今日の彼女は少しおかしい。
思えば、朝会ったときからそうだった。一目見て彼女らしからぬ、普通の女子高生のような服装。彼女らしからぬ浮足立った発言、行動。
そして、今。俺はこれまでで最もらしくない彼女を前にする。彼女の目は花火でも、こちらに手を振るマスコットでも、煌びやかな夜景でもなく、まっすぐに俺を見ている。
そんな彼女を俺は正面から見ることができない。視線を落とし、何とか告げる。
「冗談でもそういうことを言うのはやめてくれ。…俺は、もう間違えたくない」
そう、俺は間違えたくない。思えば今までさんざん間違えてきた。俺が間違えるたび、ある者は憤慨し、ある者は気づかず、ある者は矯正を試み、そして…これはうぬぼれかもしれないが、ある者は俺の間違えを哀しんだように、俺には見えた。
それでも、その何人かの想いに気づきながらも、俺は幾度も間違えた。俺の目の前で起こることはすべて俺のことでしかなく、俺の行動の結果も俺だけのものだった。だから俺は誰が哀しんでもそれは他人事で、物事は自分の中で完結していたのかもしれない。
だが俺は今彼女に関することは、彼女と俺に関することは、間違えたくなかった。間違えるわけにはいかないと思った。彼女といくつもの思いを交わし、俺は確かにそう感じている。間違えれば彼女を傷つける。そして彼女が傷つけば、俺は…。
「…私、ね」
海老名さんは俺を見る。
「私は、私が嫌い。腐ってる私が嫌い。卑怯な私が嫌い。傲慢な私が嫌い。よくわからない私が嫌い。そして私は…比企谷君のことが、好き」
俺は彼女の独白に、何も言えない。言うべきではない。そう思った。
「だから私、不安なの。不安で不安でどうしようもないの。私は私が大嫌い。でも比企谷君のことはとても大事に思っている。
じゃあ比企谷君は?比企谷君にとっても私は、私が嫌いな私は、比企谷君の大切になれているのかな?なってもいいのかな?私には自信がない。全然、ない。 比企谷君の周りには私なんかよりはるかに素敵な女の子がたくさんいて、私はその子たちよりも比企谷君の大切になっていいのか、その子たちから比企谷君をとっていいのかわからない。比企谷君を傷つけた私が、比企谷君の大事な場所を傷物にした私が、その比企谷君の近くにいてもいいのか、わからない」
彼女の言葉は、もう俺には向かっていなかった。どこまでも自分に向かっていて、どこまでも虚空に向かっていた。その問いは終わることなく彼女と虚空に投げかけられ、もはや問い自体が彼女にかけられた呪いとなっていた。
「だから私は今日、私じゃない私で、嫌いな私を置き去りにして、ここに来たの。いつもの海老名姫菜が着ないような服を着て、しないような発言をして、とらないような行動をとった。
でも、比企谷君。それは偽物じゃなかったと思う。その私は確かに今日、比企谷君との時間を楽しんで、今までと同じように。…ううん、今まで以上に幸せだったよ」
そう俺に笑いかける彼女は、泣いているように見えた。
「だから私は今日、比企谷君と離れたくない。自信がほしい。確証がほしい。そうすれば…私は、比企谷君の大切でいられると思ったから。事実が気持ちを乗り越えてくれると、そう思ったから」
彼女は手に持ったカバンから二枚のチケットを取り出す。
「比企谷君、ここにチケットが二枚ある。お父さんがくれた、会社の偉い人にもらったデスティニーリゾートの宿泊チケットだよ。今日私は友達と一緒にここに泊まることになってる。
…『事実が気持ちを乗り越える。』こんなこと言ってる時点で、私が卑怯なのは、私が一番わかってる」
彼女は自嘲気味に笑う。
「だから、選んで。比企谷君」
選んで。彼女はそれだけ言った。何から選ぶのか。何を選べばいいのか。俺にはなんとなくわかる気がした。
彼女も俺と同じで、怖いのだ。怖くて、身動きが取れなくなっている。なぜ俺は自分だけがそう感じていると思い込んでいたのだろう。彼女は俺の葛藤に気づいていたというのに、俺は彼女の優しさに、強さに甘えていた。彼女の恐怖に、彼女の葛藤に、彼女の呪いに、俺は気づくことができなかった。
底が見えなくて、いつも笑顔で、どこまでも優しく、見透かされていると俺が思っていた女子は…普通の不安を抱く、一人の普通の女の子だった。
気づくことができなかったのではない。気づこうとしていなかったのだ、俺は。彼女なら大丈夫だと心のどこかで思っていたのだろう。変わったと思ったのに、変わろうと思ったのに。らしさを押し付け、自らの枠組みに当てはめ、俺の勝手な理想を押し付けて、一人の女の子の気持ちも考えていなかった。
もう一度、彼女を見る。海老名姫菜という人間を、俺はもう一度正面から見る。ならば。不安で仕方のない彼女に、怖くて仕方のない俺に、とることができる選択肢とは。いや…出すことのできる答えは。
