血相を変えて彼が校舎内を駆けていくのが見えた。
とうとう聞いちゃったんだ、あの話。
どうにか彼の耳に入らないようにしてきたけど、数日誤魔化すしか出来なかったなあ。
自惚れでもなんでもなく、色恋以外で彼が平静を欠くことなんて滅多にない。恋愛に関しては慣れてないからって言う。けれど他のことだったら、慣れてなくても大体冷静。
ううん、少し訂正。この前みたく、吃驚したりすることはままあるから。
滅多にないのは、本気で怒ること。
彼の普通じゃない部分が多くの人を恐がらせてしまうことを彼は知っている、だから柔らかくて丈夫な仮面をいつも被っている。
利己的ぶって自分の為だって言うけど、それは真実に見えても、きっとそれだけじゃない。周囲を不用意に傷つけないようにでもある、よね。
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希美ちゃんとあすかが気になって、階段を上って行く。
目当てのフロアの踊り場には、黄前さんと川島さんと加藤さん。教室から出されちゃったのかな。
「何してるの?」
「ひいっ」
「ぶ、部長」
「なんかさっきもやった気がする」
さっきもやった? ああ、彼が来た時も驚いたんだね。連続で驚かせちゃってごめんね。
「希美ちゃん、また来てるの?」
「はい。それと、さっき黒田先輩も」
「あつ……黒田くんもかあ」
危ない危ない。付き合ってるのは秘密(のつもり)だから、名前呼びは避けておかないと。
「そういえばさっき、黒田先輩めっちゃ恐かったんですよ。あんな怒ってるの初めて見ました」
「でも私たちには普通だったんですよね」
「久美子ちゃんの頭を撫でて、練習に励んでいたまえって」
「ちょっと緑ちゃん!」
黄前さんが、しまったというような顔をした。彼の行動を言っちゃいけない人に言っちゃった、みたいな。
あすかや後藤くんと梨子ちゃんがいるパートだし、私と篤の関係を知っててもおかしくないよね。
やっぱり篤の癖なんだよね。人の頭に手を乗せるの。だから三人とも気にする必要はないよ。寧ろ私が気になるのは、黄前さんが嫌じゃなかったかなんだけど。
「気にしなくていいよ。篤の癖だし、今更気にすることでもないから。あ、嫌だったら、本人に言えば――」
「…………ぃ!」
言葉の途中で教室から声が響いた。それから少しして、ドンッと壁を殴ったような音がする。
夏なのに物凄く冷たい雰囲気が教室から漂ってきて、私達は一切の音を立てられずにそちらへ意識を向けた。
叫び声ははっきりと聞き取れていないのに、冷徹で苦し気な声はいやにしっかりと届いた。
「お前の勝手な都合やわがままで、こいつの時間を奪うな」
それは復帰を否定するでも肯定するでもなく、ただただ彼女を慮った言葉で。
二人を知っているからこそ、彼が彼女を大切に想っていることが痛いほど伝わってくる。
「今のって黒田先輩?」
「なんであんなに……」
「そんなに希美先輩の復帰が嫌なのかな」
「違うよ」
そうだったらどれほどよかったんだろう。自分の目標達成の為に、部の和を乱す可能性を躍起になって取り除く。
そんな自分勝手な理由なら、こんな複雑な感情なんて抱かないで済むのに。
彼と彼女の関係をきちんと認識するために、自分に言って聞かせる。
私のための独白。私を止める独白。私を責める独白。
「篤にとってあすかは、特別だから」
零れた言葉は釘のように刺さり、私の頭と心を動けなくする。
これでいいの。あの二人の関係に踏み入らないでいられるから。彼を疑わないでいいから。
それでも止まりたくない私が叫ぶ。踏み込んじゃいけない境界線の淵から大声で。
彼女を想った彼の声と同じで、彼を想った私の声も苦しいものになる。
お願い、助けさせて。
私がいるから。
お願い、助けて。
あなたしかいないから。