クリスマス。この響きから人は何を連想するだろうか。サンタクロース。町に響くジングルベル。月初めから浮足立つ、仏教徒あるまじき人々の姿。なんにせよ多くの人間はどこか普段とは違う、非日常をそれに望んでいるのだろう。
しかしいざ我が身を振り返ってみればこの17年、クリスマスといって特別なことをした覚えはない。恋人とのデートに心ときめかせることもなく、男友達と独り身を愚痴りながら遊びほうけることもなかった。いつも通り家に帰り、いつも通り小町と夕食を済ませる。特別なことと言えば夕食の内容がクリスマス仕様になっていること、食後にケーキが出ることくらいだろうか。いずれにせよ朝夕二回の食事は毎日小町とともにしているのだから特別とは言い難い。
これを悲しいと感じる人間、わびしいと憐れむ人間もいるだろう。しかし。俺は一人拳を握る。逆説的に言えば、妹さえいればクリスマスなど家の中で完結するのである。妹無き寂しき独り身の男ども、私の前にひれ伏すがいい。
「…お兄ちゃん、小町今なんかすっっっっごい寒気したんだけど」
「ん?受験までもうそんなにないんだから体調管理はしっかりしろよ。小町に風邪なんか引かれたら親父に何言われるかわからん」
日曜の朝。朝食の食パンを咥えながらひしひしと「クリスマス」について考える俺を、台所で洗い物をする小町が青い顔で見る。そ、そんなごみを見るような目で見られたらお兄ちゃん…いや、いい加減きもいな。
「小町的にはお兄ちゃんの方が心配だよ…生徒会入ったっていうのも、何事!?って感じだし」
「いや、それはまあ紆余曲折あってだな…」
「ははーん。雪乃さんも生徒会入ったって言ってたし、どうせまた平塚先生か雪乃さんに押し切られたんでしょ?」
「そうだったらまだよかったんだがな…」
「え、違うの?」
ない胸を張って見透かしたような澄まし顔だった小町は一転、怪訝そうに俺を見る。妹よ、物事はそう単純ではないのだ。時に自分すら想定していなかった行動を、自らがとることもある。あの応援演説を思い出して思わず俺は渋面を作る。
「まあ、いろいろあんだよ」
「…ふーん」
いつものように言葉の続かない俺に、小町は口の端を持ち上げる。
「それってもしかして、お兄ちゃんが今日ディスティニーランドに行くこととも関係あるの?」
「…まて、なんでお前がそれを知っている」
「昨日由比ヶ浜さんからメール来たよ。お兄ちゃんが遅刻してこないようにお願いできるかなっって。いやー、流石に未来のお義姉ちゃん候補は違うね!」
うんうんとなにやらしきりにうなずく小町を尻目に、俺は先月での生徒会室でのやり取りを思い出す。冬のディスティニーランド。そんな地獄に俺が赴かなければならなくなった、その発端の日である。
「だから三浦先輩、雪ノ下先輩、言い方ってやっぱあるじゃないですか」
「あら一色さん、明らかにあちら側に非があるとわかっているのになぜこちらが取り繕わなくてはいけないのかしら」
「あーしは別に間違ったこと言ったつもりないし、あっちに合わせる気もない。友達でもないのに指摘してやる必要ないでしょ」
放課後。早々に集った生徒会面々の間―というか三浦と雪ノ下、一色の間―には、のっけから険悪なムードが漂っていた。
「だ、か、ら、はっきり言ってやりにくいって言ってるんですよ!…別に私だって海浜総合高校をかばいたいわけじゃないですよ?でも先輩方があっちの高校に高圧的な態度だから、小学生たちも怖がってるんです。だから小学生への指示にもいちいち気を遣わないと…って、聞いてます!?」
「ええ、ええ、全然聞いてるわ」