「わかった」
うなずく俺に、海老名さんは瞠目する。
「比、比企谷君…いい、の?」
「ああ」
俺は力強くうなずく。
「でも…ど、どうして?」
彼女は心底不思議そうに、俺に問う。
「自分から言っておいてそれはないだろ」
「ご、ごめん。絶対断られると思ったから…」
絶対、か。あまりの自らの甲斐性のなさに、思わず苦笑がこぼれる。
「海老名さん」
俺は彼女の名前を呼ぶ。
「俺はお前のことが好きだ。それだけは間違いないし、間違えようがない。この気持ちは、たぶん本物だろう。
だが、それはただの俺の気持ちだ。俺はお前の気持ちにまで入り込めない。俺が海老名さんの気持ちを決めつけることはできない。その不安は、葛藤は、恐怖は、…罪悪感は、海老名姫菜にしかわからないものだ。結局のところ自分自身で向き合うなり、逃げ出すなり、整理するなりするしかないものだろう。俺にはそれを大丈夫だとも、わかるとも、許すとも言えない。俺にはその言葉が本物だとは思えない。
でもお前は、俺が自らの気持ちにケリをつけられるまで、俺が俺と海老名さんを信じられるまで、待つといってくれた」
息を吐く。打ち上げられた花火の残骸が水面に降り落ち、風がそれをどこかへ運ぶ。
「ならば俺は、お前と一緒にいる」
今度はまっすぐ彼女を見られただろうか。
「…比企谷君」
彼女は短く俺の名前を呼び、ふわりと俺の胸に飛び込む。その体はとても軽く、触れれば壊れてしまいそうだった。
「行こっか」
儚げな少女は、静かにつぶやいた。
「どんなことにも、最初というものはある」
俺はこの言葉が嫌いだ。失敗の言い訳のようにも聞こえるし、「だからやれ」と強制されているように感じる。それに…失敗できないものにも「最初」は等しく訪れ、この言葉はそれを全く解決してくれない。
あの後彼女と一緒にホテルで食事をとり、チェックインして現在の時刻は22時。今更どこか行くには遅く、寝るには早い。
「…クソ」
俺はベッドに横たわる。
自らのこれまでの生き方を今更後悔する。リア充として生きる比企谷八幡がもし別の世界線に存在するならば、今すぐに変わってもらいたい。…何とかして練習しておけばよかった。
危うい後悔に溺れる俺の意識は、彼女の声によって現実へと戻る。
「比企谷くん、お風呂、空いたよ。…一緒に入らなくてよかったの?」
肩まである髪をバスタオルで拭いながら、バスローブ姿の海老名姫菜はいたずらっぽくそう笑う。その姿に思わず、うっ…、と呻く。
頬は上気し、髪は艶めかしく濡れ、バスローブから綺麗な足をのばす彼女を、俺は直視できない。…俺は今晩果たして大丈夫だろうか。
「もう風呂に入れてもらう歳でもないしな」
そう返し、俺も風呂場に入る。
に、しても。俺は鏡とにらみ合う。俺を誘った時の彼女には、どこか儚げな憂いこそ見えたものの、それ以外はずいぶんと余裕を感じた。それに今の発言。思い出して少し顏が熱くなる。
つい忘れかけるが、彼女も二年生の時は学年トップカースト。しかも三浦の談によれば男から言い寄られることも多かっただろう。もしかしたらすでにそう言ったことも経験…。
俺は首を振る。何を考えているのだ。そんなことは今俺が考えてもしょうがないことだし、彼女に限ってそんなことはない。…と、思う。
どうにも不安を拭いきれない俺は、シャワーを浴びて自らの考えを振り払った。
そして俺と彼女は、ベッドの上で正座で向き合う。
さて…どうしたものか。
さっき言明は避けたが、もちろん俺にそういったことに関する経験はない。女子と同じ部屋で寝るということ自体、小町が幼稚園の時以来だ。あの時の小町はかわいかったな…。現実逃避している場合ではない。
彼女を見ると、まだバスタオルで髪の毛でごしごしとふいていた。あの…さすがにもう乾いてるんじゃないですかね。
「あー…寝るか」
あまりの気まずさに、それだけ口にする。
「え、も、もう!?まだ心の準備が…」
「寝るだけのことで心の準備も何もないだろ…」
ジト目で彼女からの視線を受ける。間違ったことは言っていない、はず。
ベッドをもう一度見る。布団には大きなパンさんの絵が描かれており、クッションはさすがに相当よさそうだ。体は何の抵抗もなく沈み込む。そして何より…一つのダブルベッド。
俺は今日寝られるんですかね…。
「わかった。…じゃ、寝よっか」
海老名姫菜はそう頬を赤らめる。
げ、まだ心の準備が…。
ベッドにお互い背中合わせで横たわる。部屋の電気は消し、ベッドの横の照明をつける。
当然だが、落ち着かない。心臓の鼓動が自分でも聞こえるほど大きくなっている。背中越しに彼女のぬくもりを感じる。
こういう時に取るべき行動を、最初の一歩目をあいにく俺は持ち合わせていない。…動けねえ。
