海老名さん√がまちがっているわけがない。   作:あおだるま

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覚悟

 心臓の鼓動がうるさい。

 

 寒くもないのに膝はがくがく震えてるし、背中には冷たい汗が伝っている。かと思えばこれから話をする奉仕部の二人のこと、比企谷君のことを思い出すと一瞬で顔が熱くなり、体温まで上がるような気がした。

 

 私、海老名姫菜は今、奉仕部室前にいる。校内でも辺境に位置する特別棟にあることもあってか、放課後の廊下には私のほかには誰もいない。そして。

 

 この教室の向こうには、あの二人が待っている。

 

 そう思うとあと一歩が踏み出せない。この部室に私が入っていいものか、戸惑ってしまう。私の脳裏には自然と二人の女の子の顔が浮かぶ。

 

 由比ヶ浜結衣。一年間の間私と一緒に教室、その外で一緒に笑い合った女の子。私と違って可愛くて、とっても優しい。その優しさに何度助けられてきただろうか。私の大事な友人だ。

 

 雪ノ下雪乃。クラスは違うけど名前は知っていた。私に限らず、この学校で彼女を知らない人間の方が珍しいだろう。綺麗で、強くて、反対に内側には脆さを抱え込んでいるような女の子。

 

 私はこの二人に言うべきことがある。

 

 あの修学旅行。私は比企谷君に曖昧に助けを求めた。彼なら気づいてくれるかもしれないし、気づかないかもしれない。私は碌に話したこともない彼を、ある意味で信頼していた。仮に気づかれないなら、それはそれで仕方ない。私はあの時そのくらいの気持ちでグループのことを考えていた。

 

 結果、私たちのグループの関係は現状維持で保たれた。…現状維持というには少しぎこちなかったかもしれない。私たちの間には小さく、そして確かな歪みが生まれていたように思う。しかし、結局その歪みは表面化することはなく学年は変わり、グループは自然となくなった。だがこの部室は、奉仕部の三人の関係は。

 

 あの時の奉仕部の三人を思い出し、扉を開く手が止まる。私に何の権利があるのだろう。そう、冷静に考えてしまう。私に今更何が言えるのだろう。何をもって、私は彼女たちの前に立ち、彼女たちに語り掛けるのだろう。

 

 何もない。改めて私はそう確信する。私が彼女たちの前に立ち、彼女たちに語ってもいい権利など、なにもない。私がいまやろうとしていることはまるで正当なことではない。なぜなら彼女たちの関係を壊しかけたのは、他ならぬ私だから。

 

 再確認し、私は震える手で扉に手をかける。それでも、私には言わなければならないことがある。戸部君に伝えた。比企谷君に伝えた。彼女たちに黙っていられるわけがない。

 

 そして、これはお母さんにすら伝えたことだ。…うん、あの人に話す以上に怖いこともないよね。

 

 昨晩、比企谷君と別れた後のことをつい思い出してしまう。

 

 

 

 

「ただいまー」

 

 玄関の扉を開け、私は早足に自室へ向かう。ぐずぐずしていれば母から詮索を受けるのは目に見えているし、明日に奉仕部の二人と話すにあたって考えておきたいこともある。そんな私の思惑を知ってか知らずか、玄関の前で待っていたかのような早さで返事は帰ってきた。

 

「おかえりー、姫菜…ん?顔赤いけど比企谷君と何かあった?」

 

「べ、べべべ、 別にそんなことないし!なんにもなかったよ。ていうか比企谷君の家すぐそこなんだから、なんか起きる時間もないよ。うん」

 

 私は母に対して早口で完璧な対応をする。声は上ずってないし、どもってないし、ましてや噛みかけてなどない。ないったらない。母は「あらあら~」と若干腹の立つ笑顔を浮かべ、リビングの扉を開けて座るよう促す。無言の圧力に耐えかね、私は仕方なく腰を下ろす。母は座る私の前に紅茶を出し、自分の分も用意してあったそれに口をつけ自分で嘆息を漏らす。

 

「うーん、おいしい。…ま、姫菜もとりあえずこれでも飲んで」

 