「聞いてる聞いてる、続けろし一色」
「って、本読んでるし携帯いじってるし、全然聞いてないじゃないですか!…うう、先輩方も一つ言ってやってくださいよ!」
文庫本片手の雪ノ下、携帯電話片手の三浦を前に一色は俺と由比ヶ浜に助けを求める。と言われても。俺も片手にもった文庫本に目を戻す。この三者のいさかいに首を突っ込むのは俺にはいささか荷が重い。そもそもキャットファイトに男がのこのこと現れて、それはどこかに需要があるだろうか?いや、ない。反語とともに俺は首を突っ込む選択肢を消す。由比ヶ浜、後は頼んだ。残された由比ヶ浜はあはは…という苦笑いとともに口を開く。
「ま、まあまあいろはちゃん。ゆきのんと優美子も我慢してるとは思うよ?あたしに言う時より二人ともかなり優しめにあっちの高校とも接してるし」
「!?ゆ、由比ヶ浜先輩…ごめんなさい!私の配慮が足りませんでした。まさか由比ヶ浜先輩がお二人からそんな扱いを受けていたとは…」
「いや待て一色、由比ヶ浜に押し切られるのはいつもこっち側だぞ。むしろ由比ヶ浜こそ俺たち奉仕部を陰で支配していたまである」
「いきなりひどい言われようだ!?…ちょ、そんな冷たい目で見ないでゆきのん!た、確かにちょっと二人が引いてるなーって思う時はあったけど、結局最後は二人ともノリノリで付き合ってくれるじゃん!」
ぶんぶんと手を振る由比ヶ浜に、俺は由比ヶ浜に押し切られてきた雪ノ下を思い出す。
「おい、誰がいつノリノリだったんだよ。俺はいつでも家に帰りたいと思ってたぞ。なんなら今も全力ダッシュで小町に会いに行きたいと思っているまである。ちなみに「思う」は「想う」で、「会い」は「愛」な」
「それは正直、ぶっちぎりで、とびっきりに、本当今すぐ死んでほしい次元で気持ちが悪いのだけれど…まあ、最近は由比ヶ浜さんに押し切られることが多いのは事実ね」
雪ノ下は遠い目をする俺に白い眼を向けながら、ため息をつく。それを見て由比ヶ浜はまた「うぅ…」と声を小さくする。しかし雪ノ下は、でも、と小さく続けた。
「…まあ、楽しくないことはなかった、けれど」
「ゆ、ゆきのん!あたしも全部楽しかったよー!今も楽しいし!」
「近い…」
顔をほころばせて抱きついてくる由比ヶ浜に、雪ノ下は顔をしかめる。しかし本気で嫌がっているようではなさそうだ。今日もゆいゆきは捗りますなぁ…。されるがままにする雪ノ下を見て、今度は三浦がため息とともに口を開く。
「はぁ。いい加減この光景も見飽きたし。ヒキオ、あんた奉仕部の時毎日一人でこんなの見せられてたの?」
「おお三浦、わかってくれるか、このゆるゆりを毎日見せられていた俺の気持ちを」
「確かにお二人、ちょっと仲良すぎますもんねー。それはもう恋人顔負けなくらいに…って、そんなことではなく!」
うんうん、とうなずき合う俺、三浦、一色の間に妙な連帯感が生まれる中、一色が思い出したように叫ぶ。
「だから、先輩方今日こそはあっちの高校側に少しは優しくしてくださいよ!」
「嫌よ」
「絶対無理」
「「即答だ!?」」
「邪魔するぞ」
由比ヶ浜と一色のツッコミが同時に入ったところで、平塚先生によって生徒会室のドアが開かれる。生徒会室に入った瞬間、平塚先生はおや、と瞠目し、口の端を持ち上げる。
「なんですか、平塚先生」
ノックがないことを咎める余裕もないのか、雪ノ下は顔を伏せ三浦は口をとがらせる。…はぁ。この人はなんでまた挑発するような表情を浮かべるのか。辟易としながら俺はさっさと平塚先生に続きを促す。
