あーしさん√はまちがえられない。   作:あおだるま

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彼と彼女は徐々に近づく。(中編)

 

 黒歴史、という言葉がある。

 

 それの指す意味は今更説明するまでもないだろう。過去の所業に対して現在の自分が身悶えることだ。時に人は過去の自分を悔やみ、疎み、恨むことさえある。

 かくいう俺も人並みに…いや、俺が唯一人並みを大きく上回っているものが黒歴史の数かもしれない。幼稚園、小学校、中学校、そして高校とその一つ一つをいまだに覚えている。夢に出てくることさえあるのだ。そしてそのたびに後悔する。

 しかし。俺はこぶしを握る。俺はそれを一つ一つ、たった一人で乗り越えてきた。時に校舎裏で一人ただただ涙し、時にそそくさと学校を後にし、時に学園祭の打ち上げをすっぽかし。

 …あれ、一個も乗り越えてなくね?

 

「…」

 

「…」

 

 ちょっと待って、もうめちゃくちゃ帰りたい。

 

 早朝の舞浜駅。俺と三浦の間には微妙な空気が流れていた。大学生らしき集団に絡まれている三浦を放っておけなくなり、俺は頭を下げたることで事をうやむやにした。その際に寝起きのテンションも相まって、思い返せば三浦に対していろいろと恥ずべき言動をしたことが思い出される。

 とはいえ俺と三浦がお互い黙っていることは珍しくない。生徒会室で偶然二人になることがあっても、交わされる言葉は多くはない。そもそもまったく接点のない人間同士、特に共通の話題があるわけでもない。沈黙は当然の帰結であろう。しかし。俺はちらりと横に目をやる。

 隣の三浦はケータイをいじっているが、その手の動きにいつもの素早さはない。どこか上の空の彼女とふと目が合う。普段なら「あぁ?」という低い声とともに睨み返す彼女は、その視線をフイと俺から外す。寒さからかその頬は少し赤い気すらする。いや、流石にそれは俺のラノベ主人公脳が見せる幻覚だろう。…と、信じたい。三浦は俺の方をまたチラリとみて、目を見張る。

 

「ちょ、あんた」

 

「…なんだ」

 

 一歩俺に身を寄せる三浦に、思わず身構える。そんな俺を無視して彼女の手が伸びる。突然のことに思わず目を瞑ってしまう。額に柔らかい感触が当たった。

 

「おでこ、さっきので汚れついてるし」

 

 あーあー、服にもついてるじゃん。ぼやきながら彼女はバッグからハンカチを取り出し、俺の服に付いた土を払う。や、やだ、こんなことお母さんにもしてもらったことない!あーしさんマジおかん!あふれる母性に包み込まれちゃいそう!

 しかしそのままにしておくわけにもいかない。そんなことをしてもらう理由もないし、汚れたハンカチの始末にも困る。女の子が「そのハンカチ洗って返しますから!」と言えば好ましく映るだろうが、男が「デュへへ…そのハンカチ、洗って返しますから…」などと言えば110番は免れない。俺にも覚えがある。いや、覚えあっちゃダメだろ。

 

「そんくらい自分でできるし、お前に世話される理由がない」

 

 そ、そんくらい自分でできるしっ!最近雪ノ下に続いて俺の宴会芸レパートリーに加わりつつある三浦優美子の物まねを脳内で披露しつつ、俺は三浦のハンカチを押しのける。固辞する俺に彼女は口をとがらせる。

 

「はぁ?あんたの服が汚れたの、半分はあーしのせいでしょ?このくらいする理由あると思うんだけど」

 

 そう言ってまた三浦は俺の服のほこりを払おうとする。今度は彼女の、その、なんというか、それなりに膨らんだ部分が目につく。…これは気づいてないんだろうな。

 

「いや、だからな…」

 

「まだなんか言ってんの?あんたたまには人の言うこと素直に聞けって…」

 

 彼女はあきれ顔で見上げる。三浦と俺の顔の距離、およそ15センチ。その距離はそのまま身長差ほどしかなかった。

 

「あ…」

 

