あの日。結局私は彼と、その…一線を越えることは、なかった。
な、なんなの!あの甲斐性なし。抱き着いて、頭なでて、好き好きさんざん言って、結果普通にすやすや寝るだけって。…逆に、どこのギャルゲーなのかな?
まあ、すやすやと彼の腕の中で寝ちゃったのは私なんだけどね。だって比企谷君、いい匂いして、とても落ち着けたんだもん。そういうわけで私は気持ちのいい朝を迎えたんだけど、朝起きたときには比企谷君の目の下にはクマができていた。…はっ、もしかして、わ、私のいびきがうるさかったとかじゃないよね!?
まったくまったく。私はそう文句を言いながらも、あの日のことを思いだすと、自然とほおが緩んだ。あの後はチェックアウトの時間いっぱいまで二人でベッドにいて、たくさんおしゃべりして、時々、き、キスなんかしちゃったり。…大体私からで、比企谷君はため息交じりだったけどね。女の子からされてその反応はどうなんだろう。そう思いつつ、それでもそのあとは顔真っ赤にしてたから許してあげたけど。
というわけで、今私は比企谷君を我が家で待ち構えている。
いや、というわけでと言われてもわからないよね。話はあのデスティニーから帰ってきた、日曜日にさかのぼる。
…時系列がぐちゃぐちゃだね。作者はほんともう少し考えて書いてほしいなぁ。
「た、ただいまー」
時刻は19時。ホテルを出た私たちは、帰りに本屋、ゲーセン、カフェ、と普通の恋人のような寄り道をして、二人の時間を楽しんだ。比企谷君は寝不足と疲れからか、買った本を読もうとしたカフェにつくなり、スー、スー、と寝息を立ててしまった。とってもかわいらしくて、思わず写メをとって待ち受けにしてしまった。デへへ…。つい女子らしくない声とよだれが出る。目を瞑った彼はいつかのお母さんの見せてくれたスマホの中の彼のようで、かわいいけどとても格好良かった。…だから、寝不足は私のいびきのせいじゃないよね!?
私はどこか後ろめたい気持ちで、我が家の扉を開ける。玄関には父親の靴もあり、台所からはカレーの匂いが漂ってくる。…う、なんて間が悪い。これから父と母と食卓を囲まなければならないのか。
いや、大丈夫。私は自分に言い聞かせる。いつもの私なら、海老名姫菜ならきっとうまくやれるはず。
「姫菜、おっかえりー!」
バン、と母がドアを開け、抱き着いてくる。ちょ、ちょっと…
「ん?あれ、姫菜?」
お母さんは私の体をクンクン、と嗅ぎまわる。
「…あんたからなーんかうちのじゃない匂いがするんだけど、気のせいかしら?」
お母さんは訝し気な目をこちらに向ける。げ…
「ほ、ほら、結構デスティニーリゾートのシャンプーとボティーソープがいいやつでさ。匂い残ったんじゃないかな?朝もシャワー浴びてきたし」
私は何とか口にする。彼女はデスティニーリゾートに言ったことがないはずだから、そのあたりのことは知らない。この言い訳は通る…と思う。
「ふーん、まあいいか。ほら、ごはんできてるから、早く着替えてらっしゃい」
「は、はーい」
お母さんの追及も終わりのようだ。内心胸をなでおろし、私は自室へ向かった。
ご飯を食べ終わって、お父さんはシャワーを浴びている。ごはん中は普通に楽しかったデスティニーの思い出を語っただけだから、別に大丈夫だった。も、もちろん、カップル用のメロンソーダとか、お化け屋敷のくだりは省いたけどね。
私はお母さんとダイニングテーブルでコーヒーを飲む。む。今日のカフェのよりおいしい。さすがうちの母。
チラリと彼女を見ると、何やら目を瞑ってうん、うん、とうなずいている。
「で」
お母さんはそう切り出した。
「昨日比企谷君とは、どこまで行ったの?」
まるで「今日のテストはどうだった?」という風に、彼女は聞いた。
はいいいいい?????????????????
