とある二人の艦娘の日常と、平穏の終わり

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時雨と響の場合

 ――深い水底に居た。

 深い深い海の底。

 光は、差し込んできているが――それはとても遠く、手を伸ばしても届きそうにない。

 

(嗚呼、僕は沈んでしまったのか)

 

 水底で手を伸ばすと、光はその程度で遮られてしまう。呼吸も出来ない筈なのに、苦しさはない。

だがふと違和感に気付く。

 

 水底に居るはずなのに、水の感覚は全くない。いや、呼吸だって出来る。動く事は出来ない。まるで――自分ではない誰かのような細く白い手が光を掴もうとして。

 

 深く黒い闇に、呑み込まれた。

 

****************

 

「――……あれ?」

 

 一度黒に覆われた視界が、不意に開かれた。

見覚えのある、やや古びたコンクリートの天井。所々がひび割れているものの、崩れるような儚さは見えない。むしろ、歴戦の傷とでも言いたげなそれはむしろ頼もしささえある程だ。

 瞬きを一度、二度としてみる。此処ではないどこかに居た気がしたのに、それを思い出す事は出来ない。少なくとも、こんな暖かい場所には居なかっただろうに。

 

「……、夢、かな?」

 

 十中八九、そうだろうとは思うのだが思い出す事は出来そうにない。上体を起こして腕を組み、少し思い出そうと思考してみるのだが――何も思い出せそうになく、諦めて薄い毛布を押し上げてベッドから降りようとしたところ。

 灰色の壁に視線を巡らせ、埋め込まれるように設置された木製の扉の枠組みに目が付き、扉が開かれたままである事に気付く。そしてすぐに、その白い影が己の視界へと入って来て――とても奇妙なポーズを取りながら部屋を覗き込んでいた。

 

「お目覚めかい、時雨」

 

 白い帽子、輝くような銀色の髪、空のように透き通った瞳の少女がそこに居た。白い制服の上着を着用し、黒いスカートを履いて同じく黒のソックスに茶色の革靴を履いている姿、そこまでは良い。そんな可愛らし気な見た目なのに、彼女の取っているポーズは何とも、こう、奇妙だった。

 こちらに人差し指を向け、両足を大きく曲げ、倒れるのではないかという程に腰を曲げて腹筋だけで上体を支えているようなその姿勢。どう見ても日常的にはやらないポーズであり、名を呼ばれた己――時雨はすぐに察した。

 

「おはよう、……ヴェールヌイ。君、また漫画に影響されたでしょ」

 

 半眼で見据えると白銀の少女は微かに瞬きとして、全く表情一つ変えないまま姿勢を戻し「ハラショー(素晴らしい)、さすがは時雨だ」と直立の姿勢になって拍手するような素振り。傍から見るとどこまで冗談でどこまで本気なのかわかり辛い、が。

 

「ふふん、君が影響される事なんて大抵御見通しさっ」

 

 だがそれは付き合いが短ければ致し方ない事であり、長ければその逆だ。ヴェールヌイが突然変な行動をし始めたら、大抵は漫画を読んで影響された、というのが十中八九である。外れた試しはない。そしてその漫画の入手先だが、

 

「……また提督の部屋を漁ったね?全く君って子は」

 

 呆れた様に溜息を零しながら立ち上がり、側面に設置されている縦長の鏡に視線を向ける。少し乱れた黒茶の髪を細い両手を伸ばして整えて三つ編みの髪を前に出して黒い制服に乗せる。乱れた衣服を整えてから赤いリボンを軽く引っ張って緩んだ結び目を整えると「よしっ」と頷いて再びヴェールヌイに視線を向けると、彼女は項垂れていた。

 

「え、どうしたの」

 

「いや……その、少し、身体が痛くて。うん、やっぱりあの体勢は一般艦娘がやってはダメだ……普段使っていない骨と筋肉が軋むね」

 

 とても涼しい顔なのだが、辛そうに腰辺りを撫で摩っている。余程痛かったらしくどうにか姿勢を戻そうとする動きがどことなく機会仕掛けの人形のようだ。

 

「さて、時雨。そろそろ朝食の時間だけれど、胃の調子はどうかな」

 

 声ははっきりとしているので多分大丈夫だろう。そう思いつつも問い掛けられて自らの腹部へ手を伸ばして軽く摩ってみてから一つ、頷いて「大丈夫」と答えるとヴェールヌイは頷いて踵を返し、部屋の外へと歩いて行く。

 

「……大丈夫?」

 

「ニエベスパコーイシャ(心配いらない)。それよりお腹が空いたよ」

 

 そう言って一度振り返ってから廊下へと出て行く。思ったより問題は無さそうなので、時雨もその後を追って行く事となった。

 

 廊下を暫く進み、外へと出るとあまり手入れのされていない庭を通り、木製の建物に近付いて行く。やや年季が入ったかのようだが、崩れはしない様子。しかしコンクリートの建物に比べて少し頼りないところが心配の種でもあるが。

 

「じゃあヴェールヌイは椅子に座って待っていてね。今日は僕が取ってくるから」

 

 そういって二人は建物中にある席を確保すると、時雨が立ち上がって食堂の奥へと足を進めていく。

 

「私は何もしなくていいのかい?」

 

「別にだいじょーぶ。ま、ゆっくりしててよ!」

 

 そう言って時雨は短い袖を捲って食堂の隅にある扉を開き、中へと足を踏み入れる。

 