 また気まずい沈黙が流れる。しかしなぜか目の前の彼女から目を離せない。ハンカチを押し付けないと気が済まないのか、今度こそ彼女も目を離さない。彼女の長髪が俺の鼻をくすぐる。その緑がかった瞳に俺の視線は引き付けられる。自分の顔が彼女の瞳に映るほど近いことに気づき、急激に頬に熱を感じた。そして数秒。彼女の唇が震える瞬間、横から声がかかった。

 

「…三浦さん、比企谷君、おはよう。朝から元気がよさそうで何よりだわ。さぞかし今日を楽しみにしていたんでしょうね」

 

「お、おはよー、ヒッキーと優美子。いやー、待たせちゃってごめんね?ちょっと電車混んでてさー。…で、二人は何してるの?」

 

 声のかかった方向を見ると、奉仕部の二人に加え今日ディスティニーランドに行く一色、葉山、海老名さん、戸部がいた。奉仕部の二人は寝起きなのか俺に向ける目付きがあまりよろしくない。二人ともなかなかの目の腐り具合だ。俺がいうのだから間違いない。一色は意味ありげに笑い、戸部は目を丸くしている。葉山と海老名さんはいつもと変わらない。にやけ面のまま一色が由比ヶ浜と雪ノ下をなだめる。

 

「まあまあお二人とも、三浦先輩とせんぱいがお二人で仲良くしてるんですから、邪魔するのは野暮ですよー」

 

「一色さん、別に私は邪魔とかそういうことではなく、ただ三浦さんが比企谷君によからぬことをされてるんじゃないかと…」

 

「べ、別にあたしもそういうのじゃなくて、優美子がヒッキーになんかえ、えっちなことされてるんじゃないかなって…」

 

「おい、なに朝っぱらから人聞きの悪いこと言ってんだ。…まあちょっと想定外のことがあっただけだ」

 

 というか、女王相手にそんなことする度胸が俺にあると思っているのかこいつらは。まだ冷たい視線を送る二人を尻目に、意外なことに今度は海老名さんが重々しく口を開いた。

 

「そうだよね」

 

 おお、わかってくれるか。なぜか身の危険を感じていた俺は、突然現れた救世主に救いを求める。しかし。

 

「ヒキタニ君の目にはさっきから戸部君と葉山君しか映ってないもんね!大丈夫。私は、私だけは三人の関係分かってるから!私そういうのに理解ある系女子だから!むしろそういうのにしか理解ないまであるからっ!!」

 

 ぐ腐腐っ。笑い声がそう聞こえたのは俺の気のせいだったと信じたい。

 

「ヒ、ヒキタニ君?悪いけど俺そういう趣味ないから…」

 

「いや、戸部。俺も全くないから安心しろ。だからちょっとずつ離れるのを止めろ」

 

 戸部は顔を引きつらせる。なんでこんな時だけ察しがいいんだこいつは。反対に葉山はいつも通り微笑むのみ。おい、お前もしっかり否定しろ。海老名さんの暴走が止まらないだろうが。変わらない葉山に一色が甘い声を出す。

 

「ねえ、葉山先輩。こーんな仲良さそうな三浦先輩とせんぱいの邪魔しちゃ悪いですよねー」

 

「うーん、そうだな」

 

 葉山はあざとい一色に苦笑交じりにうなずいたかと思えば、こちらにいつもの笑みを向ける。しかし続く言葉は。

 

「…ヒキタニ君、ずいぶん優美子と仲がいいんだね」

 

 彼は微笑を浮かべ静かにそう言った。一見すると何も変わらないように見える。しかし彼の心中まで推しはかる術は俺にはない。なぜか三浦が慌てて葉山の前に立つ。

 

「は、隼人、別にヒキオはただ一緒の生徒会入ってるだけで…」

 

「優美子、今はヒキタニ君と話してるからちょっと後にしてもらってもいいかな?」

 

 葉山はそのままの笑みで三浦に笑いかける。いつもと寸分違わない笑みに、三浦は息を詰まらせる。彼は一息つき、何でもないように言う。

 

「比企谷君、今日はよろしくね」

 

「…おう」

 

 その笑顔は、いつもの完璧なそれより少し固かった。

 

 

 

「一色」

 

「…はい?なんですかせんぱい」

 