「で、平塚先生。わざわざここまで来たということは何か用事があったんでしょう。貴重な婚活サイトをめぐる時間を減らしてまで来なければいけない、それはそれは重要な」
「よし比企谷、君の今学期の国語の成績が楽しみになったな」
「ごめんなさい冗談ですなんでいらっしゃったんでしょうか平塚先生」
不穏なことをいう平塚先生に、俺は一転揉み手をして近づく。他の三人の視線が痛い。媚びるべき時は全力で媚びろ。親父からの助言を俺は実践しているまでだ。なにが悪い。
「まあいいだろう。雪ノ下、三浦。どうやら海浜総合高校とはうまくいっていないようだな」
「べ、別にそんなことは―」「―べ、別にそんなことないし」
二人の声が重なる。お互いを訝し気に見る雪ノ下と三浦を前に、平塚先生はなぜか満足そうにうなずく。
「うんうん、そんなことだろうと思ったよ私は。ということで…じゃーん!」
年代を感じさせる大げさな効果音とともに平塚先生の胸元から取り出されたものは。目を丸くする俺たちを前に、誰よりも早く理解が追い付いた雪ノ下が口を開く。
「ディスティニーランドのチケット…ですか?」
「ああ、そうだ。さすが話が早くて助かるよ、雪ノ下」
「別に、たまたま父の仕事の関係で頻繁に行くので気づいただけで…比企谷君、その腹の立つ憐れむような目は何かしら」
「いや、俺もさすがだなぁと思っただけだ。決して他意はない」
こいつパンさん好きだしなぁ。一瞬でそんな俺の感想を見抜いた雪ノ下は、鋭い目を俺に向ける。別に隠す必要もないと思うんだが。バレバレですし。率直にそう思う俺と同じ感想を抱いたのか、今度は三浦が呆れたように言う。
「好きなものを好きって言ってなんか不都合あんの?雪ノ下さん。…で、先生」
「なにか質問かな?三浦」
三浦の弁に目を丸くする雪ノ下をよそに、平塚先生は三浦を面白そうに見る。
「質問も何も、そのチケットなんだし。別に先生が年甲斐もなく男とそんなとこ行く自慢話にはあーしこれっっっっっっぽっちもキョーミないんだけど」
「ぐ、ぐはぁ!!!!!!!…み、三浦、君はやはり遠慮がないな…」
「年甲斐もなく」「男と」という部分で盛大に膝を折る平塚先生を、由比ヶ浜と一色は不思議そうに見つめる。やめろ、触れてやるな。異性にもてることと外見は必ずしも相関しないのだ。咳ばらいをいくつか、平塚先生は気を取り直したように続ける。空元気と言ってもいい。というか半ばやけくそか。
「そ、そうではなくな。優秀なのにうまくいっていない君たち二人、雪ノ下と三浦。君たち生徒会はクリスマスの何たるかを知らないと思ってだな。ここに行って勉強してきてはどうだろうという提案なのだが…」
「な、なるほど平塚先生!ろーばしんながら、ってやつですね!ありがとうございます!」
「が、がはぁ!?由比ヶ浜…う、うん。君たちから見たら私なんて老婆も老婆だもんな…ただの老害だもんな…わかってたよ?ちょっとジェネレーションギャップあるなぁって。伝わってないんだろうなぁって。でもそんなはっきりと言わなくても…」
平塚先生の思惑がわかった由比ヶ浜の裏表のない言動に、ひざを折った平塚先生は今度は体育すわりでブツブツと何かつぶやきだす。悪意がないことのなんと恐ろしいこと。
「で、先生」
しかし、三浦優美子にとってはそんなことは知ったことではない。彼女は自分が知りたいだろうことを平然と質問する。
「あーしらにディスティニーランドのチケットくれるってこと?」
「…うん、そう。こないだ結婚式の二次会で当てっちゃったから。しかもペアチケット。それも二回も。ははは。同級生にすら言われたよ。「一人で4回行けるね!」…ぐすん」