 貯蔵庫。そこには本来様々な食料が保存されているのだが、とりあえず今必要なものは今すぐ食べられる物だろう。倉庫の奥まで足を進めると、棚に置かれた段ボールを開いて中から色々な缶詰を取り出して両手に抱えると、近くに置いてあった運搬する為の袋に入れていく。

 カップ麺も傍にあったのだが、さすがに朝からは重たいかと断念。

 とりあえず二人分の缶詰を確保すると両手で袋を持って貯蔵庫を後にする。

 

「……わっ」

 

「嗚呼、イズヴィニーチェ(ごめんなさい)。手伝いに行こうかと思ったんだけれど」

 

 扉を開けると、丁度ドアノブに手を掛けようとしていたヴェールヌイの姿があり、時雨は思わず一歩下がって悲鳴を零した。だがすぐに見知った人物だとわかれば溜息を零し、「待っててって言ったのに」と苦笑を浮かべて袋から片手を離して帽子の上から銀色の髪を撫でつけた。

 

「そんなに重いわけじゃないし大丈夫さ。ほら、席に戻ろう?」

 

「ウラズミェートナ(了解だよ)」

 

 大人しく頷いたヴェールヌイは一足先に、時雨もそれに続いて彼女の対面席に腰掛け、袋から缶詰を取り出していく。

 

「最近の缶詰ってすごいよね。手軽に開けられて、美味しいし」

 

「そうだね、昔は缶切りが無いと空けられなかったのに……時代も変わった」

 

 談笑(といっても笑顔を浮かべているのは時雨だけだが)を交わしながら互いにポケットから箸入れを取り出し、蓋を開いて取り出す。それぞれに缶を取り出し、蓋を開いて、

 

「ところで時雨、今日はどうするつもりだい?」

 

 ふと、そんな問いを掛けられて手を止める時雨。問い掛けた当人は黒豆を箸で摘んで口に運びながら、視線も落としたままで向けて来る気配も無い。

問いの意味を探る事も出来ず眉尻を下げ、首を傾げながら、

 

「うーん……特には無いよ。いつも通りだね……そういうヴェールヌイは?今日は冷えるけど、また提督の部屋漁りでもするつもりかい?」

 

 時雨も再び箸を動かして開いた缶詰の中から魚の身を摘み口へと運ぶ。口内に入れては噛み砕き、缶詰らしく出汁の染み込んだ味が口内に広がった。

その中で不意にヴェールヌイは箸を止め、どこか遠くを見るように外へと視線を向けて、こう呟いた。

 

「そうだね……今日は、ゆっくりしてもいい、かな」

 

 そんな彼女の表情が、全く変わらない筈の表情がどこか寂し気に見えた。時雨も思わず箸を止めて何か言葉を発そうとしたが、その言葉は出てこない。

 

「でも今日は少し行きたい場所があってね。時雨、良ければ付き合ってくれるかな」

 

 と、いつも通りの表情ながらも少し揺れた空色の瞳。それを見逃すには、今の距離はあまり遠くはない。

 時雨は少し悩み、無言で頷くと「スパシーバ(ありがとう)」と短く答え、また缶詰を食し始めた。暫く箸を止めていた時雨だったが、彼女があまりに淡々と食べるものだから少し自分の分が無くなる事を恐れて、箸を動かし始めるのだった。

 結局は、ヴェールヌイはあまり食事を採らず、時雨も食べきれずに残るといういつも通りの結末に落ち着いたのはまた別の話としておこう。

 

 食事を終え、二人は自分の部屋に戻っていた。ちなみに、時雨とヴェールヌイは相部屋なので戻る先と言えば同じ部屋となるのだが。

 そんな二人は戻ってすぐに出かけるかと思えば、互いに身を寄せて布団に包まっていた。

 

「寒いね」

 

「ダー(うん)」

 

 どうにも今日は気温が低く、暖房が機能していない鎮守府では少々冷え込み過ぎる。下手をすると外に出た方が温かいかもしれない、日は出ているからだ。

 だがその一歩を踏み出すには鎮守府の廊下を歩いて外に出なければならないので、結局寒い想いをするのだ。結果、二人は毛布に包まって動けなくなっているのだが。

 

「時雨、君は長袖を着るといい。半袖だから冷えるんだよ」

 

「ヴェールヌイは長袖だもんね……うん、そうしようかな」

 

 と言って毛布から抜けようとすると、手を掴まれて布団に引き戻されて苦笑いを浮かべる時雨。長袖ながら体温が低いらしいヴェールヌイはさらに寒がりのようだ。表情には相変わらず出ないのだが、行動ではしっかりと示してきている。

 しかし、だがしかし。このままでは目的である外出も。

 

「……っていうかそうだよ、ヴェールヌイ。君、外出したいんだろう。このままじゃ日が暮れるよ?」

 

 首を傾げて問い掛けたところ、不意に彼女の手から力が抜けて、頭が時雨の肩へと押し当てられた。突然の事で目を瞬かせ、問うような視線を向けていたが、すぐにヴェールヌイが口を開いた。

 

「イズヴィニーチェ(ごめんなさい)、時雨。自分で言っておいて、少し迷ってしまった」

 

 引き離す、という事はしない。普段と変わらない声色である筈なのに、どこか弱弱しい彼女の声を前に、時雨は話すのではなく、頭に手を宛てて軽く抱き締めるような仕草をした。

 

「構わないさ。――僕が君なら、同じように考えたと思うからさ」

 

