文理選択。高校生は主にどういう理由からそれを決めるのだろうか。
ある者は将来の仕事のために、ある者は学びたい分野のために、ある者は行きたい大学のために、ある者は得意な教科から。
しかし、もっと俗っぽい理由で決める者だって存在するだろう。例えば…好きな人間がそっちを選ぶから。
身を切るように冷たい放課後の教室。暖房はすでに切られているがその日は多くの人間が教室に残っていた。その理由は
「結衣、文理選択どっちにした?」
二年生も終わりに差し掛かり、HRで進路希望調査票が配られた。それについて話すことは尽きないのか、多くのクラスメイトが教室でたむろしている。まったく、文理選択程度で何を話すことがあるのか…
進路希望調査票とにらめっこする由比ヶ浜に、三浦はその黒髪をくるくるといじりながら問う。
「うーん、あたしは文系かなー」
「そっか。海老名は?」
「あたしも文系だけど…優美子はどうするの?」
「…あーしはまだ悩んでる」
海老名さんに問われた三浦はちらりと横の葉山たちをみてつぶやく。少し考えるように顎に手をやり、三浦は彼らに声をかける。
「戸部、あんたはどうすんの?」
突然声をかけられたことに少しだけ戸惑う様子を見せた戸部は、三浦の持つ進路希望票を見て合点がいったのか、うんうんとうなずく。
「やー、まだちょっと迷ってるけど、もしかしたら理系にするかも」
暗記苦手だからさー、と続けると戸部に、はぁ?まじか?目を覚ませ戸部。周りからは非難轟々である。戸部は英単語とか無理っしょー、頭を掻く。…あの、理系でも英語は受験に切り離せないんですが。むしろ俺からすれば普段お前が使ってる言語の方が英語よりよほど難解だと思うんだが…。
その後も文系は大学で遊べるだの、就職は理系が有利だの、理系は元素記号で掛け算ができるだのなかなかに盛り上がっているようだ。いや、最後のは主に一人しか笑っていなかったが。
しかし、三浦にとってはそれは前フリだったのだろう。彼女はこの話題に乗ってこない彼に話を振った。
「隼人は?」
「俺は、一応決めてるけど」
「ふ、ふーん」
三浦はまだ聞きたそうにしていたが、葉山の微笑みを見て口を閉ざす。その笑みは、いつもより少しだけ冷たい気がした。
「えー、隼人君どっちにするか教えてくんね?もうこれ決まんねえし自分で考えるのしんどいっしょー」
「俺のを聞いても仕方ないだろ。自分で決めないと後悔するぞ」
心底困り果てた表情の戸部に、葉山は苦笑交じりで答える。事はその人間の将来に関わることだ。その決定に軽々しく他人が介入するべきではない。
葉山に諭された戸部は少し不満げに声をあげていたが、結局は納得したのか「しゃーない、自分で考えるべー」といい机に突っ伏した。
それとともに話題がなくなったのか、一瞬グループが静まり返る。…まあ、実はこのグループ戸部がいなかったら話題膨らませる人間いないからなぁ。葉山と三浦と海老名さんは多分話が続かないこともそんなに問題視していなさそうだし。
しかし、当然常識人もいる。その雰囲気に気まずくなったのか、大岡がそういえばー、とわざとらしく口を開いた。
「噂なんだけど、優美子ヒキタニ君と付き合ってるってまじ?」
…は?
一瞬時が止まり、その直後。たぶん、クラス中の人間が同じ絶叫をした。
「…は、はあああああああああああ!?だ、だれがそんなこと!?!?」
当の三浦が顔を真っ赤にしながら、椅子をがたがたと揺らした。由比ヶ浜も初めて聞いたのか目を瞠って大岡を見る。大和と戸部は知っていたのか、特に驚いた様子もなかった。葉山は…彼は、いつもと何一つ変わらない微笑をたたえていた。
かなりの勢いで三浦に迫られた大岡は、少し頬を染めながら彼女の質問に答える。
「い、いや、誰って言うか、なんか年明けに二人っきりでいる所をモールのベンチで見たって噂が…」
ああ。俺はそこまで聞いて得心する。あの時は確かに生徒会の人間も他にはおらず、そのように取る人間がいても不思議ではない。そもそも俺らくらいの年代なら、何が起きてもそれを男女の関係に結び付けてしまう。
にしても…話題に上がっている俺は別の意味で悲しくなる。あの、俺のこと話されてるはずなのに誰もこっち見てないんですけど。誰も俺のこと知らないんですけど。おい、そこの女子、「ヒキタニってだれ」って言ったの忘れねえからな。目の前にいる…いや、ヒキタニって確かに誰だ?
