「やられたよ、比企谷。まさか君に真ん中に蹴る度胸があるとは思わなかった」
「……微妙にディスられている気がするが、まあいい。お前と無駄話してる時間はない。さっさと質問に答えてもらう」
体育終わり。片づけをするクラスメイトを尻目に、俺と葉山は校庭わきのベンチに腰かけていた。
PKで俺は真ん中、つまり葉山の正面にボールを蹴った。どうせ四隅を狙うような技術はないし、裏をかければ儲けもの程度の気持ちだった。インターネットで調べても真ん中の成功率は悪くはないと言ってたし、戸部との練習ではとにかく思い切りよくそこに蹴る練習だけをしていた。やはりグーグル先生は神。決して葉山隼人の顔にボールをぶち当てたかったなどとは考えていない。多分。恐らく。きっと。
「いきなりだな。まあいいよ。何でも聞いてくれ」
葉山は小さく肩をすくめる。彼との賭けの内容と、三浦の願い。俺の質問は、すでに決まっている。
「文理選択。お前はどっちにした」
「理系だよ、俺は」
即答。間髪入れずに答えた彼の目には、少しの葛藤も迷いもない。俺の質問の意図を確かめるわけでもない。彼は短く言い放った。
「……迷わないんだな、お前は、やっぱり」
「比企谷、質問は一つじゃなかったか?」
言葉に詰まる。問いに対する答えだけでは解決しない問題もある。要するに、別に俺は彼の進路が知りたかったわけではない。
彼が見据える道。彼が選ぶ進路。それはいったいどのようなものなのだろう。それは三浦優美子と、彼女の道と少しでも交わるのだろうか。
ただ、それが気になった。
沈黙する俺に、葉山はくつくつとのどを鳴らす。
「まあいいや。真正面から負けたサービスってことで、答えるよ」
一息つき、彼は静かに言う。
「比企谷、俺は迷わない。俺は君と違って決めてるんだよ。もう」
「なにをだ」
聞かずにはいられなかった。彼は常に迷っているように見えた。自分に向けられた気持ちにも、自分が向ける気持ちにも。
葉山隼人は周囲の期待に応えなければならない。彼はそういう生き方を選んだのだろう。常に周囲の声に応え、それを自らの成功とする。彼の今までの姿勢には、生き方には、それが反映されていた。だから葉山隼人は当然進路に関しても周囲の期待に応える。俺はそう思っていた。
しかし、目の前の男はその口を歪める。
「うんざりなんだ、もう」
誰の言葉だったのだろう。信じられずに目の前の男を見る。しかしそこにあるのはいつも通りの完璧な笑み。
やはり俺は、葉山隼人をいいやつだと思いすぎていたのかもしれない。
葉山は腕時計を一瞥し、一息つく。
「おっと、そろそろ戻らないとな。三つ目の質問はさすがに受け付けられないよ、比企谷。ただ、ヒントを出すなら」
彼は冬の澄み切った空を仰ぐ。
そしてその目は、目の前の俺とその先を見ている気がした。
「優美子が本当に知りたかったのは、俺の進路だったのかな」
「……何が言いたい」
「別に。そもそも本来、俺が言うことじゃない。でもね」
俺に向けられたその瞳は、既に俺を捉えてはいなかった。彼が見るのは俺のはるか後ろの、虚空のどこか。
「比企谷。多分ここが最後だ。決めるならここしかない。君も俺も」
「言ったはずだ。俺はお前と違って最初から選択肢はない。文系しかねえんだよ。……今更算数をやる気はない」
「はは。そうかもね。何を選ぶかは人の自由だ。それこそ進路なんて自分で決めるものだ」
彼は、本当に俺の学力を、理系の壊滅具合を問題にしていたのだろうか。いや、違う。自ら俺は俺の問いを否定する。
俺の欺瞞は、常にこうやって誰かに問い詰められるのだ。
「だから、君は君の好きにすればいい」
突き放すその言葉に、初めて彼の真実を聞いた気がした。葉山は吐き捨てるように続ける。
「俺もそうするよ。そもそも……俺だって、優美子を嫌いなわけじゃない」
かろうじて聞こえた彼のつぶやき。それが嫌に俺の耳にこびりついた。
「ヒキオ。ちょっとツラ貸して」
「さーて、掃除にでも行くか」
波乱の体育が終わり、着替えの時間。その日の体育は6限目で、後の予定はなかった俺は葉山と多少会話をし、彼の取り巻き連中から逃げるようにその場を後にした。今頃は戸塚とテニス部が何とか彼らを食い止めてくれているだろう。ありがたやありがたや。……いや、もはやどうやって戸塚に借り返せばいいんだよ、これ。もうこの借りは結婚して生涯社畜となり戸塚のことを養うくらいしないと無理なのではないだろうか。永遠の愛を誓うしかないのではないか。むしろ借り増やしてますね。ごめんなさい。