 この部屋で、鎮守府で共に過ごす二人。だからこそわかってあげたいとも思うし、分かってもらいたいとも思う。だがその願いは杞憂。時雨もヴェールヌイも、互いの感情を――よく理解しているのだから。

 

「……行こう。今日、行っておかないといけない、そう思うんだ」

 

 すると暫く瞼を伏せ、時雨に頭を預けていた彼女はゆっくりと瞼を開き、毛布を時雨に残しながら立ち上がった。時雨も慌ててそれに従おうとするが、「君はゆっくり準備してきてからでいいよ」と手を出して制止した。そのまま顔を向けずに彼女は室内を出て行ってしまう。

 その背を即座に追う事は出来ない。そんな事は求められて居ないと分かったから。

 

「そう、だね。うん。」

 

 既に部屋から出て行ってしまった相棒に小さく呟き掛けながら時雨はゆっくりと立ち上がると、自らの部屋のクローゼットに向かい、外出用のコートを取り出し、首元にマフラーを巻き付け、ヴェールヌイ用の白い上着を取り出して後を追った。

 

 

 ――ヴェールヌイは外に出て山に向かう道で待っていた。

 

「全く君は……ヴェールヌイ、寒いって言っておきながらこれを忘れちゃダメだよ」

 

 と、右腕に掛けたコートと左手に持った白いマフラーを彼女に突き出した。ヴェールヌイは僅かに目を見開いたように見えたが、すぐにその変化は消えて分からなくなってしまう。

 一瞬の間を空けるも彼女は黙って白い上着を羽織り、マフラーを不器用に首に巻き付けた。

 

「………、本当は君が着たいんじゃないの?」

 

「あはは……否定はしないけど、あの人が最期まで一番信頼していたのは君だよ。だから、君でいいんだ」

 

 コートを羽織り、裾を靡かせて歩くヴェールヌイの上着は、明らかにサイズが男性向けだ。胸元のポケットには金色の勲章らしきものが取り付けられている。一定の職位を持つ者が着るらしいその上着は確かに時雨も着ていたいと思ったのは勿論否定できないのだが、彼女から見るとヴェールヌイの方が似合って見えている、というのも理由の一つだ。口には出さないが。

 

「スパシィーバ……うん、じゃあ、行こう――司令官達のお墓に」

 

 

 対して険しくも無い、山道を登る。登って、登った頃に開けた崖に辿り着く。

日の光が眩くその地が神聖な場所であるかのように照らしている。

 

「――」

 

 二人は無言で横に並び、祈りを捧げた。そこには、幾つかの薄汚れ傷み、壊れた艦装と鞘に納められた十字の剣が突き立てられ、中央には十字架のような石が地に突き刺されているかのような光景が広がっている。

 

 ここは、かつて提督兼司令官と呼ばれた男性と、轟沈した仲間の艦娘達が眠っている。尤も、死体は提督の物以外は残って居ないのだが。

 

「全て、取り戻したいんだけれど……なかなか上手く行かないんだよね」

 

 弱弱しい笑みを零す時雨。この場所に来ると、どうしても感情が揺れる。両手が震えてしまうので強く握りしめる事で抑え込むしかない。笑みが崩れそうになるのを、抑え込むには力を籠めるしかないのだ。まだ、慣れない、もう二年も経つのに。

 

「此処には、司令官しか居ない。誰も、戻って来なかった」

 

 ――ヴェールヌイ。彼女はこの鎮守府に努めて、長いと言う。司令官には強い信頼を持たれていて、かつての彼女の姉妹とも強い絆があり、鎮守府の中では最強の艦隊だと言われている程だった。然し、ある日彼女だけが深いダメージを負い、鎮守府に帰還を余儀なくされた。修復している間にも、侵略者たる存在、深海棲艦による襲撃が三度発生。防衛に飛び出した彼女の仲間達は悉く沈み、その中には当然彼女の姉妹が居た。その全てを喪い、仲間を喪い、鎮守府を襲撃された事で司令官さえも喪失した彼女。

 ――時雨。己もまた同じように仲間を失った身だ。まだ未熟だった自分を、身を挺して守ってくれた戦艦があったが、炎に呑まれ海に消えた。強い信頼を抱いていた彼女達に報いる事も出来ずに鎮守府で守られ、結局今に至るまで復讐の一つも果たせず――苛むような孤独感に身を焼かれていた。

 そんな二人は生き残り、鎮守府を襲撃して残った深海棲艦を追い払いどうにか提督の肉体と鎮守府だけは取り戻したのだが――後には何も残らなかった。

二人はそれでもこの地を守り続けている。まだ生き残った仲間がいるかもしれない、戻ってくる場所は守らなければならないと、そう信じて――二年。

 誰一人として戻ってくる事はなく、深海棲艦も用が無くなったのか現れない。ただ、こうして周期的に祈りを捧げるだけの生活が続いていた。

 

 時折、ヴェールヌイとはそういった空虚を埋める為に演習を行う事もある。だが、それにどれほどの意味があるのか――二人にはもう、わからないままだった。

 

「ねえ、時雨」

 

 そんな同じ想いを持つ筈のヴェールヌイが、墓を真っ直ぐに見据えたまま口を開いた。「なんだい」と答えると、すぐに返答はかえって来なかった。だがふと頭上を見上げるような仕草をすると、

 

「――この島から出ようか」

 

「え?」

 