本気で涙をすするその姿に、流石に同情を禁じえなかった。奉仕部の三人、一色は平塚先生に同情の念を送る。しかし現実は非情。恋する乙女にはそんなことは関係がない。三浦は何か思い当たったのか小さくあっ、と声を漏らし、少し頬を赤らめる。
「それ、他の人間も誘ってもいい?」
三浦は普段であればしないだろう上目づかいで平塚先生、生徒会面々に尋ねる。もう一度言おう。俺は乙女三浦を見る周りの暖かい視線を感じつつ、確信を得る。
恋する乙女には、三十路前の女の都合など関係ないのだ。平塚先生からの殺気を感じつつ、俺はひしひしとそんなことを思った。
そして時はディスティニーランドへ向かう当日へと戻る。小町にそんな事の経緯を話し終えいち早く集合場所にたどり着いた俺は、早朝から最悪の気分だった。
「お姉さん。かわいいねぇ。俺ら暇なんだけどちょっと付き合わない?」
「はぁ?なんであーしがあんたらみたいなのの相手しないといけないわけ?目障りだからさっさと消えな」
「おーおー、「あーし」だってよ!お姉さん見た目かわいいのに中身は結構きついなぁ。ますます気にいった。ちょっと遊ぼうよ」
集合場所である舞浜駅に一番乗りだった三浦は、のっけからナンパされていた。いつものように携帯をいじりながら、三浦は男たち――人数で言えば5,6人ほどの大学生だろうか――を一瞥し、鼻で笑う。
「いっとくけど、あーし男と待ち合わせしてんの。あんたらとは比べ物になんないくらい、いい男と。もう一度だけ言うし。さっさと消えな」
「…や、やっぱりきっついなぁ、お姉さん」
早朝。恐らく前日酔った勢いだったのだろう。しかし大学生らしき男たちにもプライドがある。「お姉さん」と言いつつも黒髪薄化粧の三浦は少なくとも成人には見えない。与しやすしと思っていただろう男たちは、はっきりと頬を引きつらせて三浦を取り囲む。
「そんなこと言わずにさ。ちょっとでいいんだって。ほら、そこにカラオケあるし、いこいこ」
そしてさっきから話しかけていたリーダー格らしき男は、三浦の腕をつかんだ。
大学の飲みの勢いだったらそれも許されただろう。しかし相手は獄炎の女王。ついでに付け加えるなら恋する乙女である。興味なさげに携帯を見ていた三浦は一転、鋭い視線を男に送る。
「…んな」
「え?なに?もしかして照れちゃって…」
しかし男の言葉は最後まで続かない。
「汚い手であーしに触んなっていってんの!」
それはそれは見事なストレートパンチであった。
パンチをもろにくらった男は倒れこみ、それを見て周りの男たちはますます三浦を取り囲む輪を縮める。
「…お姉さん、暴力はいけないなー」
「おお、こっわ。これ骨とか折れてるかもよ?」
倒れる男を介抱する男は厭らしく三浦に視線を送る。さっきも言ったが休日の早朝、駅前といえど人通りは多くない。いたとしても休日出勤に勤しむサラリーマンか部活動に勤しむ高校生くらいのものだ。そのどちらもこんな面倒ごとに首を突っ込む暇も度胸も持ち合わせてない。男たちのボルテージはさらに加速する。
「責任とってもらわないとね」
「…へぇ。どうやって?」
それまでからは考えられない激昂した表情を作るリーダー格の男に、三浦は涼しい顔で問う。またもやじりじりと男たちと三浦の距離が縮まる。
「ま、それはあっちにあるカラオケ入ってから考えよっか。ほら、いこいこ」
