男は誘われる。

月夜に誘われ、導かれ、連れ去られ。

やがて女に出会うのだ。

宛ら、花魁のような。

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※今作は魍魎の匣のオマージュとなっております。


宛ら、花魁のような

 

 男の脇目に触れるのは、不用心なまでに晒される女の肢体であった。

 

 射し込む月光に照らされた素足は透き通るように白く、まるで硝子細工(がらすざいく)でも連想させるかの如く艶艶(つやつや)とした光を帯びている。たっぷりと養分を吸いとった胡蝶蘭(こちょうらん)とでも云うべきか、いや現にそれは、華であるのだ。

 

 そのまま肢体に視線を移して、上へ、上へと流し続ければ、ほんのり朱色に染まった頬が見える。

 

 男は表情を伺おうとはしたが、反射的に視線を下へと逸らしてしまう。すると床に乱雑と置かれてるのは盃であると漸く気が付いた。女の頬を思い返し、酒にでも酔ったのかと、思案を巡らせる。

 

 上へは向けない。ただ視界の端には手足が見えていた。細く、生々しく、白蛇を想像させるように際立っていたからだ。

 

 それにしてもよく目立つのは、元よりアルビノ色に近い肌のせいなのだろうか。頬が朱い理由も、単に酒が回っているだけなのか。

 

 結局のところ何一つ分からない。

 

 どうでも善いからだ。

 

 今の男にとって問題はそこではない。かつての自分に問い掛けるならともかく、これ以上この女───それも容姿について考えることは酷く罪悪感を抱くし、考えたところで何一つ善いことは無いだろうと思うからだ。

 

 出来ることなら関わりたくないと、その意思の下にか細い声でううっと二回ほど(うめ)いた。月明かりが鬱屈とした(まなこ)を照らし、世界終末でも目撃したかのような情けない表情を映し出す。固く作られた握り拳には震えと、冷や汗が混ざりあっていた。

 

 とてもまともな精神では無いだろうと、殆んどの人はそう思う筈である。彼の所有する過去と深層心理を暴かなければ、ただの気狂いの一言だけで片付けられてしまうのだろう。

 

 現実はいつだって非情になる。しかし男は既に、その現実からは離れ過ぎたのだ。

 

 発狂寸前の、情けない姿。

 夜の誘惑に流され、行き着いた女の下に後悔と懺悔をする精神罹患者。

 それが今の男の雰囲気である。

 

 ただ胡蝶蘭の女のほうは───。

 じぃっと、それを凝視していた。

 

「もう、来ないものかと思っておりましたよ」

 

 着物を畳に擦る音。冷寒と云うのに帯は捨て去られ、着込むのではなく深々と羽織っている。

 

 蝸牛(かぎゅう)の如き動作でそれを引き摺りながら、舐めとるような声で囁きだした。

 

「私も貴方を、もう忘れたくはありません」

 

 ぬるりと女は男へと近寄る。それとは相反する形で、許してくれと、男は後退りを始めた。

 

「どうして逃げるのですか、私は何も気にしておりません。貴方なら、マスターなら私は何でも許せてしまう性質(たち)なのです」

 

 男は曇った声で云う。

 

「その性質(せいしつ)が俺には、一切合わなかったんだ。いや違う。こんなのは言い訳に過ぎない。俺はお前にどうしても云わなければならない」

 

 間髪いれずに女は言葉を返す。

 

「謝罪でしょう。そうでしょう。きっと貴方は私に頭を垂れて許しを乞うのでしょう。ですから私は、許しますと先駆けて云うのですよ」

 

 貴方の謝られる姿など見たくはありませんと、女は哀しそうな視線を浮かべ声量を低くする。そして震える身体を実体の持たない何かから守るよう、羽織っていた着物をより深く被りだした。

 

 瞬間男は遂にその情けない声を、荒げた口調に変えて叫び上げた。

 

「何故、何故お前はそうも俺を拒むのだ。俺の弱さを、俺の愚かしさを理解しておきながら。どうしてどうして俺を苦しめる。今のこの俺を、どうして、頼むから俺を受け入れてくれ!」

 

 堰を切ったように怒濤の言霊を投げ掛ける。精神への負担が許容を越え、人が壊れ行く姿は、まさに愚者の一言に尽きるものであった。

 

 しかし女は、首を振らず、言葉も投げ返さない。

 

 一方の男は恨めしそうな視線を授けられ、呪いの言葉でも吐くように覇気のない声と、亡者の如き顔を晒しだし、その名を述べる。

 