 考えなかった、事ではない。いずれいずれと思ってはいた事柄だ。

しかしそれはきっと危険を伴うだろうと思って、一度は断念した事。何しろ――救難信号を出したところで救援が来ない。理由は、その周辺に深海棲艦の大艦隊が展開しているから、らしい。

 勿論それを確認する術はないのだが、時折海を見ると深海棲艦の偵察艦隊らしき存在が海に確認できる事もある。幾らヴェールヌイが強くて、時雨がそれに追従してきていると言えどもたったの二人で突破する事など不可能だろう。

 だが、それを一番理解しているはずのヴェールヌイから出た言葉は、それに反旗を翻す発言だ。

 

「私達がここに居る意味は、多分もう無い。このまま居ても、私達は時の流れに朽ち果てるだけだ」

 

 微かに呟くような言葉が続く。「そんな事は司令官も、姉さんも望んでいない」と。

 

「で、でも……脱出してどうするの?僕達だけで他の島まで辿り着けるのかな」

 

 その心配は至極真っ当なものだと彼女も理解しているはずだ。下手をすれば二人とも海の藻屑となる事だって十二分に考えられる。――それでも、振り返ったヴェールヌイの瞳は、ほんの少しの揺らいでいなかった。

 

「少し前に、通信が入ったんだ。この島の内部に強硬突撃しようとしている鎮守府の艦隊が居る――きっとチャンスは一度だけ。明日の正午に、その艦隊がやってくるから……私はそれに縋ろうと思う」

 

 予想外の回答。いつの間にそんな情報を入手していたのか、そんな驚きも確かにあるけれど。

無気力そうな彼女が未だに希望の為、尽力している。時雨はと言えば悲しみに暮れ、そんな前に歩む事さえ忘れていたというのに。だがそれを見越していたかのように「君は気にしなくていい、この役割は私が向いていただけさ」とフォローを入れてくるものだから、本当にヴェールヌイの方が時雨を理解しているらしかった。

 

「……、脱出してからは?」

 

「そうだね、私は……ううん、無事に出られたら考えるさ。――できれば君も一緒に」

 

 そう言って、手を差し伸べてきたヴェールヌイ。時雨はそれを即座に取る事が出来なかった、本当に良いのかと悩んでしまったから。

 けれど彼女は手を引き下げなかった、取ってくれるまで、そのままで居ようとするように。

 

「……君も一緒に居てくれるのかい、ヴェールヌイ」

 

「勿論だ。信頼してくれ、私を」

 

 二人は、孤独を知っている。知っているからこそ一人になる悲しみは、痛い程に理解している。そしてその痛みこそが、仲間達の存在を決して忘れない為の本能である、とも。

 だが孤独はきっといつか心を磨り潰す。理解できる者が居るのなら、きっと押し潰されなくて済むはずだ。

 

 ――だから。

 

「わかった、一緒に出よう。ヴェールヌイ」

 

「スパスィーバ(ありがとう)。時雨」

 

 ほんの僅かに、白き彼女の表情が和らいだように見えたのは、果たして見間違いだったのか。

――この時、その問いを掛けなかった事を酷く後悔するなんて今、思う事は無かった。

 

 

***************

 

 ――深い海の底に居た。

今度は光も届かない、深い闇に閉ざされているように見える。

伸ばした手は何も掴まない、何も見えない。

 

 ただ、延々と続く呪詛のような言葉ばかりが羅列して行く。

 

『カエラナキャ、カエラナイト、カエラナケレバ、ワタシガ、イナケレバ』

 

 水が泡立ち音を掻き消す。不気味な音に変化していくその言葉は自分の意志で抑える事は出来ない。

 

『ムカエニイカナイト、アノコハヒトリ、マタコドクニナル、ワタシガ、ムカエニ、イカナイト』

 

 粘つくような、呪いのような声は徐々に大きく、頭の中に響いてくる。薄気味悪い、だけど――なんて悲しい声をしているのだろうと、思った。

 

『モウニドト、ヒトリニシナイカラ、ダカラ―――』

 

 不意に、赤い眼が眼前に見開かれ、そこで意識が途切れた。

 

***************

 

「わぁぁっ!?」

 

「んにゃ……」

 

 悲鳴を挙げて飛び起きた時雨。

額から冷や汗が滝のように流れ落ち、拭う事を忘れて必死に呼吸を落ち着けようとする。心臓が激しく鼓動を繰り返していて、息苦しささえ感じる。

 そんな隣では、叫び声さえ聞いても目覚めない様子で毛布に包まったまま転がるヴェールヌイの姿があった。

 

「………ゆ、夢?何、今の」

 

 今朝の夢とは違う、不気味過ぎる程に生々しい声の夢。まるで誰かが何かを訴えるかのような深い悪夢。

 ただ、そんなものは夢であると隣で安らかに無防備な寝顔を浮かべるヴェールヌイを見て、心音は一先ず落ち着く。きっと冷え込んで来たから悪夢を見たのだろう、そう思って再び寝直そうとした時雨は――

 

「………!?」

 

 耳に届いた、悪夢の続きかのように響く緊急警報。深海棲艦が海域内に侵入すれば鳴り響く、自動の緊急警報。

誤報である事も当然考えられるのだが、この島は包囲されていると考えてみても誤報の可能性はまず捨てなければならない。

 

「ヴェールヌイ、起きるんだ!深海棲艦が……!」

 

「ん、ん……?敵襲か、起きよう」

 