同じように得心がいったのか、三浦も安堵からか胸をなでおろす。
「あー、そのこと。それなら生徒会で用事あっただけだし。結衣も一緒にいたし。そんな適当な噂広められるの困るんだけど」
「ご、ごめんごめんそういう事情とは知らなくてさ。結衣もいたんだな。すまんすまん」
三浦に睨まれた大岡は由比ヶ浜がうなずくのを確認し、両手を合わせて三浦に繰り返し謝罪する。三浦は何度も「そんな事実ないから」と繰り返し、とりあえずその場は収まった。
場が落ち着くと、大岡と一緒に三浦をなだめていた大和が安心したように息を吐く。
「そうだって。大岡は何勝手なこと言ってんだよ。…つーか、ヒキタニ君だぞ?…言っちゃ悪いけどさ」
声を潜め、大和は嗤う。
「釣り合わないだろ」
その瞬間、今すぐ教室を飛び出したくなった。中学での記憶がフラッシュバックする。勝手に勘違いし、勝手に盛り上がり、勝手に告白し、そして勝手に傷ついた。
しかし、今は違う。俺は動きかけた脚を必死に抑える。事は俺個人の問題じゃない。三浦という俺以外の人間も関わっている。しかもこの問題の発端は俺が彼女の後を追ってベンチに座ったせいだ。そのせいであらぬうわさを流され、彼女の評判、女王としてのブランドに傷がつこうとしている。
ならば。俺は少し唇を噛む。その責任は、俺がとらなければならない。ここからいなくなることは許されない。いざとなれば…。
いくつかの手段を考える俺を、耳障りな声が邪魔をする。
「まあ釣り合わないよなー。ヒキタニ君には悪いけど、そもそもあんま喋んねえし、いっつも一人だし、夏休みの千葉村の時も文化祭の時も『アレ』だったらしいし」
「あー、そう言えばそうだったな。そう考えると大人しそうに見えて結構やってること陰湿っつーか、卑怯っつーか」
ククク。彼ら二人の押し殺した笑い声が聞こえる。しかしそれについて特に思うことはない。彼らの言っていることはただの真実だ。千葉村では汚れ役を彼らに押し付けてまで小学生にトラウマを植え付け、文化祭では自己満足でいろんな人間を傷つけた。…誰も傷つかない世界など、存在しなかった。
優美子とヒキタニ君とか、最高に笑えるギャグだよな。彼らはまだそう続ける。まあ全部聞こえてるんですけどね。
…いや。時折見慣れた笑みをこちらに向ける大岡と大和に、俺は思い直す。ああ、そう言うことか。
彼らのグループの人間関係を、「男女」を意識して思い返せば簡単なことだった。
海老名さんは戸部が直接告白しているし、「誰とも付き合う気がない」と公言している。今更グループ内の男は手を出しにくいだろう。
由比ヶ浜はそもそも学年単位で見ても競争率が非常に高い。見目麗しく、いつでもこちらを肯定してくれる性格の良さがあり、それに、その、言葉は非常に悪いが…男好きする体を持っている。彼女の男人気は俺も普段の生活や文化祭、体育祭を通していやというほど知っている。
では三浦は。修学旅行でこっぴどく葉山にフラれたことから、付き合うとしても葉山への気遣いは不要だろう。そして三浦が葉山にフラれた事実を知る者はそこまで多いわけではなく、自然と競争率は落ちる。まだ三浦と葉山の関係を誤解する人間もいるのだ。加えて生徒会長になった副産物として、近寄り難かったきつい容姿、言動は近頃はすっかりなりを潜めている。にもかかわらず、普段は無防備な姿を男の前でも見せる(短すぎるスカートも、無造作に組まれた脚も、葉山以外の男はジャガイモ程度にしか思っていないことの証左でしかないかもしれないが)
受験勉強が始まる前の二年生。「落としどころ」としては優良物件なわけだ。最近ちょろちょろしている俺は、彼らの目からはさぞ不快な虫に映っていることだろう。大岡が俺と三浦の話を振ってきたのも、俺への確認とけん制の意味合いが強いのではないだろうか。
頭の中の電卓は、気づけば冷たく結果をはじき出していた。
しかし、ふとかの教師の言葉を思い出す。
心は数字ではない。
「ちょっと二人とも、そういう言い方って――」
「――そーだし。あんたらの言う通り」
笑い合う大岡と大和に由比ヶ浜がくい下がろうとすると、三浦本人が彼女を遮った。