 

「俺は永久に呪われ続けるのか───結月ゆかり」

 

 

 罪悪感とは外れることのない枷なのだと教わったことを思いだし、その通りだったと男は嘆いた。

 

 夜風が吹き差し言葉を拐う。女───ゆかりはその空気に乗せるよう唇を震わせた。

 

「呪われるだなんて大袈裟ですよ。私には呪うことも出来ませんし、これが呪いと云うならば、その呪いを背負わせながらも愛したいのです。私はただの人型アンドロイド。思考回路が少し優れていて貴方と話せるオブジェクトみたいなものです。いえ、現にそういう存在として私は生まれてます」

 

 止めろ、止めてくれと男は頭を抱える。ゆかりはその身に羽織っていた着物を自ら引き剥がし、半裸の姿で男を抱き寄せた。

 

 冷たい金属の熱が伝わる。

 

 途端に男は、咽び泣いた。

 

「俺が、俺が阿呆だった。一時の気の迷いなのかもしれないし、魔が差したとも云えるが、それで片付けるべき事案では無いんだ。許して、とはもう云わぬ。ただ還すべきものは還すべきなんだよ。頼む───」

 

 再び脆弱で掠れた声、と思えば同時に、哀切促す瞳を藺草(いぐさ)の香るおんぼろな畳へ向ける。途端に男は、するりと落ちぶれ、惨めでちっぽけな存在に成り下がってしまった。

 

 先程までの怒りに駆られた言葉は嘘のようである。過ぎ去った嵐のあとに残るは、しんみりとした静けさだけなのだろか。

 

 それでも男は、言の葉を止めない。

 

「許しは乞わない。受け取ってくれさえすれば良い」

 

 月明かりの白も、蝋燭に灯るちろちろとした橙も届かない。それは夜と日陰の空間が生み出す宵闇より、薄汚れた男の手で運び出された代物であった。

 

 長方形の───(はこ)

 

 染められた漆が月光を奪い、表面には光沢を魅せている。

 匣は想像よりも重いのか、男が置けばゴトリと無機質な音が鳴った。

 

 ゆかりは鈴を転がすような声で、ほお、と云う。

 

「もしかしてこれを還すべく、わざわざここに?」

 

 分かりきったことを云わないでくれと、そんな男の視線をゆかりは感じた。勿論中身は見ずとも分かっている。ただそれでも、願わくば外れて欲しいのが本心なため、しおらしい無垢な少女を演じてみたのだ。

 

 ゆかりは呆れるように、息を吐く。

 

「───残念なマスターです」

 

 瞬間、男の手が止まる。そこだけ時間が失われたかのように、ピタリと指一つさえ動かそうとしない。

 

 じんわりと浮かび上がる手汗だけが、男の生命活動を示している。よく見ると口角は酷く歪んでおり、まるで意識と本能の矛盾がエラーを叩き出してる機械のようであった。

 

「頼む」

 

 糸の切れた人形は、必死の思いで懇願する。

 

「受け取ってくれさえすれば、良いのだ」

 

 最早本来の美しさよりも、そこに潜む私怨や欲望、多くの厄を溜め込んだ禍々しさが際立つ代物だ。宵闇に当てられたせいか、より一層蓄積された狂気は膨らんでいると、そう思えても仕方がない。

 

 これは匣ではない。男の闇そのものなのだ。

 

 遂に闇へは手をかけられ、そこに眠る禁忌が解き放たれた。

 

 

 匣のなかには、美しき女性の腕がある。

 右腕だ。

 

 

 装飾も何も施されてはいない。ただ透き通るように白く、陶磁器のような儚さが伺える。それが“誰か”の腕だと告げられない限り、人は欠けた陶磁人形(ピスクドール)の腕とでも考えるだろう。実際のところこれは人形の一部だ。

 

 意思のある人形の、アンドロイドの、

 

「私の」

 

「そうだ。これはお前の」

 

 ───腕だよ。

 ───俺が奪った。

 ───あの夜に切断して、引き抜いて、駆け足で持ち去り、お前から姿を消した俺が、己の欲のために人間性を捨ててまで奪ってしまった。

 

 

「腕だ」

 

 

 隙間風が横入りして場を冷やす。

 

 ただそれでも罪に追われ堕落しきった男の熱を冷ますことはない。風は風として吹き抜け、肌寒いと両者に思わせるほどの効果を発揮しなかった。

 