 気だるげな表情ながら布団から這い出るヴェールヌイ。首を左右に振り、ハンガーに掛けた提督の上着と帽子を被り、部屋の外へと向かい、時雨も慌ててそれに続いた。

 だが直後、ヴェールヌイは足を止め、普段では考えられない程に震えた声を一度だけ発した。

 

「――深海棲艦、艦隊……」

 

「え……」

 

 窓から先、微かに見える黒い影。無数に横に広がるその影のどれもに赤い瞳、蒼い瞳が僅かに見える。その数は――もう、数えられる量ではない。

 

「予定、変更だ。時雨、すぐに島から出るよ」

 

 そう言って慌ただしく走り始めた彼女は懐に携えた、提督の墓から抜き取って来た剣を腰に下げて走り始める。時雨も後を追いかけるが、

 

「ヴェールヌイ、でも、彼女達の目的が……!」

 

 現状、ここには時雨と響以外には生存者はいない。その程度の鎮守府に、あそこまでの大艦隊を差し向ける理由が分からないのだ。

 だがそれをヴェールヌイは「考えていても無駄だ、彼女達の目的は普通の思考では把握できない事が多いんだから」と一蹴して外へと向かって走り出て行った。

 

 向かう先は港。もはや整備もされていない港は何度かの襲撃を受けて大幅に破壊されているが、二人が出撃する分には問題ない程度の機能が生きている。

 走りながら二人は港から海目掛けて地を蹴り、飛び上がると、彼女達の両腕、両足に青白い光が稲妻のように弾け、両腕に砲台、両足に進水装置など艦装を身に纏い、海の上に飛び降りた。

 

「白露型駆逐艦、時雨!出撃するよ!」

 

「ヴェールヌイ、出る」

 

 掛け声を挙げると、二人は飛び込む勢いで海水を切り裂く如くの速度で加速。正面から迫る無数の艦隊から顔を背けるようにして側面へと進路を切り替える。

 

「いいかい時雨、合流する予定の艦隊は南からやってくる。あの数は相手にできないから戦闘を避けつつ島の裏側に隠れるように進むんだ」

 

「けれど囲まれてるならどこかを突破しなきゃならないから……南側、包囲網の薄い場所を一点突破するってところかな!」

 

 側面に移動すると既に接近してきていた駆逐艦らしき深海棲艦が艦隊を組んで侵攻。日はまだ登って居ないから野戦のつもりで仕掛けて来ているのだろうが――

 

「僕達だって駆逐艦だ!」

 

「夜戦は得意だよ――ウラー!」

 

 二人は速度を緩めず、左右に分かれて深海棲艦に砲撃を無数に浴びせる。ヴェールヌイと時雨は互いに錬度を高めた艦娘、油断した駆逐艦など敵ではなく、瞬く間に火の柱を上げさせ、次々に轟沈させて行く。

 

「これくらいなら足を止める必要もない、このまま一気に抜けるよ、時雨」

 

「了解、行こう!」

 

 薄暗い海を走り抜ける二人。だが――彼女達の戦闘に気付いた深海棲艦もそのままではいなかった。

 

 ――紫色の光が、時雨を四方から照らしたのだ。

 

「え……」

 

「時雨、もっと早く!」

 

 砲撃音が聞こえる。

 止まってはならない――そう思って加速するのだが、狙いを定められた砲撃は決して甘くはない。

 

「うわあああっ!!」

 

 水の柱が無数に上がり、進行ルートが見えなくなる。激しい爆発音と砲撃音が鳴り響き続け、時雨の視界が一向に晴れる事が無く、砲撃は次々に正確さを増していく。

 そんな中、不意に背後から身体を押される感覚を覚え、振り返る。

 ――ヴェールヌイが背を両手で押して加速していたのだ。

 

「ヴェール……ッ」

 

「そのまま真っ直ぐだよ!今なら彼女達も私達の位置がわからない、チャンスだ!」

 

 ヴェールヌイの必死な声を聞き、名を呼ぶのを諦めて身を屈め、加速して白い水柱の壁を突破する。とにかく砲撃の包囲網から抜けないと――そう想い正面を向くと、そこには立ち塞がるようにして立つ軽巡の深海棲艦が複数砲身を向けて待ち構えていた。

 

「まずい、散開だヴェールヌイッ!!」

 

「!?だめだ、時雨――」

 

 時雨は右に移動してヴェールヌイは左へ移動するが――初めから、その砲身はヴェールヌイを狙って等いなかった。

 全て時雨を追い、時雨の動きを見て、

 

「――残念だったね?」

 

 にやり、と笑みを浮かべたのは、時雨だった。

 彼女の両腿に取り付けた魚雷管の門が全て開かれ、中身が無くなっている。それに遅れて気付いたらしい深海棲艦達だったが、それは既に遅い。

 次の瞬間、白い水柱が軽巡深海棲艦達を轟音と共に呑み込んだ。直撃、それも時雨に気を取られていたせいで、防御する事も出来なかったであろう一撃が炸裂した。

 

「ハラショー…やるじゃないか、時雨」

 

「僕だって君とただ時間を過ごしていただけじゃないんだよ。さあ行こう!」

 

 走り抜ける。深海棲艦達は再び時雨達を狙って砲撃をするが、闇雲な攻撃は彼女達に掠る事すらない。再び照明が彼女達を捉えようと展開されるが、縫うように疾駆する二人は岩陰に隠れてその光をやり過ごす。

 そんな戦闘が繰り返し行われる中で――不意に耳に届いたのは通信音だ。

 