「あーしとヒキオ?何そのありえない噂。わかってんじゃん。ぼっちで根暗でやることなすこと陰湿」
彼女は、彼らをまっすぐに見据え冷たく笑う。
「無理でしょ、普通」
「だよなー」
「流石に優美子にはな」
笑う三浦に大岡と大和はさらに調子に乗って続ける。曰くもっといい人間がいる。曰く優美子にはイケメンが似合う。曰く最近可愛くなったよな。それを聞き、俺は自然と思ってしまった。こんなことを俺が思うこと自体に、俺自身驚いてしまう。
反吐が出そうだ。
「そうだし。誰があんなキモイ奴」
あんな奴…三浦はそれをきっかけに何か思い出したのか、わなわなと肩を震わせる。
それを見た大岡と大和は心配するように声をかけるが、三浦の耳には届いていないのか、特に反応はない。
「ヒキオは」
周囲の視線が一身に集まる中、三浦優美子は静かに口を開く
「卑屈だし、わけわかんないことばっか言うし、気づけばなんか一人で笑っててきもいし、こっちが話しかけてやっても超適当にあしらうし、あーしのパンツ見といて詫びの一つもないし」
「…優美子?パンツって…え?」
黙って三浦を見ていた由比ヶ浜が、表情をこわばらせる。
何かスイッチが入ったのだろうか。三浦の目はもう二人の方を向いていなかった。顔を赤くし、膝の上で握り拳をつくる。
「あーしがフラれたときも上から目線で説教たれるし、応援演説やらせたと思ったら悪口しか言わないし、小学生にデレデレしててとにかくきもいし、人の誕生日すら覚えられないバカだし。…つーかあーしマックスコーヒーとか別に好きでもないっつーの!あまったるいんだっていい加減気づけ!」
ぐさり。今の一言が一番刺さったかもしれない…あの、あの二人の悪口の五十倍くらい心えぐられてるんで今すぐやめてもらっていいですか。大岡と大和も流石にクラス内のざわつきをまずいと思ったのか、三浦に話しかけようとする。しかし
あふれた彼女の文句は止まらない。
「勝手に土下座までして事をうやむやにしようとするチキンだし、人の何倍も打たれ弱いくせにそれすら気づかない振りするし、何にもわかってないふりして急に核心ついてくるし、…あーしがきつい時、そばにいてきもいし」
彼女の文句に、少し、今までのことを思い出す。
「だから」
ようやく、三浦は大岡と大和に視線を戻す。
「普通、無理でしょ」
「…お、おう」
「…だよな」
言いたいことは言ったのか、それを最後に三浦は鞄をもって席を立つ。ポカンと口をあけながらまくし立てる三浦を見つめていた由比ヶ浜も、慌てて支度を始める。ああ、それと。席から腰を浮かし、三浦は思い出したようにつぶやく。
「一面しか知らないくせに決めつける方が、あーしはダサいと思うけどね」
そういって下を向きながら廊下側のドアに近づいてくる。まずい。俺はすぐに寝たふりをしようとする、が。
「…あ、あ、ひ、ヒキオ、あんた…あんた…」
顔を耳まで赤くした彼女と目が合ってしまった。「居たのまじで気づかなかった」彼女の口はそう動いていた気がする。ステルスヒッキーをここまで恨んだことは、人生の中でもなかったことだろう。
「お、おう」
いや、他に言うことあるだろ俺。自分のコミュ障をここまで嘆いたこともない。
しかしにらみ合うことも一瞬。彼女はすぐに目を外し
「さ、先に生徒会室いってるから!」
ドアを壊す勢いで開けて出て行った。
「ま、待ってよ優美子~~~~!」
由比ヶ浜は突然出て行った三浦を追って教室を出ようとする。
しかし、俺の横を通る瞬間。
「…パンツって何のことなんだろうね、ヒッキー」
聞いたことのない底冷えする声で、由比ヶ浜はそうつぶやいた気がした。
こういう特定の人間にヘイトを向けるお話が、私は好きではありません。しかしまあ本編でも悪事がうやむやになっていた彼らなので、少しは大目に(笑)
文理選択からマラソン、バレンタイン。ここからは本編でも結構あーしさんがクローズアップされているお話です。きちんと格好良く、可愛い彼女が描けるかとても気分が重いです。…今回のお話はお嫌いな方もいると思います。文句があれば、ぜひ聞かせてください。そのうえでこれからも我慢してお付き合いいただければと思います!