しかし俺の逃避行は更衣室に至る曲がり角で、その不遜な声に止められた。三浦優美子は腰に手を当て、額に青筋を立てる
「ねえ、ヒキオ。あんたいつからあーしにそんな生意気な口きけるようになったわけ?」
「いつからって、割と最初から俺お前のことポンコツって知ってたし……」
「ヒキオ?そんなに死にたい?」
「ごめんなさい殴らないで蹴らないで殺さないで」
反射的に頭を下げる俺に、三浦は額に手を当ててため息を吐く。
「はぁ。あんたと話してると話が長くなる。いいからこっち来いし」
「だから俺この後掃除が……」
「つーかあんた、今日掃除当番じゃないでしょ。いいから黙ってあーしについてくればいいの」
「……いや、なんでお前が俺の掃除の当番把握してんの?」
腰に手を当てため息を吐く三浦の動きが止まる。フリーズすること数秒。咳払いとともに彼女は続ける。
「……い、いいから早くこっち来いっていってるでしょ。あんたは黙ってついてくればいい――」「いやー、隼人君あのヒキタニ君にまで花持たせてあげるとか流石でしょー」
俺の疑問と三浦の否定が重なる瞬間。葉山の取り巻き連中の声が聞こえた。俺たちの会話は止まり、彼らの苦笑交じりの声が続く。
「普通にやって負けたよ、ヒキタニ君に」
「またまたー、謙遜しちゃって。普通にやれば隼人君がヒキタニ君に負けるわけないっしょ」
葉山とその取り巻きの会話だろうか。その声は徐々にこちらに近づいてくる。俺と三浦は今、更衣室前の廊下で話している。そして体育終わりの彼らが向かう場所はどこか。二人で話す俺たちを見て彼らは何を思うか。
まずい。
思うと同時に、体は動いた。触らないように三浦を横の教室に促す。
「三浦、悪いけどここは一旦……」
「は、はぁ!?あんたまたそうやって都合悪くなると誤魔化して――」「すまん。余裕がない」
ちょ、ちょっと……。三浦の抗議の声を押さえ、俺は目の前の扉を開ける。気づけば彼らは目と鼻の先まで来ている。
三浦を目の前の教室に押し込み、ドアを閉めて耳を押し当てる。葉山グループの声を確認するが、彼らのやかましい声が遠くなったところから察するに、どうやら更衣室に入ったようだ。ドアから耳を話し、胸をなでおろす。それでもまだ彼らの声がやかましく聞こえるのはさすがリア充連中といったところか。ほんと迷惑以外の何物でもない。なんなら公害で訴えられればいいのに。
「ひ、ヒキオ……」
しかし、どうしたものか。俺はドアに耳を押し当てたまま考える。ここは位置が悪い。いざここから出ようとしても、早めに着替えを終えた葉山グループ、もしくはさっきのサッカーでの葉山チームに見つかってしまっては俺の身の安全にかかわる。……あいつら葉山に勝ったこと相当恨んでたからな。どんだけ葉山のこと好きなんですかね。腐ってるんですかね。
「だからあんた、さっきから近いって……ひゃっ、か、髪さわんなぁ……だし」
よし、今だ。廊下から声が聞こえない瞬間を狙い、俺はドアに手をかける。歩く音すら聞こえない。今、ここには誰もいない。今ならだれにも見られることなく出て行ける。
「ヒキオ!」
逃避から現実に向き合っていなかった俺の思考が、その声で戻される。
「ヒキオ、ち、近すぎだから。……離れろって」
その声で俺の意識は現実に戻る。目の前には三浦の大きな瞳と、少し荒れた息遣いがある。
泣きそうな上目遣いは、見ていられなかった。
「……ッ!すまん」
目の前の濡れた瞳、上気した頬から俺は目を逸らす。別にいい匂いしたとか、思ってたよりすっぴんのまつげなげえなとか、冬なのに唇ぷるぷるだとか思ってない。いや、最後のはいくらなんでも気持ち悪すぎるからまじでやめよう。捕まる。八幡豚箱行きになる。とにかく断じて、そんなことは思っていない。
あくまでアクシデントからだが、近づき過ぎた顔を離して乱れた髪を直しつつ、三浦は口を尖らせる。
「たく、妙なとこでいきなり距離詰めてくるなっての……ま、そんなことはいいから、脚出して」
転んだっしょ、あんた。ぶっきらぼうに続ける彼女に、俺は何も言えない。
脚?なんで?俺が?