「…! ヴェールヌイ、今通信が」

 

「まさか、正午だと言っていたのに」

 

 二人は正面を凝視すると、無数の砲撃が飛び交っているのが見えた。大きく長い岩に挟まれた道の先では、そんな砲撃を抜けて此方に向かってくる複数の艦隊が見える。

 

「例の鎮守府の艦隊に違いないね……これなら逃げられ、」

 

 珍しく安堵した声を挙げようとしたヴェールヌイが不意に言葉を切った。途端。

 

 まるでその道に進む事をわかって居たかのように雨のような砲撃が時雨とヴェールヌイに降り注ぎ、反動で時雨は後方へと弾き飛ばされた。直撃は無かったが、もし直撃を受けて居たら――時雨は間違いなく轟沈しているところだ。

 

「まさか僕達、誘導されてたんじゃ……ヴェールヌイ?」

 

 何とか砲撃の雨から遠ざかった時雨は安堵の声を挙げて、脱出の相棒を探す。――だが、その姿はどこにも見当たらず、嫌な予感が不意に鎌首を擡げ、這い上がって来るのを感じる。

 砲撃の雨は未だに降り注ぎ、厚い水柱の壁を生み出していた。

 

「ヴェールヌイ……ヴェールヌイ、ねえ……響ッ!!」

 

 名を呼ぶ、周囲を見渡し、声を荒げ、叫ぶ。だがその姿はどこにも見当たらない、一体どこえ、まさか――

 

 そんな焦り、砲弾の雨の中に戻ろうとする時雨。だがその肩は誰かに掴まれ、一気に引き戻され、引き離され始める。

 

「なっ、やめて、離してくれ!」

 

「馬鹿言ってんじゃねえよ、死ぬ気かお前!」

 

 眼帯を付けた紫色の髪の女性だった。角のような艦装を身に着けつつ黒い制服を羽織った彼女は力強く時雨を引っ張り、砲撃の雨からどんどん距離を離していく。

 

「待って、待ってくれ!あそこにまだ、響が……!!」

 

『騒がしいね、時雨。その人達には君を先に連れて行くように伝えてある、大人しく先に逃げていてくれ』

 

 不意に耳に届いたノイズ交じりの、相棒の声。ヴェールヌイの声は少し掠れているように聞こえたが、それは無数の砲撃音のせいだろうか。

 

「な、何を……君、も!君も早くこっちに――」

 

『この弾幕では無理だね、私は迂回する事にするよ』

 

 彼女の言う事は間違っている、とは思えない。確かに壁を作るように一点に振り続ける砲弾の雨の中を突っ切って合流だなんて自殺行為に他ならない。ヴェールヌイは駆逐艦、そんな砲撃を浴びたら一溜りもあるものか。

 でも時雨はその言葉が信じられなかった。まるで、彼女がここで――

 

「そんな、でも!だったら僕は待ってる!ねえ響、」

 

『時雨、ありがとう――私の、本当の名前を呼んでくれて』

 

 言葉を途中から覆い被せるように礼を告げるヴェールヌイ――響。先程から必死になって、彼女の本来の名を呼び続けていた。そうでもしないと、彼女はその名のままに消えてしまうような気がして。

 

『――君は生きて。今度は、君が道を紡ぐ番だと思うから』

 

「何を……そんな、押し付けだ!君は一緒に、一緒に居てくれるって言ったじゃないか!」

 

『ごめんね、時雨。――ダスヴィダーニャ』

 

 爆発音と共に、通信が途切れた。

力なく引かれるままに時雨は振り返る。執拗なまでに振り続ける砲弾の雨、壁のように広がる水柱。それを見ながら、時雨はただ、叫んだ。「響――」彼女の真の名を。

 

*****************

 

「……、イズヴィニーチェ、パジャールスタ(許してくれ)。時雨」

 

 狭い岩に挟まれた道。まるで自分の進路を塞ぐかのように振り続ける砲撃の雨と水の柱。

だがそもそもにして、ヴェールヌイは先程の砲撃を受け、推進器の片方が破損してしまい、上手く進めなくなっているのだから時雨の後を追う事など、そもそも不可能となっている。

 破損状況は思った以上に甚大で、攻撃手段たつ砲身は圧し折れ、腹部を掠めて肉を抉り取られ出血、さらに眼前には、深海棲艦の、現行の指揮を行っているらしい艦が居る。

 水に濡れ、身体に張り付けた長い黒髪。俯いていて顔は見えないが、突き出した腕から伸びている砲身は確かに今ヴェールヌイの通信機を打ち抜き破壊した砲弾を放ったもの。赤く血塗れたような制服はどこかで見覚えがあるのか嫌な警報が頭の中で響き続けている。

 

「けど、沈まんさ。信頼の――いや、不死鳥の名は伊達じゃないからね」

 

 その言葉に。

 不意に深海棲艦が反応したように頭を挙げた。

 

「……?」

 

 その顔は、見覚えがあった。

 否、忘れる筈など、ない。

 

(嗚呼……なんて)

 

 なんて巡り合わせだろうか。神が居るのだとしたら、これは何とも残酷な――或いは、どれだけの希望に満ちた状況だろう。 

 ヴェールヌイ――響は、無意識の内に口端を釣り上げ、笑みを浮かべた。

 

「――ハラショー…」

 

 瞬間、響は腰に携えた剣に手を伸ばし、柄を掴んで引き抜いた。

その動きを見ても黒い少女は動かない。いや、何かに戸惑っているかのように動けないでいるのだ。

 