 風力の問題ではない。

 互いの、心の問題である。

 

「確かあの時も、こんな月明かり眩しい夜だったと思う。偶然か運命か、呪いなのか」

 

 饒舌を装っていたゆかりは、何も返さない。

 それでも男は構わないと、連連とした言霊を周囲に、自分自身に、響かせた。

 

「魔が指したんだ。お前を見掛けたときから、その衝動は始まっていた。俺は醜い奴だよ。独り占めしたいなんて、惨めな野郎だと侮蔑しても構わない。脅迫や監禁、調教だって考えた。お前の心がずっとずっと私物として確約されるならそれこそ悪魔にだって魂を売れるほどに。馬鹿だ。馬鹿だと云ってくれ。嘲笑しても良い。でないと俺が俺でなくなりそうで怖くなる。そのうち、お前を殺してしまいそうで」

 

 言霊が、途切れる。

 

 男が罪を暴露したとき、この異質な空間において、ああ可哀想な人などの、云うならば慰めの台詞は誰も口にしなかった。

 

 それ自体考えてみれば当たり前のことだろう。普通なら誰一人として男に同情はしないし、寧ろ清々しいまでに嫌悪する。表情や言葉だけでは治まらず、手も足も出してしまうかもしれない。これが人前であれば警察、いやその前に精神科医の鑑定を受けさせようとする。

 

 普通ならば、そうするのだ。

 

 ただこの場において常識などは過去に捨てられている。マスターと呼ばれる男はひたすら謝罪と後悔を繰り返し自己に苦しみ、ゆかりと呼ばれる女は男を気にかけ優しさと陰射す美しさで心を洗っていた。

 

 だからこその静寂に、男は違和感を覚えた。

 

 何故ゆかりは黙っているのだ、と。

 

 肌寒い冬を浴びながらも沈黙を貫き通すゆかりは、まるで女郎のようである。

 花魁とも、云えてしまう。

 

 静けさがこの部屋の冷気を後押しするようで、男は身を震わせた。

 鼻の奥で藺草の香りがやけに強く感じる。乱雑になった畳の目が酷く気になってしまう。

 顔を上げなければ───そう思うのだが、他のことに気を取られてしまう。

 

 男は怯えてるのだ。

 

 何だか(いや)な予感がして、それも直視すれば後悔するかもしれない、そんな予感がしてたまらない。勿論ただの予感だ。在る筈のないことを、在るかもしれないと思うことが予感である。幻覚のそれと大して違いはない。

 

 男は息を圧し殺すような沈黙をし、同じく沈黙を続けるゆかりの顔を、下から覗き込む。

 

 窓から遮光する月明かりが厳かで眩しく瞬きしてしまう。手汗が畳を濡らし、指を鋭く立てなければ体勢を崩してしまいそうであった。気付くと蝋が熔けていたのか、部屋は四隅からして真っ暗な宵闇である。唯一射し込む月明かりは頼りなくはないのだが、前髪が陰を形成しており、表情はよく伺えない。

 

 前髪にそっと手を掛けた。

 

 冷たいと感じた。

 男はこの肌の冷たさが、現在(いま)の季節のせいではないことを知っている。

 何も云う気にはならない。

 前髪を、上にした。

 ゆかりは───。

 

「な、何故」

 

 悔しいような。悲しいような。怒り狂うような。

 般若とも云える形相に、極限まで追い詰められ苦悶を見せる顔を混ぜ合わせたような、思わず唾を飲み込んでしまう、そんな顔であった。

 

 声を出そうにも喉奥で空気が詰まり、云うべき筈の言葉は強く押し込められる。男の尖った喉仏は、いつもより腫れぼったくも思えた。ごくりと唾を飲み込む動作が二度三度と伺えてしまう。

 

 他人も己すらも狂わせる花魁は、目元に溢れた涙を残る片腕で拭いとり、僅かな嗚咽堪えつつ酷く震えの籠った所作で腕を渋渋といった態度で受け付けた。

 

 男にゆかりの真意など読むとれる筈がない。兎にも角にも、漸くこれで男の蓄積された穢れは消えたのだ。

 

 目の前で右腕を取り付けつつ、忌々しい視線と眉をぐにゃりと歪ませ睨み付ける視線で、己を憎む花魁へと、返上されたのだから。

 

 でも。

 

「何が、何が不満なのだ?」

 

 男には、分からない。

 