疑問符で満たされた頭は、次の三浦の言葉で明瞭となる。
「いや、あんた転んでたじゃん、さっきの試合中に」
くっそ派手に転んでたじゃん。俺が大和に足をかけられた瞬間を思い出したのか、三浦はさも愉快そうに笑う。
「あー……それはだな」
流石に言いよどむ。俺はわざと転んでケガをしたように見せた。決して褒められた手段ではない。むしろ責められるべきだ。俺は大岡と大和の劣等感どころか、罪悪感すら利用した。そうまでして彼らに勝とうとした。
実際はただの血のりであったのに。
「は?いいから、早く。脚見せて」
「ば、待てって……」
制止する俺を無視して、三浦は俺のズボンのすそを膝まで持ち上げた。
彼女は血のりを仕込んだ左脚の裾を持ち上げ、目を丸くして首を傾げ、次に右脚の裾を持ち上げた。
左脚の血のりは乾いているし、右脚はただの無傷だ。思わず目を瞑る。
しかし。
「……あんた、こんな脚でPKしたの?」
「……は?」
三浦は信じられないものを見るように俺の右足を見つめていた。恐る恐る俺もそちらに目を向ける。
そこには痛々しく、見たこともないほど出血している俺の右脚があった。
見ているだけで痛い。
思わず左脚に目を向ける。そこには乾いた血のりと、カピカピに乾いたビニールの血のり袋が一つ。
人間の体とは現金なものだ。自覚するとともに、右脚がずきずきと危険信号を送ってきた。血のりを仕込んだ無傷な左脚。普通に重症の右脚。
保健室に微妙な空気が流れ、三浦が恐る恐る口を開く。
「左足はビニールで乾いてて、右脚は乾いてない……これ、もしかして」
三浦は先ほどまでの余裕のない赤面から一点、嘲るように俺を見る。
「本当にケガしてたのに気づかないで、わざわざ小細工した無傷のほう見せるって、あんた――」「やめろ、言うな」
言わないでください。本当に。あんだけ格好をつけて、彼らにタンカを切って、けがをしたように見せかけて本当はケガをしていない設定だったのに、本当はまじで逆の脚ケガしてたとか何の罰ゲームですか。俺そんなに悪いことしましたか。もうやめてよ、ほんと。八幡のライフはもう0よ!いや、何言ってるかわかんねえこれ。
いたたまれない空気が保健室に流れる。しかし意外にも三浦は無言で消毒、絆創膏、包帯と事務的に手を動かす。そんな彼女に俺も何も言えない。意外に慣れた手つきであるのは海老名さんへの止血行為の賜物だろうか。彼女は鼻から以外にも出血するのだろうか。いや、それこそどうでもいいな。
「……ねえ、ヒキオ」
「なんだ」
「なんであんなことしたわけ、あんたは」
「は?」
説明が少なすぎる。明後日の方向に吐き捨てた三浦に、俺は疑問符を返すことしかできない。
「だから隼人にあんな勝負、なんで挑んだのって聞いてんの」
気が付けば俺と三浦の距離はほとんどなくなっていた。
「なんでって言われてもな……」
「答えて」
彼女はその至近距離のまま俺の目を見て言う。近い。一歩引き、俺は両手をあげる。
「大したことじゃない。ちょっと葉山との間にいざこざがあってな。このサッカーでそれを清算する予定だった。それだけだ」
「あーしが聞いてるのはそのいざこざってやつの中身なんだけど」
「別に、俺とあいつの仲がいいわけもねえだろ。それにお前に言うようなことでも……」
「駄目」
三浦優美子は頼りなさげに声を紡ぐ。
「言って。なんであんたはあんなことしたの。ケガの小細工までして、男子連中に嫌われて、本当にケガもしてて。……あーしがやめてって、頼んでないって言ったことも無視して」
小さく息を吸い、彼女は俺に向き直る。気のせいか、その瞳は揺れている気がした。
「なんで、ヒキオ」
ムカついたから。正直に言えばそれが一番の理由だろう。彼に求める彼女に、応えない彼に、それに苛立つ自分自身に。次に、気になったから。葉山の選ぶ道は、三浦優美子と交わるのかどうか。交わることを彼らは選ぶのか。
しかし、それでもまだ違う。恐らく限りなく正解に近いが、本心とは程遠い。三浦優美子の瞳に、そのまっすぐな目に、取って付けた正解を押し付ける気にならなかった。
だから今の俺はその問いに答えることができない。