 なら今しかない。響きは身を屈め、言う事の利かない推進器を強引に舌替え、高速で接近しようとした。だが、その動きはあまりに無謀だったのだ。

 黒い少女は目を見開いて身に纏った黒い鎧のような駆逐艦達の口を開き、魚雷を発射。狭い海路で避ける術などない響もまた目を見開くが、止まる事など出来ない。

 だから海を叩き僅かに身が宙に浮き――、二撃目がもう片方の推進器に直撃して爆散。白い水の柱に飲み込まれる。

 

 ――響は柱を飛びぬけ、無表情のまま凛とした視線を黒い少女へ向ける。

しかし黒い少女もまた攻撃は止まらない。その突き出された腕の、二本の砲身が響を捉え――爆音と共に放たれた砲弾。

 スローモーションのように迫るそれを見ながら響は――剣を手から離した。

 直後、耳を劈(つんざ)く轟音と共に両腕から凄まじい熱と激痛、視界を覆い隠す白い煙。

 

 それでも響は、身を捩り、離した剣を柄を大きく開いた口で噛み付き、倒れるようなバランスの崩壊さえも推進力に変えて、黒い少女との距離を瞬く間に詰めた。

 

「―――」

 

「――ッッ」

 

 腕の感覚はもうない。胸に突き立てられた砲身の感覚さえ鈍り、音の無い世界で加速する。

咥えた剣をそのまま黒い少女の首元――その側面を抜けて、後方の黒い鎧のような機関に突き立てた。

 

 同時に、胸に感じるのは吹き飛ばされるような衝撃。淡々とした表情の黒い少女だったが、後方の鎧が血を噴き出しながら少女から剥がれ落ちて、同時に頭痛に呻くように両手を頭に当てて喘ぐような姿が、響が見た最期の光景となった。

 

(――戻っておいで、姉さん)

 

*********************

 

 白い煙が世界を包んでいた。

 長い間悪い夢を見ていたような、そんな感覚と頭痛ばかりがおぼろげな意識を引き戻していく。

 ここはどこだ、私は一体どこに居るというのか。

 

 白い煙の中を彷徨い歩くと、ふと、見覚えのある白い髪が揺れているのが目に入った。

 

「――」

 

 その白い少女は己の姿を見るや、柔らかな笑みを浮かべて微かに身体を傾け、こう告げてくれた。

 

『おかえり、暁姉さん』 

 

 名を呼ばれると共に白い煙が吹き乱れ、消失していく。

嗚呼、やっと帰って来れた。今度こそ独りぼっちにしなくて済む――そう思って伸ばした手は。

 

 何も、つかめなかった。

 

「………」

 

 空を切った手。白い煙は無くなり、日の光が海を照らしている。

だが、それだけだ。そこには求めていた人物の存在は無く、ただゆらゆらと足元で揺れる白い影があるだけ。

 

 帽子だ。どこかかつて彼女が付けていた帽子に似ているが色が違うそれは、何故か自分の足元に浮かんでいる。誰かの落とし物だろうか、拾って届けてあげないと。

 

 そう思って帽子を拾い上げると、不意に耳元に聞こえてきたのは何者かの声だ。

 

『――繰り返す。生存者は指定座標に集合せよ。座標は――』

 

 聞こえてきた座標を耳にして、暁は目を見開く。嗚呼、もしかしたら彼女は自分を置いて先に行ってしまったのかもしれない。

ならば待たせてはいけない、きっと待ちわびている筈なのだから。

 

「嗚呼もう、手間の掛かる子なんだから…!」

 

 自分がしっかりしなくては。そう思って推進器に意識を込めて海を切り、進み始める。

ただ、何か忘れてきたかのように後方が気になって振り返るのだが――そこにはやはり何も無い。

 

「……、気のせいよね」

 

 海水を切り、座標の海域へと向かって行く。手の掛かる妹だ、彼女はいつも感情を表に出さない、かといって実は一番脆い妹。そんな彼女があろうことか一人になるなんてこと、あってはならないのだ。

 だから自分が、自分達が居なければ。きっと他の者達もこの場所に集合している筈だから。

 

 

 暫く進んだ頃、不意に通信機に、怒声が響き渡る。

 

『止まれ!お前はどこの所属だ、俺達は――』

 

『待って、暁…暁だ!!』

 

 怒声のような声を振り払うように泣きそうな、或いは喜んでいる声が聞こえて来る。妹の声ではない――だが、聞き覚えのある声だ。

 

「その声……時雨なの?」

 

『やっぱり!やっぱり暁だ、僕達の鎮守府の仲間だよ!』

 

 今度こそ喜びの声色へと変わったのを聞く。そのまま駆け寄るように海水を切り、黒い制服と三つ編みを揺らす少女、時雨が寄って来た。

その表情は随分と泣いたようで、目元が赤く染まっている。

 

「暁……っ、よかった、まさか君が本当に帰ってきてくれるなんて……!」

 

「ちょ、ちょっと大袈裟よ。一体何をそんな――」

 

 まるで長い間離れ離れになっていたかのような。ふと、そんな思考をした途端。頭に何かがちくりと刺さるのを感じ、頭を抑える。

一体何なのだ、先程から自分の感覚がおかしい――そう思って、時雨の隣から威圧的な声が聞こえて来て身を竦める。

 

「――本当に『暁』なのか?」

 

「て、天龍さん…?あの、私、何か……」

 