私の頭の中をクエスチョンマークが乱舞する。
もう一度母を見る。しかし、そこにあるのはいつものニコニコ顔。
何も言えない私に、母はもう一度笑顔で尋ねる。
「で、どこまで行ったの?」
ぐ。これはすべてわかっている目だ。無駄な抵抗と知りつつ、私は口にする。
「な、何言ってるのお母さん?私は優美子と泊まりに行くって言ったじゃん。もう」
「うん、そう聞いたよ。だから、弓ちゃんに聞いてみたの。優美子ちゃんは姫菜がデスティニーに行ったとき、どこにいるか。そしたらね、その日優美子ちゃんはずーっと弓ちゃんとお出かけしてたんだって」
…弓ちゃん?私はその名前をどこかで聞いたことがある。そうだ。サイゼリヤでキスシーンの写真を母に送った人。さらに休みの日に優美子と一緒に行動していて、私が名前を知らない、お母さんの知り合いといったら…
「もしかして、弓ちゃんって…」
「うん?そうだよ。優美子ちゃんのお母さん」
な、なんというトラップ。
私は頭を抱える。大方母は授業参観か何かで優美子の母親と仲良くなっていたのだろう。そういえば話をしていた記憶がある。まさか連絡先まで交換していたとは。もし何か聞かれたら話を合わせるように優美子に言っておいたが、それは想定外だった。本当は結衣に頼めればよかったのだけど、流石に彼女に頼むわけにはいかなかった。
「で、比企谷君とどこまで行ったの?」
再三お母さんから同じ質問が飛ぶ。く、くそう…
「デ、デスティニーシーまで…」
「うん、お母さんが聞いてるのはそう言うことじゃないって、賢い姫菜ならわかるよね?」
こ、こわい!笑顔が崩れない母親に恐怖を覚える。確かに、この期に及んで無駄な抵抗だったけど…
笑顔の彼女に私はどんどんと追いつめられる。心なしか彼女はじりじりと私に近寄っている気がする。
ふう。私はため息を漏らし、両手をあげる。降参だ。
「うぅ…どこまでもいってないよ!ど、どうせ私には女としての魅力なんてないんだよ。私から当日、不意打ちみたいに誘ったのに、手出されませんでしたけど、な、なにか!?」
私は開き直る。その声は震え、少し目じりが熱くなった気がしたが、気にしない。
そんな私を見てお母さんは声を出して笑う。
「まあ、別にそんな心配してなかったんだけどね。姫菜から耳にタコができるほど比企谷君のことを聞いたけど、話で聞いてるだけでも彼ひねくれていて、とてもそんな度胸のある子じゃないじゃない」
む。私は少し憤慨する。
「別に比企谷君は度胸がないわけじゃないよ。…ただ、すっごく優しいだけだよ」
最後のほうはしっかりと言葉になっていただろうが。
そんな私を見て彼女はひゃー、という声を出し、両手で顔を覆う。
「まあ、ごちそうさま。…本当に、姫菜はその比企谷君のことが好きなのね」
一転、優しい表情で私にそう言う。まったく、お母さんにはかなわない。
「…うん」
顏が熱い。お風呂に入ったらのぼせないだろうか。
母はそんな私を見てパン、と手をたたく。
「そうだ、今度比企谷君うちに連れてきなさいよ」
…はい?
「な、何言ってるの!?」
「なにって、そのままの意味よ。それも私がいるときに、ね」
彼女はそうウインクをする。
「な、なんでそんなことしなきゃいけないの!」
当然だ。急に彼をうちに呼ぶなんて。
「へー…そういうこと言うんだ」
彼女の顔から表情が消える。あ…まずい。
「じゃあ姫菜がしたこと、お父さんに話しちゃおうかなー。この写真も添えて」
彼女はちらりと以前のサイゼリヤでの写真をスマホから開く。
「そ、それはだめ!」
母には前から比企谷君のことを話していたし、女親だからまだいいけど、お父さんにはこんなこと言えるわけがない。
「じゃあ、決まりね。都合のいい休日に彼を連れてらっしゃい」
にっこりと微笑む彼女に私は思う。完全敗北だ…。
それに、とお母さんは続ける。
「私も姫菜の話だけで、かわいい一人娘を預ける男の子を信じられるほど、人間できてないの」
比、比企谷君…
私は心の中で彼の名を呼ぶ。
ご、ごめん!がんばって!!
