三浦はすぐに見つかった。モールを出たすぐのベンチに彼女は腰掛けていた。
ベンチに座る三浦はいつも通りだった。…いや、むしろいつもよりも涼しい顔をしていた。眉間に刻まれた縦皺は見えず、冬特有の斜めから照る日差しに時折眩しそうに手をかざしていた。
俺は、そんな彼女の姿を今まで見たことがなかった。
瞬間、俺は自分が何をしに来たのわからなくなる。俺はここに来るべきだと思ってきた。しかし、俺はそんな穏やかな彼女の顔は今まで知らなかった。
迷う俺に気づいたのか、三浦から先に口を開く。
「用事あるっつったじゃん」
「…その用事ほったらかしてこんなところで何やってんだよお前は」
思わず漏れる俺の言葉に、三浦は顔を伏せる。…黙っていても仕方がない。俺は直前に買ったマックスコーヒーを彼女の横に置き、三浦から人一人分あけてベンチに座る
「布教用だ。金はいいし飲みたくなきゃ飲まなくていい。というかむしろ飲むな。俺が飲むから」
「こんな甘ったるいもんガバガバ飲んでたら早死にするっての。…ま、もらっといてあげる」
彼女は涼しい顔でそれに口をつけ、少し頬を緩める。
「うわ、相変わらずあっま」
「人生苦いことだらけだ。コーヒーくらい甘くても罰は当たらん」
「…それ、これのcmとか?」
「いや、俺が作った」
「なんだしそれ…」
三浦は心底あきれ顔で俺を見て、しかしすぐに澄み切る空を見てため息を吐く。
「ま、間違っちゃいないかもね」
その言葉を最後に、沈黙が降りる。
そもそも俺は何か言うためにここに来たわけではない。一色にたきつけられ、由比ヶ浜には…止められた。
しかしそれとは関係なく、結局は俺自身が来るべきだと思った。今動くべきだと思った。それだけだ。
悟ったような顔の三浦に何を言うべきか逡巡していると、目の前を走り回る子供たちが通り過ぎる。5,6人くらいの集団だった。後ろからは彼らの親らしき女性たちが半ば笑いながら彼らを注意していた。
横を見ると、三浦はそれを優しい目で眺めていた。雪ノ下陽乃の前の葉山隼人のように、俺はそんな彼女もまた、見たことがなかった。それはまるで…母親のような。
見られていたことに気が付いたのか、三浦はわざとらしく咳払いをする。
「やっぱなんも聞かないんだ、あんた」
「別に何か聞きたかったわけじゃない」
口をついて出た。そう。何か聞きたかったわけでも、上から目線の同情を押し付けたかったわけでもない。
「へー。じゃ、なんで来たわけ?」
「まあ、その、なんだ」
俺はつい口ごもる。改めて聞かれると答えに窮する。俺だってそんなことは知らないからだ。むしろ教えて欲しい。
しかし、葉山隼人と雪ノ下陽乃を見た三浦の顔を思い出すとそうも言いづらい。
だから俺は、一番正直な感想を述べる。
「なんもできなくても、サンドバッグくらいにはなれる」
吐き捨てるように言った俺に、三浦は目を瞬かせた。
「…っぷ、なんだし、それ」
言ったそばから自分で戸惑う俺に、三浦は笑いを漏らす。いや、だって俺だってなんで来たかわからないんですもの…。
「ならとりあえず一発」
俺の戸惑いなどお構いなしに、三浦は俺に向かって拳を振り上げる。反射的に目を瞑るが、衝撃はやってこなかった。
力なく拳を振り下ろした三浦は、弱々しく、消え入りそうな声を出す。
「別に、泣いてたわけじゃない」
しかし、そのか弱い一言は殴られるよりはるかに響いた。
見透かされているようで、自分のあさましい心を、慰めようとした上から目線を、同情しているような態度を、それらをわかっていると言われたようで。
しかし。自己嫌悪はない。俺はそう思う。俺は彼女に上から目線の同情を押し付けるためにここに来たわけではない。それを俺は確信していた。俺がここに来たのは。理由にならないような理由をつけてまで、由比ヶ浜の願いを振り切ってまでここに来た理由は、それは。
三浦はまた優しく微笑んで続け、