男たちは今度こそはっきりと三浦を取り囲み、つれていこうとする。集団真理とは恐ろしい。俺は素直にそう思った。恐らく彼らだってここまでする気はなかったのだろう。酔いに任せたほんのお遊び。うぶな10代をからかって楽しむくらいのつもりだったのだろう。しかし思惑はことごとく外され、遊ぶはずの対象に殴られる始末。リーダー格の男は見る限り周りより学年が上のようにも見受けられる。誰も彼の決定には逆らえない。まちがっているとわかってはいても逆らえない。なぜならば誰も逆らわないから。ここで逆らえば攻撃の対象が自分に向くとわかりきっているから。
「…だから、うざい、ださい。さっさと離せ」
しかし三浦にそんな繊細な集団真理がわかるわけもなく。
「…ガキが、調子乗りやがって」
三浦に殴られた男は思わずこぶしを振り上げる。いつものようにふるまっていた三浦も、圧倒的人数差から思わず目を瞑る。やはり周りの人間には囲まれた男たちからは見えないのか、見えないふりをしているのか。当たり前だ。俺はそう思った。なぜまともに、真剣に生きている人間がこんなくだらないことに首をつっこむ道理があるのか。下手を打てば自分まで痛い目を見る。真剣に養っている家族にまで影響はいくかもしれない。真剣に応援し、心配してくれている親に迷惑をかけるかもしれない。そんな彼らがこんな「無関係」に首をつっむ道理はない。
「おはよ、姉ちゃん!」
ならば。無意識に俺は言い聞かせる。真剣に何かに打ち込むわけではなく、「無関係」でもなく、養う対象もいなく、両親にもさほど応援も心配もされていないだろう俺が首をつっこむのは、それは道理ではないか。目を丸くする男たちを前に、俺は三浦だけを見て続ける。
「姉ちゃん、何やってんだよ。早くばあちゃんちいかないと、今日墓参り行かないとなんだから…って、この人たちは?」
「…君はこの人の弟さん、かな?」
三浦に代わってリーダー格らしき男は俺に問う。表情に少し乱れはあったが、大きく歪んではいない。やはりただの馬鹿ではない。彼らには学歴がある。守るものがある。だからこそプライドがある。自分たちが遊ぶべき頭の軽そうな女にそのプライドを傷つけられた。もはや彼らがここにいる理由はそれだけなのだ。
俺は口をパクパクと開いたり閉じたりする三浦を前に、17年の人生の中で浮かべたことのないような笑顔を彼らに向ける。
「す、すいません。お姉ちゃんのお友達ですか?申し訳ないのですが、お姉ちゃん今日は祖父の墓参りに行かなくてはならなくて早朝からここで待ち合わせだったのですが…」
「へ、へぇ。そうなんだ。彼女が何も言わないってことはそうなんだろうけど…。でも僕達も彼女に用があるんだ。時間までには「お祖母さん」の所に送り届けるから、ここは遠慮してくれないかな?」
男は少し顔を引きつらせるも、すぐに余裕の表情を取り戻す。俺はまた男の評価を改める。俺と三浦はお世辞にも似てはいないし、こんな早朝から墓参りをする人間はそうはいない。彼は冷静に取り繕いつつも俺にこういっているのだ。「法的つながりがないならしゃしゃり出るな」なるほど正しい。ならば。俺は口の端を持ち上げる。正しい人間ほどやりやすい相手はいない。
一つ息を吸う。そして俺は。
「お願いします!今日は姉ちゃんにとっても俺にとっても、家族にとっても大事な日なんです!どうか、どうかここは、その「用事」を済ませるのは後日にしてはいただけませんでしょうか!」
とりあえず、地面に頭をこすりつけて土下座した。
彼は正しい。俺は三浦と血のつながりもないし、親しくもない。俺が呼びかけた瞬間の三浦の表情を見て彼はそれを悟ったのだろう。