無責任だけど、私のできることは祈ることだけだった。
というわけで、現在はその日曜から二週間たった、土曜日。
比企谷君に都合のいい日を聞いた結果、この日になった。たぶん単純にあの翌週に私の家に来る、というのはさすがに気持ち的につらかったのだと思う。ただの先延ばしではあるけど、私も同じ気持ちだった。…うちのお母さんこわすぎるよぅ。
さて、時刻は午前九時半。約束の時間まであと30分。これから比企谷君がうちに来る。
その事実に気づき、私はもう一度部屋を見渡す。だ、大丈夫だよね?ちゃんと片付いてるよね?
薄い本は全部押し入れにしまったし、ポスターもすべて中に丸めて押し込んだ。別に比企谷くんは私の趣味も知っているし、そんなこと気にしないかもしれない。でも…私は気づいたら、それらのものを目につかないところにしまっていた。
目につかないといっても、それらを部屋の外に持っていくわけにはいかない。お母さん…はたぶん気づいていると思うけど、お父さんに私の趣味を知られるわけにはいかない。見つかったら、お父さん卒倒しかねないからね。
そしてもう朝から何度見たかわからないが、もう一度鏡を見る。今日はたぶん、私らしい服だと思う。薄いピンクのワンピースに、白のカーディガン。私はデスティニーでのスカートを思い出す。ミニスカートがまさかあんなにいろんなことに気を付けなくちゃいけないとは思っていなかった。…優美子、いつもおつかれさま。
しかし、こうして鏡を見ていると服はこれでいいのか気になってくる。も、もう少し胸が見える服のほうが…
「ピーンポーン」
唐突にインターホンが鳴る。いや、インターホンは唐突に鳴るものだけど、今の私はそう言いたい気分だった。
「姫菜ー、比企谷君来たわよー!」
下からお母さんが声を飛ばす。時計を見ると約束の15分前。少し早いけど…
よし。
鏡の前で頬をバシンとたたく。大丈夫。私は、その、かわいい!…かもしれない。
いまいち気合の入らない気付けをし、階段を勢いよく下りる。
玄関の前に立ち、大きく深呼吸をし、ゆっくりと玄関のドアを開ける。
「…うす」
そっぽを向いて小さく頭を下げる、いつもの変わらない比企谷君がそこにいた。だから、約束の朝の挨拶くらい…
後ろから視線を感じ、私は振り向く。
そこには壁にかくれ、ニヤニヤとこちらを見るお母さんがいた。…いや、隠れられてないよ。
「お母さん!」
柄にもなく私は母にそう一喝する。まったくもう、行儀の悪いお母さんだ。
「あー…」
所在なさげな比企谷君がこちらに視線を送る。ご、ごめんね。
「ほ、ほら、比企谷君早く中に…」
私の催促は比企谷君の声によって遮られる。
「…おはよう、姫菜」
なん、ですと…。
一瞬で顏が熱くなるのを感じる。耳まで熱いし、なんなら首のあたりまで熱い。な、何この気持ちは!名前なんて毎日呼ばせてるのに…
そうか。私は思い当たる。彼から朝のあいさつで私の名前呼んでもらったのは、初めてだったんだ。
「お、おはよう、八幡…」
彼の顔を見られない。
「あんたたち、いつまでそこに突っ立ってるつもり?」
後ろから母のこの上ないニヤついた顔がのぞく。ま、まだいたのかこの人は。
「う、うるさいなぁ!今行くから!」
「はいはい。お邪魔虫は退散しますねー」
そう言って彼女は今度こそ奥に下がった。
「な、なんか元気なお母さんだな…」
比企谷くんは半ばあきれたように苦笑する。
「ご、ごめんね、比企谷君。うちの母親が迷惑を…」
「いや」
比企谷君は否定する。な、何が?
「…いつもとは違う海老名さんが見られそうで、なんつーか…楽しみだ」
彼は意地の悪い笑顔を浮かべる。う…母のいるここでは、私が圧倒的に不利だ…。
だけど。私は内心ほくそ笑む。大変なのは、比企谷君のほうだと思うけどなぁ。
私は少しの絶望、大きな同情とともに、比企谷君をラスボスのおわすリビングへ案内した。