「別に、逃げたわけじゃないし、隼人の気を引きたかったわけでも、多分、ない。ただ」
うつむき、つぶやく。
「邪魔しちゃ悪いっしょ。あんな楽しそうな隼人、初めてみたから。…あそこにいたら、あーし絶対余計なこと言って台無しにするから」
それは、いつも彼を見ていた三浦優美子だから出てきた言葉だった。雪ノ下陽乃を前に困ったように、呆れたように、付き合いきれないと笑う葉山隼人を、三浦優美子は「楽しそう」と断言した。
そして彼女はそんな彼を思って優しく笑っている。
その像は、俺の知っている彼女ではない。彼女なら怒るべきだった。台無しにして然るべきだった。なぜ彼は自分の知らない顔を彼女にみせるのか詰問するべきだった。
だから、俺は自然と尋ねてしまう。
「本当に、いいのか?」
「ん?」
不思議そうにこちらを見返す三浦。だが、俺は勝手に出てくる言葉を止めることはできない。
「…届かないところに行っても、いいのか」
三浦の、俺の知らない葉山隼人。雪ノ下陽乃の前の彼は、それだった。恐らくそれは、三浦優美子が俺に願った、俺程度に懇願した葉山隼人の「知らざる一面」の一つで、それも相当と言って差し支えないほど重大な一面だったのだろう。だから三浦はあそこから飛び出した。
俺は分かったように忠告する。その傲慢を、無恥を笑われてもいい。俺はなぜかそう思っていた。
しかし、彼女は俺を正面に見据え、静かに言う。
「だって、しょうがないじゃん。さっきも言ったっしょ。…あんな隼人、見たことなかったから」
そう、彼女は笑った。
一色なら彼女を弱いというのかもしれない。由比ヶ浜なら絶対にあきらめることはしないだろう。雪ノ下であれば振り向かれるように自らを高める努力をより高めるに違いない。
だが妙に納得していた。彼女なら、そうなのかもしれない。自分の幸せを第一に掲げる彼女なら、隣にいる者の幸せこそ願ってしまうのかもしれない。
なぜならば
「あーしより好きな奴との時間邪魔しても、あーしが楽しくない」
そういうことなのだろう。
マッ缶に口をつけ、ふう、と彼女は一息つき、ついでのように口を開く。
「そういえば、あんたはどう思った?」
「何が?」
主語を抜かして話すな。三浦はすっとぼける俺にジトリとした目を向ける。
「隼人、楽しそうだったじゃん。…あんたはどう思った?」
彼女の求める答えを、たぶん俺は答えられない。だから俺は仕方なくいつものように言う。
「葉山と雪ノ下さんの家は弁護士と議員の関係だ。雇われる側と雇う側、俺たちが想像できないしがらみがあってもおかしくはない。それこそ今は正月だ。恐らく今日も単純に両家の挨拶で…」
「ヒキオ」
三浦は俺に厳しい目を向ける。
「あーしが聞いてるのは、そんなどうでもいいことじゃない」
どうでもいいこと。俺の提示した事実を、客観を、事務的な事情を、彼女はそう言う。まっすぐに俺を見る彼女に俺は内心一人ごちる。
わかってんだよ、そんなこと。
ため息をついて俺はつぶやく。そういうことなら、仕方がない。
「そもそも、それこそ俺にとってはどうでもいい」
「…あ?」
三浦は今度はいつもの獄炎をその瞳に宿し、俺を見る。しかし引くわけにはいかない。
たぶん、俺にとってはどうでもいいことじゃない。
「俺は別に葉山のことをお前と話し合うためにここにいるわけじゃない」
「…あ、そう。じゃ、なんであんたこんなとこで油売ってるわけ?結衣たち待ってるだろうし、さっさと行けば」
「そういうわけにもいかん。用事が終わってないからな」
用事って何の…。そう続ける三浦を遮り、俺は少し声を大きくする。
「手、出せ」
「は?」
困惑する三浦に、俺は一方的に先ほど買ったものを握らせる。
「…何、これ」
俺らしくないし、彼女らしくない。なぜか俺の目に留まったプレゼントは、はそんなものだった。
「遅れたが、その…誕生日プレゼントってやつだ。ケバい金髪がいきなり黒くなったら頭も寂しいと思ってだな」
彼女はラッピングをはがし、さらに目を丸くする。
