文化祭の熱もすっかり冷めたことにされ、三年生のフロアはいよいよ受験一色になった。現時点で進路が決まっている生徒はほとんどいない。
大学進学組はここから徐々に追い上げへシフトしていき、就職・専門学校組はガチでケツカッチンのラストスパートである。
部活なんざしているのは一部の文科系部活動に所属しているやつらのみ。文化祭で社畜ゾンビのようになってた執行部ですらつい先日引退したそうな。
だが俺たち吹奏楽部は依然として三年生も部活に出ずっぱり。今日も今日とて音楽室へ向かう。
……ってはずなんだけどなあ。
現在俺は、入学以来一度も入ったことの無い部屋の前にいる。
「はあ……」
目の前にある扉は他の教室のものと違って重厚感に満ちており、そこが他とは違う空間であることをさまざまと感じさせる。
目線を上にずらし、部屋の名前が書かれた無機質なプレートの文字を認識する。
「はあ……」
なんでぇ?
壁に向かって心の声をぶつける。鏡はないが、困惑から自分が相当おかしな表情をしていることはわかる。
俺はいったいなんだって校長室に呼び出されたんだ? なんもやらかした覚えないんだけどなあ。
まあ、うだうだしていても仕方がない。さっさと終わらせて部活に行こうそうしよう。
コンコンコンコンと四度ドアを叩く。
「失礼します」
部屋の中には当然校長がいた。
それは十二分に予想がついたけど、もう一人いた人物の姿に驚く。
「来たか」
「マサさん?」
なんだってマサさんがここにいるんだ。呼び出された理由がいよいよもってわからなくなってきた。
戸惑いながら一番入口に近い下座につく。正面にはマサさん。斜め向かいには校長が座っている。
何この状況。せめて誰か教員いないの。俺の担任とか、部活の顧問とか。
ってどっちも同じ人でした。
真面目に考えて、マサさんがいるような案件で部活の顧問である滝先生がいないのは違和感を感じざるを得ない。
加えて俺にここへ来るように言ったのは滝先生だ。朝のうちに教室で、放課後校長室へ来るように言われた。誰かに伝えておくよう言われてた様子はなかったから、先生は事情を知っているんだろう。
こんなところに呼び出すぐらいだ。これから話されることを知っている人は限られているはずだ。事情を知っている数少ない一人がこないのはおかしい。
教室の掃除も終わって担任はとっくに職員室へ戻っているはず。部長に連絡があるとしても、せめて書置きの手段はとれる。偶にうっかりを発動することがあるが、今回ばかりはうっかりしていないでほしい。と願うばかりである。
「滝クンはなにか用事あるとか言ってた?」
「いえ、特になにも。呼んできますか?」
「うん。でも入れ違いだと困るから、職員室にいなかったらすぐに戻ってきてね」
「はい」
抱いた違和感は正しかったらしい。やはり滝先生はいるべき存在だったのだ。
校長室を出てからまずは首と肩をぐるりと回した。あの部屋超疲れるんですけど。精神と時の部屋なの? 負荷デカすぎない? 一時でも校長室から離れられた喜びで、無意味にぴょんぴょんしながら職員室へ向かった。
すると職員室の中央から聞き慣れた金切り声がした。一瞬で神経が研ぎ澄まされる。声を荒げているのは、濡羽色の髪を持った見慣れた美人の隣にいる女性。
どうして、今、ここに、あの人がいるんだ。
「どうしてあなたが謝るの。謝ってもらうのはこっちでしょ!」
「落ち着いて、お母さん」
俺の大切な幼馴染の、母親。
何をしに来た。
考えるまでもない。
あすかの音を、あすかの大切な人に届かせないためだ。
「先生なら子供にとって今、何が大切なのかわかりますよね?」
何言ってんだ。あんたにとって大切なもんのために来てんだろ。
あすかにとって大切なことを受け入れようともしないくせに。
「部活動で推薦入学するならまだしも、うちの子は一般受験なんですよ」