 場所は舞浜駅から変わってディスティニーランド。クリスマスを直前にしたランドは異様な混みようだった。当然ディスティニーの入り口も長蛇の列ができており、三浦はこれ幸いと葉山の横を陣取っている。三浦との順番制なのか、楽しそうに話す二人を恨めし気に眺める一色に声をかける。…いや、そんな嫌そうな顔で睨まなくても。

 

「なんで葉山たちがいるんだよ」

 

「先輩バカですか?クリスマス前の貴重な休日に、なんでわざわざ仕事の生徒会でこんなとこに来ないといけないんです?どうせ来るなら有意義に過ごさないと意味ないじゃないですか」

 

 一色は心底馬鹿にした目…いや、馬鹿を見る目で俺を見る。言っていることは想い人を射止めようという可愛らしい女の子の言葉に聞こえなくもないが、その目がすべてを台無しにしていた。その全くかわいくない目のまま、一色は俺に笑いかける。

 

「…まあ?せんぱいは朝から三浦先輩と有意義な時間を過ごしてたみたいですから、気が付かなくても仕方ないと思いますけど?」

 

「なんだその腹立つ目は。…別にそんなんじゃねえよ。ただ…」

 

「ただ…なんです?」

 

 一色は俺の顔をのぞき込み、人を食った笑みを浮かべる。…やりにくいことこの上ない。

 

「…黒歴史が一個増えたくらいだ」

 

「ふーーーん?」

 

 その顔、女子じゃなかったら確実に殴っていたことは言うまでもない。

 

 

 

 

 

 

「ねえねえねえ、まずどこ行く?メリーちゃんのとこは人多いと思うし、最初は軽くジェットコースター系のパスとり行くべきだと思うんだけど。それともそれともあえて朝方空いてるお化け屋敷とか怖い系行く?あー、でもお腹もすいてるし屋台食べ歩きも捨てがたいかな?ねね、どうする?」

 

 ディスティニーランドの入場ゲートをくぐる。のっけからテンションマックスなのは言うまでもなく由比ヶ浜である。流石に朝から彼女のテンションに付き合うのは厳しい一般人たち(戸部を除く)は、苦笑とともにただただうなずく。そんな由比ヶ浜を雪ノ下がなだめる。

 

「はあ…少し落ち着きなさい、由比ヶ浜さん」

 

 雪ノ下は大きくため息を吐く。しかし次の瞬間。

 

「まずファストパスをとる班、お土産屋に行く班の二つに分かれるのも悪くないわ。お土産屋は最初に回れば混んでないし、ロッカーに預けておけば荷物にならない。ロッカーは大型でも500円程度。お土産を置く程度なら割り勘すれば大した値段にはならないわ。そのうえで各々の好みのアトラクションから込み具合の大きそうなものからパスを取っていけば効率的に回れるのではないかしら。もちろん好みには個人差があるだろうから班分けはそれにあわせてでも…」

 

 いや、まずはお前が落ち着け。

 

 今度は俺が内心ため息を吐く。こいつフリーパスでいつも一人で来るから、ひそかに他人とくるパターン想像してたんじゃないの?そう思えてしまうほど彼女の提案は流れるように出てきた。まあ駅で見たときは人込みで既に死にそうになってたし、やる気なのはいいんですけどね。

 しかし、俺は少しの違和感を覚える。由比ヶ浜と雪ノ下二人だけという状況であれば雪ノ下がこのようなテンションになるのもわかるが、彼女と関係性が薄い人間がいる前でこのように嬉々とした態度をとるとは。俺の視線に気づいたのか、雪ノ下はじろりとこちらをにらむ。

 

「比企谷君、何か文句でもあるのかしら」

 

「いや、俺からは特にない」

 

 ディスティニーランドに対して思い入れのない俺は、どうしても彼女たちと温度差がある。家族と一緒に俺がディスティニーランドに来たのは記憶がないほど前のことだし、小町が物心ついた時は俺が家族で行くティスティニーランドに着いていくこともなかった。必然的にその記憶は修学旅行ものになるが、修学旅行で俺が良い思い出を作れるわけもない。

 

「えー、皆で来てるんだし、皆で回ろうよ。そっちの方が楽しいし、皆で楽しむのもクリスマスっぽくない?ね、優美子?」

 

「あ、あーし?…あーしは隼人と一緒ならどうでもいいんだけど」

 

