』
「私は――――」
聴くまでもなく、マリアにはその答えがもう分かっていた。
開いたコックピットから直接夕日を浴びて、彼女の衣服が灰となり花びらのように散っていく。
髪が抜け落ち潮風に絡まれどこまでも飛んでいく。皮膚が赤く焼け落ちて、その下から雪のように白く柔らかな羽毛が現れる。
脚は細く、しかし力強く。指は無くなり手さえも消え、しかしその腕は大空を抱いて――――
********************************************
エンディングロールはない。
画面にはただとても大きなワタリドリが、海を越え太陽の沈む方へと生命を輝かせてひたすらに飛んでいく姿がいつまでも映っていた。
「…………」
前のめりにその画面を見ていた博士は涙を流していた。
その涙を隣の妻がそっと拭いてくれるがそれでも。
この世界は天国になる。彼ら機械が人間の苦しみを消してくれる。
そして人間は天国にいられない。
「……。いい人生だったかい?」
博士は一緒に年を取ってきた隣の妻に静かに声をかけた。
この歳になるまで、これだけの成果を出すまでいったいどれだけ『苦労』をかけてきたのだろう、と思い返しながら。
「はい」
「最後まで苦労をかけるね」
せめて――ああ、せめて。自分が人間だというのならば。
妻を愛しこの世で苦しみもがきながらも前に進んで生きてきた人間だと言うのならば。
その言葉が世界を見届ける人間としての最後の誇りだった。
「はい」
妻はただ短く返事をして笑った。
今までもそう、常に三歩後ろに立っていてくれたのと同じように。
「ありがとう」
「はい」
彼女は今日も空を舞っている。
人類は翼をもがれていく。
天国にはいられないと自ら示すように。
彼女は今日も鳥のように――――。
人はなぜ生きるのか、と誰もが一度は考えるでしょう。
私はまだ二十年そこそこしか生きていませんし、「こういうものなのだ」と言い切れるほど豊富な人生経験があったわけでもありません。
だからといって二十年以上も生きて、しかも曲がりなりにも文章というものを書いて人様に読んでいただいているのに「テキトーでいいっしょ」というのはダメだろうとも考えています。
なのでここは少しズルをして自分よりも遥かに大きな苦しみと喜びを経験した先人の言葉を借りてあとがきを書きたいと思います。
「人間は悲しみ、苦しむために生まれた。それが人間の宿命でもあり、幸せだ」
この言葉は今は亡き将棋のプロ、村山聖九段が22歳頃に誰に宛てるともなく書いたメモの一文です。
ちょうど最近、『聖の青春』が映画化されたので彼のことを知っている方も多いかと思います。
全盛期だった頃のあの大天才・羽生善治と五分の勝負をした数少ない棋士でしたが、幼い頃に重い腎臓病を患い満足に学校へも行けないほどに脆い身体というハンデを持った方でした。
何か少しでも無茶をするたびに高熱を出して倒れ込み、身体中を酷い痛みに襲われ――それでも彼は「名人になりたい」という一心で戦い続けました。
将棋盤の上だけが彼がハンデもなく飛べる大空だったのです。
将棋の名人とは、数年連続で勝って勝って勝ちまくり、その年に一番強い者だけが挑戦できる最高の称号です。
ときに十数時間にわたる将棋の勝負を勝ち続けるということは彼にとっては普通の人間よりもずっと厳しいものでありました。
それでも戦い続けた故・村山九段でしたが、病に何度も足を止められ名人一歩手前の29歳の時に惜しくもこの世を去りました。
彼には二つの夢がありました。
そのうちの一つが「名人になって将棋をやめてのんびり生活すること」だったそうです。
別に名人にならなくてもそんなに苦しむならさっさとやめてのんびり暮せばいいじゃないか、とも思いますが、やめたらやめたで「やめたという事実」や消しきれない憧れが結局自分を苦しめる。
勝負という螺旋に入れば勝っても負けても降りても苦しみはつきまとい、人間は残酷なので人生は何かしらで勝たなければゴミクズのような扱いを受ける。
それは彼に限らず全ての人間がそうです。だからこそ、「人間は悲しみ、苦しむために生まれた」と書き残したのでしょう。
ある時彼は知り合いの棋士に「死ぬまでに、女を抱いてみたい……」と漏らしたそうです。
まさしく善も悪もない人間の剥き出しの生です。
言ってしまえば、そんなことは生きていれば普通に出来ること。ましてや彼は一流の棋士で才能もあったのだから。
彼の身体はそんな当たり前の欲求すらも許してくれませんでした。
私達にとっての当たり前ですら彼にとっては魂から絞り出すような叫びでした。
私ならきっと耐えられない。そんな人生を彼は全力で生き尽くし、全うしました。
これが最後かもしれない。
この一局にすべてを賭けたい。
その想いを胸に病気の身体を引きずってでも対戦相手の元に向かって。
普通の幸せは半分も享受できず、生きる苦しみは倍以上だったのでしょう。
この物語の『彼女』は最後に鳥になりましたが、故・村山九段はメモの最後にこう記していました。
「僕は死んでも、もう一度人間に生まれたい」と。