「まったくもって、お母様の仰る通りです」
教頭の煮え切らない態度。滝先生の変わらない表情。おばさんの態度と言葉がエスカレートする。
部活の推薦で大学を決められたとしても、あんたは絶対に認めないじゃないか。
「だったら、すぐ退部届を受理してください! 田中あすかは今日をもって部活を辞める。そう言っているじゃないですか?」
「いえしかしですね……」
教頭が何やら弁明のように言葉を発する。
あすかは何も動かない。直立不動。さっきの一言以外何も聞いていない。
ゆっくりと近付いているのに、あいつが何かを発したのはまったく聞こえない。
どうして。
どうしてそんな態度をとるんだ。
俺はお前の意志に反することはしない。お前が行動しないなら俺だって動かない。
だけどこれはおかしいじゃないか。
何故お前は嫌だと言わない。何故五年前のように反抗しない。
その背中は、まだ諦めていないだろ。
どうして。
「私は何があっても、その退部届を受け取るつもりはありません。その退部届は、お母さんの意志で書かれたものではないですか?」
「……それの、何がいけないんですか。この子は、私がここまで一人で育ててきたんです。誰の手も借りず、一人で。だから、娘の将来は私が決めます。部活動はこの子にとって枷でしかありません」
何が一人で育てただ。枷はどっちだ。
「え、ええ。そのお気持ちはわかります。しかし」
「私は、本人の意思を尊重します。田中さんが望まない以上、その届は受け取りません。何があってもです。田中さんは副部長として立派に部をまとめてくれています。その部の悲願である全国大会に出場出来るんです。応援してあげることは、出来ませんか?」
滝先生の確固たる態度が唯一の救いだ。だがそれに頼ってばかりもいられない。俺が出来る事。俺がしなければいけないことは。
先生の言葉におばさんの劣勢が見て取れる。大きく二、三度呼吸をしてあすかを向いた。それから前を向いて言う。
「あすか。この場で、退部すると言いなさい」
「え、」
「言いなさい。今、辞めるの」
おい、ふざけんな。あんたがこんなところまで強制すんなよ。あすかがどれだけ想いを。
あすかは軽く俯いてから真っ直ぐおばさんを見る。俺は床を蹴る足を強くした。
「お母さん。私、部活辞めたく――」
パチンと乾いた音が
ギョッとした視線がいくつも向けられる。んなこと知るか。腕に当たった手を無理矢理どかしてあすかの前に立つ。
「おばさん、ストップ。な?」
「何するのよ! 私は、あすかのために……!」
「うん。知ってる。でも、今あすかに何しちゃうとこだった? いつもみたいに、後悔しちゃうとこだったろ」
あすかのために。彼女が自分の行為をこう飾るのはいつものことだ。理解する気はさらさらない。ただまあ、そうやって言うことは知った。
幼子に言い聞かせるように優しく、少し厳しく言う。おばさんははっと我に返り、叩いてしまった俺の腕に軽く触れた。
「ごめんなさい、ごめんなさい。私またっ……!」
「いいよ。俺は大丈夫だから」
俺は何も被害を受けていないし、何をされたってどうでもいい。あすかが傷つかなければ。
おばさんが「また」と言ったように、こんな風に俺があすかの前に立つのは何度かあった。何度だってこうしてやる。この人からあすかを護れるのは俺だけだ。
一度鎮静化すれば余程刺激しない限りしばらくは大人しいままだ。その隙にあすかが先生を向く。
「先生すみません。今日は母と一緒に帰りますので、部活休ませてもらっていいですか?」
「わかりました」
あすかは先生方に向かって一礼した。
それからおばさんを向く前の一瞬でアイコンタクトを交わす。
(俺も要るか?)
(いや、いい)
「お母さん行こう」
見慣れていてもやはり歪な光景。
感情をなるべく抑え、虚勢を張っているのはどちらだろうか。
ポーズ作ってんなら、そういうつもりだと思うぞ、俺は。