それは、リボンをかたどった赤の細いバレッタ。俺らしくもないし、彼女らしくもない。ついでに女子高校生的にも「ありえない」だろう。
だが、何故か俺は見たいと思ってしまった。
「…なにこれ?」
「いや、だから一応その、なんだ…誕生日プレゼントというか…」
今更問われても言葉に詰まってしまう。言ってしまえば衝動買いのようなものだったのだ。
だからあまり笑ってくれるな。そう、言おうとしたところだった。
「か、かわいすぎっしょこれ!これをあんたが買ってるところ想像すると…ぷっ、どういう顔で買ったしあんた…くくっ…」
はい、綺麗に大爆笑でした。
彼女はそれを何度もまじまじと見ては腹を抱える。…いやあの、俺にそういうセンスがないのは自分が一番よく知ってるから。笑われなくてもわかるから。なんなら笑われるのにも慣れてるから。慣れたくねえよそんなの。
まだ笑い続ける三浦は、涙を拭って言った。
「ていうかこんなの、あーしより結衣とかあんたの妹とかの方が似合うでしょ。あーしがこんなの付けてった日にはそれこそクラスで笑いものに…」
「いや」
思ったよりも大きな声が出た。そんな俺を三浦が目を丸くして見つめる。…本当に、違うのだ。ただ、俺は。
「いや、その…」
しかし、これを言うべきか。言いたいかどうかで言えばとても言いたくない。
「ねえ、ヒキオ。あーし、はっきりしないことが、いっちばん、嫌いなんだけど?」
コツコツと彼女はベンチを叩く。ご、ごめんなさい!反射的に心の中で土下座をし、つい口が開く。
「流石の俺でも、似合うと思わなかったらそんなもん贈らん」
「…」
…あ、あれ?
武力制裁に身構えるが、また衝撃はやってこない。三浦を見ると、彼女は怒りからか肩を震わせている。…こわいよぅ。
「ちょ、あんたあっち向いてろし!」
しかし今度は顔を赤くして俺の首を無理やり曲げる。
「い、痛い痛い!わかったから。あっち向くから!」
曲げられた首をさすりながら空を見ること数分。肩をちょんちょんと叩かれる。
そこには、その赤い髪飾りをつけた横顔の三浦優美子がいた。
「…感想は」
リアルに思った4倍くらい可愛…。
出かけた言葉を自らの首を絞めて葬る。
「…ぐっ、ゲホッ!ゲホッ!」
突然の俺の奇行に三浦は少し慌てて近寄るが、それを手で制する。奇行の理由を聞かれてはたまらない。
だから俺は、なんとか口の端だけ持ち上げる。
「リボンで傲慢さが見事にカモフラージュされてるな」
「…殴っていい?」
「ごめんなさい買った時に想像した4倍くらい可愛いです」
「え」
あ。
殴られると思った俺の防衛本能は恐ろしい。気づけば頭を抱えながら思ったことを口走ってしまった。やばい。これこそ殴られる。キモイ。うざい。死ね。ヒキオのくせに生意気だぞ。いや、それはヒキオじゃなくてスネ夫。
恐る恐る三浦を見ると、今度はそのバレッタ程度に顔を赤くしていた。…ごめんなさいそんなになるまで怒らないで殴らないで。
「…ま、だいぶ遅れたけど今回はギリギリセーフってことにしとくから。次、忘れたら殺す」
やっぱりめっちゃ怒ってた。というか。俺はついため息交じりに聞き返してしまう。
「来年もかよ…」
「は?当たり前っしょ?ていうかあーしの誕生日忘れてること自体ありえなかったっつーの。それに」
三浦はいくつか咳ばらいをし、上目遣いでこちらを見る。
「あーしも…その…覚えてたら、あんたにあげるから」
「…ほぅ。そりゃ楽しみだ」
「そ。楽しみにしときな。…真っ白なリボンのバレッタあげるから」
自分の黒髪に着けたバレッタをいじりながら、三浦優美子は不敵に微笑む。こいつならやりかねねえ…。そう思って俺は顔を白くするが、その柔らかな笑みをみてつい笑顔が漏れた。
「それは勘弁してくれ」
来年のプレゼントはピンクのパンツにしよう。白いバレッタを付けた俺を想像しているのか、不敵に嗤う彼女を前に俺は静かにそう決意した。