「お前は沈んだはずだろ、二年前に」

 

 何を言っているのか、わからない。己が沈んだ?一体何の話を、

 

「お前……『戻った』のか」

 

 憐れむような、労わるような、威圧的な声色から柔らかい声色を発する天龍。

まるで自分が、本当に一度海に沈んだかのような、

 

「時雨……?えっと、何がどう、なって」

 

「覚えてないの、暁……?そうだ響、響なら何か――……」

 

 不意に。

 異常な激痛が頭に走り、反射的に両手で頭を抑える暁。まるで思い出してはいけない何かを思い出しそうになっているかのような。

 気遣うような声が聞こえたが、それさえも遠退いて。

 

 ――白い少女が最期に浮かべた笑みが、全ての記憶を上塗りするように浮かび、消滅した。

 

「――……………ぁ、ぇ……嘘、あ、あああ……ッ!?」

 

 嘘だ。こんなものは在り得ない、あるわけがない。アッテナルモノカソンナコトガ

 

「暁!」

 

 何かに強く身体を抱きしめられた。

どうにか逃れようともがく。こんな事をしている場合では、

 

「――おかえり、もう大丈夫だよ、暁」

 

「………しぐ、れ」

 

 その言葉は、白い煙の中で見た彼女が発そうとした言葉のように思えた。

すっと何かと言いたそうに微笑んでいた彼女に、或いは――言われたかった言葉なのだろうか。

 ――気付くと、大声で泣きだしていた。力なく帽子を握りしめ、名を呼び、泣いた。

 ただ空へ響かせるように、ずっと。

 

******************

 

『もし、私がその場に居なくて、姉さんが戻ってきたら言ってあげてほしいことがあるんだ』

 

 一年程前、響――ヴェールヌイがふと、零した言葉だった。

 時雨はその時、『君自身が言ってあげなよ』と告げたものだが『万が一の事があった場合さ』、と言い、儚げに笑った事を覚えている。

思い出してしまった、その言葉を発した。すると、我慢していたものが崩壊したかのように暁は泣き喚いた。

 

 暁は轟沈の記憶が無くなっていた。だが、最期の響の姿だけは鮮明に覚えているという。

 否定したくて、忘れていたらしいが、名を聞いて思い出してしまった。

 

 何故帽子を持っていたのか、何故自分はこんなに薄汚れていたのか、何故自らの側面に波紋が広がっていたのだろう。

時雨が泣かずに済んだのは、自分の分まで暁が泣き叫んでくれたからに違いない。だから己に出来る事は、暁が壊れぬようにこの世界に留めておく事だけだった。

 

 響の捜索に艦隊が動く事は出来なかった。彼女が不明となった制御を失った筈の艦隊によって再び制圧されてしまった為、近づく事が出来ないのだと言う。

時雨と暁は天龍達の艦隊に導かれるままに別の島を拠点にしている鎮守府に連れられ、暫くの休養が許されていた、のだが。

 

「私も、艦隊に組み込んでくれませんか!!」

 

 暁は、それを受け入れずに再び戦場に戻る事を決意していた。自分のようにまだ彷徨っている仲間が居る可能性。取り戻す事が出来る可能性と、響によって救われたが故の命を――浪費したくないと、そう言っていた。

 時雨も同じ気持で、彼女と共に鎮守府内の艦隊に所属する事となる。新たな仲間達は、二人を暖かく出迎えてくれた。

 

 お陰で二人の決意は今も変わらず、一点を見据えている。

 

「白露型駆逐艦、時雨」

 

「暁型駆逐艦、一番艦――暁!」

 

「出るよ!」「出るわよ!」

 

 二人は海域へと赴いて再びの戦場を駆った。三年以上を掛けて、二人の艦装は強化され、改二と呼ばれる武装を身に着ける事が許された。

その後、深海棲艦からかつて失った同胞達を次々に取り戻し、飛躍的な成果を挙げている。暁も失った妹達を取り戻し、時雨もまた自らを守り沈んで行った彼女達の手を掴む事が出来た。

 

 戻ってきていないのは、ただ一人だけ。

 

「はぁ、全く……あの子は本当に世話が焼けるわ」

 

 そう呆れた様に溜息を零す暁。だが本当に呆れているわけではない事は、時雨も理解している。

 

「本当にね。もう皆帰って来たっていうのに、一体いつまで寝ているつもりなのだろう」

 

 正面に見える黒い艦隊を見据える。

それらは赤い瞳、蒼い瞳を燃えるように揺らし、時雨達の艦隊へと迫って来る。

 

「ま、いいわ――どこに居ようと引き上げてやるだけだし」

 

 勝気な笑みを浮かべ、身を屈めた暁が加速する。時雨もそれに続き、二人で螺旋を描くように駆けて行く。

 

「自分一人だけ眠って居られると思われちゃたまらないからね――行こう、暁!」

 

 散開する。激しい爆発音が響き渡り、水飛沫を挙げて柱が舞った。

だがそれらは力を得た二人は遅く、止められない。

 

 もう二度と失わない為に強くなった二人。

 失わないのならば、後にする事は一つだけだ。

 

 正面に見えた白髪を揺らす金色の瞳を燃やす深海棲艦を見据える。剣を片手に迫る彼女を見て、暁もまた黒い剣を引き抜き、砲身を向け、砲弾を放つ。

すれ違い様に暁は歯を剥き出しにして、笑った。

 

「見てなさい、今度は私が取り戻す番なんだから!!」

 


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