やけに自然に目が覚めた。
もしかしたら俺はたっぷりと寝てしまったんだろうか。この大事な日に。
そう思い、慌てて枕元の目覚まし時計に手を伸ばす。
数字が大きくて見やすいデジタル時計であることと、眠りが深い俺にとって有難い大音量のベルに惹かれて購入したこれに表示されていた時刻は、設定時刻の一分前。いや、秒針を見れば十秒前だった。
たった十秒でもなんだか損をした気分だ。それでも寝坊するよりはましだ、と自分に言い聞かせる。
十秒なんてあっという間に経つ。けたたましく鳴るベルをすぐに止めた。
「くぁーあ」
新鮮な酸素を身体に入れる。
ふうっと少し余った分を勢いよく吐きだし、起き上がった。
独り言でゆるっと気合を入れる。
「ぃよーし」
ほどんどの支度を終えて、あとは着替えるだけとなった。
着替える時にはお気に入りの曲を流す。流す曲は毎日ランダムで。
今日は何を流そうかと考える前に、指が勝手に有名ゲームの曲を選んだ。この日に合っているような気がしたので、音量を上げてそのままかけた。
誰に聞かれるわけでもないので、なんとなく口ずさんだ。
「このゆーめがずうっとずーっとー つづいてほーしーいー」
歌いながら、曲の歌詞を自分たちに置き換えて考えてみた。
この日々がずっとは続かないことなんてわかってる。でも、最後まで続いてほしい。
憧れに対する感情とパーカッションに対する情熱は、輝いている恋と言っても過言ではない。
あいつらと過ごした日々を、忘れないように思い返して。
奏でよう。現在在籍している吹奏楽部員にとって思い出となるであろう曲を。プロヴァンスの風と三日月の舞を。
音楽を奏でていれば、それが俺達にとって夢のつづき。
さて、行こうか。
コンクールでは正装として冬用制服を着用しなければならない。
女子は大変そうだなーと思うが、我々男子は上着を羽織ってしまえば夏服でも外見は変わらないので楽だ。忘れるというリスクが生じる可能性はあるが、それも忘れなければいいだけの話。
ペラペラの通学鞄に制服の上着を皴のつかないようにいれて、部屋を出る。――――あヤベ、忘れ物した。
机の引き出しにひっそりと収められた長方形の箱を取り出した。箱の中には宝物が入っている。
その宝物を箱ごと持っていこうか。それとも中身を出して持っていこうか。時間が有り余ってなどいないのに、一分間じっくりと悩んだ。
結果、中身を取り出して鞄に入れることにした。現在では北宇治高校の二年生であることを表す、青色のスカーフ。年季の入ったそれを丁寧に折り畳んで上着の胸ポケットに入れた。
「よし」
―――――――――――――――――――――――
「おはよーさん」
「おはよう。涼しそうでいいね、男子は」
「だろ?」
学校に行く道すがら部長に合った。数ヵ月ぶりに見る冬服は、今見るとやはり暑そうだ。
頭に手を乗せて髪を乱すのは怖いので肩に手を乗せる。
「体温調整しっかりな」
「大丈夫。気をつけてるよ」
「朝からお熱いね。いつも通りだ」
後ろからマドンナが冷やかしてくるのが聞こえた。この言い方はあすかに似てきたのか、もともとなのかイマイチ判断が付かない。
項垂れるポーズをしてから振り返って返事をする。
「そんなんじゃねっつの。香織も体温調整気をつけろよ」
「ありがとう。そっか、男子は他人事なんだ」
「はっは、そうなのよ」
最近は俺が晴香といることが多かったから、香織と二人にしておこうか。
勢いをつけてから自転車にまたがり、キッコキッコと漕ぎ出した。おいおい。
「篤?」
「どーぞ二人でごゆっくりー」
まあ、あまりゆっくりされて遅刻なんてのは勘弁願いたいが、そんなことになるまい。
条件反射で右手を振ろうとしたが、坂道なのでやめておく。万一今怪我でもしたら洒落にならん。
少し漕ぐと、学校の方から管楽器の音がした。
十年以上聞いてきた音だ。誰の音かなんてすぐにわかる。
なああすか。今日で終わらないからな。まだまだユーフォニアム吹いてもらうからな。俺がお前の傍にいる限り、諦めさせやしねえから。