 隙間風がゆかりのうなじを野卑(やひ)の如く撫でる。耳をいくら立てようとも、さめざめと啜り泣くような湿り声はもう聞こえない。その触覚への刺激が彼女を呼び寄せたのは、云うまでもなかった。

 

 ゆかりは顔を上げた。

 相も変わらず、艶かしい顔である。

 

 ただ蝋燭(ろうそく)の灯りが無いせいか、出会った時に覗いてきた幸薄き女はもう見えない。

 鉛色の陰掛かった存在として、瞼に映り込む。

 

「ごめんなさい」

 

 怒りも苛立ちも哀しみも憎しみも何処かへと消え失せた声で、そう放った。

 

 男は呆気に取られ、言葉すら浮かばない。

 

「私の腕が、貴方を苦しめるだろうと理解していました。苦しみ、もがき、こうして謝罪することも予感していたのです」

 

 予感だと。

 そう、予感です。

 

「全てが予感としてありました。そうであって欲しいという願いでもありました。私はアンドロイドであり、マスターを理解するオブジェクトですから、分かるのですよ」

 

 風はもう吹き抜けない。静けさが包み込む闇の中、ゆかりの妖艶な唇が震えることで発せられる言霊は確かに届いた。

 

「私は私と貴方のしがらみを利用して、枷として、鎖としたのです」

 

 つまり───と、ゆかりは続けて云った。

 

 

「私の腕を貴方が持つ間は、決して棄てられることはないと安堵していたのです」

 

 

 脳髄に木霊する。

 

 刹那、男にとっての世界からは色が消え、止まったかのように感じた。

 

 言葉を聞き入れ数刻の間を開けて、それでもまだ信じられないから目を見開きゆかりの顔を覗いて、先程の言葉を脳裏に響かせて、それでもまだまだ、理解が追い付かない。

 

 訳が分からなかった。

 

 「馬鹿な馬鹿な馬鹿な!」

 

 己を忌ましめ地に醜き四肢を叩きつけた。力を逃す方向が見えず、畳のざらざらとして冷たい感覚に神経を溺れさせる。

 

 やはり信じられない。

 

「そんな、そんな話があって」

 

「私がそう思ってしまったのですよ」

 

「冗談ならやめてくれ」

 

「決して冗談なんかでは、ありません」

 

 ならば、と男は云う。

 

「お前は俺に、悪意などを持たず、怨みですら抱かず。いや寧ろ好意の証としてわざと俺を游がせていたと云うことになるではないか。そんな馬鹿げた都合の善い現実なんてある筈がないだろ!」

 

「あり得たのですよ」

 

「同情してるつもりなら、やめてくれ」

 

「私は、本気なのですよ」

 

 ゆかりのハツとした眼に、男は一瞬動きが止まる。紫水晶(アメジスト)色のそれには真意と覚悟が映り込んでいた。

 

「だから貴方は悪くないと───私は、始めに、悪くないって、そう貴方に云った、云ったじゃないですか!」

 

 ゆかりの心は遂に決壊した。

 しゃがれた涙声が、どしゃ降りの雨のように降り注ぐ。

 それを受け止められるほどの傘を男は用意していなかった。儚げな声色で泣く愛した女を眺め、ようやく己と同じ脆い存在だったと、気が付くほどには鈍感だからだ。

 

 そして投げ掛けるべき罪を、ここで見失った。

 

 男は、もう語れない身体となる。

 

「私も罪を作った。貴方と同じくらいの、罪を」

 

 つらつらと降り積もる雪のように、特徴的な冷淡な口振りで、後悔と懺悔は蓄積される。どこへも逃げることがなく、漂う(かすみ)となって、やがて部屋中を埋め尽くした。

 視界がぼやけて目眩もする。

 霞は、消えそうにない。

 

 二人は黙ることにした。

 

 互いの罪を、互いの罰を。狂わされた人間と、狂っていたアンドロイドは、各々の戒めを認識し合う。

 

 「マスター」

 

 脳が蕩けるような艶かしく、色めく声。

 朱色掛かった白い肌。

 肉感的な、両腕。

 

「抱き締めてください」

 

 ああ、やはり彼女は花魁だ。

 そうとしか男は思えない。

 彼岸の先に佇む世を越えた存在なのだから。

 男は。

 ゆかりは。

 澱む空気を、ゆっくりと掻き分け、

 

 

 月夜の下で二つの影は絡み合う。

 

 

 もう離れないと、誰かが云った。

 

 

 


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