 由比ヶ浜から話を振られた三浦は、チラチラと葉山を横目で見ながら頬を染める。今日も乙女三浦は平常運転ですねぇ…。葉山はあからさまにすり寄る三浦に苦笑気味に相槌を打ち、由比ヶ浜に同調する。

 

「そうだな。いろはから聞いた話だと、生徒会のイベントに向けてクリスマスを皆で楽しむのが目的だって言ってたから、結衣の言うようにみんなで回るのがいいんじゃないかな。…雪ノ下さん、どうかな?」

 

「…そうね。チケットは平塚先生のご好意でいただいた物だし、先生の顔も立てておくべきかもしれないわ」

 

 平塚先生はイベントに向け、一言で言えば「協調性を持て」という忠告をした。戸部や葉山、三浦がいるこの状況は雪ノ下にとっては確かに協調性なくしてはうまくいかないだろう。葉山の言葉に眉を顰めることもなく、雪ノ下は素直にうなずく。

 

「そーそー、せっかく皆で来たんだし、普段ヒキタニ君とかと遊ぶこともあんまないし、皆で回ったほうが楽しいっしょ!」

 

「そうだねー。これだけ人いると合流するもの面倒だし、皆で回ったほうがいいかもね」

 

 戸部、海老名さんが雪ノ下に続いて同意する。そうだぞ戸部。俺と遊べることなんてめったにないぞ。特別だぞ。スペシャルだぞ。だからお前と遊ぶ機会は大事な時のために一生とっておきたかったです。

 

 戸部に心の中で挨拶をしていると、横の一色が「むー、葉山先輩と二人きりで回るチャンスだったのに…」などブツブツと呪詛の念が聞こえたが、当の葉山の提案に反論する気もなさそうだ。葉山が最後に俺に問いかける。

 

「ヒキタニ君、それで大丈夫かな?」

 

「ああ、それでいい。どっちにしろ俺は後ろからついていくだけだ」

 

「せいぜいストーカーに間違えられて通報されないように気を付けなさい、比企谷君」

 

「通報する可能性があるのはお前しかいないから、お前が我慢すれば問題ない」

 

「あはは…ま、とりあえず最初に行くアトラクション決めよっか」

 

 由比ヶ浜が苦笑いを浮かべつつ、パンと手を打ち、ランドをどう回るかの話し合いを始めた。話合いは主に由比ヶ浜、雪ノ下、戸部のディスティニーランドを楽しみにしている勢によって進められるようだ。一色と三浦は葉山を真ん中に置き、彼の両隣でお互いにらみ合っている。

 俺と同じく手持無沙汰なのか、気づけば隣にいた海老名さんが楽し気に笑っていた。

 

「いやはやー、それにしても意外だったねー」

 

「…まあ、来るとは思わなかった」

 

 俺が戸部をチラリと見ると、彼女はあははー、と珍しく困ったように笑う。

 

 修学旅行、戸部は海老名さんに告白し、そしてフラれた。教室で見る彼らの様子に変化はなかったが、輪の中にいる人間の気持ちは外から見ている分にははっきりとはわからない。所詮俺が見ているのは学校のクラスの中だけの彼らの関係であり、こと学外において一切を知り得るわけがなかった。

 つい漏れてしまった余計な世話ともとれる返答に海老名さんは気を悪くした風もなく、俺にいたずらっぽい上目遣いを送ってくる。

 

「いやいや、私のことじゃなくて。比企谷君、ずいぶん仲いいんだね」

 

「葉山とだったら仲はそんなに良くないぞ。ていうか嫌いだ」

 

「うん、そういうことでもなくて…あれ?まあそういうことではあるんだけど…」

 

 眼鏡の奥に怪しげな光を灯らせるが、またすぐに笑い、葉山の隣の三浦を見る。

 

「私の友達がさ、お世話になってるみたいだから」

 

 友達。少し照れくさそうにはにかんだ彼女に、俺は適当な言葉を返すことができない。おおよそ海老名姫奈という人間から発せられないだろう単語。しかしそれはなぜかそう不自然ではなかった。いつもと少し調子の違う彼女から目を外す。

 

「…生徒会はあと一年ある。波風立てても仕方ない」

 