触発されて、自転車を進める速度を上げる。
―――――――――――――――――――――――
「はざーっす。来んの早えな」
「おはよう。三年生だからね。早く来ちゃった」
早めに来た方だと思っていたのに、音楽室には沙希が既にいた。
沙希だから先に来ていたんだな。…………全然涼しくならねえ。
「三年だからって今日が最後とは限らないだろ。あと、その理由だとナックルも早く来ると思うんだが」
開けっ放しのドアを見てもナックルが来る気配はまだない。
揃って溜息をついた。
「一年の時から来るの遅かったよな」
「そうそう。でも時間的には許容範囲内だから怒るに怒れなくて」
「まさか今回もかあ?」
「その可能性はあるわね。まったくあの男は」
沙希は細やかで面倒見がいい性格をしている。ざっくりした性格のナックルと相性がいいと思うんだが。二人ともいい奴だし。
と、以前言ったら沙希に不自然なほど優しい音色で怒られたので二度と言わない。額に青筋浮かぶの初めて見たよ。
てきとーな雑談を交えながら楽器搬出の準備を整えていく。
時間の経過に伴って人は増えてくるのだが、
「あいつまだ来ねえ!」
ほんっとうに時間ギリギリになるな、あの男は。五分前行動という言葉を知らないのかよ。いや強制する気はないけども。
「まあまあ先輩落ち着いてください。ところでこの木槌どうします?」
「あっちの段ボール入れといて。マレットと一緒に」
「うぃーっす」
暢気な挨拶で登場したナックルは早速女性陣に「遅い!」と言われる。俺はパッと時刻を確認した。
「ピッタリ」
「なんだよ。遅刻してないだろ」
「ああそうだな。今後とも遅刻はしないようにな」
今俺は諦念の笑みを浮かべているだろう。すべての感性を封じ、省エネモードに切り換えた。
そうすることで見えるものもある。
「マレット、こんなところに置いてたら忘れるぞ」
「危ない。入れておきますね」
さて、見る限りすべきことは終わったか?
昨日の要項を作る際に一緒に作ったリストを使って確認をし、音楽室に集合した。
「はーい。みんな聞いてー、聞いてくださーい。各パートリーダーは自分のパートが揃っているか確認してください。トランペット」
「います」
「パーカス問題なーし」
「フルート全員います」
「クラ揃ってます」
「ファゴット・オーボエ大丈夫でーす」
「トロンボーン揃ってまーす」
「ホルンいます」
「低音、オールオッケー」
サックスパート以外のパートリーダーが次々と答えていった。
しかしあれだな。これだけでも結構個性出るな。敬語かタメ口か、とか語尾を伸ばすかどうかとか。
「ええと、七時過ぎにトラックが来るので、十分前になったら積み込みの準備を始めます。楽器運搬係の指示に従って、速やかに楽器を移動してください」
部長がこの後の行動の指示を出してから、楽譜係が話し出した。我が校吹奏楽部唯一(?)のピッコロ奏者、
「今から譜面隠しを配ります。各パートリーダーは取りに来てください」
「受け取ったら各自なくさないようにねー」
楽譜係だっていちいちどのパートに何人いるかなんてのは把握していないので、パートリーダーの申告制となっている。
「パーカス、五人分」
「はい」
「ありがとう」
受け取った譜面隠しをパートメンバーに渡す。
そのあと運搬係のまとめ役のもとに行って指示を受ける。本来ならば楽器運搬係のメインで仕事を請け負うのは俺なのだが、今回はもなかの諸君に任せきっている。
ちなみに『もなか』というのはBメンバーたちのチーム名であり、由来は二年生メンバーの頭文字より。
指示を聞いてから何度か欠伸を噛み殺しているうちに十分が過ぎた。トラックに楽器を詰め込むため外に出る。詰め込んでからそのままバスに乗り込むそうなので、持ってきた荷物も忘れずに持っていく。
楽器を積み込み終わり、全員が集合する。部員はもちろんのこと顧問も。……なんだが、滝先生が来ない。なにこのデジャヴ。
以前と同じく業を煮やした松本先生の檄が飛ぶ。
「お前ら気持ちで負けたら承知しないからな。わかったか!」