「あ、ありがと…」

 

 口を湿らせる程度に出された紅茶に口をつける。母には悪いが、私には考えなければならないことがある。さっきまでの比企谷君との会話、戸部君、奉仕部の二人のことを思いだし、口を閉ざす。

 

 無言になる私同様、母も何も言わない。静かに紅茶を口にし、下を向く私に見透かしたような目を向けてくる。私はそれにますます居心地の悪さを感じ、一息に紅茶を飲み干す。悲鳴が上がるほど熱かったが、それすらどうでもよかった。

 

「ごちそう様。じゃ、私はお風呂でも…」

 

「で、姫菜」

 

 飲みかけの紅茶を置き、母は静かに、しかし確かに切り出した。

 

「何があったの。…あなたは何をしようとしてるの」

 

「だから、何もないって…」

 

「いいから」

 

 否定から入りその場から逃げ出そうとする私の手首を、彼女は優しく握る。その手は伸ばされ、私の目元を拭う。

 

 彼の前で流してしまった涙。それはまだ、乾いてはいなかった。

 

「言ってみなさい。…お母さんはどうせ、聞くことくらいしかできないんだから」

 

 言うだけならタダよ。母は、そう静かに笑った。

 

 適わない。そう思ってしまうと同時に、私の口は自然と言葉を紡いでいた。

 

「私、実は最低なんだ」

 

 

 

 誰にも、親にも言いたくなかった私の今までと修学旅行の一件。言葉にならない言葉を、彼女にぶつけた。

 

 

 

「…私は、比企谷君と、戸部君と、奉仕部の二人を傷つけた。…自分勝手に、傷つけた」

 

「そう」

 

 修学旅行と戸部君、奉仕部にまつわるあらかたを話し終えた。それでも母の私に向ける視線に変化はない。彼女は優しく私に微笑むだけだ。

 

 その柔らかい視線で余計、自分の汚さを思い知ってしまう。

 

「戸部君には自分で言った。…ひどいことを言ったし、ひどいこともした。私は、私が比企谷君と一緒に居たいから、私を、私なんかのことを想ってくれてる彼をもっと傷つけた。わざと戸部君の席に座って比企谷君と話して、他に好きな人がいるって言って振って、追い打ちをかけた」

 

「そっか」

 

 また視界がにじんできた。もう、目の前に座るひとの顔もみることはできない。

 

「それでね、お母さん。私はいま、私よりも多くの時間を過ごしてきた奉仕部の二人から、…私が傷つけた彼女たちから、比企谷君を奪おうとしてる」

 

 決めたこととは言え、比企谷君に話し、彼が赦してくれたこととはいえ、揺らぎそうになる。私はこれまで18年間を共にしてきた母親に今、話したことがない私の腐った部分を語っている。

 

 幻滅されると思った。失望されると思った。罵られると思った。

 

 でも滲んでしまった視界ですら、目の前のひとはただ優しく私の話に耳を傾けてくれている。それがわかってしまう。

 

「そんなこと、赦されていいのかな」

 

 結局私は、どこまで行っても卑怯なのだ。滲む視界で、ぼやける思考で、そんなことを思う。

 

 流している涙も、震える声も、彼ら、彼女らへの気持ちも、本物だと思う。それは本当に、そう思う。

 

 でも今私は、私を産んでくれた、こんなに最低な私ですら許してくれる人に、赦しを求めてしまっている。最低だ。心底そう思う。でもそう思ってしまうのだから仕方がない。こんなに極限の、余裕なんてひとかけらもない状態で、私はそんなことを思ってしまうのだ。つまり私は、そういう人間なのだ。どこまでも打算的で、卑怯で、自分のことしか考えていない。それが私だ。海老名姫菜という人間だ。

 

 私はそれを彼女たちにも伝えなければならない。そうしなければ私は彼と一緒にはいられない。

 

 それなら何よりも先に、まずはこの人に。私の卑怯さも卑屈さも、伝えるのが先だろう。そう思うと、前なんか見えないけれど、目だけはまっすぐに母を見据えることができた。

 

 そして、彼女は。

 