しかし、正しく在る必要がどこにあるのだろうか。正しさなど、世間的には何の役にも立たない。社会は正しくないからこそ機能できる。だから雪ノ下は孤立するし、三浦は選挙に当選した。そしていま世間一般の認識は、「幼い弟が取り囲まれたお姉ちゃんをかばって土下座している」という図だ。通り過ぎている人々もいよいよ俺たちをはっきりと、訝し気に見るようになる。遠巻きに人だかりまでできてきた。そしてそれは、学歴のあるだろう彼らの望むところではない。周りとは無関係だからこそ多少のやんちゃができたのだ。
「無関係」から「興味」に変化した周囲の空気を敏感に察した男は、やはり慌てて取り繕う。
「な、なるほど。事情は分かったよ。お姉さんに誘われたのは俺たちの方だったが…そういうことなら仕方がない。お祖母さんによろしくね」
「はぁ?あんたら何勝手なこと言ってんの?話しかけてきたのはあんたらの方…」
「た、助かります!お姉ちゃんのわがままに付き合っていただいてありがとうございました!また仲良くしてください!」
俺は不機嫌そうに開く三浦の口を強引に抑え、また地面に頭をこする。軽いものだ。俺は心底そう思う。軽い頭だからこそ簡単に下げることができる。侮られても、安く見られてもどうでもいい。なによりも自分を安く見ているのは、他ならぬ自分なのだから。
男たちは今度こそ興をそがれたのか、土下座する俺に周りの視線が怖くなったのか、いくつか捨て台詞を吐いて駅へと向かっていった。彼らの声が聞こえなくなってから俺は頭をあげる。ふう。久々に働いてしまった。社畜特有の達成感を抱く俺を前に、横から震えた声が聞こえてくる。
「…なんで?」
「は?」
さっきまでいつも通りだった彼女。何分か前まで不遜を代表したかのようだった三浦優美子は。
「なんで、あんたは…あんたが…泥を…」
今は、等身大の、幼い、高校生の少女だった。
「なんであんたが頭下げてんの?なんであんたが馬鹿にされてんの?あーしは別に、そんなことしてほしかったわけじゃ…」
嗚咽とともに彼女は続ける。もはや彼女にさっきまでの余裕は、男たちと対峙した時の毅然とした姿はなかった。どうして、なんで。彼女の口からはその二つの単語が漏れるばかりだった。
そしてそんな彼女を前に、俺もまた何も言えなかった。なぜか。答えは単純だ。俺もわからなかったから。自分でも理解できなかったから。危険地帯に自ら身をさらした自分が。安いとはいえ、軽いとはいえ自らその頭を地にこすりつけた自分の心中が。
だから、俺は自分の言葉を、想いをコントロールすることができなかった。
「それはたぶん」
「ん」
一度天に吐いた唾は、戻すことができない。
「どうでもいいからだろうな。自分のことが。…たぶん、自分よりお前のほうが」
しかし俺の言葉は続かない。
「は?」
言いかける俺に、三浦の眉が釣り上がる。
「あーしは、あーしは…」
彼女から続く言葉は。想像することは、俺にはできなかった。
「演説の時、あんたが言ったこと、あーしは…」
彼女は、いつでもまっすぐ俺を見る。
「あんたのことを。…あんたとあーしのことを、どうでもいいなんて、あーしは思わない。あんたをあーしがどう思ってるか、あんたがあんたをどう思ってるか…勝手に、きめんな」
その瞬間。駅から人があふれた。見知った顔もいくつか駆け寄ってくる。早朝、最も人間が集まるホームだったのだろう。人酔いに当てられたような雪ノ下。何かを期待するような由比ヶ浜。横の男だけを見て目をハートにする一色。なぜか遠い目でこちらを見る葉山。どこを見ているかわからない海老名さん。隣の女子だけを見る戸部。しかし俺は。
そう。ここに俺は再認識したのだ。
「あんたはどうでもいい人間じゃない。カッコよかった。…ありがと、ね」
俺の目に映っていたのは、彼女だけだった。