「はい!」
「はあっ、お待たせしました。皆さん揃ってますか?」
「ええ」
相変わらず恐いっす、松本先生。
ま、気持ちはわかるけどね。滝先生がダントツで最後だし。
いやはやそれにしてもあの人、礼装似合うなあ。
「タキシードだあ」
「タキシード、ヤバいね」
ファゴットの二人がコソコソと交わす言葉が、俺にはタキシードではなく滝シードに聞こえてならない。
まさかタキシードとは滝先生専用装備なのか。彼の為に作られた礼服。それが滝シードであり、それ即ちタキシード。
んなわけあるか。てか俺この数行で何回タキシードって言ってんだ。
「先生、ちょっといいですか」
「どうぞ」
全員が揃ったタイミングで部長が手を挙げた。何か言うのかと思えば、どうやら違うようだ。
もなかメンバーの名を呼び、場を提供する。
「私達チームもなかが、皆さんへお守りを作りました。今から配るので、受け取ってください」
「イニシャル入りです」
おお、と歓声が上がった。
量産型でも、何かが違えばそれは特別なものとなる。素直に嬉しい。
「はいっ、黒田先輩」
「ん。ありがとう」
「なんでニヤけてるんですか?」
「いや、嬉しいじゃん。こういうの」
渡されたのはA.Kと書かれたお守り。俺のイニシャル、ロシア製の突撃銃だったのか。カンヤ祭で園芸部が使う水鉄砲だったりしない? 何言ってるんだろう。詳しくは『氷菓』を観るか『クドリャフカの順番』を読んでね!
きょとんと首を傾げられてた。え、俺のキャラじゃない感じ?
「先輩にそう言ってもらえて嬉しいですー。万が一いらないって言われたらどうしようかと思ってました」
「言わねえよ、そんなこと。これでも後輩大好きなんだぜ、俺」
至る所で談笑タイムに入りかけたが、時間的にあまりそうもしてられない。
もなかの十人に感謝を述べ、部長が出発の合図をした。
動き出すのかと思えば滝先生が彼女に声を掛けた。
「小笠原さん」
「はい」
「部長から皆さんへ一言」
「えっ私ですか!?」
「よっ待ってました、部長サマ」
部長がアドリブで強張るのを懸念した副部長がすかさず茶々を入れる。ほんと、この手の立ち回り早えな。これぐらい任せておいても大丈夫だろうに。
「茶化さないの。代わりに話させるよ?」
「コホン。ではユーフォの歴史について」
「それはいいから」
どっと笑い声が起こった。
ネタだと思ってる人が大半だろうけどな、あすけのユーフォ愛って結構凄いんだよ。
ユーフォニアムという楽器に出会ってから、この楽器をたくさん知りたくて、ずっと触れてきて。それがあいつ自身の為なのか、想いを届けたい誰かの為なのかはわからないけれど。
突然振られて戸惑う部長。視線が彷徨った。あすかの方に視線が行くのだろうか。
案の定その通りらしく、そちら側で視線が止まった。
強張った表情を少しだけ笑顔に変える。
なんだ。俺には頼らないって言ってたくせに、あいつには頼るのか。
それからこちらに視線が来た。頭に疑問符を浮かべつつ、目を合わせて軽く微笑む。
晴香は瞳に決意を灯し、他の人にはわからないほどわずかに首肯した。
あー。拗ねた自分が馬鹿みたいだ。頼ったんじゃなかった。「見ててね」って、晴香はそう伝えてくれてたんだ。
「えっと、今日の本番を迎えるまでいろんなことがありました。でも今日は、今日できることは、今までの頑張りを、想いを、本番の十二分間にぶつけることだけです」
穏やかに。しかしはっきりと。言葉は紡がれる。
そして締めはこれだよな。
「それでは皆さん、ご唱和ください。北宇治ファイトー」
「オー!」
ご唱和しなかったあすかが更に発破をかける。
「さあ。会場に、私たちの三日月が舞うよ!」
「オー!」
「はしゃぎ過ぎだ!」
テンション上がってもうたわー。松本先生にお叱りを受けてしまった。
だがお叱りを受けたのは生徒だけではないようだ。松本先生の少し後ろにいる滝先生が、シーという動作を向けてきた。
普段とのギャップがおかしくて、本番が近いというのに部員達は一様に声を殺して笑った。