「何言ってんのあんた」

 

 ため息をつき、「今日の夕食どうしようかしら」そんな風に悩むいつもと何ら変わらない。小さく肩をすくめるだけだった。

 

「私ならゆるすわけないわね。何発か殴るんじゃないかしら」

 

 そこには初めてみる、「女の子」の母がいた。

 

「姫菜、あなたは自分の都合で周りの環境を固定しようとしたんだよね。グループの気持ちも、戸部君の気持ちも、あなたは勝手に決めつけた。

比企谷君は確かにいいと思う。…少なくとも、彼なら「いい」と言うでしょう。赦すとすら言わないでしょうね。「自分で勝手にやったことだ。気にされても迷惑だ」なんて、彼なら言うでしょうし、本当にそう思ってるかもしれない。…男の子だからね」

 

 その女の子の顔のまま、母はいたずらっぽく笑う。

 

「好きな女の子の前なら、男の子はどこまでも格好つけちゃうものなのよ。…格好良くないことなんてこっちからすればバレバレなのにね」

 

 軽く笑う母につられ、つい笑みが漏れる。彼なら、もし今みたいに私が赦しを請えば、そう言ってしまうだろう。少しどもりながら、優しく、そう言ってしまうだろう。…なんで会って一日の比企谷君を母がそこまで理解しているかも疑問だが。

 

 そう思うとついあらぬ疑問を母に向けてしまう。…いや、流石にないとは思うけど、平塚先生然り雪ノ下姉然り、年上キラーでもあるからなぁ。

 

 気づけば百面相でもしていたのか、見世物を見るようなさも愉快そうな視線に気づく。ことさら真面目そうな顔を作るが、今度は母からは笑い声が漏れてきた。…えーえー、そんなわかりやすいですか私は。

 

 不貞腐れる私に「ごめんごめん」と軽く謝罪をし、母は静かに、実感を込めて続ける。

 

「でも女の子は違うよ、そりゃ」

 

 女の子。母はそう言った。ある意味私が逃げてきた、苦手とする部類の問題でもある。優美子も結衣も、悪口や異性関係といったいわゆる「女の子」的な面から離れていた。もしかしたら気を遣ってくれていたのかもしれないけど、二人からそういう話題が出てくることはほとんどなかった。

 

 でも、母はあっさりとそう言った。

 

「こと男の子が絡んだら、女の子は格好もつけないし、いい顔もしないと思うな。…その子たちは、比企谷君のことを憎からず思っているのでしょう?」

 

「…それは、そうだと思う」

 

 いや、そうとしか思えない。心の中で私は付け足す。あれで好意がないのだとすれば、比企谷君ではないが私こそ人間不信にでもなってしまいそうだ。…いや、なんならないほうがいいのだけれど。

 

「それでその一人は、結衣ちゃんなのよね?私も知ってる」

 

「うん、そう」

 

「じゃあ、例えばさ」

 

 結衣が優しく、常に空気を読んでしまうような子だということを母も知っているのだろうか。彼女は下を向く私の頭を軽く小突き、初めて真剣な顔を向ける。

 

「比企谷君とのことで姫菜はその結衣ちゃんに絶交されて、嫌われてもいいと思う?」

 

 思わず呼吸が止まった。

 

 私がしようとしていることはそう言うことだ。今更ながら実感させられる。どれだけ結衣が優しくても、どれだけ雪ノ下さんがきれいでも、彼女たちは女の子なのだ。少なくとも比企谷君の前では。

 

 いや。私は首を振る。誰でも、好きな男の子の前なら女の子になる。なってしまう。現に私がそうなのだから。ならば。私は今度ははっきりとした視界で、確かに母を見る。

 

「そうなっても仕方ないと思う」

 

 そんなの、当たり前のことだ。私は素直にそう思う。

 

 私は彼女と彼の居場所を壊しかけた。試練があってその関係は強固になる。そんなことを言う人もいる。でも、そんなのただの結果論だ。現実を見ていないだけの戯言だ。実際の人間関係はもっと空虚で、儚くて、軽い。少なくとも私はそう感じていたから、あの時に一生懸命にそれを守ろうと、壊れないように崩れないように、そっと触れようとしていた。