「……葉山、理系だとよ」
だから俺は、事実だけを口にした。彼との賭けの対象。それを伝えるべき相手に、三浦優美子に告げることが、俺にできるすべてだった。
とはいえ、少なからずこれならば三浦の問いもはぐらかせるだろう。これは、葉山の進路は彼女が今知りたい最も重要なことだ。
「だから、なに」
「……は?」
流石に答えに窮すると思っていた。彼女の問いは止まると思っていた。三浦優美子の関心は葉山隼人にある。それに俺は関係ない。
呆ける俺に三浦はため息を吐きつつ、黒髪をみょんみょんと伸ばす。
「だから、今それはどうでもいい。あんたは隼人に勝って、結果隼人の進路を聞いた。あんだけ誰にも言わなかった隼人の進路をあんたが知ってるってことは、そういうことでしょ。それを賭けの対象にしてたから、隼人は進路をあんたに教えた。隼人、約束は守るから。あーしが聞いてんのは、その先。……あんたがなんであんなことしたか」
そもそも、隼人が本当に勝つと思ってたらあんなこと言ってないし。三浦は小さくそう一人ごちた気がした。
「これ以上、迷わせるようなことすんなし」
揺れる瞳に、俺は今度こそ何の言葉も返すことができない。
『勝ったら殺す』
彼女はあの時、葉山とのPKの時、俺を呼んだ。そうやって短く俺を否定した。
周りも、葉山も、俺でさえ信じかけた葉山隼人の勝利と、俺の敗北。三浦優美子はそれを疑った。
彼女は、あの状況で俺が勝つかもしれないと思っていた。
「気になった」
今まで言葉にできなかった言葉は、本心、といってもいいのだろうか。それは自然と口をついて出た。あまりに短い言葉に、反射的に捕捉を入れる。
「気になった。多分、お前のことが」
三浦な肩を震わせ、何も言わない。逆に俺はきかれてもいないことを口にしてしまう。
「いや、気になるっつっても既にフラれてんのにまだ葉山にアピールするお前の不合理さとか、あんな性格の悪い男のどこがいいんだとか、そういうことじゃなくてだな」
「……なんだしその言い草」
俺もパニックになっていたのだろうか。全く言うつもりではなかったし、言わなくていいことまで言ってしまっている気がする。足りない言葉に急いで補足を入れる。
「違う。そういうことでもない。ただ、あれだ。別に選択肢は一つじゃねえだろって話だよ」
「……」
黙る三浦に、俺は言い訳がましく続ける。
「今お前の中では葉山以外の男は考えられんのかもしれんが、長期的に見ればいくらでもお前を好きになる変人もいるだろってこと」
俺たちは、人間はとかく目の前の選択肢だけが唯一のものだと思いがちだ。しかしそんなことはない。世界はそんなに融通が利かないわけがない。一つ目がダメなら二つ目が、それがダメなら三つ目が。替わりはいくらでもある。たとえ替えはきかなくとも、いくらでも代えはきく。完全な替えがきかないなら、代わりの手段を探せばいいだけだ。
「……そんなんでいいわけ」
「知らん。でもそんなんでもいいんじゃねえの」
短い三浦の問いに、俺も適当に言葉を返し、小さく付け足す。
「元々そんな大層なもんでもねえだろ」
俺も、お前も。
「そっか」
じゃあ。三浦の息遣いを目の前に感じる。濡れた緑色の瞳がこちらを見る。
「あんたでもいいわけ」
そのまっすぐな瞳に、返す言葉を俺はもっていない。
「あーしも気になることなら、ある。なんであんたが隼人とあんなことしたのか。……なんで男子連中に嫌われてまで、そんな風に怪我してまで隼人との勝負にこだわったのか。それで」
今度こそ、三浦は俺だけを見て問う。
「隼人が理系で、あんたが文系なこと」
その大きな瞳から流れているものの意味は、なんなのだろう。
「じゃあ理系行く、なんて、言えなくなっちゃったじゃん」
消毒が終わったのか、三浦は器具をもとの場所に戻し、座ったままの俺の頭に手を置く
「あーしは、どっちにすればいいの。教えてよ、ヒキオ。……わかんないよ」
俺と三浦以外誰もいない保健室に、斜めに紅い陽が満ちる。それを疎む振りをして俺は片手を陽にかざし、彼女から目を逸らす。
その答えを、俺もまだ持ち合わせてはいなかった。