「比企谷君」
彼女は背中を向けたまま、俺を呼ぶ。
「おう」
背中を向けたまま短く返す。
彼女は言うべきかどうかしばし逡巡していたが、意を決したのか大きく息を吸う。
「比、比企谷君は、もしかしてそういう経験とか…」
「ば、あるわけねえだろ!」
即座に否定する。言っていて悲しくなる。
「そ、そっか…」
彼女がほっ、と一息つく。そっちが聞いてくるのならば、こちらも気になる。
「海老名さんはその、なんだ…そういう経験は…」
「あ、あるわけないでしょ!そういう女の子だと思ってたの?」
思ったより強く否定された。最初に聞いてきたのはそっちなんだよなぁ…。
「じゃあ!」
そう言って海老名さんはばっ、とこちらを向く。俺もつられて彼女の方を向く。
目が合うと彼女は顔を耳まで真っ赤にし、布団を頭からかぶる。…はぁ。せっかくなかなか来られないデスティニーリゾートまで来て、気持ちよく寝られないのはさすがにもったいないだろう。そしてそのチケットを持ってきたのは、おれではなく海老名さん。優先権は彼女にある。
「ほれ」
俺は布団を頭からかぶった彼女に、俺のほうにかかっている布団をかける。
「俺はソファーで寝るから、ゆっくり寝ててくれ。別に明日も休みだし遅くまで寝てても問題ねえだろ。…ああ、チェックアウトの時間教えといてくれれば起こす…」
ベッドから離れソファーへ向かう俺の裾を、彼女がつかむ。
「一緒にいてくれるんじゃ、なかったの…?」
ぐ…。
「別に一緒にいるとは言ったが、一緒の部屋に泊まっても、一緒のベッドで寝るとは言っていない気が…」
「…やっぱり私じゃダメなんだ」
そう彼女は自らの胸に手を当て、ため息をつく。ちょ、男の前でそういう仕草をしてはいけません。
「いや、前にも言ったがそういうことじゃなくてだな…」
頭を2、3度かく。
「じゃあどういうことなのかな?」
彼女の顔にいつもの笑みが戻る。…だめだ、逆らえねえ。
「じゃあ、お邪魔して…」
「はい、どうぞ」
彼女は布団を広げ、俺をベッドに入れる。
「で、でもなんか落ち着かないから…もうちょっと近づいて、頭なでてくれない?」
いつもの笑顔を浮かべていた彼女の顔に朱色がさす。
「ち、近づくってどのくらい…」
今の俺と彼女の距離は、ちょうど人一人分ほどある。なんならこの間に小町がいてくれれば俺はゆっくりと寝られると思う。
「このくらい!」
彼女は突然俺との距離を詰め、俺の鼻孔をシャンプーしたての彼女の柔らかい髪の匂いがくすぐる。ちょ、近い近い近いいい匂いやばいこれやばい。
彼女と俺の距離はほぼゼロとなり、彼女は俺の腹あたりに手を回す。
「ん…」
彼女は俺に顔を向けることなく、頭を出して催促する。し、仕方ない。
「はあ…これでいいか?」
彼女の頭を優しくなでる。
「うん」
彼女の腕に込められた力が、少し強くなった気がした。
こうして触れ合っている今だから、俺には彼女に、自らを嫌う彼女に今一度言わなければならないことがあった。
「海老名さん」
彼女に呼びかける。
「…なに?」
下を向く彼女の表情をうかがうことはできない。
「海老名さんは自分のことが嫌いだと言った。その気持ち、わかるとは言えない。俺は自分のことが好きだから。そして何より…海老名姫菜のことが好きだから。
お前は自分のことを腐っていて、卑怯で、傲慢で、よくわからないとも言った。確かにそうかもしれない。海老名姫菜は腐ってるし、卑怯で傲慢で、よくわからない女の子かもしれない」
びくっ、と彼女の肩が震える。
「それでも、お前は俺の前で、それも含めたあらゆる海老名姫菜を見せてくれた。
優しく笑いかけてくれた。面白い話をしてくれた。嫉妬してくれた。逃げずに向き合ってくれた。傷を分かち合おうとしてくれた。待つといってくれた。そして…一緒にいてほしいといってくれた。
だから、俺は。
俺は…お前が嫌いだというお前も含めて、すべての海老名姫菜を好きになっていた」
彼女の顔が上がり、俺を見る。
「腐っててもいい、汚くてもいい。俺は屋上でそう言っただろう」
「で、でも私は…」
「わかってる。さっき言ったようにそれは海老名さんの気持ちだ。お前だけのもので、俺が勝手に決めていいものじゃない。お前が嫌いなお前をどうしても許せないなら、これから変えようとするなり、許容するなり、諦めるなりすればいい。
だけど今は…」
彼女を抱き寄せる。
「その…なんだ。そばにいる、姫菜。…俺でよければ、だが」
彼女の顔を見ることができない。そっぽを向いてそう言う。
彼女は声を出して笑った。まったく、最後の最後で格好がつかない。…いや、格好悪いのはデフォルトか。
「八幡だから、いいんだよ」
優しく彼女は笑った。
海老名姫菜は俺の腕の中で、ゆっくりと眠りについた。