 

 そして彼女たちはその犠牲になった。なら。

 

「ごめんなさい、お母さん」

 

 今度こそ、私は母に謝らずにはいられなかった。

 

「私、大切に育てられたと思う。お父さんにもお母さんにも愛してもらってきたと思う。でも、私はまっすぐに、結衣みたいにまっすぐに、雪ノ下さんみたいに綺麗に…なれなかった」

 

 私は汚い。彼女たちを見ると余計にそれがはっきりとわかる。彼女たち二人は、綺麗だから、隣に居る女の子を慮ってしまう。三人の関係が壊れることを恐れてしまう。

 

 でも。私がほしいものは。

 

「戸部君に、結衣に、雪ノ下さんに…ううん、本当のことを言うとね。お母さんに赦されなくてもいいんだ、私は。…なんなら世界中の人間に嫌われたっていい。本当は」

 

 許しを求めたのも、同意を求めたのも、本当はただのポーズでしかない。本当に私が欲しかったものはもっとシンプルで、もっと汚くて、もっと不純で、だからこそ単純で。

 

「私はただ、比企谷君のそばに居たい。例えいつか比企谷君に嫌われても、嫌だって言われても、私は離れたくない。…ごめん、本当は赦されたいわけでも認められたいわけでも優しくされたいわけでもないの。もっとずっと、自分勝手なの、私は」

 

 全部、言ってしまった。

 

 私が思ってることすべてを伝えたと思う。少なくとも私にはこれ以上彼女に言うべきことはない。私がどれだけ汚くて、卑怯で、空虚であるか。多分全部言った。もう何も、言うことはない。

 

 何を言われるか、私は覚悟を決める。しかし、目の前に座る母は、ただ困ったように笑う。

 

「…まあ、あんたがひねくれてるのは分かってたけどねぇ」

 

「え」

 

 …え?いや、自分で言うのもなんだけど、今まで問題らしい問題も起こしてこなかったし、反抗期だってなかった自負がある。友達もそこそこにいて、恥ずかしい趣味ですら伝えてきた。

 

「あたりまえでしょ。何年あんたの親やってると思ってんの。…やっぱあんたは私の娘よ」

 

 絶句する私に、母は当たり前のことを、当たり前のように告げる。ずるい。まずはそう思った。そう言われては私には言い返せる言葉がない。そう思う反面、私は妙に納得してしまっていることに気づく。

 

 お母さんなら、しょうがないか。

 

「でも、ま」

 

 グイ、と正面から顔を手で持ち上げられる。な、なんだなんだ。やんのかこら。両の頬を押さえつけられたまま、私はファイティングポーズをとる。そんな私をまた母は笑う。

 

「ちょうどいいんじゃないの、比企谷君となら。ひねくれてる同士で」

 

「…お母さん」

 

 頬を押さえられたまま、瞳に雫がたまるのを感じた。しかし今度こそ真剣に、母は泣き顔の私に追い打ちをかける。

 

「ただ、殴られるくらいの覚悟はしときなさいよ」

 

 パンっ。軽い音を立て私の頬を叩き、母は紅茶を手にし台所に向かう。しかし、後ろ姿でも震える肩から、彼女は面白そうに笑っていることがわかった。…この母親は、まったく。

 

「男の子と違って、女は怖いわよ」

 

「…救急セットくらいは用意しといてね」

 

「おうよ、骨は拾ってやる」

 

 力強い返事に、私はすでに赤い自らの頬を叩いた。

 

 

 

 

 昨日のことを思い出し、今更ながらこの部室から逃げたしたくなる。おのれ、母。こうなることを見越していたのか。呪詛の念を送るが今更だろう。私がここに立っていられるのも、また母のおかげであることは明白なのだ。

 

 なら、私にできることは。私はその重い扉にようやく手をかける。片手で自らの頬をまた思いっきり叩き、足に力をこめ、小さく叫ぶ。

 

「女は度胸!」

 

 案外、その扉は軽かった。

 

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