 あと、あーしさん怖い。心の中で付け足しておく。だって聞こえたら怖いし。海老名さんは意味深な笑顔で何度か頷き、まあでも、と騒がしい一同を見渡す。

 

「似合わないかもだけど、たまにはいいよね、こういうのも。…この人混みだけは疲れちゃうけど」

 

「ああ、よく来ようと思ったな。できればこの時期のランドは一生来たくなかった」

 

 

 次は周りの人込みを見渡し、俺と海老名さんの肩が落ちる。お互いこのようなキラキラ空間の人込みには慣れていないのだ。俺たちが慣れている人混みと言えば、そう…俺が思った途端に彼女は声のトーンを上げた。

 

「でも即売会よりはかなりましじゃない?売り切れ前に急ぐこともないし、いちいちsnsで情報収集する必要もないし」

 

「それは俺たちがディスティニーを楽しんでないからだろ。しかも人混みっつってもこの無秩序なただの人の山とコミケを比べてもしょうがな…」

 

 彼女の言葉に肩をすくめるが、言い切る前に悪寒が走った。海老名さんがにやりと笑う。

 

「やっぱり比企谷君も行くんだね!いつもおんなじサークルのとこばっかりみてたら刺激が足りないよね?なら私と一緒に新しい世界への扉を…」

 

 BがあーだLがこーだ、男たちの花園について海老名さんは朝から熱弁をふるう。ひ、ひぃ!八幡まだそんなアブノーマルな世界知りたくない!知るならノーマルの世界のほうがいい。何ならそっちのほうが知らない。

一人で悲しい気持ちになっていると、暴走しかける彼女の頭を後ろから三浦がはたいた。

 

「だーかーらー、擬態しろし海老名」

 

 三浦と一色のにらみ合いから逃げ出したのか、気づけば葉山は雪ノ下たちの話し合いに加わっている。海老名さんは叩かれた頭をさすりながら口をとがらせる。

 

「うう…だって優美子も結衣も興味ないみたいだし、比企谷君は言うまでもなく逸材だし…」

 

 逸材って何だ逸材って。深く突っ込むのが怖かったので、黙って二人の会話を聞く。

 

「逸材って何の話だし…てかヒキオ、あんたも海老名止めろっての。一回暴走したら誰か止めないと止まんないんだから」

 

「待て、なんで俺のせいになってんだ。そもそも海老名さんと由比ヶ浜の保護者はお前じゃねえのかよお母さん」

 

「だ、誰がお母さんだし!…つーかあんたちょくちょくあーしのことオカン呼ばわりするけど、あーしまじ子供も家事も無理だから。収入も生活も楽させてくれて、格好良くて、子供もいらない人間じゃないと無理」

 

 現実にはあり得ない妄想を指を折って語る三浦を俺は鼻で笑う。何を言ってるんだこいつは。

 

「お前が働かず、家事もしないで暮らせるほどの年収って、一体いくらあればいいと思ってるんだ」

 

「…一千万円くらい?」

 

「30代でも一人で一千万稼ぐ人間は全体の1%しかいない。40台で10%だ。イケメンの爺さんでも探すか」

 

「ジジイはまじで無理。クサイ、うざい、だるい。つーかあんただっていっつも専業主夫とかわけわかんないこと言ってるけど無理ってことじゃん」

 

「俺は専業主夫として家事炊事をやる覚悟はあるぞ。ただ社会で働かずに飯が食いたいだけだ」

 

 全国のお父さんたちに謝れ。俺は三浦の言い分に思わず顔をしかめる。小町に冷たい目を向けられる親父も、いつもなんとも言えない気持ちなのだろうか。まだギャーギャーと何か喚く三浦に適当に相槌を打っていると、ふと海老名さんと目が合う。

 

「仲がいいのは良いことだ。ヒキタニ君」

 

「ぼっちにはそもそも仲が悪くなるような友人もいないけどな」

 

「そういうことにしとこっか。お互いね」

 

 海老名さんはそう言い残し、話合いが終わった様子の戸部に話しかける。戸部が身振り手振りで今から行くアトラクションの楽しさを説明し、海老名さんがそれをニコニコと聞きながらうなずいている。その笑顔を眺め、俺は改めて思う。

 

 あの人だけは、よくわからん。

 

 

 


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